◆少女たちの束の間



 次の日はそんなに授業は大変じゃなかったけど、あんなことがあった次の日だからということで屋上に向かう。最初に行った時と同じく、昼休みの後の五限目の時間だ。

 昨日帰る時は気まずくて、エリムさんのこともあんまり話せなかった。といっても、そんな彼女に対する愚痴がメインになるだろうなぁ。結局おごり損みたいなものだし。ちょっと可哀かわいそうではある。ナナのおづかいの額は分からないけれど、私にとってはセットメニューの値段を自分以外のために払うのはかなり痛い。それが無意味に終わったとなると、暴れてしまうかもしれない。

 そうこう思っている間に、屋上の扉前に来ていた。開けて、ナナの姿があることに安心する。

「いたいた」

 彼女はスマートフォンから少しだけ目線をそらして、私のほうを見る。

「今日は来ると思ってた」

「そうなんだ。もしかして待たせた?」

 言いながら、彼女の隣に座る。

「別に待ってはないから。勘違いしないで」

「そ、それはそうかもしれないんだけど」

 冗談で言ったのに、断固として否定されたのでたじろぐ。そんなに否定しなくても。

「でも、うん、昨日あんなことがあったから、どうしてもね」

「そうそう。結局何にも聞けずじまいなんだよ! ただただおごって、何か令嬢に完全にびてるカンジしてヤダよね!」

「それは大変失礼しました」

 扉が勢いよく開かれたかと思えば、エリムさんが現れた。驚きに肩を震わせる。言葉を聞くに、私たちの話を聞いていたんだろう。彼女のことを話していただけに、ちょっと気まずい。

 けれどそんなことを気にせず、エリムさんはこちらに向かってくる。

「昨日はありがとうございました。こちら、おごっていただいた分のお返しです。金額をご確認いただけますか?」

 封筒が、ナナの前に差し出される。しかしナナは、驚いた顔でエリムさんのほうを見つめる。

「え、何でアンタがこの時間にこんなところにいるワケ?」

 その言葉に、彼女はため息をついた。

「質問に質問で返すのはいただけませんね」

「いや、だって、ご令嬢が授業サボるのはヤバそうじゃん?」

「そうでもないですよ。父には怒られるかもしれませんが、言ってしまえばそれだけです」

「令嬢の父親って怖そうなイメージなんだけど、本当に怒られるだけなの? せつかんとかされてない?」

 何かをされてないかと聞いたところで、エリムさんが目を見開いて驚いた。

「……本当に学はあるのですね。てっきり枕か何かでカンニングしているのだと思っていました」

 今度は、ナナが目を見開いて驚く番だった。けれど彼女はすぐに、怒りからか目つきが悪くなる。

「ご令嬢サマも枕なんて言葉知ってるんだ。意外ー」

 口調も言葉も軽い感じで返してるけど、完全にエリムさんを蔑んでいる。まぁ、そのくらい怒っても無理はないけれど、そう思われてるのも無理はないっていうか……。

「その令嬢って呼び方はやめていただけませんか? 私には、エリムという正式な名前があります」

「アンタって呼ぶのはいいんだ?」

 そこでエリムさんは、ハッとしたような顔になった。

 何だかバツが悪そうに、眉を寄せる。

「……私が令嬢であるというのは事実かも知れませんが、その地位に好き好んで座っているわけではありませんので」

「へぇ、やっぱり求愛性少女症候群っぽいじゃん」

「……よく、分かりましたね」

 そう言った彼女は、眉を寄せたままで驚きはしなかった。至って冷静に、指摘されたことを受け止めている様子だ。

「症候群であることを知られても、驚かないんですね?」

 不思議に思った私は、言葉に出して問いかける。

「いつか誰かから指摘されるかもしれないとは、思っていましたから。私としては今後のために、どうして分かったのかを教えてほしいのですが?」

「んー、女の勘ってやつかなー。結構自信はあったほうだけど、正直言って確信はしてなかった」

「それじゃあ、対策は出来ませんね……」

 残念そうな声をしながら彼女はうつむく。けれどすぐに、顔を上げた。その顔は、全然残念そうじゃない。

「ああ。次からは、確信した後に問いかけたほうがいいですよ。もし私なら違っていた時、名誉毀損で訴えていたかもしれませんから」

「こっわ。シャレにならない話やめてよ。ガチ? それともシャレ?」

「さぁ。どっちなんでしょうね?」

 そこでようやく、エリムさんは笑った。けれど、目が笑っていない。これは……ガチのほうなんだろうか?

「ともかく、昨日の分のお返しは受け取ってください。借りたままというのは、気分が落ち着きませんから」

 再び目の前に差し出された封筒を、おそるおそるといった様子で受け取るナナ。それから促されるままに、中身の確認をする。

「ちょうどね。良かった」

「当然です」

 そのまま帰るのかと思われた彼女だったが、私たちの前に座った。れいにされているだろうとはいえ地べたに座ったので、内心でめちゃくちゃ驚く。

「私の症状に気付いたということは……お二人も、求愛性少女症候群なのですか?」

「そーそー」

「……あんまり大きな声じゃ、言いたくないんですけどね」

 悩んだけど、結局敬語でしやべり続けることにした。同学年だけど関わったこともないし、令嬢だし、さっきのナナに対する発言が怖くてタメ口にするのは難しかった。

「もう、そうなってから長いのですか?」

「テレビとかで話題になる前……SNSで話題になってる頃にはなってたかな」

「うん。アタシもそのくらい。そんなエリムちゃんは、どのくらいなワケ?」

「私は、昨日なりました」

 驚きに私とナナが、自然と目線を合わせる。彼女の顔には困惑が浮かんでいた。私も、似たような顔をしているだろう。

「目星付けてたのに、昨日までは違ったんだ。うわー、まだまだ求愛性少女症候群って分かんないなー」

 その辺は昨日モヤッとしていたことだから、思い切って聞いてみる。

「その目星ってどういうものなの?」

「どういうって?」

 これで答えてくれなかったら、共犯関係を続けていくのは難しい気がする。

「ほら、なりやすい人の特徴っていうかさ」

「それは私も気になります」

「ですよね。……どうなのかな?」

 出来れば答えてほしいと願いながら、彼女を見つめる。彼女は少し考えるような仕草をした後に、口を開いた。

「すごく分かりやすく言うと、病みそうな人だよね」

「病みそうな人?」

「心を病んでる人って言ってもいい」

「私って、病んでるのかな!?」

「裏アカで愚痴ってる人間が、病んでないわけないでしょ」

 ず、ずいぶん乱暴な決めつけだ! 全国の裏アカの人を敵に回してそうだ!

「いやだってあれは、現実で誰にも言えないからその受け皿として」

「普通の人は現実で充分事足りるから、受け皿なんか作らなくてもいい。でも裏アカで愚痴まで吐き出してるってことは、普通じゃないほどの不満があるってことでしょ? それだけの不満を自然と抱えてしまうなら、病んでしまってもおかしくないよ」

 初めて見た彼女の真剣なまなざしに、思わずたじろいだ。そんなにも真面目まじめに言われてしまえば、返す言葉がない。

「まぁ、そんな難しく考えなくてもいいでしょ。病んでるって言っても、病気だって言いたいワケじゃないし」

「……つまり私は、病みそうな人だと思われていたというわけですか?」

「そういうこと」

貴方あなたは本当に、名誉毀損になるようなことしか言いませんね? 初対面から敬語でもありませんし」

「そっちのが後輩なんだから、敬語じゃなくていいじゃん」

「先輩か後輩かということは、さして重要ではありません。問題は初対面かどうかというところでして……」

「はいはい。マナー講座は受けてないからそこまで。それで、どんな風に発症したワケ?」

 さっきまで堂々としていたエリムさんが、言いづらそうにうつむく。手で、スカートを思いっきり握りしめている。目の前に絶えず発症して症状を主張している人がいるにもかかわらず、言いづらいほどの症状なんだろうか。

「……実は、家に帰れなくなってしまったのです」

「家に、帰れない?」

「あー……」

 私は驚きに言葉を繰り返したが、ナナはそんなに驚いていなかった。どころか、冷静である。スマートフォンを取り出して、何かの操作をし始めた。何なんだろう? これにはエリムさんも不思議に思っているようで、二人して彼女のスマートフォンを見つめる。

 しばらくして、スマートフォンがエリムの目の前に差し出された。

「これ?」

 私の時と似たような流れだ。まさか、また特定されているの?

「ど、どうしてこれを?」

 エリムさんから一瞬遅れて画面をのぞき込むと、そこには家に帰れないと言った趣旨のつぶやきがあった。どうやら、扉を開けても外に出てしまうらしい。ずいぶんと乱暴な言葉づかいだけど、もしかしてこれがエリムさんの裏アカウント……? 名前に見覚えがあるから、私もフォローしているかもしれない。それに、これを知っていたとしたらナナがエリムさんのことを同じ症候群なんじゃないのかと目星を付けていた理由も分かる。

「目星を付けた頃に、もしかしたらないかなって探したから。そしたらすぐに見つかったよ。この辺に令嬢なんて、アンタしかいないし。っていうか、個人情報出し過ぎ。しかも鍵かけてないし。変な大人に狙われたら終わりだよ?」

「それを貴方あなたが言うのですか……」

「うるっさいな。特定されてる以上、危険なのは事実だと思わない?」

「せめて鍵はかけたほうがいいですよ。それだけで一気に変な人から絡まれることも減りますし」

「そうなんですか……?」

 エリムさんからの問いかけに、二人そろってうなずく。彼女は少しだけ戸惑いながらも、分かりましたと頷いた。

「今は手元にありませんので、後でそう設定しておきますね。ご忠告ありがとうございます」

 彼女は丁寧に礼をする。今まではあまり注目して見てこなかったけど、こういうところで令嬢らしいなぁと思う。本人は嫌そうだから言わないけど、怖いし。

「で、昨日は帰れないから泣いてたワケね。屋上まで来たのは何で?」

「ここまで来れば、誰もいないだろうと思いまして。まぁ、結果としては二人に見られてしまったわけですが」

 見てしまった側としても、多少の罪悪感がある。けれど、偶然のことだから仕方ないだろう。扉の向こうでエリムさんが泣いているだなんて、夢にも思わなかったし。

「っていうか、扉を開けても外に出てしまうっていうのはどういうことですか?」

 彼女は、すごく難しい顔で説明する。

「私にもよく分かりません。昨日家に帰ろうと、いつも通りに玄関の扉を開けました。それから中に入っているつもりなのですが、どうしてだか外に出てしまっているのです」

「……どういうこと、ですか?」

 中に入ろうとしているのに、外に出てしまっている? く想像が出来ない。

「ですから、私としてもよく分かっていないのですよ。これ以上の説明は出来かねます」

「家の中に入ろうとしても、強制的に外へ出されてしまう……SFみたいな現象って思えばいいんじゃない? そういうのありそうだし」

「その強制的に家の外に出す力が、症候群なんじゃないかってこと?」

「たぶん」

 私の問いかけに、ナナとエリムさんがうなずいた。そういうことでいいらしい。それにしても、すごく厄介な症状だ。

「そして、見せはしませんけど症候群であるあかしあざも浮かび上がっていました。ですから、同じく症候群である方に話を伺おうかと思ってここに来たのです」

「……アンタはアンタで、アタシを利用しようと思って来たってことね」

「そういうわけでは」

 口では否定しているが、どう考えたってそうだろう。

「まぁ、それならそれで都合がいいかな」

 けれどナナは、エリムさんのそれを受け入れた。彼女は、続けて口を開く。

「この二人は症候群を解決するために、お互いの利を重視した共犯関係を結んでる。これに加わるんだったら、いくらアタシやそこの子を利用したって構わない。ただ……」

「ただ?」

「アタシもアンタを利用させてもらうけどね」

 彼女はにっこりと笑って、言葉を締めくくった。その笑みは、ナナの裏アカウントで見られる写真のような怪しさがある。

「……解決出来る見込みはあるんですか?」

「それはどうかなー。私たちに集まってくる情報にもよるよね」

「一介の女子高生たちに、そんなにも情報が集まってくるとは思えませんけど」

「それはまぁ、そうかもしれないけどさー」

「三人もいれば、何とかなるんじゃないですか?」

 私の言葉に、三人『も』?といった疑問の視線が向けられる。私は慌てて、思っていることを全部話した。

「いやえっと、症候群の人は結構いるけど、積極的に症状と向き合おうって人は少ないから……解決したいって人が三人も集まればいいほうかなって」

「……それは、そうかもしれませんね」

「よし、じゃあ、解決のためにもまずはエリムの家に行ってみるしかないね!」

 彼女は勢いよく立ち上がって、そう宣言する。

「な、何でですか?」

 そんな彼女につられて、エリムさんも立ち上がった。私だけ座っているのは居心地が悪いので、私も立ち上がる。

「いやだって、気になるし。入ってるのに入れない扉。見てみたくない?」

 ナナが、こっちを見て同意を求めてくる。意味が分からなくてちょっと怖いけれど、見てみたいのでうなずいた。そのまま、エリムさんの様子をうかがう。彼女が悩んでいるところで、五限終わりのチャイムが鳴った。流石さすがに戻らなきゃ。ややかす視線を向けたところ、渋々といった様子で頷かれた。

「別にいいですけど」

「よし、じゃあ行こう。二人とつながってるアタシが裏アカで会話するグループ作るから、各自連絡はそれで」

 スマートフォンの操作を始めるナナが先に歩きだしたのを追いかけるように、私とエリムさんが続く。

「急ですから、何もおもてなしは出来ませんよ」

「別にそういうのは求めてないよ。アンタが帰れないのを見届けたら帰るつもりだし」

「ま、全く解決しようという姿勢が見られないのですが?」

「だってそんなにすぐ解決出来るはずもないし」

「そうかもしれませんけど……」

「あの。家に帰れなかったんなら、昨日はどうやって夜を明かしたんですか?」

「家の敷地内に、急ごしらえの生活スペースを作ってもらいました」

 令嬢らしい解決方法に、思わず目を見開く。ナナはナナで、複雑そうな顔をしていた。

「それもう、解決しなくてよくない?」

「そういうわけにはいきません。あの家に帰るのは限りなく苦痛ですが、心配されるせいで一人の時間が減るのも苦痛には違いないんですよ」

「そういうものかな」

「そういうものです。あと、ルルさん」

「はい!?」

 まさかエリムさんから呼ばれるとは思わず、声が裏返ってしまう。

 あれ? 私、何かやらかしてしまっただろうか。出来る限り刺激しないように気をつけてたはずなのにな?

 っていうか、何で名前知ってるんだろう。関わったことがなければ、知らない人が多いのに。

「共犯関係になったということですし、これからも話す機会があるでしょう。ですので、私にも敬語を外してくれませんか? 私は敬語のほうが慣れているのでこのままにしますが、貴方あなたはそのままだとしやべりづらいでしょう?」

「え、いいの?」

「ええ。それに、そこの先輩を敬称無しで呼んでいるようですし私たちとの間でも無しにしましょう。呼び捨てで構いません」

「ほ、本当に? 訴えられたりしない?」

「しませんよ」

「それならいいんだけど……」

 大丈夫だと言われてもまだ怖いけれど、いざって時に真っ先に訴えられるのはナナだろう。私から訴えられるということは流石さすがにないだろう。あったら困る。お母さん泣いちゃうかもしれない。

「あと、名前は今日友人たちに聞きました。気分を害されたらごめんなさい」

「あ、えっと、大丈夫です……じゃない! 大丈夫、だよ」

「何かアタシの時と対応ちがくない? 傷つくんだけど」

「その様子だと、傷つくことはなさそうなので安心しました」

「言ってくれるねー。SNSであんだけ口が悪いだけある」

「露出魔に言われたくありません」

「はいはい。っていうか、アンタってそんな名前だったんだ」

「そう言えば教えてなかったかも」

「知らずに共犯関係をしていたんですか?」

「まだ日が浅いから仕方ないって」

 屋上から出た途端に二人とも無言になるのにあわせて、私も口を閉じる。そのまま、それぞれの教室に戻った。

 これが共犯っていう関係性なのだと思うと、少しだけドキドキしてしまうのであった。


 ○


 放課後。エリムが帰る方向にあるコンビニで待ち合わせた。

 私が着いた時には、すでにエリムがお店の前で待っていた。ナナはまだ来ていないらしい。

「待たせてごめんね」

「いえ。私も今来たばかりなのでお気になさらず」

「そうなんだ。それなら良かった」

 令嬢と、コンビニ。

 学校指定の制服を着ているからか令嬢らしさはそんなにないけれど、意識して見ると何だかちぐはぐしているようにも見える。うー。彼女が令嬢であることを意識しないようにすればするほど意識してしまっている。そういう存在だと認識していたからなおさらだ。

 そんな意識を忘れるために、何か話をしようと話題を振ってみる。

「コンビニって利用したことある?」

 ファストフード店が初めてみたいだったから、どうなのだろうと問いかけてみた。

「ありますよ」

「え、意外」

「登校中に充電器を忘れたのに気づいて買ったことがあります」

「なるほどー」

 コンビニには何でもあるし、登校途中にあるってことで行きやすいのもあるのかな。でも、コンビニで充電器を買うところはちょっと普通の高校生じゃないって感じる。コンビニの充電器なんて高級品、忘れたくらいじゃ買おうなんて思わない。私だったらそんな日は省電力にして、なるべく使わないようにするしかない。それでも使っちゃうから、帰る頃には充電がなくなってるんだけど。

「二人とも遅いよー」

 そんな話をしていると、コンビニの中からナナが出てきた。来てないと思ったら、どうやら一番最初に着いていたらしい。その手には、最近出たというカロリー控えめのホットスナックがあった。

「ただ待つだけなのは悪いかなって思って買っちゃったじゃん」

「そういう謙虚さは持ち合わせているのですね……」

「まぁね」

 彼女は一口かじって、何ともいえない表情になった。あんまり好みの味じゃなかったのかもしれない。

「っていうか、どんな家? 何階建て? 車何台持ってる? プールとかある? あるよね?」

 それでも食べ続けながら、質問を続ける。テンプレの出会いちゆうみたいなのが面白くて、ちょっと笑ってしまった。

「期待してるところ悪いですけど、プールなんて家にはないですよ。基本的に我が家の人間はインドアな者ばかりなので、必要がないんです」

「家にはってことは、他のところにあるとか?」

「別荘にはありますね。あそこは親戚も利用するので」

「うわー、本当にお金持ちだ。ヤバ!!」

「そんなことはいいので行きましょうか。すぐそこですよ」

 有無を言わせず歩き始めるエリムの後を追いかける。

 エリムの家は、確かにすぐ近くにあった。歩き始めた途端に見えてきた家がそうらしい。れいで大きな家なので、この家に住んでいるんだと思ったら羨ましい。こういう家だったら、部屋も広くて弟の声も気にならないんだろうな……。

 そうこうしているうちに、家の前にたどり着いた。数名だけれど家の前にメイドさんがいて、エリムにお帰りなさいませと声をかけている。エリムはそんな彼女たちをあろうことか無視して、玄関らしい扉の前に立った。同じく、私たち二人も扉の前に立つ。

「これが、例の扉です」

「一見してみると、何の変哲もない扉だねー」

「高級なのは分かるけどね」

「開けますよ」

 ごくり。固唾をのんで、エリムがドアノブに手をかけるのを見つめる。彼女によって扉は開かれ、そのまま……。

「……あのさ」

 バタリと音を立てて扉が閉められたのを確認して、私は口を開く。

「うん、言いたいことは分かるよ」

「これは多分、おうちの中に入れてるよね?」

「多分ね」

 彼女は興味を無くしたらしく、その手にスマートフォンを握った。

「あーあ。期待してた光景、見られなかったね。扉を開けても外に出ちゃうっていうの、見てみたかったんだけどなー」

 つまらなそうに、ため息が吐き出される。けれど私の中に広がっているのは、つまらないという感情ではない。

うそ、ついてたのかな?」

 何なんだろう。この感覚は。モヤモヤしているのは確かだけど、どういうものなのかはよく分からない。

「それはもう、本人の口から聞かないと何とも」

「うーん……」

 何ともいえない感情が、私の中には広がっていた。


 ○


 え、あれ? ここは外じゃなくて、私の家……?

 どうして、帰れているのでしょう?

 昨日は確かに、帰れなかったはずなのに……!

 家に入ることが出来ないと二人に公表していたにもかかわらず、入ることが出来てしまいました。一日ぶりに見た玄関の光景。聞こえてくる足音。恐らく、両親のどちらかでしょう。

 その瞬間に私は、本当にこの家へ帰りたかったのだろうかと考えてしまいました。このまま家に帰ることが出来ないなら出来ないで、どこか家から離れたところで一人暮らしをしたいと提案することも出来たのでは? 例えば、今後の身の振り方を考えたいというような理由をつけて……。

「おーい。アタシ達帰っちゃうよー?」

 扉越しでは声が聞こえないと思ったのか、ナナが少しだけ扉を開けてそう言ってきます。その声で、意識を取り戻しました。

「ま、待ってください!」

「ちょっと、どこに行くの!」

 やってきた母のことを無視して、慌てて外に出ます。そこには、明からさまではないけれど困惑、もしくは不平を示す二人がいました。立場が違えば私も不平を示していたと思うのですが、状況が状況なので必死に弁明を考えます。

「……帰れたね」

「言ってたことと違うじゃん? どういうこと?」

「昨日は、本当に帰れなかったんです」

「じゃあ、どうして今日は帰れてるワケ?」

「まさか、嘘ついてるとかじゃないよね……?」

「どうして嘘をついてまで貴方あなたたちのような人間に近付く必要があるんですか!!」

 憤りのあまり口をついて出た言葉に、ルルが目を見開いて驚きます。次いで、申し訳なさそうに目を伏せました。

「ご、ごめん……ごめんなさい」

 すぐに謝る辺り、この人は根が優しいのだろうなと思います。けれどうそをついているだなんて思われたのは心外なので、そのまま目線をらします。

 その隣にいるナナは至って冷静に、それもそうだねとうなずきました。彼女には先輩としての威厳こそ感じられませんが、どこか達観している様子はひどく大人だなと感じさせられます。

「でも解決出来たのは事実だし、『どうして解決出来たのか』っていうことを分析出来れば私のも解決するかもしれない。分からないけどさ」

「私は、どうすれば良いのでしょうか」

 ほぼ自問のような問いかけに、目の前の彼女が反応します。

「明日、また屋上で作戦会議するから来てよ。あ、放課後ね。そのほうが気楽でしょ?」

「……もう解決したから、行かないと言ったら?」

 我ながらひどいことを言っている自覚はありましたが、利はもう得ています。わざわざ他の二人に利を提供する義理はありません。だからこそ、行かないと宣言する権利もあるだろうと思って聞きました。

「その時はその時」

 ナナは、悩むこともなく即答してくれました。その時に見た表情は、確かに笑っていました。まるで、私が明日屋上へ行くことを確信しているような……。そんな笑みに、思わず身を震わせます。

「それじゃ帰ろうかルル。家どっち?」

 けれど彼女は気にせず、一点を見つめ続けていたルルに声をかけました。

「あ、えっと、あっちだよ」

「一緒じゃん。ちょっと距離取って帰ってよ」

「え、やだよ!」

「こっちだってやだよ。仲良しに見られたら困るでしょうがー!」

 ぎゃあぎゃあと騒がしく敷地から出て行く二人を、ぼうぜんと眺めていました。ややあってから、メイドに声をかけられます。

「お嬢様、奥様がお呼びです」

「……はい」

 心を決めて、再び玄関を開きます。今度も、外に出ることなく玄関の中に入ることができました。そこには、母だけではなく父も立っています。

「ただいま、帰りました」

「おかえり」

 二人はそう言って。こちらのことを頭からつま先までじっくりと見ます。その視線はいつもと変わらない射抜くようなものなので、私は身を固くしました。

「お前の様子がおかしいと聞いた時には不安に思ったが、そんなにおかしいところは見当たらないじゃないか」

 お父様が続けます。

「これからは変な行動を慎むように」

 したくてやったわけじゃないのに。慎みたくて慎めるものかも分からないのに。大体、目に見える症状がないからっておかしくないわけでもないでしょうに……。

 色々な不満が頭に浮かび、喉元まで出掛かったけれどそこまででした。

「はい。分かりました」

 歯向かう気力もなく、素直にうなずいてしまいます。

 あぁ、やっぱり帰ってくるんじゃなかった。


 ○


 エリムの家に行った翌日。考えないようにしようと思っても、どうしてもエリムのことを考えてしまう。どうして彼女は、解決出来たんだろう。彼女は、どう思っているんだろう……。

 ずっと考えているせいなのか何だかクラクラし始めて、掃除とホームルームをサボった。ホームルームはともかく、掃除は面倒くさい。今の掃除場所に、嫌いな人がいるというのも大きい。その人の名前は、ながさわさん。この学校のバレー部で、期待の新人と呼ばれている。

「中学の頃のバレー部で一緒に合宿したこともある同じクラスの永沢さんが、私は苦手なんだよね」

 返事がないことに安心しながら、私は話し続ける。当事者じゃない限り頭にも入っていかないような、そんな話だ。

「彼女はいまだにバレー部なんだけどさ、本来なら私もあそこにいたのにって思っちゃうんだよね。まぁ、軽い嫉妬なんだけど」

「……本当はバレーのことなんて好きじゃなかったんじゃない?」

 彼女はこちらを向くことなくそう言った。どうやら、きちんと聞かれていたらしい。

「だから、出来ないようになっちゃった、とか」

 以前の私なら全力で否定していたのだろうが、今の私はく否定出来なかった。ただ、なんとなくそうかもしれないと思ってしまった。思ってしまった時点で、その思いは決まったようなものだろう。私は、バレーのことが別に好きではなかった。ただ、周りに置いて行かれたくなかっただけだ。

 今の私は、どうだろう。

 とはいえ考えても仕方ないので、考えることをやめた。違う話題を出す。掃除の時間が終わるチャイムも聞こえたので、タイミングとしても悪くないだろう。

「エリム、来るかな?」

 午前の授業中から気になっていたことだ。気になるあまりに、廊下に出て彼女のクラスの前を通るときに姿を目で探そうとしてしまったほどだ。その時に、一瞬だけ彼女と目が合ったような気もする。

「来ないんじゃない?」

「やっぱり? もう解決しちゃってたもんね」

「うん。それに言ってたじゃん。うそついてまでアタシたちに近づきたくないって」

「言ってたね。あそこまで言うなんて思わなくてびっくりしたよ」

「あの時の雰囲気は、裏アカから想像できる人間の通りだったなー」

 エリムがいた時もそんなことを言っていたが、そんなにもひどいんだろうか? 彼女のアカウントを探したけれど、相互でフォローしていることを確認しただけでつぶやきまではちゃんと見ていない。

「……その裏アカウントなんだけど、そんなにひどいの?」

「もうすごいよ。時々しかログインしてないんだけど、その分一つのつぶやきにじゆが込められてるっていうか。見てみる?」

 ナナがそんなに言うなら、よほどのものなんだろう。怖さもあったけれど、それ以上に好奇心が勝ったのでうなずいた。

 彼女は素早く画面をスクロールした後に、私のほうに画面を見せてくれた。

「うわ……」

 そこにあったのは、両親に対しての恨みをただひたすらにぶちまけているアカウントだった。かなり詳細に両親や自らの帰宅時間を書いているので、これもまた人に特定される材料になるのだろう。

「確かにこれだと、かなり個人を特定出来そうだよね」

「そうそう。あの子の周りにも止められるような人間はいなかったのかって、不安になるレベル」

「令嬢だし、もっと気をつけてても良さそうなのにね」

「うーん……呟き見るに父親が頑固そうだから、インターネットっていうものをよく理解してないのかもしれない。だから、あの子もそうなっちゃったのかも。ってまぁ、ただの推測だけど」

「嫌なのに似ちゃうんだ?」

「嫌だけど、その対象が身内だとどうしてもそうなっちゃうみたいだよ? 結構そういう子は多いっぽい」

「へー……。私は家の中だと弟が嫌いだけど、そこまでじゃないからなぁ」

「私も家族のことは信頼してるから、その点は良かったかなって思ってる」

「身内っていうか……毎日顔を合わせる人のことが嫌いだと、本当に大変そう」

「って、いない人間のこと哀れんでもしょうがないじゃん。作戦会議しよう、作戦会議」


「どうして私のことを哀れんでいるんですか?」


 また突然現れた、エリム。驚きに、肩がやっぱり震えた。最初に声を聞いた時も幽霊っぽいなって思ったけど、この突然現れる感じも何だかそれっぽくて怖くなる。

「またサボってきたの?」

「いえ。今回は放課後になってから来ましたよ。私たちのクラスは、ホームルームが短いので」

「あっそう……。その様子だと、また全部聞いてるんでしょ?」

「『嫌だけど』の辺りから聞いていました」

「うっわ、何でそんなところから聞いてるワケ? もしかして狙ってる?」

「むしろそちらが狙っているのではと思ったのですが、違ったのですか?」

 一瞬にして屋上が、バチバチとした嫌な空気になる。私はどうしようと、二人の顔を交互に見つめる。けれどナナは、そんな空気を壊すかのように不思議そうに首をかしげた。

「っていうか、何で来たの?」

 その言葉に、あつにとられたエリム。しばらくはポカンとしていたけれど、徐々に怒りをあらわにしてナナをにらみつける。

貴方あなたが来いと言ったのではないですか!」

「それはそうなんだけどさ、本当に来るとか思わないじゃん」

 何も悪気が無さそうな、本当に不思議で仕方がないといった表情でナナはエリムを見つめる。やがて怒っていた彼女の顔からは、表情もなくなってしまった。無表情なのに、どこか怖く感じる。

「……帰ります」

「待って!」

 あろうことか帰ろうとする彼女を、急いで立ち上がって追いかける。その手を、出来るだけ傷つけないように握った。症候群が治った人に触った事なんてないから不安だったけど、すぐには何も起きないようだ。これで帰る頃になって具合が悪くなるとかだったら嫌だな……。

 けれど、止めないわけにはいかない。せっかく貴重な症候群が治った例なのだ。その辺をナナは分かっているんだろうか? まったくもう!

「お願いだから帰らないで。エリムの症状が治った理由が分かれば、私とナナの症状も良くなるかもしれないし……」

 とはいえ、こんなことを言ったところであまり説得力はないだろう。だって、彼女にはもうこの場に利を感じることは出来ないのだから。それでも来てくれたことの意味は分からない。意味は分からなくても、チャンスはチャンスだ。それも最後の。けれど私には、すぐに用意できるような利はない。財布の中身は私にとっては高額でも彼女にとってはシジミの殻程度のものだろうし、リュックの中にも利らしいものは入っていない。だとしたら、私に出来ることは一つだ。

「お願いします!」

「なっ」

 精一杯頭を下げる。

「そ、そんなことをされても困ります!」

「困るんなら、帰らないで作戦会議してよ! お願いだから!」

「おー、やれやれー」

「ナナだって症候群がまだ治ってないんだから頭下げたっていいんだよ!?」

 そうは言うものの、彼女が下げてくれるとは思えなかった。だから自分一人でエリムをさらに困らせるためにも、必死に涙を流そうとする。けれどその前に、彼女はバタバタと抵抗するのをやめた。本当に嫌そうに、ため息をつく。そのため息は長くて深くて、思わず私は手を放した。

 これは、怒らせてしまったかもしれない。ヤバイ。どうしよう。慰謝料を請求する裁判を起こされたりしたら、絶対に負けてしまう。私の家に、彼女に払えるようなお金はない。けれど謝るのもおかしい気がして、私はただ彼女のことをじっと見つめていた。

「……仕方ないですね。少しだけですよ」

 ようやく開かれた口から発された言葉を、数秒かけて理解する。

「本当に?」

 不安に思った私は、念のために問いかけてみる。

「本当ですよ」

「やったぁ!」

 私はそこで、思いっきりねて喜んでしまった。跳ねた後に見た目の前の彼女の不思議そうな顔に、一気に我に返る。恥ずかしい。顔から火が出そうなくらい熱い。顔全体が熱をもっているのがよく分かる。

「ルルって、普段からそんな喜び方してそうだよね」

「私も今、貴方あなたと同じ事を思いました」

 二人とも、必死に笑いをこらえている顔でそんなことを言ってくる。そんなはずはないと否定したかったけれど、否定すると吹き出して笑われそうな気がしたのでやめた。気がするって言うか、絶対そうだろう。

「握っちゃってごめん。痛くなかった?」

「そんなにやわな体じゃありませんよ」

「そう。それなら良かった」

 エリムに謝った後、自分が元いた場所に座り直す。ここに残ると決めてくれた彼女も座った。座る位置は前と変わらないので、早くも位置が決まってきているのかもしれない。

「それじゃあ、作戦会議を始めようか!」

 ようやっとだ! 長かったー。

「何を話し合うんですか?」

 張り切って切り出したものの、何を話すかまでは一切決めていなかった。というより、ナナが先導してくれるものだと思っていた。この共犯関係を始めたのは、彼女なわけだし。そういう意味も込めてナナの顔色をうかがうと、彼女は口を開いてくれた。

「ひとまず、各々の症状の再確認。それと、どうしてそれが起こってるのかで思い当たることを話せるだけ話して」

「話せるだけっていうのは、どういうこと?」

「話したくないことは、無理に話さなくてもいい」

「……なるほど」

 それは、自分が話したくないことがあるってことなんだろうか。自分も話したくないことがないわけではないから、それを否定するのはためらわれた。そのまま口を閉じて、彼女の話を聞く。

「あと、他にも話せそうな情報があったら話して。これは別に今じゃなくてもこれからずっとよろしく。SNSならURLとかスクショとか貼るだけでもいいし」

「うん、分かった」

「気が向けばそうしますね。では、ナナからどうぞ?」

 促された彼女は、一瞬だけ嫌な顔をした。

貴方あなたが提案したことなのですから、まずはお手本をお願いしたいのですが」

「分かってるよ……」

 嫌そうな顔のまま、口を開いて話し始める。

「アタシの症状は、もう分かってると思うけどこの目のハートマーク。原因は多分、裏アカを始めたことなんじゃないかなって思ってる」

「それはまぁ、そうでしょうね……」

「じゃあ、そのアカウントをやめれば……?」

 私の提案に、ナナはふっと笑った。まさか笑いかけられるとは思わず、ドキリと心臓が高鳴る。

「そりゃ、そう思ったんだけどねー。同時期に起きた話したくない事情も関係してるのかもしれないって思ったから、消せないままズルズルしてる」

 その言葉に、自分にも思い当たる節があったことを思いだした。

「それにさ、そこそこに裏アカでの交流が盛んなルルなら分かるんじゃない? そんな簡単に裏アカから離れられないってことがさ」

 すごくよく分かる。だって裏アカウントは、もはや私にとっては現実で生きていくために必要なものになっている。いくら症候群が解決するとしても、アカウントをやめるというのは怖い。それに、彼女はそれじゃない心当たりもあるという。もしもアカウントを消したのにそっちだったらなおのこと悲惨だ。

「……ごめん」

「いいよ、別に。アタシでも同じ事言っちゃうだろうし」

「そっか」

「その裏アカウントを始めるきっかけとなった悩みというのは、聞いてもいいものなんでしょうか?」

流石さすがに、話したくないかな」

「そうですか」

 無理に話さなくていいと彼女が言ったのは、自分が聞かれたくなかったからなのかもしれない。

「では……他の情報は、ご存じないのですか?」

 エリムは、冷静に問いかけてくる。

「知らない。昨日は一応、アンタみたいに治った人のことを調べてみたりもしたんだけど何にも分からなかったよ。というか、全部うさんくさい」

「やっぱりそうですか……」

「アタシが話したんだから、次はアンタの番じゃない?」

 順番を決めつけられたエリムはさっきのナナと同じように一瞬だけ嫌な顔をしたけれど、すぐに元の表情に戻った。そのまま話し始める。

「私の症状は、どういう原理だかは分かりませんが家に帰れないというものでした。原因はおそらく、私が家に帰りたくないからです」

「何で帰りたくないワケ?」

「家に居場所などなく、帰る理由を失ってしまいましたから……」

 そう言って、彼女は遠くを見つめる。家に帰る理由って、何だったんだろう。っていうか、家に帰るのに理由が必要なのかな……? 疑問には思うけれど、聞いても答えてはくれないだろう。想像もつかない。

「情報は?」

「ナナと同じものを調べていました。結果も変わらずです」

「そっかー。じゃあ最後、ルル」

「あ、うん」

 ついに自分の出番が来てしまった。二人が話している間に何を話そうか考えていたけど、それがく口から出ていくかは分からない。自分でもよく分かっていないことを話すのだ。二人みたいにちゃんと話そうとすればするほど、心臓がうるさい。

「えっと、私の症状は、同じ症候群じゃない人に触れると体調が悪くなったりするっていうのです。あ」

 どうしてか分からないけど、敬語になってしまっていた。それを戻すかどうしようかとテンパって、頭の中が真っ白になる。

「……えっと、えっと」

 言葉が出てこない。目の前には、二人の不安そうな顔があった。不安そうな顔もするんだと、どこかごとのように落ち着いた私が思う。

「落ち着いてください」

「どうしたの? さっきまであんなに張り切ってたのに」

「いや、なんか、二人とも状況の説明がいなって思って……。私には、出来そうにないなって思っちゃってさ……」

 バレーの大会での出来事。それからの心情。友人との決裂。そこからの人間関係。裏アカウントでのこと。それらを上手く、しかも話したくないことは話さないなんてこと、私には難しすぎる。

「分かった。じゃあ、全部話せないってことにしておこう」

「え?」

 思いもよらない言葉に、ナナのほうを二度見する。

 まさか彼女が、そんなにも優しい提案をしてくれるだなんて思っていなかった。今の私からしてみれば、女神のように思える。

「話せそうな心当たりが言葉に出来るようになってから、共有してくれればいいよ。アンタも、それでいいよね?」

「構いませんよ」

「……ありがとう」

「別にいいよ。ただ、めちゃくちゃなことしてきたからそんなひどい症状なんだなーって思っておくだけだから」

「えっ」

 ちょっと泣きそうになってたけど、一気に涙が引っ込んだ。

 心外だ! めちゃくちゃなことなんて、全然してない!

「そうなんですよね。私の症状も中々酷いものだと思っていたのですが、普通の人に触れたら体調が悪くなるって症状のほうが酷いですよね? だって日常生活自体が困難じゃないですか」

「そ、そうかもしれないけど、めちゃくちゃなことなんてしてきてないから! 誤解だよ、誤解!」

「どうかなぁ……?」

「どうかなじゃない!」

「とりあえず、さっきいきなりバレー部の子が嫌いって話をしてきたからバレー関連で嫌なことがあったのは確定ってカンジだよね?」

「うわっ」

 そういえば、ついつい話してしまっていた。さっきまでの私の心情が、今となっては分からない。恥ずかしいし、何だかいたたまれない。

「そうなんですか?」

「なんかそうみたい。ルルと同じクラスの、ながさわって知ってる?」

「知らないですね」

「うーん。アタシも分からないってことは、SNSやってないのかな? いや、観測外にいる可能性もある……?」

 ナナはスマートフォンを取り出して、何やら検索を始めてしまった。

「その永沢って人は、どんな人なんですか?」

 エリムが沈黙を恐れたのか何なのか、そう聞いてくる。私は、自然と首を横に振った。

「永沢さん自体は、別に悪い人じゃないよ。ただ、私が個人的に妬んでるってだけで」

「そうなんですね。迷惑な人だったら、警戒リストに入れようと思っていたんですが」

「迷惑な人だったら、もっと堂々と憎めたかも」

 そう思うと余計にいらちを感じてしまう私は、その部分だけは、こんな症状になるほどひどい人間かもしれないと思った。

「っていうか、警戒リストって何?」

「関わると面倒なことになりそうな人を入れています。学年こそ違いますが……ナナも入っていましたよ」

「でも本当は関わると面倒なんじゃなくて、面倒なことが先に起きてしまったパターン……?」

「難儀しますよ、本当に」

「人の目の前で堂々と悪口言うのはどうかと思うナー」

 ジトッとした目なのに、その中心にはハートが存在している。そのことが何だか面白くって、私は笑って返すのであった。


 ○


 共犯関係を結んでからの数日間は、屋上には行かなかった。というよりかは、行けなかったと言うほうが近い。

 私の成績的に、あんまりサボるとテストの点数でどうにかしないといけなくなるかもしれないと危惧したからだ。どうにか出来るほどの点数が取れていたら、追試だったり何だったりで苦労していない。

 その間も、二人とはSNSでつながっていた。しかし気が向いたナナがスタンプで荒らしてきたりするので、何回か抜けることを考えた。

『本当にやめてくれませんか? 迷惑極まりないです』

 グループでのエリムは、現実と同じく敬語だ。発言的に、エリムも同じ気分なんだろう。

 けれどナナは、新しくスタンプを買う度に自慢するかのようにグループのトークを荒らす。三日に一回は、新作を買ったと言っているような気がする。あんまりあっても使わないような気がするんだけど、そうでもないのかな。

『っていうか、そんなに買って大丈夫なの?』

 疑問に思って聞いてみると、彼女はこちらを指差して笑う犬のスタンプを送ってきた。流石さすがに腹が立ったので『そんなんだからパパがどうのとか言われるんだよ?』というメッセージを送った。すると、直後に電話が鳴る。

「まさか……」

 そのまさかで、ナナからだった。何を言われるのかは、大体想像がつく。出るのが怖くて、手元にあったタオルでスマートフォンを覆って場をやり過ごした。いつも聞き慣れている曲が、その瞬間だけは悪夢のメロディだった……。

 それからはしばらくは、グループのトークを見ることが出来なかった。流石に翌日には見られるようになったけど。というか、仲良くはしないと決めているはずなのに盛り上がっているのが結構不思議だ。二人がなんてことないようにしているから私もメッセージを送っているけれど、予想では最低限の連絡しかしないと思っていたからだ。これは仲良くしてるって言わないのかなと思いつつ、軽くスタンプで返したりする。


 ○


 そして数日ったある日。

 その日はあんまりにも重たい授業が詰まっていたので、最後の数学の時間に思い切って屋上に行った。屋上の扉を開けて流れてくる風には開放感があった。気持ちいい。

「久しぶりじゃん」

「本当ですね。生きてましたか?」

「生きてるよ、当たり前じゃん……。ここに来てなかっただけで、ちゃんと学校には来てたし」

「知ってますよ。同学年なので、廊下ではすれ違っていましたし」

「そうだよね!?」

 屋上には、ナナとエリム二人の姿があった。二人とも、それぞれ自分のことをしている。ナナはスマートフォン、エリムは……読書かな?

「って、え? エリム……?」

「はい?」

 まさかエリムがいるとは思わず、声に出してしまう。そこにいるのは、エリム本人だ。そう思うと、別に私が気にしなくていいはずなのに不安になってしまう。令嬢だからお父さんに怒られるって言ってなかったっけ……?

「だ、大丈夫なの?」

「何がですか?」

「怒られたりするって、裏アカウントで言ってたから」

「言われてみれば、そうでしたね」

「言われてみればって……」

 ごとのような言いように、より一層不安になる。けれど彼女は、本当にどうでもよさそうに言葉を続ける。

「私にとっては怒られることなんて日常茶飯事ですから、どうということはありません。貴方あなたが気にする必要はないですよ。それに」

「それに?」

「私は失敗作ですから、こういうことをしてもそこまで罪悪感を感じないみたいです」

 そう言って彼女は、何だか楽しそうに笑った。なんだ。全然心配する必要なんてないじゃん。良かったような、拍子抜けのような。

「そうそう。この子、どうやらアタシと同じくらいここに入り浸ってるっぽいんだよ。アタシより先に来てることもあるし」

「えっ、めちゃくちゃサボってるってことじゃん」

「そういうことになりますね」

「……アタシ、めちゃくちゃサボってるって思われてるの?」

「最近になって理解度の違う人たちと同じ授業を受けるのって、面倒で仕方がないと思っていたんですよ。だから、ちょうど良くって」

「そっかー……」

「何かアタシに対する偏見がヤバいなー?」

 ちょうど良いと語る目がキラキラと輝いているのが気になる。サボるのって、そんなに輝いた目をしながら語ることじゃないと思うんだけど……。彼女の暗かった目が輝いて見えるんなら、いいことなのかもしれない。分からないけど。

「まぁいっか。三人そろったんなら、ちょっと真面目まじめな話しようよ」

 スマートフォンを下に置いて、ナナは伸びをする。

「真面目な話?」

 って、何だろう。テストが近いから、テスト対策について教えてくれるとかかな?

「症候群の話ですか?」

「そうそう。……その顔、ルルはなんだと思ったワケ?」

「て、テスト対策かと」

「それは自分でやれ!」

 厳しい言葉に、返す言葉も思い浮かばない。

「もしかして、新しい情報が入ったとかですか?」

 そんな私のことは無視して、エリムがナナに症候群についての話を促す。

「いや、まだ話してないコトがあるでしょ」

 話してないこと……?

 よく分からずナナのほうを見つめると、その手が一点を指さした。その方向に目を向ければ、ため息をつくエリムの姿がある。

「何でアンタは、家に帰れたワケ?」

「あ……」

 確かに、彼女の症候群が治った理由については話し合ってない。それさえ分かれば、私たちの症候群も解決するかもしれない。

「それなら、私も気になってた」

 だから、エリムが話してくれるように言葉を付け足す。

「家に帰りたくなかったのに、特に何かするわけでもなく解決したじゃん? どういうことなのか、自分で分かる?」

 そこまで考えてたんだ……。気になってたけど、そんな難しいことは考えてなかった。

 でも言われてみれば、本当に何にもしていない。私たちは一緒についていっただけだし、エリムも普通に扉を開けただけに見えた。それなのに解決したのは、一体どういうことなんだろう?

 問いかけられたエリムは、しばらく難しい顔をして口を閉じていた。自分でも、原因が分からないんだろうか。分かってたら、すぐに答えられるだろうし。

 しばらくして、ゆっくりと口を開く。

「それについてなんですけど、私もずっと考えていたんですよ。貴方あなたの言うとおり、解決法らしい解決法はしていませんからね」

「そうだよね?」

「はい。それで思ったんですけど、今まで私は『家に人を招く』ということをしたことが無かったんですね」

「えっ、逆に?」

「逆に、とは」

「お嬢様って、誕生日会とか盛大にやるんじゃないの?」

 そこでエリムは、さっきよりも難しい顔になった。頭をひねって、何かを考えているらしい。何を考えているんだろう。会話の流れもあって、全然読めない。聞いているような顔をしようとはしているけど、く出来てないかもしれない。

「……自ら望んで招いたことはありませんでしたね」

「じゃあ、アタシたちは一応望まれてたってことなんだ?」

 そういうナナの顔は、少し得意げだった。反対に、エリムの顔は嫌そうだ。

「やや不本意ですがそうなりますね。だから、それが影響しているんじゃないかと思います」

「誰かを自分から家に招くってコトが?」

「ええ。もしくは、家に帰ろうと思える理由さえあればいいのかもしれませんが」

「帰りたくなればいいってことだね」

「そうですね。ですから、これからは症候群で帰れないことが自分にとって不利益になりそうなときには、友人たちを招くことを検討しようと思います。もちろん、その時はちゃんとおもてなしをしますけどね」

「そうだよ、おもてなしだよー! すごく期待してたのに、そのまま帰ることになっちゃったしさー」

 笑いながら、ナナは言った。その言葉に、私はうなずく。

「実は私も、ちょっと期待してた……」

 何が出てくるんだろう? 紅茶かな? それとも玉露? もしかして、めっちゃ高級なコーヒー?と、期待に胸を高鳴らせていた。というか、家の中もどんな感じなんだろうと楽しみにしてたんだけどなぁ。

「……今度、来ますか?」

 しばらく黙っていた彼女の口から、渋々といった様子でそんな言葉が出てくる。

「そんな真剣に悩まなくても。冗談だよ。ね?」

「う、うん……」

 さっきから変わらない笑顔で、ナナはどうでもいいよと付け加えながら手を振った。私としては冗談ではなくてそこそこ本気だったんだけど、そういうことにしておいたほうがいいのかな。おうちの中にあるもの壊しちゃったりしたら困るし。そもそも友達でもないしね……。

「それよりも大事なのは、エリムは家に帰るときにやったことないことをしたら、症状が解決したってところだよ」

 そうだ。今重要なのは、症候群の解決方法だ。

「つまり、普段しないことをすればいいってこと?」

「そうそう。それも、症状の原因に関係してるコトをね」

 症状の原因に関係してて、普段やらなそうなことかぁ。

「そう言われても、思いつかないなぁ……」

 とつに言われて思いつくのは中学以来やっていなかったバレーだけど、この前の体育の授業でやった時は何も変わってなかったはずだ。じゃなかったら、体調不良で休憩させてもらってない。

「そうだねー。アタシも、すぐには思い浮かばないや」

「ゆっくり一つ一つの行動を試していけばいいんですよ。期限が定められてるわけでもないですし」

「それもそうだね。いついつまでに解決しないと命が危ない!とかは、きっとないだろうし」

 そんなのがあったら、今以上に困る。それに、社会でももっと問題になってるだろう。よく分からない病気で多くの人の命が奪われてたら、連日ニュースになっていてもおかしくない。

「分かんないよー? もしかしたら『少女』って年齢じゃなくなったら、そんな風に……命が危なくなるのかもしれないし」

「それを言ったら、私たちも少女と言えるかどうかは微妙じゃないですか。もうちょっと上の年齢の方でも、なっていると聞きますし」

「言われてみれば確かに……少女って言われると、困っちゃうかも」

 少女っていうとあの黄色い帽子をかぶっている頃から、ランドセルを背負っている頃くらいまでをイメージするかなぁ。年長さんから、小学生ってところだ。でもその子の成長によっては、ランドセルを背負っていても少女と呼ぶに相応ふさわしくないほど大人びてることもあるだろうし。

「そんなのを患うくらい、子どもから成長してないって暗に示されてるのかもね」

 ナナの言葉に、一瞬で場の空気が冷たくなった。少女みたいって言われても特に何も思わないが、成長してないって言われるとカチンとくる。そんなことないよね? 流石さすがの私も、小学生の頃からは成長していると思う。っていうか、してなかったら困る。しててほしいなぁ……。

貴方あなた、さっきから嫌なことばかり言ってませんか?」

「ま、ブーメランだけどね」

「ぶーめらん……?」

「あ、ネットスラングには疎いカンジなんだ?」

「自分にも返ってくるって意味だよ、ね?」

「そうそう」

「……そうだというのなら、そのまま言えばいいじゃないですか」

 エリムは、手を握りしめてふるふると震えている。そ、そんなに……?

「知らなくても全然恥ずかしいことじゃないってば。そんな顔真っ赤にしなくても」

「してません!」

 してるけど、彼女の中ではしていないことになってるから何も言わないほうがいいんだろう。触らぬ神にたたりなしだ。……神っていうのはちょっと言い過ぎな気もする。

「そろそろチャイム鳴るし、戻る人は戻らないとね」

 スマートフォンを見つめるナナが、そう言う。面倒だけど、戻らないと。

「……あれ。もしかして、私だけ?」

「そうみたいですね」

「ガンバってねー」

「うわ──!」


 ○


 またある日の、五限目のこと。その日は、三人がそろっていた。だからといってすることもなく、それぞれが好きなことをやっていた。

「この名前って、一体誰が付けたんだろうね?」

 私のふと思いついた疑問に、今まで下を向いていた二人の視線が上がる。放課後に私が来てから結構ったけど、もしかしたら今日初めて視線を合わせたかもしれない。相変わらずナナの目にはハートマークが浮かんでいるし、エリムの目は黒々としている。

「名前?」

「症候群の名前だよ。この前も話したけど、私たちですらもはや少女とは言いづらい年だよね?」

「かといって本当の少女は、患ってなさそうだしね」

「言われてみれば確かに」

 またもそこまで考えてなかった。今返してきたのはナナだけど、エリムも同じ事を考えていそうだ。この二人は一体、どこまで考えているんだろう。私の理解の及ばないところかな……だとしたら、困っちゃうなぁ。

「でもそういうの抜きにしても、どうしてこの名前がついたのかなって思って。だって、正式な名前じゃないんだよ? ……え、そうだよね?」

「そのはずです。正式なお医者さんでは、そのように診断してくれませんから」

「うんうん。そんな感じだった、はず……」

 私も両親に連れられて病院に行くことは行ったけど、周りに流されるだけで説明なんかは両親が聞いていただろうからよく覚えていない。エリムの言うことなら、間違いないだろう。

「そ、それなのにここまで浸透してるわけじゃん。そうなると、誰か広めた人もいるんだろうしさ」

 私の言葉に、二人はうーんと考え始める。何気なく言ったことだから、そんなに真面目まじめに考えられるとは思っていなくてたじろぐ。けれど、ここまで反応してもらえることはうれしくもある。私なりの視点が生きてるっていうか、なんというか!

「いっても浸透率はすごいよね。バラエティ番組とかでも堂々と使われてるし」

「あ、最近だとニュース番組でも使われてるの見たよ」

「テレビを一切見ないので、その辺りは分からないのですが……ネットの辞典にページが出来ているのは知っています。要出典ばかりの記述で、あまり当てにはならないとは思いますが」

 私が思っているより、大きなこととして世間は認識しているってことでいいのかな。全然良くないし困るけど、それだけ多くの人が発症しているってことかもしれない。

 ナナの予想を借りると、それほど多くの人が病んでるってことだ。うわぁ、絶望的すぎる……。

「今調べてみたんだけど、二人くらい名前を考えたって主張してる人がいるらしいねー」

 ナナが、検索結果が出ているらしいスマートフォンの画面を見せてくる。そこに写っていたのは、一人は実写アイコンの人。もう一人は、イラストアイコンの人だった。二人とも雰囲気は違うけれど、裏アカウントかいわいにいる人たちのようだ。見たことあるようなないようなで、首をかしげる。

「この二人の内、どっちかが本当に考えた人ってこと?」

「分かんないよ。もしかしたらどっちもうそかもしれないし」

「インターネットにはそういう、経歴をかたる人が多いらしいですからね」

「何でそんな偏見だけは知ってるワケ?」

 二人のアイコンを、マジマジと見つめる。けれど答えが出てくるわけでもなく、私は画面から目をらした。

「難しいことはよく分かんないや」

「アンタが言い出したことなのに」

「だってこんなに真面目まじめに考えてくれるとか思わなかったもん。『そんなのどうでもよくない?』で切り捨てられるとしか思ってなかったよ」

「疑問には思いますから、話題として出されたら反応してしまいますね」

「やっぱりそうなんだ?」

 思った通り、考えてはいたらしい。

「あと個人的には、男性の症例が確認されてないのかも気になります」

「うわー、名前からして、言い出しにくそう!」

「てっきり名前からして、女の人しかならないのかなって思ったけど、そんなことないのかな?」

「名前を付けた人が、きちんと確認して付けているとは限りませんから」

「な、なるほど……」

「皆そう思ってるから、よけーに言い出しづらくなるだろうね。あざわくてきだし」

「ま、本当に女の子しかならないっていうんならそれはそれで何で?って思うけどね」

「もしかしたら、男女の差が解決の鍵になってくるのかもしれませんよ」

「男子に発生してないんなら、そこが解決方法になってくるかもしれないしねー」

「あ、そういうことなのかな……?」

「分かりません、謎ばかりですね」

「本当だよ。解決出来るか不安だ」

「めげるなめげるな」

「すごくごとみたいに言うけど、ナナだって解決してないよね!?」


 ○


 次の日の放課後。屋上へ向かうと、既にエリムがいてくつろいでいた。何にもない屋上でくつろいでる令嬢ってどうなんだろうとは思うけど、それが事実なんだからそう表現するしかない。

「こんにちは」

 彼女はこちらに気付くと、イヤホンを外してそう言った。使っているイヤホンが私と同じものだったから、少し驚く。スマートフォンを買ったら付いてくるやつだ。変なところで、親近感が湧く。

「こんにちは。一人?」

「はい。今のところナナは来てませんね」

「うーん。あの人が授業受けてるところが想像出来ないから不思議だ……」

 エリムの隣に座りながら、素直な感想を口にする。本人の前で言ったら怒られるだろうけど、今はいないから大丈夫だろう。

 机に座って、真面目まじめに授業を受けている彼女の姿を想像しようとする。けれど脳内でその子は、いつの間にか目にハートマークがない別人になってしまっているのだ。ナナの姿のままだと、想像がそこで途切れてしまう。

「とはいえ、あれでも成績上位者ですからね。枕かと思っていましたけど、あの反応だと純粋な実力なのでしょうし」

「本当に名前が載ってるの?」

「え、見たことないんですか?」

「うん、ないよ。そんなものがあるっていうことも、ナナから聞いて思い出したくらいだし」

 私の言葉に、エリムは曖昧な笑みをした。多分、親しい友達同士だったら冗談を交えながらも馬鹿にされていたところだろう。親しいわけではないから、笑うのもはばかられたんだろう。この関係も、良いことばかりじゃない。

「……最初の頃は掲示されることに面白みを感じて見に来ていたような人も、今ではめっきり見かけませんもんね。成績上位者の人も最近では固定化してきてますし、ほとんどの人はもう興味を失っているのかもしれませんね」

 彼女は、自分に言い聞かせるようにいくつかの説を語った。口調が力強くて、ちょっと怖い。

「そうそう。成績上位なんて、私にとっては夢のまた夢だよ」

 軽い気持ちで、というか何も考えずに、そう言った。返ってくるのは笑いだと思っていたけれど、そんなことはなかった。エリムは真顔のままだ。彼女にとって私の話は、面白くなかったんだろう。まぁ、笑いの沸点が違うんだろうし仕方ないか。別に無理に笑う必要なんてないわけだし。

 うーん。何か他の話題とかあるかな? このまま沈黙したままなのはつらい。せっかく屋上まで上がってきたのに、すぐ帰るのもなんとなく嫌だ。

「ね……?」

 何かない?と話しかけようとしたら、エリムはまだこちらをじっと見ていた。口をちょっとだけ開いて、何か言いたそうにしている。

「どうしたの?」

「いえ……その」

 彼女はこちらから目をらして、口を閉じた。

「言いづらいことなら、言わなくてもいいけど」

「いえ……言います」

 エリムは決意したように、そう宣言した。私はその、何だか無理をしているような様子にちょっとだけたじろぎながらも、何を言われるんだろうかと身構える。言いづらいってことなら、ストレートに悪口かな? 友達じゃないからそのくらいは言われるのかもしれないけど、心情的にはちょっとつらさもある。分かってるよ、自分が勉強出来ないことぐらい。もっと頑張らないといけないことぐらい。

「何なの?」

「成績が悪くとも、ルルの家では何も罰はないんですよね?」

 しかしエリムの口から出て来たのは、思っていた言葉とは違うものだった。そこには少し安心する。けど、どうしてそんなことが気になるんだろう。っていうか、罰っていうのは……もしかして、エリムが受けて……?

 いやいや、いくら何でも考え過ぎだよね。今時そんなのしてたら、いくら何でも捕まっちゃうだろうし。

 そう割り切って、彼女の質問に答える。

「罰っていうか……おづかい減らされたりとかはあるよ」

「どのくらい?」

「結構悪いと、その分怒られるし減らされるかな。この前は、五百円くらい減らされた」

「……普段はいくらぐらいもらっているんですか?」

「お父さんの機嫌にもよるけど、四千円くらいかな。前借りしたりして、減ってる時もあるけど」

「……なるほど」

 彼女は難しい顔をして、うんうんとうなずいている。何がなるほどなんだろう。

「他には?」

「他には……うーん、ないかなぁ。怒られてる時はそりゃ嫌だから反論するけど、向こうは私が悪いから怒ってるっていうのも最近分かってきたし」

 私の言葉に、難しい顔をしていたエリムがあつに取られる。

 え? なに? 怖いんだけど?

「私、何か変なこと言った?」

「いえ、ルルの口からそんな悟り切った言葉が出てくるとは思わなかったので、つい」

「悟り切ってるっていうのかな、これ」

「……少なくともルルの口からそんな言葉が出てくるとは、本当に思わなかったので」

「うわー。もうすっごい馬鹿にされてるじゃん!」

 気まずそうにしているけれど、否定の言葉が出てこないってことはそうなんだろう。いいけど! 別にいいけどさ!?

「私だって、ちゃんとわきまえられるようになってきてるんだよ? そりゃあ、エリムに比べたらまだまだだろうけどさ」

「私も別に、弁えられてませんよ」

「え?」

「だから、裏アカに沢山吐き出しているんです」

「あ、そう言えばそっか」

 言われてみればそうだ。怒られれば、どれだけ向こうに正当性があってもムカつくものはムカつく。だから、代わりの場所に怒りをぶつける。

「そう考えると何か、エリムもやっぱりただの女子高生なんだね」

「本当ですか?」

 私の言葉に、エリムは控えめだけどうれしそうにする。下手に特別扱いをされるより、普通って言われるほうが嬉しいのかな? 感覚としては分かるような、分からないような。

 でもまぁ、そっちのほうがいいんならそうやって接しよう。わざわざ変なことを言って怒らせる必要もないし。

「うん。使ってるイヤホンも、スマホに付いてくるやつでしょ?」

「そうですけど、どうして?」

「いや、もっとお高いイヤホンを付けてるイメージあったから、意外だなって思ってて」

「結局、これが一番使いやすくないですか?」

「他のを試したことがないからあんまり言えないけど……ずっと使ってるともうそれが一番耳になじんでるかなっていうのは思う」

「よく分かります」

「最近ってるワイヤレスイヤホンは、落としそうで怖いし」

「あぁ……。友人でそれを使ってる子がいるんですけど、その子が失くしたって言った時は大変でしたね。小さいから、探すのにも一苦労ですし」

「やっぱり?」

「結局あったので良かったんですけどね」

「そっか。それなら良かったね」

「はい」

「でも、エリムがかがんで物を探してるところは想像出来ないかもしれない……」

 それこそ、ナナが授業を受けているところと同じくらい想像出来ない。財布から十円を落としても、そのままにしてるって言われたほうがまだ分かる。

「それくらいしますよ。友人の物が失くなったわけですし」

「それも意外」

「……ルルって、おとなしそうな顔して結構言いますよね」

「あ、いや、だって、ほら」

 そ、訴訟を起こされてしまう!?

「そんなに焦らなくても」

 そこで今日初めて、彼女が楽しそうな笑みを浮かべているのを見た。元々の顔がいいから、笑顔になるとより一層かわいい。れてしまいそうになる私に驚く。見惚れてる場合じゃない!

「いやだって、変なこと言ったら訴訟起こされるかなって思って……」

「そんな簡単にしませんよ」

「そ、そうなの?」

「いいですか。裁判というのはですね……」

「いや、そういう解説はいらないから!!」

「そうですか?」

 か残念そうにしているエリムから顔をらすために、スマートフォンを取り出す。時間を見ると、もう結構な時間がっていた。そろそろ帰ったほうがいいだろう。

「私はもう帰るけど、エリムはどうする?」

「もう少しだけここにいます」

「そっか。じゃあ……」

 また明日会えるかは定かではない。その時のそれぞれの気分次第だ。だから私は、何も言わずに手を振った。エリムは同じように振り返してくれたので、すごくうれしかった。

 いつか彼女が先に帰る時があったら、今日のお返しとして手を振ろうと思う。

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