◆少女たちの結託



 あぁ、良かった。ギリギリのところで間に合った……。

 ほっとして、胸をで下ろす。

 昼休みまでに提出しなきゃいけないプリントの存在なんて、すっかり忘れてしまっていた。あいざわさんが写させてくれなければ、今頃は世界史の先生による一段と口うるさい説教を食らっていたところだろう。免れられて良かった。

 今日に限っては、相沢さんが神のように思える。

 小銭を持ってきていることだし、彼女の好きなココアでも買っていってあげよう。なんと、ちょうど昨日、機嫌の良いお父さんから臨時のおづかいをもらっていたのだ! もしかすると、このためのお小遣いだったのかもしれない。ついでに、私の分のいちごみるくも買っちゃおう。そう思い、自販機へ急ぐ。

 ところが急いでいたら、人とぶつかりそうになってしまった。プリントを提出し終わっての安心感で、完全に油断していたせいだろう。

 しかもよく見れば、相手は令嬢だと度々話題になるエリムさんだ。どうしよう!

 これから五限目の授業なのに、気分が悪くなったら困るんだけど! それに周りの人が見ている中で、過剰に痛がるのはちょっと避けたい! でも、けられそうにない……!

 衝突までの間に色々なことが頭をよぎって、パニックになる。

「ごめんなさい!」

 思わず、一際大きな声で謝ってしまった。次の瞬間に、勢いよくぶつかる。

 けれどいつものような不快感はなく、ただただ肩がぶつかった痛みのみが走る。それ自体も、そんなに強いものではない。

「……え?」

 どうして、なんともないんだろう。

「……大丈夫ですか?」

 不思議に思いあっけにとられていると、エリムさんが不安そうに首をかしげていた。それと同時に、周囲からの視線を浴びているのが分かる。昼休みの自販機前ということもあり、そこそこの人だかりだ。

 その中にはなんと、ビッチとして有名なナナ先輩もいた。なんなんだろうという、好奇を含んだ視線にいたたまれなくなる。

「だ、大丈夫です! 気にしないでください!」

 さっきのごめんなさいの声が不自然に大きかったせいだと気付いた私は、ココアも買わずにその場を後にした。後ろで走らないでくださいという風紀委員らしき声が聞こえたけれど、今はそれどころではない。

 顔が熱い。穴があったら入りたい。もう……今後一週間は絶対に答えを写したりしませんから、こういうことしないでください神様。すごく恥ずかしいです!

 結局ココアは、帰り際の玄関に置いてある自販機で買ってからあいざわさんに渡した。

 笑顔で受け取られたので、こちらとしても気が楽になる。

「ありがとう! こうやって好きなものもらえるんなら、答え写されるのも悪くないねぇ」

「いやいや、もう写さないから大丈夫だよ」

「ほんとに? ルルちゃん、案外抜けてるところあるからなぁ」

「そ、それはそうかもしれないけど……」

 言葉を濁してしまう。そうかもしれないけど、相沢さんみたいな明らかに抜けている人には言われたくなかった。そう口にするわけにもいかず、かといって何か言いたいことがあるわけでもない。沈黙を恐れ、スマートフォンで時計を見る。

 そして、わざとらしく「あっ」と声を上げた。

「ごめん! もう帰らなきゃ!」

 今日は楽しみにしてたドラマの再放送があるの!とは言えない。

「あ、そうなの? それじゃあまた明日ね!」

「うん! また明日!」

 そのまま帰路に就いた。しばらく小走りをして、もう彼女からは見えなくなっただろうというところで歩き始める。再放送があるのは事実だが、歩いて帰っても間に合うくらいの時間に始まるから問題はない。

 それから程なくして、家にたどり着いた。

「ただいまー」

「おかえり」

 誰もいないと思っていたけれど、お母さんの声が返ってくる。そういえば今日は、早めに帰って来れるって言ってたっけ。だとしてもどうということはないから、あんまり気にしてなかったけど。

「今日はどうだった?」

 声をかけられたのでリビングをのぞいてみると、お母さんは仕事着のままテレビの前に座っていた。そろそろご飯の準備を始めるところだろう。

「別に、普通だよ」

「そう。普通が一番よね」

 お母さんのいつもと同じ言葉を背中で受け止めながら、部屋に向かう。リュックを下ろしてスマートフォンを手に取り、そのままリビングに戻った。キッチンに向かうお母さんと入れ替わる形で、私がテレビの前に座る。

 今日は確か、先週の前編を受けての解決編だったっけ。先週の時点じゃ被害者の妹が怪しいんじゃないかと思ったけど、彼女が犯人だったら露骨過ぎて推理する必要なんてないだろう。つまり別の誰かなんだろうが、それが分からない。

 事件の冒頭は、そうそう、原因不明の痛みが発生して……。

「あー……」

 ドラマに集中したいのに、どうしても自分のことを考えてしまう。そういえば先週もこんな感じで、内容が頭に入ってこなかった。

 原因不明の体調不良……普通の人が私に触れると起きることが、まさにそれだろう。痛み出すこともあれば、目眩めまいや吐き気をもよおすこともある。

 私としてはそれが高い頻度で起こっているので、本当にたまったものではない。どれだけ嫌だと思っても、解決方法が思い浮かばないし見つからない。中学三年生の後半には起こるようになっていたから、もう半年くらいの付き合いだろう。人生で唯一付き合ったことのある彼氏よりも長続きしているのが、本当に嫌だ。

 つい最近には、首元に赤からピンクに近い色のあざが浮かぶようにもなっていた。今のところ、これが最も分かりやすい「求愛性少女症候群」のあかしだといえるだろう。症候群について調べてみると、この痣の画像が多くヒットするようになったからだ。一部ではこの痣を含めて、都市伝説だと言われてはいる。けれど自分の身にも表れている以上、その症候群をただの都市伝説だと断言することは出来ない。

 確かに存在する、奇妙な症状なのだ。

『本当に都市伝説だったら良かったのに』

 たまらず、裏アカで不安を吐き出した。けれどこの手の話題は、いつもと違って反応が少なくなる。都市伝説という触れ込みである以上、話してもどうにもならないと皆が分かっているからだ。

 それでも吐き出さずにはいられなかった。いくつかの反応は同じ思いを持っている人からのものだと解釈し、心を慰める。

 みんなつらいよね、つらいけどがんばっていきていこうね……。

 それはともかく、気がかりなことが一つある。

 人と触れ合うことで起きる症状は、症候群同士だと症状が軽い、または起きないと言ううわさがあるのだ。ただの噂だといってしまえばそこまでだが、エリムさんとぶつかった時は本当になにも感じなかった。不安なまま五限目を過ごしていたが、トイレにも保健室にも行くことはなかった。

 昼休みはとっさのことでそれを思い出せなかったが、もしかするとエリムさんも発症しているのかもしれない。令嬢でも発症するとなると、裏アカウントをやっているか、いないかというのはあんまり関係ないんだろうか? それとも、彼女も裏アカウントをやっていたり……? うーん、あんまり想像が出来ない。あ、でもお金持ちの女の人は露出するイメージあるし、そういう方面でやってたりするのかな? でもやっぱり、エリムさんの姿からはそれもあんまり想像出来ない。

 もしかすると、偶然起きなかっただけなんだろうか……? そうだとしたら、都合が良すぎる。謎は深まるばかりだ。

「近頃のちまたで話題になっている『求愛性少女症候群』を、皆さんはごぞんでしょうか?」

 ちょうどその時、テレビからそんな言葉が聞こえてきた。いつの間にか、ドラマが終わっていたらしい。CMをまたいでから、症候群について解説するようだ。どうせ面白おかしくネタにされているんだろう。諦めにも似た思いで分かりきっているけれど、気になるのでそのままCMが明けるまで見続けた。わざわざテレビに出てまでその症状をアピールする人間がどのようなものなのかを見届けたかったのもある。

 CMが明けると、文字とナレーションでの解説が始まった。

「求愛性少女症候群とは、主に十代、二十代の女性が発症している不思議な現象です」

 どこかのサイトからコピペでもしてきたのかと思うくらい、何度も見た記述である。

「その症状は、多種多様にわたっています。うそがつけなくなるといった比較的に軽い症状から、手足が動かなくなるといった重い症状。それに、視力や聴力が上がるといった良いことなのでは?という症状まで出ているそうです。全員に共通しているのは、ピンクのあざが体のどこかに浮かび上がっていることだとか」

 その症状の曖昧さゆえに、ニュースだというのに歯切れが悪い。

「今回は、その中間といった症状の方にお話を伺いました」

 いかにも女性らしい格好をした人が、顔を隠して映される。

「私の症状は、とある条件を踏むと手が透けるというもので……」

 声も加工されており、プライバシーには配慮されているようだ。

 いまいち女性の話に興味が持てなかったので、SNSを開いて同じ番組を見ている人はいないかと調べてみる。真っ先に表示されたタイムラインには、ニュースについて触れているつぶやきがあった。

『また求愛性少女症候群のせいで裏アカがニュースに取り上げられてるよ。裏ってついてるんだから、そうやすやすと触れるべきじゃないって分かんないのかな?』

 まったくだよ!

 っていうかそれが分からないから、出演する人がいるんだろう。ものすごく憎たらしい。

「最近この、なんとかって病気についてよくやってるよなー」

 気が付かない間に帰ってきてたらしい弟が、そんなことを言いながらテレビのチャンネルを変える。

「ちょっ、何で変えるの!」

 とつのことで驚きつつ、リモコンを奪い取ろうと立ち上がる。しかし手が届かない。弟の身長が、最近になって急激に伸びてきたせいだ。取れないと分かっていて余裕そうにニヤニヤするのが、余計にムカつく!

「興味ないから、別の番組に変えようとしてるんだよ」

「はぁ?」

「いいじゃん別に。まさかこんな都市伝説みたいなこと信じてるわけ?」

「そ、そんなんじゃないし……!」

 今は勝手にチャンネルを変えられたことに怒っているが、それを素直に口に出すのは子どもっぽい気がしてはばかられた。

「じゃあ、なんなんだよ」

「なんだっていいじゃん!」

 思わず言い合いがヒートアップしそうになったところで、険しい顔をしたお母さんが間に入ってきた。いつものパターンだ。

「はいはい、そこまで」

 もう少し幼い頃はこうでもしないと取っ組み合いのけんになっていたから、その名残だ。

「これ以上やるんなら、外に行ってやるんだね」

「やらないよ。俺もう疲れたし」

「わ、私もやらない。……ご飯出来たら呼んで」

 不服ではあったけれど、お母さんに逆らうわけにもいかないのでそのまま部屋に戻る。

 部屋のベッドに寝転がり、大きなため息をつく。

 症状が出始めてから、こんな風に弟と対立することが増えた。お互いに繊細な時期だからこそなのだろうとも思うが、以前は仲が良かっただけにやっぱり症状のせいなんだろうと思っている。

 早くなんとかしたい……!

 全てが嫌になる前に、どうにかしないといけない。

 ぶつかっても気分が悪くならなかったエリムさんは、初めて会った同級生の求愛性少女症候群らしき人だ。令嬢ということで難易度は高いけど、何とか話し合って新しい情報を得られないだろうか……。令嬢だからこその視点も得られるかもしれない。そんな淡い期待を抱きながら、どうやって話をすればいいのかを考えるのであった。


 ○


「それでさ、お母さんが言うわけなの!」

「はぁ」

「『大人のくだらないルールなんて蹴散らせ!』って!」

「大人が言うことじゃないだろ、それ」

「そうなんだよねぇ」

 いつものグループで、お昼ご飯を食べる。

 しかし今日は珍しく、あいざわさんが楽しそうに話しているのをなかさんが聞いてくれていた。どうやらうっかりしていたらしく、この時間に読むための本を忘れてしまったらしい。そのため、私がスマートフォンを見て時間を潰していた。

 あまり更新されてない表のアカウントを流し見てから、裏のアカウントに移る。そのタイムラインには、ある程度の人がいた。私たちのように休憩時間を使ってつぶやいているらしい人もいれば、今起きたばかりという人もいるようだ。裏アカウントならではのこんとんさである。はじめは戸惑ったけれど、もう慣れてしまった。

 真っ先に目に入ったのは、豪華なご飯の画像だ。これは……今話題になってる、予約が取りづらいことで有名なお店のブランチかな? お洒落しやれな盛り付けが施されていて、めちゃくちゃにえている。こういうのを見せられると、私もいつかはって行ってみたくなるなぁ。平日限定らしいから、行くとしたらサボらなきゃだけど。怒られたとしても、行ってみたい……。

 羨ましさからいいねを押してスクロールした途端、今度は極限に切り詰めたらしいお昼ご飯の画像が目に入った。これは……色々と大丈夫なんだろうか? この人、つい昨日から金欠とかでイラストの仕事をきゆうきよ募集していた気がする。何をしていて、こんなにも金欠になってしまったのだろうか。分からないけれど、心配になってしまう……。

 けれど所詮はごとなので、スクロールしてしまえば見えなくなる。見えなくなれば、それは私の世界には存在していないのと一緒だ。もしかしたら、バズを狙った限界生活ネタなのかもしれないし。というか、そうであってほしい。

 それからまたスクロールが止まり、一つの画像が目に入った。肌色が多めで、そんなつもりはないのにドキリとする。

 最近有名になった露出アカである〝りんだ🐻〟さんが、また露出した画像をアップしていたのだ。

『今日ちょっと暑いよね』

 ちょっと暑いどころには見えない脱げ方じゃないかな、これ?

 外っぽいのに、すごい露出具合だ。いつか捕まるんじゃないかと、この人も不安にさせてくる。しかし整ったプロポーションなので、ついついじっくりと見てしまう。露出はしたくないけど、体型はこんな風になりたいなとか思ったりする。地味に頑張ってたりするけど、どうしてもスラッとしないのだ。悔しい。

 こういうことが出来るのは、それだけ自分の体に自信があるということなんだろう。

 私は自信がないから、こんなことは出来ない……。

「何見てるの?」

「うわっ」

 急にあいざわさんから話しかけられ、驚いてスマートフォンを落としてしまった。幸い、下には布のリュックがあったので傷付いてはいないだろう。何回か落としたことがあるので今更ではあるのだが、画面に大きく傷がついたり、壊れたりするのは嫌だ。買い換えになったとしても、そんなお金は私にはない。即座に拾って確認すると、さっきと同じように動いてくれた。壊れてはいないようで安心する。

「あれ? その写真って……」

 安心したのもつか、画面いっぱいに広がっているのは女性の露出画像であることを思い出す。とっさに隠すも、写真について触れられている時点で見られてしまっているということだろう。へ、変態だと思われてしまったかな……?

 だとしたら、すごく困る。このグループからも追い出されてしまったら、もうどこにも受け入れてくれるところなんてないだろう。焦りから、乾いた笑いが出た。

「わ、え、違くて」

 頭が混乱する。言い訳が出ていかない。

「この学校の屋上じゃない?」

 けれど彼女は、まったく思いもよらないことを口にした。斜め上の言葉だったので、思わず首をかしげる。

「……屋上?」

「そう。よく見せてくれる?」

「うん……」

 頭が回らないので、言われるままにスマートフォンを彼女と隣り合わせで見つめる。

 確かによく見てみると、どこかの屋上のようだ。石造りのテーブルと椅子に、その間にある花壇と植えられたパンジー。そして古ぼけたフェンス。見覚えがあるといえば、あるかもしれない。けれどこの程度なら、どこか別の屋上で見られてもおかしくない情景だろう。彼女はどこで判断したんだろうか?

「ほらここ、この街のシンボルである塔が見えるでしょ」

 あいざわさんの指が示した場所を、よく見てみる。すると、本当にあの塔があった。色も形も独特なので、見間違えることはないだろう。

「ほんとだ……!」

「この塔が見える学校ってなると限られてくるから、多分この学校の屋上なんじゃないかな?」

「そうかもしれない……」

「でしょー?」

 しかし、それがすぐに分かったのはすごい。

「こんなに小さくて薄く写ってるのに、よく分かったね?」

「この塔好きだから、色んな角度から写真撮ったことがあるんだよ。多分、それでだと思うなぁ」

 この独特な塔を色々な角度で撮るほど好きとは、また変わっている。

「そっか。これ、ここの屋上なんだぁ……」

 しかし、彼女のおかげでよいことを知ることが出来た。

 つまり、〝りんだ🐻〟さんはこの学校の関係者なのだ。いや、こんなにスタイルのいい先生はいなかったはずだから、同じ高校生だと思っていいだろう。

 こんなにも近くに、普段裏アカウントで見ていた人がいただなんて。その事実だけで思わず鼓動が速くなっていくというのに、もしかしたら今、その人が屋上にいるかもしれないとまで分かったのだ。

 思い立ったら、止まれない。今日を逃したら、もう二度とない好機だ。これを逃してしまうのは惜しい。

 時計を見ると、昼休みが終わる五分前を指している。

「ルルちゃん、そろそろ戻ろうか」

「ううん、戻らない」

 あいざわさんの言葉に、私は首を横に振った。

「え?」

 不思議そうに首をかしげる相沢さんには、きっとこんなことをするだなんて発想はないんだろう。

「次の授業、サボるね」

 目を見開く相沢さんと、どうでもよさそうに私ではないほうを見つめるなかさん。この様子だと、田中さんはサボったことがあるんだろう。そんな気はしていた。

「なん、なんで……?」

「ちょっと、やらなきゃいけないことがあって」

「で、でも」

 見開かれた相沢さんの目は、授業を放棄してまでやらなければならないことって何なの?と雄弁に問いかけてきた。その様子が、ちょっとだけ面白い。

「自分でサボるって言ってんだから、評点とか気にしてないんだろ。気にしないで行こうぜ」

 田中さんの言葉に、ややあってから相沢さんはうなずいた。けれどやっぱり不安だったのだろう。相沢さんは、一度だけ振り返って心配そうにこちらを見た。その顔に作った笑顔を返す。

「大丈夫だから! また後でね」

「……気をつけてね」

 そこまで言ってからようやく、相沢さんはいなくなった。なんだか、彼女に対して悪いことをしてしまったようであまりいい気分ではない。他人がサボることまで気にかけなくていいのに。

 大体、次の授業はあの西にしむらの数学なんだから、むしろ一緒にサボろうくらい言ってもおかしくないのになぁ。

 いやいや、今はそんなくだらないことを考えてる場合じゃない。

「行かなきゃ」

 私は広げていた荷物をまとめてから、さっき相沢さんたちが向かったほうとは逆に歩き始めた。あんまり行ったことがないから不安だけど、一番端にある階段を上っていけば良かったはずだから大丈夫だろう。

 向かう先は、この学校の屋上だ。

 そう。私は〝りんだ🐻〟さんに会いに行こうとしている。

 会いたい理由は単純だ。裏アカのつぶやきに、時々だけど求愛性少女症候群をほのめかすような投稿をしているからだ。もしかしたら、彼女はそうなのかもしれない。

 いるかどうかは分からない。

 写真がアップされたのは今日だけれど、今日撮ったものとは限らない。それに今日撮っていたとしても、もうすでに授業に戻っている可能性のほうが高い。

 しかし、どうしてだか私の直感は彼女はまだそこにいるはずだと確信していた。何より、裏アカウントをやっているくらいだからサボることには抵抗がないだろう。そう考えるのは、あまりにも偏見が過ぎるかな。

 そんなことを考えているうちに、屋上にある扉の前に来ていた。立て付けが悪いせいか、少しだけ開いていた。すき間からは、人の姿は見えない。やっぱり、もういないのかもしれない。残念なことは残念だけれど、それならそれで好都合だ。思いっきりサボろう。残念さが半分、安心が半分といった心境の中、扉を開く。すると、横になっている人の姿が目に入った。

 その背中は、なめらかな曲線を描いていた。その姿を一目見ただけで、この人は〝りんだ🐻〟さんなのだと思い知らされた。一瞬だけ声をかけるのをためらうが、ここまで来たのだからと思い切って口を開く。

「あのっ」

 私の声に、その背中がピクリと動いた。

「あなたが、〝りんだ🐻〟さんですか……!」

 気だるげなため息が吐き出される。その時間がやけに長くて、嫌なドキドキが止まらない。私の鼓動は、どんどん速くなっていく。手を握りしめる力も、徐々に強くなる。やっぱり来なきゃよかったかもしれない。でも、もう後戻りは出来ない。

「寝ようと思って、タイマーまでかけてたのに」

 やがてゆっくりと、その人の顔がこちらを向いた。

「って、ナナ先輩!?」

 その顔を見て、私は心底驚いた。それと同時に、納得もした。ナナ先輩は、校内でもトップクラスにスレンダーなスタイルをしている。知らない人はいないくらいだ。それを誇って露出していたとしても、なんの違和感はない。むしろビッチと呼ばれてるくらいなんだから、もう少し過激なことに手を染めていたとしてもおかしくないように思える。いや、知らないだけで、染めていたりするのかも。ヤバイ人たちとも交流があるのかもしれない。

「うるさい」

 先輩は起き上がり、嫌そうな目でこちらをにらんでくる。かと思ったら、こちらを見てハッとしている。何かに気付いたっていう感じだけど、なんだろう。

「誰だか知らないけどさ……ただうるさいだけなら無視してたけど、そのアカウント名を出されたんならそうするわけにもいかないよねぇ」

「え?」

 そう言うと、先輩はスマートフォンを触り始めた。あれ。思っていたよりも、すっきりしているデザインのケースを付けてるんだなぁ。お洒落しやれで素敵で、何より似合っているのがすごい……。

 私のぼんやりした感想とは対照的に、先輩は鬼気迫る勢いでスクロールとタップを繰り返している。すごく怒らせてしまったらしい。どうしよう。もしかしたら、先輩の人脈を使って野蛮な人たちを呼ぶつもりなのかもしれない。その人たちに暴力を振るわれてしまうんだ……。

「あった。アンタのアカウント」

「私の、アカウント?」

 差し出されたスマートフォンの画面には、なんと私のアカウントが表示されていた!

 しかも、あろうことか裏のほうだ!

「なんっ、なんでっ? なに!?」

「あははははっ、すーごい動揺するじゃん」

 動揺するに決まってるじゃない! 今まで接点がないと思っていた先輩からSNSのアカウント、それも裏アカウントのほうを特定されているのだ。驚きよりも、怖さのほうが上回る。そんなにも分かりやすい個人情報をさらしているはずはないんだけどな……?

「なんでって、こんなの簡単だよ」

 先輩は楽しそうに笑いながら、私のアカウント画面を開いたままスクロールする。ここ数日の間につぶやいた言葉が、一瞬にして流れていく。その内の一つを、ナナ先輩の細い指が示した。

「この呟きからは、最寄り駅が分かる。そうすると、学校も絞られてくるでしょ?」

 続いてスクロール。また別の呟きを示す。

「そしてこれ。お店を写したつもりなんだろうけど、微妙に頭のほうがガラスに反射して写ってる。ここで付けてるヘアピンと今付けてるやつ、まるっきり一緒でしょ? だから、よく見たら分かった」

「よ、よくこの画像覚えてましたね……」

「たまたまだよ、たまたま」

 最後にというように、私のフォロー欄にいる自分のアカウントを強く示した。

「ま、このアタシを知らずにフォローしてるっていうのが決定的なんだけどね。アタシって案外フォロワーの呟き見てるから、アンタのアカウント見てすぐにこの学校のヒトだろうなって分かったよ」

「た、確かにそうですね……」

 結構な頻度でコメントもくれていたから、本当に呟きも見られているのだろう。思っているよりも、マメな人なのかもしれない。

「あと、求愛性少女症候群を患っているだろうこともね」

 その言葉に、震えが走った。つぶやきを見ているってことだし、私が時々呟く症候群に対しての愚痴を見ていてもなにも不思議じゃない。けれどやっぱり見られていて、その症候群だと知られているのは、弱みを握られているようで身構えてしまう。

「アタシもそうだよ」

 言いながら、目元に手を当てる先輩。その目には、ハッキリとしたハートマークが浮かびあがっている。

 それ自体はうわさで知っていたし、実際にも何度か見たことはあるから驚きはしない。

「……知ってます。皆言ってるんで」

「だよねー。高校生の情報共有スピードはマジで異常」

「いや、先輩も高校生じゃないですか」

「んー、同級生からハブられてるから達観してるのかも」

「達観って」

 一人になると、そんな風になるんだろうか。私も一人になったら、達観してしまうんだろうか? だとしたら、余計に一人になるのは怖いなぁ……。

「まぁ、そんなことはいいの。本題は、アタシと一緒にこの症候群を解決しない?ってこと」

「かい……けつ……?」

 思ってもみなかった言葉に、思わず首をかしげる。先輩はそうと、短くうなずいた。

「出来るんですか?」

「それは分からないけど、何もしないよりはいいでしょ?」

「それはそうかもしれないですけど……」

「だってこの症状、めちゃくちゃうっとうしいじゃん。なくなったらいいのになーって思わないの?」

「……思いますけど」

 何度も思ってきたことだけれど、いざ人から提案されるとなると驚きを隠せない。変えたいと思っていても、いざ行動するとなると難しい。だからというわけでもないが、私は行動を起こせなかったのだ。

 大体、まるで最初からこうなるのを分かっていたかのような提案だ。私としても都合がいいだけに、ちょっと怖い。

「だったらいいじゃん。アタシと一緒に協力……っていうのはなんかキモいな。うーん……あ、共犯ってことにしよう! お互いに利だけを求める関係ってことで!」

 不安に思った私は、名称で無意味に悩んだあげくに勝手に結論づけた先輩に口を挟む。

「もしかして先輩、私が来るのを狙ってたんですか?」

「そんなまさか。たまたま来た子が、たまたま裏アカまで知っている子で、たまたま症候群を発症している子だったから、なんかに使えないかなって思って」

「すごく利己的ですね!?」

「そりゃだって、寝ようとしてたのに起こされたし」

「それは、ごめんなさい……?」

「無理に謝らなくていいよー。っていうか、尊敬のこもってない敬語ってキモいから外して。名前も別に呼び捨てでいいし」

「えっ」

「無理にそうする必要はないけど、そうしたほうがお互い楽じゃない?」

「……そうかな?」

「うん」

 これまで運動部だったこともあり、先輩に対してタメ口を使ったことなどない。そもそも、最近は同級生と話す時だってほとんど敬語だ。本当に外していいのかと、ためらってしまう。

 いや、でもなぁ。本人がこう言ってるわけだし? 部活動という限られたコミュニティでもないし、この先輩の機嫌を損ねたからってなくなる人間関係もない。ここは思い切ってやってみよう。

「じゃ、じゃあ、遠慮なくそうするよ」

「うん。気にせずどーぞ」

「今更やめろって言ったって、やめたりなんかしないからね?」

「別にいいよ。っていうか、そっちのほうが違和感がなくていい」

 そんなに尊敬の念がこもってなかったかな……。まぁ、ビッチとうわさの先輩を敬えって言われても難しいだろう。

「それに、こんな症候群になる子なんかと仲良しこよししたくないでしょ。したい?」

 すぐに答えるのはためらわれたから、ややあって首を横に振る。

「でしょ?」

「でも、具体的には何をするの?」

 ナナは目を見開いて驚いた後に、ニコッと笑いかけてきた。

「ヤバイ、そこまで考えてなかったー」

 笑顔が不意打ちで可愛かわいかっただけに、その発言にはイラッとする。

「もう、しっかりしてよ」

「って言われてもさ、とつにはアンタだって思い浮かばないでしょ」

 そう言われたのが悔しくて、何とか頭を回転させて案を考える。やっぱり思い浮かばないでしょと主張する目の前の顔を無視して、考えられるだけ考える。ややあってから、それらしいことを思いついたのでニヤリと笑い返した。

「まずは……お互いの情報の共有からじゃない?」

「それは一理あるかも。じゃあ、提案者からどうぞ?」

「そ、そこは提案を受けた人からするべきじゃないかな。思い浮かばなかったわけだし」

 先に自分から情報を明かすのは、若干不利な気がする。それを向こうも感じているのか、笑顔でこちらから話すように促してくる。ここで負けるわけにはいかないと突っぱねるも、段々と反論する言葉もなくなってしまった。

 何も言えない私を、ニヤニヤと見つめてくるナナが憎らしい。

 さっきから思っていたけれど、ナナはすごく口がい。このままだと、一方的に利益を持って行かれそうで怖い。気をつけないと。

 とはいえ、この場ではもう私は負けてしまったようなものだ。仕方なく、私から話を始める。

「……私の症状は、人に触れると体調不良が起きるって感じのやつ」

「うわぁ、それはカワイソウ」

「あのさぁ、全然そんなこと思ってないでしょ」

 ここまで感情のこもってない可哀かわいそうって言葉、初めて聞いたかもしれない。

「いやー、本当に可哀想だなって思ってるよ。いちいちヒトに触れるたびに体調不良になるなんて、日常生活大変だろうなって分かるもん」

「それならいいけどさ」

「でも体調不良っていうのが気になるかも。ただ触れた箇所が痛いってワケじゃないんでしょ?」

「そうなんだよ。触れる箇所が異様にかゆくなったりもするし、全然関係ない頭とかおなかとか痛くなったりする」

「それ、何か大きい病気とかじゃなくって?」

「そうかもしれないって思って、両親も心配するしで、精密検査を受けてみたんだよ。でも、何にもなかったから求愛性少女症候群だろうってことになってる。あざもあるし」

「どこにあるの?」

「服で隠れてるところ」

「そうやって隠れてるとむしろ淫紋っぽいと思わない?」

「うるさいなぁ! 首元にちゃんとあるよ! 見せないけど!」

「首元かぁ。ギリギリ見えないってカンジだね」

「そう。だから隠すのに苦労してる……」

 あ。話しすぎたかもしれない。そう思っても言った言葉を取り戻せるわけもない。

「はい次、ナナの番」

 仕切り直して、ナナからもきちんと情報を引き出そうと心中で気合いを入れる。

「アタシの症状は、目にハートマークが浮かぶってやつ。あざも、多分これなんだと思う。もしかしたら他にも症状を発症してるのかもしれないけど、今のところは不便してないしこれだけ」

「ふーん……」

 だとしたら、ずいぶんと軽い症状である。確かに淫紋っぽくはあるけれど、それはこの人の態度が態度だからっていうのもなくはないだろう。代わりたいくらいだ。

「何よ」

「……それ、もてあそばれた『パパ』たちの怨念だって聞いたけど?」

 興味本位で、うわさの一種である説を言ってみる。今まで散々手の平で転がされたから、そのお返しだ!

 するとどうだろう。ナナの顔から、一瞬にして表情がなくなった。てっきり笑い飛ばすものだと思っていたから、意外な反応に驚く。そのまま何か言いたげにしていたけれど、何も言わないままいつの間にか表情は元に戻っていた。

「……どこ情報? 尾ひれにもほどがあるでしょ」

「どこかは忘れたけど、聞いたことあったから」

 尾ひれって何のことだろう。

「くだらないこと真に受けるとかないわ」

「いや、そんな噂流されるほうがない」

「好きで流されてるワケじゃないし」

「どうだか!」

 その時、五限目が終わるチャイムが鳴った。ナナからは動こうという意思が感じられなかったけど、私は次の授業には流石さすがに出ないといけない。もうちょっと話を聞きたかったのに!

 そんな私の表情を読み取ったのか、ナナは薄く笑った。

「昼休みとかその後の時間ならアタシは大体ここにいるから、なんかあったらおいでよ」

「そうなんだ! じゃあまた来るね」

 そんな風に返したけれど何だか仲良しこよしっぽいと思った私は、走りながら首を横に振って否定する。

「絶対! 来るわけじゃないけどね!」

 そうだ。そんなに授業をサボるわけにはいかない。評点に傷がつくし、そのせいで授業内容が分からなくなってテストで撃沈するのも避けたい!

「ま、アタシもいない時くらいあるけどね」

 その言葉まで、私の耳には入っていなかったのであった。


 ○


 ナナと出会ってから数日後。裏アカウントで彼女を見かけるたびに、あの日を思い返す。本当にこんな露出しているアカウントの人が存在していたんだ、その人は同じ学校の人で、つい最近知り合ったんだ。そう思うたびに、何だか不思議な気持ちになる。

 彼女はなにかあったらおいでと言っていたけれど、特に何も起きはしない。だってそうだろう。ほとんど毎日学校なのだ。たまの休みは、スマホを見て寝て課題をやったら終わっている。その中で新しい症候群の情報を得るほうが難しい。

 一応症候群かもしれないと私が勝手に思っているあいざわさんたちにも話を持ちかけてみたが、彼女たちは好んで話そうとはしなかった。多分、そうだったとしても積極的に話すことじゃないんだろう。誰かが言っていたけれど『求愛性少女症候群というくらいだから、少女ではなくなった時に治るのを信じてじっとしておく』人がほとんどだろうから。

 そんな新しい話もない中で会いに行くのはためらわれたが、その日の授業はあんまりにもハードだった。そこから逃げ出すように、屋上へ向かう。どうせもう放課後になるし、それまでサボっちゃおう。

 屋上の扉を開くと、ナナは何かの雑誌を見ていた。

「あ、いたいた」

「また来たの?」

 こちらに目線を向けないまま、彼女はそんなことを言う。

「なんかあったらおいでよって言ったのは、どこの誰だっけ?」

「はいはい。素直なのは、よーく分かったから」

 皮肉っぽく言われたその言葉に反論しようとしたけど、このまま言い合いになって疲れるのも嫌だなと思い直して彼女の隣に座った。座った瞬間は嫌な顔をされたけど、何も言われはしなかったので別にいいんだろう。

「ナナは何やってるの?」

「数学の参考書読んでる」

「参考書!?」

 驚きのあまりに雑誌をのぞき込んで見ると、確かに数学の文字があった。

うそだ!?」

 確認のためにもう一度見てみても、堂々と数学の文字が書かれている。

「嘘だ!!」

 ひょっとしてそういういたずらをするためのカバーじゃないのかと彼女が開いているページを見てみると、ページ全体に数字と図が広がっていて一瞬で頭が痛くなってきた。おかしいな、触れてないのに。

うそでしょ……?」

「失礼ね。これでもテストの時には、名前が貼り出されるんだけど?」

「貼り出される……?」

「テストの時、各学年の成績上位者は玄関の掲示板に名前が貼り出されるようになってるでしょ? 知らないの?」

「うーん……?」

 そんな制度もあったような……? いつもつるんでいる人たちの中ではなかさんが一番頭がいいけど、彼女は順位なんて興味なさげだからよく分からない。もちろん、自分は載っているかもなんてじんも思ったことはないから見に行ったことすらない。

「世も末だ……」

「それ意味分かって使ってんの? だとしたら、そっくりそのまま返すけど」

「返されても困るよ」

「アタシも困るんだけど……?」

 ナナはため息をついて、雑誌を隣に置いていたリュックの中にしまった。

「途端に勉強する気力がなくなったわ……」

「じゃあ、ちょっとお話しようよ」

「話ってなに? 新しい情報でも手に入れたの?」

「それはないけど」

「じゃあ話すことなんてないじゃん」

「いや、だって暇だし……」

「スマホ持ってきてるんでしょ? それでいくらでも時間潰せるじゃん?」

 ナナは、自分も言った通りにスマートフォンを取り出して時間を潰そうとし始めた。

「それは……そうだけど……」

 どうしてだか納得できない自分がいて、彼女のほうと自分の手元を交互に見る。別に仲良しこよしになりたいわけじゃない。それでも、まったく話さないのは違う気がしてならない。どうしてだかは、自分でも分からないけど……。

「ね?」

「あーもう!」

 しびれを切らしたナナが、スマートフォンを乱雑にリュックの中に突っ込む。

「分かったわよ。じゃあ普通の友達には出来ないような内容のことを話すからね! 誰かに対する愚痴とか!」

「待ってました!」

 愚痴はバレー部だった頃にも使っていた、特に盛り上がる話題だ。

 下手をすると本人に告げ口をされてしまったりするが、そうだとしても盛り上がることには間違いない。

「愚痴で待ってましたっていうのは、流石さすがにどうかと思うけど」

「それはちょっと、ノリで……。でも、露出してるアカウントでの悩みとかは気になるかもしれない」

「あ、ソッチに関してはそこまでないかなー。生身で接する学校のほうが、百倍めんどくさいよ」

「そういうもんなの?」

「そういうもんだよ。いや、めんどくさいことには変わりないけどね? ほら、生身だと視線とかもあるからさ」

「視線?」

「そう。体育のなかむらとかすごい視線でアタシのこと見てくるし!」

「そうなんだ」

「アイツの場合は、バストさえデカければ誰でも見てるけどね。三組のとうとかのこともよく見てるし」

 全然視線を感じたことがない私は……。いやでも、女子は胸だけじゃない! うん!

「体育なら、私はうら先生のほうが苦手かな。体育出来ない人に対して当たりが強いし」

「あー分かるわ。体育出来る人間から見ると余計にひどく感じるっていうかさ。ちゃんと教えりゃいいのに」

「だよねー。あ、他にもさ……」


 ○


「そろそろ帰ろうよ。空模様も怪しくなってきたし」

 それもそのはず。夜から雨が降ると、朝に見た情報番組でアナウンサーが言っていた。私としてはこの時間なら夕方のつもりだけど、暗くなってきているし天気予報的には夜かもしれない。傘は持ってきたけど、雨に降られながら帰るのは嫌だ。

「そうしよっかー。降られたら最悪だしね」

「うんうん」

 どうやら、同じ気持ちらしい。まだ話そうと言われたら流されてそのまま話してしまいそうなので、少しホッとした。

 お互いにリュックを持って立ち上がる。僅差で私のほうが早く動いていたから、先に扉のほうへ進む。

「結構話したよね」

「空の色変わってるしね。っていうか、久しぶりに対面で人と愚痴った気がして結構名残惜しかったり」

 ナナの口から名残惜しいだなんて言葉が出てくるとは思わず、驚きの声が出た。

「そんなに?」

「そんなに。対面で話せるような人とは仲が良すぎて、あんまり愚痴とか言い合いたくないし」

「ふーん」

 確かに、かなり仲が良い人とはあまり愚痴りたくない気がする。程々なくらいが一番話しやすいのかもしれない。

「え、高校から一人なの?」

「どうだと思う?」

「うわ、面倒くさいやつだ」

 ナナの話を聞き流しつつ、ドアノブに手をかける。

 ガチャッ、ガチャッ。

「え、開かない……?」

 何度も回してみるけれど、どうしてだか開かない。

「ちょっと、冗談よしてよ。貸して」

 ナナに押しのけられ、ドアノブから手を放す。けれど彼女が回しても、同じようにガチャガチャと音が鳴るばかりで開かない。

「マジじゃん……。ホントサイアク!」

 彼女が吐き捨てるように言ってしまう気持ちも分かる。よりにもよって、扉が一つしかない屋上に締め出されてしまったのだ。最悪以外のなんでもない。

「この学校、嫌なくらい扉の立て付けが悪いんだよね。前もこういうことあった」

「その時はどうやって解決したの?」

「……まぁ、ノリで」

「ノリで解決するようなことなの……?」

「ノリで解決するようなことだったの!」

 ナナにしては、やけに必死でそう言ってくる。ついでに彼女のほおが若干赤くなったような気がするが、気のせいだろうか。

 風が少し強いから、それで冷たくなっているのかも? 流石さすがに季節が季節だから、防寒出来るものがない。気付いてしまった以上、少し良心がとがめる。けれど彼女がそんなに気にしてなさそうなのをいいことに、無視することにした。あんまりにも寒かったら、何か言ってくるだろう。どうすることも出来ないけど。

「今回は、流石さすがにノリじゃ解決出来ないかも」

「見回りの人が来るまで待つしかないのかな」

「うわ……それいつよ?」

「分かんないけど……先生たちが帰る頃とか?」

 ナナはすごく嫌そうな顔をした。思ってたよりも、感情が表情に出てくる人みたいだ。

「マジでサイアク。あと数時間は待たないといけないってことじゃん!」

「おなかいちゃうよね」

「それもあるけど、充電が切れそうなんだよね」

「あ、モバイルバッテリーあるよ」

「え! マジ!? 貸して貸して! 後でジュースとかおごるし」

「ラッキー♪」

 念のために持ってきているモバイルバッテリーを貸すだけでジュースをおごられるなんて、不幸中の幸いってやつかな? うれしい。

「あれ? ……えー?」

 そう思いながらリュックの中を探すも、入れているはずのモバイルバッテリーが出てこない。そんなに小さいものではないから、入っていたとしたらすぐに見つかるはずなのに。何度見ても見つからないってことは、置いてきたのかな。

「ないみたい……」

「ないわ! 期待させといてそれはないわ!」

「うるさいなぁ! バッテリー切らすほうが悪いんじゃんか!」

「それを否定出来ないから、余計にサイアクなんだよ!」

 そのままナナは、気まずそうに目線をらした。私もあえて合わせようとはせず、そのまま自分のスマートフォンに表示されている裏アカウントのタイムラインを見つめる。けれどどうしようと焦っている頭には、何も入ってこない。

「……ん?」

 その時、ナナが不思議そうに首をかしげた。なんだろうと、彼女の顔を見る。

「なんか、聞こえない?」

「え? 怖い話ならやめてよ?」

「怖い話苦手なんだ……。っていうのは一旦おいといて。ガチめにこの扉の向こうから、誰かの声が聞こえる」

「本当?」

「うん。しかも、泣き声っぽい」

「聞けば聞くほど怖い話なんだけど……」

「いや、マジマジ」

 背筋が凍る。状況が状況なだけに、冗談だとしても笑えない。

「そ……そんな適当言ってくるんだったら、共犯関係やめる! 見損なったよ!」

「は? 勝手に見損なわれても困るんだけど!? っていうか聞こえないの!? 耳悪いんじゃない?」

「これでも聴力は良いほうだよ!」

「じゃあ耳掃除してないんじゃん!?」

「昨日したばかりなんだけど!?」


「……誰かいるんですか?」


 その声は、私にもハッキリと聞こえた。けれどそれが今にも消え入りそうないかにも幽霊らしい声だったから、思わず悲鳴がこぼれる。そんな私を見つめるナナは、きょとんとした顔をした。その後にはあろうことか、思いっきり声をあげて笑い始めた!

「ちょっと! 笑わなくたっていいじゃんか!」

「いやだって、反応が幽霊に対するそれじゃん。笑わずにはいられないでしょ」

「誰だか分かりませんが……幽霊を信じてるんですか? ずいぶんと幼いんですね」

 ナナだけじゃなく、謎の声の人にもバカにされた。何にも言い返せないのが悔しい。

「あー、しい……」

「えっと……そんなに笑わなくてもいい気はしますけどね」

「いや、この子の顔見たらアンタも絶対笑ってたから」

「はぁ……」

「そこまで言わなくたっていいじゃん!」

 声が聞こえることが本当だったとはいえあまりにも馬鹿にされるので、やっぱり共犯関係を無かったことにすべきなんじゃないかとすら思えてきた。この人といると、絶対疲れる! 既にめちゃくちゃ疲れている!

「ここまで話しててなんだけど、アンタってもしかして扉の前にいる?」

「いますけど」

「そしたら、そっちから開けてくれない? こっちからだと開かなくて困ってるんだよねー」

「そのくらいなら……」

 声の人が静かになったかと思えば、その数秒後にガチャリと音がする。

「開いた!」

 帰れる! うれしい!

 そんな感情が赴くまま、自分の体調が悪くなってもいいと思い相手の手を握ろうとした。けれど、扉の前にいた女子生徒は暗い顔をして立っている。っていうか、この人もしかしてエリムさんじゃ……!?

「ありがとー。ってか、何でこんなところで泣いてるワケ?」

 そうなのだ。彼女は、明らかに泣いていた。ナナに指摘されて隠そうと袖で顔をこすっているけれど、それっぽっちじゃ隠せないくらいの泣きようだ。

「……貴方あなたたちには関係ないじゃないですか」

 隠せないと分かったのか。彼女はそっぽを向く。

「そうはいかないなー? だってヤバイ状況だったのを助けてもらったんだもん、ねぇ?」

「え!?」

 急にナナから同意を求められて、戸惑いを隠せない。けれど彼女の目線が私に、同意するよう圧力をかけてくる。いつも以上の迫力があって、うなずかないわけにはいかない。

「え、う、うん! このまま帰れないのかもと思ってたし!」

 とつに出てきたのがタメ口で少しだけ焦るが、特にどうということもなかった。あまり気にしなくてもいいんだろうか?

「そうそう。そんなわけでさ」

 ナナはするりと泣いているエリムさんと間合いを詰めて、その肩に手を置く。

「エリムさんだよね? お嬢様だって、もっぱらうわさの」

「そ、そうですけど……」

「良ければお礼をさせてほしいんだけど、どう?」

 横から見えているところだけでも、先程の目線での圧力よりもずっと有無の言わせなさを感じた。笑顔でそれをやっているのだから、恐ろしいというほかない……。

「お、お礼って、何のつもりですか?」

「とりあえずおごるから、マキワ行こうよ。あそこなら充電出来るし」

「まきわ……?」

 まるで初めて聞いたとでも言いたげに名前を繰り返す彼女に、私とナナは目をパチクリさせる。

「あ、やっぱり知らない?」

「いや、そういうわけでは」

 ぜんとした態度を見せてくるが、この様子だと知らないと言われても違和感はない。お嬢様だから、行ったことはなくても無理はないだろう。ファストフードなんて、嫌悪されていたとしてもおかしくない。

「確認なんですけど、『まきわ』ってあの、駅前にあるファストフード店のことですか?」

「うん、合ってる。けどもしかして、お嬢様は行けなかったりする?」

「う……」

 その言葉に、エリムさんは明らかに動揺した。口をパクパクさせている姿は、なんだかちょっと人間味を感じた。令嬢ということもあって普通とはちょっと違う人だと思っていた私は、なんだか安心する。

「ほ、本来ならば行けないのですけど……お礼という形であれば、仕方ないですね。庶民に出せる金額というものも、限度がありますしね」

 言葉ではかなり失礼なことを言っているが、顔がニヤけてしまっている。……どちらかと言えば、喜んでる? 令嬢なのに? どうしてだろう。

「そ、じゃあ決まりだね。とりあえず顔洗ってきなよ、玄関で待ってるから」

「……やっぱり洗ったほうが、いいですかね?」

流石さすがにそのまま外に出たら、周囲の目ヤバイと思うよ?」

 ナナの言葉に静かにうなずくと、エリムさんはかばんを手に階段を降りて行った。

 気になるのは、ナナの異様な優しさだ。確かに窮地を救ってもらったとはいえ、エリムさんは扉を開けただけだ。ここまで優しくするのは、一体何でなんだろう。

「でも、なんでいきなりおごるって……」

 分からないから、素直に聞いてみる。

「あの子も求愛性少女症候群かもしれないって、ずっと思ってたんだよねー。あの様子だとビンゴって感じじゃない?」

 その言葉で、ナナは私に隠している情報があるんだろうかと勘ぐった。けれどく言葉に出来そうになかったので、それについては黙っておく。

「……よく分からないけど、そうだったらいいね」

「うんうん。それに令嬢を味方につけられたら、結構いい感じじゃん?」

「あ、たいを釣るってやつ?」

 彼女は表情を固めた後、だか私を見て大きなため息を長々と吐き出した。

「なんで尾ひれは分かってなさそうだったのに、海老で鯛を釣るってのは分かるワケ?」

「その尾ひれ……? はよく分からないけど、海老のほうはお母さんが言ってたから」

「あー、それなら納得」

「あ、一応言っとくけどアンタにはおごらないから」

「し、知ってたけど改めて言われるとちょっと嫌だ!」


 ○


 ファストフード店についてからのエリムさんは、とにかく挙動不審だった。気を抜けば全てに対して疑問を向けて一般の人にすら解説を求めそうになるのを、ナナと一緒に必死で押さえ込んだ。誘った張本人であるナナもまさかここまでとは思っていなかったようで、嫌な顔を見せることが何回かあった。たしかに、今時は子どもでもここまではしゃがない気がする……。

 おかげで、どうして泣いてたのかや求愛性少女症候群についてを聞けないまま席に向かうこととなった。

 そして、お待ちかねののハンバーガーを食べる時。

「これが……ハンバーガー……」

「本当に初めて見る人のリアクションだ……」

 私とナナは席に着いた瞬間からポテトを食べ始めたが、彼女はテーブルに置いてからも興味深そうにトレーに載ったそれらを見つめる。彼女が頼んだのは、今の目玉商品である野菜多めのハンバーガーのセットだ。飲み物を選ぶのにも時間がかかっていた。

「初めてですよ」

「やっぱり」

「こういうものがあると聞いてメイに頼んだこともあったのですが、ついぞ買ってきてはくれませんでしたし」

『めい』って、誰の名前なんだろう。それとも、何か別のことなのかな?

「でさー、なんであんなとこで泣いてたの?」

「いけない、私ったらまたメイのことを……」

「あー、はいはい。自分の世界に入る系ね?」

 いざ会話をしてみると、ナナが症候群っぽいと思ったのもなんとなく分かる。けど、普段からこうなんだろうか? 泣くほど悲しい出来事があったからこうなってるのかもしれないし……。

「今は食事に集中しなくては。それではいただきます」

 丁寧に包み紙をがし、小さな口を思いっきり開けてかぶりつく。その姿は、普通の女子高生と何一つ変わらない。

「……なるほど。こういった味をしているのですね」

 けれど、反応が違った。神妙な顔をして、かじったハンバーガーを一度トレーの上に置き直した。そして、口元を持ってきていたウェットティッシュで拭う。その行動は、とてもお嬢様らしくて思わず見とれてしまう。

「メイが買ってこなかった理由が、分かるような気がします」

 ということはつまり、あまりお気に召さなかったということなんだろうか。こういうのって気に入ることのほうが多いと思っていたけど、現実はそう甘くないんだなぁ……。なんてことを思いながらも自分が食べるのに集中しようとしたのに、エリムさんはまたハンバーガーを食べ始める。あれ? もしかすると、出されたものはちゃんと食べる主義なのかな? だとしたら、すごく律儀だな。そして大変だなぁ……私なら残しちゃうかも。

「こんなに手軽でしいもの、飽きない限りは食べ続けてしまいます」

 よく見てみると、彼女の顔は笑顔だった。元々の顔がれいなだけあって、笑顔だとより一層可愛かわいく見える。

「気に入ってくれたみたいで何より。でさ、何で泣いてたのって話なんだけどさ」

 ナナの疑問を無視して、エリムさんは夢中で食べ進める。あまりにもハンバーガーに夢中だったせいで、ポテトはそれ単品で食べていた。いや、美味しいけど。セットだし交互に食べたらいいのに、とは言えない。ただ見つめることしか出来ない。

 仕上げにジュースを飲み終わると、彼女は勢いよく立ち上がった。

「この度は本当にありがとうございました。このご恩は決して忘れません」

 一人で完結してしまったエリムさんを見るナナの目は、本当に怖い。

 そのせいで、隣の席に座っている子どもが泣き始めたくらいだ。

「いやあの、出来れば座って話をさ……」

「それでは、失礼させていただきます」

 宣言通り、彼女はさつそうと帰って行ってしまった。私たち二人は、それをぼうぜんと見つめることしか出来なかった。

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