◆帰宅不可少女の誕生前



「どうしてあなたは、いつもいつもそうなの……!」

 私が今よりも小さくて妹がいなかった頃には、もう少し両親も私に優しかったはずなのになぁ。

 いつから、こんなにも私にだけ厳しくなってしまったんだろう? 全然分からない。

「まったく……妹のエレナであれば、こんなことはないのに。いいところは全部あの子に持って行かれたのよね? きっとそうよ、そうに違いないわ」

 母のヒステリックな悲鳴を聞きながら、そんなことを考えます。

 だけど人の記憶は曖昧だから、両親が優しかった過去はなくって『そうであって欲しい』という私の願いでしかないのかもしれません。

 きっと私みたいな失敗作が優しい両親であってほしいと思うのは、不相応なのでしょう。

 しかし私には代わりに、私だけの英雄がいます。

 彼女──メイは私をかばうように前に立ち、母と向き合いました。

「申し訳ありません、奥様。お嬢様には、強く言い聞かせておきますので」

 きれいなお辞儀だと、いつも思います。メイドとして働き始めてからまだほんの少ししかっていないにもかかわらず、長い間この家に仕えている人間よりもずっと美しく頭を下げるのです。流石さすがは、いつも私を守ってくれる英雄なだけあります!

 それが私以外に向けられていることがとても悔しいけれど、私のために下げられていることでのうれしさのほうが少し勝るので何も言えません。心から私のために頭を下げてくれる人は、家族にもいませんからね。

「もちろんそうしてちょうだい。あなたの言うことだったら、この子も聞くでしょうし」

「……恐縮でございます」

 さらに深く、頭を下げるメイ。その様子を見届けてから私に恨みのこもった目線を向けた後、母は部屋に戻っていきました。

 母の足音が遠ざかってから私が『もう頭を上げてください』と言うのに、それでもメイは頭を下げ続けています。こういうのを、真面目まじめというのでしょう。尊敬はするけれど、今の私にとってはちっとも嬉しくありません。そんなにも母は恐ろしい存在なのでしょうか? 父ならばともかく、母自体にはなんの力もないというのに。

 やがて彼女は頭を上げると、私を連れて部屋に向かって歩き出しました。

 彼女のまっすぐに伸ばされた背中を見ながら、いつもの廊下を歩きます。

 部屋についた途端、私は椅子に座らされました。メイにもまた、強く説教をされるのです。けれど、彼女からのそれは嫌ではありません。彼女は家のことではなく、私のことをきちんと考えてくれているのがよく分かるからです。

「お嬢様」

「部屋にいる時は『エリム』って呼んでと言ったじゃないですか」

 私の言葉に一瞬驚いて見せたけれど、すぐにさっきよりも厳しい顔になってしまいました。冗談半分でからかっただけなのに。

「お嬢様は、ご自身がなされたことの重大さをご理解していらっしゃいますか?」

「私が手を抜いたわけでないことは、一番近くにいたメイなら分かっているのではありませんか?」

「……成績の話ではなく、お母様に対する態度が問題なのです。あれでは普段はお優しい奥様も、ご立腹になられるのも当然ではないですか」

「普段から優しいって、本当に思っているのですか?」

「お嬢様」

 彼女の視線が、まっすぐとこちらに向けられます。こちらへの怒りを含んだ、鋭い視線です。それにおびえるのではなく喜んでしまう私は、やっぱり失敗作なのでしょう。

「どうしてそんなにも、ご自身に敵を作ろうとするのです」

「メイ以外のことが、どうでもいいからですよ」

「またいつものご冗談を」

「本気ですよ。メイなら私が冗談を言っていないことくらいわかるでしょう?」

「……本当にそう思っているのでしたら、せめて私の言うことくらいは素直に聞いてください」

「きちんと聞くって言ったら、私とキスしてくれますか?」

「え?」

「キス、してください」

 私は、自らの唇を指さしました。

 まっすぐとこちらを見ていたメイが、ゆっくりと右下に目線をらしていきます。空調が効いているはずなのに、彼女の顔は赤くなります。まるでりんごみたいで、本当にかわいい!

 その様子を見て、私はもっと笑顔になります。さっきは私を母の一方的な怒りから守っていた英雄が、今は私の手の中で転がるようにしているのです。楽しいに決まっています。

「ね、どうなのです?」

 彼女の顔が、どうするべきか悩んでいます。口では必要なことしか言わないけれど、彼女の場合は表情が豊かなのです。そして困っている時こそ、ころころと表情が回っています。困らせるのが楽しくなってしまうのも、仕方がありません。

 やがて決心したように、私と目を合わせました。

「……こんなことをするのは、今回だけですよ」

「分かっています。今度からは、いつものようにただの愛ゆえのキスをしますね」

「そうじゃなくてですね……っ」

 このままだと本格的で長々とした説教が始まってしまいそうだと悟った私は、彼女に顔を近づけるのでした。


 ○


 数年がち、彼女はその功績を認められてメイド長となりました。

 家の中で最も扱いづらい私に言うことを聞かせられる唯一の人材として、辞めることのないように責任を課しているのでしょう。私としても彼女が離れていくだなんてことは考えたくもないので、その決定には大いに感謝しています。物心ついてから初めての、両親に対する感謝かもしれません。

 私はというと、一般的な人間とは比べものにならないほど優秀であり続けてきました。けれど、妹と比べると失敗作であり続けていました。

 両親からは週のうちに何度も失敗作として怒りをぶつけられますし、その度に妹からは純真な哀れみの目を向けられます。

 これから先も、ずっとそうなのでしょう。

 けれども、それももうどうでもいいことです。

 私は、とある決意を胸にしました。

 それはとても一人では出来ないこと。二人で成し遂げることを前提とした、大きな計画です。

「すごく大事なお話があります」

 そう言って呼び寄せたメイは、いつもと変わらずりんとしていました。

「いかがされましたか? エリムお嬢様」

 彼女はここ数年で、たたずまいがより一層洗練されたような気がします。それはメイド長になったからというよりも、その佇まいだからこそメイド長になったのだと思わせられるほどです。彼女はなるべくして、おさとなったのでしょう。私としても、誇らしいことこの上ありません。

 そんな彼女は、これから私の言うことに一体どんな反応をするのでしょう。喜んでくれるでしょうか、それとも、あきれられてしまうでしょうか。最悪の場合には、軽蔑されてしまうかもしれません。

 それでも喜んでくれることを期待しながら、口を開きます。

「私が中学を卒業したら、一緒にこの家を出ましょう」

 彼女の顔に、困惑の色が浮かびます。喜びも軽蔑もなく、ただただどうして私がそんなことを言うのかが分からないと言いたげな表情です。

 ですから、私は頭の中で何度も復唱した説明を口にします。

「私は、この家の人間にとっては失敗作でしかありません。ここに居続けることは私にとっての負担になりますし、家にとっての迷惑にもなります。ですので、卒業を機に出ていくことにしました」

 一呼吸。

 そして、出来るだけ不安を感じさせないように微笑ほほえみます。

「大丈夫、お金なら、ある程度は貯蓄しています。この家の目の届かない地域も、必死になって探しました」

 説明をしても、彼女の顔には困惑が浮かんでいます。

「ですから、安心してください」

 メイを安心させるためというよりも、懇願するためにそう付け加えました。このままだと、彼女はついてきてはくれないと思ったからです。それではこの計画は成し遂げられませんし、私がこの計画を立てた意味もなくなります。

「……せっかく、ご希望の高校に無事に合格したではありませんか。家を出ていくのは、高校を卒業してからでも遅くはないと思いますよ?」

 彼女は極めて冷静を装いながら、そう口にしました。それがまごうことなき本心なのでしょう。軽蔑されないだけ良かったと、頭の片隅で安心しました。

「今でなくてはならない理由は、たしかにありません。けれど、もうこれ以上は耐えられない理由ならいくつも浮かびます。妹と比べられるのは、もううんざりなのです。それは、メイも知ってのことでしょう?」

 私の問いかけに、彼女は控えめにうなずいてくれました。けれど顔は下を向いており、どうすれば私を引き留められるのかを考えているように見えます。こんなことを私が考えるだなんて、思ってもみなかったのかもしれません。

 けれど前から言葉を考えていた私は、さらに続けます。

「メイを連れて行く理由も、具体的にはありません。私にはこの家のメイド長以上の地位をすぐに用意することはかないませんから、何一つあなたに利点はないでしょう」

 それを承知で、お願いするのです。

「けれど、あなたを恋い慕う人間として、あなたが必要でならないのです。ただそれだけの理由で、私はあなたと一緒にこの家を出て行きたいのです」

「……身に余る光栄です」

「そうでしょう?」

 私は、努めて笑みを浮かべます。

「もちろん、強制は出来ません」

 すれば彼女はついてきてくれるのでしょうが、そうするのははばかられました。

「この計画はメイがいてこそ成り立つものなので、メイが行かないと言えば私も出ては行きません。今すぐこの私の発言を問題視し、両親に報告をするほうが賢明な選択でしょう」

 誰もこんな話を、賢明な選択をするだろう人間にはしないでしょう。

「メイ」

 信じているからこそ、この話をするのです。

「あなたならば私の手を取ってくれるって信じていますよ」

 私は、メイに手を差し出しました。

「……お嬢様は、お強いですね」

 彼女は感嘆しているようにも、あきれているようにも聞こえる調子でそう言いました。思ってもみなかった言葉に、今度は私のほうが困惑します。

 真に強い人間は、現状から逃げずに立ち向かう者だと思っていたからです。立ち向かわず逃げ出そうとしている私を強いと言うメイは、本当に強い人なのでしょう。

 やはり彼女は、ずっと私の英雄です。

「そう言ってくれるメイが、一番強いですよ。だから、ちょっとだけあなたの強さに期待してお誘いしてもいます」

 言わないつもりだったことを言ってしまうほどに、私は必死です。どうしても成功させたいと思っているからです。

 そんな必死な様子が面白かったのかなんなのか、彼女がようやっと笑いました。

「お嬢様に頼りにされるのは、骨が折れますね」

「あら、言ってくれますね?」

「言いますよ。だってこの家から出れば、エリムはお嬢様じゃなくなるんですから」

「そう言えばそうなるのですか。それなら、姉妹として暮らしていきましょう?」

「似てはいませんけど、そういうことにしましょうか」

 にこりと穏やかな笑みを浮かべながら、メイが私の手を取り……。

「くだらない話はそこまでだ」

 部屋の扉が大仰な音を立てて開かれました。

 突然の出来事に、二人して扉のほうを振り向きます。

 そこには、お父様が立っていました。その姿を見て、私の背筋は凍ります。部屋はすべて防音になっているはずなのに、どうして今この瞬間に現れるのでしょう?

「どうして、ここに」

「お前の最近の行動がおかしいという報告を受けて、盗聴器を設置していたんだ。本当に変なことを計画しているとは、思いもしなかったがね……」

 盗聴器!

 信じられない単語に、その場に崩れ落ちてしまいます。

「君たちのみだらな関係については目をつむっていたが、家を出るとなると話は別だ。というよりも、そんなことが許されると思っているのか? 思っていたから、計画を立てたのだろうな。だからお前は失敗作なんだ」

 心の底からの軽蔑を含んだ言葉が、長々と続きます。

「メイド長、君も君だ。どうしてそこで同意する? 所詮この子は世間を知らない。学のないこの子を抱えて逃げ出してもすぐに生活に行き詰まると、分からないほど愚かではないだろう?」

「私は、お嬢様に仕えるメイドです。お嬢様のためでしたら、なんでも致します」

 その言葉に感動するのもつか、お父様の怒声が辺りに響き渡ります。更には手を振りかぶったのも見えて、私は必死に立ち上がってメイの前に立ち塞がりました。次いで、頭が揺さぶられる感覚に倒れこみます。そして私の意識は、徐々にフェードアウトしていくのでした。


 ○


 目を覚ますと、見知らぬメイドがベッドのそばに立っていました。

「メイは?」

 いつもなら傍にいるはずのメイが、どこにもいないことに疑問を抱き問いかけました。

「メイ様は、二度とエリム様の前に現れないことを条件に全てを不問にされました」

「……現れない?」

 私のせいで、メイが。

「はい。ですので、本日付で私がお嬢様つきのメイドになりました。これからよろしくお願い致します。……お嬢様?」

 目の前が、真っ暗になりました。

 こうして、希望の失われた私の高校生活は幕を開けたのでした。


 ○


「このクラスは、特に時間にルーズです。もう少し一人一人が時計を気にするなどの細かいことに気をつかっていかなければならないとは思いませんか?」

 長々とした担任の説教を聞きながら、目線は外のほうに向けて物思いにふけります。──中学を卒業して高校生となってから数ヶ月がち、『起きてしまったことはもう元に戻らない、こうなることは定めだったのだ』と表面上は割り切ることが出来ました。メイがいなくなってしまった以上、そうするしかないと思ったからです。

 はたからは、全てをなかったことにして生き続けているように見えていることでしょう。

 けれどいまだに傷は癒えておらず、ぐずぐずとくすぶっています。

 あの時、私が変なことを考えなければ良かったのにと、思わない日はありません。けれど、何度やり直しても私はメイと家を出ることを選ぶだろうと思うのです。だって、家にいるのはとても息苦しくてつらいです。

 私にとっての英雄であったメイがいなくなった今は、以前よりずっと苦しくて仕方ありません。メイのような勇敢な人間は、もう現れないのでしょう。

 それでいいとも思います。メイとのことは、私の中でかけがえのない思い出として残っていますから。

 しかし、家にいて息苦しいのは変わりません。高校を卒業するまでの間は家から出ないという約束を父親と結んでしまったこともあり、日に日に苦しくなっていく一方です。

 そんな私がたどり着いたのは、SNSの裏アカウントという文化でした。匿名で現状の不満を吐き出すという行為は、私にとってなによりの救いのように思えました。誰にも話せなかった悩みを、自分であると知られないままに誰かと共有することが出来るのです。自分の不満に対して共感が得られた日には、感動すら覚えました。私だけが陥っていると思っていた苦境に、知らない誰かも陥っているのです。一人だけではないという安心感に、毎日のつらさが少しは和らいでいくような錯覚すら感じました。

 そんな錯覚をいつまでも感じていたいと思い、家にいる時間のほとんどを裏アカウントの閲覧に充てるほどになってしまいました。もちろん課題や勉強などは終わらせた上でのことなので、両親にはいつも以上のお叱りを受けることもありません。お叱り自体にも、それに対してしおらしい態度を取ることにも慣れてきたので、適度に頑張り無理をしないことも出来る様になったのです。

「それでは、また明日から頑張って行きましょう」

 長い担任の説教を聞き流し、学校が終わりました。

「またね!」

「はい、また明日」

 部活に行く友人たちに別れを告げ、帰路に就きます。

 今日はいつもより早く終わってしまい、このまま帰るといつもよりも長い時間を家で過ごすことになってしまいます。それは避けたいと思い、帰路の途中にある図書館に立ち寄りました。隅の席を確保し、形として勉強をしている体を取るために参考書を開きました。その上にスマートフォンを出し、いつものように裏アカウントのタイムラインを眺めます。

『求愛性少女症候群って知ってる?』

 とあるつぶやきの病名らしき漢字の羅列に、一瞬だけ目を取られます。なんだろうと詳細を調べてみると、注目度がやたらと高いうわさのようでした。おおよそ、大勢の気を引きたい誰かが広めたデタラメなのでしょう。裏アカウント上ではよくあることなので無視を決め込みます。代わりに、同じような境遇下で愚痴を吐き出しているアカウントに同意のリプライを送ります。相手からも即座にリプライが来たので、いくらかやり取りを交わしました。

 それらを楽しんでいると、いつの間にか閉館時間になっていました。さすがにこれ以上いるわけにはいかないと思い、荷物をまとめて再び帰路に就きます。

 やがて、家の扉の前まで帰ってきました。これを開ければ、居心地の悪い場所に居続けなければなりません。

 あぁ、帰りたくないのになぁ。

 深くて長い、ため息が出てしまいます。

MF文庫J evo

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