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ウルザ政府宮殿、二十階。
広大なフロアを生温い気流が渦巻いていく。
暗色がかった波動。冥帝ヴァネッサの法力が大気に溶け、超高密度に圧縮されて可視化したもの。いわば極大エネルギーの具現化である。
……あんだけ大法術を連発した上でリンネとも戦って。
……まだこれだけの法力を操れるのか。
だが、それも覚悟の内。あらゆる悪魔を屈服させて頂点についた夢魔だ。その法力が無尽蔵であったとしても驚く気はない。
「これで最後だ冥帝」
「来い」
まったく同時にカイが剣を振りかぶり、冥帝ヴァネッサが片手を上げる。
──互いに理解したのだ。
カイは、冥帝の法術を受けた負傷によって。
冥帝は、リンネの禁呪を受けた負傷によって少なからず疲弊している。
迅速なる決着を。
「貴様に何ができるとも思えんが、抗うがいい。それを押し潰すまで!」
悪魔の英雄・冥帝ヴァネッサの矜恃。
「降魔の星よ」
空に渦巻く悪魔の法術円環。
そこから召喚されたのは隕石。蒼く輝く鬼火に包まれた超質量の塊が、轟音と風鳴りを従えて落下する。
……政府宮殿を巻き添えに!?
……俺とリンネ、それに人類反旗軍の人間をまとめて潰す気か!
視界を埋めつくす巨大な落星。
絶対なる死をもたらすであろうその星を見上げ──
「ああ、証明してやる」
暁のごとき光を放つ剣。カイは、陽光色に輝く世界座標の鍵を振りあげた。
預言者シドに代わって。
大戦に終止符を打った剣は確かにあるのだと、この世界で証明してやる。
「だから応えろ、世界座標の鍵っ!」
暁色の軌跡。
煌めく剣閃が、蒼く燃える悪魔の星を断ちきった。破裂。世界座標の鍵に切断された星が砕け、無数の欠片へ。流星群となって落ちていく。
「はっ! 余の法術をこうも断ちきるか!」
歯がみしながらも、冥帝はなお強者の笑みを浮かべていた。
先の法術から人間が生き延びた秘密はあの光の剣にある。それを確信したのだ。そして、その剣に対する対抗策も。
「冥府の花よ、咲き誇れ!」
何百何千という火が浮かびあがった。
先の落星を覆っていた鬼火が、冥帝の言霊によって開花する。一つ一つが膨大な法力を溜めこんだ極大の機雷だ。触れれば大爆発を引き起こす。
「法術を斬る剣であったとしても、これだけの数は砕けまい」
勝利の確信。
冥帝の命によって、花の姿をした何百もの業火がカイめがけて襲いかかる。
「散れ──」
「落とせ!」
ヴツンッ、と何かが途切れる音。
そして、政府宮殿に通じる電気の供給が停止した。すべての照明が消え、フロア全域が無明の闇に包まれる。
「……なにっ!?」
「最高のタイミング。完璧だサキ、アシュラン」
カイが取りだしていたのは通信機。
通話先は十七階の電気室、そこで待機しているサキとアシュランだ。
〝撤退用。冥帝を倒すか、逆に無理だって思った時に電気を遮断してビルの明かりを消す。悪魔どもが動揺してる間にずらかる。これでいいんだよなカイ?〟
〝ああ。俺から合図する〟
カイの指示によって、二人がビル全体の照明を消したのだ。
「最初は撤退用のつもりだったけどな」
「……そういうことか!」
冥帝もまた瞬時にカイの策を理解していた。
なぜ闇を選んだか──
五種族の中で人間だけは法力を持たない。ゆえに人間の挙動は目で見るしかない。闇に隠れてしまえばカイの位置は捕捉不可能。
ではカイ側は?
冥帝ヴァネッサの強大な法力の輝きが、冥帝の姿を照らしだしている。
「貴様だけが余の姿を一方的に認識できる。闇に乗じての奇襲か」
法力の爆炎で闇をはらう?
だがそれも遅い。今から実行してもカイの剣が先に冥帝へと届くだろう。
「…………惜しいな」
闇に混じる悪魔の冷笑。
夢魔の爪が指さしたのは、闇の中、淡い光を放つ陽光色の輝きだった。
世界座標の鍵が放つ光。微弱ゆえにカイの姿までは見えないが、この暗黒空間のなか、シドの剣はまさに夜明けに差しこんだ一筋の光のごとく。あまりに目立つ。
光の軌跡が、カイの走る居場所をそのまま示しているのだ。
「そこにいるのだろう。終わりだ」
冥帝が指さす先へ──青白く灯る炎の花が、一斉に世界座標の鍵の光へと襲いかかった。斬りふせられる数ではない。
巨大な火柱が上がる。そして、そこに照らされた者の姿を冥帝は見た。
──リンネの姿を。
世界座標の鍵を手にした少女が、冥府の炎のなかを平然と走ってくる。
「まさか!?」
「何が終わりだって?」
冥帝の背後から、声。
悪寒。かつて経験したことのない恐怖に迫られて夢魔が振りかえる。その眼前にまでカイは走りこんでいた。
……すべて承知の上だ。
……こんな暗い中じゃ世界座標の鍵の光が目印になるもんな。
ゆえにカイは、闇に乗じて世界座標の鍵をリンネに手渡した。
リンネならば冥帝の法術にも耐えられる。そしてカイ自身は、息を潜めて冥帝の背後へと回りこんだのだ。
「ようやくここまで来たぜ」
拳の届く至近距離。
ここで冥帝が法術を放てば冥帝自身も巻きこむだろう。法術は使えない。
「……脆弱種とばかり思っていたが」
冥帝ヴァネッサがふり向いた。
「見事だ」
今までの冷笑とは違う。
悪魔の英雄が初めて贈る、人間という種族への心からの賞賛だった。
「暗中の機転。この要塞が人間のものであることを利用して余の視界を奪い、さらに切り札のはずの剣さえ手放す二重の策。なんと不敵な」
「────」
「賞賛に値する。我が懐まで迫った相手が過去にどれだけいたことか。……だがあと一つ足りなかったな」
人間には知恵がある。
政府宮殿という地の利を生かし、闇を作った。
さらに己の武器である世界座標の鍵を囮に使う策で、この距離まで迫ってみせた。
「それでどうする」
眼前に迫ったカイを見つめ、悪魔の英雄は問いかけた。
「貴様は剣を捨てた。その諸手に何かを握り隠していたとしても、それで余を倒すことはできまい。貴様はあと一つ、絶対的な力が足りなかったのだ」
法力に守られた冥帝は、リンネが放った竜の拳にも耐えた。
至近距離からの手榴弾程度では傷つきもしないだろう。唯一の鍵である世界座標の鍵を手放したツケがここで致命的な仇となる。
「──って思うよな」
「なに!?」
「真髄を見せてやる。俺はそう言ったぜ?」
最後の踏みこみ。
冥帝ヴァネッサの懐へと飛びこむや、歩幅を広めて屈みこむ。
「十年。この為だけに鍛えてきたさ。悪魔を吹っ飛ばすためにな!」
徒手空拳。カイの所属する人類庇護庁では、対四種族を想定した格闘技を習得することが義務となっている。
──力の一点爆破。
轟音。あたかも爆砕系の法術が決まったかのごとく。
カイの捨て身の鉄山靠が、夢魔の身体を吹き飛ばした。
「…………ッッ!?」
法力に守られた冥帝に外傷はない。
だがその衝撃は夢魔の身体を芯から揺らし、一瞬、意識を刈り取るのに十分だった。
「……そ……ん、な…………?」
最大の誤算。
まさか──
まさか悪魔の英雄に、素手で挑む人間がいようとは。
「……貴様の……奥の手は、その剣では……なかったというのか!」
「ああ。英雄の剣に頼りきるつもりなんて毛頭ない」
冥帝は、人間というものを見誤った。
剣も銃もなければ取るに足らない存在であると見下しきっていた。
それが悪魔の英雄の、敗因。
「決着だ、冥帝」
リンネの投げた世界座標の鍵をカイが受けとめる。
美しいほどに澄みきった黄金色の剣を前に、体勢を崩したままの冥帝は口元をやわらげ、そして自らに言い聞かせるように口にした。
「────余の敗北だ。この領土、貴様にくれてやる」
そして。
陽光色の剣閃が、冥帝ヴァネッサを断ちきった。
剣の手応え。
法力の障壁を貫いて、世界座標の鍵の切っ先が届いた感触が確かにあった。
……倒した、のか?
……手応えだけなら確実に決まってた。
確信に至る一撃だった。
それでもカイとリンネが身構え続けたのは、世界座標の鍵を受けた冥帝が、その場に膝を突きながらも意識を残していたからだ。
「──────」
だが様子がおかしい。
翼を閉じた夢魔が無言で自分の頭を押さえているのだ。傷の治癒をするわけでもなく襲いかかってくるわけでもない。
「ね、ねえカイ。なんかアイツおかしいよ?」
「……ああ」
身の毛のよだつ殺気が消えたことから、冥帝の戦意は尽きたように思える。
だが今までと様子が違う。いったい何を──
「……シド」
夢魔の艶やかな唇から、この世界に存在しないはずの名前がこぼれおちた。
「…………シド……そうだ。シド、預言者。余としたことが何というザマか」
冥帝が立ち上がる。
全身を小刻みに震わせて、いまだ自分の頭を押さえたまま。
「世界輪廻……世界は書き換えられる…………そうだ。思いだした。シドめ、あの男が言っていたのはコレか」
「冥帝っ!? どういうことだ!?」
ピシリ、と何かが砕ける音が響きわたる。
それは冥帝ヴァネッサの身体が半ば石化し、砕け始めた崩壊の音だった。
「聞け、人間」
悪魔が目を見ひらいた。
「世界が創り変えられる。シドはこの事象を『世界輪廻』と呼んでいた。この世界輪廻を引き起こし、世界を改竄した者がいる。そやつを探しだせ! 余とシド以外の英雄、残る三体のいずれかだ!」
「シドがこれを知っていた? それに世界の改竄って、そんなことが……?」
「奴は、世界に起きるこの異変を予見していた。ゆえに」
夢魔の爪。
黒のマニキュアが塗られた艶やかな爪が指したのは、カイの持つ剣だった。
「シドは、余に、その剣を預けたのだ。来るべきこの事態にそなえ、余はその剣を隠しぬいてきた。世界の改竄を正す唯一の鍵を」
「この剣を!?」
手に握る世界座標の鍵をカイは凝視した。
それが、悪魔の墓所にシドの剣が突きささっていた理由?
しかし謎は残っている。冥帝にとって世界座標の鍵は憎きシドの剣。それを保管する理由がわからない。
「どうして……お前と預言者シドは敵じゃなかったのか? 大戦で戦ったって記録はどうなってるんだ!」
「そう。余は、紛れもなく奴と刃を交えた。だが……」
崩れていく身体。
歯を食いしばってその場に立ち続ける悪魔の英雄が、絶え絶えに息をつく。
「お前の知らない過去がある。お前の知る世界に隠された禁断の『記録』が」
「っ」
ぞくっ、と恐怖にも似た心地にカイは息を吞んだ。
運命の憎悪。世界に隠された禁忌に触れてしまった。そんな気がしたのだ。
「……無座標化。厄介な術だ」
砕けていく冥帝の肉体。白く石化して破片となっていく様は、明らかにカイの世界座標の鍵による傷ではない。
「だが、これは貴様の勝利。見事だ人間──」
額に張りついた前髪をはらう大悪魔。
小さく息を吸って、吐く。そして。
「────────あぁん。もう、すっごい悔しいっ」
一体の美しき夢魔は。
悪魔の英雄という冠を脱ぎさって、久しく忘れていた「自分」のままにそう言った。
「私の負け。大負けよ。言い訳する気もおきないわ」
「ヴァネッサ?」
「覚悟なさい。次があれば……今度は夢魔として……あなたの……相手をしてあげる。思いきり愛でて泣かしてあげるんだから。覚えておきなさい」
くすっ、と微笑。
麗しき悪魔の肉体が爪一つ、髪一本残さず黒い霧となって。
「……次は……もっと…………楽しみましょう……」
消滅する肉体。
それが、悪魔の英雄が発した最後の言葉だった。