World.5 天魔と少年

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 王都ウルザーク。

 大陸北部を占める広大な国家であるウルザ連邦の王都は、カイの知る正史の世界では、もっとも自動機械オートメーシヨン化が進んだ都の一つだった。

 高層ビルの硝子ガラスが空を映してあおみ、緑の並木道がさいの目状に美しく整備されている。

 そしてウルザ政府宮殿。

 そびえ立つツインタワー型の高層建造物──その姿を今でも覚えている。

「昼間は、政府宮殿の窓ガラスが一斉に空を映して青に染まるんだ。陽がしずむと夕暮れを反射して赤くなる。それがれいでさ」

 主要駅ターミナルの地下鉄道──

 土とカビにおいが立ちこめる地底のトンネル。暗き線路を何十台というそうこう車が進んでいく音を聞きながら、カイは言葉を続けた。

「……こっちの政府宮殿は、悠長に眺めてる余裕なさそうだけど」

「空を悪魔が飛び交ってるせいで無人偵察機も飛ばせやしない。今の政府宮殿がどんなお化け屋敷ホラーハウスになってるかは、実際に突撃してからのお楽しみってことだな」

 運転席のアシュランが苦笑い。

「驚いたぜ。ウルザ王の専用地下駅プライベートステーシヨンが、こうして廃線になった地下鉄につながってるなんてよ。要するに政府宮殿まで一直線ってことだろ」

「ねー。しかも昨日のうちに花琳フアリン様が自分で歩いて下見したっていうじゃない」

 ガムをみながらサキが返事。

 ただし普段の助手席ではなく、今日の彼女は後部座席である。

「この道からアタシらが政府宮殿を強襲。それで悪魔の親玉を倒して一件落着よ」

「それはそうだがよ」

 運転席のアシュランが、バックミラー越しにサキをちらりとのぞいた。

 隣席にいるリンネの肩にしがみついたを。

「つぅかお前、なんでリンネにしがみついてんだ?」

「怖いからよ!」

 堂々と。ただし周りには聞こえない声量で、サキがアシュランに言い返した。

人類反旗軍レジストの兵士を片っ端から集めて政府宮殿をせんきよして、その地下にとらわれてるりよを救出する。これは奇襲が成功すれば十分可能だわ」

「おう。傭兵オレらの腕の見せ所だ」

「そして政府宮殿十階の大ホール。ここでジャンヌ様と親衛隊が冥帝ヴアネツサの腹心たちを足止めする。危険だけどジャンヌ様と花琳フアリン様なら成功するって信じられるもん。ただ、この計画に唯一不安要素があるとすれば……」

「言ってみな」

「なんでアタシらが冥帝ヴアネツサを倒す突撃班に選ばれてるのよぉぉぉっっっ!?」

「……わっ?」

 リンネの声は、まさかに抱きつかれるとは思ってなかったことへの動揺だろう。

「サキが女に抱きつくのが趣味だったとはな」

「男でも女でも、何ならぬいぐるみでも抱きつきたい気分なの!」

 涙声のサキ。

「信じらんない。たったの四人よ。カイとリンネに、アタシとアシュランの二人が支援要員。たった四人でどうしろっていうの! 途中で悪魔に見つかったら……あぁ。お父さんお母さんごめんなさい。今年の冬は生きて帰れそうにないわ」

 よろよろとサキが目を閉じる。

 と。そんな彼女の頭をでる手があった。

「……リンネ?」

「元気出た?」

 リンネが、人間を元気づけた?

 そんな二人の姿に、助手席のカイも思わず見入っていた。

「カイの知り合い……だったって聞いたから。だから特別。ほかの人間にはしないわ」

 しかしやはり抵抗はあるらしい。サキの頭をでるリンネの表情は、自分より大きな犬に手を伸ばす子供のようにこわばっている。

「心配しないでサキ。わたし強いもん。冥帝ヴアネツサ以外ならたぶん負けない」

「そ、そうなのすごいのね……でも肝心の冥帝ヴアネツサは?」

「────」

「そのちんもくは何なの!?」

「任せて。追い詰められた時は、カイを助けるために冥帝ヴアネツサごとわたしが自爆する。道連れにしても倒すから」

「早まらないでっ!?」

 抱きついていたリンネからサキが慌ててひきさがる。

「っていうかカイ!? 昨日も何度も聞いたけど平気なのね、アタシら四人で……」

「ああ。むしろ、これ以上は増やせない」

 わずか四人の突撃班。これも検討を重ねた結果だ。

 めいていヴァネッサとの戦闘はカイとリンネ。その支援バツクアツプを任せるとすれば、人類反旗軍レジストの中でカイが人柄を熟知している二人以外に考えられない。

「……でもアシュランはよく平気ね?」

「平気じゃねえよ。さっきからハンドルにぎる手がどんだけふるえてると思ってんだ」

 サキの声に、運転席のどうりようためいき混じりに答えてみせた。

 ──作戦決定が三日前。

 円卓の幹部たちが作戦を承認し、サキとアシュランがその役目を知らされたのは一昨日の夜ふけのことだ。二人にとっては心を落ちつかせる暇もない急務である。

「アシュラン、ネオヴィシャールの様子は?」

「早朝に連絡とったかぎりはまだ無事だ。こればかりは冥帝ヴアネツサの気まぐれだろうな」

 アシュランが、ふるえる手を再びハンドルへ。

「なあサキ、俺がこうしてハンドル握ってんのは単純な下心さ。悪魔どもを倒せたら俺らは世界中から大絶賛だ。褒められたいしほうしようきんももらいたい。こんなどうしようもない世界で少しは良い気分になりたい。その程度でいいんだよ」

「……アシュランさ」

 運転を続ける横顔をカイは眺めて。

「俺の知ってる世界のアシュランより、たくましくなってるんだな」

「はぁ!? だからお前のその話は俺にはサッパリわかんねぇっての……」

「期待してる。ところでリンネ」

 再び背後へと振りかえる。

「大事なことだからもう一度ここで聞くけど、俺たちがこんな大勢で忍び寄ってること、悪魔たちは気づかないんだよな」

「うん。人間には法力がないから。悪魔たちが感知するものがないの」

 たとえばするどい嗅覚をもつ幻獣族が相手であれば、この潜伏はかなわなかった。

 悪魔族は法力の感知にけている反面、他の感覚器官は人間のソレと大差ない。地下にもぐっている人間のにおいを感知するのは不可能なのだ。

「なら予定どおり進もう」

「いーや。もう到着のようだぜ。地獄の扉をノックする時間だ」

 乾いた口調でアシュラン。

 そんな彼があごで指す先で、前方の車両がゆっくりと速度を落としていく。

「……いよいよね」

 後部座席のサキが、立てかけていた擲弾銃グレネードガンへと手を伸ばした。

 王都ウルザーク中心部。この地下鉄道のすぐ上に専用地下駅プライベートステーシヨンの隠し扉がある。そこを開ければ目の前に政府宮殿だ。

『ウルザ人類反旗軍レジスト、ここに集うすべての同志たちに告げる』

 そうこう車が一斉停止。

 全兵に支給された通信機へ、霊光の騎士ジャンヌの声が伝わっていることだろう。

『私を信じてよくここまでついてきてくれた。まずは、この場で礼を言う。しよくんらのちゆうせいと勇気が、今日までの人類の希望であったことはうたがいようがない』

 いくにも、幾重にも。

 車両のヘッドランプのみが照らす地下道トンネルに、指揮官の声がこだまする。

『本作戦にかけた準備期間は三日。そのことに不安を覚える者もいるだろう。……だが、思いだしてほしい。我々は何年間戦い続けてきた?』

 誰もが聞き入るなかで。

『強大な悪魔の支配にあらがい続けてきた歴史をさかのぼれば、もはやどれほど古くにいたるかもわからない。それだけの時を戦いぬいてきた。それこそが「今日」のためのそなえであったと私は考える』

 ウルザ人類反旗軍レジストの指揮官は宣言した。

『十分すぎるほど、我々は闘志という備えを蓄えてきた。そろそろ思い知らせてやろう。反撃のときだ。──諸君、この暗い地下からい上がろう』

 これが平穏な時代であったのならば。

 今ここで割れんばかりの拍手とかつさいとがわき起こっていたことだろう。

 ……ここからが始まりだ。

 ……地底で気勢を上げて騒ぎ立てて、地上の悪魔に見つかったら元も子もない。

 誰もがそれを理解している。

 だからすべてのようへいたちが、拍手のかわりに、おのれの銃をかつぐことで応えてみせた。

くぞ』

「リンネ、サキ、アシュラン。──行こう。はずどおり駆け上がる!」

 ジャンヌの号令。

 と同時に、カイはそうこう車から飛びおりた。

 ──目指すは地上。

 前方車両の傭兵たちを何十人と追い越して、線路の奥へ。そこにあったはずの壁は既にてつきよされ、先には美しいタイル張りの通路が広がっていた。

「カイ、これが専用地下駅プライベートステーシヨンなの?」

「だろうな。リンネ、俺から離れるなよ……っていうまでもないか」

 亜竜爪ドレイクネイルを背負って走る。

 銃を携帯したうえで速度を落とさず走る訓練を重ねてきた身だが、並走するリンネは涼しい顔でカイの疾走についてきている。むしろ問題なのは後ろの二人だ。

「ちょっ、ちょっとお前ら速すぎなんだよ!」

「待ってよカイってば! どうやったら銃担いでそんな速く走れるのよ!?」

「……ねえカイ。わたしが二人を抱えて飛んじゃいけないの? その方がずっと速いよ」

「それは緊急手段な。つばさも隠しておいてくれ」

 リンネの正体はぎりぎりまで人類反旗軍レジストにも秘密。

 ただし突撃班──カイを含むサキとアシュラン、リンネ自身に命の危機がおよぶ場合には法術も躊躇ためらうな。そう伝えてある。

「あった、自動階段エスカレーター。サキもアシュランも、ここを昇ったら地上に出るぞ」

 ほこりをかぶった自動階段エスカレーター

 電気供給が断たれて数十年と経過したソレを、一気に駆け上がる。地下二十メートルから専用地下駅プライベートステーシヨンの地上出口へ。

「カイこっちだ」

「ジャンヌ、待たせた」

 天井のスキマから注ぐ日射し。

 その逆光に照らしだされるのはジャンヌと親衛隊。さらに護衛の花琳フアリンは、天井につけられた扉をわずかに開けて、地上の様子をうかがっている。

花琳フアリン、政府宮殿前の様子はどうだ」

「悪魔が三体。ただし偶然ここを通りかかっただけでしょう。問題ありません」

「想定どおりだな。人間が政府宮殿に攻めこむなど考えてもいないか」

 霊光の騎士が片手を挙げる。

 すっと静まる周囲。寒気さえ覚えるほどのせいじやくがあたりを包みこむ。そのいんの後に。

「──やれ!」

 爆破。

 仕掛けられた大量の成形爆薬が、専用地下駅プライベートステーシヨンの天井ごと地上への扉を粉々に破壊した。大穴が生まれ、もうもうと黒煙がそこからき上がる。

「行くぞ」

 すすすなぼこりのたちこめる天井を伝って、カイは地上に飛びだした。

 暗雲たちこめるそら

 その色を映しだすかのように、あんかつしよくに染まった巨大な建造物がそびえたっている。


 ──ウルザ政府宮殿。


「これが……!?」

 悪魔にうばわれた王都最大のビルだ。

 ツインタワー型であった塔の一本が、なかばから消滅。窓ガラスは割れ砕けて、壁面にもの巣状のれつが痛々しいほどに刻まれている。

『ニンゲンッ!?』

 政府宮殿に続く広大な階段で。

 煙から飛びだしたカイの姿を見たしつこくの巨体がえた。

 第九主要駅ターミナルで遭遇したのと同じ古代魔デーモン種──ねじくれた角に漆黒のつばさを有する悪魔。彫像魔ガーゴイルのような弱点は存在せず、強大な法力によって様々な法術を行使する。

「何を驚いてるんだよ」

 亜竜爪ドレイクネイルを手に、踊り場まで一息で駆け上がる。

「もともと人間のビルだ。驚くことじゃない」

『凍リツケ!』

 暗色のえんかんが開き、そこから極寒の風が吹きつけた。

 階段の手すりがまたたく間に氷の柱となり、階段がはくひようおおわれていく。地面をって近づいてくる氷のつる。その触手が足首に絡みつく寸前で、カイは宙に跳んでいた。

「その法術は知ってる」

 人類庁に残された戦闘映像でだ。過去、人間がの当たりにしたすべての法術を、その効果と威力まで、カイは一つ残らず頭に叩きこんである。

『キサマ──!?』

「行くぞ」

 次の法術を発動しようと伸ばした腕めがけ、亜竜爪ドレイクネイルの切っ先を振り下ろす。

 略式ドレイク弾。ふくれあがる爆炎が古代魔デーモンを包みこむ。だが悲鳴は、そんなカイの背後から響きわたった。

「カイ、上! 彫像魔ガーゴイルれが!」

 サキが指さすのは頭上。

 二十階建てとなる政府宮殿の屋上に飾ってあった石像たち──それが背中のつばさを羽ばたかせ、奇怪なたけびを上げて飛びたったのだ。

「たやすく突入させちゃくれないか……」

「どうするの、ここで時間かけてられないんでしょ!?」

「まとめて片付ける」

 うっすらと煙をまとう亜竜爪ドレイクネイルの銃口を向ける。

降雷弾ボルト・バレツト

 地電流。短鎗ジヤベリンのごとく地面から射出された何十という雷撃が、飛翔する彫像魔ガーゴイルをことごとく打ちすえて地に落としていく。

 その光景に背を向けて、カイは政府宮殿の入口エントランスへと靴先を向けた。

「すげぇ!? おいカイ、何だよあれは!」

「俺の世界で製造された群体用の弾丸だ。とっておきだから弾数は限られてるけど」

「何よ何よ、そんなすごいのあるなら最初に言っときなさいって!」

「……まあな」

 サキとアシュランはもちろん、続いて地上に上がってきたジャンヌの本部部隊も誰一人として気づいた様子はない。

 ──カイの背後で、ふふんと胸を張るリンネに。

 自慢げにこちらをチラチラ見てくるのは、彼女なりの「後で褒めてね?」のアピールなのだろう。

 降雷弾ボルト・バレツトなど存在しない。その正体は、カイの宣言にあわせてリンネが放った法術だ。略式エルフ弾の亜種と言いくるめればうたがう者はいないだろう。

「順調だな」

 後ろから追いついてきたのは、銀色のよろいを着たジャンヌだった。

「その鎧、走るのに重くないのか」

「ギリギリまで鎧の厚みを削ってる。まったく問題ない。────皆、展開せよ!」

 ジャンヌ率いる人類反旗軍レジストの第一陣が一階入り口エントランスに突入。

 さらに第二陣が、ビルをぐるりと取り囲むよう防塞バリケードを敷く。これで政府宮殿には悪魔が入ってこれない。

「面白い弾丸だったな」

 入り口エントランスへと走るカイに、長身の女ようへいが並んできた。

 偃月刀シヤムシール──見慣れない曲刀を両手にたずさえた花琳フアリンが、押し殺した声で口にした。

「広範囲に雷を撃ちだす。すさまじい威力だった」

「俺のじゆうけんのとっておきだよ」

なかばまで押しこんでいたが、途中で止めていた。あれでは弾丸は出ないだろう?」

「────」

「あの娘か。リンネとかいう。最初から妙な気配だとは思っていたが」

 見ていた?

 はるか後方から。誰もが上空の彫像魔ガーゴイルに目を向けていたはずの場面で、この女護衛だけはカイの手元を注視していたのだ。

 視力も並外れているが、それ以上になんと恐るべき直感か。

「私が問うのは一つだけだ。お前は、お前とあの娘とで冥帝ヴアネツサいどむと言った。言葉に二言はないな?」

「ない」

「承知した」

 せんさくする気はない。そう言わんばかりに花琳フアリンあるじを追いかけて走り去っていく。

 ……さすが。これが、悪魔と戦い続けてきた歴戦の勇士か。

 ……ジャンヌが護衛に指名するわけだ。

 先頭をいく指揮官と護衛。その後ろに続く何十人という兵士が一階ホールで足を止めた。人類反旗軍レジストの部隊はここで悪魔たちをげいげきする役目となる。

「隊長、任せた」

「はっ!」

 敬礼で応じる部下に背を向け、ジャンヌの親衛隊が非常階段を駆け上がる。その後方から速度を上げて、カイはジャンヌのすぐ後ろへ追いついた。

「ジャンヌ、こっちで間違いない?」

「正しい。中央の昇降機エレベーターと階段は目立ちすぎる。非常階段からのかいとうだ」

「……確かに、悪魔の気配がほとんどないな」

 三階から四階。さらに四階から五階へと上りつめる。

 最上階を目指すのがカイたち。

 一方でジャンヌとその親衛隊が向かうのは、政府宮殿の中層階にあたる十階だ。

 この勢いで上れば数分で到達するだろう。だが、奇妙なまでのせいじやくが逆に物々しいと感じるのはカイのゆうだろうか。

「リンネ、どうだ」

「ううん。強い法力は感じない。でもさすがにおかしいよ。わたしと戦った時の冥帝ヴアネツサなら絶対なにか……」

 階段を一段抜かしで飛び進んでいくリンネが、顔を上げる。

 その視線が宙の一点で静止した。

「カイ、あそこ!」

小悪魔インプ!?」

 体長数十センチほどの小柄な悪魔が、くうで自分たちをぎようしていたのだ。

 身体からだの大きさどおり肉体はぜいじやくで、法力も微量。使う法術にいたっては一つしかない。

 だが、その法術が時に「最悪」になりうることをカイは知っていた。

「やばい……ジャンヌ急げ! !」

 転移呪法サモンスペル

 悪魔のみが使う術式──小悪魔インプ一体につき一体、

 非常階段の壁に生まれる暗色のえんかん

 ピシリッ、と壁にひびが入った音を聞くや、カイとリンネは同時に五階の踊り場から六階の階段へと跳んだ。

 そして、壁が砕けちる。

 政府宮殿のぶあついコンクリート壁を破壊して、丸太ほどもある太さの腕が伸びてきた。

巨大悪魔ヒユージデーモン!?」

 巨人種タイタンなみの巨体にくわえ、ぼうだいな法力を有する高位悪魔。

 その腕が、ジャンヌの背後に立つ親衛隊の一人をわしづかみにした。

「う、うあああああああああぁぁぁぁぁ────────ッ!」

 恐怖に染まった悲鳴。

 虫をにぎりつぶすかのごとく、巨大悪魔ヒユージデーモンの掌がようへいを捕らえて力をこめる。その刹那に。

のろい」

 巨大な腕の、その指先が消滅した。

 つかまれていた傭兵があっさりと掌からすべりおちる。その首根っこを捕まえて受けとめたのは、壁に配置された排気ダクトに立つ花琳フアリンだった。

『────────ニンゲンッ!』

 巨大悪魔ヒユージデーモンごうが響きわたる。

 それを冷笑で受けながす花琳フアリンが右手を上げた。たったいま悪魔の指を切断したばかりの偃月刀シヤムシールの切っ先を、その首筋へと差し向けて。

「ジャンヌ様。お先に上へ」

花琳フアリン!」

「ぶあついと強固な肉体。銃とは相性が悪い。おそばを離れるのは予定外ですが、私が抑えます」

 身の丈十メートル近い怪物とにらみあう。

「ただの。すぐに処理して追いつきます。ご安心を」

「……十階で待つ」

 霊光の騎士と親衛隊の軍靴が再びこだまする。

 その階下から立て続けににぶい破壊音。花琳フアリン巨大悪魔ヒユージデーモンの戦闘だけではない。一階でも人類反旗軍レジストと悪魔との衝突が始まったのだ。

 七階から八階。八階から九階へ。

 無言で登り続けるジャンヌが、不意に、すぐ背後のカイへと横顔を向けた。

「言っておく。指揮官わたしの身を案じるのは不要だ」

「っ」

 内心の不安をずばり見透かされた。

 護衛の花琳フアリンが戦っている間、この十階大ホールで冥帝ヴアネツサの腹心をジャンヌが相手にするのは危険すぎる──まさにカイが口にすべきか悩んだ矢先のことだ。

「私たちはこのフロアで気楽に暴れるだけだ。私も親衛隊も、我が身は自分で守る」

「……護衛フアリンがいないのに?」

「もちろん。誰よりゆうかんに振る舞ってこそ指揮官というものだ!」

 ジャンヌの爪先が床を激しく打ちつけた。

 浮かびあがるようなちようやくで十階へと身を躍らせる。カイや親衛隊を待つことなく通路を直進して大ホールへ。

「待てジャンヌ!?」

 指揮官らしからぬちよとつもうしん。少なくともカイにはそう見えた。

 悪魔が待ち伏せしていれば、法術で迎え撃ってくれと言っているようなもの。親衛隊がいるというのに指揮官ジヤンヌが危険な先頭を走る意味はない。

「カイ」

 背後によりそうリンネが、目をみひらいた。

「────強い法力。そっち危ない!」

「ジャンヌ止まれ!」

 ホールに足を踏み入れた霊光の騎士。

 その全身を、何十発ものむらさき色の雷撃が撃ちぬいた。

 リンネの法術にも比類する稲光がとどろき、大ホールを振るわせる。そんなものを人間が浴びればどうなるか。答えなどわかりきっている────だからこそカイは目をうたがった。

「カイ。これでも不安か?」

 雷撃が終息。法術のざんが粉雪のように舞うなかで、騎士のよろいをまとう指揮官は平然とした面持ちでその場に立っていた。

「……エルフの霊装!?」

「ご明察」

 きようがくの声を上げるリンネに、霊光の騎士が片目をつむってみせる。

「幻獣族との交戦でエルフのさとからだつしゆした『霊光の装束』だ。法術耐性で勝るもののない至宝でもある」

 悪魔族をしようちようする強大な法術。

 それに恐れることなく立ち向かう姿は、まぎれもなくウルザれんぽう解放の騎士だろう。

「行け」

 大ホールの奥からてくる四本腕の古代魔デーモン。それと真っ向から向かいあいながら、ジャンヌの指先が指し示したのは通路の向こう。

「配下が現れるということは、この上に冥帝ヴアネツサがいると自白しているようなもの。それを倒すと言ったのは君だろう。カイ」

「──ここは任せた」

 ジャンヌとその親衛隊に背を向ける。

 非常階段に引き返し、カイはさらに上階を目指して突き進んだ。

「サキとアシュラン。これ腕につけててくれ。光学迷彩カモフラージユの機能で、つけてる間は悪魔にも見つからなくなる」

 後方の二人に腕章アームバンドを投げわたす。

「で、いいんだよなリンネ?」

「うん。天使の結界法術だから……じゃなくて、天使の結界をして人間が作ったの」

 これもリンネの法術だ。

 術者リンネのまわりの姿と法力を外部からいんぺいする。すぐれた嗅覚をもつドラゴンようする幻獣族には効果が薄いが、悪魔族や聖霊族にはほぼ完璧に機能するという。

「サキもアシュランも俺とリンネから離れるなよ。数メートルでも離れると腕章アームバンド光学迷彩カモフラージユが解ける」

 十五階、十六階。そして十七階で急停止。

 通路にそって、息を殺してフロア北端めざして歩きだす。

「おいサキ、ここだよな?」

「三十年前のビルの見取り図が正しいならね」

 地図をにぎりしめるサキ、その後ろを同僚アシユランがぴたりと寄りそって進んでいく。

 光り輝く照明。

 床は美しく磨きあげられて、のぞきこめば顔が映りこむ。

 はいきよじみたビルの外観と対照的に、建物の内側は今なお王宮の大通路のように美しい。ごうしやでありながらも機能的で、とても悪魔のねぐらとは思えない。

「……今さらだけどジャンヌの予想的中か。ビルの一部はまだ電気が通ってるって」

 フロアを照らす電気照明。

 さらにいえば、乗客がいないはずの昇降機エレベーターも電源が落ちていないのだ。

「発電設備が生きてる。悪魔が保守メンテナンスできるわけねぇし、ここに捕まってる人間ドレイだろ。そっちは別働隊が救出するって言ってたけどよ」

 機関銃マシンガンを手にして進むアシュラン。

「で、カイ。俺たちは電気室をせんりようす────…………っ、な、なんだこれ!?」

 ずしん、と伝わる物々しいめいどう

 ジャンヌたち下層の戦闘か? だが鳴動は収まる気配がない。ずしん、ずしん、と……意思を持っているかのごとく近づいてくる。

 広大な通路を埋めつくす巨体。サイを思わせる外見の怪物が曲がり角から姿を見せた。

 魔獣ジャバウォック。

 巨大な法力をもつ悪魔にして獣。ねじくれた一本角を誇示するように頭部をかがめ、地鳴りと共に接近してきたのだ。

「~~~~~~~~~~~~~~~っ!?」

「待ってサキ」

 擲弾銃グレネードガンの引き金に指をかけた少女を、リンネがとつに止めた。

「だいじょうぶ。わたしたちのことバレてないから」

「……ほ、ほんとに?」

「見つけてたら突進してくるもん。の端っこでじっとしてれば通りすぎるから」

 壁すれすれに身を寄せて立ち止まる。

 その眼前を、巨象のごとき怪物が地鳴りを従えて過ぎていく様は、たとえ姿が見えていないとわかっていても背筋が凍る恐ろしさだ。

「さすが冥帝ヴアネツサそうくつ、あんなのが当たり前にはいかいしてるのか……」

 魔獣ジヤバウオツクが奥の曲がり角へ。その足音が遠ざかっていくのを確かめて、再び歩きだす。今まさに魔獣ジヤバウオツクがやってきた方向へだ。

 ──

 うっすらとほこりをかぶった大型機械が立ちならぶ部屋に飛びこむや、扉を閉めた。

「ああもう……寿命が三年は縮んだわよ」

 擲弾銃グレネードガンを抱えた少女が青ざめた表情で壁によりかかる。

「ま、これでアタシらは目的地に到着ね。アシュラン、そっち頼んだわよ」

「おう。こんなの目つむっててもしくじりゃしねえよ」

 アシュランが見下ろすのは配電盤。そして彼がにぎったレバーは、政府宮殿の全フロアの電気供給をしやだんする配電用遮断機ブレーカーである。

 このレバーを降ろすことで、ビル全体の電気供給が停止する。

てつ退たい用な。冥帝ヴアネツサを倒すか、逆に無理だって思った時に電気を遮断してビルの明かりを消す。悪魔どもが動揺してる間にずらかる。これでいいんだよなカイ?」

「ああ。俺から合図する」

「最高のタイミングで決めてやるよ。レバー降ろすだけだけど……で。いいんだな?」

「うん」

 答えたのは扉前に立つリンネ。

「わたしとカイは行くね。二人はここで待ってて。たぶん、じっとしてればこんな奥まった場所に悪魔が入ってくることないと思うから」

「無理すんなよ。俺もサキも言いたいのはそれだけだ」

 元どうりよう二人が、右手の甲をひたいにあてる。人類反旗軍レジストの敬礼に見送られ、カイはリンネとともに電気室の扉をこえた。

 再び十七階の通路へ。

 ……このビルは二十階建て。そしてウルザ王のしつ室があった場所も二十階だ。

 ……冥帝ヴアネツサがいるとすれば十中八九そこで間違いない。

 唾を飲みこんで胸に手をあてる。とくんとくんと早鐘を打つ鼓動が静まるのを待って、カイはリンネへとふり返った。

「ありがとうリンネ。大変だっただろ」

「うん?」

「俺以外の人間と一緒にいるの、嫌がってただろ。ここにくる時まで人類反旗軍レジストようへいが山ほどいて、サキとアシュランだってずっとそばにいたから」

「……カイに褒めてもらえるなら、わたし我慢できるよ?」

 どこか照れくさそうに答える彼女。

 胸一杯に両手を広げる──ぱっと後ろ髪がなびくと共に、そこから天魔のつばさが勢いよく飛びだした。

「うん。やっぱりわたし、こっちの方が調子いいみたい」

「じゃあ行こう」

 曲がり角から通路をうかがう。悪魔も魔獣もいない。いたとしてもリンネのいんぺい術式がある以上、よほどのことが起きないかぎり見つかることはあるまい。

 そして足を踏みだした瞬間。


 警報サイレンがけたたましく鳴りひびいた。


 しんにゆう者を告げる鐘。

 この状況下だ。自分たちが侵入者の立場であるのは間違いない。

「そんな!? わたしの結界がかないなんて!?」

「これは……監視装置が生きてるのか!」

 リンネの術式は光の錯覚を利用した光学迷彩カモフラージユ

 幻獣族の嗅覚を誤魔化せないのと同じく、赤外線センサによる体温検知機器には通用しない。それがここで作動したのだろう。くつはわかるが、カイにとって予想外だったのは、赤外線センサがまだ作動しているという事実そのものだ。

 ……監視装置は、高度機械文明の産物だ。

 ……技術者が保全しないと数か月で動かなくなるはずなのに。

 さらに言えば魔獣ジヤバウオツクこともに落ちない。

『ニンゲンの悪知恵もたまには役に立つ』

 ぞくり、と。

 流氷の海に投げこまれたかのようなかんが、脳天から足先までを駆けぬけていく。

監視装置コレは熱に反応するのだろう? 壁をすり抜ける聖霊族も、結界をまとう天使の接近も看破する。まさかニンゲンが網にかかるとは思わなかったが』

 じゅぅとまがまがしい音。

 熱したバターのごとく天井の壁がみるみるとゆうかい。天井だったコンクリートが灰色の水滴と化してしたたり落ちて、一体の古代魔デーモンがその天井の穴から降りてくる。

「……カイ」

 リンネの声がふるえだす。そしてカイの知るかぎり初めてだ。悪魔族を前にして彼女が緊張をあらわにしたのは。

「この悪魔、結構やばいかも」

「ああ。見るだけでヤバイってわかる」

 全身から溢れだす灰色のしようが、その強大さを物語っている。

 リンネのつばさぎようする古代魔デーモン

『ニンゲンどもをここまで誘導したのは貴様の術だな。そしてその翼は天使? しかし、なぜ我々のにおいが混ざっている。……何だ貴様は。そのこんとんとした────』

「話し好きなら教えてほしいことがある」

 リンネの姿を隠すかたちでカイは前に出た。

「お前か? わざわざビルの監視装置を改造した悪知恵の主は」

『ヴァネッサ陛下のお知恵である』

 誇らしげに両手をかかげる古代魔デーモン

『この都はニンゲンの監視機器とやらが張り巡らされている。天使の結界も、聖霊族のしんにゆうも看破するという。ニンゲンには上出来すぎる。ぜひ使ってやろうとな』

「…………」

『そしてその機器は、ニンゲンに管理させるのが最も話が早い』

 なんこうらくようさい

 だからこそ悪魔族は王都ウルザークにみついた。人間の技術者を見つけだして捕らえ、今なお監視装置の保全をさせ続けているのだ。

『そしてもう一つ。貴様らの侵入を知って陛下は大変喜んでおられた。なぜこの機にこのような自滅行為に走ったか。とても面白い。興味があると』

「じゃあ冥帝ヴアネツサのところまで案内してくれるのか?」

『目の前に愉快ながんがある』

 悪魔の全身からしようがわき上がる。

『見逃す理由はない』

「ああ、そうかい!」

 真白い煙が通路を包みこんだ。

 発煙手榴弾グレネード。カイの放った手榴弾が破裂。法術を発動しかけた悪魔の視界をふさぐ。

『────ッ、何だこの……!?』

「発煙弾は初めて見たか? こんなビル内でなきゃ悪魔にはかないだろうけどな」

 悪魔のろうばいは一瞬。

 そのわずかなきよをついて、電気室から離れる方向へとカイは走った。耳をつんざく警報サイレンが響きわたるなか、ぶるいするほどの殺気がふくれあがっていく。

「追ってくる!? リンネ、光学迷彩カモフラージユは!」

「……甘かった。アイツ、わたしの術に烙印マーキングをつけてきた」

 唇をみしめながら、リンネ。

「このビルのどこに隠れてもわたしを追ってくる」

「なら上だ」

 通路を駆けぬけて非常階段へ。十七階から十八階。さらに十九階へと続く踊り場を見上げて──そこでカイは目をみひらいた。

 燃えさかる炎の壁。

 こうてつの階段が炎に包まれ、激しく火の粉をき上げる光景がそこにはあった。

「ここも小悪魔インプか……!」

 真っ赤な炎に照らしだされる小柄な悪魔たち。

 それも一体や二体ではない。カイが見上げる空中を埋めつくす数の法術えんかんが生まれ、転移呪法サモンスペルによって上位悪魔の影が浮かびあがってくる。

 ……完全に先回りされた。

 ……どうする。ここから離れないとあっという間に囲まれる。

 非常階段は二つ。片方がつぶされてもまだもう一つの経路が残っている。

「こっちだ!」

 リンネの手を取って走りだそうとして。

「だめ、カイ危ない!」

 背後から突き飛ばされる。

 体勢を崩して前傾に。蹈鞴たたらを踏みながらもカイが見たのは、通路を閉ざす巨大な氷塊だ。リンネが気づいていなければ氷にみこまれていた。

 が。氷のおりはすでに二人をわけへだてている。

「リンネ!?」

「……だいじょうぶ。わたしはだいじょうぶだから」

 悪魔のれと対峙する少女が、気丈な横顔でふり向いた。

「行ってカイ。わたしが一緒にいたら追跡される。先に上で待ってて。わたしもすぐ追いかけるから。それで冥帝ヴアネツサを一緒に倒すの」

「だけど……」

「お願い行って!」

 最後の言葉は、絶叫にも似た懇願だった。

 ……わかってる。

 ……リンネの言ってることの方が正解なんだ。

 ジャンヌをはじめ人類反旗軍レジストようへいたちが、今も低階層で悪魔たちを食い止めているはず。ここで止まるわけにはいかない。

「────絶対追いついてこい。約束だからな!」

 背を向ける。

 血がにじむほどに掌に爪を食いこませ、唇をみしめてカイは床をりつけた。


       〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓


 人間の少年カイ・サクラ=ヴエントが去っていく。

 見捨てられたわけじゃない。逃げていくわけじゃない。この上にいる冥帝ヴアネツサを倒すために走るのだと約束した。

 ……そうだよねカイ?

 ……わたしを信じて上で待っててくれるよね?

 リンネはすべてが嫌いだ。

 嫌いだった。

 悪魔族は陰険で嫌いだ。五種族の中でもっとも他種族への侮蔑が激しい。

 幻獣族は野蛮で嫌いだ。五種族の中でもっともで荒々しい。

 聖霊族は奇怪で嫌いだ。五種族の中でもっとも理解しがたく近寄りがたい。

 蛮神族は強情で嫌いだ。五種族の中でもっともはい的で気位が高い。

 人間族はぜいじやくで嫌いだ。五種族の中でもっとも弱くておくびようだ。

 そして。

 自分が、一番嫌いだ。

 なのにカイは、そうじゃなかった。

 自分を見て怖がらなかった。嫌な表情をしなかった。それどころか──


〝しばらくしてろ。落ちつくまで待っててやるから〟


 抱きしめてくれた。

 だから一緒にいたい。もう一度体温を感じたいのだ。

 ……嫌だよカイ。

 ……わたしが行くまでに死んじゃってたら、嫌だからね。

 振りかえる。非常階段の出口を破壊して現れる古代魔デーモン。さらに壁や天井がゆうかいし、そこからも異形の悪魔たちが現れる。

 そのいずれもがリンネを前に、奇妙なモノを見たかのように動きを止めた。

におうぞ。天使の臭いだ』

『だが悪魔の臭いもする……?』

『いや、エルフの臭いも。ドワーフの臭いも漂ってくる』

『竜も。聖霊の臭いもだ』

『何だ。貴様は何だ……? その底知れぬ臭いと法力の混合……』

 ふくれあがる悪魔の殺気。

「そんなのわたしがきたい……わたしは何なんだっていうの、教えてよ」

 にじり寄る悪魔族と向かい合う。

 強大な法力を宿やどした高位悪魔たちを順々に見比べて、リンネは言葉を続けた。

「わたしが何なのか自分でもわからない。でも一つだけわかるの──────わたしが、アンタたちなんか大っ嫌いってこと!」

 天魔のつばさを広げる。

 リンネ──そう名乗る少女の全身からほとばしる法力の波動は、あらゆる種族の力がこんぜんいつたいと混ざりあった唯一無二の輝きを秘めていた。

「わたしはカイと一緒にいたいの、邪魔するならどうなったって知らないから!」


       2


 政府宮殿、十階。

 アーチを描く天井に、四本腕の古代魔デーモンほうこうとどろいた。

ぜいじやく種ガッ……!』

 一本だけが丸太のごとく肥大化した右腕が、おおへびさながらにうごめいて親衛隊のようへいを壁に叩きつける。全身に機関銃の弾丸をあられのごとく受けながら、だ。

 彫像魔ガーゴイルのように弾丸がかないわけではない。

 だが全身をおおう法力がしようとなり、弾丸が着弾する前に鉄鋼をしよくしてしまうのだ。

 せいぜいゴム弾。

 弾の威力が大幅にがれ、悪魔の身体からだつらぬくことができない。それを──

「はっ!」

 霊光の騎士ジャンヌの剣が、むちのようにしなる悪魔の腕を切りいた。

『──ッ!?』

「浅かったか。だが天使術式による『天罰』つきだ。そう簡単に治ると思うな」

『天使の法具カッ!?』

 二のを振るうジャンヌを前に、悪魔はそのやいばけようとはしなかった。振り下ろされる刃へと二本の手を伸ばし、刃を掌でにぎつかむ。

「っ」

『弱い。天使の法具を人間が振るったとて、そんな腕力ではな……本当の剣とはこういうものだ』

 悪魔の掌にれんの火炎が収束していく。おおなたのように振るった法術の刃がよろいを引き裂き、ジャンヌの身体を焼きつくした。

 ……そのはずだった。

 法術による炎の剣が消滅。

 ジャンヌに触れた瞬間に、炎の刀身がはじけて元の火花となって消えていく。

『鎧? いや、!』

「気づいたか」

 跳び下がる人類反旗軍レジストの指揮官。

 炎の剣に切り裂かれた鎧の隙間からのぞくのは、あわうすぎぬの装束である。生地の厚さは薄紙にも満たないだろう。その衣が悪魔の法術をかき消したのだ。

 よろいはあくまで男装カモフラージユのため。

 ジャンヌの真の防具は、その下に身につけているうすぎぬだ。

 ──霊光のいくさ装束。

 エルフの至宝の一つであり、法術耐性では最上位の力をほこる。霊光の騎士ジャンヌのしようちようたる、対悪魔の切り札の一つだ。

!』

「────」

 それに応えず、たった一言。

そう解除。『月のおおゆみ』よ」

 ジャンヌの剣から光が生まれた。

 天使の法術をしめす白亜の輝きに包まれて、剣が変化。数多あまたの宝石をちりばめた世にも美しき弓となる。

つんざけ」

 大気を切りく法力の矢を受ける古代魔デーモン

 巨体が壁に衝突。その様子を見届ける前に、ジャンヌは突如として猛烈な目眩めまいおそわれて膝をついた。

「ジャンヌ様!?」

「……問題ない。隊長、持ち場を死守せよ!」

 駆け寄ろうとする親衛隊の隊長をいつかつ。そうする間に、ジャンヌのほおを滝のように汗がしたたり落ちていく。ぞっとするほど冷たい汗が。

「自ら死を選ぶか、だと」

 歯を食いしばり、全身をおののかせながらも霊光の騎士は立ち上がった。

。その覚悟がなくて人間われら悪魔おまえたちに勝てるわけがない!」

 天使の弓とエルフの霊装。

 これらは元々、強大な法力を有するエルフと天使だから使える法具だ。法力を持たない人間が着用すればまたたく間に体力をうばわれ、命さえ枯れていく。

 ──命を食らって輝く死装束。

 霊光の騎士ジャンヌは、常に死と隣り合わせで戦い続けている。

 人類反旗軍レジストようへいで知らぬ者などいない。だからこそ敬意をいだくのだ。

「軽いものだ。悪魔の英雄と戦うことと比べれば……」

 別歴史の世界からやってきたというカイとリンネ。

 本音を言えば、ジャンヌはまだカイの話を信じきれていない。どうすれば五種族大戦で人間が勝利するような歴史になるというのか。

 だが、カイはそれを証明してみせると言った。

 悪魔の英雄へといどむ。その無理無謀と比べれば、命を食らう霊装の着用などたやすいものだ。ジャンヌの覚悟一つでできるのだから。

「ジャンヌ様!」

 突然に響く部下の絶叫。

 気配は頭上から。

 天井が音を立てて崩壊し、そこから猟犬型の魔獣が飛びおりてきたのだ。ケルベロス。そう称される伝説級の魔獣にも似た怪物が、前脚を振りあげた。

 じゆもうどくの爪。その切っ先がジャンヌの脳天めがけおそいかかる。

「お待たせしました、わがあるじ

 その爪が、くうでへし折られた。

 偃月刀シヤムシールいつせんで。

「少々、道が混んでおりました。片付けながら来たもので」

「……肝を冷やしたぞ」

 花琳フアリン──親衛隊、幹部、そのいずれにも属さないジャンヌの従者。霊光の騎士に仕える護衛が、紙一重で間に合ったのだ。

『…………貴様か……聞いたことがある……』

 くぐもった声を漏らす魔獣。

 へし折られた前脚の爪、そして花琳フアリンが両手で持つ偃月刀シヤムシールを忌々しげに見比べて。

『並外れた強さの人間がいると。貴様か…………竜戦士ドラグナー!』

「さあな」

 真っ赤に熱をびて輝く偃月刀シヤムシール──のように見えるソレは、亜竜の牙ドレイクトウース

 カイのじゆうけん亜竜爪ドレイクネイル」はあくまでその姿をしたもの。

 だが花琳フアリンが持っているのは本物だ。幻獣族がばつするこの世界だからこそ入手できる世界最硬級の剣素材。

 竜の牙を以て戦場を駆ける。悪魔族からも恐れられた竜戦士ドラグナー

「階下で部下たちも持ちこたえている模様。とはいえ時間稼ぎも限度があるでしょう」

「……最上階次第か」

「はい。そしてジャンヌ様は後ろへ。私が参ります」

 口早に応じ、ウルザれんぽう最強の戦士は再び亜竜の牙ドレイクトウースを構えた。


       3


 ウルザ政府宮殿、二十階。

 最後の一段を上り終えたところで、カイは疲労混じりの息を吐きだした。

「ようやくか……」

 ついに最上階。

 人類反旗軍レジストが全力で悪魔を引きつけている間に、とうとうめいていねぐらまで辿たどりついた。

 ……悪魔の追跡はいた。追ってくる気配なし。

 ……あとはリンネを待てば。

 を逃がすため、リンネは自ら危険な別行動を選んだ。

 非常階段はビルの南北それぞれの端に一つずつ。カイが通ってきたのは南側の通路で、リンネが悪魔の包囲を突破すれば北側の階段からやってくる。

「リンネ……来いよ……」

 約束したのだ。二人で冥帝ヴァネッサを倒すのだと。

 非常階段のスペースから一歩足を踏みだし、二十階の通路へ出る。

 そのはずが。

「なっ!?」

 無意識のうちにきようがくの声が喉から漏れた。

 通路も壁もない。二十階のすべてのかくへきが粉々に破壊され、フロア一つが大広間に造り変えられていたのだ。

 そしてカイは、そんな大広間の中心に一体の悪魔の姿を見た。

 きらびやかな照明の下、かつて壁であったれきが散乱する床において場違いなほどごうしやな椅子──かつての王の座に腰かける悪魔。


 冥帝ヴァネッサが、そこにいた。


「ようこそ人間」

「…………お前が……」

「まあそうこわばった表情をするな。ここは余だけの間だ。部下がいてもきゆうくつゆえにな」

 底知れぬげんと不気味さと、そしてなまめかしさをたたえた女声を発する悪魔。

 夢魔サキユバス──

 うるわしきそうぼう。背中にかかる黒髪は光を反射して紫色につやめいて、真っ赤なひとみと唇は、一目でそれが魔性のものとわかるほどにようえんだ。

 ……大昔から人間の王をとりこにして国を滅ぼしてきた。

 ……そんな伝説が山ほどある悪魔の一種か。

 悪魔族の英雄。

 と同時に女王ともいうべき存在が、カイを見てクスクスと微笑をこぼす。

「銃を捨てないのか?」

「……なんだって?」

「最強の悪魔が夢魔サキユバスであること、人間には意外らしい。古代魔デーモンや魔獣のような姿を想像して、余が冥帝ヴアネツサと知るや人間は戦意を失うことがほとんどだ。『こんな美しい娘に銃は向けられない』と口々に言う。どうだ、貴様も暇つぶしにでてやって構わんぞ」

「…………」

「どうした」

。お前の本性は」

 亜竜爪ドレイクネイルの切っ先を向け、カイは大広間に響きわたる声でそう言った。

 リンネから聞いている。

 めいていヴァネッサという悪魔がどういう存在か。

ざわりな古代魔デーモンや魔獣をことごとく力でねじ伏せて頂点に立った。いかにも色っぽい夢魔サキユバスのフリをしてるのは人間が騙される姿を見たいだけ。ホントは誰よりも好戦的で、隙あらば他種族の地域に攻めこむ戦闘狂。それがお前だ」

 きょとんと。

 信じられないものを、そんな表情でカイを見つめる夢魔サキユバス

 ……なんてね。俺もリンネから聞かされてなかったらさすがに驚いたさ。

 ……冥帝ヴァネッサ。どんな恐ろしい見た目かって思ってたよ。

 外見は、美しい人間の女性にしか見えないのだ。

 まがまがしい衣装の隙間からはこぼれんばかりに実った胸の谷間がのぞき、膝を組む姿勢は、見事な脚線美を表現するのにこれ以上ない仕草と言えるだろう。このぼうに魂も尊厳もうばわれた人間が、過去にどれだけいたのか想像するのも恐ろしい。

「ふっ、あははっ、ははははははっっ! 面白いな貴様?」

 腹を抱えて冥帝ヴアネツサが笑う。

「戦闘狂? いやいや、確かに余は争い事も嫌いではないが、これでも夢魔サキユバスとしての自覚もあるし、美貌には自信があるのだぞ? 人間ごとき余のいろ一つでとりこにしてやろうと思っていたのだが。はは、その返事は予想していなかった」

 膝を組みかえる冥帝ヴアネツサ

 ふとももの付け根ぎりぎりまでがあらわになるも、それは計算ずくの行為だろう。

「そういえば人間の反乱軍があったな。霊光の騎士とやら、配下からそんな名を聞いたことがある。エルフの霊装を使うと聞いたが。お前か?」

「あいにく人違いだ」

「では貴様はその部下か?」

「いいや。確かに俺は、お前からを取り返すためにやってきた。だけど人類反旗軍レジストとは無関係のヨソ者だ」

「ヨソ者?」

 不測の言葉に、魔性の美貌をたたえた悪魔が首をかしげてみせた。

「ウルザれんぽうの外からか」

「もっと遠い場所だ」

 余裕の表情を崩さない悪魔の英雄。

 王の座に深々と腰かけるめいていヴァネッサの、そのちようしようを消し去るつもりで──


「お前が敗北した後の世界から」


 カイは、亜竜爪ドレイクネイルを向けてそう答えた。

「………………はて」

 気味悪いほど長きちんもく。見つめるだけで生気を吸い取るひとみ、そんな伝説さえある夢魔サキユバスがわずかにまなしをするどくした。

「余が敗北した世界? あいにくとそんな世界はない。過去も未来えいごう先も」

「過去でも未来でもない。こことは別の歴史をもった世界だよ」

「夢見事か?」

「ああ、俺だって何回も夢だって思ったさ。お前が信じようが信じまいが、俺は別の世界から迷いこんできた人間だ。俺からすれば俺の覚えてる方が本当の歴史で、そっちはもうとっくに五種族の戦いが終わってる」

 冥帝ヴアネツサが沈思。

 二度目のちんもくは、一度目と比べればはるかに短かった。

「して。お前の言う世界では余が敗れたと。ならば余に勝利した種族は? 世界を支配する種族はいったい何になったというのだ?」

「人間」

「────────はっ! あはははははっ何を言い出すかと思えば人間が勝利?」

 きようしようが響きわたった。

 自慢の胸が揺れるほどに肩をふるわせて、息も絶え絶えなほどに大笑い。

「幻獣でも蛮神族でも聖霊族でもなく、人間が勝利? いやはや面白い、これほどわらったのはいつぶりか。いったいどこのやからわらわを倒したというのだ?」

「預言者シド」

 人間の英雄はこの世界に存在しない。

 だから彼の名に、めいていヴァネッサが反応することはない。……

「────────」

冥帝ヴアネツサ?」

 預言者シド。その名を耳にした大悪魔の表情から笑みが消えたのだ。

 カイのことなど忘れたように宙を見上げ、そのつややかな唇が独白モノローグを紡ぎ始めた。

「シド。シド?…………人間…………剣…………」

 今までの冥帝ヴアネツサの態度とは明らかに違う。

 それはまるで──

 記憶を失った者が、必死にその記憶を思い起こそうとあらがっている姿のようで。

「……シド………………世界座標の鍵コードホルダーふういん………………『』…………」

「え?」

 いま何と言った。墓所? 世界座標の鍵コードホルダー

 墓所も預言者シドの剣も、どちらも正史にのみ伝わる概念だ。別史にいる悪魔の英雄が口にする単語ではないはずなのに。

 そして「世界りん」とは何だ。いま確かに、そんな単語を口にした。

冥帝ヴアネツサ! お前、いま何を!?」

「──────

 悪魔の英雄が首をふった。

 嬌笑まじりのまなしがひようへん。ぞっとする殺意とともに冥帝ヴアネツサが立ち上がる。

「余としたことが物思いに時間をいた。が、程々にはたのしかったぞ。ほうとして選択肢をやろう。しばし余にでられてちるか、今すぐ燃えがらと化すか」

「どっちもご免だね」

「それは残念だ。夢魔サキユバスとしてかんげいしてやろうと思ったが」

 冥帝ヴアネツサのドレスの裾が勢いよく跳ね上がる。

 足下のれきじんを巻きこんでうずしようを従えて、悪魔の英雄が片手を上げた。

「ではちりとなれ」

「打ち消せ」

 声が重なった。

 冥帝ヴアネツサの爪先から放たれた紫電の矢。大気に強烈な電気をまき散らしながらせまる法術に、カイもまた亜竜爪ドレイクネイルの引き金を引いていた。

 ──略式エルフ弾。

 五種族大戦の記録を基に開発された弾丸が、稲妻とぶつかりあって対消滅。

「なにっ!?」

 冥帝ヴアネツサの口から漏れるきようがく

 略式エルフ弾はこの世界には存在しない弾丸だ。法力を打ち消す弾を知らない悪魔に対し、確実に「反撃」が決まる。

「人間をめすぎだ、悪魔」

 法術を打ち消されたことへの動揺。その一瞬で、カイは床をって跳んでいた。

 ……どんなに強い法力を持ってようが。

 ……肉体は夢魔サキユバスだ。略式ドレイク弾一発で仕留められる。

 我に返るめいていヴァネッサ。

 だが遅い。既に亜竜爪ドレイクネイルは振り下ろされている。夢魔サキユバスの肩口へと叩きつけられたやいばうなり、略式ドレイク弾がさくれつする。

えろ!」

 その刃が、冥帝ヴァネッサの豊満な肉体を素通りした。

 しんろうのごとく夢魔サキユバスの姿が消滅。勢いを得た亜竜爪ドレイクネイルが突きささったのは、その背後にあった王の椅子である。

 爆発。略式ドレイク弾の爆風が王の座を跡形なく砕く中で。

「幻!?」

「余が夢魔サキユバスであることを忘れたか?」

 魔性のこわ

 ぞっとするほど近くから伝わる声と、そして首筋へと触れようとする何かの気配。

幻惑系エンチヤント。人間を魅了する術の応用だ」

「──くっ!」

 ふり向く余裕さえなく身を投げすてた。

 れきのなかを前転。全身が砂まみれになりながら起き上がったカイを、めいていヴァネッサは手を伸ばした恰好のまま見下ろしていた。

「お? これはずいぶんとびんな。獣人じみた回避反応ではないか」

 冥帝ヴアネツサの指先が、カイのじゆうけんへと向けられる。

「そして法術を打ち消す弾丸。面白いな。それが貴様の世界の武器というのなら」

「信じる気になったか」

自惚うぬぼれるな」

 冥帝ヴアネツサの応えは、さげすみきったまなしだった。

ぜいじやく種が。その程度で余の法術を止めた気か?」

 ざわりと夢魔サキユバスの髪が揺らめいた。

 髪の束一つ一つが、あたかもへびのごとくうねりうごめく。それは、すべて冥帝ヴアネツサの全身から立ち上る法力の波動によるものだった。

冥唱グロリア『我がれんごくに炎あり』」

 視界が「赤」に包まれる。

 炎と呼ぶにはあまりにも美しく、そうごんで、そしてぎようしゆくされた熱の結晶とも言うべきせんこうを前に、亜竜爪ドレイクネイルにぎる手が凍りついた。

 ──寒気。

 全身から汗がきだす。その汗がまたたく間に蒸発する熱量の炎をの当たりにしながらも、感じたものは冥府の氷コキユートスを想わせる絶対的な死のかん

「炎にまれよ」

「……くっ!」

 略式エルフ弾を撃つ気さえ起きない。全身全霊で、一切の抵抗をほうしてカイは床をりつけた。一直線にせまれんの激流の射線の外へ。

 炎が、フロアの壁を突きやぶる。

 ぶあついこうてつ製の壁がコルク栓のごとくかれて消滅。ビルから溢れた炎が空へと抜けて大気をがす。

 ……人類庁の高熱兵器だってこんなバカげた火力は無理だ。

 ……これが……悪魔の英雄の本気なのか。

「おや? しまったな。大事なようさいだから破壊しないようになるべく炎を集中させたが、それでけられてしまったか」

 膝をつく自分を見下ろす最強の悪魔。

「そうだ人間。一つ面白いことを教えてやる」

 視線がカイの銃剣へ。

「余の椅子を破壊したその銃。爆薬つきというのは中々に面白い」

「……どういう意味だ?」

「種族差。たとえば幻獣族は強固なうろこのせいで炎に強い。聖霊族であれば先の幻惑系エンチヤントを無効化してしまうし、蛮神族にいたっては法術全般に耐性をもつ。種族の特徴に応じた耐性はとても面倒くさい」

 よどみない口調で続ける冥帝ヴアネツサ

「だが、そんな耐性を無視し、種族を問わずに通じる万能の術がある。それが『ばくさい』。貴様の銃に爆薬が仕掛けてあるのも似た理由だろう。──何が言いたいかと言うと」

 その背中からつばさが飛びだした。

 こうもりのソレにも似た飛膜で、ねじくれた突起物の生えた悪魔の翼が。

「余のもっとも得意な術式が、その『爆砕』だ」

 絶対的強者のびんしよう

 カイの足下の床全域に、巨大な法術えんかんが浮かびあがった。

「────っ!」

 逃げ場などない。

 フロアそのものを吹き飛ばす爆砕の波動が足下でふくれあがっていく。

 まずい。足下から浮上する極大の破壊。未来予知のごとく、目の前のすべてが爆炎にみこまれて燃え尽きる光景がカイのまぶたに焼きついた。

「終いだ人間。貴様の死は運命づけられた」

 冥帝ヴアネツサが両手を広げて天をあおぐ。

 だがその一言が。

 カイの脳裏に、リンネと出会った時の光景をよみがえらせた。


世界座標の鍵コードホルダーは「運命」を斬る。運命サダメ


世界座標の鍵コードホルダー!」

 黒きじゆうけんを頭上へとかかげて名を叫ぶ。英雄の剣の名を。

 冥帝ヴアネツサの法術が発動したのは、その直後だった。

 ──冥唱グロリア『我が楽園よ、ぜ狂え』。

 こうてつの床が沸騰する。

 床と一体化した法術円環が破裂。き上がる爆炎が政府宮殿の壁と天井とに大穴を開け、そこかられんの火柱が噴出する。

 業火によって煮えたぎり、液状化した床。

 炎の気流が収まったその後に、そこに立つめいていヴァネッサの姿があった。

ちりも残さぬ。死をまぬがれるすべはない。四種族の英雄でもないかぎり」

 ほこり一つ、れき一つ落ちていない。

 すべて等しく爆炎によって蒸発しきったからだ。

「なのに、なぜお前は生きている」

 めいていヴァネッサの声に混じるいらち。

 それは、悪魔の英雄がに対して初めていだく警戒の念の現れだった。

「余はこのようさいの天井を丸ごと吹き飛ばす気でいた。それが発動の瞬間、威力の大部分が消滅したぞ。人間、その剣は何だ」

「……さあね」

 陽光色にきらめく世界座標の鍵コードホルダー

 亜竜爪ドレイクネイルしろけんげんしたシドの剣を構えた姿で。

 ……九死に一生か。

 ……また助けられたな。この剣に。

 運命をせつじよする。

 命にかんしようする事象を「物理的」に斬る──その全貌を完全に理解した自信はないが、リンネと冥帝ヴアネツサの法術を切断したのはそういうことだろう。

「お前が持っていたのは黒の銃だった。いつその剣を取りだした?」

「それは──」

「カイ、下がって!」

 ほとばしる地電流。床を伝っていまわる電撃が、一切の逃げ場なく全方位から冥帝ヴアネツサの足首に絡みつき、その全身を激しくいた。

「リンネ!?」

 階下から飛びだしたつばさの少女。

 そのほおや二の腕には火傷やけどの痕が痛々しく刻まれて、背中の翼も、先端の羽がまばらに抜け落ちてしまっていた。

「お前、その傷……」

「平気だよ。ちょっと無理したけど」

「無理って時点で全然平気じゃないだろ……そんな傷でかよ」

「カイが生きててよかった」

「──俺が?」

「さっきの爆炎で建物が揺れたの。すごく怖かった。カイが死んじゃうんじゃないかって」

 リンネの声はふるえていた。

 恐怖と、そして怒りとで。

「だからなおさら許せない。来なさい冥帝ヴアネツサ! わたしが相手をしてあげる!」

 雷撃がしずまった後に、無傷でたたずようえんなる悪魔の英雄。

 その表情が険しさを増した。

 、先の爆炎で消し飛んだ天井の方向をぎようして。

 そのつぶやきに応じるかの如く、異変は起きた。

 何かを警戒する冥帝ヴアネツサの背後。空中に、突如としてうずく黒点が生まれた。

 カイとリンネが見ている前でうずしおを思わせる穴が広がり、人に似た影が浮かびあがる。


〝悪魔の英雄に想定外の「揺らぎ」を観測。禁忌単語タブーワード「シド」による影響、あり〟

切除器官ラスタライザによるせつじよを開始する〟


 奇怪なる異種族。

 現れたのは、破壊された人形のように身体からだのあちこちが欠損した怪物だった。

 全身の概観は人間のそれにこくしているが、下半身はへびの胴体のような触手構造。背中からは奇怪な管がしゆつしている。

 ……リンネにおそいかかった怪物と似てる。

 ……その仲間? まさかここまで追いかけてきたのか!?

 ひっ、と恐怖にリンネが身をすくめた。

「カイ! あ、アイツ!」

「リンネ、後ろにいろ!」

 世界座標の鍵コードホルダーを構える。だが、その人形じみた怪物が無音で飛びかかったのは、間近にいた大悪魔だった。

「貴様!?」

 ふり返る冥帝ヴアネツサの首を締め上げる怪物。どれだけ力をこめようと、夢魔サキユバスの細い首筋に深々と刺さった爪が食いこんで外れない。

『世界への影響、拡散性と判断』

「貴様、そうか…………切除器官ラスタライザ! 主天アルフレイヤの差し金か!」

無座標化ゼロコードを執行。英雄ヴァネッサの『記録コード』を世界から切除する』

 再現。

 リンネが受けたものと同じく。無数の黒渦がめいていヴァネッサの周りをおおいつくすかたちで出現するや、一斉に全身にまとわりついていく。

 と同時に、冥帝ヴアネツサ身体からだが恐ろしい速度で消滅しはじめた。

「ッッッッッッッッッッッッッ!?」

 全身を削られていく悪魔の絶叫。

 死ぬ? あの悪魔の英雄が、このまま正体不明の怪物に襲われて死ぬというのか。


 ──冥唱グロリア続詠唱セクエンツイア『我が血と肉と霊魂に、栄光を』


「調子に乗るなよがっっ!」

 悪魔の英雄がえた。

 背中からさらに一対のつばさが飛びだして、側頭部にも小さな角らしき突起が生えていく。さらに全身の肌にじゆもんようが浮かびあがった。

 ようえんな女性と、まがまがしい悪魔の融合した姿へ。

「ほぉらつかまえた」

『!?』

 冥帝ヴアネツサが手を伸ばす。

 無座標化ゼロコードなる攻撃によって全身が崩れていく中で、逆に、切除器官ラスタライザという怪物の首を摑み返したのだ。

主天アルフレイヤの犬ごときが、余の首を取れるとおごったか」

めいていヴァネッサの抵抗値上昇? 想定外の法力。無座標化ゼロコードの完結まであと──」

「四散せよ」

 怪物の身体からだこなじんとなって砕けちる。

 ばくさいの法術はあらゆる種族に通用する万能系。まさにその言葉どおり、体内から生じた法力の超爆発によって、欠損の怪物が燃えがらとなり消えていく。

「……なんだこの傷は。法力を集中しても治らぬ」

 絶え絶えの息で冥帝ヴアネツサが舌打ち。

「まあいい。目の前のぜいじやく種を排除するのが先決か」

 ぎょろりと悪魔の英雄がこちらにふり向いた。全身からおびただしい量の血を流し続ける冥帝ヴアネツサが、さつりくきようしようをうかべて一歩、また一歩近づいてくる。

 ……これが冥帝ヴァネッサの本性。

 ……夢魔サキユバスなんて可愛かわいいもんじゃない。こいつ本当の悪魔だ!

 夢魔サキユバスさがなど欠片かけらもない。

 目の前にいるのは、きようだいの力ですべてを爆砕せんとする殺戮の化身。

「リンネ、お前こんな奴と戦ってたのか」

「……違う……」

 本性を解きはなった冥帝ヴアネツサの当たりにして。

 リンネが、がくぜんとそう口にした。

「……怖い。前から強かったけど、でも、わたしが戦った時はこんな怖くなかった。こんな表情見たことないもん…………」

 正史とは異なる歴史の世界で、めいていヴァネッサもまたきようあくな変貌を遂げていた。

 だが、リンネがここまでおびえるほどの変わり様なのか。

「逃げて!」

 張りつめた悲鳴がこだました。

「カイ逃げて! だめ、勝てない。強さとかじゃなくて……勝てないってわかるの……」

「リンネ!?」

 我が身をかえりみない勢いで冥帝ヴァネッサに激突。

 その腰にしがみついたリンネが、歯を食いしばってことだまを吐きだした。

「『影の幽獄』よ! この悪魔を、わたしごと縛りつけなさい!」

「聖霊族の結界? 貴様っ!?」

 リンネと冥帝ヴアネツサのまわりが薄暗闇のおりに閉ざされる。

「貴様は何だ。そのつばさ。そして聖霊族の結界まで……どういうことだ」

「早くカイ! こんな結界じゃすぐに壊されちゃう。わたしが抑えてる間に逃げて!」

「抑える?」

 ピシリ、と暗闇の檻に生まれる真っ赤なれつ

「余を抑えるだと。こんなもろい結界で余を閉じこめたつもりか小物!」

 たける爆炎が、暗闇の檻を内側から跡形もなく破壊した。

 爆風にあおられたリンネが宙を舞い、にぶい音を響かせて硬い床に叩きつけられる。翼を羽ばたかせた悪魔の英雄が、リンネへ追撃。

 その背中に向け、カイは叫んだ。

冥帝ヴアネツサ!」

「……だ……め…………やめ……て……カイ」

 世界座標の鍵コードホルダーを振りあげて冥帝ヴアネツサへといどむ。

 策などない。床に倒れたリンネから一秒でも一瞬でも、このさつりくの悪魔の気をらす。その一心でカイは剣をにぎりしめて。

「カイ逃げて────────」

ざわりだ人間」

 悪魔の声。それが──

 カイが意識を失う前に聞いた、最後の言葉だった。


 少年の身体からだが、血色の爆炎に包まれた。


 血色の飛沫しぶき

 リンネの前で宙を舞う。持っていた世界座標の鍵コードホルダーさえ手放して、その身体がはるかフロアの壁にまでぶつかってつぶれた。

 倒れ、起き上がる気配はない。

 ただ爆風を浴びたわけではない。身体からだの芯から破裂した法力によって、外見こそ無事でも内蔵も骨もズタズタに引きかれたことだろう。

 法術がの体内で破裂した瞬間を、リンネは目撃してしまった。

「…………カイ?」

 答えはない。生きているわけがないからだ。

 リンネの目からもソレはあまりに絶対的だった。どんなに認めたくなくても、生きていてほしいと願っても、希望を許さぬ血と死のにおい。

「…………あ…………」

「はっ。あいにくだな。貴様が逃そうとした人間は消えた。どうする? 奴のための仇討ちか。それとも貴様だけでも逃げおおせるか」

「……………………」

「それとも戦意さえ尽き──────」

 言いかけた悪魔の言葉が止まった。

 無言で起き上がった少女リンネ。その傷が、目の前で再生しつつあるのだ。

「……馬鹿な」

 冥帝ヴアネツサの爆炎には強力ながいじゆが含まれている。治癒能力にすぐれた幻獣族、あるいは天使の加護であっても容易たやすく治る傷ではない。

 そのはずが。

「ヴァネッサァァァァァァァッッッッ────────!」

 リンネはえた。

「許さない。絶対に絶対に絶対に……許さないんだから!」

 自分以外に大事なものなんてなかった。親も友人も同種族の仲間さえいなかった。

 ……それが、ようやく見つかったのに。

 ……カイだけはわたしに接してくれたのに。

 初めて知った。

 大事なものを失うという喪失感。


 ──『■■■』いん、覚醒。


 まぶたを閉じ、頭上の天をあおぐように両手を広げる少女リンネ

 その背中にある天魔のつばさが、空気がはじける音とともに二倍近くに巨大化した。

「……なんだと」

 悪魔の英雄が絶句する先で、さらに変化は続いていく。

 リンネの金髪が輝きだした。法力の光に照らされているのではなく、髪そのものが透けて内部から光が無限に生みだされていく。

 さらにひたいや二の腕にも、うっすらと光るもんように浮き上がっていく。

 ──つばさの肥大化は「幻獣」いんけんげん

 ──身体からだの内側から光る器官は「聖霊」因子の顕現。

 悪魔族と蛮神族と人間。

 さらに幻獣族と聖霊族の特徴が、新たにリンネの身体にそなわっていく。

「雑種? いや違う。……何だその五種族が混じったこんとんの姿は……?」

「うるさい」

 リンネの姿が搔き消える。こうてつの床に足跡を残すほどのきようじんちようやくで距離をつめ、その勢いのまま夢魔サキユバスのやわらかな肉体に拳を突き刺した。

 竜の腕力で。

「…………っ……かっ…………は……?」

 身体を大きく折り曲げてめいていヴァネッサが膝をつく。

「……貴様、その姿は……! その姿が貴様の……本性……か」

「うるさいうるさいうるさい!」

 獣人の脚力でもってあごりつける。悪魔のしようそして法力の壁で軽減していなければ、冥帝ヴアネツサの頭部は砕けちっていただろう。

「ヴァネッサァァァァァァァッァッッッッ!」

 大粒の涙を残して地を蹴るリンネ。

 聖霊族の特性──その残した涙さえも光り輝く幻想的な光景を前にして。

「はっ! ははははは!」

 悪魔の英雄は、口から血をきだしながらわらっていた。

 痛みなどどうでもいい。しくてたまらない。甲高いちようしようがそう物語っている。

「これは、これはなんと滑稽か! なあ輝かしきよ!」

「…………」

「わかっているだろう。その力とその姿で! 貴様が最初からソレで戦っていれば、あの人間を余から逃すことくらいはできたはずだ」

「…………」

「よもや人間アイツに、その姿を見られることをおくしたか?」

 リンネの顔に、そう感がぎる。

「はっ、わかるぞ! 人間はもっともぜいじやくおくびようなものたちだ。悪魔を恐れ、幻獣を嫌い、聖霊をいとい、蛮神をねたむ。貴様のその輝く姿は美しい……が、それだけ人間から程遠い。それを恐れたわけだ。バケモノと呼ばれることを恐れたわけか!」

 全力の形態になることを躊躇ためらった。

 そしてそのしゆんじゆんが、こうして人間の命を失うことにつながったのだ。

「貴様の涙は余への怒り? 違うな。アイツをあやめたのは貴様だ。貴様がその姿になっていれば、人間一人を助けて逃げだすことは可能だった」

「そうよ」

 天魔のつばさとエルフの耳。

 ただでさえリンネは人間と違うのだ。

 ……これ以上「違う」ものがあったら、もしかしたら嫌われるんじゃないかって。

 ……カイから冷たい目で見られるんじゃないかって。

 それが怖かった。

「だけど、もういいの。後悔したってカイは生き返らない」

 空中で夢魔サキユバスの翼にしがみついた。

 竜の剛力で四枚の翼をまとめてめにする。一心同体。ばくさい系の法術を放てば、冥帝ヴアネツサまで爆風を浴びるだろう。ゆえに逃れるすべはない。

「ヴァネッサ。わたしと一緒に死んで」

「なに!?」

 リンネの爪が、夢魔サキユバスの翼に食いこんだ。

 標的の体内にリンネ自身の血を注入する血の混生。そして、混ざりあった血をばいかいに発動するじゆじゆつがある。


 Solitis Clar "Elmei-l-Nazyu Phenoria" ──きんじゆこんとん病原体』


 ぽたっ、としたたり落ちていく紫色の水滴。

 めいていヴァネッサの肌から次々と生まれ、滝のような勢いで床に落ちて流れていく。

「この水滴はお前の「命」そのものよ。どんな防御だって防げない。命が消えるまでしずくは落ち続けるんだから」

「……貴様っ!?」

「わたしの命と一緒にね」

 リンネのほおひたいからも、光り輝く水滴が同じ勢いで落ちていく。

 

 それを理解した悪魔の英雄から悲鳴が上がる。おのれの命がみるみる絞り出されていく恐怖。傷も痛みもない。だからこそ恐ろしいのだ。

「この……忌まわしき存在……がっ……」

「もう終わりよ。これで────────」

 あと数秒で両者の命が尽き果てる。

 不意に、つばさめにしていたリンネの腕から力が抜けた。

「……え?」

 気づいた時には、リンネはその場に落下して床に身体からだを打ちつけていた。

 力が入らない。いや、そもそもきんじゆが途絶えてしまったのはなぜだ。リンネと冥帝ヴアネツサの命が尽きるまで術は発動するはずだった。なのになぜ……

「禁呪といえど法力によるもの。それが貴様の敗因だ、こんとん種」

 めいていヴァネッサが着地。

 リンネからしんちように距離を取ったのは、万に一つの反撃を警戒してのことだろう。

「ここは余のねぐら。他種族のしんこうそなえるのが当然だろう」

「……まさか」

「広範囲じゆ。法力を阻害するのろいの陣を敷いてある。三つだ。聖霊族と幻獣族、そして蛮神族にくようにな」

 全種族の特性をもつリンネの肉体。

 万能に見える力だが、戦闘においては必ずしも無敵にはなりえない。なぜなら全種族の弱点もないほうしてしまっているからだ。

「三種族分の呪詛。逆に、よくもまあここまで法力を持たせたというべきか」

「……そん……なっ……」

 禁呪を使った代償で身体が動かないのであれば、竜の剛力も意味がない。

 そして法力も呪詛によって絞り尽くされた。

あわれな生き物だ」

 指一つ動かせず倒れたリンネに降りそそぐ悪魔の言葉。

「どの種族にもなりきれぬ半端な種。この世でもっとも意味のない生。貴様のようなものがなぜ生まれたのか理解に苦しむ」

 それを、リンネはただ受け入れるほかなかった。

「…………ごめんなさい……カイ」

 悔しかった。

 助けられなかったこと。

 すべてを投げ打って、なお冥帝ヴァネッサに届かなかったこと。

「ごめんなさい……ごめんなさい。カイ……わたし……頑張ったけど…………」

「その言葉さえ耳障りだ」

 冥帝ヴアネツサの片翼にともる法術えんかん

 生まれた業火が動けないリンネへとおそいかかる。少女をみこむ炎がぜ、空をもがす火柱となって無数の火の粉をき散らした。

 灰さえ残らない。冥帝ヴアネツサがそう確信へといたった背後で。

 ──けんせん

 悪魔の炎が、たった一度の剣閃に断ちきられた。

「……まさか!?」

 がくぜんと、冥帝ヴアネツサが立ちつくす。

 に対してはばくさいの法術が完璧に決まっていた。法力をもたない人間が生き延びることはありえないはずなのに。

「俺に謝る? なに言ってんだよリンネ」

 太陽の光すべてが一つに結晶化したような陽光色──

 あかつきのごとき剣のきらめき。

「お前が戦ってなきゃお終いだった。今、ギリギリまで意識が飛んでたからな」

 いまだ起き上がれぬ少女は見た。

 目の前に、悪魔の英雄と向かいあう人間が立っている姿を。


 世界座標の鍵コードホルダーを手にするカイ・サクラ=ヴェントが、そこにいた。


 ごううなる猛々しき炎が消えて。

 崩壊しかけた大広間に、小気味よい風が通りすぎていく。

「……カイ……生きてる……の? うそ、じゃないよね……」

 怖々と顔を上げる少女に。

 カイは、無言で手を差しだすことでソレに応えた。自分の手でリンネの手をにぎりしめる。起き上がることもままならないが、感じるはずだ。体温を。

「……あたたかい」

「ま、さっきも言ったけどギリギリだったけどな」

 同時だったのだ。

 冥帝ヴアネツサによる法術の発動。

 そしてカイが、ソレを世界座標の鍵コードホルダーによってせつじよした瞬間が。

 今も喉の奥に血の味を感じる。コンマ一秒でも遅ければ間に合わなかっただろう。

「まだ余の前に立つと?」

 立ちはだかる人間をにらみつける悪魔の英雄。

「挙げ句、余にいどむようにも見えるが」

「そういうことになる」

えるな人間! たかが二度、余の術から逃げのびただけの分際がっ!」

 大悪魔のごうが響きわたる。

 そのげきこうを物語るように、きようだいの法力が魔性の肉体をおおっていく。

「死に損ないが。そこの半端者が余にいどんでいる間に、かろうじて息を吹き返しただけではないか」

「──だからこそ、さ」

 世界座標の鍵コードホルダーにぎる腕に力をこめる。

「だからこそ、俺は意地でもお前に勝たなきゃいけなくなった」

 サキやアシュラン、ジャンヌ。自分の知る世界で大事などうりようだった者たちを放っておけない。それがこの世界での戦う動機だった。

 ……だけどもう一つ。

 ……命を張らなくちゃいけない理由ができた。

「リンネが命をかけてお前と戦ったんだ。俺のために。だから、俺だって意地でもそれに応えるさ」

「はっ! 何か秘策があるとでも? 余に何かを見せるとでもいうのか?」

 大悪魔が両手を広げた。

 ようえんたいを見せつけるように。無防備とさえ言えるしよで高らかにわらう。

「余は人間キサマらをよく知っている。皆同じだ。口々に言う。人間の強さを、人間の可能性を、人間の未来を見せてやる──と。そして、そのすべてが偽りだった」

 聖霊族の英雄たるれいげんしゆリクゲンキヨウ

 蛮神族の英雄たるしゆてんアルフレイヤ。

 幻獣族の英雄たるおうラースイーエ。

 敵ではあるが、種族を率いる絶対強者という点で冥帝ヴアネツサは三種族の英雄を評価している。いずれもまごうことなき好敵手だと。

「…………」

「種族を束ねる強者の欠落。それとも貴様がそうだというのか?」

 試すような口ぶり。

 半分はちようしよう。もう半分は、強者を求めるしやの本音で。

「答えろ人間」

「まさか。俺は人間の英雄になりたいとか欠片かけらも思っちゃいない。だけど──」

 その視線を正面からカイは受けとめた。

「見せてみろって言ったよな冥帝ヴアネツサ。だから見せてやる」

「何をだ? 人間の強さか。可能性か。未来か」

「──真髄を」

 人間の本質。その道の奥義。精神の極限。

 そのすべてを以てしんずいと呼ぶ。

 そのすべてを、は、この日のためにきたえ上げてきた。

「お前の言うとおりだ。この世界に人間の英雄なんていない。それでも……俺のすべてでお前を倒すよ。だから──」

 剣をにぎりしめる。

 かつて五種族大戦を制した剣で、もう一つの五種族大戦にしゆうを。


「今この瞬間、俺が、悪魔おまえと戦う


 世界座標の鍵コードホルダーを水平に持ち上げる。

 ウルザ政府宮殿の頂上。

 はるか広大なるウルザれんぽう、悪魔のべる大地のその中心で。

「行くぞ悪魔の英雄。見せてやるさ、人間の真髄を!」

 一人の少年が──

 悪魔の英雄にいどんだ瞬間だった。

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