第一章 Wild bunch(10)

     10


「お疲れ様、ライナス。やったわね」

「だといいが……あぁ、クソ、まだ頭がクラクラしやがる」

 軽やかな靴音とともに、クロニカは前方の貫通扉から現れた。包帯の下の出血はどうやらもう止まっているらしかった。確かに、本人の言った通り頑丈な生き物だ。

 あれから数分。俺たちは吹きさらしと化した厨房車を後に、前方の給炭車両へ移動していた。煤けた石炭のコンテナに背中を預け、座り込んだまま俺は言った。

「どこ行ってたんだ」

「前の機関室よ。運転してる人たちへの命令を、上書きしてきたの」

 どうやら俺が気を失っていた間に、コックたちを操って機関員たちを呼び出し、騒ぎを気にせず列車を運行させるよう命じていたようだ。

 俺は適当な相槌を打ちながら、強壮薬の瓶をひねる。怪我に効くかは不明だが、各車両には乗客の体調不良に備えて簡単な医薬品が常備されているのが幸いした。

「お前も飲むか」

 薬は嫌いと言って、クロニカは首を横に振った。子供らしいとこもあるんだなと呟くと、軽く膝を蹴られた。元気なようで何よりだ。

「さて、それじゃあ、私はちょっと客車に戻るわ。荷物を、置いてきたままだったもの」

 そう言って、俺の目の前を黒いスカートが翻った。……しかし確か、クロニカのトランクはあの時、盾代わりに穴だらけになったはずだ。中身が無事とは思えない。

「そうね……確かに、着替えの服は全部ダメになっちゃったかもしれないけど、それでも、あの中には他に大事なものが入ってるから」

「? 何だよ、大事な物って」

 何気なく問いかけた俺に、クロニカは言い淀むような気配を挟んでから、言った。

「日記よ。ずっと書いてるの、この旅のことを」

 それだけは、たとえ穴だらけになっていても捨て置けないと。

 日記。その単語に、俺は何かを思い至ろうとして、しかし、今は頭が上手く回らない。

「……ちょっと待てよ。俺も行く。こっちの荷物も、あるしな」

 ついでに、もう少し薬が欲しかった。傷口が痛くて仕方ない。できれば強めの麻酔薬チンキがどこかの車両にないかと、ふらふらと立ち上がると同時。

「そうだ。一応お礼を、言っておくわ……上手くいくなんて、期待して無かったけど」

 振り返ったクロニカの言葉に対して、俺の答えは決まっていた。

「金のためだ」

「嘘つき」

 クロニカは件の左眼を閉じたまま、一転してはにかむように、唇を曲げてみせた。

「あなたは噓つきだから、そんな言葉、信じてあげない」

 言ってろ、そう吐き捨てようとした瞬間。

 不意にぽすりと、軽い体重が胸に飛び込んできた。まるで抱き着かれたような格好に、一瞬、俺は思わず停止して――。

 そこで唐突に、熱い感触が腹部を貫いた。

「――――ッッ‼」

「かっ――……ぁ、ライ、ナスっ……‼」

 目線を下げると、少女の腹から飛び出した、血濡れた杭の先端が俺の腹を刺し、背中を貫いたところだった。

 抉るような圧迫感と致命的な痛みが、差し込まれた胴体から全身を焼き尽くす。急転する視界。足の裏が浮いたと感じた途端、背骨に強い衝撃が走る。

 腹に刺さった杭もろとも射出されたのだと気付いた時には、積まれた石炭箱の側面に、俺はピン留めされた標本昆虫さながら、クロニカもろとも打ち付けられていた。

 抱き合ったような姿勢のまま、諸共に貫かれた少女を気にかける余裕はない。

 メキメキと床下を突き破って這い出てくる異形。それは絶え間なく生え続ける無数の棘針で、上半身の致命傷と断裂した下半身を歪に再生しながら動いていた。

 焦げ臭い金属の摩擦音とともに揺れが止まった。車両の連結部が破損したのか。ともかく停止した箱の中に、低くくぐもった、混じり気の無い憎悪が充満した。

「……何故だと、思う。答えろよ、劣等種。なぜこのオレが、下だ。貴様ら人畜生を詰め込んで揺れる臭い箱の、よりにもよってぇっ‼ 車輪の下にぃっ! このオレが敷かれなければならなかったぁっ! なあ! 貴様のせいだろうが、ゴミ虫がァッ‼」

 振りかざされる狂気を前に、ああ死ぬのだと、俺は頭の奥で理解した。

「楽には、死なさんぞ。お前は法を犯した。オレが上で貴様が下と定められた、〈かみ〉の敷いた摂理に背いたのだ……報いを、受けるべきだ」

 瞬間、両の手足が棘針によって貫かれ、骨ごと固定された。

「〈死性魔棘ダーインウィードル〉……覚悟しろ劣等種。未来永劫、我が毒棘が! 貴様を地獄の最底辺に縫い留めてやる!」

 そして額に刺さった棘針が、じわじわとその下へ、激痛の根を食いこませてくる。自分のものとは思えない絶叫が喉を震わせ、理性を離れた手足が折れそうなほど痙攣する。

 ……これは、報いなのだろうか。今まで散々、他人を欺き利用してきた詐欺師に相応しい罰が下っているのか。そう考えると、なぜかひどく納得できた。

 薄れゆく意識の中、はっきりとしているのは気が狂う程の苦痛だけで、けれどそれに対する万策はとうに尽きている。やれることは、すべてやったのだ。

 だから不思議と後悔もない――いや、だが、それだけは、なければならない。

 なぜなら俺は詐欺師だから。金が、金を、金で、金に、金のためなら何でもする人間の屑が、このまま潔く死ぬなんて、おかしいに決まっている。

 目線を下げる。抱き合わせのまま共に貫かれる、串刺しの少女をそこに見る。

 その左眼に奪われたまま戻らない金へ、あるいは、そこに■■■かもしれない「俺」の■■に、最後の想いを馳せようとしたその瞬間。

 暗転していく世界の中で、透明な熱に濡れた紫水晶が、こちらを静かに見つめ返した。

「――――‼」

 交わる視線。網膜を介して注ぎ込まれた何かが、刹那の際に脳髄を震わせる。

 それは、今まさに命を苛む苦痛いたみよりもなお鮮烈で。

 視界を閉ざしていく暗闇よりもなお致命的な、不明ふみょうに過ぎる虚無だった。

 

 ……そして俺は、落ちていく。

 どこへ? 分からない。真っ暗なその闇は全く以て意味不明だった。ただ、何だ? 口にしようにも、余りに単純すぎて逆に言い表せない。

 理解は及ばず、共感の余地もない。虚ろにして意味不明な暗黒が、俺という個人を跡形もなく咀嚼しながら飲み込んでいく。

 顔も名前も人生もろとも、俺が俺である全てを剥ぎ取られ、俺だった俺のようなものは何者でもなくなり、破滅的な坂を転がり落ちていく――いや、けれど、ちょっと待て。

 それを自覚している、この「俺」は一体なんだ。

 その瞬間、紛れもない「俺」自身の内側から、あの音が、聞こえた。

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