第一章 Wild bunch(11)
11
やめてと叫んだ。彼の名を呼んだ。
気が付けば熱い感触が、私の頬を流れ落ちていた。
「ライナス……っ‼」
進行形で貫かれ苛まれる傷口なんかより、胸の奥がひどく熱くて息が苦しい。
どうして、出会ったばかりの詐欺師の死に際に、こんなに心が揺れ動くのか分からない。
彼は嘘つきで、根性がひねくれた利己主義者で、打算的なお金の亡者で、つまりはとても同情できるような人間じゃない。それは
なのに、死んでほしくないと思ってしまう、自分自身が分からない。
『あなた、嘘をついているでしょう』
単なる興味本位だった。好奇心で、ちょっかいを出してみただけ。
『これからよろしくね、ライナス』
一緒に旅をして欲しいと言ったのもそう。ふとした気まぐれの、寄り道に過ぎない。
なぜなら、この旅路の果ては最初から決まっている。刻一刻と崩れ落ちていく道の先に待っているのは、どこでもない虚無の底。それだけは、ずっと前から知っている。
けれど、それでも、私は思い出が欲しかったのだ。
見て、聞いて、触れて、ほんの少しでも私という足跡を、この世界に残したかった。
そして、ああ、今ようやく気が付いた。
何者でもない
その結果がこの様だ。私のせいで、彼は地獄以上の残酷さで嬲り殺される。
そんな心のどこかで覚悟していたはずの結末を前に、予想もしていなかった激情が、もう動けない体の内でどうしようもなく荒れ狂ってしまう。
「……いやだ」
何が嫌なのか。
だって、私はまだ、もう少しだけ、彼と一緒に、旅をしたいのだから。
それを自覚した瞬間、溢れ出した想いが何かの引き金を引いた。
そして発動するのは、私自身もこの瞬間まで知らなかった、己の因子の三つ目の能力。
視線の行く先。死にゆく男の瞳の奥へ吸い込まれるように、その力は叩き込まれて。
「……なんだ?」
背後から響くグラキエルの声は、まるで私の代弁じみて揺れていた。
突如殴られたように、首を仰いで昏倒したライナス。密着した彼の体が、不気味に震え始める。流れ出た多量の血も、穴だらけの筋肉も骨も関係なく。まるで彼の中に入り込んだ別の生き物が、死体を無理やり動かしているみたいに。
そこでようやく、私は彼に何をしてしまったのかを悟り始めて……。
瞬間、瀕死のはずのライナスが、撃ち出されたかのように跳ね上がった。
猛烈な勢いに、彼の体を刺し留めていた棘針が抜け、私の体ごと床に落ちる。
「っ⁉ なん……何が起き――」
ヤツの驚愕が最後まで続かなかった理由は、横倒しの視界がはっきりと捉えていた。
赤い棘に覆われたグラキエルの右腕が、音もなく、引きちぎられていたのだから。
そして獣じみた叫びが、車両を内から食い破らんばかりに響き渡った。
「GIAAAAAAAAAA‼」
その声は、ライナス=クルーガーでも、彼が演じてきた仮初の人生の誰のものでもない。
〈
魂魄転写。誰かの記憶、感情、魂の全てを対象とした別の人物へ上書きする機能。
見る見るうちに、ライナスだった肉体が変貌していく。網膜に焼き付いた致命的な情報は一瞬で脳を汚染するにとどまらず、脳幹から脊髄へ流れ込み、血液を乗っ取り全身へ。そうしながら一人の男の存在を、人間でも貴族でもない何かへと造り替えていく。
無造作に、ライナスは握っていたグラキエルの右腕を貪り始めた。
その瞳に宿る異質さに、グラキエルは息を呑んで狼狽したのだろう。
「っ……く、
怖気を誤魔化すような喝破とともに、怒涛の如く棘針が発射された。
致命の豪雨に、けれど真正面からライナスの体は飛び込んだ。躱しも逸らしもその素振りすらしない。ヒトの理屈に沿った動きなど一切行わず、骨肉を穿つ棘針を取り込みながら肉薄し、素手の一撃が数百の棘を砕いてグラキエル本体を殴り飛ばす。
詰まれた石炭箱をなぎ倒し、貫通扉ごと隣の車両へ吹き飛んでいく貴族を追って、ライナスは両脚をバネ仕掛けの如く瞬発させる。
残骸の上に倒れ伏すグラキエル。その腕をもぎ、足を砕き、増殖する棘を知らぬとばかりにまとめてへし折って解体していく有様は、人外の範疇すら逸していた。
――以上の状況を、倒れたままに見つめることしかできない。そんな私の脳裏で、忌まわしい知識が次々と連鎖して、一つの予想を形作る。
この左眼が彼に移してしまったものは、けれど
なぜなら、見えるのだ。いま、狂ったように変貌した彼の瞳の中で蠢く暗黒は、まともな
その闇は、まさに。私が生まれた、忌まわしき
「ぁ……ああ、あ」
血濡れた唇から迸ったのは、取り返しのつかない事をしてしまったという嘆きだった。
ライナスという男の人生はいま、完全に終わった。
「がッ‼ ぐ、ぉぉおっ! き、貴様はぁァァァァッ⁉」
私の絶望を断ち切るような絶叫が、拷問吏の喉から迸った。グラキエルは必死の形相で棘針を連射し、ライナスの体を天井の外へと吹き飛ばして遠ざける。
そして荒い息とともに、血走った憎悪が私に向けられた。
「貴様ァッ! 貴様か貴様だな! 何をした! 忌々しい、呪われし
「うるさい……わよ。教えてあげるから、もう、喋らないで」
黙らせるように、私は哀れな貴族の瞳へ、知る限りの全てを投げ付けてやった。
〈王〉とは、
図らずとも、全てを知ってしまったグラキエルから、このとき完全に表情が消えて。
色を失ったその顔面に、砲弾のような拳が突き刺さった。
天井を突き破って、強襲する獣のように獲物を押し倒し、バラバラに引き裂いていく。再生する棘針の速度を上回る勢いで解体し、しまいには胸像のように頭と胸だけを引き抜いて――ぐしゃりと、両手でそれを握りつぶした。
そうして足元にこぼれ落ちた血と脳髄の残骸を、彼は一体どれぐらいの時間、搔きむしり続けていたのだろう。
「……ライナス」
ようやく、静寂を取り戻した車内で、私は再び彼と向き合った。
呆然と、糸が切れたように立ち尽くす男の瞳は、何も映していない。精神が先に死んでしまった肉体もまた変異に耐え切れず、遠からず自壊するだろう。
「ごめんなさい……」
もう届かない、ゆえに欺瞞に過ぎない謝罪が、涙と一緒に床に落ちた。その時だった。
「――え」
力なく垂れ下がった、動くはずのない彼の腕が小刻みに震えた。それから虚空をさまよった指先が、何かを見つけたように彼自身の顔へと向かう。
そこに、見えない何かを求めて指が動き、存在しない厚みを掴んだ途端。
「ふざ、けんな」
破けるような音が観えて、彼の内側から、顔の無い闇が剥がれ落ちた。
そして掠れた声が静寂を伝って、呆気に取られた私の鼓膜を震わせる。
「金、返せよ」