第一章 Wild bunch(12)
12
聞こえる。
コインの音が聞こえる。存在しない金の音が、過ぎ去ったあの日から、けたたましい警鐘を鳴り響かせている。「俺」は俺に戻らなくてはいけないのだと、だから。
「ふざ、けんな」
俺を塗り潰そうとする暗黒を、仮面と定義した端っこに指をかけて。
「金、返せよ」
遂に指先がそれを剥ぎ取った瞬間、押し寄せた解放感は思わず窒息しかける程だった。
色彩を取り戻した世界の中心で固まった、少女の顔に向けて、何か言ってやりたかったが、酸欠の頭では皮肉の一つも浮かばない。仕方がないので舌打ち一つ。
「どうして、なんで……あなたは」
「さあな……必死だったから、何をやって、何がどうなったかなんて、覚えてねえよ。
……けど、俺の、勝ちだな」
吠え面をかかせてやると、言った。判定は微妙だが、同じような物だろう。
その小憎たらしい澄まし顔が、驚く様が見れたから。
丁度そこが限界点。体の節々がまるで壊れた人形のように悲鳴を上げ、ついに体重を支えることを放棄した両脚が崩れるまま、俺は仰向けに倒れ伏す。
そして重い憔悴の泥濘に、取り戻したばかりの意識を投げ出そうとした、その時だった。
弾けたようなクロニカの笑い声が、俺の鼓膜を震わせたのは。
「は、はは……ふ、ふふ……あは、ははははははは――ッ!」
思わず顔を上げた先、少女は体を折り、左眼を抑えながら、大口を開けて哄笑していた。
笑う。
一体、何がそんなに嬉しいのか。
命が助かった事か? いや違う、この反応はそんな次元のものではないと直感する。
ならば何なのかと、その先へ思考を進める前に、
「私、本当に、ほんとうに……あなたと会えて、良かった」
歓喜を咽ぶ少女の壮絶な有様に、俺は言葉を失った。
見開かれた左眼からの落涙じみた流血は尋常じゃない。眼下周辺に浮かんだ血管は残らず破れ、ひび割れた陶器人形のように、色白い顔には赤い亀裂が無残に刻まれていた。
にも関わらず、今のクロニカは苦痛を感じているようには見えなかった。
傷ついた左眼を撫でながら、青ざめた唇が言祝ぐ訳は、俺にはまったく分からない。
「あなたが、詐欺師だったから」
なのに彼女は、俺を理由に感謝を告げた。
「あなたが、全然素直じゃない、ひねくれ者だったから……無いはずの顔を引き剥がしてしまうぐらいの、とんでもない大嘘つきだった……おかげで、私は、ようやく――」
そこで言葉を切った、血まみれの笑顔が晴れやかに言った。
「この旅に、
その瞳は、俺でも、俺の心でもなく、遥か先、海よりも遠い場所を見ている様に思えた。
――それから、暫しの時を置いて。
ようやく笑い終えた少女に、俺は躊躇いがちに声をかけた。
すでに汽笛と車輪の残響は影も形もなく、血に汚れた壁の隙間から差し込んだ茜色の夕陽が、少女の姿を薄暗がりに照らしている。
「なあ……これから、どうすんだ」
拭い残った乾いた血を微笑にはりつけたまま、クロニカは言った。
「言ったでしょ。海まで旅をするの。もちろん、あなたも一緒よ」
迷惑だと言い返す直前、クロニカはこちらを遮りながら、まるで歌う様に言った。
「でもまずは、お互い大変な目に遭った事だし、どこかでゆっくり休みましょう。あったかいお風呂とふかふかのベッドがあって、それから、景色の綺麗な宿がいいわ!」
そこでボロボロになった服の裾をつまんで、クロニカはやれやれと嘆息してみせた。
改めて、客車に置いてきた
今晩泊まることになる田舎の安宿で、無いものねだりされるよりはマシだろうから。
「景色だけなら、すぐ叶えてやる。……横向いてろ」
言うが早いか、軋む足に活を入れ、穴だらけの車両の西壁を蹴りつける。傷ついた安普請のツーバイフレームは張りぼてのように奥へ倒れ、それと入れ替わりに、息を飲むクロニカの前に一つの景色が立ち上がった。
「……嘘」
西――海の方角へと沈んでいく真っ赤な夕陽は、ちょうど白く峻険な
木の葉とともに吹き込んで来た山颪に、長い髪がたなびいて。
どれぐらいの時間、少女は異色の虹彩で、溶け落ちる夕焼けを眺めていたのだろうか。
「ありがとう」
振り返った微笑から贈られた感謝に、俺は聞こえていないフリをした。
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試し読みは以上です。
続きは2023年11月25日(土)発売
『マスカレード・コンフィデンス 詐欺師は少女と仮面仕掛けの旅をする』でお楽しみください!
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