〈異世界の戦場〉


 魔法少女ホームレスやお隣さんとの交流はさておいて、自身の日常に戻ろう。

 六畳一間の自宅スペースで、ピーちゃんと軽く打ち合わせを行う。本日も昨日と同様、異世界に行商へ向かう運びとなった。こちらの一日があちらの一げつという時間差の都合上、毎日の訪問は欠かせない。

 戦地へ赴いた子爵様は、二、三週間もあれば現地まで荷を届けることができると語っていた。つまり一ヶ月もあれば、早馬で現地から彼の到着を知らせる便りが、エイトリアムの町まで第一報として届いているかも知れない。

 両手には近所の総合スーパーのビニール袋。

 今回のステイで持ち込む商品が雑多に詰め込まれている。

『本日は荷が少ないのだな』

「あまり沢山買い込むと、課長にバレるからね」

『あの監視カメラとやらを仕掛けた男か?』

「実行犯とは別だけど、その指示をしていた人物かな」

 最悪、課長一人ならチャームの魔法のお世話になっても悪くはない気がしている。同じ職場の人間でもあるから、月に一度くらいは顔を合わせる機会もあるだろう。その度にチャームを掛け直すことも可能だ。

 ただし、相手の社会的な地位を考えると、一度でもチャームの魔法を掛けたのなら、今後は一生面倒を見続けなければならない。だからこそ、そう容易には手を出したくない。最後の手段と考えるべきだろう。

『面倒な相手なのか?』

「権力を持ってるのは間違いないよ」

 一般企業で課長と言えば、平社員に毛が生えたようなものである。大企業であったとしても、それは大差ない。しかし、中央省庁で課長と言えば、官僚である。それもあの若さで昇進したとなると、将来は高級官僚も間違いない。

 異能力の存在がいささか現実味を奪うけれど、もしも彼がキャリアとして正しい道を歩んでいるのであれば、そう遠くない未来の出来事だ。だからこそ、絶対に嫌われたくない相手である。靴をめてでも味方ポジに収まっていたい。

 彼は他人の社会生命を、自らの手を汚すことなく操れる人物なのだ。

「それじゃあ、お願いするよピーちゃん」

『うむ』

 ピーちゃんがうなずくのに応じて、足元に魔法陣が浮かび上がる。

 いまだ慣れない浮遊感が全身を襲った。


    *


 世界を移った我々は、その足でハーマン商会に向かった。

 店先にはいつもどおり、門番的なポジションにある店員さんが立っている。彼に副店長のマルクさんはと尋ねると、大慌てで応接室に招かれた。持ち込んだ商品の確認もままならぬまま、どうぞこちらへと案内された。

 なにかあったのだろうか。

 疑問に思いながら応接室まで足を運び、副店長さんと顔を合わせる。

 こちらの世界では一ヶ月ぶり。

 そこで目の当たりにした彼の表情は、まるでこの世の終わりだと言わんばかりのものであった。つい数年前のこと、三年ルールの適用直前、一方的に契約の破棄を宣告された派遣社員の山崎さんが、こんな感じの顔をしていた。あれはひどかった。弊社的な意味で。

「マルクさん、なにやら体調が悪そうに見えますが」

「いえ、体調はこれといって問題ありません」

「そうでしょうか?」

「ですがその、なんと申しますか……」

「ハーマン商会さんに何かあったのでしょうか?」

「いいえ、商会ではないのです」

「個人的な問題でしょうか? それでしたら突っ込んだお話をすみません」

「…………」

 繰り返し問い掛けるも、副店長さんは優れない顔をするばかり。

 明確なお返事が戻らない。

 普段の彼を知っているだけに、こうした振る舞いには疑問も一入ひとしおである。取り引きの場でさらすにしては、あまりにも不適当な態度だ。だからこそ、こちらも何が起こっているのか気になってしまう。

 ただ、それも続けられた言葉を耳にしては納得だ。

「……ササキさん、ミュラー子爵が討ち死にされました」

「え……」

 完全に想定外のご回答である。

 すぐに返事が出てこなかった。

 何かをしやべろうとして、いこと喋れなくて、それでもどうにかあいづちだけでも打とうとして、と繰り返すばかり。やがて、ようやく絞り出すようにして声になった言葉は、ろくに意味も伴わないつぶやきである。

「それはまた、なんと申しますか……」

 後方から補給と築城の手伝いを行うだけではなかったのだろうか。兵も碌に連れて行かなかったと記憶している。それがどうして討ち死にするような状況にまで至ってしまったのだろう。後方部隊が被害を受けるほど、この国は劣勢なのだろうか。

 肩の上では小さくピクリと、ピーちゃんの震える気配が感じられた。


    *


 副店長のマルクさんから、ミュラー子爵について詳しい話を伺った。

 どうやら自分の考えたとおり、戦況は常に隣国、マーゲン帝国の優勢で進み、一方的であったのだとか。これにより後方で支援にあたっていた子爵様の下まで、敵兵の進攻を許してしまったのだという。

 この様子では我々が用意した兵糧も、隣国に奪われてしまったことだろう。

 副店長さんが知らせを受けたのは、つい数日前らしい。

 遺体こそ見つかっていないが、生存は絶望的だという。ちなみにこれら一連の情報を伝えたのは、ミュラー子爵と同じ後方部隊に忍ばせていた、ハーマン商会の使いの者だと言う。命辛々早馬で戻ってきたのだそうな。

「これはとんでもないことになりそうですね……」

「ササキさんのおつしやるとおり、町は大混乱となるでしょう」

 今はまだ町の皆々には、子爵様の死は伏せられているそうだ。情報を伝えたのはミュラー子爵家のみとのこと。けれど、前線のみならず後方部隊まで瓦解したとあれば、情報が漏れるのは時間の問題である。

 恐らく他の組織も、副店長さんと似たようなことをしているだろうし。

「お城の様子はどうなのでしょうか?」

「それが城では、この期に及んでお家の跡目争いが始まりまして」

「この状況でですか?」

「ええまあ、ヘルツ王国らしいと言いますか……」

「…………」

 これには副店長さんも申し訳なさそうなお顔である。

 ミュラー子爵ご本人こそ人格者であったと思うけれど、身内に関してはそうでもなかったようだ。もしくはそうせざるを得ない状況が発生しているのか。いずれにせよ、彼のご実家は一枚岩ではないようである。

 かくして町のお先は真っ暗だ。

 ピーちゃんの反応も気になるので、この場は時間をもらって、二人で作戦会議を行うべきだろう。自分はそれほど親しい間柄でもないから、あまりショックは大きくない。しかし、彼はどうだか分からない。

 子爵様とは少なからずこうがあるような語り口であった。

「すみませんが、少しお時間を頂いてもよろしいでしょうか?」

「それなのですが、実はお城から呼び出されておりまして……」

「え、まさか私もですか?」

「ミュラー子爵の執事殿からの呼び出しでして、どうかご足労願えたらと」

「……承知しました」

 これまで良くして下さった副店長さんに迷惑を掛ける訳にはいかない。

 致し方なし、彼と共にお城まで向かう運びとなった。


    *


 馬車に揺られることしばらく、我々は子爵様のお城に到着した。

 通された先は、以前にも訪れた覚えのある応接室だ。

 対面のソファーには十三、四歳ほどとおぼしき少女が腰を落ち着けている。艷やかな白い肌と青い瞳の、とても可愛かわいらしい顔立ちの女の子である。ただ、そうした顔立ちにも増して印象的なのが、ミュラー子爵と同じブロンドの髪を盛りに盛った頭部の飾りっぷり。

 現代日本でも、若い女性の間でキャバ嬢カルチャーが一般にった時期がある。そのときに流行した盛り髪に勝るとも劣らない盛りっぷりである。頭髪に悩む中年男性としては、羨ましいにも程がある光景ではなかろうか。

 端的に称して、コギャル感が半端ない。

 また、ソファーに座った盛り姫様の背後には、六十代ほどと思しき老齢の男性が、直立不動で控えていらっしゃる。副店長さんに連絡を入れたミュラー子爵の執事殿だそうな。年の割に背筋が良く伸びており、筋肉質な身体からだ付きをしている。

「……我々にを求められるのですか?」

「このようなことを家の外の方にお願いするのは恐縮ですが、どうか我々の願いをお聞き願えませんでしょうか? 昨今、こちらの屋敷ではお館様の跡目を巡り争いが起こっております。その影響は跡目に関係のない、こちらのお嬢様にまで及ぶほどでして」

「私はお初にお目にかかると思うのですが、そちらのお嬢様は……」

 主に応対しているのは、副店長のマルクさんである。

 自分とピーちゃんは彼の隣に腰掛けて、何を語るでもなく話の成り行きを見守っている。かなり込み入った話題のようであるから、こちらの世界の文化風習に疎い門外漢が口を出すには難度が高い。

「お嬢様、ハーマン商会様にご挨拶を」

「……ふん」

 執事の彼に促されて、盛り姫はつまらなそうに鼻を鳴らした。

 これまた不機嫌そうである。

 その首が動くのに応じて、頭髪に盛られた飾りがゆらゆらと揺れる。額より上に縦長な盛りっぷりは、僅かな首の動作にも先端を大きく揺らせた。見ている我々としては、飾りが落ちるのではないかと気が気でない。

「どうして私が平民に名を名乗らなければならないの?」

「このままではお嬢様の身の安全にも関わります。向こうしばらくはハーマン商会様の下で、お屋敷が落ち着くまで過ごされるべきでしょう。つい先日にも、食事に毒を盛られたことをお忘れですか?」

「っ……」

 どうやら割と退きならない状況に晒されているようだ。

 食事に毒なんて、自分だったら絶対にトラウマになる。

 刺し身にアニサキスが入り込んでいただけでも、数ヶ月ほど生魚が食べられなくなった覚えあるもの。以降もイカ刺しを食べるときは、必ず冷凍物を指定。新鮮なネタほどアニーちゃんとの遭遇確率は高いと学んだ。

「……私はエルザ・ミュラーよ」

「はじめてお目に掛かります、エルザお嬢様。私はハーマン商会で副店長をしております、マルクと申します。そして、私の隣におりますのは我々商会と同様、こちらのお屋敷に出入りをさせて頂いております、商人のササキと申します」

「はじめまして、ササキと申します」

「…………」

 盛り姫様は我々の顔をつまらなそうに眺めている。

 これと言って興味はなさそうだ。

 貴族と平民、身分的な問題も多分に影響してのことだろう。

「エルザお嬢様は長男であるマクシミリアン様と仲がよろしいため、マクシミリアン様と家督を争っている次兄のカイ様に目を付けられております。おふた方の後ろにはそれぞれを支持する貴族の方々の存在がありまして、我々も対応に困窮している状況です」

 なにやら新しい人名が沢山出てきたぞ。

 この場にいない兄弟の名前など、すぐに忘れてしまいそうだ。漢字ならまだ文字の雰囲気で意識することができるけれど、横文字だとそれも難しい。取り急ぎ長いほうが長男、短いほうが次男と覚えておくことにしよう。

「お嬢様の存在が家督争いに影響するのですか?」

「カイ様とは幼少より仲がよろしくなかったことが関係しているものかと。屋敷の人間にはお嬢様をひいにする者も多いですから、そうした背景も手伝っているのでしょう。また、跡目争いで精神が過敏になっているということも考えられます」

「カイは馬鹿なの。あれが跡目を継いだら家は終わりだわ」

「お嬢様、お客様の前でそのような物言いは……」

「だって本当のことじゃないの」

「他の家の方々にご助力を願われないのですか? たしかに我々の商会はそれなりの規模があります。ですが、それでもやはり平民に過ぎません。貴族の方々にお声を掛けられた方が、確実ではないかと存じます」

「これでなかなか複雑なものでして、ミュラー家に関係する方々は、どこまで信じられるか分からないのです。長年勤めている私であっても、今回の跡目争いについては、判断がつかない部分が多くございます」

「なるほど」

 彼女が跡目争いに直接絡んでいるのでなければ、これを助けることはそこまで大変な仕事ではないだろう。ハーマン商会さんなら、セキュリティの利いた施設を確保することも可能と思われる。たとえ平民であっても、蓄えた銭の力は並の貴族を寄せ付けない。

 一方で無事に仕事を終えた時、ミュラー家に売れる恩は大きい。

 副店長さんもそのように考えたようで、続く言葉は穏やかなものだった。

「承知しました。ミュラー子爵にはいつもご贔屓にして頂いておりました。ご家族の危地とあらば、我々も微力ながらお力添えしたく存じます。ご不便をおかけするかも知れませんが、それでもよろしければ、どうぞ我々の下にいらして下さい」

「ありがとうございます。お嬢様、お嬢様からもご挨拶を」

「……世話になるわね」

 ぶっきらぼうに語ってみせる盛り姫様は、中学生ほどと思しき年頃も手伝い、思春期もただなかの娘さん、といった雰囲気を感じる。私の服をパパのパンツと一緒に洗わないでよね、みたいな台詞せりふが似合いそうだ。

「それでは早速ですが、店の者に滞在先を確保させるとしましょう」

 副店長さんは笑みを崩すことなく、淡々と話を続ける。

 お貴族様とのやり取りにも慣れているのだろう。こうしてお偉いさんのお子さんを相手にするのも、初めてではないものと思われる。身分の上ではどうだか知らないが、経済力を含めた力関係では、意外とイーブンなのかも知れない。

「すみませんが、それともう一つお願いがございます」

「なんでしょうか?」

「そちらのササキ様は、なんでも大変珍しい商品を扱っていらっしゃるのだとか。以前、旦那様から伺ったお話によりますと、遠く離れた場所でお互いに会話をするような道具や、はるか遠方を見渡す道具をお持ちだと耳にしました」

 ここへ来て急に執事の人から話を振られた。

 副店長さんが自分を連れてきた理由はこれだろう。

 彼に代わって、ここからは受け答えをさせて頂く。

「たしかにそのような商品もございます」

「それらを一式ずつお譲り頂きたく思います」

 素直に答えて応じると、執事さんから即座に発注が掛かった。

 何に利用するつもりだろうか。

「一方はかなり制限のある商品となりますが……」

「それは存じております。なんでも遠く離れた場所と話をする道具には、距離に制限があるそうですね。しかも利用する為には、特別な金属が燃料として必要になり、これが非常に高価だとも伺っております」

「ええ、そうです」

「そちらですが、どうか売っては頂けませんか?」

「……そうですね」

 ミュラー子爵の執事さんが相手なら、構わないのではなかろうか。

 発注を受けた数も一つだけだし。

「承知しました。近い内に仕入れて参ります」

「ありがとうございます。とてもうれしく存じます」

 そうして子爵様のお城でのやり取りは過ぎていった。


    *


 ミュラー子爵宅で話を終えた副店長さんは、すぐにどこともなく去っていった。

 なんでも盛り姫様の住まいを用意しに向かうのだとか。執事の人からも、なるべく早めにお願いします、との注文を受けていた。当然ながら我々とっているような暇はない。今晩あたりは徹夜かも。

 そこでこちらは例によって魔法の練習にやってきた。

 継続して中級魔法の新規習得に励んでいる。

 守りについては、回復魔法と障壁魔法を中級グレードで覚えたので、次は攻め手のバリエーションを増やそうと考えた。唯一使える攻撃性の中級魔法は、雷撃を放つ魔法である。これが非常に指向性の強い魔法であるから、次は広域を補える魔法を練習中だ。

 幾つか呪文を教えてもらったので、それらを順次繰り返している。

『……まさか、あの者が討たれるとはな』

 しばらく練習をしていると、かたわらでピーちゃんがボソリと呟いた。

 ちなみに同所での彼のポジションは、こちらの肩を離れて、地面の上に置かれたリュックサックの上である。そこにちょこんと止まって、魔法の練習に励む中年野郎を見守って下さっている。可愛らしくも頼もしい文鳥だ。

「ミュラー子爵とは仲良しだったのかい?」

『仲良しというほどではないが、何度か酒を酌み交わした覚えがある』

「……そっか」

 副店長さんから訃報を聞いて以来、どことなく湿った雰囲気を感じる。

 恐らく同じ会社に勤める同僚のような関係にあったのだろう。

『もう少しばかり、長生きすると思っていたのだがな』

「…………」

 出会って間もない自分には、彼に掛ける上手い言葉が浮かばない。

 魔法の練習の手を止めて、その様子をうかがうばかり。

 ただ、ずっと黙っているのも気まずいので、異世界一年生という立場を利用して、適当なところで合いの手を入れさせて頂こう。

「こっちの世界には、人を生き返らせる魔法とか、あったりするのかな?」

『厳密には存在しない。ただ、似たようなことを行う方法はある』

「え? 本当に?」

『しかしながら、そのためにはいくつかの条件が存在している。それに全てが全て元通りという訳でもない。最低でもこれまでの生活を、人としての営みを放棄する必要がある。同時に世間からは、外法として忌み嫌われている』

「……なるほど」

『そちらの世界には存在するのか?』

「申し訳ないけれど、力になれるような技術はないかな……」

『いいや、貴様が謝る必要はない。生きているということは、いつか死ぬということだ。今回の一件ではあの者に限らず、多くの者たちが亡くなったことだろう。いちいち気にしていては身が持たん』

 ミュラー子爵の言葉を信じるのであれば、こちらの文鳥は腐敗も甚だしい貴族社会の中にあって、それでもお国の為に立ち回っていた豪傑である。そんな人物の諦めにも似た物言いは、出会った当初の告白と相まり、なんとも重々しいものとして響いた。

「もしも自分に何か手伝えるようなら、気軽に声を掛けてよ」

 愛しいペットの為なら、多少のリスクは取る覚悟がある。

 これまでの好意に報いたいとも感じている。

「これでもペット思いの飼い主だからさ」

『ふふん、稼ぎが悪い割には口達者ではないか』

「そっちも頑張るってば」

『……ああ、期待していよう』

 すぐにどうこうと考えない時点で、ピーちゃんは既に、この世の中から一歩身を引いてしまっているのだろう。だからこそ、そんな彼に先んじて自分が動くのも違う気がして、意識は再び魔法の練習に向かった。

 しかし、それから数日ほど頑張ったけれど、新しい魔法は覚えられなかった。

 色々と気になることが多くて、雑念が入ってしまった為ではなかろうか。

 魔法の行使に大切なのはイメージ、とのことである。


    *


 魔法の練習が上手く進まないことを受けて、気分転換することにした。

 向かった先はハーマン商会さんのお店である。

 ミュラー子爵の娘さんの近況を確認しに訪れた体で、軽く雑談でもしようと考えた次第だ。当面の彼女の所在については、我々も確認をしておいた方がいいだろう。執事の人と顔を合わせている都合上、何かあったときに知りませんでした、というのは避けたい。

 もしも彼女と顔を合わせることができたのなら、趣味や食べ物の好みなど、尋ねてみてもいいかも知れない。盛り姫様のご機嫌伺いにチャレンジである。中学生くらいの女の子だし、有名店のケーキなど買っていったら、喜んでくれるのではなかろうか。

 というのも、自分が彼女とお話をすることで、肩の上のピーちゃんも、少しは気が晴れるのではないか、とか考えていた。本人はあまり多くを語ろうとしないが、子爵様とはそれなりに交友があったように思われる。

 そうした理由から、我々は副店長さんを訪ねた。

 すると彼はいつものニコニコ笑顔を浮かべて、盛り姫様の下まで案内をしてくれた。場所はハーマン商会の本社が収まる建物の上階フロアだ。色々と検討した結果、同所こそが安全且つ快適であると判断したのだそうである。

 感覚的にはタワマンの最上階、みたいな感じだろうか。

 ハーマン商会の本拠地ということもあって、深夜でも常に見張りが立っているそうだ。そうして聞くとたしかに、これ以上ない隠れ家だと思う。更に今後は盛り姫様の為に警備を増員、武装した護衛もマシマシだという。

 居室はかなり豪華なものだった。

 三十平米ほどの広々とした一室に、天蓋付きのベッドやごうしやなソファーセットが窺える。調度品は店のものだろうか、それとも屋敷から持ってきたものだろうか。いずれも非常にお金が掛かっているように見える。

「お久しぶりです」

「……なに?」

 軽快にご挨拶をしたつもりだけれど、お返事は厳しいものだ。

 ベッドに座り込み、こちらをにらみつけていらっしゃる。

 副店長さんが一緒だったら、もう少し穏やかに対応してもらえたのかも知れない。しかし、彼は本日も忙しいとのことで、同所には自分とピーちゃんの二人で向かう運びとなった。きっと子爵様の敗退における処理とか、色々とあるのだろう。

「ご挨拶をと思いまして、伺わせて頂きました」

「言っておくけど、私には利用価値なんてないわよ? あの家のことはお兄様たちが握っているから、この身体をどうにかしたところで、何の利益も得られないのだから。私にできることは精々、晩御飯の献立に追加で一品お願いするくらいかしら」

「なるほど、エルザ様は美食に覚えがお有りですか?」

「……私のこと、馬鹿にしているの?」

「滅相もありません。私の知り合いがこちらの町で、上流階級向けの飲食店を経営しています。もしよろしければ、気晴らしにと考えておりました。やはり外を出て回るのはおつくうでしょうか? それでしたら料理を取り寄せることもできますが」

 ピーちゃんが一緒なら、少しくらいは外出しても問題ないだろう。

 ミュラー子爵の言葉を信じるのであれば、星の賢者様は最強の魔法使いである。彼女一人なら十分に守ることができると思われる。それでも気になるようであれば、副店長さんに言って護衛を付けてもらえばいい。

 屋内に引きこもりっぱなしというのは、精神衛生上よろしくないと思う。自身も過去に一ヶ月くらい、部屋に引きこもって生活した経験がある。あっという間に自律神経が乱れて、どうが止まらなくなり、疲れていても眠れなくなった。

 小さなことが気になり、得体の知れない不安にさいなまれるのだ。

 日が出ている内に起床して、寝起きに熱いシャワーを浴びた上、十分な陽光を視界に取り入れる。これを繰り返したところ、数日ほどで体調は復帰した。人の身体は薄暗い部屋に引きこもるようにはできていないと、身をもって理解した。

「いかがでしょうか?」

「……何という店なの?」

「それは……」

 しまった、フレンチさんがやっている店の名前、知らない。

 どうしよう。

 それもこれも彼に仕事を丸投げした自分が悪い。

「お店の名前はあまり出回っておりません。繁華街の一等地で、店頭のベンチにまでお客様の予約が入っているお店、と言えば興味を持って頂けますでしょうか?」

「それはもしかして、フレンチの店のこと?」

 それっぽく語ってみせると、相手に反応があった。

 聞こえてきたのは店長の名前である。

「あ、はい、多分それです」

貴方あなた、あの店の店長と知り合いなの?」

「店長の名前はフレンチで間違いありませんか?」

「ええ、そうよ。甘いお菓子と奇抜な料理で有名なお店」

「それなら間違いありません」

「あのお店、名前がないのよね……」

「そうなのですか?」

 よかった、どうやら無事に切り抜けたようである。

 っていうか、名前もないのによく営業しているものだ。現代日本ほど厳密な規則はないのだろうけれど、それでも感心してしまう。足を運んでいるお客さんも、どうやって店のことを扱っているのか。

「何度聞いても、まだ決まっておりませんのでって言われるの。だからあの店に通っている者たちは、店長の名前からフレンチの店って言っているのよね。まあ、今となってはそれがもう店の名前みたいなものなのだけれど」

「なるほど」

 そんなことになっているとは知らなかった。

 ただ、おかげでこちらは助かった。

 フレンチさん、本当にありがとうございます。

「いかがでしょうか? 予約だ何だと面倒な手間は省いて、本日中にでも食事をることができると思います。興味はありませんか? もしよろしければ、お好みの料理をご用意させて頂きたいと考えているのですが」

「私の機嫌を取ってどうするつもり? パパはもういないのよ?」

「他意はありません。ちょっとした気晴らしになればと」

「…………」

「それとも他のお店がよろしいでしょうか?」

 ピーちゃんが少しでも大切だと思う人の娘さんだ。

 なるべく良くしてあげたい。

 ペットの悲しみは飼い主の悲しみである。

「あそこは貴族が相手だろうと、一律で予約のよこやりを断っているお店よ。それが原因で何度か問題になったこともあったようだけれど、後ろにハーマン商会が付いているから、あまり強く言える人もいないらしいわ」

「大丈夫でございます。お約束します」

 フレンチさんのお店、そんなにすごいのかい。

 これでも毎日のように通っている。しかし、自分やピーちゃんはお店の勝手口から入って、奥の個室で食事をするばかり。そうした経緯もあって、様からの評判を気にしたことはなかった。

「……そこまで言うなら、付き合って上げてもいいわ」

「ありがとうございます」

 普段から別室で食事を頂いている我々だ。一人くらい人数が増えても、たぶん問題はないだろう。


    *


 盛り姫様の承諾を得た我々は、その足でフレンチさんのお店に向かった。

 移動の足はハーマン商会の副店長、マルクさんが用意してくれた馬車だ。ついては護衛として、お店の用心棒だという人たちが数名、周りを取り囲んでいる。相乗りした我々としては、些か肩身の狭い状況である。

 そうして馬車に揺られることしばらく、目的地に到着した。

 いつもどおり勝手口から中に入ると、お店の主人が出迎えてくれる。

「旦那っ! 今日はいつもより早いですね!」

「いきなりで申し訳ありません。本日はいつもより一人多いんですが……」

「お客様ですか? 承知しました! どうぞこちらへ」

「ありがとうございます」

「いやいや、それはこっちの台詞ですよ! ゆっくりしていって下さい」

 恭しくも頭を下げて、フレンチさんは我々を奥の個室に案内してくれた。いつもピーちゃんとの食事で利用しているお部屋だ。他のお客さんがやってくることはない。ちょっとした隔離スペースである。

 一連のやり取りを眺めては、盛り姫様が驚いた表情でこちらを見つめていた。

 卑しい話だけれど、なんだかちょっと気分がいい。

 そして、以降は個室で盛り姫様と共に、食事をしながらのお話と相成った。

 店の料理が気に入ったのか、彼女の機嫌は出会った当初より改善している。

「このカレーという料理は絶品ね。幾らでも食べられそう」

「それはよかったです」

 スープカレーを口にしながら、しきりに語ってみせる。

 同店の人気メニューなのだそうな。

 この様子であれば、フレンチさんにカレーライスのレシピを渡す日も近いかも知れない。個人的にはスープカレーよりも、ドロドロのルーをライスに掛けて頂くスタイルのほうが好物だ。揚げ物が乗っているとなお良し。

 肩から降りたピーちゃんも、テーブルの上で料理を楽しんでいる。彼のために用意された平皿の上で、小さく刻まれたお肉をついばむ姿が非常にラブリーだ。高解像度で動画撮影したい欲求に駆られる。

 そうしたこちらの視線を確認してだろうか、盛り姫様から声が掛かった。

「ところで貴方、その使い魔はとても可愛らしいわね?」

「ええ、とても大切な使い魔でございます」

「私にでさせなさい」

「…………」

 これまたいきなりなご相談である。

 そういうのってピーちゃん的に大丈夫なのだろうか。思えば自分も、碌にナデナデした覚えがない。気になって本人に視線を向けると、彼からは元気よく返事があった。今までお肉を啄んでいたくちばしが皿の上を離れて、娘さんに向かい開かれる。

『ピー! ピー!』

 中身を知っているからこそ、申し訳ない気分だよ。

 いやしかし、可愛らしい女の子に身体を撫でてもらえるなら、それはそれで男としては本望か。学生の頃、野球部の男子がクラスメイトの女子から、丸刈りの頭を撫でられているの、とても羨ましかったことを覚えている。触り心地がどうのこうの。

 テーブルの上をぴょんぴょんと跳ねて、ピーちゃんが移動する。

 彼が手元まで移ると、盛り姫様の腕が伸びた。手の平ですくい上げるようにして、軽く身体を持ち上げると共に、もう一方の手で小さな文鳥の頭を撫でる。優しくナデナデと触れる。

「ふふふ、可愛いわね」

『ピー! ピー! ピー!』

「ふわふわしていて、とても撫で心地がいいわ」

『ピィー』

 どことなく鳴き声が気持ちよさそうに聞こえる。

 もしかして、日常的に撫でてあげた方が良かったりするのだろうか。そういえばペットショップのやまさんも、信頼関係を築く為には触れ合いが大切だと言っていた。いやしかし、いくら可愛いとは言っても中身は賢者様だからな。

 素性を理解する飼い主としては、距離感に悩んでしまう。

「とても人に慣れているのね。使い魔だからかしら?」

『ピー! ピー!』

「私もいつか、こういう人懐っこい鳥を飼ってみたいわ」

『ピー! ピー! …痛っ……』

「っ!?」

「…………」

 ピーちゃん、今のちょっとアウトっぽい。

 彼の頭部を撫でる盛り姫様の爪先が、そのつぶらなお目々に当たったようである。めっちゃ痛そうだった。声を上げてしまうのも仕方がない。どれだけ身体を鍛えても、粘膜部位だけはどうにもならないのが、生き物の仕組みである。

 おかげで悲鳴が完全にヒューマンしていたよ。

「な、なに、今の……」

『…………』

「……喋ったような気がするわ」

『ピー! ピー! ピー!』

 必死に文鳥を装ってみせるピーちゃん。

 そういうけなな姿も嫌いじゃないよ。

 しかし、盛り姫様をだますことは難しそうだ。彼を撫でていた手は完全に止まっている。驚きから見開かれた目が、ジッと手の内の文鳥を見つめているぞ。これって本当に鳥なの? と訴えんばかりのまなしだ。

「今、絶対に喋ったわよね?」

『ピッ……ピーッ! ピーッ! ピーッ!』

 こちらの世界であっても、小鳥が人語を解するのは例外的な出来事のようだ。ピーちゃん、めっちゃ頑張って鳴いている。そこはかとなく漂うくそ感が愛らしい。星の賢者だ何だとはやされつつも、意外と人間臭いところが親近感を誘う。

 頑張り過ぎて喉を傷めないように注意されたし。

「ちょっと貴方、い、今の聞いたわよね?」

「なんのことですか?」

「私の指先が目元に当たってしまって、それで悲鳴を……」

 手の内に収まったピーちゃんを見つめて、いぶかしげな表情となる盛り姫様。おもむろにその指先が、再び彼の目元に向かい伸びてゆく。まさか改めて触れて確かめようというのか。いくら何でもそれは可哀かわいそうな気がするんですけれど。

『っ!?』

 危機を察したピーちゃんは、翼を羽ばたかせてひらりと宙を舞った。

 そのままパタパタと羽ばたいて、こちらの肩に戻ってくる。

「あっ……」

「あまりいじめないで上げて下さい」

「……べつに苛めてなんていないわよ」

 可愛らしい文鳥との触れ合いで、父親との別れを少しでもいやすことができたのなら、などとも考えたけれど、逆にピーちゃんの方がダメージを受けてしまったぞ。どこかで回復魔法を使うタイミングを設けないと。

 そうして食事の席を共にすることしばらく。

 不意に部屋のドアが開かれた。

 ノックもなしに何事かと意識を向けると、そこにはかハーマン商会の副店長さんの姿があった。彼はハァハァと息も荒く部屋の様子を窺う。そして、テーブルセットに盛り姫様の姿を見つけるや否や、声も大きく訴えてみせた。

「エルザ様、大変です! 兄君様と弟君様がお亡くなりになりましたっ!」

「えっ……」

「申し訳ありませんが、急いでご実家にお戻り下さいっ!」

 まさかの訃報ラッシュ。

 なんだそれはと思わず声を上げそうになった。

 どうやら家督を争っていた彼女の兄弟が、共倒れしてしまったようである。


    *


 こちらの世界において、貴族の位とは基本的に男が継ぐものらしい。

 長男と次男の間で家督を争うことは決して珍しくない一方、これに長女以下、女の子として生まれた子が混ざることはな出来事だそうな。しかし、それでも女性が家督を継ぐケースが、場合によってはあるらしい。

 それがたとえば今回、盛り姫様に訪れたような状況である。

「わ、私が家を継ぐなんて、そんなの無理よっ……」

「ですが他にお家を継ぐのにふさわしい方はおりませんので」

「…………」

 ミュラー子爵宅の応接室には、盛り姫様の他に、執事の人と副店長さん、それに自分とピーちゃんの姿がある。フレンチさんのお店から、子爵様のお城まで馬車を飛ばしてやって来たところ、こちらにご案内を受けたのだ。

 今は皆でソファーに腰を落ち着けて相談の最中となる。

「お嬢様、どうかお願い致します」

「でも……」

 盛り姫様と主に会話をしているのは執事の人。

 彼だけソファーセットの脇に立っている。

 これを自分や副店長さんが対面から眺めている、といった状況だ。我々のような部外者が、こんな込み入った話し合いに居合わせてしまっていいのかと、疑問に思わないでもない。ただ、勝手に出ていくこともはばかられて、黙って様子を眺めている。

 副店長さん的には、またとない商機だろう。

 行きがけに彼から聞いた話だと、女性が家を継ぐのは一時的なものらしく、将来的には結婚した相手に家督を譲るのが一般的だという。しかし、臨時とはいえ子爵家のトップに立つのは間違いない。結婚相手を見繕う期間も、それなりに掛かることだろう。

 その相手の庇護者というポジションは、きっとしいはずだ。

「誰かが継がねば、お家は取り潰しとなってしまうのです」

「…………」

 ちなみに亡くなってしまったご兄弟についてだが、お互いに毒を送り合って、そのまま帰らぬ人になってしまったとのことであった。これは同所を訪れた直後、執事の人から聞かされた話である。

 犯人は兄弟を担いでいた他の貴族だというから、不幸な話だ。兄弟仲はそれほど悪くなかったそうで、恐らくは欲を出した親族同士の争いに巻き込まれたのだろうと説明を受けた。そう考えると一番の被害者は、亡くなってしまった彼らである。

「お嬢様が継がねば、多くの者が路頭に迷うことになります」

「そうだとしても、私にそんな才能はないわ!」

「お館様としての仕事は我々がサポート致しますので、どうか名目だけでも、家を継いでは頂けませんでしょうか? 決して悪いようには致しません。実務は全て私どもが当たらせて頂きます」

「…………」

「どうかお願い致します。このセバスチャン、必ずやお支えしてみせます」

 深く頭を下げてお辞儀をしてみせる執事の人。

 その姿を眺めて、彼女は渋々といった態度で頷いた。

「……分かったわよ」

「ありがとうございます」

 どうやら本日から、こちらのお城は盛り姫様の物になるようだ。

 必然的に自身の商売相手も彼女ということになる。もちろん執事の人の言葉通り、本人が矢面に立つことはないだろう。それはそれで構わない。ただ、引き継いだ各部署の担当者の手綱をちゃんと握ることができるか否か、その点は怪しそうだ。

 当然、ミュラー子爵とのやり取りも白紙に戻ることだろう。これまでと同様に清く正しいお取り引きができるかどうかは、蓋を開けてみないとなんとも言えない。場合によっては人の話を聞かないタイプのお貴族様が出てくる可能性もある。

 なんだか段々と不安になってきた。


    *


 娘さんの承諾を得たことで、執事の人は足早に応接室を去っていった。

 色々と手続きや根回しがあるのだろう。

 部屋に残ったのは自分とピーちゃんの他に、盛り姫様と副店長さんの合わせて三名と一羽。ソファーに腰を落ち着けたまま、さて、どうしたものかと顔を突き合わせている。息が詰まりそうな雰囲気だ。

「……なんでこんなことになってしまったのかしら」

 誰に言うでもなく娘さんが呟いた。

 今にもくじけてしまいそうな弱々しい響きだった。

 これを受けて副店長さんが問い掛ける。

「お家を継がれるのは負担ですか?」

「そんなの当然じゃないの」

「ですが、この家はミュラー子爵が愛されたお家です」

「大切な家だからこそ、私の手で段々とちていく様子を目の当たりにするのは、とてもつらいことだわ! お父様でさえ苦労されていたのよ? それがどうして、私のような者が上に立って、上手く回る筈がないじゃないの!」

「いえ、そうと決まった訳では……」

「決まっているわよ! カイ兄さんに継がせた方がマシだわ!」

 ついに我慢の限界を迎えたようで、可愛らしいお口から言葉が漏れる。

 彼女は次兄と不仲であったと過去に聞いた。

 そんな相手を引き合いに出すほどだから、こちらのお嬢様はどれほど自分を信じていないのか。コンプレックスの見え隠れする主張である。

「私はお兄様たちのように頭が良かったり、武道や魔法の才能があったりはしないの! どれも普通、嫌になるくらい普通なの! どれだけ頑張っても、才能のある人たちには届かない、そんな凡才が私という人間なのよっ!」

「…………」

 これには副店長さんも困った表情だ。

 盛りに盛った髪型とは正反対で、自己評価はつつましやかである。身内に優秀な人ばかりいた弊害なのだろう。父親であるミュラー子爵など、お国の立役者である星の賢者様からも覚えがあるほどの人物だ。

 満足のいく成功体験を積めていないのだろうな、なんて思う。

「周りの人たちが褒めてくれるのは、お父様とお母様から受け継いだ容姿だけ。だからこの身は、いつかお父様の役に立てるように、どこか格上の家に嫁ぐものだとばかり考えていたのよ。それがどうして家を継ぐだなんて……」

 自尊心の高そうな彼女が、平民である我々を相手にこうまでも熱く語ってみせるのだ。才能がないというのは事実なのだろう。

 ただ、個人的には見当違いな悩みだと思う。

 外見が優れているとか、それすなわち最強である。頭の良さだとか、武道や魔法の才能だとか、そんなのはオマケでしょう。見た目さえ優れていれば大体どうにかなるのが、世の中というものである。彼女ほどの若さなら尚のこと。

 だから気づけば自然と口が動いていた。

「そういうことであれば、お嬢様は既に武器を持っておりますね」

「……どういうこと?」

「外見的に優れていることほど、人の上に立つ上で大切なことはありません。頭の良さであったり、武道や魔法の才能であったりは、領主として町をまとめ上げる上で、そう大して必要ではありません」

「貴方、お父様やお兄様たちを侮辱しているの?」

「滅相もない。私は事実を述べただけです」

「それが侮辱しているというのよっ!」

「こちらの町に吟遊詩人はおりますか?」

「はぁ? そんなの幾らでもいるに決まっているでしょう!?」

「人気のある吟遊詩人には、美形が多いのではありませんか?」

「……それが何だというの?」

「民衆というのは、そう賢い生き物ではありません。日々を生きるのに精一杯ですから、教養と忍耐を得る暇がないのです。だからこそ、そういった者たちから支持を得る為には、ただひたすらに分かりやすい指標が必要なのです」

「サ、ササキ殿っ……」

 副店長さんが隣で困惑している。

 一方でピーちゃんは沈黙。

 多分大丈夫だろうと信じて、お節介な客人は説得を続けさせて頂く。彼女には前向きに家督を継いでもらわないと、この家の人たちのみならず、町の皆が困ってしまう。知り合いに毒を盛るような貴族様が出張ってきては、目も当てられない。

「お嬢様のような見目麗しい方が、必死になって市政に取り組む姿は、民衆の支持を得る上で、これ以上ない力となるでしょう。実務を誰が行っていようと関係ありません。人々はお嬢様の姿に魅了されて、これを応援するのです」

「……何を馬鹿なことを」

「私の祖国では吟遊詩人が度々、市政のトップを担う立場に付いております。それも過去に経済や法律、教育を学んできた者たちを負かして、市民からの選挙という形で、民衆からの支持を受けて選出されております」

「吟遊詩人に町を任せるですって!? どうしてそうなるのよっ!」

 盛り姫様の突っ込みはもつともである。

 でも事実なのだから仕方がない。

「お嬢様もごぞんとは思いますが、民衆の支持を得ることは、市政において他の何よりも大切なことです。これを民衆に覚えのいい吟遊詩人が務めることは、非常に効率がいいとは思いませんか? 実務は他の優秀な者に任せればいいのです」

「……代表が代表ではないのですか?」

 私を吟遊詩人などと同列に扱うつもりですか、とか突っ込みを受けるかと思ったけれど、こちらが想像したよりもお嬢様は理知的であらせられた。そのため非常にやりやすい。申し訳ないけれど、ここは一つイキらせて頂こう。

 何故ならば相手は、ピーちゃんの知り合いの娘さんなのだ。

 その進退は自分にとっても無関係ではない。

「より良い治世を求めるのであれば、代表が代表として働ける状況は稀有です。その数少ない例が、貴方のお父様であるミュラー子爵であったのだと思います。しかし、子爵のような方はめつに世に現れません。そこで仕事を分担するべきだと具申します」

「でも……」

「それができずに上の人間が無理をすると、悪政につながるのではないでしょうか? お嬢様は自らができることとできないこと、この二つをしっかりと把握していらっしゃいます。それはとても素晴らしいことだと私は思います」

「…………」

 ツンケンとしているけれど、性根はぐな娘さんだと思われる。だからこそ、ご実家と関わり合いのある貴族様一同からかどわかされる前に、我々もアプローチしておくべきだろう。今後何かあったとしても、進言を聞いてもらえるくらいには。

 そうでないと、今後こちらの立場が危うくなりそうだもの。

「ですからお嬢様は、既に家を継ぐ上で十分なものをお持ちなのです。決してご自身を下に見ることはありません。あとは胸の内で、お父様のことを大切に思っていれば、他人に対して真摯であれば、きっと周りの方々は付いて来てくれる筈です」

 副店長さんが青い顔をしている以外は、きっと大丈夫。

 そう信じて続く彼女の言葉を待つ。

 すると、しばらくして盛り姫様からお返事があった。

「……分かりました」

「本当でしょうか?」

「一連の講釈に免じて、貴方の無礼を許します」

「ありがとうございます」

「しかし、今後はこういった無礼は許しません。平民が貴族に上から語って聞かせるなど、本来であれば打首です。いいえ、公衆の面前で火刑に処されるほどの行い。私の寛大な心遣いに感謝しなさい」

「承知しました」

 今更ながら彼女の頭髪が盛りに盛られている理由を理解した。

 外見の他に、自らを誇るものが何一つ無かったからだろう。


    *


 ここ数日でミュラー子爵のお家は大騒ぎである。

 子爵様の討ち死にと代替わりの知らせは、しばらくして領地内外にも公表された。これを受けて町の人たちも、浮足立っているように思われる。気の早い者などは、大八車を押して町を後にする姿も、ちらほらと見受けられた。

 それでも待ってくれないのが隣国との戦争である。前線の瓦解を受けて、ヘルツ王国はかなりの危地に立たされているのだという。その影響が遂に我々が居を構えた町、エイトリアムにも押し寄せてきた。

「なんと、ハーマン商会の馬車が隣国の兵に……ですか」

 盛り姫様の家督相続から数日、我々はハーマン商会の応接室で、副店長さんと顔を合わせている。魔法の練習に向かおうかと宿屋で支度をしていたところ、商会の使いの方から連絡を受けての参上だ。

「ええ、既にこのかいわいでも活動を始めているようでして」

「なるほど」

 どうやら隣国はこちらの町を次なるターゲットとして考えたようだ。町が直接敵兵によって襲われた訳ではない。そこまでの戦力を敵国に侵攻させる余裕はないのだろう。近隣の街道にせんぺいを仕込み、物資の流通にダメージを与えているらしい。

 正規兵により構成された盗賊みたいなものか。これにより町を疲弊させた上で、後続の本隊によって確実に制圧するつもりでしょう、とは副店長さんの言である。こうなってくると我々も、身の振り方を考える必要がでてきた。

「ササキさんはどうされますか?」

「そうですね……」

「私は来週にでも首都に向けてとうと考えております」

「ミュラー子爵の娘さんはどうされるのでしょうか?」

「お嬢様にもご一緒して頂く予定です」

 ジッとこちらを見つめて、彼は真剣な面持ちで語る。

 この町はもう助からないと考えているのだろう。

「もしよろしければ、ササキさんも一緒にいかがですか? 腕利きの護衛も既に確保しております。仮に相手が敵国の正規兵であっても、十や二十からの襲撃であれば、十分にしのぐことができると考えております」

 ただ、自身は既にそのあたりの相談をピーちゃんと終えている。

 これに乗っかることはできない。

「せっかくお誘い下さったところ申し訳ないのですが、私はもう少しだけ、この町でやることがあります。危惧されていることは重々承知しておりますが、しばらく滞在しようと考えています」

「……そうですか」

「すみません」

「いえいえ、滅相もない。ですがもし気が変わりましたら、こちらの店にいらして下さい。時間が許す限り、この町の在庫を継続して隣町へ送り出すように手配をしております。それに便乗してもらえれば、多少は安全に行き来できるかと思います」

「お気遣いありがとうございます」

 副店長さんとも、これでしばらくお別れである。


    *


 マルクさんと別れた我々は、その足で拠点となるお宿に戻った。

 一泊二日で金貨一枚のセレブな宿泊施設だ。

 場所はソファーセットの設けられたリビングを思わせるスペース。ソファーに腰を落ち着けた自身に対して、ローテーブルに立ったピーちゃんという位置関係だ。お互いに真剣な面持ちで向かい合っている。

『悪いが協力してもらえるか?』

「可愛いペットの頼みとあらばいくらでも」

『……すまないな』

「こっちこそ出会ってから助けられてばかりだよ」

『そうは言っても、我と出会わねば貴様が苦労することはなかった』

「苦労以上の見返りを感じているから大丈夫」

『…………』

 ピーちゃんから求められたのは、ミュラー子爵が治めていた町の存続と、忘れ形見となる盛り姫様の生存である。やはり二人の間には、決して浅からぬ交友があったようだ。一度は世を捨てようと決意した彼が、それでもと考えるくらいには。

 だからこそ、飼い主としてはそのおもいに協力したいと強く思う。

「出発はいつ頃になるかな?」

『今晩にでも出ようと考えている』

「移動は徒歩? それともいつもの魔法とか?」

『今回は空を飛んでいこうと思う。隣国の軍勢がどこまで迫ってきているのか定かでない現状、移動した先に敵兵の目があっては面倒だからな。なるべくこちらの存在を気取られないまま終えたい』

「でもピーちゃん、僕は君みたいに羽が生えていないよ」

 そう言えば、文鳥ってどれくらい飛べるんだろう。ピーちゃんも室内では華麗に飛び回っているけれど、屋外で長く飛ぶような機会はなかった。ハトなどは割とパワフルで、数十キロくらい軽く飛んでみせると聞く。

『いいや、違うぞ。魔法で空を飛ぶのだ』

「え、なにそれ凄い」

 そういう魔法もあるのではないかと、淡い期待を抱いていた。実際にあると伝えられると、テンションが上がるのを感じる。小さい頃からの憧れだ。空を飛ぶ夢など何度見たか分からない。目覚めが近づくと共に、段々と飛べなくなっていくんだよ。

『そういえば教えていなかったな』

「ぜひ教えてもらえないかい、ピーちゃん」

『イメージ次第ではかなりの勢いで飛び回ることが可能だ。そこで最低限、中級の回復魔法を覚えるまでは控えていたのだ。不慣れな術者は、割と頻繁に落下したり樹木にぶつかったりする。そうした場合に自身でやせないと死んでしまう』

「……なるほど」

『また、ある程度速度を出す場合は、障壁魔法の併用も必要だ。虫や鳥との衝突であっても、かなりのダメージを受けることになる。地上を走り回るような感覚で利用していい魔法ではない。事前の練習が重要だ』

 たしかにピーちゃんの仰る通りである。要は鳥人間コンテスト。打ちどころによっては回復魔法を使う前に絶命する可能性もありえる。魔法に不慣れな人間がしよぱなから覚えると、彼の言葉通り大変なことになりそうだ。

『なので今回は我が行使する。教えるのはまた今度だ』

「楽しみだねぇ」

 そういうことであれば、師匠の言葉を素直に聞いておこう。

 なんたって星の賢者様のお言葉だもの。


    *


 同日の晩、我々は隣国との国境付近までやってきた。

 移動はピーちゃんの提案どおり、魔法で空を飛んでのこと。夜の暗がりの下、小一時間ほどの空の旅であった。その勢いは大したもので、遠く眼下を凄まじい勢いで流れていく地上の風景から、新幹線よりも速かったのではないかと考えている。

 ピーちゃんってば可愛い顔してスピード狂。ただし、障壁魔法を利用しているとのことで、空気抵抗はほとんど感じなかった。息苦しさや寒さを覚えることもなかった。移動中は非常に快適だった。

 だからこそ、もしも障壁なしで何かにぶつかったらと考えると、とても恐ろしく感じた。感覚的には二輪に半ヘルで、高速道路やバイパスなどの路線を走っているような感じ。前の車がはじいた小石一つで絶命必至である。

『見えてきたな』

「あ、本当だ……」

 遠く地平の彼方かなたまで続く草原地帯。

 名前はレクタン平原とのこと。

 その只中にキャンプ場よろしく、人の密集する様子が確認できた。数キロを隔てて、人を人と判断することも難しいほど遠方、それでも兵の集まりだと判断がつく。移動用と思しき仮設の建築物を中心として、これを囲うように兵たちがうごめいていた。

 自分とピーちゃんはかなり高々度を飛んでいる。夜の暗がりも手伝い、先方から気付かれることはないだろう。一方でこちらからは、野営地点に点在する明かりが明瞭に確認できる。万を超える兵の集まりは、なかなか迫力のあるものだ。

「どうするの?」

『一息に吹き飛ばしてしまおう』

「…………」

 ピーちゃんってたまにさらっと怖いことを言う。

 でも、それが無難だとは自身も思う。

『この規模で兵を失えば、当面は大人しくなるだろう。改めて攻め入るにしても、同様の報復を恐れて慎重になるはずだ。その間に本国は国力を立て直すことができる。まあ、後者についての確証は持てないが』

「前から聞いていた上級魔法ってやつかい?」

『区分的にはそれ以上になる。上級の魔法で対応することも可能だが、あの規模を相手にするとなると、撃ち漏らしが発生する可能性がある。ならば威力のある魔法を用いて一撃で対処したい。その方があの者たちも苦しまずに済む』

「なるほど」

『よく見ておくといい。いつか学ぶ日が訪れるやもしれん』

 呟くと同時にピーちゃんの正面に魔法陣が浮かび上がった。

 これまでになく複雑な模様をしている。

 サイズも大きくて直径三メートルくらいありそう。

 そして、彼がこちらの肩に止まっている都合上、自身もこれを真っ向から眺める形となる。耳に届くのは呪文と思しき単語の連なり。当初は聞き耳を立てていたものの、想像した以上に長いものだから、途中で記憶することを諦めた。

 そうして待つことひとしきり。

 ピーちゃんが呟いた。

『いくぞ』

 クワッと開かれた可愛らしいくちばし。

 その声に合わせて、魔法陣が一際激しく輝いた。

 直後に中央から力強い光が発せられる。

 それは空に浮かんだ我々から遠く離れて、地上に窺える敵国、マーゲン帝国の軍勢に向かい伸びていった。それも距離を進むごとに左右へ扇状に展開して、裾野を広がらせていく。やがて地上に到達する頃には、界隈を丸っと飲み込む程に大きくなっていた。

 草原の一角、数キロ四方を輝きが貫いた。

 まるで昼間のように一帯が明るくなる。

 ブォンブォンと低い音を立てて大気を震わせる様子に尻込みしてしまいそう。さいはまるで知れないけれど、とても大変な現象なのだろうとは、なんとなく察することができた。個人による行いというよりは、台風のような自然現象を思い起こさせる。

「ピーちゃん、正直なにが起こっているのか分からない」

『まあ、そうだろうな』

「これってあれかな、ビーム砲みたいな……」

『似たようなものだと考えておけばいい』

 ビーム砲という単語をさらっと理解しているピーちゃん。それもこれもインターネットを利用したお勉強の成果だろう。つい数日前、パソコンのブラウザの履歴を確認したところ、凄まじい勢いでネット辞書をあさっていることを知った。

 なんて勤勉な文鳥だろうか。

 ただ、残念ながらアダルトサイトは閲覧していなかった。

 文鳥になって性欲が無くなってしまったのだろうか。

 それから二、三十秒ほど待つと、輝きは収まった。

 目を細めるほどに明るかった一帯が、元の暗がりに戻る。その直後、光のざんに照らされて眺めた草原の一角は、まるで巨大なショベルカーによってえぐられたかのように、深く地面に溝を作っていた。

 底が見えないほどである。

「……ピーちゃん、この魔法はおっかないね」

『影響範囲を集約することも可能だ。意外と使い勝手は悪くない』

「…………」

 もしも都内で撃ち放ったのなら、千代田区や中央区、港区といった比較的小さな区であれば、地下に敷かれたメトロの路線ごと、一撃で消し飛ばすことができそうである。それこそ広島や長崎に落ちた核爆弾を超える威力だ。

『身をまもる為の選択肢として、覚えておくといい』

「……そうだね」

 万を超える人が今の一撃で亡くなったと思うと、寂寥感を覚える。ただ、これといって罪悪感はない。主犯はピーちゃん、自分は隣で見ていただけ、という経緯もあるけれど、それ以上に現実感の無さが影響している。

 まるで映画でも見ているような感覚だった。

『それでは帰るとす……』

 直後、地上に空いた大穴の一角で、キラリと光がきらめいた。

 間髪をれず、我々の正面に魔法陣が浮かび上がる。

『っ……』

 これと時を同じくして、輝きの見えた地点から、今度は地上から空に向かい、ビーム砲を思わせる輝きが迫ってきた。それは正面に浮かんだ魔法陣を直撃すると共に、衝撃から我々の身体を大きく後方に飛ばせた。

「ちょっ……」

『ぐぬぅっ……』

 スーツのジャケット越し、今まで肩に感じていたピーちゃんの爪の感触が消える。とつにその姿を探すと、彼はこちらから離れて数メートル先にいた。慌てた様子で羽ばたく姿が星の賢者様らしからず、とても印象的に映った。

 そんな彼の下に向かい、地上から何者かが迫る。

「今の魔法、身に覚えがあるぞぉ?」

『ぬ、貴様はっ……』

 耳に届いたのは聞き覚えのない声。

 ピーちゃんと同様、飛行魔法によって身体を飛ばした誰かである。シルエットから人か人に類する生き物であることが窺えた。衣服のはためく様子も確認できた。どういう訳か肌が紫色。しかし、夜の暗がりも手伝って、性別や年令を特定するまでには至らない。

 というか、それだけの余裕がない。

 何故ならば肉体が地上に向かい堕ちていく。

 気づけばあっという間に、数十メートルを下っている。

 どうやら今の衝撃で、ピーちゃんの飛行魔法が解けてしまったようだ。頭上のスーパー文鳥に祈るような眼差しを向ける。けれど、そこでは突如として現れた何者かに、現在進行形で襲われている彼の姿が。

 こちらを助けている余裕はなさそうだ。

「マジかっ……」

 空を飛ぶ魔法はまだ教わっていない。

 このままでは数分とたぬ間に、地上へ激突である。

 敵兵が駐屯していた草原地帯とは異なり、地上には木々の茂りが窺える。草原に隣接した森林地帯だ。上手く木の枝をクッションにできれば、などと考えたけれど、まるで生きながらえる未来が見えてこない。

 もっと他に能動的なアクションが必要だ。

「……あぁ、そうだ」

 たしか手から水を出す魔法があった。

 あれを全力でダバーっとやれば、どうだろう。というか、この期に及んでは迷っている暇もない。即座に魔法を行使である。本来であれば飲み水を出すような魔法だけれど、これを放水車さながらのイメージで撃ち放つ。もれなく無詠唱。

 すると地上を数十メートル先に控えて、大量の水が吹き出した。

 その先端が地面に達すると同時に、落下の速度が著しく低減する。

 内臓が下から上に持っていかれる感覚。

 まるでジェットコースターにでも乗り込んだかのような圧が全身に掛かる。一瞬、意識が飛びそうになった。これを堪えつつ、継続して地上に向かい水を吐き出し続ける。傍から眺めたら、ロケットの発射風景の逆再生さながらだろう。

 数瞬の後、全身が水に包まれた。

 空から地上に向けて放った流水に、自身の身体が追いついたようである。ざぶんと身体が水にかる。その直後に両足が地面を捉えた。どうやら木々は流水に押されて倒れてしまったようで、葉や枝に身体をかれることはなかった。

 ややあって、水が引いていく。

 自重が両足に掛かる感覚と共に、視界がひらけた。

「死ぬかと思った……」

 どうやら無事に着地できたようである。

 全身びしょれだけれど、まあ、こればかりは仕方がない。命があっただけ良しとしよう。それなりに高いところを飛んでいたことがさいわいした。そうでなければ、魔法を使う間もなく激突していたことだろう。

 そうこうしていると、頭上からさくれつ音が聞こえてきた。

 ズドンと腹に響くような音だ。

「…………」

 空を見上げると、そこでは炎がぶわっと広がっていた。

 まるで雲のように、赤い色の炎が空に広がる光景は圧倒的だった。というか、そのまま熱いものが落ちてきて、自分は死ぬのではないかと危惧するほど。ただ、幸い炎は散り散りとなり消えて、地上を焼くまでには至らない。

 我々を狙い撃った人物とピーちゃんの間で、突発的に争いが発生したのではなかろうか。しかも彼ほどの人物が、こちらに気を遣う余裕さえなかった点から、かなり厄介な相手であると想像される。

 どうしよう。

 ピーちゃんを助けたいという想いは強いが、空に上がる手立てがない。

 しかも下手に近づいたら、むしろ足を引っ張りかねない状況である。

 そうして悩んでいると、不意に名前を呼ばれた。

「そこに見えるのは、まさかササキ殿か?」

「え……」

 予期せぬ出来事を受けて、肩がビクリと震えた。熱いものにでも触れたように、咄嗟に声の聞こえてきた方向に注目する。するとそこには木々の合間から、こちらを見つめるミュラー子爵の姿があった。

 一帯は自分が撃ち放った水を出す魔法の影響で、木々が倒れ流されてしまっている。周囲数メートルほどは見通しもいい。そのため薄暗い夜であっても、こちらを捕捉することは容易だっただろう。

「ミュラー子爵。このような場所でお会いするとは奇遇ですね」

「どうして貴殿がここに……」

「少しばかり面倒なことに巻き込まれてしまいまして」

 まさか素直に説明する訳にはいかない。

 これまた大変なことになった。

 そもそもミュラー子爵は亡くなったのではなかったのか。副店長さんがそのように言っていた。けれどこうして眺める彼は、そこかしこに血液が付着しており、まんしんそうを絵に描いたようなちではあるが、ちゃんと自らの足で立っていらっしゃる。

 また彼の傍らには、十代も中頃から後半と思しき青年の姿が。

「ミュラー子爵、そちらのお方は……」

 身に付けている甲冑が、子爵様よりもお高そうである。

 そして、こちらも彼に負けず劣らずボロボロでまみれだ。装備もそこかしこが汚れていたり、破損していたりする。取り分け酷いのが腹部で、脇腹の辺りが血液によってどす黒く染まっていた。

 一人で歩くことも辛いのか、ミュラー子爵に肩を貸してもらい、辛うじて立っている。表情も苦しそうなものだ。眉間にはシワが寄っており、顔色もかなり悪い。深刻な怪我を負っているのは間違いなさそうだ。

「ヘルツ王国の第二王子、アドニス様だ」

「なんと……」

 まさか王族の方とは思わなかった。

 どうりで子爵様が必死になって支えている訳である。

「ミュラー子爵、この者は?」

「私の領地で商売をしている異国の商人でございます」

「商人がどうしてこのような場所にいる? しかもこの有様はなんだ」

 水浸しとなった一帯を眺めて、王子様が言う。

 当然の反応だと思う。

「……すみませんが殿下、それは私にもわかりかねます」

「…………」

 自分のことながら、怪しいにも程がある登場だ。森を抜けた先には、敵国の兵が大挙しているのだから、かんちようと疑われても仕方がない状況。こうして自分の下を訪れるだけであっても、彼らにしてみれば命がけと思われる。

 ただ、そんな怪しい中年野郎に対して、ミュラー子爵は言葉を続けた。

「ですが、決して敵ではありません」

「……本当か?」

「はい」

 よどみのない態度で語ってみせる。

 土壇場でここまで信用してもらえるとは思わなかった。とても嬉しい気分である。そう多く言葉を交わした覚えはないのだけれど、彼のこちらを見つめる眼差しは、普段と何ら変わらないものであった。

 だからだろうか、気づけば自然と会話を続けていた。

「ミュラー子爵、もしよろしければ、殿下の具合を診させて頂いてもよろしいでしょうか? これでも多少は魔法に覚えがございまして、場合によってはお力になれるやもしれません。いかがでしょうか?」

「まさか、ササキ殿は回復魔法を使えるのか?」

「そう大したものではありませんが」

「そういうことであれば、是非とも頼みたい!」

 ミュラー子爵の承諾を受けて、中級の回復魔法を試みる。

 初級であればつい先日、無詠唱で行使できるようになった。しかし、中級については詠唱を必要とする。両腕を王子様に向けて突き出しつつ、それなりに長い呪文をブツブツと唱える。

 対象の足元に魔法陣が浮かび上がった。

 そこから光が立ち上ると同時に、王子様の表情が一変する。

「っ……い、痛みが消えていく……」

 魔法陣が浮かんでいたのは数十秒ほどである。

 過去、野ネズミなどを相手に練習した経験から、これくらいで大丈夫だろうと、適当なタイミングで掲げた腕を下ろす。これを受けて地面に浮かんだ魔法陣は消えてなくなり、輝きも失われた。

「いかがでしょうか?」

「……素晴らしい腕前だ。あれほどの怪我があっという間ではないか」

「どこか痛む箇所はありますか?」

「いや、完治したようだ。この調子であれば、まだまだ歩けそうだ」

 身体の具合を確認しつつ、王子様は元気に返事をしてみせた。

 ペラっとめくられたシャツの下からは、細マッチョな腹筋が見えている。顔立ちに優れている上に、肉体美にも恵まれていらっしゃるとは羨ましい。日常的に鍛えているだろうことが容易に窺える身体付きだった。

「しかしまさか、これほどの回復魔法を行使してみせるとは……」

「お褒め頂き恐縮でございます」

「ミュラー子爵も癒やしてやってはくれないか? 怪我をしているのだ」

「承知しました」

 王子様の言葉に従い、今度は子爵様をターゲットにして回復魔法を放つ。顔や指先など、目に見えている部分はすぐに癒えた。ただ、肉の下で骨など折れていては大変なので、今し方と同様に数十秒ほど、十分な時間を掛けて治療に当たる。

 しばらくすると、ミュラー子爵から声が掛かった。

「その程度で大丈夫だ」

「そうですか? では」

 自己申告に従い、回復魔法の行使を終える。

 そうした一連のやり取りも手伝ってだろう。出会って当初のしかめっ面はどこへやら、王子様のこちらを見つめる表情は、幾分か穏やかなものに変わっていた。これなら落ち着いて会話ができそうである。

「ササキと言ったか? この度は助かった。礼を言う」

「いえいえ、滅相もありません」

「戦場からほど近い森で我々と出会ったことも、追及は控えておこうと思う。その方にはその方の仕事があったのだろう。ただ、その代わりと言ってはなんだが、共にこの場を脱する為、我々に協力してはもらえないだろうか?」

 ピーちゃんと別れたことで、自身も渦中の身の上となる。彼との合流が困難となった現状、王子様やミュラー子爵と協力して危地を脱するというのは、非常に魅力的な選択肢だ。大半が失われた敵国の兵も、どこかに残党が潜んでいるかも知れない。

「承知しました。是非お供させて下さい」

 そんなこんなでイケメン二人とパーティーを組む運びとなった。


    *


 ミュラー子爵とアドニス王子、二人と共に夜の森を本国に向かい歩く。

 なんでも戦場で敵兵に狙われた王子様をかばったことで、子爵様は本隊からはぐれてしまったそうだ。それもかなり絶望的な状況であったらしい。これを受けてハーマン商会のメッセンジャーは、彼を死亡したものと考えたと思われる。

 対して奇跡的に生き延びた二人は、町に戻る為に行動を共にしているのだとか。

 戦死を聞かされていた自分としては、とても嬉しい再会であった。

 ちなみに同所はシーカム森林地帯という名前らしい。隣国の軍隊が駐屯していたレクタン平原とは隣り合っており、これを平原とは逆方向に抜けると、ミュラー子爵が治めるエイトリアムの町に通じるのだという。

「ところでササキよ、上で何やら魔法使いが争っているようだが……」

 アドニス王子も空の様子が気になるらしい。

 しきりに頭上を見上げていらっしゃる。

 そこでは相変わらず、ピーちゃんが誰とも知れない魔法使いとドンパチやっている。断続的に響く炸裂音が、いやおうなく地上を進む我々の危機感をあおってくれる。流れ弾が飛んできやしないかと、非常に心配だ。

「どうやらそのようでございますね」

「貴殿は何か知らないか?」

「申し訳ありませんが、こればかりは私にも判断がつきません」

「……そうか」

 まさか素直にお伝えする訳にはいかなくて、すっとぼける羽目になる。

 数え切れないほどのマーゲン帝国の兵を一瞬にして焼き払ってみせたピーちゃん。そんな彼が時間を掛けて対応するような相手なのだから、我々が遭遇したのなら、数秒と経たぬ間に殺されてしまうことだろう。

 もどかしく思うのは、彼との物理的な距離だ。

 自分という協力者と離れ離れになったことで、ピーちゃんは世界を移る魔法を筆頭とした、一定以上の魔法が使えない。しかし、だからと言って争う彼らに近付こうものなら、逆に足手まといになりかねない。

 不意打ちから初手を奪われた現状が、かなり大きく響いていた。

「あれほど大規模な魔法を連発するような相手です。万が一にも遭遇したのなら、我々では太刀打ちすることなど不可能でしょう。気になるのは当然かと思いますが、この場は森を脱して本国に戻ることを優先して頂けたらと」

「ああ、それは承知している」

「ありがとうございます」

 ところで、こちらの王子様ってば肩書の割に物分かりがいい。どこの馬の骨とも知れない自分とも、対等に話をして下さっている。パーティー内における意思の疎通は、これ以上ないほどに順調だ。ありがたい限りである。

「殿下、ササキ殿、止まって下さい」

「……敵か?」

「そのようです」

 そうこうしていると、ミュラー子爵からエンカウントのお知らせ。

 木々の合間を見つめて、その表情が厳しいものに変わった。

 腰から剣を抜いて臨戦態勢となる。

 相手の武装は定かでないけれど、正規の兵であれば、弓矢くらい持っているのではなかろうか。そのように考えて中級の障壁魔法を行使する。自分の他、子爵様や殿下を含めて、その周りを囲うように障壁を展開した。

 その直後、脇から一斉に矢が飛んできた。

 数本が障壁に当たって、ぽとりと地面に落ちる。

「ササキは回復魔法のみならず、障壁魔法まで使えるのか」

「師に恵まれまして」

「なるほど、そなたの師は余程優秀な人物なのだろう」

 矢の到来に目を見開いて驚いていたのもつか、アドニス王子は感心した面持ちで、こちらを見つめてみせた。回復魔法と障壁魔法、これら二つの中級魔法を扱えることは、それなりに価値があることのようだ。ピーちゃん様々である。

 そうこうしていると、今度はミュラー子爵が声を掛けてきた。

「ササキ殿、この魔法はどれほど持つだろう?」

「それなりに持つとは思いますが、何か策がございますか?」

「このままではジリ貧だ。先手を打って切り込もうと考えている」

「それはあまりにも危険ではありませんか?」

「他になにか手立てがあるか?」

「こちらから魔法を放ってみましょう」

「ササキ殿は攻撃魔法までをも扱えるのか?」

「そこまで選択肢は多くありませんが」

「そういうことであれば、是非とも頼みたい」

 いつぞやボウリング場で、姿を消していた能力者の人を狙ったときと同様、矢の飛んできた方向に向かい雷撃の魔法を撃ち放つ。火事にならないか若干心配ではあるけれど、今はぜいたくを言っている場合でもない。

 呪文を省略して、無詠唱でパリパリっと。

 すると木々の向こう側から、敵兵と思しき者たちの悲鳴が聞こえてきた。

 どうやら直撃したようだ。

 時を同じくして、先方に変化があった。

 樹木の間から剣を構えた男たちが、我先にと飛び出してきたのである。相手が魔法使いだと理解して、距離を詰めに来たのだろう。こうなると取っ組み合いのけんに滅法弱い自分には分が悪い。

「任せてくれ!」

 こちらのちゆうちよを理解したのか、ミュラー子爵が飛び出していった。

 障壁を超えて敵兵の下に駆けていく。

 そして、手にした剣で数名からなる一団と、真正面から切り合いを始めた。どうやら子爵様は剣が得意のようだ。人数に勝る相手にも何らひるんだ様子がない。開始早々に一人目を切り裂いてみせた。

 ミュラー子爵ってば、とてもお強い。

 こちらも傍観してはいられないぞ。

 繰り返し雷撃の魔法を放って、子爵様とは距離のある兵を倒していく。取り分け弓や杖を構えた兵を優先して狙う。また、木々の合間に伏兵が潜んでいる可能性もあるので、兵たちの飛び出してきた方角に向かい、繰り返し魔法をバラ撒いた。

 争っていたのは時間にして数分ほど。

 ミュラー子爵の活躍に自身の魔法も手伝い、無事に敵を倒すことができた。

「ササキ殿、まさか中級の魔法を無詠唱とは恐れ入った」

 血塗れの子爵様が、笑顔で我々の下に戻ってくる。

 ちょっと怖い。

「いえ、ミュラー子爵こそ凄まじい剣の腕前ではありませんか」

「私より優れた剣士など、他に幾らでもいるさ」

「二人とも素晴らしい働きであった。私は自らの無力が情けない」

 アドニス王子が少しへこんでいる。

 これと言って活躍の場もなく、騒動が過ぎてしまったからだろう。しゅんと気落ちした面持ちで足元を見つめる姿は、そのイケメンと相まって非常に絵になる光景だ。自分も彼のような美形に生まれたかった。

「殿下にはこうした荒事より、もっと大切な仕事があるではないですか」

「だがしかし、上に立つ人間が強いに越したことはない」

「でしたらこれからでも、ゆっくりと学んでいって下さい。殿下はまだまだお若いのですから、いくらでもばんかいすることが可能です。剣の道は身体が出来上がる二十歳を越えてからが本番です。決して悩むことはありません」

「本当か?」

「私も殿下ほどの年頃には、伸び悩んでおりましたので」

「……そうか」

 そんな殿下に、同じくイケメンのミュラー子爵が絡む様子は、まるで映画のワンシーンのようである。そうした風景に自分が映り込むことは、とんでもない罪のような気がして、自然と躊躇してしまう。

「ササキ殿、貴殿の魔法には助けられた」

「お役に立てたのであれば何よりです」

「伏兵に気付いた点は流石さすがだ。おかげでこちらも自由に動き回ることができた。混戦で恐ろしいのは、やはり弓兵や魔法使いの存在だ。これが存在しているのといないのでは、雲泥の差がある」

「なるほど、そうなのですね」

 ミュラー子爵の語り口から、当面の危機は去ったと考えていいだろう。

 自身もまた人心地ついた。

「殿下、血の匂いに釣られて、獣や魔物が集まってくる前に場所を移す必要があります。お疲れのところ申し訳ありませんが、すぐにでも移動を始めましょう。我々もかなり血をかぶっておりますので、なるべく早く動きたく思います」

「ミュラー子爵の言葉に従う。すまないが先導して欲しい」

「ありがとうございます」

 空からピーちゃんの頑張る気配を感じつつ、我らは進行を再開した。


    *


 どれほど歩いただろうか、段々と空が白み始めてきた。

 夜明けが近いようだ。

 これといって計測した訳ではないけれど、体感で三、四時間ほどは、森の中を歩いたのではないかと思われる。そのため自分は当然のこと、現地住民であるミュラー子爵やアドニス王子も、段々と口数が減ってきた。

 ただ、依然としてシーカム森林地帯を抜ける気配は見られない。

 子爵様の言葉に従えば、もう少しで最寄りの村に到着するとの話である。今はその言葉を信じて黙々と足を動かしている。幸いであったのは、飲料水の心配をしなくてよい点だ。魔法で幾らでも用意することができる。

 一方で空の様子はどうかというと、未だにぎやかにズドンズドンと音が聞こえてくる。ピーちゃんも頑張っているようだ。いくら自身と離れているとは言え、彼がそこまで時間を掛けなければならない相手というのが、まるで想像できない。

 ちなみに森を進む我々の隊列は、先頭を子爵様、殿しんがりを自分、これに前後を挟まれる形でアドニス王子といったあんばいだ。ミュラー子爵の言葉に従えば、殿下は私の命に替えてもお守り致します、とのことである。

「殿下、足は大丈夫ですか?」

「これでも体力はある方だと自負している」

 ミュラー子爵からアドニス王子に気遣いの声が届けられる。

 かれこれ何度目になるだろうか。

「それはなによりでございます」

「それよりもササキは大丈夫か? 魔法使いには厳しかろう」

 おっと、殿下からお気遣いの言葉を頂戴してしまった。

 偉い人から気配りを受けると、普段の三割増しで嬉しい気分。

「疲労は回復魔法で和らぎますので、まだ大丈夫です」

「なるほど、そうであったか」

「疲労まで癒やすとは、ササキ殿の回復魔法はかなりのものだな」

 二人が健脚なので、ちょこちょこ行使して足腰を癒やしながら、どうにかこうにか付いて行っている。電車や自動車に慣れた現代人には、山歩きはとんでもない重労働である。回復魔法がなければ、今頃は挫けていただろう。

 そのせいか少しだけ呪文を端折はしよっても使えるようになった。

「あと少し歩けば集落に着きます。この辺りは過去にオークの討伐で訪れた覚えがあるので、なんとなくですが土地勘があるのです。殿下、ササキ殿、最後のひと踏ん張りです。気を抜かずに頑張りま……」

 先頭をゆくミュラー子爵から、励ましの言葉が与えられる。

 これと時を同じくしての出来事だ。

 我々の向かう先から、グォオオオオオというほうこうが聞こえてきた。

 およそ人が発したとは思えない声だった。

 いいや、声と称していいのかどうか、悩みたくなるサウンドだ。

「ミュラー子爵、なにやら危うい響きが聞こえてきたが」

「……今のはオークの声ですね」

「オークか……」

「隣国の進軍を受けて、刺激された個体が出てきたのやもしれません」

「そうなるとこの辺りにあるという村も、危ういのではないか?」

「おっしゃる通りです」

 殿下とミュラー子爵の間で、何やら不穏な会話が交わされ始める。

 こちらの世界に魔物と呼ばれる生き物が存在していることは、ピーちゃんから何度か聞いている。程度もピンきりであって、彼と大差ないサイズの弱々しいものから、大型のクジラを超えるビッグサイズまで、実に様々とのこと。

「ミュラー子爵、ササキ、このような状況で申し訳ないとは思うのだが、村の様子を確認することはできないだろうか? もしも被害が出ているようであれば、情報を持ち帰って騎士団を派遣したい」

「承知しました」

 殿下からの問い掛けに子爵様は二つ返事で頷いた。

 こうなると自分も断る訳にはいかない。

 個人的にはかいするべきだと強く進言したい。空では依然としてピーちゃんもバトっているし、なるべく早く森を離れるべきだと思う。しかし、ブレイブハートをたぎらせる二人を前に、ノーと言う胆力が自分にはなかった。

 それにこちらが断ったら、彼らは二人で行ってしまうことだろう。

 その無事を願うのであれば、回復魔法や障壁魔法は必須である。

 当面は謎の魔法使いポジで頑張るとしよう。

「是非お付き合いさせて頂きます」

「すまないな、ササキよ。この礼は必ずする」

「いえいえ、滅相もありません」

 一路、我々は咆哮の下まで、急ぎ足で向かう運びとなった。


    *


 結論から言うと、森に魔物はいた。それも結構な数が確認された。

 更にミュラー子爵が目指していた村を絶賛アタック中。

 魔物は事前に説明を受けたとおり、オークなる生き物。身の丈二メートルから三メートルほどの、筋骨たくましい姿をしている。それなりに知性があるらしく、手には武器を握っており、これを振り回して暴れている。

 見た目はネットでオークと画像検索したら出てくる感じ。

 異世界一年生の自分は圧倒されている。

「これはまた随分と恐ろしい生き物ですね」

「ササキ殿はオークを見るのは初めてか?」

「はい、初めてとなります」

「ならば気をつけるといい。世の中の騎士や冒険者たちは、これを比較的軽く扱うきらいがあるが、数が集まると中々厄介な魔物だ。今回のように徒党を組んでいる場合、十分に注意しなければならない」

「なるほど」

 現在の我々は村の外れから、木々の茂み越しに隠れて様子を窺っている。ちょっとした柵のようなものを越えて、その先では村人たちの逃げ惑う姿が確認できた。殺されていたり、犯されていたり、それはもう大変な騒ぎである。

 ところで、犯されている人の大半は女性だが、男性の姿もチラホラと。

「ミュラー子爵、想像していたよりオークの数が多い。このままでは騎士団を派遣する前に、村は壊滅してしまうだろう。この期に及んで悪いとは思うが、どうにかして、この村を救うことはできないだろうか?」

「……そうですね」

 なんということだ、この状況で村のことを考えているぞ殿下。

 しかも、ミュラー子爵も前向きに検討しているっぽい。

 なんて正義感にあふれた男たちだ。

「ササキ殿の援護を得られれば、あるいはなんとか」

「本当か!?」

 そうかと思えば、ジッとこちらに視線が向けられる。

 ミュラー子爵のみならず、殿下からも熱い眼差しがひしひしと。

「ササキよ、我々に協力してはもらえないだろうか。無事に城まで戻ったのなら、十分な礼を約束する。私はこの村を見捨てたくないのだ。このとおりだ、どうか我々に手を貸してやって欲しい」

「…………」

「私は戦場でマーゲン帝国の軍勢を見た。この国はいずれ攻め滅ぼされるだろう。私も近い将来、断頭台に消える運命だ。だからこそ、せめて今この手に届く民だけでも、助けてから死にたいと強く思う」

 腐敗も著しいと評判のヘルツ王国ではあるが、第二王子に限っては例外のようである。真剣な眼差しでこちらを見つめる姿には、本心から村の人たちを心配する心情が見て取れた。もちろん自らの死期が迫っている影響も大きいのだろうけれど。

 こうなるとミュラー子爵の注目も手伝い、なかなか断りにくい。

 もしかしたら彼もまた、殿下と似たような感慨を胸に抱いているのかも知れない。人間、自身の終わりを意識すると、生まれてきた理由だとか、生きてきた足跡だとか、そういったものを残したがる。

「そうですね……」

 そして、よくよく考えてみると、二人からの提案は決して悪いことばかりではない。

 延々と歩き通しであった我々だから、一時の寝床を確保するという意味では、この村の存在は非常に大きい。また食糧の問題もある。飲み水こそ魔法で解決できても、食べ物に関しては別途手に入れる必要があった。

 この村を救うことで得られるメリットは大きい。

「承知しました。ご協力させて下さい」

「ありがとう、ササキよ。とても頼もしく思う」

「お二人の心意気に触れて、私も活力が湧いて参りました」

 どうせやるなら、存分に恩を売っていこう。

 気持ち良く頷いてみせたところで、オーク討伐が始まった。


    *


 対オークの作戦については、昨晩マーゲン帝国の兵を退けた時と同様だ。

 前衛にミュラー子爵、後衛を自分。

 ただし、今回はこれにアドニス王子も混ざるとのこと。

 ポジション的には前衛。

 回復や防御を担当する自身は気が気でない。万が一にも怪我をさせてしまった日には、後でお偉いさん方から何を言われるか。回復魔法で治癒できるとはいえ、肝が冷える思いである。死んでしまったりしたら目も当てられない。

 そこで十分に魔力をぎ込んだ障壁魔法により、守りを固めつつの進攻と相成った。二人は魔力切れなる現象を心配していたが、大丈夫だと伝えておいた。こればかりは遠慮していられない。

 そして、我々が村に一歩を踏み込むと、オークはすぐに襲いかかってきた。

 屋内にも少なくない数が隠れていたようで、パッと見た限りであっても、二十匹近いオークが群れていた。それがこちらの雷撃魔法を受けて、一様に反応を見せた。次から次へと村の入口に立った我々に迫ってくる。

 しばらくは自身の見せ場だ。

 距離がある内に雷撃魔法を連発して、その数を減らしていく。

 ピーちゃんは中級魔法としては下の方だと語っていたけれど、これがなかなか威力を発揮した。頭部や胸部に一撃を当てると、ほとんどは絶命した。狙いが外れてしまった個体も、大半は地面にうずくまってうめき始める。

 開始早々、十数匹ほどを倒すことに成功した。

 それでも少数、接近を許した個体に対して、ミュラー子爵と殿下が向かう。

 二人は剣を手に協力してオークをほふっていく。子爵様は相変わらずお強い。人間の相手をしていた時と変わらず、落ち着いて的確に急所を突いていた。オークが振り回すおのを危なげなくける姿はとても格好良く映る。

 これに追従する形で、殿下も奮闘していらっしゃる。ただし、腕前的には努力賞。ヒヤッとするシーンも時々見受けられて、これを子爵様の剣によるサポートや、こちらから障壁魔法を飛ばすことで、どうにか凌いでいく。

「ササキ殿、そちらに弓を構えた個体が!」

「承知しました」

 ミュラー子爵の指示に従い、家屋の陰に向かい雷撃魔法を撃ち放つ。

 民家に隠れて我々を狙っていたようだ。

 事前に彼から受けた忠告通り、群れで出会うと大変やっかいな魔物である。手にしていた弓や矢も、人間が運用するものと比べて、かなり大型のものだ。まともに受けては身体に大穴が空いてしまいそうなほど。

 ピーちゃん印の魔法がなかったら、まさか挑もうとは思えない。

 また、攻撃の手と併せて目に見える範囲で、倒れた村の人々に回復魔法を掛けていく。無事にオークを倒せたとしても、村人が全滅とか悲しすぎる。できる限りのことはしておくべきだろう。

「……殿下、このオークたちは妙です」

「どうしたというのだ?」

「オークの群れにしては、数があまりにも多いのです」

 アドニス王子に対して、ミュラー子爵から相談の声が上がった。

 何やら異変に気づいたみたいだ。

「通常であればオークは、一匹のボスオークに率いられる形で、十数匹ほどの群れを作り生活をします。それがこの村のオークたちは二十匹以上、いいえ、こうして見えているだけでも、三十を超えています」

「そうなのか?」

「場合によっては、上位個体により率いられている可能性が……」

 オークたちを眺めて、子爵様が話を続けようとした矢先のこと。

 グォオオオオオオオという咆哮がどこからか聞こえてきた。

 これまでも引っ切り無しに上がっていたオークの叫び声である。ただし、そこかしこから聞こえてくる音と比較しては、段違いにパワフルなものだ。おなかの内側がビリビリとしびれるような感覚を受ける。

「これはいっ」

 ミュラー子爵の表情が一変を見せた。

 その顔から余裕が消える。

「ミュラー子爵、今の咆哮はオークのものか!?」

「オークには違いありませんが、十中八九、上位の個体と思われます。どの程度の力を備えているのかは分かりませんが、この群れの規模からして、相応の力を蓄えているのではないかと存じます」

「私も話には聞いたことがある。生まれながら魔力に恵まれるか、偶発的に魔力を手に入れるかして、通常の個体よりとしを重ねた存在を上位と呼ぶのだったな。以前、星の賢者殿から講釈を受けた覚えがある」

「そのとおりです。恐れ入りますが殿下は、ササキ殿のもとまでお下がりください。もしも相手が上位個体となると、オークであっても強敵です。場合によっては、我々だけでは討伐が不可能かも知れません」

「以前から気になっていたのだが、それはハイオークとは違うのか?」

「あれもオークではありますが、この場で活動している通常のオークとは別の種となります。同時にハイオークにもまた、オークと同じように上位の個体が存在します。ハイオークの上位個体ともなると、我々人間では軍兵を率いねば太刀打ちできません」

「なるほど、流石はミュラー子爵だ。勉強になる」

「いえ、私も星の賢者様から講釈を受けた身の上に過ぎません」

 子爵様の言葉に従い、殿下がこちらの隣まで下がってきた。

 所々に小さな怪我をしていたので、回復魔法で癒やして差し上げる。身体や服にこびりついた血液こそ拭えないが、その下に窺えた怪我は、パッと見たところ行使から数秒ほどで全てが癒えた。

「すまない、ササキよ。貴殿のおかげで助かった」

「いいえ、恐れ多くございます」

「このまま何事もなく倒すことができればいいのだが……」

 アドニス王子の容態を確認して、再び意識を村の中ほどに向ける。

 目に見える範囲については、片っ端から雷撃の魔法を放ったことで、だいぶ落ち着いてきている。奥から次々と姿を現してきたオークだが、いよいよ底が見えてきたのではなかろうか。

 村人のなきがらに混じって、随所にオークの遺体が散らばっている。

 そこに動いている個体は見受けられない。

 こうなるとやはり問題は、ミュラー子爵が口にした上位の個体とやらだろうか。その仰々しい語りっぷりに相応ふさわしく、彼はオークの咆哮が聞こえてきた方角に向かい、緊張した面持ちで身構えている。

 手持ち無沙汰となった自身は後方から、引き続き村人たちに回復魔法を放つ。既に事切れてしまった人はどうにもならない。けれど、生きてさえいれば意外となんとかなるのが、中級の回復魔法の凄いところだ。

「ミュラー子爵、ササキ、あそこだっ!」

 そうこうしていると、殿下が声も大きく叫んだ。彼の視線が指し示す先には、村の通りをこちらに向かい、ドスンドスンと駆けてくるオークの姿が。どうやら集落を越えた先にある森に姿を隠していたようである。

 しかもこれがまた、やたらと大きいからどうしたものか。普通のオークの倍近いサイズ感である。周囲に立ち並んだ家々などより遥かに大きい。一体どこに潜んでいたのかと疑問に思うほどである。

 その姿を目の当たりにしては、ミュラー子爵もぼうぜんだ。

「なっ、あ、あれ程のサイズとは……」

「ミュラー子爵、先制して魔法を放ちます!」

「ああ、頼んだササキ殿っ」

 接近を受ける側としては、身の震える思いだ。

 まさか近づかれてはたまらない。

 ありったけの魔力を込めて雷撃の魔法を撃ち放つ。

 目にも止まらぬ速さで走った光の煌めき。その一端が駆けるオークの腹部を捉えた。バシンという大きな音を立てて、我々の見つめる先で雷撃が弾ける。直後にオークは転倒して、頭から地面に転がった。

 これが手前十数メートルの地点。

 倒れたオークを祈るような眼差しで見つめる。

 どうか起き上がらないで欲しいと。

 しかし、残念ながら祈りは通じなかった。

「グォオオオオオオオ!」

 耳が痛くなるほどの咆哮とともに、オークが身体を起こした。

 腹部には雷撃を受けて焼け焦げた跡が見て取れる。だが、致命傷とまでは至っていない。自らの足で立ち上がるとともに、未だ戦意を失った気配もなく、ぎょろりとこちらを睨みつけてくれる。

 怒り心頭のご様子。

「…………」

 希望の光であるピーちゃんは、以前として空の上に掛かり切り。

 これはいよいよ、死んだかも知れない。

 さて、どうしたものか。

 魔法担当は続く一手に頭を悩ませる。

 その間にオークに向けて、ミュラー子爵が駆け出した。

 力強く剣を振り上げて、果敢にも挑んでいく。

 あまりにもおっかない光景だ。それこそ積み荷満載で暴走する十トントラックに対して、軽自動車で幅寄せを行うようなものである。背丈が高ければ肉付きも優れている。相手は指一本が人間の手足と大差ない太さの化け物だ。

「っ……」

 オークが拳を振り下ろす。

 これを危ういながらも避けて、代わりに剣で切りつける。手首の血管を狙っての一撃であった。しかし、踏み込みが浅かったのか、それとも振り下ろす勢いが足りていないのか、浅く表皮を切り裂いただけで終わった。

 直後に相手の足が動いた。

 爪先で蹴り上げるようにして、ミュラー子爵を狙う。

 これが思ったよりも俊敏だ。

「がっ……」

 子爵様は後方に身を飛ばして回避を試みる。しかし、相手の圧倒的なリーチから逃れることができず、蹴り飛ばされてしまった。勢い付いた肉体は、そのまま空中で弧を描いて、我々のもとまで飛んできた。

「っ……」

 背中から地面に落ちて、口から血液を吹き出す。

 どうやら内臓をやられてしまったようだ。

 これはいけない。

「ミュラー子爵、すぐに回復をしますので!」

 大急ぎで回復魔法の呪文を唱え始める。しかし、それを許してくれる相手ではなかった。ドスンドスンと大きな足音を立ててこちらに迫ってくる。十数メートルの距離など、相手の巨漢からすれば、ほんの数秒でゼロだった。足が長いって素敵だよな。

「殿下、子爵をお願いしますっ!」

「任せてくれ!」

 殿下にお願いしてミュラー子爵を障壁魔法の内側に入れてもらう。

 急がなければならない。

 このままでは三人まとめてぺちゃんこだ。

 回復魔法はキャンセル。

 代わりに我々の周りを囲うように展開した障壁魔法に魔力を込める。どれほどの効果があるかは知らないが、やらないよりはマシだろう。絶えず構えていてよかった。呪文を詠唱している暇など皆無である。

「グォオオオオオオオ!」

 直後、オークの拳が障壁魔法を叩いた。

 ガツンと景気の良い音が近隣一帯に響く。

 そのままパリンと逝ってしまうかとも考えたのだけれど、障壁魔法は無事にオークの一撃に耐えてみせた。庇護の下にある我々も無事だ。ただし、メンタル的には無事とはいい難い。ちょっと漏らしてしまった。

 だってすぐ先に、オークの巨大なげんこつが控えているのだもの。

「ササキ!」

「落ち着いて下さい、殿下。まずはミュラー子爵を治療します」

 見れば殿下もズボンを濡らしていらっしゃる。

 しかも自分とは違って、かなり豪快に湿っている。

 大洪水だ。

 よかった、お漏らし仲間がいて。

 妙な仲間意識を覚えつつ、ミュラー子爵に回復魔法を行使する。

 その間も障壁魔法の外では、オークが派手に暴れまわっている。半透明の壁を外側からガツンガツンと殴ったり蹴ったり、それはもうやりたい放題だ。あまりにもおっかなくて、呪文を間違えそうになった。めっちゃ焦る。

 ピーちゃんならそれもこれも、全て無詠唱だったことだろう。

「ぐっ……た、助かった。すまない、ササキ殿」

「いえいえ、お気になさらずに」

 回復魔法を受けて、子爵様が息を吹き返した。

 それとなくズボンに目を向けると、彼も漏れなく漏れている。どこぞの軍が公開した情報では、激戦を経験した兵の約半分が漏らしていたという。むしろ大きい方の匂いが漂ってこないことを、我々は誇りに思うとしよう。

 しかし、これから先どうしたものか。

「このオークが相手では、我々だけでは厳しいな……」

「おっしゃる通り、攻め手に欠けますね」

 障壁の内側、お漏らし三人衆で作戦会議。

 現状、雷撃の魔法は我々にとって最大の攻撃だ。これに真正面から耐えた上に、ミュラー子爵の剣も浅く皮を裂いたばかり。こうなると、目の前のオークを打倒する手立ては限られてくる。

「すまない、ササキよ。私が妙なことを考えたばかりに」

「まだ負けた訳ではありませんよ、殿下」

「だが……」

 オークの上位個体に対して、中級の障壁魔法が有効であることは分かった。

 少なくとも守りについては十分なものだ。

 それなら最悪、幾十回、幾百回と雷撃魔法を浴びせることも可能である。幸い魔力なるエナジーについては余裕がある。ピーちゃんが景気よく沢山恵んで下さったからだろう。なんでも魔力が枯渇し始めると、段々と身体がだるくなっていくのだとか。

 過去に練習の過程では、短時間に何十回と魔法を撃ってきたが、そうした経験は一度もない。オークにはオークの強みがある一方、我々も部分的には優位に立てている点があると考えて差し支えないだろう。

 ただし、先方の障壁を殴り続ける姿は、眺めていて心臓によろしくない。次の瞬間にでもこちらの魔法が破られて、ショベルカーのスコップほどもある拳骨に殴られるのではないかと危惧してしまう。

 念のためにもう一枚、内側に障壁を張っておくことにしよう。

 殿下とミュラー子爵に断りを入れて、障壁魔法を二枚重ねで展開する。

 耐久力に不安がある現場では、当面は二重構えで運用しようと思う。

「ササキ殿はかなり強固な障壁魔法を使うのだな」

「そうは言っても、耐久力には未だ不安が残ります」

「上位個体を相手に、ここまで防ぐのは大したものだと思う。それも他の魔法使いと協力するのではなく、一人で行使してみせたのだ。その肩書が宮廷魔法使いだったと言われても、なんら不思議ではない」

「複数人で行使することもあるのですか?」

 ミュラー子爵の言葉に情報を見つけた。

 ピーちゃんからも伝えられていなかったものだ。

「中級以上の魔法は複数人で行使することも多いと聞く。上級以上ともなれば、単独で行使可能な魔法使いは限られてくる。だからこそ私は空の上で続けられている争いが、今も気になって仕方がないのだ」

「なるほど、そうだったのですか」

「あれはどう見ても上位の中級魔法、いや、上級魔法の応酬だろう」

「…………」

 ピーちゃんに教えてもらった魔法のイロハと、ミュラー子爵の語ってみせる世の中の魔法使い感とでは、かなりスケールが違っているような気がする。前者の言葉に従ったのなら、中級の障壁魔法を覚えて一人前、みたいな雰囲気であった。

「雷撃の魔法で相手の体力を削ってみようと思うのですが、構いませんか?」

「ぜひ頼む。情けない話で申し訳ないが、私の剣でこのオークを倒すことは不可能だ」

「承知しました」

「ただ、ササキ殿も十分に気をつけて欲しい。一口にオークとは言っても、これほど巨大な個体ともなれば、ハイオークに勝るとも劣らないと思われる。十分に歳を重ねた上位個体は、同族の上位種を超えることもあると聞く」

「なるほど」

 最初に撃ち放った一発も、決してダメージがゼロという訳ではない。表皮には焼け焦げた跡が見受けられる。数を重ねればそれなりに弱らせることができるだろう。そうなればミュラー子爵と協力して、打倒することも不可能ではないと思う。

「それでは……」

 眼球や足の関節、股間、皮膚の薄そうな部位を対象に魔法を照準する。

 そして、いざ魔法を発射せんと意識をとがらせた間際の出来事である。

 急に空から人の形をした何かが降ってきて、オークを直撃した。

 ズドンと大きな音と共に、巨漢があおけに倒れる。

 かなりの勢いを伴い衝突したようで、横転したオークの肉体は石畳を砕いて、地面にめり込んでしまっていた。まるでいんせきの衝突でも受けたかのようである。ほんの僅かな一瞬の出来事であった。

 これを正面から目撃した我々は驚きだ。

 また漏らすかと思った。

 殿下はもれなく漏らしている。染み、拡大。

「こ、今度はなんだっ!?」

 焦りに焦ったアドニス王子の声が、近隣一帯に大きく響き渡った。


    *


 空からの飛来物を受けて、大型のオークは一撃でノックダウン。

 おのずと意識は頭上に向かう。これまでの経緯を思えば当然の反応だ。つい今し方まで、花火でも打ち上げているがごとく賑わっていた空である。ミュラー子爵やアドニス王子も同様に、大きく空を仰いでいらっしゃる。

 すると目に入ったのは、天空から舞い降りた一羽の可愛らしい文鳥だ。

『すまない、助けに入るのが遅れた』

 ピーちゃんである。

 彼はヒラリと空を舞って、こちらの肩に止まった。

 いつもの位置に、いつもの姿。

 ラブリーな眼差しが堪らない。

 なんだかとても落ち着く。

 出会ってから僅か数十日の付き合いなのに。

「ピーちゃん、なんか空から落ちてきたんだけど……」

『うむ、思ったよりも時間が掛かってしまった。それと貴様を空に放り出してしまったこと、大変申し訳なく思う。下手をすれば死んでいた。それもこれも私の失態だ、本当にすまなかった』

 わざわざ頭を下げてまで語ってみせるピーちゃん。

 文鳥がお辞儀する仕草、めっちゃ可愛い。

 子爵様や殿下の前で喋ってしまって大丈夫なのかと、一連の振る舞いが気にならないでもない。ただ、今はそれ以上に気をむ事柄があった。それは彼の身体に付着した血液と思しき赤い液体。

「もしかして、怪我とかしてる? 大丈夫?」

 飼い主としては見ていて気が気でない姿だ。

 外見が小柄な文鳥だから、小さな擦り傷一つでも不安を覚える。鳥類の翼はとても繊細で、僅かな怪我でも空を飛べなくなるとか、ペットショップの山田さんから聞いた。回復魔法を使える彼だから、大丈夫だとは思うけれど、それでもやっぱり心配だ。

『大したことはない。大半は返り血だ』

「ならいいんだけど……」

『服を汚してしまったらすまない』

「いやいや、そんなのどうでもいいよ。ペットの体調の方が心配だから」

『私は貴様の身体が心配だ。落下の影響は大丈夫か?』

「ピーちゃんに教えてもらった魔法のおかげで助かったよ」

『そうか、それなら良かった……』

 ホッとした様子で呟く姿も愛らしい。

 こうして話ができるのが嬉しくて、思わず会話が弾む。

 ピーちゃん、マジ癒やし系。

 そうこうしていると、倒れたオークに反応があった。どうやら意識が戻ったようで、地面に手をついてゆっくりと立ち上がる。上に乗っかっていた空からの落下物は、先方の手によってゴミでも投げるように、脇へと放られた。

 かいえた肌の色は、空で確認したとおり紫色である。

 やはり、ピーちゃんを襲った人物は、普通の人間ではないみたいだ。

『オークの上位個体か』

 起き上がった巨体を眺めて、ピーちゃんが呟いた。

 もしや彼でも苦戦する相手だったりするのだろうか。

 などと考えたのも束の間、ラブリー文鳥の翼が動いた。

 右から左へヒュッといつせん

 するとオークの首がスパッと切断されて、バシャバシャと大量の血液が切断面から吹き出し始めた。その身体が直立していたのは、ほんの数秒の出来事である。立ち上がったばかりの肉体は、再び地面に倒れ伏した。

 今度はうつ伏せだ。

 そして、以降はピクリとも動かなくなった。

 ピーちゃん、めっちゃ強い。

 我々の奮闘がかすんで見える。

『この世界の生き物は様々な要因から魔力を手に入れて、より長い寿命を得ると共に、種を同じくする他の個体とは一線を画した優れた存在に育つことがある。これをその種における上位の個体という』

「なるほど」

 ミュラー子爵からも同じことを教わった。

 この場は素直に頷いておこう。

 実体験後に即座、こうして講釈が始まるのがピーちゃんっぽくて好きだ。

『こうした個体の在り方はピンきりだ。たとえば通常のオークであっても、魔力を手にして長い時間を生きれば、より強力な上位種であるハイオークを超えることもある。そこに転がっている個体も、恐らく並のハイオークより強力な個体だろう』

 子爵様も似たようなことを言っていた。本人は星の賢者様から聞いたと言っていたので、恐らくこうして聞かされている話が元祖だと思われる。本家本元とあって、その説明はより詳細なものだ。

『そして、これは人間であっても起こり得る現象だ』

「え、そうなの?」

 それは初耳だ。

 どうやら魔物に限った話ではないようである。

『そういった意味では、私や貴様は人間の上位個体だ』

「……なるほど」

 いつの間にか人類枠から一歩はみ出ていたようだ。

 次の健康診断が怖くなってきた。

 身の丈が急に伸びたりしたらどうしよう。局で受けた健康診断では、これといって指摘も挙がらなかったけれど、今後はどうだか分からない。髪の毛がフサフサになる分には大歓迎なのだけれど。っていうか、むしろフサって欲しい。

『ただし、一口に上位とは言っても、その振れ幅はピンきりだ。もしも今後、同様に上位個体と争うことがあったら、その点に注意するべきだろう。同じオークの上位であっても、ドラゴンに勝るような個体さえ存在する』

「前にも聞いたけど、ドラゴンって結構普通にいる感じ?」

『うむ、いるぞ。場所によっては割と沢山いる』

「人間にも起こるってことは、家畜や害獣なんかでも起こるのかな?」

『ああ、そういうことだ。生き物のみならず植物にも発現する』

 こちらの世界にゴキブリやゲジゲジ、カマドウマといった昆虫が存在しているかどうかは知らない。ただ、状況如何いかんによっては、そうした生き物が急に巨大化して、人類に牙を剥く可能性もあるということだ。

 なんて恐ろしいのだろう、上位個体。

「勉強になるよ、ピーちゃん」

『しかしなんだ、貴様のこれまでの努力を無駄にしてしまったな……』

 ピーちゃんの視線がチラリと、子爵様や殿下に向かった。

 我々の会話は当然、二人の耳にも入っていることだろう。人語を解する小鳥がいびつな存在であることは、ミュラー子爵の娘さんの反応からも理解している。更にオークの首を一撃で刈り取って見せたとあっては、疑問を抱かない訳がない。

 ただ、そうは言ってもピーちゃんに助けてもらわねば、我々には荷の重い相手であったのも事実だ。これに異論を唱えることはできない。彼もそれを理解しているからこそ、こうして人前でお喋りをしてまで、助けに来てくれたのだろう。

 ピーちゃんと現地で合流できた点はとても喜ばしい。

 今し方の上位個体に関する説明っぷりから察するに、急な登場も我々の身を案じての対応だろう。身バレして一番困るのはピーちゃん本人だ。そうでなければ他の誰よりも彼自身が、その存在を隠しておきたかったに違いない。

「ササキ殿、その小鳥はいったい……」

 ミュラー子爵からお声が上がった。

 隣ではアドニス王子も物言いたげな表情である。

「こちらは私の魔法の師匠となります」

「なんと、ササキ殿の師匠殿かっ!」

 既に色々と魔法を見せつけてしまっている手前、最低限のご説明はさせて頂くことにした。子爵様に限っては、性格も誠実で口の堅そうな方だし、秘密を共有する相手としては、立場的にも申し分ない。そう前向きに考えることにした。

 殿下については些か不安が残るが、まあ、こればかりは仕方がない。

『いきなりやって来て、挨拶もなしにすまなかったな』

「いえ、そ、それは構わないのですが……」

 文鳥から語り掛けられたことを受けて、狼狽うろたえるミュラー子爵。アドニス王子と併せて、二人の視線はピーちゃんとオーク、そして、オークにぶつかった何者かとの間で行ったり来たりしている。

 取り分け最後の手合いについては、自身も非常に気になる。

 たぶん、今までピーちゃんと戦っていた相手なのだろう。

 見たところ人間ではなさそうだ。胴体に手足や首が生えている点は人と変わらない。顔立ちも我々とほとんど同じだ。値の張りそうな衣服をまとっており、文化レベルも人と大差ないのではなかろうか。

 ただし、肌の色が紫である。また、頭には羊っぽい角が生えている。

『見ての通り、隣国には魔族が入り込んでいたようだ』

「な、なんとっ……」

 何気ないピーちゃんの呟きを受けて、ミュラー子爵が声を上げた。

 キーワードは魔族。

 魔物とはまた違った響きを感じる。

「ピーちゃん、魔族っていうのはどういう……」

『魔族というのは、そこに倒れているような外見をした種族だ。我々が人間、人族として扱われているように、この者たちは魔族という呼称で扱われる。人よりも優れた魔力や身体能力、そして長い寿命を持つ種族だ』

「なるほど」

 そういう生き物がいる、とでも覚えておけば大丈夫だろう。

 あれこれと尋ねて、会話の流れを妨げるのはよろしくない。異世界一年生である自分の理解を待っていては差し支えが出る。この場には自身の他にも、ミュラー子爵やアドニス王子がいらっしゃるし。

『本来であれば北の大陸に国を構えて住まっているのだが、こうして他所へとちょっかいを出しに来る者もいる。その中でもこの個体は、たびたび人の世に絡んで騒動を起こしている。我とも面識があった』

 オークの傍らに倒れた紫色の人を眺めてピーちゃんは語る。

 ピクリピクリと手足が震えているので、死んではいないようだ。

「え、知り合いだったの?」

ちまたでは血の魔女などと呼ばれているらしいが……』

「血の魔女!? 七人いる大戦犯の一人ではありませんかっ!」

 ミュラー子爵、驚いてばかりである。

 隣ではアドニス王子も、きようがくから目を見開いていらっしゃる。

 どうやら結構な有名人のようだ。

『人の世に紛れて遊ぶのが癖になってしまったのだろう。本来であれば魔族とは、もう少しストイックな生き物なのだが、甘い汁を吸ってしまったが故の怠惰であろうな。今回の騒動に対しても、多少なりとも関係しているのではなかろうか』

「なんと、そのようなことが……」

 現代の価値観で置き換えて考えると、サッカー選手だとか芸能人だとか、そういったポジションにある人物と思われる。同じく有名人枠に立っているだろうピーちゃんが苦労していたのも納得だ。

『ちなみにこの者も、魔族の上位個体となる』

「なんというか、上位個体っていうのは割とそこかしこにいるんだね」

『優秀な個体だからこそ、人目に留まる機会が多いのだ。種全体からすれば、そう数が存在している訳ではない。そして、だからこそ予期せず出会ったときの対処に困る。そこのオークにしても驚いたことだろう?』

「ピーちゃんの言う通り、それはもう驚いたよ」

『人の世の中には、こうした上位個体に名前やランク付けを行い、生態調査を行わんとする動きもある。とりわけ凶暴な個体については、その遭遇が自然災害に匹敵するような場合も少なくない。興味があるならば調べてみるのもいいだろう』

 剣と魔法のファンタジーだからと少し侮っていた。こちらの世界でも、そうした文化的な仕組み作りは各所で行われているようだ。もしかしたらピーちゃんもカテゴライズされていたりするのかも知れない。

 星の賢者、ランクA、みたいな。

「ササキ殿、我々からも少しいいだろうか?」

 そうこうしているとミュラー子爵から声が上がった。

 自分がピーちゃんを独占してしまったからだろう。

「あ、はい。いきなり話し込んでしまって申し訳ないです」

「いいや、それは構わないのだが……」

 どこか言いにくそうに子爵様は言葉を続けた。

 それは自身が彼に対して、意図して黙っていた事柄となる。

「つい先月、物資の調達に際して貴殿には、色々と苦労を掛けたと思う。その時に躊躇していたのは、もしやそちらのお師匠殿の手助けが影響してのことだろうか?」

 これまたお返事に悩む問い掛けだ。

 恐らくミュラー子爵は、こちらの肩に止まった愛らしい文鳥の存在が、体育館ほどもある大きな倉庫を僅か数日で食糧で満たしてみせた現象、瞬間移動の魔法に関連していると考えたのだろう。大正解である。

 そもそも自分が瞬間移動の魔法を行使できたのなら、わざわざ森の中を苦労して歩きまわる必要はなかった。ミュラー子爵とアドニス殿下を連れて、すぐにでも町に帰還することができた筈である。

 これをしなかった、という時点で、彼の推測は確信にも近いことだろう。

 もしも自身が同じ立場にあったら、森で出会って早々、いの一番に確認しているのではなかろうか。それを今まで黙っていた上に、質問をするにしても色々とぼかしを入れて、約束をちゃんと守ってくれている。

 今更ながら、彼の人格は本物だと思った。

「ええ、そのとおりです。黙っていてすみませんでした」

「いや、こちらこそ突っ込んだ確認を申し訳ない」

「できれば師匠の存在と併せて、秘密にして頂けると嬉しいのですが」

「それはもちろんだ。殿下もどうか、お願いできませんか?」

「ああ、貴殿らは私の命の恩人だ。その存在は誰にも語るまい」

「ありがとうございます」

 ミュラー子爵を通じてアドニス王子の口止めも完了である。

 後者についてはどこまで信用できるか定かでない。ただ、これまで行動を共にしてみた感じ、割と真摯な人物と思われる。オークに襲われている村を確認して、我先にとブレイブしてみせた姿は記憶に新しい。

 しかもヘルツ王国においては、かなり偉い人のようである。なんたって王子様。貴族より上に在ると思しき王族。この場であれこれと気にし過ぎて、彼の心証を悪くすることは避けたい。お願いはこれくらいにしておこうか。

「ただ、どうしても確認させて頂きたいことがあります」

 ミュラー子爵が続けざまに声を上げた。

 その視線は肩の上のラブリー文鳥に向けられている。

『なんだ?』

「貴方様は、もしや星の賢者様ではありませんか?」

『…………』

 おっと、油断をしていたら直球をもらってしまったぞ。


    *


 人が鳥に変化した、なんて話は現代人であれば到底考えられない。

 だがしかし、魔法なる現象が存在しているこちらの世界においては、ふと脳裏に湧いて浮かぶ想像であったりするのかも知れない。ミュラー子爵は至って真面目な表情で、弟子の肩に止まった文鳥を見つめている。

 冗談を言ってやり過ごせるような状況ではなさそうだ。

 彼の娘さんに偶然からツッコミを受けた時とは状況が異なる。今回ばかりはピーちゃんも、ピーピーしてすことは難しそうだ。個人的な意見としては、是非とも見てみたい光景なのだけれど。

 そうした雰囲気を察してか、文鳥殿は厳かにも頷いて見せた。

『何故そのように考えた?』

「その語り口、私は覚えがございます」

 めっちゃダンディーな語り口である。

 直前にピッ……、と僅かばかり、彼の声が聞こえたのは気のせいだ。

 星の賢者様の尊厳の為にも、聞かなかったことにしておこう。

『…………』

「私が他の誰よりも尊敬するお方の口調にそっくりなのです」

 すがるような眼差しを向けるミュラー子爵。

 彼と出会ってからこの方、初めて目撃する表情だった。

「いかがでしょうか?」

 登場からしばらく、あれこれと語っていたピーちゃんに、ミュラー子爵は星の賢者様の姿を重ねたようだ。そう考えるとやはり、二人の間には相応の交流があったのではなかろうか、なんて考えてしまう。

 そして、彼からの懇願にも似た物言いを受けて、ピーちゃんは応じた。

『久しいな、ユリウスよ』

「っ……」

 途端に子爵様のお顔がクシャッとなった。

 今にも泣き出してしまいそうなお顔だ。端整な顔立ちの彼が行うと、まるで映画のワンシーンのようである。中分けで整えられたブロンドの長髪、その僅かに揺れる動きまでつぶさに映える。

 ちなみにユリウスというのは、ミュラー子爵のお名前である。

 どうやら自分が想像していた以上に、子爵様は星の賢者様との間によしみを感じていたようである。その感極まった面持ちを眺めていると、これまで使い魔だ何だとうそをついていたことに対して、罪悪感のようなものを感じてしまうよ。

『連絡が遅くなったことは申し訳なく思う』

「いえ、星の賢者様がそのように思われる必要はございません。全ては我々ヘルツ王国の貴族が悪いのです。ただ見ていることしかできなかった私も同罪です。お優しい言葉を掛けて頂く資格はございません」

『そうかしこまることはない。こうして無事だったのだからな』

「……ありがたきお言葉にございます」

 まなじりに涙を浮かべながら、地面に膝をついて頭を垂れてみせる。

 ミュラー子爵の星の賢者様に対する態度は、アドニス王子に対するそれと比べても、殊更に畏まって思われた。放っておいたら一晩でも二晩でも、お辞儀をしていそうな気迫を感じるぞ。

 中小企業に勤めるえないアラフォーのリーマンに、異世界での活動の第一歩として、ミュラー子爵が治める町を勧めたのも、決してや酔狂ではないのだろう。そこには確たる思いがあったのだと理解した。

『それに今の私は、この者のペットに過ぎないのでな』

「……ペット、ですか?」

『星の賢者は死んだのだ。当面はゆっくり生きていこうと思う』

「…………」

『畏まることなどない。立つといい、ユリウスよ』

 ピーちゃんの言いたいことを理解したのだろう。彼を見上げる子爵様の顔が、どことなく寂しそうなものになった。きっと自分が考えている以上に、現役の頃は凄かったのだろうな、なんて思わせられた。

「ですが星の賢者殿、どうしてそのようなお身体に……」

 そうこうしていると、アドニス王子からも質問が。

 疑問はご尤もである。

『細かな説明は省くが、色々とあって異なる世界に渡る運びとなった。そのときのよりしろとして、この肉体を選ばざるを得なかったのだ。幸い現地では志を同じくする協力者との出会いにも恵まれて、今では生活に苦労することもない』

「それはそちらのお弟子さんのことでしょうか?」

『まあ、そんなところだ』

 殿下であっても、ピーちゃん相手には敬語である。

 星の賢者様の影響力、凄い。

 彼のことを殺そうとした貴族の思いも分からないでもない。味方であればこれほど心強い相手はいないと思える反面、利害が反している立場にあれば、身近に存在しているというだけで不安になる。

 自分も敬語を使ったほうがいいだろうか。

 出会いが出会いだったので、なし崩し的にタメ口を利いてしまっている。

「星の賢者様、我々の国には戻って頂けないのでしょうか?」

『しばらくゆっくり過ごそうかと思う。新たに世界を行き来する力を手に入れたのだ。当面はこれを用いて、他の世界について学んでみたいと考えている。世の中は我々が考えているより、遥かに広いものだぞ、アドニスよ』

「そうですか……」

 純粋にピーちゃんとの再会を喜んでいるミュラー子爵とは異なり、殿下は些か残念そうである。思い起こせば敵国の兵が消滅した件について、彼らには説明をしていなかった。祖国の行く先を憂える王族としては、星の賢者様の助力が欲しいのだろう。

 アドニス王子の発言を耳にしたことで、早々に子爵様から突っ込みが入った。

「殿下、恐れながら私どもが星の賢者様を頼るのは違うかと存じます」

「それは私も承知している。ただ、やはり民のことを思うとな……」

「その件については国に戻り次第、改めてご相談の場を頂けませんでしょうか? 私とて民を見捨てるつもりは毛頭ありません。殿下のご助力を賜ることができましたら、より多くの民を助けることができると思います」

「本当か? ミュラー子爵よ」

「はい、お約束致します」

「それは心強い。是非とも私の下を訪れて欲しい」

「ありがとうございます」

 恐らく隣国へのくらうんぬん、過去に副店長さんと共に耳に挟んだ件だろう。

 第二王子である殿下を味方に付けることができたのなら、取れる選択の幅も広がる。最悪、マーゲン帝国の援助を受けて、クーデターからのかいらい政権という形に持っていくことも可能だ。一方的に制圧されて国土を奪われるよりは、まだ未来のある話である。

 しかしながら、そうした行いは当面必要ない。

「ミュラー子爵、そちらの件ですが、少しお待ち下さい」

「それは何故だ? ササキ殿」

 せっかくピーちゃんが頑張ってくれたのだから、早まられては困る。

 この場で最低限の情報はお伝えしておこう。

「ヘルツ王国とマーゲン帝国の関係ですが、しばらくしたら改善が見られることでしょう。詳しくは前線に出ている兵から連絡があると思われますので、それまではどうか、動きを控えて頂けるようお願い申し上げます」

「改善……?」

「はい、改善です」

「まさか、そ、それは星の賢者様が……」

 ハッと何かに気付いた様子で、子爵様がピーちゃんを見つめる。

 これに彼は何を答えることもない。

 弟子の肩に止まったまま、静かに空を見上げている。

 なんかちょっとかついい感じの文鳥している。

 ただ、この顔は今晩の夕飯、何をおねだりしようか考えている顔だ。

 最近になって段々と、彼の表情が読めるようになってきたから分かる。

「ミュラー子爵、アドニス王子、このようなことをお願いするのは申し訳ないのですが、星の賢者様の存命についてはどうか、口外しないで頂けませんか? 本人もそれを強く望んでおります」

「ああ、承知した。絶対に口外しないと誓う」

「賢者殿の受けた仕打ちを思えば、それも仕方がないことだろう……」

 ミュラー子爵は快諾。

 殿下も素直に頷いて下さった。

 これで当面の平穏は守られたのではなかろうか。あとはこの二人を無事に町まで連れて戻れば、今回の戦争騒動は一段落である。政治屋である王侯貴族的には、これからが本番かも知れないが、それは自分やピーちゃんには関係のないことである。

『さて、それでは町に戻るとするか』

 少し疲れた様子でピーちゃんが言った。

 今晩はフレンチさんに頼んで、豪華なご飯を用意してもらおうと思う。



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