World.3 リンネ

       1


 柱に縛りつけられた金髪の少女。

「お願い…………たすけ…………」

 悲鳴にも似た掠れ声。

 その必死の呼びかけに、カイは一言も応えられなかった。言葉を失っていたからだ。

 ……この女の子……。

 ……!?

 少女の背中にはつばさがあった。

 背中に生えた一対の翼のもとしつこくからすのような濡れいろ。だが翼の先に進むにつれて、その羽は雪のようにじゆんぱくに染まっていた。

 黒と白のグラデーション。

 悪魔族? それとも幻獣族の天使種か?

「天使と悪魔……」

 天魔? そんな種族など存在しないはずなのに。少女のつばさは、天使と悪魔が混ざりあった混血を連想させた。

「────」

 じゃらり、と。

 少女をつなぎとめるくさりの音で、カイは我に返った。

「……あなたは……だれ……?」

 呼びかけに応えなかったことを、声が届かなかったと判断したのだろう。少女が再び、今にも消え入りそうな声を必死に唇から紡ぎだす。

「誰って……」

 カラカラにれた喉で、カイは必死に声を振りしぼった。

 聞きたいのはこちらの方だ。いったい何者なのだ。なぜこんな空間で、こんな痛ましいとらわれ方をしているのか。

「──リンネ」

「リンネ? お前の名前か?」

「…………」

 こくんと少女がうなずいた。

「お願い……たす……け…………」

「お、おい!?」

 言い終える前に、少女は意識を失って項垂うなだれた。

 ……だけど。助けろって、あのくさりから解放しろってことだよな?

 ……それをに頼むのかよ。

 近づいた途端におそわれる可能性。これがわなであることも考えられる。

 だが、カイがしゆんじゆんにかけた時間はほんの数秒だった。

「────わかったよ」

 第九主要駅ターミナルで悪魔と直面した時は、身の毛のよだつ圧力を感じた。

 少女からはそのじやを感じない。何よりこの奇怪な空間でようやく見つけた手がかりだ。この空間が何なのか知っているかもしれない。

「助けてすぐ襲いかかってくるのは無しだからな」

 リンネと名乗った少女を見上げて亜竜爪ドレイクネイルを振りあげた。彼女を柱につなぎとめている鎖にねらいを定め、力いっぱい振り下ろす。

 ──金属音。

 堅い音が響きわたるなか、カイは目を見ひらいた。

「硬っ!?……この鎖、どんな強度してるんだ!?」

 鎖が、剣をはじきかえしたのだ。レンの小指ほどの太さしかない鎖が、亜竜爪ドレイクネイルの剣を叩きつけても砕けるどころか欠けることさえない。

「なら──」

 じゆうけんの引き金に指をかける。

 亜竜爪ドレイクネイルを振り下ろすと同時に、真っ赤な火花が鎖を起点にふくれあがった。

 略式ドレイク弾のさくれつ

 少女を傷つけないよう柱の裏側にあたる鎖を破壊する──だが、もうもうと立ちこめる煙の中から現れた鎖は傷一つついていなかった。

「……うそだろ」

 悪魔を倒した炸裂弾でさえ傷一つ付けられない。

 無理やり引っ張れば人間の腕力でも引きちぎれそうな細い鎖が、まるで魔法でもかかったかのように硬いのだ。

「これで無理なら、どうしろっていうんだよ……」

 カイの手持ちの武器はこの銃剣のみ。

 それがまるで通じないとなると、他にどんな手段なら鎖を破壊できる?

「…………待て。そういえばさっきの声」

 墓所の内部にいた時のこと。

 リンネの声とは別に、れた老人の声を聞いた記憶がある。あの声はこう言っていた。剣を手放すな。その剣の名は────

世界座標の鍵コードホルダー?」

 刹那。

 右手ににぎっていた黒塗りのじゆうけんが、太陽のようにまばゆい光を放ちだした。

「熱っ!?……っ。これは!?」

 亜竜爪ドレイクネイルが光り出したのだ。

 黒塗りのやいばが半透明の刃へと変化を遂げて。銃身であった部分やつかにあたる部分も何もかもが、墓所で見たシドの剣そっくりに変わっていく。

 ──剣名に反応する憑依転生メタモルフオーゼ

 放熱が収まった後に。

 カイの手には、あわい陽光色の剣が握られていた。

 うっすらと透ける刀身は、これそのものが至上の宝石であるかのごとく美しい。

 剣でありながらも巨大な一本の「かぎ」にも見える。

 その神々しき刀身。

 亜竜爪ドレイクネイルでも傷一つ付かなかったくさりだが、……?

「頼む!」

 世界座標の鍵コードホルダーを振り下ろす。

 ──しゃらん、と。

 鈴のような音を立てて鎖のへんが地に落ちていく。まぶしい軌跡が、少女の鎖を鮮やかに断ちきった。

 落下するつばさの少女。

「…………」

「お、おい!?……何がどうなってる。ここはで、この子は何者なんだ」

 意識を失ったまま落下する少女をカイは抱きとめた。

 驚くほどに軽い身体からだ。手に伝わるやわらかな肌の感触に一瞬狼狽うろたえそうになったものの、少女を床に寝かせてやる。

「だけどこの子の耳」

 あらためて彼女を眺めて気づいたことがある。

「エルフ?」

 淡い金髪からうっすらとのぞく耳が、人間よりもとがっている気がする。

 ……エルフの耳。いやエルフの耳って多分もっと長いよな。記録で見たかぎり。

 ……人間とエルフの耳の、ちょうど間くらいか。

 蛮神族に分類されるエルフ種の耳。そして背中には天使と悪魔の翼。

「エルフも天使も蛮神族だっけ。ってことは悪魔族と蛮神族のハーフ? だけどこの子、それ以外は人間そっくりだし……」

 そう。

 倒れているつばさの少女は、驚くほど人間の少女にこくしていた。

 愛らしくれんな面立ちに、上気したほおと小ぶりな唇がまさしく年頃の少女のあわいろを感じさせる。呼吸のたびに上下する胸のふくらみがきやしやな体型から意外なほど目立つ上に、白を基調とした薄地の服ごしに腰の曲線もうかがえる。

 翼さえ隠せば、十六歳前後の少女で押し通せるに違いない。

 それも神秘的な可憐さをたたえた少女としてだ。

「人間と蛮神族と悪魔族の……混血? いやまさか」

 存在するわけがない。異種族間で子供が生まれることなど起きないはずなのだ。

 しかし、だとすればリンネと名乗るこの少女は?

「……っ、…………ぅ…………」

 少女の身体からだがビクンと跳ねた。

 肩が小さく震える。その後に、閉じていたまぶたがゆっくりと開いていく。

 すい色をしたひとみ。宝石のような光沢と、宝石にはない深みのある色を湛えたそうぼうがこちらを見つめて。

「お、おい? 意識、戻ったんだよな?」

「────」

 前ぶれもなく少女が目をみひらいた。

 と思いきや、げきの形相で少女はその場に立ち上がった。

────────────ッッ! よくもわたしを閉じこめてくれたわね。負けてない、わたしはまだ負けてないんだから!」

 少女が、背中の翼を大きく広げてりんせんたいせいへ。

 目の前のカイを指さして。

でわたしを止められるとでも? じようだんじゃないわ。隠れてないで出てきなさいヴァネッサ! 悪魔の英雄でしょ!」

「え!? ちょ、ちょっと待て!?」

「勝負はここからよ!」

 少女が叫んだ名はめいていヴァネッサ。

 ウルザれんぽうの都市を破壊しつくした悪魔の名である。

 ……悪魔にうらみがあって怒ってる。

 ……だけどほこさきを向ける相手が、俺!?

「待て勘違いだ、俺は悪魔なんかじゃない。そもそもお前を──」

「うるさいうるさい、さっさとヴァネッサを連れてきなさいってば!」

 激しく首を横にふった少女が両手をかかげる。

 その両の掌に、せん模様が浮かびあがった。

「法術っ!?」

 しかし、あの輝きは何だ。

 法術は種族によって色が違うとされている。悪魔族なら紫や黒。天使やエルフなら白をびているというのが五種族大戦の記録である。

 しかし何十、何百という色が重なり合った法術はいったい?

「アンタみたいな下級悪魔、わたしの敵じゃないんだから!」

 法術の光が押し寄せる。

「っ、エルフ弾──」

 とつじゆうけんを構えようとして、カイは凍りついた。

 亜竜爪ドレイクネイルはシドの剣へと姿を変えている。内蔵されていた略式エルフ弾ごとだ。今のカイには法術に対抗する手段がない。

 法術の輝きが視界を埋めつくす。

 その刹那に。


世界座標の鍵コードホルダーは「運命」を斬る。運命サダメ


 剣から響く、しとやかな女声。

「くっ!」

 それに疑問をいだく余裕もなく世界座標の鍵コードホルダーを振りおろす。

 シドの剣。陽光色に輝くけんせんが、リンネの放った混色の法術を真っ二つに切断した。

 ──リィン、と。

 鈴の音にも似た音をかなでながら法術が消滅。

 陽炎かげろうしんろうか。まるではくちゆうのごとく、火の粉一つ残さず消えていく。

「……法術が消えた?」

 思わずつぶやいたのは、シドの剣を振るったカイ自身である。

 法術を斬るやいば。直撃していれば命に関わるであろう法術が、まるで「なかったこと」のように消滅したのだ。

 一方で、法術を放った少女は。

「…………うそ」

 リンネがぼうぜんと立ちつくす。

 カイと、カイのにぎ世界座標の鍵コードホルダーを順番に見比べて。

「な、何よ今の!? 悪魔のくせにそんな武器を使うなんて知らないわ!」

「だから悪魔じゃないって言ってるだろ」

「え?」

「頭に血が上って聞いてなかったわけか。……ほら、人間だろ。悪魔のつばさ尻尾しつぽもないんだから」

 両手を広げてみせる。

 少女の全身から立ち上っていた敵意が消えていくのを感じながら。

「助けてやった身だし。俺に敵意がないことくらいはわかってほしいんだけど」

「……あなたが、わたしを助けた?」

「他に誰がいるんだよ。ここ、俺たちしかいないんだから」

「…………」

 開いていた翼が折りたたまれていく。

 カイから見えなくなるくらい翼を小さくする。それが「不戦」の意思の表れだろう。

「ごめんなさい。わたし、悪魔にうらみがあったからつい……」

 しゅんとしおれた声でリンネが口にする。

 だがすぐに、少女は小さくうめき声を上げてふらりと膝をついた。

まぶしい……?」

「ああ。さっきまで意識を失ってたからな。急に光を浴びたから」

 ひたいに手をあてる仕草のリンネ。

 明らかに人間ではないはずなのだが、その仕草からして人間そっくりだ。

「さっきヴァネッサって呼んでたよな。悪魔の英雄のこと?」

「…………」

 無言で、リンネがこくんとうなずいた。

「わたしを閉じこめた張本人だもん。だから、ここにいるのはアイツの部下だと思ったの」

「俺のどこを見たら悪魔に見えるんだ?」

「わ、わかんないわよ! わたし……種族が違うし……気が気じゃなかったから」

 そう言うリンネの翼は、長髪に隠れてカイからは見えない程に小さくなっている。

「種族が違うってことは悪魔じゃないんだな?」

「天魔──」

 偶然か。

 リンネが名乗った種族はカイが思い浮かべたものと同じだった。

「……って呼ばれたこともあったわ」

「『本当は違います』って意味に聞こえるけど」

「ど、どうでもいいでしょ種族なんて。そんなの何でもいいじゃない!」

 語気を強めてリンネが叫んだ。

 ──ふれて欲しくない。

 そう思わせるように、その大粒のひとみを大きく揺らして。

「助けてくれたことには礼を言うわ。攻撃しちゃったことも謝る。でも種族のことは……言わないで。その話は好きじゃないの」

「……わかった」

「わかってくれてうれしいわ」

 ともすれば社交辞令のような返事だが、ほっとしたように表情をたるませた反応を見るに、今のはリンネの本心なのだろう。

「ねえ人間、あなたは」

「カイ」

 苦笑を押し隠してカイは答えた。種族は間違っていないが、目の前でそう呼ばれるのはさすがに抵抗がある。

「人間なんて言われるの慣れてない」

「……わたし、リンネ」

 くさりつながれていた時に名乗った記憶がおぼろなのだろう。あらためてリンネが自分の名を口にした。

「一つ聞きたいんだけど、俺たち今どこにいるんだ。悪魔の英雄と戦って、それでここに閉じこめられたって言ったよな」

「うん。でもここがなのかはわからないの」

 リンネがふり返った。

 繫がれていた円柱を見上げ、続いて何かを警戒する面持ちで辺りを見回して。

冥帝ヴアネツサと一騎打ちで戦って、それでここに閉じこめられて……」

「一騎打ち!?」

 さらりととんでもない言葉を口にするリンネ。

 ……相手は、悪魔の英雄だぞ?

 ……ソイツと戦って生き残ってるだけで、とんでもないことじゃないのか。

 だがこんな場所にふういんされていた上に、天使と悪魔のつばさ。種族のことを聞かれるのを嫌がる様といい、彼女が特異な存在であることは想像に難くない。

「……もしや、めちゃくちゃ強い?」

「ふふんすごいでしょ」

 自慢げにリンネが胸を張る。

「わたし強いのよ。悪魔の大群も、よっぽど強い奴がいなかったら散らせるんだから」

「……そんな強さでようしやなく俺を攻撃してきたと」

「だ、だからソレは謝ったじゃない! 本当に誤解だったの!」

 少女の顔が耳まで真っ赤に。

 エルフに似た耳がぴょこんと横に跳ねたのは、おそらく動揺の表れだろう。

「でも危なかったのね。カイが冥帝ヴアネツサの部下だと思ったから、わたし手加減なしで攻撃しちゃったし。防いでくれてほっとしたわ」

「俺が防いでなかったら?」

身体からだが百個くらいのへんになってバラバラに……」

「手加減なしにも程があるだろ!?」

「ねえ、でもどうやったの? わたしの法術を防いだのって」

「ん? ああ、実は俺もよくわかってないんだけど……」

 英雄の剣をちらりと見下ろす。

 かつて預言者シドは、この剣で大戦を戦い抜いたとされている。

 ……四英雄に剣一本でどういどんだのかずっと疑問だったけど。

 ……さっきのがその答えか?

 剣から聞こえた声の通りならば「運命」を斬る。

 リンネの法術でめいしようを負う「運命」をせつじよした。にわかには信じがたいが、これだけ立て続けに超常事象が起きているのだ。見たままを信じる以外に選択肢がない。

「たぶんこの剣が──」

「うんうん。この剣が?」

 うなずいて先をうながすリンネの背後。

 何もないはずの空間に、音もなくうずく黒点が生まれた。うずしおを思わせる穴が広がり、そこから「何か」が現れる。


〝運命特異体■■■が覚醒。新世界へのかんしよう危険性『最悪』と判断〟

切除器官ラスタライザによるふういんを開始する────〟


 さながら残虐に破壊された人形マリオネツト

 現れたのは、身体のあちこちが欠損した奇怪な異種族の少女だった。

 外観は人間のそれにこくしているが、右肩から先はへびの胴体のような触手構造。背中には骨格だけのつばさが生えている。

 そして頭部が二つ。そうぼうは、どこかリンネに似た面影がある。そんな気がした。

 だが違う。

 ……リンネとは違う。

 ……なんだ、このどうしようもない寒気!?

 世界座標の鍵コードホルダーを持っていても手のふるえを抑えられない。

「こいつよ!」

 声を引きらせたリンネが慌てて跳び下がる。

冥帝ヴアネツサと戦ってる時に……コイツが現れて、わたしをここに閉じこめたの!」

「じゃあ悪魔か?」

 冥帝ヴアネツサが従えていたのならば悪魔族以外にありえない。

 だが本当に? この怪物がめいていヴァネッサの配下だというのか。五種族大戦の記録に、こんな悪魔がいたという報告はなかったはずなのに。

「逃げましょう。こっち!」

 リンネの決断は早かった。

 こちらに向かって手招きするや、三本の円柱の奥に向かって走りだす。

「わたしがここに引きずり込まれたのはさいだんの奥! そこの穴が開いてれば──」

 だが、そのリンネの頭上に影。

「リンネ! 上だ!」

「……え?」

 宙に生まれたもう一つの黒点。そこから怪物の右手にあたる触手がすさまじい勢いでリンネめがけておそいかかった。反応する間もなく全身を絡めとられる。

『運命特異体■■■を捕獲』

 少女の悲鳴が、こだました。

無座標化ゼロコードを開始する』

 無数のくろうず。怪物が転移に使ったものを極小に圧縮したものが何百何千とけんげんし、それが一斉にリンネの全身にまとわりついていく。

 そして消去。

 リンネの身体からだが、消しゴムで消すかのように削り取られていく。

「あ……あ?……い、いや……いやぁぁぁぁっっ!」

 リンネがに向かって手を伸ばした。

 救いを求めるように。だが、その手さえも黒渦におおわれて削り取られてしまう。

 少女の身体が消えていくのをの当たりにして。

「────────!」

 げきこうが、恐怖をりようした。

 ……この何もかも理不尽みたいな世界で。

 ……目の前にとんでもない怪物がいて……

 ここには英雄の剣がある。

 カイ自身も、四種族という強大な相手のために死に物狂いで修練を重ねてきた。

 どんな敵にもあらがえる。そのはずなのだ。

 ゆえにカイがげきしたのは、ただふるえて見ているだけの自分自身だった。

「止まってんじゃねえよ!」

 陽光色の剣を全力でにぎりしめて。

「シド、あんたの剣を借り受ける!」

 輝くやいばを、カイは、リンネを捕らえた怪物の触手めがけて振り下ろした。

 ──リンネを離せ!

 いつせん

 ざぁっと音を立てて、雲が晴れるようにくろうずれが退いた。

『………………!?』

 触手を切断された怪物がよろめく。

世界座標の鍵コードホルダー…………世界ノ意思……禁断ノ剣……ココニ…………!?』

「こっちだリンネ!」

 それに構わず少女の手を取って引き寄せた。

「走れるか!?」

「……だ、だいじょうぶ!」

「行くぞ。あんな奴の相手する必要なんてない!」

 その手を取ったままカイはさいだんの奥へと駆けだした。

 リンネが指さす方角へ走り続け、その先に──

「あった! あれよ!」

 光のれつ

 くうに浮かぶ光の扉に、カイはリンネと同時に飛びこんだ。


       〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓


 悪魔の墓所。

 まばたき一つにも満たない間に、カイは、薄暗い墓所の内部に立ちつくしていた。

「……はぁ……っ……ぁ……逃げ……られたの、か……?」

 あの異様な怪物がいつ追ってくるか。

 乱れる息であたりをうかがうも現れる気配はない。しんとしずまった暗闇の中、自分とリンネの荒い息が聞こえるのみ。

「リンネ?」

 倒れこんだ格好で少女は動かない。そう思いきや。

「──────っ!」

 リンネが跳ね起きて、しゃがみこむカイへと抱きついてきた。

「お、おい!?」

「………………こわかった……の…………っ…………身体からだが…………ざわざわしてる……」

 声にまじる嗚咽おえつ

 カイの首に手を回して抱きつく少女は、ふるえていた。

「本当に……本当に…………こわく……て…………」

「────」

「……うそ……じゃない、もん…………」

「ああ。俺だって本気でヤバイと思った。同じだよ」

 すがる少女の背中に手を回す。

 無理もない。あんな怪物におそわれて、カイの救出もあと数秒遅れていればどうなっていたかもわからなかった。恐慌状態におちいってもおかしくないだろう。

「しばらくしてろ。落ちつくまで待っててやるから」

 リンネは無言。

 言葉のかわりに小さくうなずいて、しがみつく手にぎゅっと力をこめることで応えてきた。

「…………あたたかい……」

 やがて、ひかえめな口ぶりでリンネがつぶやいた。

「ん?」

「こんなことしてもらったの、初めて……」

 初めて感じる温もり。

 それが意味するところを察し、カイは思いきって問いかけた。

「仲間は?」

「そんなのいない」

 少女の答えはあまりにもなかった。

「ずっと……一人だもん…………わたし、仲間なんていない…………親もいない……何もいないの。わたし、気づいたら一人だったから」

「────」

 

 リンネが口にした言葉に、カイは顔をしかめていた。身を以て知っている。この少女の苦しみが痛いほどに伝わってきたからだ。

 ……何の皮肉だろうな。

 ……俺だけじゃなかったわけだ。

 世界すべてからがいされたどく

 まさか、その感情を共有できる相手がこんなところにいるなんて。

「わたし……自分の種族のこと知らないの。だからずっと一人ぼっち。蛮神族にも聖霊族にも幻獣族にも『お前は違う』って言われたから」

「悪魔族も?」

「一番ひどかったわ。『醜い雑種まざりものめ』って。それで何もかも嫌で、その場にいる悪魔と大げんしたんだもん」

 戦いは激化し、めいていヴァネッサとの一騎打ちに発展した。

 それが、ここにいたるまでのリンネの経緯だろう。

「……俺もだよ」

 その一言に。

 抱きついていたリンネが顔を上げた。

「カイも? どういうこと、人間なんでしょ。人間なんて沢山いるじゃない」

「知り合いがいない。一人もいなくなったから、似たようなもんさ」

 幼なじみのジャンヌも、どうりようのサキやアシュランも自分のことを覚えていない。この世界では、なぜか自分という存在が「無かった」ことにされている。

「……いなくなったって。死んだの?」

「いいやピンピンしてる。だけど何もかも忘れちまったらしい。……ま、おかしくなったのは俺の方かもしれないけど」

「どういうこと? カイはおかしくなんかないでしょ」

「いや。これを言うとリンネにも笑われるかも」

「笑わないよ?」

 抱きついたままの態勢で、リンネ。

「わたし、カイのこと笑ったりしない。カイがわたしのこと笑わないから」

「……俺、人間が負けたのが信じられないんだ」

 首を横に振ってカイは続けた。

「俺が覚えてるかぎり、五種族の大戦に勝ったのは人間だった。なのに、歴史が逆転したとしか思えない。人間は負けて、かわりに人間の都市を悪魔がせんりようしてる」

「え? 待ってカイ」

 抱きついていたリンネが離れた。

「どういうこと。悪魔がのさばってるって」

「ん?」

「わたしが冥帝ヴアネツサと戦った時は、そんなことなかったけど……」

「そんなことっていうのは?」

「悪魔が人間の都市を占領してるっていう話。そんなの聞いたことないもん」

 ぼんやりと宙を見つめる彼女。

 しばらく無言で考えて、リンネが「あっ」と声を漏らした。

「わたしが覚えてるのもカイと似てるかなぁ? わたしが冥帝ヴアネツサと戦うちょっと前だけど、人間が大戦で勝ち始めてた気がするの」

「っ! それはどうして!」

……だったと思う。カイの方が詳しいでしょ?」

 耳をうたがった。

 まさか異種族であるリンネの口から、その言葉が紡がれるなんて。

「人間の中にすごく強いのが出てきて、それが人間の英雄だって悪魔が騒いでて──」

「シドを知ってるのか!」

「きゃっ!?」

 思いあまって、カイの方がリンネを抱き寄せていた。

「リンネ、シドを見たことがあるのか!?」

「ちょ、ちょっとカイってば……し、知らないわよ。人間の名前なんて興味ないもん」

「あ……そうか。そりゃそうだよな」

 だが、のサキやアシュランは「人間の英雄などいない」と言っていた。

 つまり「人間の英雄」という言葉が出ることそのものが、リンネが、と同じ歴史を認識しているあかしになりえる。

「カイ?」

「……よかった……」

 抱きついていたリンネから手を離す。

 暗い天井を見上げ、カイは心の底からあんの息をこぼした。自分の記憶は間違ってない。同じ歴史を認識している少女がここにいたのだ。

 ──

 こんな何が起きたのかもわからない状況で、人間が大戦に敗れて都市をうばわれた世界で、ようやく一人見つかった。

 自分のどくを理解してくれる、仲間が。

「? カイ? ねえ、何がよかったの?」

「俺たちが仲間だってこと。同じ記憶を持ってる仲間だったんだよ」

「……なかま?」

 リンネは今ひとつ要領を得ていない面持ちだ。

 それもそう。親も同類の種族もいない中、こんな突然に出会った人間から「仲間だ」と言われても、すぐには釈然としないだろう。

「ほっとしたってこと。さっきリンネが、助かったって俺に抱きついてきたのと同じ」

「……そうなの?」

「ああ。どうやら俺たち、お互い一人ぼっちってわけじゃないらしいぜ」

 預言者シドは実在した。

 そして五種族大戦でシドが勝利した歴史も間違いなく存在する。

 世界中のすべての人間が忘れてしまったのだとしても、自分とリンネだけは正しい歴史を覚えている。同じ記憶を共有していたのだ。

「……わたしが一人ぼっちじゃないって?」

「俺がいる。頼りになるって保証はできないけどさ」

「…………」

 リンネがまじまじとカイを見上げた。

 四つんばいに近い姿勢で、つばさをもつ少女がぐっと顔を近づけてくる。

「……なんだよ」

「そんなことわたしに言うの、カイが初めて」

「俺だってこんなこと言うの初めてだよ」

「そっかぁ……」

 そう言って。

 リンネが口元をくすりとほころばせた。

「じゃあ一緒だね」

 彼女が初めて誰かに見せる、慣れない不器用な微笑ほほえみだった。

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