『高慢と偏屈とゾンビ』

    1


 ──青年が、必死に野山を駆けていた。

 息を切らし、全身を汗だくにしながら、青年はなりふり構わず暗い夜道を走り続ける。ほおや首筋を枝木がかすめ、赤い擦り傷がつくことにも頓着しない。

 今、彼は必死だった。人生で一番速く走っていた。

 そうしなければ追いつかれる。追いつかれてしまう。青年が目にしたモノに、青年が何もかも投げ出して逃げた元凶に。──見知った顔の、知らないモノに。

「チクショウ、チクショウ……ッ」

 走る青年の唇からやるせない感情がこぼれ、そのまなじりに苦い涙が浮かび上がる。脳裏をよぎるのは懐かしい故郷の風景──今しがた、置き去りにしてきた場所の記憶だ。

 何もない田舎だった。好きではなかった。だから、十五のときに飛び出した。

 その後、色んな土地を転々として、苦労と経験を重ねながら自分も大人になった。それなりに落ち着く場所も得て、ふと思ったのが故郷のことだ。

 ──故郷を離れることを最後まで反対した両親、こっそりと家から抜け出すのを手伝ってくれた兄弟、告げた別れを惜しんでくれたおさなみの少女。

 今さらどの面を下げてとも思ったが、仕事は順調だ。いっそがいせん気分で戻ってやろうと開き直って、青年は数年ぶりに故郷へ足を向けた。

 ──そして今、青年は暗闇の山中を、のどの奥で血の味を味わいながら走っている。

 、こんなことになってしまったのか。いったい、自分はどうすればいいのか。

 ただ、あの場所を、土地を、故郷を、あのままにはしておけない。

 家族を、兄弟を、幼馴染みを、あんな残酷な姿のままになど──。

「誰か、誰かが……っ!」

 何とかしなくてはならない。──その一心で、青年は走り続けた。

 山間からのぞく朝日、その方角に向かって走った。

 太陽を求めるように、青年は走り続けた。


    2


 ──バーリエル領の『太陽姫』。

 プリシラ・バーリエルが領民にそう呼び慕われるのは、彼女自身の気質と能力、そして掛け値なしに輝かんばかりの美貌が原因である。

 以前のバーリエル領の統治は、領民にとって非常に過酷なものだった。

 プリシラの夫であり、王選が始まる直前に死没したライプ・バーリエルは無能ではなかったが、思いやりを欠落したような冷酷な老人だった。

 故にその死後、バーリエル領の統治を引き継いだプリシラの手腕は、困窮していた領民たちにとってまさしく救世主、暗黒の世界を照らした太陽そのものだった。

 そのため、彼らは敬愛のあかしとして、プリシラを『太陽姫』と慕うのである。


「──オレ的には、思いやり不足って意味じゃ姫さんもライプじいさまもどっこいどっこいって感じがすんだがな」

 渡り廊下の手すりに寄りかかり、屋敷の玄関ホールを見下ろす男がそうつぶやく。

 色々と奇抜で、特徴的な外見をした人物だ。

 それなりに鍛えた体に野卑な軽装をまとい、足下はゾーリと呼ばれる珍しい履物、その左腕は肩から先が失われていて、いわゆる隻腕というやつだ。ただし、真に目立つのは隻腕であること以上に、首から上を覆った漆黒のてつかぶとであろう。

 奇抜な衣装に隻腕、そして顔を隠す鉄兜──プリシラ・バーリエルがそばに置き、彼女から道化の役割を拝命する人物、アルであった。

 一見侮辱的だが、アル当人はその『道化』の肩書きを気に入っている。外でうわさされるような、プリシラの一の騎士なんて立場は願い下げだ。

 プリシラが嫌なのではない。騎士の肩書きが嫌いだ。騎士など、ろくなモノではない。

「むしろ、姫さんは大歓迎。胸の谷間眺めてても怒らねぇで許してくれるし」

「──またまたそんなこと言っちゃって。奥様に言いつけちゃいますよ~?」

「ととと」

 悪戯いたずらっぽい声がして、独り言を口にしていたアルは振り返る。そのアルの背後に立っていたのは、赤と白を基調とした給仕服姿の少女──、

「ヤエかよ。他人の独り言を盗み聞きするなんて趣味が悪ぃな」

「いっそ、聞いた私の方が後悔するような下品な独り言でしたけども」

「今話してんのは聞く側の品位の問題。話した側の品位はまた別の機会ってなもんだ」

「ええ~、アル様ってば理不尽~」

 そう言って、嫌々と身をよじる少女はヤエ・テンゼン──このバーリエル邸でプリシラに仕えるメイドの一人であり、アルにとっても同僚に当たる相手だ。

 色白の肌にすらりとした肢体、長い赤髪を一つにまとめた二十歳はたち前後の美しい少女で、ちやが強く、猫のような印象を与えるひとみが特徴的。

 変わり種が好きなプリシラが好んで侍従長に指名しただけあって、彼女もまたちょっとした変人の一人である。アルの異様な風体もすぐに受け入れ、こうしてフランクに接してくるあたりにそのへんりんうかがえるだろう。

 ともあれ──、

「下にきてる連中、みんな姫さん目当てだろ? 懲りないね、マジで」

 言いながら、アルが顎をしゃくって示すのは階下の玄関ホールだ。

 そこには、先ほどからアルが見下ろしていた光景、屋敷へ詰めかけた領民たちと、その対応に追われる使用人たちの姿があった。

 領主の屋敷へ大挙して押し寄せる領民、普通に考えれば武力蜂起の一幕だが、

「奥様への贈り物や、一目お会いしてご挨拶をと願い出る領民感情……それを無下にされる奥様ではありませんから、私もお慕い申し上げているわけでして」

 隣に並んだヤエが、階下を眺めてそううそぶく。

 彼女の言葉通り、玄関ホールに集まる領民たちは、プリシラへの敵意ではなく、敬意から行動を起こしている。事実、屋敷の入口には領内の各地から届けられた贈り物が並べられ、プリシラへの拝謁を願う声が後を絶たない。

 そうして下々に開かれた権力者の屋敷となれば、トラブルの種となるのも必然だ。そのため、屋敷へ上がる領民への対応は慎重を要するはずだが──、

「そのわりに、侍従長が対応してねぇってのはどういう了見なんだ? お慕いする姫さんの名前と安全のためにも、お前がにして働く場面じゃね?」

「だって、次から次へとキリがないんですもん。ヤエちゃん、お給金分しか働きたくありませんし。他のメイドの子たちにも成長してもらいたいですし?」

「どれが本音なんだか、食えねぇメイドだな……」

 舌の根も乾かぬうちに、とはまさにこのことだ。悪びれず、「べ」と舌を出してみせるヤエの態度にアルは己のかぶとの継ぎ目に指をやり、金具をいじって鳴らす。

 考え事をする際の癖だが、最近はこんな調子で継ぎ目に触ることが多い。王選も本格的に始まり、ナーバスになっている自覚がアルにもあった。

「相手のペースを崩して遊ぶのはオレの専売特許だってのに、このところ調子が崩されっ放しでどうにもうまくねぇ」

「アル様、姿形以外は結構真人間ですもんね。私も、接しやすくて助かってますもん」

「からかいやすくて、の間違いじゃねぇのか?」

「──? その二つって、違いあります?」

「違いがねぇって思ってることが怖ぇよ」

 不思議そうに首をかしげたヤエに、アルは隻腕の肩をすくめて首を横に振った。

 ただ、姿形以外は真人間と評されたことはそれなりに驚きだ。そしてプリシラに仕える上で、それをめ言葉とはなかなか受け入れられない。あの真紅の少女が人間のなる部分に価値をいだすか、それはひどく刹那的で曖昧だ。

 アルを退屈とみなした瞬間、この首をねようとしてこないとも限らない。

「それも、奥様を侮りすぎだと思いますけど」

「ビビりにビビっててちょうどいいぐれぇさ、姫さんのことは。──うん?」

 と、表情の見えない内心を読み取り、そう言ってくるヤエにアルが応じた直後だ。にわかに階下が騒がしくなり、アルの注意が再び玄関ホールへ向く。

 何事かと見れば、居並ぶ領民たちをける一人の青年が目に飛び込んできた。汗だくで泥だらけの、見るからに不衛生な姿の青年だ。

 領主の屋敷とあって、他の領民たちはそれなりにまともな格好をしている。それが最低限の配慮であり、その青年にはそれがない。つまり──、

「よっぽどの間抜けか常識知らずじゃねぇ限り……」

「それだけ、大急ぎで伝える必要のある話ってことでしょうね~」

 気安い調子で答えながら、赤髪をぜるヤエが漆黒のひとみをすっと細める。瞬間、おちゃらけた雰囲気が掻き消えるのを見て取り、アルは無意識に鉄兜の金具に触れた。

 そして、みすぼらしい姿の青年が侍女の下へ辿たどいて、叫ぶように言い放つ。

「頼む、領主様に会わせてくれ……俺の、俺の故郷が、びとだらけになってるんだ!!」

 青年の叫び声が響き渡り、玄関ホールのけんそうが一瞬にして静まり返る。その中、荒い息をつく青年が膝をついて、こらえ切れない涙のしずくが床に落ちた。

 その崩れ落ちた青年の姿と、ほおを伝う涙を眺めて、

「──どうやら、奥様好みの陳情みたいですね~」

「……姫さん、呼んでくらぁ」

 と、本心の見えない表情で微笑ほほえむヤエに、アルは触れた兜の留め具を鳴らした。


    3


「俺……自分が故郷に戻ったのは、四日前のことです。最初はただ、数年ぶりの帰郷だったもので、家族がしいのもそれが原因だと思っていました」

 ぽつぽつと、ひざまずく青年が自らの身に起きた出来事を語り始める。

 場所は屋敷の玄関ホールから移って、最近は領民との謁見に使われることが多い大広間だ。床に紅のじゆうたんが敷き詰められた一室、左右の壁にはバーリエル領の私兵団、赤ごしらえの装備がまぶしい『真紅戦線』の人員が並ぶ。

「────」

 そうした威圧的な赤が占有する広間の奥、ごうしやな椅子に腰掛けるのは壮烈な赤いドレス姿の少女。この屋敷で最も赤が似合う彼女こそが、プリシラ・バーリエルその人だ。

 そのプリシラのくれないの視線を浴びながら、陳情にやってきた青年は懸命に、たどたどしくも事情の説明を続けている。

「妙だと思ったのは、所々で感じる受け答えの不自然さでした。記憶と違った話や、つじつまの合わない会話がやけに多くて……」

「単なるど忘れじゃ説明がつかねぇと。けど、それでびとってのも突拍子がねぇな」

 と、青年の説明をつつくのは、屋敷の関係者で唯一、赤をまとっていないアルだった。

 直立不動の『真紅戦線』や、プリシラの後ろに控える侍従長のヤエ、そしてプリシラのかたわらに立つ幼い従者のシュルト──紅のひとみをプリシラに気に入られた少年も含め、大広間の関係者は全員『赤』を印象的に纏っている。

 そんな中、アルの存在はまさしく異質、異邦人のたたずまいだ。そういった印象は部外者の青年にもあるらしく、彼はげんそうな視線をアルへと向ける。

「も、もちろんそれだけが原因じゃありません。決定的な場面を、目にして」

「決定的な場面、ね。何を見たんだ?」

「そ、れは……」

 顔をそうはくにして、問われた青年の視線が広間を泳ぐ。それは、自分の頭の中の記憶を恐れ、おじづく表情だ。渇いた唇で何度もあえぐ青年、続く言葉が出てこない。

 あるいはそのまま、言葉と共に故郷への思いも萎えてしまいかねない反応だった。

 だが──、

「──そこで黙るでない、凡愚」

 そう、押し黙りかけた青年へとほおづえをつくプリシラが言い放つ。その容赦のない声音に青年の肩が震え、おびえる視線の彼をプリシラはにらみつけた。

きように負ければ、貴様の唇は二度と動かなくなろう。それでわらわの慈悲にすがろうなどと言語道断、思い上がるのも大概にせよ」

「ぁ……」

 じんの優しさもない苛烈な言葉が、青年のじる心をしやくねつで焼き尽くす。瞬間、青年の心に吹き荒れた強風と、痛々しい失望の色にアルは同情の念を抱く。

 故に、アルはプリシラへと肩をすくめ、「姫さん」と呼びかけた。

「こんだけ弱ってる相手に追い打ちかけんなよ。何にでも言い方ってもんがあんだろ?」

「言い方なぞない。あるのは事実だけじゃ。──聞け、凡俗」

 いさめようとするアルに鼻を鳴らし、プリシラは豊満な胸を強調するように腕を組む。そのまま彼女は、身を硬くする青年をぐ視線で射抜くと、

「今ここで貴様が口をつぐめば、命懸けで昼夜を駆け抜け、そうまでして伝えようとした故郷の無念が水泡に帰す。それを許容できるか、己の胸に問うがいい」

「────」

「なに、一度は捨てた故郷よ。れいさっぱり忘れて生きるのも一つの選択と言える。それを賢いと呼ぶか、臆病と呼ぶかは知らぬがな」

 言葉の苛烈さはそのままに、プリシラは青年の心を躊躇ためらうことなく焼け野原にする。その結果、灰の山だけが残ったとしても彼女は気にしない。

 しかし、彼女の焼け付く言葉を受け、ひとみを押し開く青年は違う。

「──さあ、貴様はどうする? 臆病者か?」

「……臆病者、です。賢くも、ない。でも、きようものにはならない」

 問いかけに、青年は顔を上げて答えた。その答えを、プリシラはまるで最初からわかっていたかのようにおうよううなずいて受け入れる。

 結果、まんまとアルの言葉は踏み台とされ、何とも腹の中がかゆくなる気分だ。

 そんなアルの方へと、意地の悪い笑みを向けるヤエが憎たらしい。プリシラの手元でハラハラとした顔のシュルトは可愛かわいげがあるというものだ。

「帰郷した日の夜、違和感がしこりのようになっていて、自分は寝付けずにいました。家族と食事もせず、部屋で横になっていて……ふと、誰かが家を出ていくのに気付いたんです。まるで人目を忍ぶようで、それが気になってあとを追いかけたら……」

 覚悟を決めた表情で、青年が我が身に起きた出来事の説明を再開する。そして、青年はかすかな躊躇いのあと、決定的な言葉を口にした。

「──自分たちの、崩れる手足を縫い合わせ、縫合する村人を見ました」

「────」

「最初は見間違いかと思いましたが、そうじゃない。あれは、腐りかけの手足をくっつけて、元通りにしようとしていたんだ。俺は、それを見てしまった」

 見てはならないモノを目にした。物語において、そうした目撃者の末路は一つだ。しかし、青年は物語の法則に逆らい、その場から何とか逃げおおせた。

「枝を踏んで、やつらに見つかりました。けど、俺は必死に走って、逃げた。故郷を離れるときに使った、裏山への抜け道を使って。そして、ずっと走り続けて……」

 息も絶え絶えの状態で、領主であるプリシラの下へと助けを求めにきたのだと。

「その、びとというのはどこから出た話なんです? 彼らが屍人と名乗ったとでも?」

「……昔、故郷の辺りでは死体が動き回って人を襲ったなんて話がありました。それで親が子を叱るときに、びとがくるなんて脅し方をしてたんです。だから」

「──迷信と思っていた屍人が現れたと、そう考えたわけですね~」

 段飛ばしの結論を、ヤエが冷静な指摘で補足する。それを経て、彼女はちらとプリシラの横顔をうかがい、口を閉ざした。アルも、同じく何も言わない。

 青年の訴えへの結論はプリシラが出すべきだと、そうわきまえている。

 ただし、そう割り切れていないものも、この場にはいて。

「プリシラ様……」

 か細い声であるじを呼んで、潤んだひとみを彼女へ向けるのはシュルトだ。幼く、心優しい少年は悲痛な青年の言葉に同情し、プリシラへ慈悲を求めている。

 それはともすればプリシラの不興を買い、処断されかねない危険をはらんだ訴えだ。

 だが、プリシラはそんなシュルトを見ると、少年の桃髪に指を差し入れてでる。撫でて、何も言わない。ただその行動だけで、シュルトはあんの表情を浮かべた。

「──して、貴様はわらわに何を望む? 故郷が屍人だらけになったと知らせ、危急の報告を妾へ届けた。その見返りに求めるのは?」

「どうか、故郷を取り戻して……いえ」

 唇をみ、青年は首を横に振った。プリシラの問いかけに希望を述べようとして、それが現実味のない嘆願だと自ら気付いたのだ。

 プリシラは、望みのない希望をかなえようとはしない。この場で彼女が求める答えは、触れることのできない夢物語ではないのだ。

 ──すでに、起こってしまった出来事を変えることはできない。それはなんであれ、誰であれ、許されてはならないごうまんの所業だ。

 故に、青年が口にしたのは救ってほしい、ではなかった。

「屍人たちを、滅ぼしてください。故郷を……俺の家族を、兄弟を、おさなみを、眠らせてやってください。──お願いします」

 頭を下げ、青年が悲痛な、しかし覚悟のいる願いを口にした。

「────」

 それを聞いたプリシラがなる答えを返すのか。てつかぶとの内から主人をのぞき見たアルには一目でわかった。彼女に仕える広間の全員が、同じく解する。

 プリシラは赤い唇をぎやく的に緩め、満足げな笑みを浮かべていたからだ。


    4


 青年の故郷、『カッフルトン』はバーリエル領の南端に位置する寒村の一つだ。

 何もない田舎に嫌気が差したという青年の言葉通り、これといった特色のない村であり、以前、プリシラが直接足を運んだ『ラドリマ』という村とは前提条件が違う。

 あのとき、プリシラはラドリマ特産の『クレナイ』なる真っ赤な花が目当てだったが、カッフルトンにはそうしたうまの一つも存在しないのだ。

 だから、ありふれた領内の変事の一つとして、『真紅戦線』の一部を解決に向かわせるのが手っ取り早いはずだったが──、

「それがどうしてまた、姫さんが直接出向くなんて話になったかねえ」

 真紅の地竜が引く竜車の中、豪華な内装を見上げるアルがそうぼやく。

かぜけの加護』の効果で、揺れも風も感じない車内は快適の極みだ。ただし、そもそもこの旅自体に乗り気でない以上、不自由のない旅路そのものが不自由の極み。

 そんな感慨を抱くアルの前で、「なんじゃ」とプリシラが片目を閉じ、

わらわの考えに不満でもあるのか? ずいぶんと命知らずなものよな、アル」

「ちょっとぼやいただけで命知らず扱いになんの? 最近、オレの扱い悪くねぇ?」

「たわけ。妾は常に公平にものを見る。貴様の扱いがさんと感じるなら、それは貴様が相応の働きしかしておらぬせいよ。妾に責任を転嫁するなど、それこそ愚の骨頂よな」

 長い足を優雅に組み替え、プリシラは胸の谷間から抜いた扇で自分の口元を隠した。その仕草に「へいへい」とアルは手を振ると、

「実際、私兵も連れずに領主様自らってのは悪手なんじゃねぇの? そりゃ、相手が単なる村人ってんなら姫さんの威光にひれ伏すかもしれねぇけど、聞いた話じゃ相手はゾンビってんだろ? 脳がスポンジになってる連中に権力って通用すんのかね」

「またぞろ、妾の知らぬ言葉を用いたな。その『ぞんび』やら『すぽんじ』やらとは何のことじゃ」

「ああ、歩き回る死体のことをゾンビっていうの。スポンジは……なんだろ、食器とか水洗いするときに使う道具。ようはカスカスってこと」

「ふん。『すぽんじ』はともかく、『ぞんび』の方の響きは気に入った」

 上機嫌に唇を緩め、プリシラが紅のひとみを細める。

「それで、妾が直接出向く理由じゃったな。想像がつかんのか?」

「思いつく理由が、面白そう以外になくて困ってんだよ。別の理由とかあんの?」

「なくはない。無論、興味深いという理由が一番ではあるがな。──ただ、そればかりが理由でもないぞ。解決までの間、妾の思惑を推し量ることじゃな。万一、解決までに答えが得られなければ、貴様の扱いはより悪くなると思え」

「何それ、クイズってこと? 罰ゲームありなら、ご褒美もありにしてほしいね」

「何とも卑しいことじゃな。わかった。ならば、見事に妾の思惑を解き明かした暁には、貴様に妾の足をめさせてやろう」「それ、姫さんの中のりなの? そろそろ本気で舐めようか迷ってきてるぜ」

 それはご褒美なのか罰ゲームなのか。特殊な趣味の持ち主ならご褒美だろうが、基本的には罰ゲームの類だろう。プリシラのおみ足を間近にできると思えば、アルも頑張ってご褒美と捉えることもできなくはないが。

「あの~、お二人が色っぽいお話してるとこ申し訳ないんですけど~」

 と、そんなアルとプリシラの会話に、おずおずと割り込んでくる声がある。それは竜車の車内、プリシラの隣に座っているヤエの声音だ。

 小さく挙手した彼女はへらへらとした笑みを作り、びっぽく首をかしげた。

「どうしてまた、今回は私が連れ出されたんでしょ? いつもなら、シュルトちゃんとアル様の両手に花……片方は食虫花ですが、そうなさってたはずなのに」

「食虫花て。いや、かろうじてシュルトちゃんがそっちの可能性も……」

「あ、普通にアル様が食虫花ですよ。かなり柔らかくて甘めに評価しました」

「さいですか……」

 ヤエの散々な評価にがっくりと肩を落としつつ、アルは内心で同じ疑問を得ていた。

 今回、カッフルトンへの旅路にプリシラはシュルトを同行させていない。基本、どこへいくにも彼を連れ歩くプリシラにはめつにないことだ。

 そのシュルトの代わりに、ヤエを屋敷から連れ出すなど初めてのことである。

「そもそも、私ってあくまでお屋敷の侍女として旦那様……故人となられてしまいましたが、旦那様に雇われて、それで奥様にお仕えしている身ですし? 今の立場って、わりと契約外の労働って感じがしなくもなかったり?」

「つまり、なんだ? 雇用条件にそぐわない扱いを受けたから辞職したいって?」

「そこまでは言いませんよ~。ただ、私は時間外労働も契約外労働も、本来ならしたくない立場なので、それを強いる以上は……」

「相応の報酬を弾め、であろう? 心配するな。わらわは下々の働きには報いる。そも、貴様を帯同したのは妾の判断よ。──妾が、それをすとでも?」

「────」

 一瞬、車内の空気が焦げる匂いがして、アルは身を硬くした。プリシラの低い声にどうかつされ、ヤエのほおかすかにこわる。

 しかし、ヤエはすぐに普段の調子を取り戻し、その両手を自分の頬に添えて、

「いえいえ、そんなそんな、まさかまさか。奥様を疑おうなんて命知らずな! 私は立場を表明しただけ。奥様がそう言ってくださるなら、何の心配もありません。私は奥様の忠実な犬です。大切なお花にも、食虫花にも喜んで水やりをいたしますよ~」

「言っとくが、食虫花にはちゃんと虫を食べさせないと、水だけやった食虫花より明らかに弱くなるって研究データがあってな……」

「混ぜっ返すでないわ、アル。貴様の食虫花への知識なぞ今はいい。して、心を入れ替えたなら働きで見せよ、ヤエ。──カッフルトンについては?」

 愚痴るアルをたしなめ、プリシラがヤエにおおざつな問いを投げつける。すると、ヤエは自分の赤髪の束をつかみ、その髪先で自分の唇をくすぐりながら、

「え~、特別、お渡しできる情報なんてありませんよ。ああ、びとの情報を伝えた男性はアレイ・デンクツ。カロン・デンクツとモネ・デンクツの次男で、長男はリドル・デンクツ……うーん、そのぐらいですかね~。目立ったところもないですし?」

 お役に立てずにすみません、とヤエは謝罪するが、その発言には十分に舌を巻く。もちろん、適当な答えを返したわけではない。全て、事実に基づいた情報だ。

 領内の各町村では、住民の数と名前を把握するための検地が行われている。当然、その記録は領主であるプリシラの下に届くわけだが、侍従長たるヤエはその全てを把握しているとばかりに、あっさりとその知識を吐き出してみせた。

 有能であるから使われる。──底知れぬ娘だが、プリシラが彼女を重用する所以ゆえんだ。

「──あ、ついたみたいですよ~」

 そんなやり取りが一段落したところで、竜車がゆっくりと停車する。手綱を握る御者が恭しく竜車の扉を開けると、涼風が一行の来訪を歓迎していた。

 そして、歓迎と呼べるほどまともなものは、それ以外には何もない。

「……見渡す限り、野っ原と畑しかねぇな」

「そういうところですもん。住人もたったの八十八人しかいませんし、私たちのお屋敷より敷地で言ったら狭いぐらいです」

 高台から村を見下ろし、田舎の風景にアルとヤエが感想を交換する。

 緑豊かで牧歌的などと言えば聞こえはいいが、若者には退屈すぎる寒村だと一目でわかる。青年が故郷を捨てて飛び出したのにも納得だ。

「少ない家も小ぢんまりとまとまったもんだ。けど……」

 そこで言葉を切り、アルは遠目に村の様子を眺める。相応に離れた距離だが、それでも村の営みには生活の動きが見える。炊事の煙が立ち、村内を歩く人の姿もあった。

 とても、びとに占拠された村なんて風聞にはそぐわない有様だ。

「今んとこ、普通の村に見えっけどね。オレの想像するゾンビは、あんな調子で炊事だの洗濯だのって働くイメージじゃねぇなぁ」

「四十年前、ルグニカ王国で猛威を振るったしかばねへいも、日常生活なんてとても送れるような状態ではなかったらしいですよ。体は腐る一方、行動も生者に襲いかかる一辺倒。強い人の屍兵は、生きていた頃並みに強かったらしいですけど」

 アルの言葉を受け、ヤエが聞きかじりの知識でそう話してくれる。いずれにせよ、死後も誰かに使つかわれるなどとゾッとしない話だ。

「いや、死ねるだけまだマシなのかね。頭が働かなくなってんなら、自分の不幸も自覚できなくなってそうだし」

「またずいぶんとおかしな仮定ですね~」

 首をひねり、かぶとの金具に指で触れるアルのつぶやきをヤエがする。それに答えず、アルは今後の方針を確かめんと、無言のプリシラの方へと振り返った。

「もしかすっと、屋敷にきたお兄ちゃんの方が頭おかしかったのかもしれねぇぜ? あっち調べた方がよかったかも……姫さん?」

「────」

 呼びかけに返答はなく、プリシラは黙って平凡な寒村を見下ろしている。しかし、その紅のひとみに宿るのは強い嫌悪と、揺らめく炎となった怒りだ。

 アルやヤエの感じるものと、明らかに異なる確信が彼女の感情に火をけている。

「どこの誰かは知らぬが、わらわの足下でこのようなろうぜきを行うとはな」

 唇を曲げ、そう言ったプリシラがずんずんと歩き出した。その迷いのない足取りに、アルたちは一瞬反応が遅れ、慌てて彼女の背中を追いかける。

「おい、姫さん! すげぇブチギレてんのはわかるけど、なんでそんないきなり!?」

「見ればわかろう。嗅げば匂おう。耳を澄ませば、人でなしの人形遊びの糸繰りが聞こえてこようが。──万事、妾に対する無礼とみなす」

「もう全部がわけわからねぇ!」

 プリシラの物言いは難解で、アルは頭の中でくだくのに時を要する。そして、プリシラの歩みは速く、その時間をアルへと与えなかった。

 堂々と高台を降りたプリシラは、一切のちゆうちよなくくだんのカッフルトンへ足を踏み入れる。そのプリシラと連れ二人に、村の入口にいた壮年の男がまゆを上げた。

「おや、外からのお客人とは珍しい。そんなドレスで、この村に何の……」

「黙れ」

 軽く手を上げ、和やかに話しかけてきた男が目を見開く。

 次の瞬間、プリシラが虚空から抜いた真紅の宝剣で、男を斬りにしていた。

「か」

 短い苦鳴が漏れ、直後に男の体が一気に炎に包まれる。

 ──プリシラの所有する『陽剣』は、斬りつけたものを焼き尽くす魔剣の一振りだ。その業火は消えることなく、その存在を灰と化すまで燃え上がらせる。

 ものの見事に、壮年の男の体は一瞬で黒焦げの炭クズへと変貌して──、

「おいおいおいおい!? マジかよ!? 第一村人をいきなり焼殺!?」

「正確には斬殺かと思いますけど、微妙にどっちでもいい感じですよね。ええ~」

 その暴挙を目の当たりにして、さすがのアルとヤエもきようがくを隠せない。しかし、連れの驚きに目もくれず、プリシラは炭化した男の死体を見下ろして鼻を鳴らした。

「『ぞんび』がれしく、妾に語りかけてくるでないわ。妾は領民にを与えるが、それを姿形が同じだけのまがものにまでくれてやるほど安くはない。わきまえよ」

「いや、しやべってたし、社交的な笑顔も浮かべてたぜ!? ホントにゾンビ!?」

 少なくとも、アルの目で見た焼死した男は人間判定だ。それも、友好的な部類に入る人間判定であり、問答無用で焼死したのは悲劇としか言いようがない。

「私的には斬殺だと思いますって訂正重ねますけど……ああ、村の皆さんが」

 頭を抱えるアルの隣で、ヤエが周りを見ながらほおをひくつかせる。周囲、ざわつきながら姿を見せたのは、見知らぬ来訪者の存在に気付いた村人たちだ。

 一瞬の早業だったので、彼らは第一村人の末路を目にしていない。とはいえ、人型のすみくずが転がっているので、悲劇に気付かれるのは時間の問題だろう。

「え~と、これはですね、皆さん」

 なんと言ってすべきか、全力で言い訳に頭を使っているヤエ。──だが、アルはそう考える彼女より、半歩分だけプリシラを深く理解していた。

「姫さ──」

「ふん」

 しかし、その半歩もやはり、はるか先を行くプリシラの行動に追いつけない。

「────」

 無防備にやってきたのが運の尽きと、プリシラの陽剣が容赦なくいつせん、先頭に立っていた小柄な老人の体がで斬られ、直後に赤々と燃え上がった。

「う、うわあああ──っ!!」

 その突然の凶行を目の当たりにして、村人が恐慌状態へ突入する。だが、悲鳴はすぐにんだ。悲鳴を上げた男の首がねられ、悲鳴が中断する。

「見よ、アル。あの男の報告は正しかったな」

「何が!? 現在進行形で、間違った判断したお偉いさんの乱心口封じシーンってイメージが欠片かけらも拭えねぇけど!?」

「──、この場に女子供が一人もいない? 体のできている男だけが、わらわたちを取り囲んだ理由はどこにある?」

 真紅の宝剣を手の中で回して、プリシラが頭のなくなった男の胸を剣先で突く。当然、その衝撃で頭部を失った体は倒れ──ない。

 首の切断面から血が出ないのは、陽剣が斬るのと同時に傷を焼くからだが、それだけではなかった。──首の断面から何かをうごめかせ、首のない体がプリシラへつかみかかる。

「──ちぃっ!」

 舌打ちして、アルは強引にその首なし男へと体当たりした。頭がない分、軽々と男は後ろへ吹っ飛ぶが、すぐに四肢を地について体勢を立て直す。

「うげ」

 首の切断面を直視して、アルがおぞましさにうめく。

 男の傷口で蠢くのは、無数の植物の根のような触手だ。水中で踊る水草のように、蠢く触手がアルをけんせい、そのまま飛びかかってこようとして──燃える。

「陽剣の切っ先に触れて、無事で済むなどと思うな。燃え尽きよ、がんさく

 吐き捨てるプリシラの前で、声なき断末魔を上げる男が炭となって崩れ落ちる。その間も、周囲の村人たちは逃げるのではなく、感情のないひとみで『外敵』を見ていた。

 大当たりだったと、プリシラの直感の正しさにアルは腰裏のせいりゆうとうを抜く。

「クソが、本気でゾンビかよ! 姫さん、下がってろ!」

「うむ、任せた。これ以上、やつらのごとく薄汚い連中をわらわの視界に入れるのは御免じゃ」

「え、マジで?」

 格好つけつつも、びとの掃討をプリシラが手伝ってくれる当てが外れた。

 プリシラは本気で陽剣を空へむと、アルの肩をたたいてこちらの背後へ下がる。そうして、アルが相手をするのは三十人以上の能面のような屍人──。

「あれ、これ死ぬんじゃね?」

「よっ! アル様、カッコいい! ここが男の見せ所です! 派手にころされたら、シュルトちゃんには立派な最期だったとお伝えしておきますので~」

「ふざけてねぇでてめぇも手伝え!」

「あれれ~?」

 青龍刀を構え、気抜けする応援を投げてくる侍従長にアルがえる。それを切っ掛けとしたように、正面、農具を手にした男が殴り掛かってきた。

 その、男のひたいぐ、黒いやいばが射抜くように貫く。

「────」

 衝撃に首を後ろへ倒して、男の足が止まった。しかし、すぐに男の頭はバネ仕掛けのように跳ね戻り、農具をアルへ叩き付ける作業を再開する。

 その両腕を青龍刀で叩き切り、返す刀で首を、胴を、膝をぶった斬った。

「ここまでやって……やっと、一匹!」

「ひゃぁ、気が遠くなる。こういう元気な方々って、私と相性悪すぎません?」

 ようやく一体のゾンビを沈黙させて、肩で息するアルにヤエが唇をとがらせる。その彼女の手の中には黒い刃物──男のひたいに突き立ったものと同じ、クナイが握られている。

 クナイは西方特有の暗器であり、彼女はその他にも多数の隠し武器をあの赤いメイド服の下に隠し持っている。それ故に戦えるメイド、それが彼女の真骨頂だ。

 ただし、ヤエの基本攻撃は奇襲からの急所攻撃であり、頭部や心臓が単純な弱点とならないゾンビは相性最悪、嘆きたくもなる。

「姫さん! ちょっと、姫さんってば!」

「ぴいぴいさえずるでない。わらわの従者であるなら堂々とせよ。妾の格が下がろうが」

「そのれいなお目々に見えてねぇの? オレこれ死ぬぜ、オイ!」

 嘆く間にも一人、二人と斬り倒し、アルは決死の気分で敵中をくぐる。

 一斉に襲いかかってくるゾンビ化した村人、それらの中を抜けるのはまさしく死中に活をいだす気分だ。だが、物量差に押し負けるのも時間の問題。

 なのにプリシラは、そんなアルの悪戦苦闘を楽しげに観戦するばかりで──、

「アル様、頑張ってくださ~い。私も、応援するぐらいしかできそうにないんで」

「うるせぇ!」

 か、自分も部外者気分で声援を投げてくるヤエを怒鳴りつける。

 状況の見えていない二人を背後に置いたまま、アルのかつてない死闘が続く。

 本気で死にかけたアルのために、プリシラが再び陽剣を抜いてくれたのは、それからほんの数十秒後のことだった。


    5


「それにしても、マジでゾンビの村だったとはな……」

 そうこぼしながら、アルは自分が斬り殺した村人のなきがらを足でひっくり返した。その死相は安らかとは程遠く、彼には「ナンマンダブ」と祈ってやることしかできない。

 なにせ、単純な斬殺死体と違い、全身めつ斬りのひどい有様だ。

 ここまでの死体損壊、異常者の所業でもなければそうはお目にかかれまい。無論、アルにはそうした思惑はなく、必要に迫られてのことだったと言い訳ができるが。

「そもそも、斬られた死体の十倍以上も焼死体が転がってて、オレの言い訳なんかいるわきゃねぇって話だわな」

 言いながら、ぐるりと周囲を見回すと、あるわあるわ焼死体の山だ。

 襲ってくる村人を掻い潜り、戦い続けて死体はついには五十以上──その九割は焼死体であり、アルの作った死体など大した数でもなかった。中盤以降、アルはヤエと一緒になって、プリシラの紅の剣舞に声援を送り続けていただけだ。

 とはいえ、それで最適解。びと化した村人の生命力は異常で、首や心臓といった急所を潰されてもピンピンしていた。図らずも、陽剣の炎こそがやつらの弱点であり、それ以外で殺し切るにはそれこそ滅多斬りにする残酷さが必要になる。

 あの異常な生命力と、炎を浴びて滅びる姿。ますます、アルの知るゾンビの生態と酷似していた。もっと言えば、ゾンビより寄生体の方がしっくりくるが──、

「わかりやすさ優先でゾンビって呼んどくが……姫さんの観察通り、女子供のゾンビがいねぇな。こっそり、村の中で食糧なんてことになってなけりゃ……」

「そんな怖い想像やめてくださいよ~。ちゃんと見つけてきましたってば」

 記憶と、炭化した死体の顔を見比べていると、村内を見回っていたヤエが戻ってくる。彼女はアルのつぶやきに顔をしかめ、自分の背後を手で示した。

 そこにはカッフルトンの住民だろう、女性や子どもたちの姿があった。

「それぞれ、日中はご家庭の納屋や倉庫に押し込まれていたそうで。姿形は家族と同じ化け物が、自分たちに普段の生活を強いていたとか……」

「そいつは……」

 正直言って、相当に薄気味悪い要求だ。外見は家族と同じでも、その中身が全く違うやからが普段と同じを演じろと命じる。──どの口が、としか思えない。

 だが、彼女らはそれを強要されていた。挙句、夜ごと手足ががたつくゾンビのために、取れかけた手足を繕う仕事までやらされて。

「この手の話、自分じゃ結構耐性があるつもりだったんだがな」

かぶとのおかげで見えませんけど、これでまゆ一つ動かさないような同僚のいる場所では働けませんよ、怖くて。なので、ビビッてくれて大丈夫です、アル様」

「ビビったわけじゃねぇよ。ゾッとしねぇ話だなってのはあるけどな」

 微笑ほほえみ、そんな慰めっぽいことを言ったヤエにアルは首を鳴らした。そのまま、ヤエは視線でアルに「どうしますか」と村人の処遇を問うてくる。

 ヤエが気にかけているのは、助かった女子供にどう家族の末路を伝えるか、だ。ゾンビ化した上に、最後はすみくずになったと素直に伝えるべきなのか。

 人生であまり想像する機会のない難題に、アルは無言で鉄兜の金具をいじるが──、

「──なんじゃ、村の生き残りか」

 そこへ、高台に置いてきた竜車に戻っていたプリシラがやってきた。生存者たちを見つめるプリシラに、アルは「姫さん」と慌ててその肩をつかむ。

「気持ちはわかる。けど、こらえてくれ。姫さんが連中をとして始末したなんて教えたら、錯乱した女子供の焼死体がもう二十体ばかり転がる羽目になる」

「貴様、わらわのことをなんだと思っておるんじゃ。妾がわざわざ、夫を亡くした妻に、父を亡くした子に、兄を亡くした妹に、それを突き付けて笑うとでも思うのか」

「────」

 正直思ったのだが、アルはその言葉をすんでのところでんだ。

 そしてその間、プリシラは生き残りの女子供の方へ歩み寄る。その先頭、所在なく立っていた少女がプリシラを見て、「あの」と意を決したように口を開く。

「アレイは、無事なんでしょうか?」

「アレイ……?」

「屋敷に報告にきた男性ですよ。アレイ・デンクツ」

 少女の尋ね人の名前に、首をかしげたアルへとヤエが耳打ちしてくれる。そう、来訪途中の竜車で聞いた名前だ。その、彼の身を案じたということは──、

「無事じゃ。あれを村の外へ逃がしたのは貴様か?」

「……偽物の、気を引いただけです。でも、無事でよかった」

 そっと胸をで下ろし、少女がアレイの無事に心からあんする。本気で、あの青年のことを心配していたのだろう。そのために危ない橋を渡ることをいとわぬほどに。

 だが、結果的にその行いが、このひそやかなびとの侵略をプリシラに気付かせたのだ。

「褒美を取らせる。近ぅ寄れ」

「え、あ、はい……」

 その貢献を認め、プリシラが少女を手招きした。尊大な呼びかけに戸惑いつつ、少女は一歩、プリシラの下へ。そして──、

「舌をむでないぞ」

「──っ」

 次の瞬間、プリシラは何のちゆうちよもなく、その少女の唇を正面から奪った。

 初対面、説明なし、女性同士──様々な問題を一息に飛び越え、プリシラの別角度からの暴挙に背後の女子供も驚く。無論、仰天したのはアルやヤエも同じだ。

「おいおいおいおい、何事だよ!?」

「──っ! アル様!」

「ああ!? なんだよ……って、うぉ!?」

 褒美の定義について議論を求めるアルを、表情を変えたヤエが呼んだ。その呼びかけにまゆひそめた直後、プリシラが少女から唇を離す。

 ──その白い歯で、異形の触手に噛みついたまま。

「────」

 そのまま一気に、プリシラが少女の体内から触手を外へと引きずり出す。全長一メートルほどの触手が暴れ、その鋭い先端をプリシラへたたき付けようと──、

「おらぁっ!」

 それを、せいりゆうとうひらめかせるアルが防ぐ。一撃、容易たやすく木の根のような触手は断たれ、激しく地面の上でもだえ苦しむ。まるで、陸に上がった魚が呼吸できずに跳ねるように、触手もまた必死にいているように見えた。

「だが、貴様は生くるに値せぬ」

 言って、地面で悶える触手が紅の宝剣によって焼き尽くされる。ゾンビ化した村人と同様、触手は焼かれた途端にあつなくその動きを止めた。

「これがゾンビのもとか。寄生虫……寄生生物ってとこかよ」

 ゾッとしない気分で、アルが地面で灰になった触手に息をむ。

 思い描くのは、首を断たれた男の断面でうごめいていた異物。ゾンビ化した男たちと同じものが、女子供の体内にも巣食っていたということになる。

 だが、少女はゾンビ化していない。その違いはどこにあるのか。

「体質か、血の問題でしょ~か。もっと単純に、女性や子どもの体は奪えない?」

「それでも巣食うのは陸に上がるため、か。──おぞましい」

 む少女を介抱するヤエに、プリシラが目を細めて吐き捨てる。それからプリシラは陽剣を逆手に握り、おびえる女子供へと真紅のけんせんを浴びせた。

「──ぁ」

 瞬間、生存者たちはその場に崩れ──一斉に、地面におうし始める。その光景を目にして、ぜんとなるアルの前でプリシラは鼻を鳴らした。

 それから、彼女は自身の握る真紅の剣の刀身をそっとでると、

わらわの陽剣は斬りたいものを斬り、焼きたいものを焼く」

「……つまり、体の中の触手だけ斬って焼いた?」

みが早いな。褒めて遣わす」

「一瞬、生き残りも全員ぶった斬ったのかと思ってヒヤッとしたぜ」

 とはいえ、プリシラの陽剣がなければ、それに近い対処が必要だったはずだ。最悪、生き残り全員からキスして寄生体を引きずり出さなくてはならなかった。

「にしても、ご褒美って姫さんとのキスのことかよ。オレも、足をめさせてやるとかじゃなくて、そういうのでいいんだぜ?」

「たわけ。妾の唇が至宝なのは事実じゃが、褒美は命の方に決まっておろうが。あれが命より情を優先した結果、今回のことが露見した。確かな働きである」

 アルの言葉に嘆息し、プリシラが少女の行動力をたたえる。

「女の子の恋心が悲劇を食い止める、か。出来すぎた話だったな。けど、何とかこれぐらいの被害で済んでマシだった……」

「──いいや、そのあんにはまだ早い」

 痛ましいカッフルトンのびと被害、しかし、プリシラはその〆方に首を横に振った。その断定的な物言いに、村人の様子を確かめたヤエが振り返り、

「それは先ほど、奥様が御者に何かを命じて地竜を走らせたことと関係が?」

「無論よ。──竜車は屋敷の『真紅戦線』の下へ向かわせた。やつらには厳重装備の上、テンリル川流域にある、カッフルトン以外の三つの村を調べさせる」

 答えながら、プリシラが真紅の扇を広げ、それで村のそばを流れる川を指し示した。その動作の真意を悟り、アルやヤエは戦慄する。

「奥様は、川が感染源になっているとお考えなんですね」

「オレの浅い知識だと、ゾンビってのはまれた奴からうつってくのがお約束だぜ?」

「あれらに人を噛む習性はなかった。その上、営みに溶け込もうとしておったろう?」

「確かにな」

 そこが、アルの知るゾンビと、寄生された村人たちとの明確な違いだ。彼らは人を襲うのではなく、成り代わり、そのテリトリーを守ろうとしていた。

 まるで、奪うのは肉体ではなく、人生そのものだとでもいうように。

「だとしたら、寄生虫なんて可愛かわいげのあるもんじゃねぇ」

「間違っても、川の水を飲むでないぞ。できれば触れるのもやめておけ。あの水を使った農作物も、焼き捨てておくのが確実じゃ」

「徹底してるな。それなら、水辺は虫にも気を付けた方がいいぜ。人間の血を吸う虫は水辺に多いしな。虫から病気が広がるってケースもよく聞く話だ」

「──いずれにせよ」

 低く、プリシラが紅のひとみを細め、そこで言葉を区切った。

 瞬間、アルの背筋を駆け上がったのは寒気──否、それに近いものだが、寒気ではなかった。冷たくはない。熱かった。しやくねつが、その背筋をでていった。

 竜車の中でも嗅いだ、空気の焦げる匂いがくうかすめる。それはプリシラ・バーリエルのまとった覇気が、ろうぜきを働いた相手への沙汰を決めたあかし

 すなわち──、


「──誰であれ、この愚行の対価は支払わせる。その命でな」


    6


 プリシラの指示を受けた『真紅戦線』の行動は早い。

 あるじの命令通り、赤ごしらえの重装備に身を包んだ兵士たちがテンリル川の流域へ集結し、カッフルトン以外に存在する三つの村をそれぞれあらためる。

 結果、寄生体の影響は他の二つの村でも発生しており、女子供の身柄の確保と引き換えに、やはり寄生された男たちが処分される結果を招いた。

「姫さんの陽剣なら、女子供とおんなじように男も助けられねぇの?」

「陽剣も万能ではない。体内の異物は殺せても、その異物に食われた穴まで埋めることはできん。貴様流に言えば、『すぽんじ』になった脳は救えぬ」

 プリシラの答えを受け、アルは「なるほどね」と顎を引いた。

 つまり、あの寄生体は男の脳を苗床にして、ゆっくりと全身を支配していくのだ。最初に脳が支配されるのだから、記憶や行動は曖昧なものになっていく。

 バーリエル邸に異変を知らせた青年の証言、それとも一致する内容だった。

「あのお兄ちゃんは飯も食わずに、連中が手足を縫ってるのを見て逃げ出したって話だったな。……水、飲んでなきゃいいんだが」

「その点は、女性たちが抜かりありませんでしたよ。彼を無事に逃がしたい一心だったんでしょ~ね。持たせた水は煮沸、食事は保存食……感染源から遠ざけられていました」

「ひゅぅ、やる。愛だねえ」

 おかげで青年は無事、彼の無事のために行動した少女もプリシラのおかげで無事だ。村は男手を失い、ほぼ壊滅状態だが、それでも失われていないものがある。

 それなら、立て直すことは可能なはずだ。きっと。

「さて、そんなこんなで後味の悪い展開は避けられたってんなら……姫さんは、じーっと地図にらんで何考えてんだ?」

「──妙だと思わんか? テンリル川の付近にある村は四つ。そのうち、『ぞんび』の被害に遭ったのは三つ、被害を免れた村が一つだけある」

 カッフルトン村の中央、家主を亡くして無人となった村長宅で、プリシラが机の上の地図を眺めながらアルへ尋ねた。その言葉にアルは「あー」とうめいて、

「たまたま、村の全員で断食と断水の荒行に挑んでたとか? なんかあるらしいぜ、そういう宗教。食べない飲まない遊ばないが、信仰のあかしになるんだとか」

「それで被害を免れたなら、『ぞんび』被害とは別の意味で問題であろうよ。考えられるのは川の流れ……他の村より、被害のなかった村は上流にあるな」

 地図を指差して、被害の有無をテンリル川の上流と下流で分ける。当然、水は低きに流れるものなので、毒が流し込まれた場合、被害が出るのはその地点から下流のみ。

「なので、この被害を免れた村と、カッフルトンとの間に何があるかを調べてきました」

 と、村長宅の扉を開けて、ひょいと顔をのぞかせたのは赤髪を躍らせるヤエだ。彼女は気楽な調子でアルとプリシラに割って入ると、地図の上に印を付ける。

「この印は?」

「水車の印です。川辺の森では木材が切り出されて、船で下流へ運ばれる仕組みになっています。水車は主に粉き用だったと思いましたが、臭いですよね」

「──悪巧みのかくみのにはもってこい、であろうな」

 プリシラの返答に、我が意を得たりとヤエがうなずく。

 そんな二人の様子に、アルは「待った」と右腕を上げた。

「悪巧みだの隠れ蓑だのって盛り上がってるとこ悪ぃんだが……もうあれか? 姫さんたち的には完全に、ゾンビ災害はテロリズムって決め打ちした感じ?」

「当然であろう。いくら血の巡りが悪かろうと、これが人為的でなくてなんと考える? あまり馬鹿を申すな、アル。道化と愚物の違いくらいはわかっていよう?」

「……笑わせるやつと、笑われる奴だ」

「前者は見所があるが、後者はいだされなければ無価値に終わる。ゆめゆめ忘れるな」

 突き放すような物言いだが、プリシラにしては優しいというべきだろう。ただ、アルにはアルで、この状況を良しとしたくない理由があるのだ。

 ──バーリエル領で発生する『ゾンビ化騒動』など、聞いたこともないのだと。

「アル様、怖い顔してますね。いけませんよ~、笑顔笑顔」

「オレの顔は見えねぇだろ」

 プリシラとのやり取りでねているとでも思われたのか、ヤエがそんな調子で話しかけてくるのに鼻を鳴らした。それから、アルはプリシラのにらむ地図を指差して、

「で、かくみのってことは、この水車の管理者やら、木材業者が怪しいって踏んでんの?」

「そこから疑い始めるのが妥当であろうよ。ヤエ、代表者は?」

「──エッダ・レイファスト。荒くれ男たちをまとめる女傑って話ですね~。もしかすると奥様と気が合うかもしれませんよ?」

「ふむ。わらわと気が合うかどうかはともかく、最初の条件は『くりあ』したな」

 記録を参照するでもなく、パッと答えたヤエにプリシラは片目を閉じた。その彼女の答えを聞いて、アルとヤエは「条件?」とそろって首をかしげる。

 そんな付き人二人の反応に、プリシラは「そうじゃ」と赤い唇を緩めて、

「『ぞんび』となったものは男ばかり。ここまでの先例を考えれば、その女傑とやらの脳が『すぽんじ』になっている可能性は低い」

「あー、なるほど。そりゃ確かに」

「ただ──」

 と、そこでプリシラは言葉を切り、もう片方の目も閉じてめいもくした。嫌な沈黙だと、アルは彼女の美しい横顔に声をかけようとして、

「──まぁいい。全ては、妾のこの目で確かめてからじゃ」

「────」

 何かを言わせる前に、全てを自分で決めてしまうところがプリシラらしい。

 アルの憂慮にも気付いているだろうに、彼女はそのことには目もくれない。そのくせ、歩き出す背中にアルがついてこないことに気付くと、

「何をしておるか、アル。──妾の後ろに、飼い犬のように続け」

 などと、当然のように言うのだからたまらない。

「本気で、その白い足めてやろうか。犬っぽく、鼻息荒く」

「うわ~、アル様ったらどん引き~」

 堂々と歩く背中に続こうとして、隣の赤毛のメイドにそんなことを言われる。アルは自分のかぶとの金具に触れながら、無性に桃髪の少年執事が恋しく思えた。


    7


 ──エッダ・レイファストの印象は、『女傑』というより『鉄血』だ。

 浅黒い肌の下、血管を流れているのは赤い血ではなく、どす黒い油ではなかろうか。肉厚の体に太い手足、はち切れんばかりに張り詰めた衣類の上から毛皮のコートを羽織り、美ではなく武を奉じたような厚化粧。

 一見して、通常の美意識とかけ離れた美的感覚がそこにうかがえる。

「あーたが、プリシラ・バーリエル様だのね」

 応接間で相対したエッダが、椅子に腰掛けたプリシラを見下ろしてそう言った。なお、見下ろす形なのは体格差が原因で、椅子の高さのせいではない。

 プリシラも決して背の低い女性ではないが、エッダの身長はアルさえも首が痛くなるぐらい見上げる必要のある高さだ。さすがのプリシラも、そのことを怒りは──、

「頭が高いぞ、貴様。わらわを誰と心得る」

「怒るんだ!? 身長だぜ!? どうしようもなくない!?」

「何を騒ぐ。妾を見下ろす不敬を思えば、腰の半分も床に埋まればいいだけの話じゃ。床が開く仕掛けの一つもなかったせいで、妾の不興を買ったな」

「そんな大掛かりな前準備、かもしれない運転でもやらねぇよ! 床に埋まっておかないと、偉い客の機嫌を損ねるかもしれない……生きづらいわ!」

「ぴいぴいとやかましい。貴様、今回はあれこれ妙にうるさくてかなわぬ」

「それは……姫さんが心配なんだよ」

 ソファに腰をうずめて、耳を塞ぐプリシラにアルは言葉に詰まった。

 心配と、そう言ってしまえばそれが事実だ。しかし、そんなアルの考えはプリシラの足を止める理由にはならない。隣で、ヤエが深くため息をつくのが見える。

 案の定、プリシラは「ふん」と小さく鼻を鳴らすと、エッダの方へ向き直った。

「妾の用向きは一つよ。貴様が仕切っている材木業と川の水車、いずれかでらちたくらみをもくやからがいる。気付いているか?」

「──不埒な企み、ねん」

「すでにカッフルトンをはじめ、テンリル川流域の三つの村が被害に遭っています。エッダ様のところの従業員に、体の不調を訴えるものはおりませんか~?」

 プリシラの指摘に太いまゆを上げ、ヤエの追及に芋虫のような指を唇に当てる。そうした反応を見せるエッダは、明らかに何も知らない人間の顔ではない。

 その視線は良くないと、アルは平時の心境なら教えてやったはずだ。が、今のアルにはその配慮をエッダへ傾けてやる余裕がなかった。

 それ故に、エッダの濁った視線がプリシラの機嫌を損ねるのをあえて見過ごす。

「その目つき、心当たりのある顔じゃな」

「──ここだけの話なら、ねん」

 プリシラの追及からは逃れられないと観念したのか、エッダはすぐにそう答えた。それは肥え太った彼女の持つ、ある種の生存のための最適解を選ぶ能力か。

 仮にもう一度とぼけていれば、プリシラは容赦なく陽剣を抜いていたはずだ。そんな修羅場にならずに済んで、アルとしても一安心──、

 ──そこに、油断が生じた。

「──お」

 ふと、アルは自分の足下が揺らいで、踏ん張りが利かなくなったことに気付く。すぐに足下を見て、その原因を理解した。

 床が、消えたのだ。じゆうたんごと、ソファごと、応接テーブルごと、床が下へ開いた。そのまま真っ暗な地下の空間へと、アルの体が自然落下を始める。

「姫さ──ッ」

「アル様、ごめんなさい!」

 転落の瞬間、アルはプリシラを呼ぼうとして、その肩に衝撃を受けてひっくり返る。見れば、アルの肩を蹴って天井へ取り付くのは、同じく落ちそうになったヤエだ。彼女は天井の照明をつかんで、何とか転落の被害を免れる。

 代わりにアルはバランスを崩し、もはや墜落は避けられない。だからせめて、アルは確かめなくてはならない姿だけ、視界の端に捜して──、

「────」

 赤い、れんの少女と視線が交錯して、それを最後に転落する。

 落ちる、落ちる、落ちてゆく。──アルの体が真っ逆さまに、地下へ落ちていく。

 声にならない声を上げ、アルはそのまま、深い暗闇の中へとすべなく落ちていった。


    8


「────」

 床下には暗く、どこまでも深い闇が広がっていた。

 突然、前触れなく開いた床は、いっそ奈落と呼ぶべき暗闇へと全てをんだ。

 赤い絨毯に大きなソファ、来客を迎えるテーブルとお茶の入ったカップ類──そして、とっさの判断が遅れ、反応できなかった漆黒のかぶとかぶった男が一人。

 尾を引く悲鳴を残しながら、男の姿が奈落の底へ消えるのを見届け、謀られた形になった紅の女──プリシラ・バーリエルは宝石のごとく美しいひとみを細めた。

「油断、した、わねん」

「……油断じゃと?」

 背後、奈落へ目をやるうなじに声がかかり、プリシラは声の主へと振り返る。

 そこで、血色の化粧を施した唇をゆがめるのは、まんまとプリシラたちを謀ったエッダであった。その彼女の醜悪な笑みを見据え、プリシラは表情を変えぬまま、

「──わらわに、こうも真っ向から敵意を向けるとは正気の沙汰とは思えんな」

「そう?」

「挙句、妾の姿勢をさして油断などと、貴様の器で測ったな。万死に値する」

「そーお?」

 プリシラの冷酷な罪状確認に、しかしエッダは場違いな愉悦で体の肉を震わせる。浅黒い鉄油色の肌が震え、それがますますプリシラの不機嫌を助長した。

 そのまま、プリシラは躊躇ためらわずに宙へと手を伸ばし、『空』をさやとする真紅の宝剣を抜き放とうとする。だが──、

「──奥様!」

 瞬間、呼びかけと同時に空を黒刃が走り、肉が穿うがたれる音が室内に響く。

 空を走ったのはクナイと呼ばれる西方の暗器、投じたのはアルの肩を借りて、とっさに落下を免れていたヤエだった。そのヤエが投じたクナイが迫りくる敵──エッダの背後、壁の隠し戸から現れた二人の男のひたいを穿つ。

 さして刃渡りは長くないが、クナイのやいばは深々と男たちの頭部をえぐり、その奥にある脳をき回して命を刺し貫いた。

 そしてそれは、首の中央に刃を受けたエッダも例外ではない。

「あちゃ~、奥様ごめんなさい。うっかり反射的にやってしまいました」

 プリシラの隣に身軽に降り立ち、ヤエが三人をとうてきめたことを謝罪する。その言葉に腕を下ろし、プリシラは「構わぬ」と前置きして、

わらわの手ずから処刑したいところではあったが、侍従の忠誠をないがしろにしてまでやるほどの価値はない。そんなことより……」

「ええと、アル様ですが、この高さだと……わーお、底が見えませんね~」

 腕を組むプリシラの横で、奈落をのぞき込むヤエが渋い顔をする。

 その表情も当然だろう。なにせ、どす黒い闇が広がる奈落は底が見えず、試しにヤエがクナイを落とすと、それが地面に当たった音が聞こえてこない。この高さと、敵を陥れるためのわなであることを念頭に入れると、底にどんな仕掛けがあることやら。

 つまるところ、ここから落ちたアルの生存は絶望的と考えるしかなかった。

「奥様、大変言いづらいのですが、アル様はお亡くなりに~……」

「──ふむ。此奴きやつら、いったいなにゆえに妾を襲おうなどと考えた?」

「奥様?」

 罠の見分を終え、アルの悲報を伝えたヤエが首をかしげる。

 正面、クナイを受けて倒れたエッダとその部下を眺めるプリシラ、彼女は敵の思惑を考察するのに集中しており、その横顔にアルをおもんぱかった色は皆無。

 まるで、アルという存在そのものを忘却したかのような無関心ぶりだ。

「奥様、それはいくら何でもアル様が浮かばれないのでは~」

「たわけ。に割く時間など妾にも貴様にもない。そも、妙だとは思わぬか?」

「妙ですか?」

「──妾を害する目的なら、、妾が奈落からどいた段階で罠を起動した? 狙いが誤っている。それでは筋が通らぬじゃろう」

 そのプリシラの指摘に、ヤエもまた違和を察してほおを引き締める。

 道理だ。元々、奈落の上にはプリシラもいた。狙いがプリシラ陣営──否、中核たるプリシラだったなら、彼女が罠にかからなければ意味がない。

 それなのに、敵はわざわざプリシラを巻き込まないように罠を動かして──、

「──それはねん、あーたの体に傷をつけたくなかったからよん」

「──っ」

 ふととどろく低い声に、プリシラとヤエが顔を上げた。

 二人の視線の先、ゆっくり立ち上がるのは首にクナイの刺さった巨体だ。芋虫のように太い指が黒刃のつかつかみ、乱暴にやいばが引き抜かれる。荒っぽく、まるで人体に配慮のない挙動だが、奇妙なことに傷から血が流れることはない。

 ──その原因は、ここまでの状況からすぐに察しがついた。

「もしかして、びと様でいらっしゃったり?」

「その言われ方は心外ねん。ただ、血の通ってない体を動かしてるだけよん」

 いけしゃあしゃあと言ってのけ、エッダもとい屍人のエッダが陰惨に微笑ほほえむ。

 その表情に苦痛の色はなく、首の傷がなければ醜い顔の生者と変わらない。だが、依然として、首には痛々しい穴が開いていて、見るものの現実感を喪失させる。

「────」

 その屍人と相対し、ヤエはさりげなくプリシラを背後にかばう。そうした侍従の気遣いに触れず、プリシラはエッダの言動に鼻を鳴らした。

わらわも同意見じゃな。屍人などと華がない。今後は『ぞんび』と名乗るがよいぞ」

「って、奥様、そんな場合ですか~!?」

「たとえ場合と状況がどうあろうと、妾は妾のままで在る。それを曲げれば妾ではない。とはいえ、想定外の事態ではあるな」

 全てを見通したような言動の多いプリシラが、珍しく自分の想定外を言明する。そのことにヤエが驚くと、プリシラは白く細い肩をすくめる。

「ただしやべり、人に擬態するだけならおぞましいの一言で済む。じゃが、この『ぞんび』の在り様は明らかにそれにとどまらぬ。貴様、妾を傷付けたくなかったと言ったな?」

「ええ、言ったわん」

「なるほど。──つまり、次は妾の体が目当てか」

 そのプリシラの一言に、エッダが赤黒い唇をより大きくゆがめる。

 瞬間、床に倒れた二人の男が跳ね起き、ひたいにクナイを刺したまま飛び掛かってきた。

 当然ながら、この二人──否、二体も屍人だ。

 掴み掛かってくる一体を、ヤエはすらりと長い足で蹴り飛ばし、続く一体の襟首を掴んで器用に背後へ投げ落とす。結果、二体そろって奈落の底へ真っ逆さまだ。

 だが──、

「まだまだ手勢はいるのよん。逃げられると思ったのん?」

「うげえ~!」

 エッダのこうしようを聞きつけ、部屋の扉がいっぺんに開け放たれる。

 正面入口に隠し扉、挙句に天井が開いて屋根裏からも伏兵が落ちてくる始末。その圧倒的な物量に、懐のクナイの残数を数えるヤエがほおを引きつらせる。

「これ、ちょっと笑けてくるぐらい劣勢ですね~。奥様、何か妙案あります?」

「侍従こそがわらわに妙案を出すべきであろうに、すぐ妾頼みとは情けない」

「そうおつしやられましても~!」

 近寄ってくるびとへクナイをたたき付け、腕を斬り、足を斬り、首を斬って次々とたおしながら、ヤエは室内に腐臭の漂うしかばねを積み上げていく。だが、倒しても倒しても、積み上げた死体が次々と立ち上がってくるのだから始末に負えない。

 その徐々に追い込まれる状況を眺め、プリシラが吐息する。

「──ヤエ、妾を置いて一度退け。そして、アルを捜すがいい」

「え!? 奥様、アル様の存在をお忘れになったんじゃ?」

「案ずるだけ無駄と言っただけじゃろうが。たわけたことを抜かすな。貴様の逃げる隙ぐらいならこじ開けてやろう。光栄に思い、ひざまずくがいい」

「跪けって……ひぇ~っ!」

 尊大な発言があった直後、横薙ぎに真紅の輝きがいつせんされる。

 反射的に跪くヤエ、その頭上をプリシラの宝剣が容赦なく薙ぎ払った。赤いけんせんから火を噴いて、そのやいばの死線上にあった屍人はことごとくのたうち回って灰になる。

くがいい」

「奥様、どうぞご無事で~!」

 その間に跳躍し、天井に取り付くヤエがするりと屋根裏へ滑り込む。そのまま、彼女は素早く戦場となった応接間から離脱、プリシラだけが残された。

「ふむ」

 それを見届け、プリシラはさらに二度、三度と紅の宝剣を振り抜き、近付いてこようとするらちやからを炎でくるむ。しかし──、

「そろそろ打ち止め、ねん」

「そうじゃな」

 悠然と、配下の屍人の奮戦を眺めていたエッダがわらう。そのエッダの視線の先、プリシラの手にした宝剣の輝きが陰り、揺らめく炎の火勢は見る影もなくなっていた。

「日輪が陰ったか。相変わらず、妾の意のままになり切らぬ剣よな」

 言い捨て、プリシラがぞんざいに宝剣を宙へ投げ捨てる。と、それは背後に立つ屍人の首をね、そのまま空に吸い込まれるように消失した。『空』をさやとする剣が『空』へと帰った。そして、無手になるプリシラを屍人たちが取り囲む。

「傷付けるのは本意じゃないのよん。大人しくついてきてくれるかしらん」

「周囲の汚物を妾に触れさせるな。そして、丁重にもてなすがいい」

 腕を組み、自らの豊満な胸を誇示するように持ち上げ、プリシラは堂々と言い放つ。それを聞いたエッダはまゆを上げ、それから盛大に破顔した。

 そうして破顔したまま、『女傑』は続ける。

「その尊大な物言い、嫌いじゃないわん。──楽土の管理者にもってこいよん」


    9


 暗く深い奈落の底で、アルは汚水にまみれた我が身をはかなんでいた。

「マジかよ、これ……よく生き残ったな、オイ」

 ぐずぐずとした足場、手を突いた地面のなまぬるい感触に顔をしかめ、アルは汚れた手をズボンで拭うと、かぶとの隙間に入った泥を指でき出した。

 その間、周囲に目をやるアルは何も見えない無灯の暗闇に舌打ちする。そして、兜の泥抜きを中断し、いそいそと腹の備えから白い石を取り出した。

 ──ラグマイト鉱石と呼ばれる、衝撃を受けると発光する特殊な石だ。

 魔鉱石とはまた性質の異なる石で、火がなくても光を得られるために重宝する。それを自分の兜にぶつけ、白いぼんやりとした光で辺りを照らし出す。

 そして、最初に目についたものを見て、アルは「うげ」と声を漏らした。

「死なずに済んでラッキーなんて、単純に思ってたわけじゃねぇが……」

 レイファスト邸の応接間、その床が開いた奈落のわなの穴底だ。敵の狙いは当然、罠にかかった相手の転落死だったのだろうが、その最悪の結果は免れた。

 とはいえ、格好よくさつそうと罠を掻いくぐり、危難を脱したなんてわけではなく、たまたまアルが落ちた先にクッションがあり、転落の衝撃が緩和されただけの話。

 ただし、そのクッションとは──、

「……ぐずぐずの死体の山、か。ひでぇ臭いだな」

 鉄兜の隙間、金具に詰まったものが『泥』であるといいなと思いながら、アルは自分を受け止めたクッション的な状態の人間の末路に顔をしかめる。

 その死体の数、十や二十では足りないほどだ。

 おそらく、エッダの仕切っている材木業者の従業員、その一部ではなかろうか。どの死体も着衣はそのまま、装飾品も奪われていないため、金目当ての殺しではない。死体の処理は雑だが、死体が死体になった理由は単純な線ではないだろう。

「つまり、びとは長持ちしねぇのが難点ってわけだ。この分だと、屍人ビジネスは大成しねぇだろうな。ハイソな上流階級には嫌がられそうな要素満載だし」

 ああして仕掛けてきた以上、エッダ・レイファストが屍人と関係があるのは確実だ。その影響力と財力を思えば、彼女こそが黒幕の可能性も十分にある。

 そうなると、上に取り残されたプリシラの安否が危ぶまれるが──、

「ヤエのやつ、オレを蹴倒してまで残りやがったんだから、ちゃんと仕事してんだろな。助けなんかいなくても、姫さんなら何とかしちまいそうだが……ぁ?」

 そうして、ラグマイト鉱石の光を頼りに辺りを観察していると、ふと死体の山の方から妙な気配を感じ取った。そちらへ顔を向け、アルは光を傾ける。

 ──瞬間、空洞となったがんと目が合い、アルは思わず後ろへ下がった。

「うお!?」

「あ、ぁぁぁあぁぁ!」

 おぞましい亡者のうめき声を上げ、ほとんど原形をとどめていない死体がうごめく。それは骨がしになった腕を伸ばし、アルを地獄へ引きずり込もうと襲いかかってきた。

 一瞬、反応が遅れてアルは息をむ。間に合わず、相手の指がアルをえぐろうと──、

「──ぶ」

「へ?」

 直後、その亡者の腐った頭部を、上から落ちてきたクナイが無惨にぶち抜いた。

 ──それが、応接間のヤエが奈落の深さを測るために落としたクナイであるなどと、このときのアルには理解しようがない。

 ただ、理解しがたい幸運に救われ、アルはかろうじて命を拾うことに成功する。

 亡者にも質があるのか、頭部を砕かれた死体が活動を止める。腐った腕を落とし、呻くことさえなくくずおれて完全に亡者は沈黙した。

 しかし、それはあくまで最初の一体、その窮地を逃れただけに過ぎない。

「……うそだろ」

 そうつぶやく眼前、死体の山が蠢いて、腐肉と腐汁がぬかるんだ地面を浸していくのがわかる。このぬかるみの正体が何なのか、あふれる腐臭にくうを侵されながら、アルはじりじりと背後へ後ずさる。可能な限り、目の前の『それ』の注意を引かぬように。

 だが、そんなアルの決死の試みは、思わぬ形で現れるちんにゆうしやに妨害される。

「どわぁっ!?」

 刺激しないように、というアルの配慮が馬鹿らしくなるぐらい、それは勢いよく死体の山の上に転落し、盛大に腐肉を周囲へぶちまける。白い光に映ったのは、またしても上から落ちてきた異物、ただし今度は二人の人間だ。

 ちらりと見えた姿が確かなら、少なくとも一人のひたいにはクナイが刺さっていた。

 つまり、下手人はヤエ。彼女が上で奮戦しているあかしだが、タイミングが悪い。

「う、おおおお──っ!」

 転落物の衝撃を受け、弱々しく蠢くだけだった死体の山に大きな動きが生まれる。それは正しく大きな動きで、死体の山そのものが動き出したような光景だった。

 ──十や二十では足りぬ腐った人体の塊、それらが絡み合いもつれ合い、もはや人ではないグロテスクな一個体として成立、びとの塊が転がってくる。

「じ、冗談じゃねぇ──っ!!」

 猛然と転がってくるかいに背を向け、アルは全力で走り出した。

 足場と視界の悪さはアルの人生経験でも最悪の部類だ。これほど必死に命懸けで走るのは、剣奴孤島のコロシアムから脱走した夜以来──ただ、あのときに追ってきたのはどれだけ恐ろしくても人間だったが、今回は恐怖の性質が違う。

「下水? 排水処理場!? 出口あんのか、ここ!?」

 ゾーリと汚水の相性は悪いが、かろうじて転ばずに走り続ける。道幅の広い通路がぐ続くため、横道に逸れてかいをやり過ごす作戦が取れない。

 地図もなく、出口の当てもない状態で走り続けるのは現実的ではないだろう。

 追いかけてくる屍塊が息切れしてくれるなら逃げる価値もあるが、すでに生命活動の終わった死体とスタミナ対決しても勝ち目は薄い。

 おまけに──、

「ぐっ、マジかよ!」

 必死に走る正面、うっすらと視界に映り込むいくつもの人影。両手を突き出し、ゆらゆらふらつく姿はオーソドックスなゾンビスタイルだ。カッフルトンで見かけたしやべれるタイプは希少品だったのか、知性のないゾンビのエントリーにアルはみする。

 無論、おびただしい水音と腐臭をばらまいて迫るアルと屍塊に、通路に立ちはだかるゾンビたちが気付かないはずもない。前門のゾンビ、後門の屍塊。

 ゾンビにつかまれても命の危機、それ以前に背後の屍塊に押し潰されても命の危機──ここには、アルのピンチを救ってくれる頼れる味方は一人もいない。

 自分の命を救うには自分の力を尽くすしかない。──持てる、全てを使って。

「クソ、広さと尺がわからねぇ! 分が悪ぃが、くるめるか……!?」

 迫ってくる屍塊と、目前に近付いてくるゾンビとのエンカウント。アルは必死に周囲の地形に目をやりながら、かぶとの奥で唇を噛み切った。

 そして、覚悟と共にえる。

「──クソったれ! 領域、展開!!」

 叫んだ瞬間、刹那だけアルの周囲の空間がられるようにゆがみ、たわむ。

 まるで、常外の存在の干渉を受けたような、水面みなもに浮かんだ泡越しに世界を見たときのような不均衡な、そうした異様な情景がどす黒い腐臭に満ちた空間を浸した。

 そして、

 そして、そして、

 そして──。


    10


「ここにねん、我らが造物主の楽土を作る予定なのよん」

 そう言って、部屋の床に直接座るエッダが相対するプリシラの顔をのぞき見た。その視線に対し、優雅に足を組むプリシラはほおづえをついて、「ほお」とつぶやき、

「一切、わらわの関心を引かぬ話よな。ここからどう盛り返す?」

「つれないわねん。でも、あーたのそういう一貫した姿勢は貴重だわん。誰に対しても尊大で、必要な立場と権力がある……まさしく、理想的よん」

「──なるほど。大方のたくらみは読めたぞ」

「あらん、本当にん?」

 特段、情報を漏らした自覚はないのか、エッダが太い首をかしげる。その可愛かわいげのじんもない仕草にけんのんな目をして、プリシラはそっと窓の外へ目をやった。

 エッダ・レイファストの屋敷、その最奥の部屋にプリシラは軟禁されている。

 かせはなく、室内を自由に歩き回ることも可能だ。三階だが、窓から外へ逃げることもできるだろう。ただし、部屋の外には監視の目があり、窓の外にも見えるだけで十体以上のびとが見回りを続けている。

 すでに一度、日輪は陰った。落陽のあと、次の日昇には時間がかかる。

 さすがのプリシラも、無手で屍人の群れから逃げおおせられるとは考えていない。そもそも、ひたいに汗して亡者から逃げ惑うなど絶対に御免である。

わらわがこの屋敷を出るときは、大手を振って正面から出ていくと決めている」

「威勢のいいことねん。でも、その願いはかなうかもしれないわよん。だって……」

「妾の頭と体を、薄汚い寄生生物で乗っ取るつもりでいるからか?」

「──ふふ」

 紅のひとみを細め、焼き尽くすような視線を向けられるエッダが巨体を震わせる。そして彼女は太い指には小さすぎる、透明なグラスをテーブルの上に置いた。

 グラスに注がれているのは、はくいろをした液体だ。かすかな香りから、それが上等な酒とプリシラにはわかる。だが、舌は誘われない。

 今の話の流れで置かれるグラスだ。何の変哲もないものであるはずがない。

「あーたは賢いわん。だから、説明は不要でしょん?」

「テンリル川の周辺の村が、貴様らのいたつまらぬ毒で汚された。大方、この酒も同じもので毒されておるのじゃろう? 芸のない奴輩しやつばらよな」

「ごめんなさいねん。その分だけ、あーたの一杯は特別な一杯にしたからん」

 特別な一杯と、その前置きがこうもむなしく響くことも珍しい。

 テンリル川の水を利用した村、その村民がことごとく屍人化した事態を思えば、その元凶たる寄生体が水から体内に侵入することは疑う余地がない。それはカッフルトン村の時点でわかっていたことだが、一点だけ問題があった。

 この寄生体の寄生対象は成人男性のみで、女子供には無害だと考えられていたのだ。

 それがエッダ・レイファストを支配し、次いでプリシラの肉体も狙っているのは──、

「──ある種の虫やねずみの中には、好んで集団で巣を作る種類がいる。そうした巣にあって秩序を保つには何が必要か、ちっぽけな脳しか持たぬ野性であっても答えは明白よ」

「……へえ。何なのん?」

「女王じゃ」

 これが面白い、とプリシラはこの屋敷に入って初めて笑みを浮かべた。

 集団で巣を作り、繁殖と巣の拡大を目的とした生物は頂点に女王を置く。子を産むのに女は不可欠と、それは生物の大小問わず不変の理であるらしい。

 王ではなく、女王。何とも奇妙な在り様だが、それは今の状況にも符合する。

 つまり──、

「──貴様らおぞましい寄生体も、女王の理屈が成立するようじゃな。すでにその体に命はなく、繁殖など夢のまた夢であろうに」

「あらん、どうかしらん。あたくしたちは急速に成長しているわん。最初は脳を腐らせて動くだけの死体、それが知性と思考を残した寄生体……このままいけば、完全に生きた状態で相手を乗っ取ることだって可能なはずよん」

「そして、ゆくゆくは生まれながらの『ぞんび』を作ると? 何とも、おぞましき千年王国をもくむものよ。それが貴様らの望む楽土、わらわにその管理者となれと?」

「拒否はさせないわん。しても無駄なのはわかり切ってるでしょん? あーたが逃がしたメイドはまだ捕まってないけどん、それも時間の問題よん」

 からくも逃げ続けるヤエだが、屋敷と周辺の包囲網は厳重だ。特に屋敷の周りの森などは材木業者であるエッダの部下の独壇場、ヤエの身のこなしでも分が悪い。

 そうして、状況を冷静に分析するプリシラにエッダは笑いかける。

「んふん。そんなに嫌がることはないわよん。かく言うあたくしも、完全に別人ってわけじゃないんだからん。──ただ、大事なものの順番が入れ替わっただけよん」

「くだらんことを言うでない。それを死と、そう呼ぶのであろうが」

「──ぐふ」

 分厚い唇から生臭い息を吐いて、エッダが低い音を立てながらわらった。その不細工な音を聞いて、プリシラは形のいいまゆひそめる。

 それからそっと、その白く細い指を酒のグラスへ伸ばし──、

「──ん」

「飲み干した、わねん。こっそりと流したなんてこともなく、従順ねん」

 はくいろの酒杯を傾け、唇を赤い舌でめるプリシラにエッダは意外そうな顔をした。大人しく、プリシラが指示に従ったのが信じがたかったのだろう。

 だが、妙な小細工はない。中身を床に捨てたなんてこともなく、飲み干している。

 故にプリシラの体内には、エッダと同様の寄生体が侵入したはずで。

「そのうち、ゆっくりと効果が現れるわん。そうしたら、もっとあたくしと仲良くお話できるはずよん。造物主についても、話し合いましょん」

「またその名前か。ずいぶんとご執心のようじゃな」

「なんたって造物主だものん。あたくしたちの生みの親……正確には、今のあたくしに生まれ変わる切っ掛けだわん。あの方が安寧を得られる楽土を作り出すこと、それこそがあたくしたちの使命なのよん」

「造物主のための楽土の建設、か。──退屈極まりない話じゃな」

 全身の肉をたわませ、どす黒い敬愛を声音に乗せたエッダにプリシラは肩をすくめた。一瞬、その言いようにエッダのひとみを敵意がよぎるが、すぐにそれもき消える。

 彼女は再びほおづえをつくプリシラの前に立ち上がり、その美貌を見下ろしながら、

「どんな言葉も、あたくしたちの仕打ちが怖くて逃げたあとじゃ説得力がないわん。これだけ尊大なあーたが、造物主のために尽くす姿はきっと見物よん」

「ほう、そのぎやく的な趣味は醜女しこめにしては悪くない。ヤエのたわごとにもようやく妥協点が見つかった。──わらわと貴様の気が合うやも、とあれは言っていてな」

「あららん。じゃあ、あたくしと仲良くしてくれる気になったってことん?」

「たわけたことを申すな。──貴様は、妾が手ずから処刑する。その醜く肥え太ったずうたいを震わせ、涙を流して命乞いする様はさぞ見応えがあろう。と、どうじゃ? これに愉悦を覚える妾となら、先の言葉にもうなずけよう?」

 えんぜんと、唇を緩めて微笑ほほえむプリシラ。──それが、凄絶に美しいことが彼女の本質だ。

 エッダはそこで初めて、プリシラの存在に恐怖を覚えたように身震いする。それ自体が信じられないように、彼女は自分のてのひらを見た。

 すでにエッダの肉体は変革され、この世のあらゆる辛苦から解放されている。にもかかわらず、今の身震いは何なのか。

 そうして、確かな優位にあるはずのエッダを見上げ、プリシラは目を細めた。そのまま彼女は胸の谷間から扇子を抜くと、それで己の口元を隠し、言った。

 プリシラの代名詞にして、彼女が信じて疑わない絶対のことわりを。

 それは──、

「覚えておくがいい。──この世界は妾の都合の良いようにできておる」

「────」

「故に、貴様がどうこうと、最期には焼かれ、灰となるだけよ。せいぜい、それまでの時間を有用に過ごすがいい。──妾の、道化の演目が届くまで」

 そう言って、プリシラは扇の先端を床へ向け、それ以上は語らない。

 それ以上を、語る必要もなかった。


    11


 ヤエ・テンゼンが地下へ足を踏み入れたのは、すでに全てが終わったあとだった。

「うひゃ~、鼻が曲がりそう」

 腐肉と汚水が混ざり合い、気が遠くなるような悪臭を嗅いでヤエが顔をしかめる。

 夜目が利く体質のため、ヤエは暗闇の中に明かりを持たない。ただし、薄闇に浮かび上がるその光景は、夜目の訓練を受けたことを後悔するような地獄絵図だった。

 死体、死体、死体。右を見ても左を見ても、死体、死体、死体の山だ。

 ヤエの半生を思えば、死体を見ることなど珍しいことでも何でもないが、ここまで人の尊厳を奪われた死体はそうそうない。拷問やりようじよくとは異なり、一切の無価値を断じられたように打ち捨てられる、びんな人生の末路が山とある。

「この状況で、奥様の指示に従う私ってめちゃめちゃ忠誠心ありますよね~。でも、やっぱり万一ってのは一万回に一回しか起きないもんですよ。これだと……」

 落ちた同僚の姿を捜してここまできたが、やはり生存は絶望的だろう。この地下空間へくるまで結構な苦労があったが、実際に下りてみてその深さにへきえきとした。

 屋敷の床下から数十メートル、ヤエだって転落死しかねない高さである。

 床下にこんな空間を作るなんて、考えただけでも嫌になる。おそらく、そこここに転がる死体こそが、その重労働に従事した貴重な労働力だったのだろう。びとは文句も言わないし、自分の墓穴を掘らせるという意味では適材適所と言えなくもない。

「ま~、同僚としてはだしなみって点で落第ですか。そういう意味だと、アル様も屍人とどっこいでしたけど、ギリギリで清潔感だけはありましたからね~」

 故にかろうじて、同僚としての好感度はアルの方にてんびんが傾く。正直、屍人と勝負していい勝負になる時点でどうかと思わなくもないが──、

「……ゾンビと並べていい勝負って、あんま勝ってもうれしくねぇな」

「わお」

 通路の端を歩いて、せめて腐汁の被害を最小限にと努めていたヤエは、その不意打ち気味の声に驚いて顔を上げ、薄闇にぼんやり浮かんだ人影にさらに驚く。

 幽鬼めいた足取りで、気持ち悪い水音を立てながらこちらへやってくるのは──、

「──アル様ですか? 近寄って大丈夫です? うっかり屍人化してません?」

「あちこちまれたり引っかれたりしてっから、自覚症状はねぇけどうつってねぇとは言い切れねぇな。こういうの、一発でアウトのケースが多いから」

「私や奥様の見立てだと、傷から感染はしませんよ。水さえ飲んでいなければ……正直、この環境の水を飲むような方とは、屍人でなくてもお付き合いしたくないですが~」

「オレも泥水すすって生き延びてきたタイプだが、ここの水だけはノーセンキューだ」

 そう言いながら、漆黒のかぶとかぶった隻腕の男が闇から抜け出してくる。全身、汚物まみれのおぞましい状態だが、一見して致命的な傷はない。転落による傷も。

「アル様って空とか飛べたり? 西のへんきようはくとか得意らしいですけど~」

「オレも道化って言われちゃいるけど、あの手の道化とはタイプが違うぜ。たまたま運が良かっただけだ。ちょうど、真下に死体の山のクッションがあってよ」

「うええ~、それって運が良かったって言います?」

「死ななきゃ安いってのがオレの故郷の名分でな」

 そこまで話したところで、アルが壁に背を預けてどっかりと座り込む。

「────」

 軽口をたたいてはいたが、かなり消耗しているのがヤエの目にも見て取れた。すでに奈落へ落ちて数時間、生き死にの前途も見えずに動き続けていれば当然だ。

 それに何より──、

「この、辺りにある大量の死体って、屍人だったのをアル様が?」

 先ほどの推測が正しければ、死体の一部はこの地下空間を作るための労働力であり、にえだ。ただし、それ以外の用途に使われたらしき死体も少なくなく、死体の状態にもずいぶんと落差があるように感じられた。

 早い話、地上の屋敷やカッフルトン村で見かけた知性を有するびとと、そうでない歩くしかばねとが混在している雰囲気だ。

 そして、それらの死体には共通して、身幅の厚いやいばを受けた裂傷があった。

「あー、しんどい。よく生き残ったぜ、オレ。マジでグッジョブ、神にサンクス……」

「────」

 深々と疲労の重い息を吐くアル、そのかぶとの横顔を眺めてヤエは目を細めた。

 この地下の惨状、全てをアルがやり遂げたのだとしたら意外の一言だ。

 ヤエの正直な見立てでは、アルはそこまで腕の立つ男ではない。剣士としては二流、片腕を失っていることで戦士としても二流半がいいところで、継戦能力に秀でているとも考えにくく、持ち味がつかみにくい。実際、賑やかし要員の認識だった。

 いざというとき、プリシラの盾になるぐらいが関の山と。──それが、万全ではない屍人の群れとはいえ、これを撃滅し得るとは。

「愛の力、ですかね~」

「怖いこと言ってんじゃねぇよ。……あー、それで姫さんは? 無事か?」

「それなんですが、ちょっとマズいことになりまして~」

「ああ?」

 胡乱うろんげなアルの声色に肩をすくめ、ヤエはアルの転落後の出来事を説明する。

 エッダ・レイファストの謀略に加え、屍人の群れに支配された一帯。プリシラの身柄は敵に確保され、ヤエとアルのみが自由に動ける立場──。

「とはいえ、多勢に無勢です。私だけなら頑張って逃げるのも可能でしょ~が、援軍を連れて戻ってくる頃には……」

「姫さんに寄生体が入り込んでる可能性が高ぇ、と」

「そうなっちゃうと、無意味かな~と」

 どうしましょ、とヤエはアルに意見を求めてみる。

 もっとも、取れる手立てとしてはさして多くない。屍人の群れに対して、こちらの手札はたったの二枚。アルの生存はめでたい話だが、それが状況を劇的に変える一手になるとも考えにくく、ヤエの意識は屋敷の外──テンリル川周辺の村を回り、屍人の掃討に当たっている赤ごしらえの『真紅戦線』へと向いている。

 彼らを呼び寄せれば、多少の屍人など歯牙にもかけまい。ただ問題は、その間にプリシラの自意識が寄生体に奪われ、操り人形と化してしまうことだった。

 こればかりはプリシラの常軌を逸した自意識の強度に期待する、なんて根拠のない対抗策しか出てこない。それを頼りに動くなど、抵抗感が勝った。

 と、そんなヤエの複雑な胸中を無視して──、

「なんで、お前はオレを捜しにきたんだ? 姫さんを助けるのが目的なら、外に抜け出して『真紅戦線』を呼ぶのが一番じゃねぇか」

「──。私も最初はそう考えましたよ? 落っこちたアル様が生きてるなんて、正直全然期待できませんでしたしね~。でも、奥様が」

「姫さんが?」

「アル様を捜せと。案ずるだけ無駄ともおつしやっていましたので、よほどアル様のことを信頼されているのかと……アル様?」

 離脱の間際、最後のプリシラの不敵な指示が思い出される。正直、プリシラの意見でなければ従う価値もいだせなかっただろう悪手だ。

 実際、こうしてアルが生きていたから無駄にはならなかったが、これが後々の何につながるかはヤエには到底わからない。

 そんな考えでいたヤエが、ふとアルの雰囲気の変化に目を留めた。

「アル様?」

「────」

 うつむいて、地べたにへたり込んでいたアルがゆっくりと立ち上がり、自分のてつかぶとの金具を指でいじって音を鳴らす。小さく、弱々しい金属音。

 よくアルが見せる仕草だが、この瞬間ばかりは普段と異なる印象を覚えて──、

「──やってくれやがる、あの女」

 つぶやく声には痛快な響きがあって、それがますますヤエを困惑させた。そして、その困惑を抱えるヤエの前で、アルはゆっくりと足を引きずるように歩き出した。

 向かう先はヤエがきた方角、すなわち地上の屋敷へ戻る道筋だ。

「アル様、上には敵さんいっぱいいらっしゃいますよ~!?」

「ヤエ、お前は気付かねぇのか?」

「はい? 何に……」

「あの姫さんが、空振りに終わるようなつまらねぇ手を打つかよ。オレやお前がすぐに悪手なんて気付くような馬鹿な手、姫さんが打つとは思えねぇ」

「それは……」

 アルの指摘に言葉を詰まらせ、ヤエは自分の行動に不信感を覚えた。確かにそうだ。ヤエ自身、アルの捜索など無意味ではないかと考えていたではないか。

 なのに、、プリシラの指示に従ったのか。それは──、

「──結局、世界が姫さんに都合のいいように動いてやがんのさ」

 そして、そのプリシラがアルを選んだのなら、それがこの場面の最善手なのだと。

「────」

 アルが腰裏のせいりゆうとうを抜いて、おつくうそうな足取りで地上への道を行く。その後ろに慌てて続きながら、ヤエは「どうするつもりですか?」と問いかける。

「わんさと敵がいますよ? アル様、百対一とかで勝てるおつもりですか~?」

「百対一どころか、二対一で十分危ねぇよ。てめぇの実力ぐらいわきまえてんぜ、オレは。けどな、そんな局面はこれまでに何度もあった」

「百対一が、ですか?」

「敵の方が多いって局面だ。百対一と、敵が百人ってのは違ぇ話だぜ、ヤエ」

「────」

「百対一なら勝ち目はねぇが、一対一が百回ならどうだ? 不利には違いねぇが、万一の可能性がありそうな気がしてこねぇか?」

 それは、敵が多勢の場合の正攻法だが、彼我の戦力差を思えば荒唐無稽な夢物語だ。

 しかし、目の前の男はその針の穴のようなかすかな可能性を、まるで星を撃ち落としたことでもあるかのごとく堂々と語る。

「一万回に一回なんてないも同然……それに、その可能性ならさっき私が使ってしまいましたよ。アル様が生きてるなんて、万一の可能性だと思ってましたし~」

「となると、オレが引き寄せなきゃなんねぇのは二万に一つの可能性ってわけか。オレも男の子だから燃えてくるぜ。──可能性がゼロでなきゃ、こじ開けてやる」

 会話するアルとヤエの正面、地上へつながるせん階段が見えてくる。その階段を上がり切れば地上だが、待ち受けているのは地獄より地獄のびとの群れ──。

「オレが騒がしくしてる間、お前は屋敷を抜けて『真紅戦線』を拾ってこい。どのみち、寄生された連中は根絶やしにしなきゃならねぇ」

「……本気でやるんですか?」

「何度も言わせんな。決め台詞ぜりふの最中に息切れしたくねぇんでな」

 それだけ言って、アルが螺旋階段の一段目を踏んだ。これ以上は止めるだけ無粋と、ヤエはその場に丁寧に一礼し、

「私、アル様と奥様のこと、わりと気に入ってましたよ」

「今生の別れみてぇなこと言ってくなよ、縁起悪ぃ」

 と、そんなやり取りを交わし、ヤエは素早くアルを追い越して走り出した。

 アルにどんな隠し玉があるかは不明だが、命懸けの強がりだったとしてもその意をんでやるとしよう。──『真紅戦線』を呼び寄せ、屋敷の屍人を撃滅する。

 この鼻の曲がる悪臭の元凶たちを、薄汚い庭から外へ出さずに駆除するために。

 そうして、走るヤエの背後で、最後にアルがつぶやく声が聞こえる。

 それはヤエにはとんと、意味のわからない言葉で──。


「──領域展開、思考実験開始」


    12


 眼前の屍人の首をね、背後へ現れる敵の胴体へ振り返らずに剣を突き立てる。そのまま力ずくで剣をねじると、腐った相手の胴体は容易たやすく千切れ、死体が転がった。

「────」

 次、また次と斬り捨て続けてどれだけったか、屋敷は死体であふれ返っている。

 元々死体が歩き回っていただけなのだから、不自然を自然がとうした結果であると言い張れないこともない。

 どちらにせよ、死体は死体、これが自然な在り方だ。

 こうなると、自分がいったい何をしているのかわからなくなってくるが。

「除霊ってわけでも鎮魂って話でもねぇ。運命の袋小路に入ったやつらを根こそぎ刈り取ってくって作業だ。……それをオレがやるってのは皮肉が利きすぎてやがる」

 あるいはそれさえも、プリシラにとってはてのひらの上の出来事なのか。全てを見通すような紅のひとみの持ち主、彼女の豊満な胸中はアルにも到底計り知れない。

 ただ、自らの命運を自らのはかり以外に載せないだろうプリシラが、この手詰まりの盤面を動かす駒として、アルを選んだ事実だけは動かしようがない。

 たったそれだけのことで、こうまで死力を尽くしている自分の馬鹿さ加減も。

「さて、殺しも殺したり、百三十四体……ヤエの奴、目分量しやがって。百対一よりずっと多いじゃねぇかよ。けど、そろそろ……」

「──そろそろ、こちらの我慢も限界なのよん」

「────」

 腐汁で汚れたせいりゆうとうをカーテンで拭い、振り返ったアルは通路の奥に巨大な影を見る。人間大とは言いがたきよ、醜いかおかたち、鼓膜に届くしやくに障る声──、

「ここだけの話、『女傑』じゃなくて『汚物』って名前に改名した方がよくね?」

「やってくれたわねん、あーた。これだけ数をそろえるのにどれだけ苦労したと思っているのん? みんな、楽土のための貴重な労働力だったのにん」

「苦労も何も水飲ませただけじゃねぇか。給水所に突っ立ってただけのくせに、マラソンランナーと同じだけ苦労しましたみてぇな面してんじゃねぇよ、デブ」

 楽土の建設だのなんだのと、びとの親玉の言い分には興味もない。残念ながら、アルは悪役の口上を大人しく聞いてやるようしつけられた覚えはなかった。

 故に──、

「てめぇを殺して、姫さんを連れ帰る。そろそろ本気で、あの白くて長い足をペロペロしてやるぜ」

「俗物ねん、あーた。そんなあーたに、あたくしたちの使命は邪魔させないわん」

 青龍刀を突き付け、わいな要望を語ったアルにエッダ・レイファストが凶笑する。

 次の瞬間、エッダの鉄油色の肌が膨らみ、異様な凹凸がパツパツの服の下で暴れる。そのまま服が破け、うれしくない肌が露出し──おぞましい、異形が姿を現した。

「────」

 それは、エッダが巨体の内に取り込んだ、複数の屍人の集合体だ。手や足が不自然に全身から突き出し、声なき声を上げる亡者の顔が腹や背中に付属する。

 異常、異様の存在感に嫌悪を覚え、アルはかぶとの中で唇を曲げ、舌打ちした。

「グロい」

「あーたもあたくしの一部にして、あの女の鼻っ柱を折る材料にしてやるわん。そうしてあの女の地位と美貌で、地上に楽土が築かれるのよん──ッ!」

「──ッ!?」

 勢いよく身を弾ませ、エッダの巨体が重量感を無視した跳躍でアルへと迫る。それを可能としたのは、取り込んだ死体の不自然な筋力の再利用か。全身からおびただしい量の腐汁をぶちまけて飛ぶ姿、まさしく最悪の敵だ。

 地下で出くわしたかいに、一個の自由意思がくっつけばこんな形になるのか。最悪と最悪を重ねて、醜悪そのものとなった化け物へ、アルは大きく後ろへ飛んだ。

 そして、迫る敵ではなく、その向こうにいるとらわれの姫の姿を描いた。

 ──ああ、まったく。、自分はこんなひどい目に遭わなくてはならないのか。それはきっと、出会ってしまったのが悪かったのだ。

 だから──、

「死ぃぃぃぃねぇぇぇぇ──!!」

 飛んで迫ってくるきよの屍が、汚い唾と腐臭をまき散らして無数の手を伸ばした。

 それを目の当たりにしながら、アルは軽く肩をすくめ、


「──オレもお前も、星が悪かったのさ」


    13


「遅かったな、アル。どれだけわらわを待たせる。不遜にも程があろうが」

「……それ、死闘を終えてようやく辿たどいたけななオレにかける言葉?」

 どろどろの格好で扉を開けたアルが、その優しくないお出迎えに肩を落とす。

 そんなアルを見据え、優雅に足を組み替えるのは屋敷の最奥で囚われのお姫様をやっていたプリシラだ。ただし、彼女はそんな不安な立場の影響などじんも感じさせず、普段の尊大さそのままの姿、まさしくプリシラ・バーリエルである。

「それにあきれるより安心すんだから、オレもつくづく馬鹿な男だぜ……」

「男が妾にひざまずくのは必定よ。情けなく思う必要はないぞ。むしろ、当然のことわりと知れ。それで、あの無礼千万なびとしゆかいは?」

「本気で万に一つの勝ち目ってぐらい苦戦したけど……ま、姫さんが自分でやりてぇかと思ってな。動けないようにして転がしてあるよ」

「ふむ、よいぞ。褒めて遣わす」

 言いながら、ゆるりと席を立ったプリシラがアルの隣を堂々と抜ける。そのさつそうとしたプリシラの姿に首をひねり、アルは嘆息気味にその背中を追った。

 そして、最奥の部屋を離れ、しばらく進んだ先で──、

「ぅ、あ、ぅ……」

「ふん。何とも、滑稽な姿に成り果てたものよな」

 そう言ったプリシラの足下には、エッダ・レイファストだったものが転がっている。

 その姿は無惨の一言──しかばねの寄せ集めだった肉体は元々見られたものではなかったが、体中の腐肉をがれ、丁寧に手足をがれた姿は芋虫のそれに類似する。

 彼女の太い指を芋虫と形容したが、本体がそうなるとは笑い話にもならない。

「貴様が醜く泣きじゃくり、命乞いする様を見物してりゆういんを下げるつもりじゃったが……この哀れな有様ではそうもいくまいよ」

「あ、ーた……あれ、は、なん、なのん。あんな、何も、かもを……」

 びととなり、俗世の辛苦を自分から切り離した。そう豪語したエッダが嫌々と首を振って、自分の身に起きた出来事への恐怖に歯の根を震わせている。

 それが、自分をこんな姿にした相手、アルへの言及だとわかっていながら、プリシラは何らそれに答えず、中空から美しい紅の宝剣を抜き放った。

 一度ったときと変わらず、その刀身に赤々とした輝きは戻っていないが、

「日輪は陰ろうと、くすぶる炎熱は消えぬ。楽にはゆかぬが、わらわは貴様を焼き尽くしてやるとそう言った。言葉はたがえぬ。──貴様はここで、楽土を夢見て灰と化せ」

「どう、せ……あーたも、あたくし、と……」

 何事か、負け惜しみを口にしようとした顔面に剣先が刺さった。強制的に沈黙を選ばされ、目をくエッダの顔が弱々しく赤熱し、次第に炎となって燃え上がる。

 そのまま、エッダを始点とした炎は壁や床に燃え移り、屋敷そのものを焼き尽くす大火となるためのまきを欲して燃え広がった。

「──姫さん、体は何ともねぇのか?」

 そうして炎が広がるのを目にしながら、アルがプリシラの背中に問いかけた。

 とらわれの身の間、エッダたち屍人が彼女に何もしなかったとは考えにくい。見たところ体に危害を加えられた形跡はなく、態度も普段の彼女そのまま。

 故に、プリシラにまで屍人と化す寄生体が入り込んだとは考えたくないが──、

やつらに、何かされたんじゃねぇか? 例えば……」

「妾の完璧な体を『ぞんび』と変えるための無粋な手入れか?」

「────」

 振り返るプリシラの視線を受け、アルは思わず押し黙った。彼女の紅のひとみに怒りがあったならまだいい。だが、そのそうぼうに宿るのはさいの読めないなぎの感情だ。

 その無風の視線に戸惑うアルへ、プリシラはふっと唇を緩めた。

「案ずるな。仮に妾の内が異物にむしばまれていたとして、それを取り除く手段は貴様も知っていよう?」

「取り除く手段って……あ」

 微笑ほほえむプリシラの発言に、アルはカッフルトン村での出来事を回想する。

 寄生体にむしばまれた娘に口付けし、プリシラは強引に相手の体内から寄生した触手を引っ張り出した。あの方法なら、体内に根を張った寄生体を取り除くことができる。

 ただし──、

「こ、ここにはヤエとかシュルトちゃんはいねぇぞ? 唯一、最後に残ってた同性も今しがた姫さんが焼いちまったし……」

「たわけ。焼け残っていたとして、誰が二つの意味で腐った唇にわらわの唇を委ねるものか。いい加減に覚悟を決めよ。妾がどうなっても構わぬのか?」

「いや、それは……」

 じろりとプリシラににらまれて、アルは後ろへ後ずさる。が、離れた距離はプリシラの堂々たる歩幅に容易に詰められ、すぐにアルは壁に追い詰められた。

「ま、待て、姫さん! ほら、屋敷が燃えてるし、そんな場合じゃ……」

けなにも、妾のために命を懸けた。その褒美を与える。──動くな」

 ゆるゆると首を横に振るが、プリシラはそんな拒絶をものともしない。触れることもおぞましい汚物にまみれたアルに触れ、彼女の白い指がかぶとふちにかかった。

 そして──、

「──何度見ても、醜悪な目つきよな」


 そんな一言に続いて、黒い兜が床の上に落ちる甲高い音が燃える屋敷に響いた。


    14


「さすが奥様でしたね~。ご自身もお味方も無事、お見事でした」

「当然じゃ。が、称賛の言葉は心地良い。好きなだけ賛美せよ」

「はは~」

 と、バーリエル邸の私室へ戻り、爪の手入れをさせるプリシラにヤエは平伏する。

 すでにエッダ・レイファスト──びとを率いていた彼女のもくは破れ、あとは周辺地帯に残った屍人を掃討し、事態を完全に収束させるだけ。

 始まりから終わりまで、ほとんどの物語をプリシラは自身の力で解決した。無論、そこに一握の助力をした自負はヤエにもあるが、本当に一握だけだ。

 全てはプリシラのてのひらの上で起きて、そしてそこから出られないままに終わった。エッダや屍人、ヤエやアルの奮闘も含めて全て。──それが、少しだけ恐ろしい。

「手が止まったな、ヤエ」

「……おっと、ごめんなさい、奥様。ちょっとだけ考え事を」

「ほう、妾の世話のかたわら考え事とは不遜じゃな。いったい何を考えた?」

「え~と、ほら、あれですよ。私が『真紅戦線』を連れて戻って、燃える屋敷の前で奥様たちと合流したときです。あのとき、アル様ったらやけに落ち着きがなくありませんでした? いえ、いつも落ち着きがないっていえばないんですが~」

 もちろん、死線をくぐり抜けた高揚感が残っていたとも考えられる。なにせ、膨大な数のびとを相手に生き延びたのだ。本当に、万一の可能性を潜り抜けて。

 正直、屋敷の前で二人の姿を見つけたとき、ヤエは生涯で一番驚いた自信がある。それを顔に出さなかっただけ、自分で自分を褒めたいぐらい。

 ただ、そんな高揚感では説明のつかないしどろもどろが、あのときのアルにはあった気がしたのだ。

「あれも馬鹿な男じゃからな」

 そんなヤエの疑問に、プリシラの返答は答えになっているようでなっていない。中核に触れないふわふわした答えだが、それ以上を語るつもりは彼女にはなさそうだ。

「──はい、奥様。お手入れ終わりました。相変わらず、うそみたいにおれいです」

 煙に巻かれた気分のまま、ヤエはプリシラの爪の手入れを終える。言葉は世辞ではなく、プリシラの生来の美貌は本当に指先にまで通じている。

 全身、どこを取っても美の塊だ。同じ女として信じがたいほどに。

「このまま、シュルトちゃんをお呼びします? いつも通り添い寝して……」

「今夜はいい。万が一もあるまいが、一晩は様子を見る。酒杯からわらわの中へ入った異物は残さず焼いたはずじゃが、シュルトをおびえさせる必要もあるまいよ」

「なるほど。……奥様の体を奪おうなんて、びとも高望みしたもんですね~」

 真紅の宝剣の力があれば、プリシラは自在に焼きたいものだけを焼ける。自分の体内に入った異物など、真っ先に焼かれてしかるべきだ。渡された酒杯にこれ見よがしに口を付けた直後、即座に寄生体を焼き殺したことは想像にかたくない。

「では、奥様、お疲れでしょうから私はこれで。アル様もぐったりなさっていましたし、どうぞごゆっくりお休みください」

「うむ。──ヤエ、大儀であった」

 一礼し、部屋を辞そうとするヤエにプリシラがねぎらいの言葉をかける。それを受け取り、ヤエは一層深く頭を下げると、足音も立てずにあるじの前から姿を消した。

 それからふと、ああも自然にプリシラにねぎらわれたのは初めてのことだと気付く。

 さしものプリシラも、今日のことは大仕事だったと認めてくれたわけだ。ヤエも、単なる侍従にあるまじき働きを求められ、疲労と充実感がとんとんといったところ。

 正直言って、今日一日は最悪の日だったが──悪くは、なかった。プリシラの下、バーリエル邸で働くようになって、一番興が乗った日だったと思える。

「何とも、因果なですね~、私。でも……」

 自分のてのひらを開閉して、ヤエは短く息をつく。

 楽しかった。悪くなかった。これからも、こんな日が続くならと思わなくもなかった。

 だから──、


「──そこまでだ」


 月が雲に隠れ、虫の歌声も聞こえぬ夜のしんえんに、ヤエは背後から声をかけられた。

「────」

 足を止め、息を止め、ヤエは心の震えを止めて、振り返る。

 声に聞き覚えはあった。ただ、その声がここまで冷然としていた記憶はない。

 そのことと、そもそもの状況を不審に思いながら、ヤエは常の笑顔を作った。

「アル様ですか~? こんな夜更けにどうされたんです?」

「────」

「今日はお疲れだったでしょうし、ゆっくりお休みだったと思いましたのに。それとも、人を斬りすぎてたかぶって眠れないとか? でしたら、こちらはよろしくないかと。侍従の子たちならお手付きにしても許されますが、この先は……」

「姫さんの部屋だな。ああ、わかってるぜ」

 静かな口調に遮られ、ヤエは口をつぐんだ。そして、またヘラっと笑顔を作る。

 まだだ。まだ、終わっていない。まだわからない。まだ取り繕える。

 まだ、この日々を、時間を、終わらせないでいられるはずだ。

「わかってるならなおさらです。そりゃ~、どうせいするなら美女ですが、奥様はさすがに難しいですよ。何なら、私がお付き合いしましょうか~? ほら、今日の頑張りでちょっとだけ、アル様のことがカッコよく見えたり……」

「困ったときほどよくしやべるんだな、お前。けど、意味ねぇよ。隙は作らねぇ」

「────」

「もういっぺん言うぜ。この先は姫さんの部屋だ。お前はこんな夜に何しにいくんだ?」

 確信めいたアルの言葉を受け、ヤエは短く息を詰めると肩を落とした。ゆるゆると首を横に振ると、束ねた赤髪が夜の中で残酷に揺れる。

 ここまでと、諦めの悪いヤエの心情がそんな結論を下した。

 しは効かない。言い訳も聞く耳持つまい。アルは、全てわかっている。

「私、わりと完璧だったと思うんですけど、どうしてわかったんです?」

「安心しろ、お前は完璧だった。オレがちっとばかしズルして、カンニングしてるってだけさ。……オレも、できりゃぁ信じたくねぇ答えだったけどな」

「相変わらず、アル様の言葉は難しくて、学のない私にはわかりませんね~」

 ひようひようとした態度でもつて、常にプリシラの安全を守るように位置取りする道化ぶった男。アルはいつもヤエを警戒し、そして気遣っていたように思っている。

 それがヤエの狙いを察した敵意だったのか、それ以外だったのかはわからない。わからないまま、ヤエとアルとの関係は終わりを迎える。

「……この場を見逃してくれれば、私、アル様には何の危害も加えませんよ~?」

「代わりに取られるもんがなけりゃ、それを聞いてやったかもしれねぇな」

「ですか~。はい、残念です。でも、それなら──」

 と、ヤエはまゆを下げ、違う話題を切り出す素振りを見せながら腕を振るった。瞬間、投じられたやいばぐ、アルの胸元へ突き刺さる。

「ぐ」

「アル様のこと、嫌いじゃありませんでしたよ」

 と、苦鳴を漏らし、心臓をえぐられて倒れるアルへと慰めにならない言葉をかける。

 ちゆうちよのない一撃、それを浴びたアルの死を見届け、ヤエは小さく息を吐くと、再び後ろに向き直ってプリシラの部屋へと足を進めようとした。

 勘のいいプリシラだ。このアルと自分のいさかいを察して起きてこないとも限らない。情けない話だが、彼女が起きたらヤエは詰む。だから、その前に──、

「──仕事を果たしたかった、んですけどね~」

 背後、自分の首筋にせいりゆうとうを当てられ、ヤエは力なくクナイを落とした。ちらと視線を後ろへ向けると、そこには漆黒のかぶとの男が立っている。

 その胸に突き立ったはずのクナイ、それが床に落ちると、その先端が服の胸元に仕込まれていた板切れに刺さっているのが見える。

 それはまるで、ヤエの投じたクナイの狙いがわかっていたかのように。

「言ったろ? カンニングしたんだよ。お前がオレを殺すタイミングも、全部な」

「わけがわかりません。……私が諦めるって言えば、やめてくれますか?」

「……本気でお前が寝返るつもりなら、考えた。今朝までならな」

 虫がいいとわかりつつの問いかけに、アルは苦しげに不思議な答えを返した。

 今朝までなら話は違ったと。ヤエの提案を、受けるかどうか考えたかもしれないと。

 だが、今は悩むことすらない。そして、その切っ掛けは──、

「グズグズの死体の山で、プリシラがオレを選んだ。だから、オレも選び返す。──ヤエ・テンゼン。お前はプリシラを殺す女だ。二度は殺させない」

「……一度も成功してませんよ?」

「そうだな。それを確定させるために、不確定の芽は全部摘む」

 意味のわからないアルの発言に、ヤエはゾッとおぞを覚えた。それは死を思わせる敵意に対してではない。アルが抱く、他人には理解できない異常な執着にだ。

 使命感ではなく、仕事だからでもない。ヤエは自分の本能と技術に懸けて、この男を殺さなくてはならないと考えた。

「悪いな。オレもお前も、運が……いや」

「し──っ!」

 刹那、ヤエは身をひねり、袖口から飛び出した刃を相手ののどぶえたたき付けんとする。

 その瞬間、黒光りする刃が届かんとする間際、声が聞こえた。

 声が。

「──星が悪かったんだよ」


 ──翌日、バーリエル邸から一人の侍従が家庭の事情で職を辞した。

 あるじであるプリシラに一言も告げず、無礼極まりない辞め方であったが、報告を受けたプリシラは「そうか」と一言こぼしたのみで、それ以上は何も言わなかった。

 辞めた侍従は前日の、バーリエル領で発生した異常事態にひどく心を痛めていたと、プリシラに仕えるてつかぶとの男はうわさする。

 彼女の同僚であった侍従たちは、それに強く同情したが、一人、また一人と忙しい日々に埋没し、辞めた同僚への関心は少しずつ薄れていって。

 ──桃髪の少年執事だけが、別れを言えなかったことをずっと惜しみ続ける。


 たったそれだけの出来事として、その存在は歴史の陰に隠されていくのであった。


    15


 ──バーリエル領で起こり、収束した異変。これは、その蛇足のようなものだ。

「────」

 暗く、湿った空間の奥底に、一つの小さな人影が存在していた。それは厳重な拘束にとらわれの身となった、幼い姿をした一人の少女だった。

 暗闇の中、少女は身じろぎすることもなく、静かに時の経過を待ち続けている。

 やがて、その少女の下へと、かすかな物音を立ててねずみが集まってくる。鼠といえど、一匹二匹であれば可愛かわいげもある。が、その数はそれどころではない。

 百、二百、千、二千を越えようかという膨大な数の鼠が、暗がりの中で囚われの身となった少女を取り囲み、鳴き声も上げずに足を止めていた。

 幼い少女の体ぐらい、この数の鼠が集まればものの数分で骨も残さず食い尽くせる。しかし、鼠が集まった目的は、決して彼女を獲物とみなしてではなかった。

 むしろ、その逆だ。──鼠は少女を獲物ではなく、特別なモノとして崇めている。

 それは女王へと向ける忠誠、本能の支配だけが成立させる、ありえざる凶気の結実、自由意思を失った鼠たちは、『しかばね』同然のひとみで少女を見つめる。

 その忠誠、女王へ向けるモノとした表現さえもなまぬるい。それは女王ではなく、神へと向けるモノ──自分たちを作り出した、『造物主』へと向けるモノだ。

 全てを支配し、あらゆるモノを利用して、楽土を作り出し、造物主を迎えよう。

 そんな、思わぬ我が子らの暴走を理解して、しかし、少女は静かに時を待つ。

 それまでは──、

「──要・熟考、です」

《了》



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