『ゼロから始める王選生活 『金獅子と剣聖』』

    1


 ──ガタゴト、ガタゴト、音を立てて揺れながら竜車が走る。

 本来、竜車を引く地竜には『かぜけの加護』が働くため、竜車の車内には風や揺れの影響は伝わらないようになっている。

 ただし、加護も万能というわけではない。例えば『風除けの加護』は地竜が足を止めれば効力を失い、再び効果を発揮し始めるのに一定時間を必要としたりする。

 故に、竜車がガタゴトと揺れているのは、その加護が外れている証拠だった。

 そして、どうして加護が外れたかといえば──、


「──おお、若様! お戻りになられていたんですか!」

「わあ、お久しぶりです、若様! お、お会いできてうれしいです。きゃっ」

「ラインハルトさまー! また今度、剣の稽古を見てください。約束ですよ!」


 と、そんな歓声のたびに竜車が止まり、車窓から外の人々と交流する乗客がいるからだ。その人物は外の人々に手を振り、言葉を交わし、笑顔で応対する。

 そうした振る舞いが話題を呼んで、次から次へと人々が竜車へ集まってくるのだ。

 こんな調子で頻繁に停車していれば、加護の再展開が間に合わないのも道理である。そのため、竜車は領地に入って以来、すっかり揺れとも風ともお友達だった。

「──何度も竜車を止めてしまい、申し訳ありません」

 黄色い歓声に見送られながら、再び竜車が走り出す。かすかに揺れる車内、改めて座席に腰を下ろした人物、赤毛の青年が対面の相手に頭を下げた。

 尋常でなく、見目の整った青年だ。

 燃える炎の赤髪と、そうきゆうを閉じ込めた青いひとみ微笑ほほえめば男女を問わず魅了する魔貌を秘めた顔立ちと、その声色は聞いたものの心を直接くすぐるほどに甘い。

 ──ラインハルト・ヴァン・アストレア、それがこの青年の名前だ。

 そんなラインハルトの気遣いに、当然、対面の人物はほおを赤らめ──、

「──謝る気があんなら、もうちょっと申し訳ねーって面しろ!」

『怒り』で頬を赤くしながら、ドレス姿の少女が態度悪くラインハルトを怒鳴りつけた。

 こちらの少女も、非常にれんな外見をした人物だ。きらめく金色の髪を黒いリボンで飾り、こうこうと燃え盛る太陽のような赤い瞳をしている。口元を飾るのは少女の気性を象徴するとがった八重歯で、まだ未成熟の体に黄色いドレスをまとっている。

 彼女の名前はフェルト、竜車の中にはその二人の男女しか乗り合わせていない。

 しかし、二人の間にはそんな色っぽい字面とは無縁の空気が漂っている。当然だ。二人の関係は男女ではなく主従、それにしても少し殺伐としすぎてはいたが。

 そんな空気の中、困り顔をフェルトに向けるラインハルトが口を開く。

「フェルト様、彼らはアストレア家の直轄する領地の住民です。町と屋敷との距離は目と鼻の先ですし、彼らとは良好な関係を築かなくては。それに」

「それに?」

「ティルミは村一番のうわさ好きで頼りになりますし、ヨナスは将来は王国兵になると。それから、ロウエルの焼くパンは絶品です。いい人たちですよ」

「……なんでそっちの話が先に出てこねーんだか」

 ドレスがびんになるほど足を開いて、膝に頬づえをつくフェルトがそうぼやく。そのつぶやきを聞きつけ、ラインハルトは「おや」とまゆを上げた。

「フェルト様は怒ってらっしゃったのではないんですか?」

「アタシがテメーに怒ることがあんなら、そりゃアタシが嫌な顔する話を先にして、嫌な顔しねー話を後回しにする癖だけだ。外の連中は別に悪さしてねーし」

「ですが、何やらお急ぎのご様子でしたので、問題があったのかと……」

「うるせーな、便所だよ! そろそろ我慢の限界なんだよ! この服! 便所いくとき面倒くせーんだぞ! アタシが漏らしたら責任取れんのかよ!」

「それは……責任を取ると言っても取れないと言っても問題があるのでは」

「知るか! それが嫌なら急がせろ!」

 げしげしと、イラつくフェルトが足を伸ばしてラインハルトを蹴ろうとする。が、ラインハルトはそれを座ったまま華麗にけ、「承知しました」と微笑ほほえんだ。

 それから、彼は窓の外をのぞき込み、竜車の進路へ目を向けると、

「ご安心ください。フェルト様のお望みはすぐにでもかないますよ」

 その気取った言い方に鼻を鳴らし、フェルトは彼の隣から窓の外を覗き込んだ。

 そうして広がる視界、なだらかな上り坂の先に見えてきたのは鉄製の門だ。ただし、門は開きっ放しで、微妙にさび付いているのも目立つ年季の入り方をしている。

 その門の役目を放棄した門を通り抜け、竜車が敷地内へと入り込むと、すぐに見えてきた屋敷こそが──、

「お前の実家、か」

「はい。僕の生まれた家になります、アストレア本邸です。──フェルト様にとっても、しばらくはご滞在いただく拠点ということになりますね」

 フェルトの言葉を肯定し、ラインハルトが微笑する。それを聞きながら、フェルトは正面に近付いてくる屋敷の全景をその紅のひとみに映した。

 育ちこそ貧民街ではあるが、フェルトはこれで生粋の王都っ子である。

 いわゆる貴族の邸宅は見慣れているし、ここ二ヶ月は実際に貴族の屋敷に軟禁されて生活した実績もあった。そこでの暮らしを思えば、『剣聖』ともてはやされるラインハルトの実家、アストレア本邸の豪邸ぶりを色々と想像していたのだが──、

「……思ったより、ちっせーな?」

 そう、思わず漏れた一言が、屋敷を見たフェルトの正直な印象だった。

 王都にあった別邸と比べても、アストレア本邸はずいぶんと小ぢんまりした屋敷だ。もちろん、屋敷と呼ばれる水準を満たした大きさではあるが、王都では貴族街の片隅にも置かれないような質素さを感じる。

 最初に見かけたびた鉄門への印象もそのままに、建物にも微妙に老朽化の影響が及んでいて、無目的に遊ばされた広大な庭など完全に持て余している様子だった。

 フェルトとしては、到着した途端にぞろぞろと大勢の使用人に囲まれる可能性さえ危惧していたが、これはその想像とは別の形で不安が湧いてくる。

「驚かれたかもしれませんが、これが当家のありのままの姿ですよ」

「お前、ひょっとして貧乏貴族ってヤツなのか……?」

「そうびんなものを見る目をしないでください」

 声の調子を落としたフェルト、彼女のまなしにラインハルトは苦笑した。

「誤解はわかりますが、同情されるのは少し尚早ですよ。確かに、王国貴族として裕福な部類ではないと思います。領地も、大きいとは言えませんしね」

「そうか、そうなのか。……まぁ、なんだ。強く生きろよ」

「──? ありがとうございます」

 親指を立てたフェルトの応援を、ラインハルトは首をかしげつつ素直に受け取る。

 ともあれ、そんな形で二人は無事にアストレア本邸へと到着した。そのまま、先に竜車を降りたラインハルトが振り返り、フェルトにそっと手を差し伸べる。

「フェルト様、お手を」

「やなこった」

 気遣いを足蹴にし、フェルトはひょいと身軽にラインハルトの横に降り立つ。べーと舌を出したフェルトに手を引っ込め、ラインハルトは苦笑しながら屋敷へ振り返った。

 アストレア本邸、ラインハルトにとっては久々の里帰りと言える。それなりに、思うところでもあるのかと、フェルトは彼の横顔をうかがったが──、

「先に向かった三人の姿が見えませんね」

「あ? ああ、ラチンスたちか。そーだな。どこいってんのやら……」

 ラインハルトの一言を受け、フェルトは軽く屋敷の周りに視線を巡らせる。

 同行者であるガストン、ラチンス、カンバリーのチンピラ三人組は、領内に入ってから遅々として進まない竜車の速度にしびれを切らし、自分たちの足で屋敷に向かうと先行していたはずだった。

 出迎えのこともある。こちらの到着を先に屋敷へ伝えてもらえるならと、三人組の行動を認め、快くフェルトも送り出したのだが。

「すでに中にいるのかもしれませんね。出迎えがないのは気掛かりですが、ここは僕が中へご案内します。当家の使用人は数は少ないですが有能でして」

ばあちゃんたちの孫娘っつってたな。あの二人の孫ならそりゃそーだろーよ」

 フェルトの脳裏に浮かぶのは、王都にあるアストレア家の別邸で世話になった管理人の老夫婦の姿だ。優しく穏やかな夫婦で、フェルトも二人のことは好きだった。

 その二人から別れ際に、本邸には二人の孫娘がいると話を聞かされていたのだ。

「どんなヤツなのか楽しみにしてたんだ。婆ちゃんたちには世話になったし……」

「ぎゃああああ──っ!!」

 瞬間、屋敷の正面玄関が勢いよく開かれ、悲鳴が庭に木霊していた。

 とっさのことに、ラインハルトが素早くフェルトを背後へかばう。そして、警戒する二人の前に転がり出たのは、野太い悲鳴を上げる男──否、男たちだった。

 大・中・小の背格好をした三人組だ。いずれも素行の悪いチンピラ感が強く出た風貌をしていて、実際、素行の悪いチンピラで間違いなかった。

 先行したはずの三人組、ガストン、ラチンス、カンバリーたちだ。彼らはボロボロの状態で庭に転がり、大げさに痛い痛いとわめき散らしている。

 その三人の様子に目を丸くして、ラインハルトは慌ててそちらへ駆け寄っていった。

「ガストン、ラチンス、カンバリー、いったい何事だい?」

「な、何事もクソもあるかよ!」

 転がされたチンピラ三人が、駆け寄ってくるラインハルトにボロボロの顔を向ける。三人は一斉に自分たちが転がり出た屋敷を指差して、

「先について、一息ついてただけだぜ、オレたちは!」

「ああ、そうだ! ノックしても返事がねえから中に入ってよ……」

「そしたら、中にいたわけわかんねえ双子がオイラたちを……」

「──どうも、わけのわからない双子の右側です」「左側」

「ひいいいいい──っ!?」

 被害を訴えた三人が、ひょっこりと姿を見せた二つの人影にビビッて抱き合う。その姿勢のまま震える三人をに、ラインハルトはその人影の方を見た。

 屋敷の玄関、そこにたたずむのは二人の少女──桃髪に、背丈の低いうりふたつの少女たちだ。

 三馬鹿の発言と、直後の本人たちの報告から双子で間違いなさそうだ。

「──フラム、グラシス。君たちが彼らを?」

「あまりにも怪しい風体でしたので、使命感のあまり」「暴漢……」

 肩を落としたラインハルト、その言葉に双子が交互に口を開く。

「暴漢ではないよ。手紙でしらせてあったはずだ。彼らはフェルト様の客分──いや、今後はフェルト様の下で働く、君たちの同僚になると」

「ごめんなさい、若様。うっかりしました」「若様、うっかり」

 悪びれない双子、フラムとグラシスの発言にラインハルトが複雑な顔をした。だが、そんな三人のやり取りにフェルトが「ぷはっ」と噴き出す。

「ひひ、まぁ、見た目に関しちゃ言い訳できねーわな。アタシがその二人でも、この見てくれのやつらが屋敷に上がってきたらたたき出してるっつーの」

「フェルト様……」

 悪童めいた笑みを浮かべ、双子の意見に賛同したフェルト。頭の後ろで手を組んだ彼女の物言いに、ラインハルトはますますけんしわを深くした。

「あんだよ、文句あんのか? 言っとくけど、こいつらのしつけはアタシと無関係だぞ。それこそ、責任はそっち持ちだろーが」

「いえ、そうではなく、女性が『ひひ』などと笑うのはいかがなものかと……」

「テメー、アタシにだけ細かく厳しいのやめろ! おら! テメーらもいつまでそんなとこで震えてやがんだ! とっとと中に入んぞ!」

 的を外したラインハルトの注意に舌打ちし、フェルトは三人組をどやしつけるとドレスに似合わぬ大股歩きで玄関に向かった。そのフェルトの堂々とした姿に、フラムとグラシスも静々と道を譲り、彼女を屋敷のあるじとして迎え入れる。

「お待ちしておりました、フェルト様」「おりました」

「おーよ」

 ものじせず、その歓迎を晴れ晴れとした顔で受け入れるフェルト。左右に分かれて道を開けた双子、その肩をフェルトはぽんと叩くと、

「王都じゃ、二人のじいちゃんばあちゃんには世話になった。よろしく頼むな」

「お様からよくお仕えするようにと」「お様からは花の種」

 そう応じる二人にうなずきかけ、フェルトはゆっくりと屋敷の中に足を踏み入れた。

「へーえ」

 しげしげと中を見回して、フェルトは屋敷の雰囲気に納得と頷く。外観の印象を裏切らない内観、小ぢんまりとした外見の建物は中に入ってもそんなものである。

 どうしてこうも、王都にあった別邸と差があるのか。

「王都の方の屋敷は、貴族街の景観に配慮したものになっています。元々、祖母の功績で当時の国王陛下から賜った屋敷ですので、あれと比べてしまうと……」

「見劣りするってわけだ。つまり、お前んとこのホントの実力はこっちなんだな?」

「そうですね。王都の別邸は、『剣聖』を輩出する家名に見合ったものをとの思惑もあるようです。早い話、見栄ということですね」

「見栄ね。ホントにテメーら貴族はそれが好きだよな」

 屋敷の規模について講釈するラインハルトに鼻を鳴らして、フェルトはさらに邸内へと足を進める。ラインハルトを連れ、三馬鹿との合流は済んだ。

 ただし、あともう一人、フェルトには屋敷で合流しなくてはならない身内がいて。

「……む、ようやくついたようじゃな。待ちくたびれたわい」

「ロム爺!」

 パッと顔を明るくして、聞こえた声にフェルトは顔を上げる。見れば、玄関を見下ろせる吹き抜け構造の二階、その廊下で手を振っているきよの老人の姿があった。

 その体格の縦横が人一倍大きいのは、巨人族であることのあかし。ロム爺と呼ばれるその人物はフェルトの育ての親であり、唯一、彼女が心から信頼する家族だった。

 王都からこっち、ロム爺もフェルトたちと同じように竜車でアストレア本邸へと出発していたのだが、彼が先についた理由は明白。

「道中、近々のお偉方のところに寄り道してきたそうじゃが、どんなあんばいじゃった?」

「最悪だった! まぁ、ほとんどラインハルトの横に立ってただけだけど」

「そうかそうか。とはいえ、何事も経験じゃからな」

 顎に手をやり、おうように頷くロム爺にフェルトは苦労を思い返して唇をとがらせる。

 王都からの道中、ほとんど寄り道することはなかったのだが、一応の挨拶回りとやらで立ち寄った有力者の邸宅があった。元々、ラインハルトの実家と縁深い関係の家柄だったらしく、王選においても協力を願いたい的な話だ。

 フェルトたちがそうする間、ロム爺は別行動を申し出て、一足先にアストレア本邸へと出発──堅苦しいのは肌に合わないとロム爺は言っていたが、おそらくそればかりが理由でないことはフェルトも理解していた。

 長生きしていれば色々ある、それが十四年しか生きていない小娘のフェルトでもわかる当然の理屈。話したいと思えば、いつかは話してくれるだろう。

 だからフェルトも、ロムじいの意思を尊重して深くは追及しなかった。

「荷物は先に運んでおいた。部屋は好きにしていいと双子に言われたが、構わんな?」

「ええ、問題ありません。僕や家族、フラムたちの私室以外ならご自由に」

 ロム爺の言葉にうなずいて、ラインハルトは「それにしても」と背後の双子を振り返った。

「ガストンたちは中に入れなかったのに、ロム殿は普通に通したんだね」

 すっかり屋敷でくつろいでいる風なロム爺の態度、それに言及するラインハルトの言葉を受け、双子は顔を見合わせると、

「だって、ロム様は強そうでしたから」「痛いの痛いの嫌々」

「……その調子で仕事を選ばないように。今後はそれでは困るからね」

「もうちょっとちゃんと叱れ!」「謝罪を要求する!」「不当な扱いだーっ!」

 フラムとグラシスの勤務態度に、三馬鹿の抗議の声が一斉に上がる。その扱いに困るラインハルト、彼の横顔にフェルトは意地悪くほおをつり上げた。

「──ひとまず、退屈しねーで済みそうな顔ぶれじゃねーか?」

「フェルト様がそれをお望みなのでしたら……」

 そこで言葉を切り、ラインハルトは屋敷に集った面子メンツの顔を見渡した。そして、最後にフェルトの笑顔に向き直ると、

「僕も、フェルト様の笑顔に貢献できるように努力しましょう」


    2


 少ない荷物を部屋に運び入れ、フェルトの引っ越し作業は一瞬でおしまいだ。

 元々、貧民街育ちのフェルトに財産らしい財産などない。使っていた家財道具の大半は王都で手放したし、持ってきたのはロム爺がフェルトのために作ってくれた衣類や、愛用品である自衛用のナイフ。

 ──それと、フェルトがコツコツ稼いだ貯蓄が少々だ。

 それ以外では、王都の屋敷からばあやに持たされたドレスなどの着替えぐらいだろう。

「どれも着たくねーけど、ラインハルトが選んだヤツよりはマシだかんな……」

 ひらひらした衣装とも二ヶ月余り付き合ったが、貴族屋敷での身の丈に合わない生活以上に慣れる気配がない。かといって、こういった服飾を敬遠してばかりもいられない。そのぐらいの立場の自覚はフェルトにもあった。

 この立場を選んだのは自分であると、そんな覚悟も。

 なので、恥と意地の妥協案として、せめて婆やの選んでくれたドレスを着る。ここで服までラインハルトに選ばせては、むずがゆさで憤死しても不思議はないのだ。

「って言っても、屋敷の中ぐれーは好きな格好させてもらうけどな」

 そんなわけで、さっそく着ていたドレスを頭から脱いで、ベッドの上に放り投げる。下着姿の上から着直すのは、王都でお約束だった貧民街の一張羅だ。

 手袋をはめ、足下にきっちりブーツを履けば、飛んで跳ねても問題はなし。

 そうして、フェルトが「おし」と靴の調子を確かめたところだった。

「──フェルト様、よろしいですか?」

「嫌だ」

「わかりました。失礼します」

 扉がノックされ、声がかけられた。声ですぐ相手がわかったので拒否したのだが、相手はそれに構わず部屋の中に入り込んでくる。

 その猛烈に強硬な態度を受け、フェルトは唇を思い切りじ曲げた。

「お前、ノックした意味ねーじゃねーか。アタシが着替えてたらどーすんだよ」

「扉越しに中で飛び跳ねていらした気配を感じたもので……フェルト様、着替えると聞いてもしやとは思いましたが、その格好は」

「待て、説教なら聞かねーぞ! 屋敷の中ぐれーは好きな格好させろ! その代わり、ドレス着なきゃなんねー場所じゃ着てやる。それがセッチューアンだ!」

「交換条件というわけですね。……わかりました」

 指を突き付けたフェルトの宣言に、ラインハルトは一瞬考え込んで承諾した。思ったより素直な返答に腕を組み、フェルトは「それでいーんだよ」と胸を張った。

「で、何の用事だよ。アタシは昼寝してーんだけど」

「いえ、よろしければ屋敷や領内のご案内をしようかと。ですが、ここまでの道程でお疲れなのもわかっていますから、休まれるのでしたらそれでも構いません」

「んだよ、気持ちわりーな。やけに物わかりがいいじゃねーか」

「フェルト様が譲歩してくださったので、僕もそれに応えたいと思っただけですよ。夕食の時間にはお呼びに上がりますので、それまでお休みになってください」

「ふーん」

 あっさり引き下がるラインハルトに、フェルトは思案げに片目を閉じた。

 本当は昼寝ではなく、こっそりと屋敷を抜け出し、周囲の散策をするつもりだったのだ。ラインハルトの提案は、彼が付属する以外ではフェルトの思惑に即している。

 それによく見れば、ラインハルトも服を着替え、騎士らしさを思わせる堅苦しいものから脱却していた。白い上着と黒いズボン、普通の若者と言って差し支えない衣装だ。

 もちろん、それで隠せるほどラインハルト当人の輝きは鈍くはないが、その服選びには彼なりにフェルトに配慮した気遣いがうかがえた。

 配慮、つまりは譲歩だ。フェルトが譲り、彼も譲った。ならば──、

「……気が変わった。いいぜ、ラインハルト。領内の案内だっけか? しろよ」

「よろしいんですか?」

「アタシの気分がもっかいひねくれる前に、だ。竜車から見てた景色も気になってたし、別に都合のわりー話でもねーかんな」

 首をひねり、フェルトはラインハルトの胸を軽く小突いて扉へ向かった。フェルトの心変わりにラインハルトは自分の胸をで、「わかりました」と一礼する。

「それでは、フェルト様にご満足していただけるよう努力します」

「そのかゆくなる言い方で気が変わる。早くいこーぜ」

 フェルトの言葉に「はい」と短く応じて、ラインハルトが隣に並んだ。

 こうして横に並んでみると、近衛このえ騎士の制服を脱いだラインハルトは普通の青年だ。着こなしだけで十分、人間の見栄えは服の値段以外で変化する。

 今の彼の服装は、着慣れた服に着替えたフェルトと並んでも違和感なく──、

「……って、オイ。お前、それってアタシの部屋にくる前からアタシがこのカッコしてるって知ってたってことじゃねーか。のぞきか?」

「誤解です。あくまで推測しただけで……フェルト様は移動中、竜車で何度もドレスを脱ぎたがっていらしたので、そうではないかなと」

 苦笑したラインハルトの答えに、フェルトは不満げに唇をとがらせた。それは、彼の思惑通りにてのひらで転がされたみたいで面白くない。

「そーだ。言っとくけど、出かけんのはロムじいとあの三人も誘うぞ! 二人っきりでいくなんて言ってねーからな!」

「はい。僕一人より、その方がフェルト様をお守りしやすいですからね」

 そんなそつのない答えもまた、フェルトの機嫌を逆撫でする一つの要因なのだった。


    3


 ──アストレア家の領地は、王国全土に知れ渡った『剣聖』の家名の知名度と比較すると、そのあまりのささやかさを驚かれるほどだった。

 アストレア領は極々小さな所領でしかなく、アストレア本邸を中心とした『ハクチュリ』という名前の町がぽつんとあるだけだ。そのハクチュリも町としての規模は大きいとは言えず、主な産業は農作と畜産、それと地域の特色である地竜産業などである。

「ハイクララ高原を挟んで、五大都市の一つである『フランダース』があります。フランダースとは地竜発祥の地と言われていて、昔から地竜産業の盛んな都市です。ハクチュリもその恩恵にあずかり、くらや手綱、竜具を作る職人が多いですね」

「それが前に言ってた話か。地竜に乗れんだっけ? それはちっと楽しみだけど」

「機会は作りますよ。良い地竜を贈らせてください」

「うーい」

 気のない返事をしながら、フェルトは心なしか足を弾ませて街道を行く。内心を隠し切れないあるじの様子に、ラインハルトも薄く唇を綻ばせていた。

 現在、二人はラインハルトの案内でアストレア領内を見学する真っ最中だ。

 生まれも育ちも王都のフェルトにとって、大げさに言えば初めての外の世界──目に留まるもの全てが新鮮で、目新しく感じるのは無理からぬことだろう。

 それだけに、ただあれこれ見回るだけで、十分以上に散策を満喫できる。

「オイ、ラインハルト。アレなんだ? どーなってんだ?」

 と、好奇心の赴くままにフェルトが指差して質問すれば、

「あれは黒羊ですね。食肉用ではなく、毛を刈るための家畜です」

 そんな風にラインハルトがよどみなく答えを返す。それだけでなく、ラインハルトは主人のひとみがその説明に満足していないのを見ると補足する。

「刈った毛は綿や糸になるので需要も多く、放牧に適したこの辺りでは黒羊を扱う農家が大半ですね。フェルト様の服にも使われているはずですよ」

「へー、すげーな。でも、放し飼いにしててられねーの?」

「王都と違って、この規模の町では顔見知りばかりですからね。盗まれる心配より、放牧中に魔獣に襲われる心配の方が高いくらいですよ。それも、野生の地竜が追い払ってくれたりするので、ほとんど被害はないようなものです」

「──? 野生なのに、家畜守ってくれんのか?」

「地竜は人に親しい生き物です。人の営みにも寄り添ってくれるほどに」

 ラインハルトの答えに感心して、フェルトは牧場の様子に目を細めた。

 柵に囲われた草原で、地面の草をむモコモコした黒い毛皮に覆われた動物が黒羊だ。ラインハルトの話では、あれぐらいになるとちょうど毛刈りの時期らしい。

 他の家畜や農具、牧場や街のあれやこれやに対するフェルトの疑問は尽きない。実際、現状でラインハルトの案内に不満らしいものは特に浮かばなかった。

 強いて言えば──、

「──これで、お前と二人っきりじゃなけりゃもっとよかったんだけどな」

「面と向かってそう言われると、さすがに僕も傷付きますよ、フェルト様」

 歯にきぬを着せぬ物言いに、ラインハルトが困りまゆで苦笑した。

 フェルトが愚痴をこぼした通り、ハクチュリの町並みを歩いて回るのはフェルトとラインハルトの二人きり──ロムじいや、三人組の同行はない。

 無論、出発前に念押ししたように、フェルトはちゃんと他の面子メンツにも声をかけた。だが全員が引っ越し作業に追われており、付き合っていられないとのことで。

「つっても、それで出掛けるのやめんのも逃げたみてーでしやくだしよー」

「フェルト様がお嫌でしたら、僕は無理強いするつもりまでは……」

「アタシの、気分の、問題なんだよ。そこにお前の入ってくる余地はねーの。アタシの中の勝手な勝ち負けだ。それに、今んとこはフツーに楽しめてっしな」

 ひらひらと手を振り、フェルトがラインハルトの心配を鼻で笑った。その返答をラインハルトがどう思ったかは不明だが、歩みは止まらない。それが答えだ。

「────」

 頭の後ろで手を組んで歩きながら、フェルトはちらと隣の長身を見上げた。

 説明不要に強いし、質問すれば大抵のことは答えが返ってくる。従者としては、たぶんこれ以上ないほど当たりの部類に違いない。

 それなのに、フェルトは彼に対してむずがゆいもどかしさを常に感じている。この感覚がフェルトに、ラインハルトへの妙なかたくなさを促すのだ。

「フェルト様? どうかされましたか?」

「んや、別に。それより、ここら辺りってのはお前の故郷なんだよな?」

「生まれは王都です。ですが、幼い時分は本家で育ちましたので、ここが僕の故郷というのは間違いありませんね。それが、何か?」

「そのわりに……」

 ラインハルトの受け答えに、フェルトは片目を閉じた。と、そこへ──、

「──あ! ラインハルト様! お帰りになったんですね!」

 高い声が上がり、見れば二人を見つけた町の人間が手を振っていた。竜車でもそうだったように、目立つ容姿のラインハルトは領民にすぐ発見される。彼が手を振り返すと、相手はすっかり恐縮した様子でしきりに頭を下げていた。

「今のはコクランです。先ほどの牧場の跡継ぎですよ。彼の友人が竜具の職人をしていますので、フェルト様の竜具はその人にお願いしようかと」

「さっきもそーだけど、よくすらすらと相手の名前が出てくんな」

「小さい町ですから。それに、当家の領民でもあります。僕にとっては故郷の友人でもある。特別、自慢することではありませんよ」

「友達、ねえ」

 首をひねり、フェルトは先ほど挨拶してきた若者の様子を振り返る。

 向こうから声をかけてきたのだから、好意的なのは間違いない。が、友人扱いはどうなのだろう。ラインハルトとは同年代に見えたが、あちらは家柄や人柄、色んな要因から一線を引いていたようにフェルトには見えたが。

 そんなフェルトの考えに、ラインハルトは寂しげに微笑した。

「立場が立場です。気軽に友人付き合いするのが難しいのは事実ですね。僕は、胸襟を開くのもやぶさかではないんですが」

「王国最強の騎士で、貴族で領主だろ? あっちの気持ちもわかるっつーか……あれ、もしかしてアレか? お前、故郷なのに友達の一人もいねーんじゃねーか?」

「一緒に酒を酌み交わすような友人、という意味ではお恥ずかしい話ですが。騎士団ならまだしも、ここでは肩書きは僕にとってただの重荷です。下ろしたいと思って、下ろせるようなものではありませんしね」

 意図せず意地の悪くなったフェルトの追及に、ラインハルトはまるでこたえていない顔で肩をすくめた。ただ、最後に付け加えた言葉が気にかかった。

「下ろしたいと思ってって、下ろしてーって思ったことあんのかよ?」

「ありません。──これは、僕の背に結ばれた宿命ですから」

 それを恥ずかしげもなく、堂々と言い切るところにあのむず痒さを感じる。だが、フェルトはその感覚に頭を振って、八重歯を見せるように笑った。

「しっかし、お前、友達いねーのか。どーりで、せっかく故郷に帰ってきたってのに、誰が会いにくるわけでもなしってもんだ」

「そう言われると。それに、そのことで機嫌が良くなられるのは趣味が悪いですよ」

「へっへーんだ。何言われても、今のアタシにゃ通用しねーぞ」

 弱味らしい弱味のなかったラインハルト、その弱味をようやくつかんでやったのだ。この調子でしばらくはからかい続けてやろう。

 そんなフェルトのもくに、ラインハルトは「ですが」と言葉を継ぎ、

「フェルト様も、王都を離れる前に別れを告げる友人はいなかったご様子でしたが」

「うぐっ!」

「ロム殿以外に心を寄せる友人がいなかったなら、それはフェルト様も……」

「う、うっせーな! アタシはロムじいがいりゃそれでいいんだよ!」

 顔を赤くし、反撃してきたラインハルトにみつく。痛いところを突かれた。これは完全に痛み分けになる。と、ふいにラインハルトが相好を崩した。

 湖面を映す青いそうぼうに穏やかなものが広がり、フェルトは唇を曲げた。

「んだよ」

「いえ。フェルト様は本当にロム殿を尊敬されているなと。微笑ほほえましくなって」

「家族だかんな。何でもできる『剣聖』様も、頭の上がらねー相手ぐれーいんだろ? 王都でも、ばあちゃんたちにはそんな感じだったじゃねーか」

 別邸を管理する老夫婦は、ラインハルトを『若様』と呼んで可愛かわいがっていた。関係性だけなら主従だろうが、あの二人はラインハルトにとって家族も同然だろう。

 だからこそ、あの二人と接しているときのラインハルトは自然体だった。

「婆やと爺やはもちろん、尊敬という意味なら家族や祖先のことは全員尊敬しています。中でも、特に尊敬しているのは曽祖父でしょうか」

「ソーソフ?」

「祖母の父に当たります。当主としては先々代、ベルトール・アストレアですね」

「それも『剣聖』だったのか?」

 フェルトも加護の仕組みには詳しくないが、『剣聖の加護』だけは代々アストレア家に引き継がれると聞いた。今の『剣聖』であるラインハルトが尊敬する相手なら、当然、その曽祖父とやらも『剣聖』なのだろう。

 だが、そんなフェルトの考えにラインハルトは首を横に振った。

「曽祖父は、『剣聖の加護』は継いでいません。ただ、善良な領主として領民に愛され、人徳と善政で親しまれていたと。剣士としての記録はか全く残っていませんが、同じ剣士である祖父が尊敬した方と聞くので、剣の腕も相当だったはずです」

「へえ。人徳のあった剣士ね。はっ、アタシにゃ想像つかねーや」

 フェルトもナイフを使うが、剣士の剣術とは勝手の違いすぎる我流だ。

 そのフェルトにとっては剣士=ラインハルトであり、彼の性格にあれこれと不満点が多い彼女からすると、人徳のある剣士とやらは想像が難しい。

「でも、コイツが街の連中に嫌われてねーのはそうなんだよな……ひょっとして、アタシが人徳ってヤツを理解できねー野良犬ってだけなんじゃ……」

「フェルト様?」

 考え込むフェルトの顔を、足を止めたラインハルトがのぞき込んでくる。すぐ間近で青と紅の視線が絡み合い、フェルトは唇をとがらせた。そして──、

「近いっつーんだよ」

「はは、失礼しました」

 ラインハルトの顎をてのひらで押しのけ、無理やりどけて前に進む。押しのけられたラインハルトは苦笑し、それから視線を空へ向けた。

 二人の頭上、太陽はすでに大きく西に傾き、徐々に空はあかねいろに染まりつつある。

「フェルト様、そろそろ屋敷へ戻りましょう。夕食の時間になります」

「んん、そーだな。歩き回って腹も減ったし、いい頃合いだ」

「夕食はフラムとグラシスの二人が準備しています。その席で改めて二人の紹介を」

「だな。軽く話したけど、ホントに軽く話しただけだし」

 年齢はフェルトより下に見える双子だが、さすがあの老夫婦の孫娘なだけあり、三馬鹿を容易たやすたたきのめす実力を有していた。あの夫婦の薫陶のたまものだろう。

「二人は屋敷の世話係であるのと、場合によってはフェルト様の護衛も務めます。元々、アストレア家に仕える家系の出なので、腕は確かですよ」

「別にその心配はしちゃいねーよ。アタシが気になるのは料理の腕だな!」

ばあやに仕込まれていますので、そちらも期待していてください」

「っし!」

 ラインハルトの太鼓判に、フェルトが拳を固めて喜んだ。それが、今日一番の笑顔だったことに、ラインハルトが微笑ほほえんだのをフェルトは気付かない。

 ともあれ、帰路につくフェルトは内心、自分でも気付かぬあんを得ていた。

 見知らぬ土地に移され、そこで見知らぬ大勢に囲まれて、これまで知らなかった世界のことを学ばされることになる。そのことへの不安と、なんの負けてなるものかといった気概は強くフェルトの中にもあった。

 その多くの不安の種を、この半日でかなり払拭することができたのだ。

 大きすぎない屋敷、最少人数の使用人、親しみやすい雰囲気の領民、与えられすぎていない範囲の領地、挙げればキリがないが、この辺りでキリとしておく。

 それら目の前の現実が、想像でしかなかった不安を大きく取り除いてくれた。おかげでなんとか、ここでの日々も前向きに受け入れられる気がする。

「それもこれも、テメーの掌の上なんじゃねーかって思うとこえーけどな」

「フェルト様は僕を過大評価しすぎですよ。人の心や行動を意のままにするなんて、そんなことは僕にはできません。ただの偶然です」

「それが本気なの、祈っておくかんな」

 祈る相手など特にいないが、フェルトは舌を出してラインハルトに言い張った。

 何もかも、ラインハルトのてのひらの上。そんな被害妄想的な想像を引きずったまま、二人は街を抜け、坂を上り、アストレア邸へ帰り着く。

 そして──、

「──ホントに、テメーは何にもしてねーんだよな?」

「……これには、僕も困り果てていますよ」

 顔を見合わせ、フェルトの疑念にラインハルトも困惑した顔で応じた。

 そんな二人の正面、屋敷の門前に籠が──赤ん坊の入った籠が、置かれている。


 ──置手紙には短く、『イリアをよろしくお願いします』とだけあった。


    4


「名前はイリア。赤ん坊だ。屋敷の前に捨てられてた」

 テーブルの真ん中に籠を置いて、フェルトは端的に事実を述べた。

 屋敷の食堂、大テーブルの中央ですやすやと眠るのは、金色の髪をした生後数ヶ月の女の赤ん坊だ。仕方なく、門前から屋敷に連れ帰るしかなかった。

「────」

 そのフェルトの説明に、屋敷の関係者たちは気まずげに顔を見合わせる。

 フェルトとラインハルトを含め、ロムじいに三馬鹿、使用人の双子と全員が一堂に会した席だ。ただ、数がそろっていれば最初の衝撃が和らぐわけでは決してない。

 重たい沈黙が横たわる中、最初に桃髪の双子がフェルトとラインハルトを見つめ、

「若様、フェルト様、子どもを作るのが早すぎます」「生むのも最速」

「ア・タ・シ・は! クソつまんねー冗談に付き合ってやれる気分じゃねーんだよ!」

 冗談ではない双子の冗談に、フェルトはテーブルに手をついて声を荒らげた。赤ん坊を連れ帰った二人をしての発言だが、笑い話にもならない。

 しかし、そんなフェルトの勢い任せの行動は、赤ん坊には衝撃的すぎた。

「ぁう……」

「あ、起きましたよ、フェルト様」「覚醒のとき」

「げ」

 ゆっくりと、赤ん坊のまぶたが開くと、青いそうぼうに食堂の顔ぶれが映り込む。そして、一秒が経過、二秒が経過、三秒が経過したところで──、

「ぅ、ぁぁぁぁん──っ!」

「ぎゃー! しまった、泣きやがった!」

 フェルトの怒声の衝撃に、赤ん坊──イリアが盛大に泣き始める。その声量は屋敷中に響き渡る大音量で、思わずフェルトは自分の耳を塞いだ。

「だ、誰か! 誰か、ぐずってんの何とかしろ!」

「何とかと、そう言われましても」「未経験、お手上げ」

「役に立たねー! おい、ラインハルト!」

「努力はしてみますが……」

 フラムとグラシスが即座に白旗を上げ、フェルトはそもそもやる気がない。女子全員が戦闘放棄し、代わりに指名されたラインハルトが赤ん坊を抱き上げた。

 それから彼は優しく赤子の体を揺すり、ぽんぽんとその背中をでる。

「よしよし、泣かないで。君は強い子だ。素敵な子だ、イリア」

「口説いてんじゃねーんだぞ! なんか食わせたりとか、そういうんじゃ……」

 柔らかく語りかけるラインハルトに、フェルトがらちが明かないと声を上げる。が、ラインハルトの腕の中、徐々に泣き声は小さくなり──、

「落ち着いて落ち着いて……落ち着いて、くれましたね」

「お、お前、スゲーな。今、盗品蔵ぶっ飛ばしたときの次ぐれーに驚いた」

「ぁー」

 フェルトが目を丸くすると、あん微笑ほほえむラインハルトの顔を泣きやんだイリアがぺたぺたと手で触っている。おそろいの目の色が気に入ったのかもしれない。

「もしくは女の子じゃからな。色男を見て、満足したのかもしれんぞ」

「それが理由だったら赤ん坊ヤベーな」

 イリアをあやすラインハルトの姿に、ロムじいが腕を組んで納得する。しかし、そのつぶやきに「待った」と反応したのは、三馬鹿の一人、カンバリーだ。

 小柄なカンバリーは前に進み出ると、ラインハルトに両腕を突き出した。

「貸してみな。オイラは兄弟が多かったかんな。赤ん坊の世話には慣れてんだぜ!」

「それは頼りになる。けど、イリアはすでに泣きやんだあとだよ」

「いいから! オイラが、本物の赤ん坊あやしってヤツを見せてやんよ!」

 そこまで言うなら、と自信満々なカンバリーにラインハルトがイリアを手渡した。カンバリーはイリアの顔をのぞき込み、その丸い目を大きく見開くと、

「べろべろべろべろばー」

「ぁぁぁぁぁ──っ!!」

「何が本物だ、大泣きしちゃったじゃねーか!」

 強烈な変顔を披露したカンバリーがイリアのご機嫌を損ねた。

 泣きわめく赤ん坊に、カンバリーは己のあやし術の粋をたたき込むが、イリアの崩壊した機嫌を立て直せない。交渉は決裂し、完全に赤子力に屈する形だ。

「クソ! オイラの何がいけないってんだ! ガストン!」

「お、おおう? いや、渡されても……べ、べろべろばー」

「ぁぁぁぁぁーっ!!」

 カンバリーが投げ出し、次の手番を回されたガストンが挑むもやはり敗退。顔を赤くして泣くイリアを、ガストンは流れるように次のラチンスへ。

「ラチンス、お前が頼りだ!」

「うぉい! 待てっつの! お、オレにガキなんかあやせるわけ……お?」

「────」

 ガストンにイリアを託され、情けない顔で情けなくぼやくラチンス。しかし、その彼の腕の中で、イリアの泣き声がふいにやんだ。

 赤ん坊の予想外の反応、それにラチンスは「へ、へへ」と笑い、

「な、なんだかわかんねえが、泣きやんだぞ。これで……」

「ぁぁぁぁぁ──っ!!」

「って、ぬか喜びさせんな! 時間差かよ!」

「いや、たぶん判定に悩んだんじゃろう。悩んだ結果、やはりなしになったんじゃ」

「うるせえな、ジジイ! だったらテメエが何とかしろ、クロムウェル!」

 赤子心を解説したロムじいに、ギリギリ失格判定扱いされたラチンスが憤慨する。その大きなてのひらにイリアを押し付けられ、ロム爺はその顔をしわくちゃにすると、

「おー、よしよし、よしよし、泣くんじゃないぞー」

「けっ、何してやがんだ。それで泣きやむならオレたちが……」

「ぁー」

「なんでだよ──ッ!」

 三馬鹿はことごとく失格したが、ロム爺はイリア的にはありらしい。結局、泣く赤子の判定をくぐったのはラインハルトとロム爺の二人だけ、というわけだ。

「女の子ですし、若様を選ぶのはわかりますけど……」「ロム様は謎」

「謎なことあるかよ! ロム爺を選ぶってのはいい趣味してるぜ。ラインハルトのヤローと一緒にされんのは腹立つけどな!」

 役立たずだったわりに上から総評する女性陣に、三馬鹿ががっくり項垂うなだれる。それを横目にイリアをあやすロム爺は、「それにしても」と首をひねり、

「名前以外は手掛かりなし、か。籠には他に何も入っとらんかったのか?」

「敷き布と、おくるみの毛布だけですね。手紙には署名もありませんでした」

「自分のガキ捨ててくような親だぜ。署名なんかすっかよ、馬鹿馬鹿しい」

 籠の中をあらため、目を伏せたラインハルトにフェルトが舌打ちする。その反応に困った様子のラインハルトへ、フェルトはわかってないと指を突き付けた。

「いいか? このガキは親に捨てられたんだよ。大方、この屋敷にテメーが帰ってきたのを見て、でけー家なら育ててくれっとでも思ったんだろーよ。胸くそわりー」

「────」

「……近くの町、そこの人間が親の可能性はどうじゃ?」

 辛辣なフェルトに代わり、ロムじいがラインハルトに建設的な疑問を投げかける。その問いにラインハルトはしばし考え、やはり首を横に振った。

「思いつく範囲では難しいですね。町中に妊娠していた女性は何人かいましたが……」

 言葉を切り、ラインハルトはイリアの姿に目を細める。白い産着にくるまれ、ロム爺の腕の毛をいじくる赤ん坊は、生まれて間もないことは明らかで。

「この分だと、イリアは生まれて数ヶ月……その頃に出産した女性となると、候補はぐっと減ります。それに、この容姿の問題も……」

「金髪で、濃い青の目だろ? 別に金髪なんか珍しくもねーぞ。アタシもそうだし」

 自分の髪に指を通し、フェルトがラインハルトの懸念に口を挟む。

 フェルトの知る限り、金髪はルグニカ王都では珍しくもない髪色だ。仕事柄──元仕事柄、人を観察するのは癖のようなものだった。金髪も青い目も、よくあるものだ。

「確かに、フェルト様のように金色の髪をした方は珍しくありません。ただ、あくまでそれは王都近郊の話になります。ハクチュリや、フランダースといった王国南東の地域で一般的なのは茶髪……先ほど会った人たちもそうではありませんでしたか?」

「……言われてみりゃ、そーだったな」

 ラインハルトの注釈に、フェルトは記憶に新しい町の住民の容姿を思い浮かべた。彼の言う通り、出会った相手はみんなが茶髪、年配者に白髪がいたぐらいだ。

「けど、それがどーしたってんだよ」

「つまり、この若造はこう言いたいわけじゃ。この子の髪と目の色は王都由来……この辺りで生まれたにしては、いわくありげな特徴じゃと」

「ロム殿の言う通りです。僕の、ゆうなら良いのですが……」

 思わしげにこぼしたラインハルト、彼の推測にフェルトは腕を組む。首をひねり、軽くうなり、それから「あーっ」と頭をむしった。

「ごちゃごちゃうっせーな! 結局、何が言いてーんだよ!」

「イリアのことは、単に捨て子を拾っただけの問題に収まらない可能性が。そこで、フェルト様にお尋ねします」

「あんだ」

「フェルト様はイリアを連れ帰って、どうされたいんですか?」

 ラインハルトの静かな問いかけに、フェルトは軽く息を詰めた。息を詰めたまま、視線はロム爺の腕に抱かれるイリアへ向く。赤ん坊は変わらず、ロム爺の腕毛に夢中だ。周りの人間が、自分のために話し合っているなどと気付きもしない。

 親に捨てられ、屋敷に置き去りにされて、自分の今後を決める力もなくて──、

「──フェルト様、ご決断を」

 考え込むフェルトに、ラインハルトが決断を促してくる。

 ここでラインハルトがフェルトに判断を仰ぐのは、彼なりの尊重の表れか。もしくはこの状況にかこつけ、フェルトを試しているのかもしれない。

 フェルトがロムじいや自分に頼らず、自身で答えを選び取ることができるのかを。

「だとしたら、腹立つヤローだな」

「は?」

「何でもねーよ。それで、このガキをどうしてーか、だったよな」

 ラインハルトの思惑はどうあれ、フェルトの腹は決まっている。ほおゆがめ、フェルトは悪童めいた笑みを浮かべると、イリアを指差した。

「アタシは、このガキについちゃ別に何にも思わねーよ。ただ、ガキを置き去りにしてった親にはムカついてる。だから、見つけ出して、お話してやりてーな」

「お話、ですか?」

「そうだ、お話だ。アタシも、ガキを捨てる親の気持ちはいっぺん聞いてみてーと思ってたんだよ。なんで、話してみてーな」

 言い切り、フェルトは頬を盛大に歪めた。

 話してみたい。子を捨てた親に、どんな気分なのかと。そのためにも──、

「このガキは、親ビビらせるために手元に大事に置いとかねーとな!」

「────」

 胸を張ったフェルトに、ラインハルトは押し黙った。彼以外、周りにいた面々も言葉を発さない。ただ、全員の顔つきはともかく、目は大体共通している。

 有体に言って、生温かいものを見るひとみだ。

「なんつー目ぇしてんだよ、テメーら! アタシになんか文句でもあんのか!?」

わしの責任じゃが、素直でないのも考え物じゃな……」

「うるせーな!? アタシは本気だっつの! 妙な言いがかりつけんな!」

 ロム爺のふやけた顔に、フェルトがうがーっとみつく。しかし、そんなフェルトの勢いは、またしても赤子には過酷すぎて──、

「ぁぁぁぁぁ──っ!!」

「あー、チキショー!」

 と、ゆうの前の食堂から、再び屋敷中に赤ん坊の泣き声が響き渡った。


    5


 泣き疲れたイリアが眠ったのは夜も更け、深夜に差しかかる頃だった。

「が、ガキってすげーな……。こんなちっこい体のどこにこんな体力があんだよ……」

「お体の小ささの話でしたら……」「おまいう」

 ぐったりと、疲れ果てた顔でフェルトがソファに横たわってぼやく。そのぼやきに双子が声を合わせると、フェルトは二人の方をにらみつけて、

「うるせーな。アタシよりちっこいお前らに言われたくねーよ。お前らいくつだ」

「今年で十二になります」「独り立ちの時期」

「二人でいんだから独り立ちはしてねーだろ。それにしても……」

 胸を張っていた双子がフェルトの言葉に「言われてみれば……」「盲点」と驚いている。それを無視し、フェルトは視線を部屋の奥へ向けた。

 談話室のテーブル、その上に籠が置かれ、隣には作業するラインハルトの姿がある。その彼が何をしているのかというと──、

「お前、赤ん坊のオシメまで替えられんのか。何でもできんな」

「何でも、は買いかぶりですよ。オシメのことは昔、知人の赤ん坊の世話をさせてもらったことがありますから。その経験です」

「へー、お前が赤ん坊の世話ねえ」

 意外な印象を受けたフェルトが横になったままほおづえをつく。と、その視界の端で双子がほんのり頬を染めてもじもじしているのが見えた。

 その反応にげんな顔をして、フェルトは双子とラインハルトを交互に眺めながら、

「──あ! さては、その知人の赤ん坊ってお前らか!」

「フェルト様、そんな恥ずかしいことを……」「恥辱の極み」

 頬を赤らめたまま、双子はフェルトの意見をもじもじと肯定する。その態度に確信を得ると、ラインハルトが「バレましたか」と苦笑した。

「ええ、そうです。フラムとグラシスとは、二人が赤ん坊の頃からの付き合いで……」

「テメー、赤ん坊にまで手ぇ付けてやがったのか……!」

「待ってください。さすがに、それは僕にも弁明の機会をください」

「はっ、冗談だよ。テメーがアタシを監禁してたことと、こっちの二人が赤ん坊の頃にオシメ替えてたこととは別だ。今、別の赤ん坊のオシメ替えてることともな」

 突き付けていた指を下ろし、フェルトはその指の先端に息を吹いてそう言った。その言葉に「ホッとしました」と答え、ラインハルトは手を引くと、

「これで、無事に取り替えはできました。フラム、グラシス、覚えたかい?」

「はい、若様。完璧です」「オシメの達人……」

「頼りになるよ。それじゃ、毛布と敷布を取り換えよう。ただ、使い慣れたものでないとぐずるかもしれないから、ひとまず、元の毛布も一緒にしてあげるんだ」

 テキパキとしたラインハルトの指示に、フラムとグラシスは一礼して談話室を抜け出した。部屋には他の面子メンツはいないため、この場に残されたのはフェルトとラインハルトの二人だけ──眠るイリアも加えれば三人か。

「男連中……ロムじいは別だけど、アイツらは役に立たねーからよ」

「イリアの世話は無理でも、親探しの力にはなってくれるはずです。明日はあの三人にも足を使って手伝ってもらおうかと」

 籠に手を添えたラインハルトが、フェルトの評価に三馬鹿を擁護する。独り言のつもりだったフェルトは顔をしかめ、「明日か」とその話題に乗っかった。

「それで大丈夫かよ? 捨て親だぜ。早々に逃げちまうかもしんねーぜ?」

「町の人間と、竜車の停留所には話をしてあります。旅装の人間や、イリアと特徴が似通ったものを見かければ呼び止め、報告するようにと。それと、町の妊婦の方も確認しておきました。残念というべきか、イリアの母親らしき人はいません」

「……お前がそんだけ働いちまって、あの三人がやることあんのか?」

 疑惑のまなしになり、フェルトはラインハルトの働きぶりに軽く困惑する。

 そもそも、夕食後のイリアの世話をしていたのも主にラインハルトだ。その彼に、今の発言内容通りの活動をする時間がどこにあったのか。

「もし、気が引けるようでしたら、フェルト様もオシメを取り替えてみますか?」

「あー、気が向いたら。やり方は適当に覚えたし」

「それはよかった」

 うなずくラインハルト、その白々しさにフェルトは唇をとがらせる。

 フラムとグラシスに教えるふりをして、ラインハルトはフェルトにもオシメ取り替えの手元が見えるように作業していた。フェルトも、さすがにラインハルトに押し付けっ放しは気がとがめると、最初から教わるつもりではいたが。

「アタシが言い出せるはずねーってのもお見通しか。クソ、腹立つ」

「どうかされましたか?」

「何でもねーよ。……いや、何でもなくねー。実際のとこ、お前はどう思ってんだ?」

「フェルト様?」

 ほおづえをつくフェルトの言葉に、ラインハルトがまゆを上げた。フェルトはソファに寝そべるだらしない姿勢のまま、空いた手で自分の頭をくと、

「赤ん坊拾ったのも、親探すっつったのも、世話させてんのもアタシの勝手だ。お前はアタシに選ばせた。けど、お前はどう思ってんのかってよ」

「────」

「言っとくが、お前の考えにアタシの意見は入れんなよ。アタシはアタシだ。テメーはテメーだ。そこは分けろ。じゃねーと、気持ちわりーから」

 足を振り上げ、下ろして勢いをつける。ソファで上体を起こし、フェルトは正しい姿勢でラインハルトに向き直った。その視線の先で、ラインハルトは片目をつむる。

 それから、彼はフェルトを見ながら、イリアをそっと手で示して、

「僕は仮に、フェルト様が赤ん坊を捨て置けと言っていたとしても、それに従っていたと思います。この場合、真に正しい答えはありませんから」

「そりゃ、お前の意見じゃなくて……」

「そして、フェルト様に隠して、こっそりとイリアの親を探したり、屋敷のどこかにかくまっていたと思いますよ」

「ああん?」

 両手を広げ、ラインハルトが柔らかく微笑する。その笑みにぜんとなって、フェルトは自分が彼に担がれたのだと気付いた。

 瞬間、フェルトは込み上げてくる怒りに顔を真っ赤にして、

「おま……」

「フェルト様、イリアが」

「ぐ……っ! お前、調子に、乗んな、よ」

 怒鳴り声を上げかけ、二度の反省からフェルトは寸前でそれをこらえる。ただ、怒りはそのままにラインハルトをにらみ、文節で区切りながら激発を伝えた。

 結局、ラインハルトの思惑通りの流れだ。フェルトがどうあろうと、ラインハルトは赤ん坊のために尽力した。それが、彼自身の願いかは別として。

「テメーがそれをすんのは、その方が赤ん坊のためだからとかってやつか」

「確かに、助けを必要とする人を助けるのは僕の本懐でもありますが、この場合、赤ん坊に手を貸すのに難しい理屈は必要ないのではありませんか?」

「────」

「それに、個人的なことを言わせていただければ……」

 その、個人的という響きにフェルトのまゆが上がった。

 ラインハルトが、個人的な意見などと前置きすることはめつにないことだ。そしてそれこそが、この場でフェルトがラインハルトに求めていた返答でもある。

 そんなフェルトの期待に、ラインハルトは薄く微笑ほほえむと、

「フェルト様と意見が一致したのは、騎士としてのほまれだなと」

「──んなっ」

「王選の場で、フェルト様に命じていただいた瞬間を思い出しました。僕も、やはり可能ならあるじの意向には沿いたいものですから」

 真っ向から恥ずかしげもなく言われ、フェルトは口をパクパクとさせた。フェルトの反応を前に、ラインハルトは普段通りの態度で肩をすくめる。

 してやったりでもなく、適当に話を合わせたわけでもない。まぎれもなく彼の本音なのだろうが、それが本音なあたりがフェルトの激震の原因だった。

 だからフェルトは、その激震のままにくわっと歯をいて──、

「──テメー、ホントにそういうとこ気持ちわりーんだよ!!」

 フェルトの盛大な怒鳴り声が、アストレア邸の屋敷中に響き渡る。

 そして、その一拍後に。

「ぁぁぁぁん──!!」

 と、反省を忘れた報いに、屋敷を揺るがす大泣き声が夜を塗り潰していった。


    6


 ──アストレア邸が激震に揺れる深夜、同時刻。


「──女と、赤ん坊は見つかったか?」

 低い声が、照明の乏しい一室を重苦しく通り抜けた。

 年齢を感じさせる声色は、しかししゃがれてこそいるが力強い。それは長年、人の上に立つことを続けたものにだけ宿る、かんろくと呼ばれる部類の力だ。

 必然、声の主には下につく人間がいる。そのことを証明するように、男の問いかけに複数の息遣いが部屋の空気を揺らした。

「申し訳ありません。いまだ、行方を追っている最中です。すでに、この街にいないことは間違いないようで……」

「探せ。行き先に見当はついているのか?」

「頼れる相手はいない。遠くまでいく路銀もないはず。となると、近くからしらみつぶしに当たっていくのが定石ですが」

「時間がかかりすぎるな。絞れ。──ハクチュリからだ」

 部下らしき人物の報告に、声の男は一瞬の判断で指示を下す。それを受け、部屋に動揺の気配が広がるが、報告を上げた部下は静かに腰を折り、

「了解です。すぐに人を送ります。少々、手荒くなるかもしれませんが……」

「構わん。優先すべきは確保だ。女の方が戻らなかったとしても、赤子は連れ帰れ」

「では、そのように。──いくぞ」

 恭しく応じ、それだけ言い残して部下は他の人間と共に退室していく。部屋の扉が静かに閉まると、薄暗い部屋に残ったのは男が一人だけ。

 男は椅子をきしませて立ち上がり、背後にあった窓に歩み寄ると、外を眺めた。

「──どこにいったやら」

 窓の外に広がる光景、そこには夜の都市──五大都市の一つ『フランダース』、その市街地が見える。男の部屋は、その街を一望する高みにある豪邸だった。

 その最上階の一室で、男は机の引き出しから葉巻を取り出し、火を付けた。わずかな火のあかりに、しわの深い男のかおかたちあらわになる。

 すでに色せつつある、金色の髪。そして、暴力的な気配に満ちた青のひとみ

「必ず見つけ出すぞ、イリア」

 そんな男の漏らした声が、フランダースの黒い星空へまれ、消えた。


    7


 ここ数日、ハクチュリの町で日課となっていることがある。

 それは町の高台に位置する領主の屋敷、アストレア本邸から届く赤ん坊の泣き声と、男女の激しい言い争いを耳にすることだ。

「ぁぁぁぁん──っ!」

 力一杯、全身を使って泣き叫ぶ赤ん坊の声に、町の人々は作業の手を止める。そして互いに顔を見合わせ、「また始まった」と笑って仕事に戻るのだ。

 それがここ数日の、ハクチュリの町の日常の一部であった。


「──フェルト様、あまりこうしたことを何度も言いたくはありませんが、今一度、しっかりと話を聞いてください」

 堅苦しい前置きをして、ラインハルトが真剣な顔で切り出した。

 普段から温厚な彼には珍しく、その声には強い力が入っている。それはラインハルトが感情的になっているからではなく、そうしないと声が届かないからだ。

 なにせ今、屋敷中に響き渡る勢いで赤ん坊が泣き続けているのだから。

「ぁぁぁぁん──っ!」

 泣きわめく赤ん坊、イリアは全力で人生への不平不満を訴えている。

 屋敷で預かると決めて数日、フェルトたちは手を尽くしてイリアの世話をしているのだが、イリアは自分が赤ん坊であることを盾に歩み寄る姿勢が全く見られない。

 もちろん、赤ん坊相手にそこまで大人げないことを言いたくはないが──、

「いくら何でも泣きすぎだろ! 一日中、ずーっと泣いてんじゃねーか!」

「一日中は言いすぎです。実際の頻度は数時間置きですよ。ただ、赤ん坊には朝と夜の区別がないので、そう感じやすいだけです」

「そんな細けーことアタシが気にしてる風に聞こえたか? そんなこと言ってる暇があんなら、とっととその面見せて泣きやませろよ」

 両耳を塞ぎながら、フェルトが投げやりにラインハルトに命令する。しかし、その命令にラインハルトは「いいえ」と首を横に振った。

「今、僕が泣きやませるのはその場しのぎでしかありません。根本的な解決がなされなければ、イリアは何度も泣き濡れることでしょう。僕にはそれは耐えられない」

「悲劇ぶってんじゃねーよ。根本的な解決って何の話だ!」

「それはもちろん、フェルト様にあります。今、イリアが泣いている理由ですよ」

「アタシ? アタシのせいってか? アタシに何の問題が……」

「見てください」

 心外だといらつフェルトに、ラインハルトは寝台に寝そべるイリアを指差した。

「イリアのオシメです。替えたのはフェルト様のはずですが……これではあまりに穿かせ方が雑ではありませんか。イリアがむずがゆくなって当然ですよ」

「別にいーだろ、オシメなんざ尻が隠れてて、漏らしたもんが外に出なけりゃよー」

 唇を曲げて、フェルトはラインハルトの言い草に反論する。確かにイリアのオシメと呼ぶべき布はかなり適当に巻かれているし、巻いたのがフェルトなのも事実だ。

 だが、それを言い出せば、そもそもオシメを替えさせられている状況がおかしい。

「フェルト様……もっと、イリアの気持ちに寄り添ってください。でなければ、王座を目指す道のりは遠のくばかりとなってしまいます」

「テキトーなこと言ってんじゃねーよ! 王様とオシメが関係あるか!? テメー、アタシにオシメ替えられるガキの気持ちになれってのか! 変態ヤローが!」

 ラインハルトの言い分を極論にすり替え、フェルトは自分の頭をむしった。

「大体、なんでアタシが面倒見なきゃなんねーんだよ! あの双子は! 三馬鹿連中はどこいった! 何してやがる!」

「フラムとグラシスには屋敷の雑務があります。ラチンスたちには、イリアの親探しに足を使ってもらっている最中で、ロム殿のことはフェルト様がご存知でしょう」

「むぐぐ……」

 ラインハルトにやり込められ、フェルトはぐうの音も出ない。その間、ラインハルトはイリアに「大丈夫かい? 今、心地良くさせてあげるからね」などと言いつつ、適当なオシメを優しく穿き直させてやっていた。

 ラインハルトの言葉はしやくだが、今、ロムじいはこのアストレア邸を離れている。なんでも王都の外にいる知人に会いにいくとかで、せわしなく単独行動中だ。

 結果、ロム爺がいない上に赤ん坊の世話と、フェルトの精神は消耗する一方だった。

「なので、今、手が空いているのは僕とフェルト様だけなんですよ」

「それなら、三馬鹿の代わりにテメーが親探しにいけば……」

「あの三人にはイリアの世話は難しいですし、そうするとフェルト様がお一人でイリアの相手をすることになりますが、よろしいのですか?」

「アタシが何をした……!」

 頭を抱えて、フェルトはオシメを替えて上機嫌のイリアの様子に嘆息する。

 イリアがアストレア邸へきて五日目、赤ん坊の暴君ぶりは悪化の一途を辿たどっている。周囲をこれだけ振り回していても、当人は天使のような笑顔を振りまいていれば許されるのだから気楽なものだ。自分を王様とでも勘違いしてやいまいか。

「とっとと親を見つけねーと、見つかった親に何しでかすか、アタシはアタシが信じられなくなってきてんぞ」

「そんなときは、このイリアの顔を見てください。な姿に心が洗われて、自然と気持ちが楽になってはいきませんか?」

「今まさに、アタシを追い詰めてる原因がこの笑顔なんだよ」

 ラインハルトには何でも反射的に言い返したくなるのだが、今回に限ってはそればかりが原因ではない。まさに朝も夜もなく、命を主張する赤ん坊には勝てない。イリアの親は生活の困窮ではなく、夜泣きが理由で子を捨てたのではと思わされるほどに。

「ったく、だとしたら勘弁してくれよな……」

 夜泣きを理由に赤ん坊を捨てられては、世の中捨て子だらけになる。王様になるならない以前に、自分の暮らす国がそこまで世知辛い状態とは思いたくない。

「あー、いい天気だー」

 イリアをあやすラインハルトを尻目に、フェルトは窓の外の景色をボーっと眺めた。視界には青い空と白い雲、眼下に広がる牧歌的な風景。

 特に心安らぐわけではないが、夜泣きの寝不足もあって「ふわ」と欠伸あくびがこぼれる。

「イリアの隣でお休みになるなら、子守歌を歌いますが」

「ガキ扱いすんな。蹴り飛ばすぞ」

 背中越しに欠伸を感知されて、後頭部に目でもついているのかとフェルトは悪態をつく。窓枠に寄りかかり、金の前髪に風を浴びせて眠気に身を──、

「──ん?」

 そよ風と陽光に目を細めたフェルトは、ふとした違和感にのどを鳴らした。

 高台から見下ろせる風景に、こそこそ人目を忍ぶ人影が見えたのだ。その相手はフェルトが気付いた途端、大慌てでこちらに背中を見せ、走り出した。

「なんだ、あのヤロー!」

「フェルト様!?」

 瞬間、フェルトは窓から外へ飛び降りる。その即断にラインハルトが驚くが、庭に着地するフェルトには一歩届かない。四肢をつき、坂下をにらみつけるフェルトの視界に、遠ざかりつつある男の背中が映る。それを追い、走り出そうと──、

「フェルト様、何かあったならご用命を。それが僕の役割です」

 刹那、すぐ横に現れたラインハルトがフェルトの肩をつかんでいた。一瞬、振り払おうとしたが、フェルトは脊髄反射の拒絶を却下。状況をわきまえ、坂下を指差した。

「妙なヤローが屋敷を眺めてやがった。捕まえてこい!」

「はい! イリアをお願いします」

 命令を受け、ラインハルトが腕の中のイリアをフェルトへ預ける。

 軽くて熱い赤ん坊の体を受け取ると、その直後にラインハルトの姿が風になった。そのまま地を蹴り、ものの一秒で男の背中へ追いつく。男も逃げ足には自信があったらしいが、その逃げ足もフェルト以下、ラインハルトにかなうはずもない。

 なにせ二ヶ月以上、一度としてフェルトが抜けなかった鉄壁人間なのだから。

「おー、決まった決まった」

 イリアの脇の下に手を入れ、その足をぶらつかせながらフェルトはうなずいた。

 視線の先では砂煙が上がり、男が抵抗もできずにラインハルトにねじ伏せられている。早業すぎて何をしたのかもわからないが、そのことに何の感想も湧かない。

 そのままイリアを揺すりながら待っていると、ラインハルトがその相手の首根っこを引きずって悠々と戻ってくる。

「フェルト様、こちらに」

 息も乱さず、ラインハルトは引きずってきた男を地面に転がした。目立たない風貌をした中年男だ。彼は目を白黒させ、ラインハルトを震える目で見つめた。

「う、うわさ以上の化け物かよ、あんた……」

「そう呼ばれることには慣れているけどね。今の僕は、フェルト様の騎士だ」

「それ、言われるたんびに答えるのやめろ。耳がかいーから」

 律儀なラインハルトの回答に舌打ちして、フェルトは震える男に視線を合わせた。引きつった笑みを浮かべる男に、首をかしげてみせる。

「勘違いだったらわりーんだが、じろじろこの屋敷を監視してやがったよな? ありゃ、いったい何のつもりだったんだよ?」

「へ、へへ。そりゃ、『剣聖』が戻ったって聞いて、一目拝もうって好奇心で……」

「ラインハルト、こいつの指とか好きにしていいぞ」

「待て待て待て待て! 怖い怖い怖い、なんだそれ! 何する気だよ!」

 フェルトがラインハルトをちらつかせると、慌てふためく男の顔がそうはくになった。

 もう十分、ラインハルトの恐怖は味わったのだろう。これ以上は御免だと泡を食った男の様子に、ラインハルトは自分のけんんだ。

「フェルト様、今のはまるで僕がとても危険な人物のように思われたのですが……」

「それがフツーの感性ってヤツだ。アタシの気苦労を少しは思い知れ」

 困りまゆのラインハルトに肩をすくめ、フェルトは男に八重歯を見せて笑った。

「ともあれ、テメーの番だ。どこの誰で、何しにきた? さもねーと」

「さ、さもないと……?」

「ラインハルトをけしかける」

 冷酷なフェルトの宣言に、もはやラインハルトも抗弁しない。彼は苦笑し、「それも騎士の務めならば」と酷な命令を受け入れる姿勢だ。

 その連携に脅し以上の何かを感じ取り、男は大慌てで叫んだ。

「わかった! わかりました! 俺は『くろぎん』の人間だ! 上に言われて、赤ん坊を捜してたんだよ!」


    8


「──『黒銀貨』、ね」

 洗いざらい全部吐く、と観念した男の話にフェルトはひたいに手をやった。

 正直、王都育ちのフェルトは王都の外の事情にはそれほど詳しくない。それでも、『黒銀貨』と呼ばれる連中が何者で、何を生業なりわいにした集まりなのかは想像がついた。

「『黒銀貨』は五大都市のフランダースを拠点とした組織です。表向きは都市の酒場だったり、地竜の竜具関係のまとめ役という話ですが……」

「実態は街の裏の顔、黒社会のてっぺんってんだろ。よくある話じゃねーか」

 王都にも、名前は違えど実態は同じような存在はいた。フェルトは関わらないようにしていたが、全くの無縁でいられないのも社会の狭さというやつで。

「ただし、それ以上のことは下っ端も知らされてねーか。『黒銀貨』の誰が、何の目的でイリアを捜してるかってのはわかんねーと。それに……」

「イリアが、どうして当家に置き去りにされたのかも不明ですね」

 結局、イリアが狙われている以上の情報は得られなかったに近い。捕まえた男はきにして倉庫に転がしてあるが、その処遇も問題だ。

 あとは、『くろぎん』の本拠地に直接乗り込み、ラインハルトを盾に全てを聞き出すなんて乱暴な手段もあるが、それもあまりやりたくはなかった。

 ラインハルト頼みになるのがしやくだから、だけではない。それが抜本的な解決につながるとはどうしても思えなかったからだ。

「つっても、このまんまじゃ手詰まりなんだよな……」

 どうしたものか、とフェルトはソファに沈み込むように体重を預ける。そのそばに控えるラインハルトは、寝床ですやすやと眠るイリアに慈しむ目を向けていた。

 停滞を打破するための行動を。と、そんな風にフェルトが考えたいたところだ。

「おらー! オイラたちのお帰りだー! 両手上げてバンザーイって歓迎しろー!」

「……あの馬鹿共」

 屋敷の玄関の方から、調子に乗った甲高い声が二階まで届いた。

 十中八九、親探しを命じたはずの三馬鹿の一人だ。その無駄な勢いにイリアの寝顔がゆがむのが見えて、フェルトは舌打ちして部屋を出た。玄関に向かい、まゆを立てる。

「うるせーな、バカ! イリアが起きんだろーが、静かにしろ!」

「今のお前に言われたくねえし、そんなこと言っていいのかよ? オイラたちに!」

「あぁ? 何言って……」

 怒鳴ったフェルトに胸を張り、いやらしく笑ったのはカンバリーだ。彼は小柄な体を目一杯使い、げんな顔をするフェルトに玄関の方を示す。

 すると、そこへ現れるラチンスとガストンの二人──そして、彼らに連れられてやってくる、灰褐色の髪を長く伸ばした美しい女性だった。

 年齢は二十歳はたちそこそこ、柔和な雰囲気の女性だ。領主の屋敷の雰囲気にされ、恐縮した様子でおどおどと周りを見ている。

 そして、彼女は正面に立つフェルトの視線に気付くと慌てて頭を下げた。

「────」

 その女性の様子に、怪訝にしていたフェルトのけんしわがより深くなる。

 おびえた女性、勝ち誇る三馬鹿、とにかく三馬鹿、こいつらはチンピラである。

「ラインハルト、全員ふん縛れ」

「はっ」

「は、じゃねえよ! もっとちゃんと見ろ! これが、あのガキの親だ!!」

 即断に即応が重なりかけるが、それもラチンスの叫んだ言葉の前に消し飛ばされる。

 今、ラチンスはなんと言ったのか。この女性が、イリアの母親と。

「イリアの母ちゃんって……それが、どーやってわかったんだよ?」

 うれしい発見には違いない。が、ぬか喜びは御免だ。ラチンスたちの早とちりの可能性も高い。そんなフェルトの疑念に、ラチンスは「へっ」とほおをつり上げ、

「鈍いやつは気付かねえが、オレは服見てすぐピンときたね。普通、親がガキ捨てる理由ってのは金だ。だから、捨てられるガキってのは小汚ぇもんだが、そのガキは服も籠もれいなもんだった。変だなって一目でわかったぜ」

「こいつ、地味に生まれと育ちがいいんだよ。俺らと違って」

 ラチンスの講釈に、隣に並ぶガストンが注釈を入れる。その内容にラチンスは「今、関係ねえだろ」とバツの悪い顔をして、すぐせきばらいする。

「で、捨てる理由は金じゃねえし、置いてったのは『剣聖』の家……となりゃ話は簡単だ。命が危ねえんだ。親は、そのためにガキを置き去りにした」

『剣聖』の家に拾われることになれば、追っ手にかかる心配は激減する。実際、『くろぎん』の刺客は退けられた。推測が正しければ、思惑通りの展開になっている。

「そこまでわかったのはすげーけど……その先は?」

「ガキを『剣聖』に拾わせて親はどうする? ガキのためのおとりになって遠くにいく! 竜車の停留所見張らせるって考えは悪くねえが、オイラたちはそのさらに一歩先をいった! 遠乗りの竜車に照準を合わせて、最後の決め手はこいつだ!」

 いちいち大げさな挙動を入れ、最後にカンバリーが両手を正面に突き出した。しかし、フェルトにはその決め手とやらがわからない。首をかしげる。

「よーっく見ろ、よーく! これだよ、これ!」

「これって……んん?」

 カンバリーの主張に歩み寄り、フェルトはようやく気付く。彼の突き出す両手に、何やら細長い糸が握られて──否、糸ではない。それは、人の髪の毛だ。

 灰褐色の、長い髪の毛。それを握り、カンバリーはフェルトに勝ち誇った。

「あのガキの籠に残ってた、別の誰かの髪の毛だ! ガキとは髪の色がちげーし、となるとこれは置いてった親! それも母親の髪の毛ってことに……」

「なんか気持ちわりー見つけ方だな……」

「それがここまでやったオイラたちへのねぎらいか!?」

 フェルトの端的な感想に、カンバリーが手にした髪の毛を千切って目をく。が、フェルトはすぐに「わりーわりー」と笑って手を振った。

「どうあれ、お手柄だ。けど、それだけでもまだ不十分じゃ……」

もの、髪の毛の一致、遠乗りの竜車。そんで、トドメに」

「────」

 フェルトの言葉を遮り、ガストンが指折り並べて、最後に女性を顎でしゃくった。その仕草に改めて女性を見て、フェルトも気付く。

 立ち尽くす女性の首から胸にかけて、服に隠れて包帯が巻かれているのだ。

「娘だけじゃなく、母親も危なかったって話か……おい、双子!」

「お呼びですか」「フェルト様お呼ばれ」

 舌打ちしたフェルトの呼びかけに、文字通り湧くようにフラムとグラシスが現れる。その得体の知れない動きに三馬鹿がギョッとし、女性も目を丸くした。

 しかし、フェルトはそれを当然のように受け入れ、

「あのケガの手当ての準備しとけ。アタシのオシメの穿かせ方じゃねーんだ。あんな不格好な包帯の巻き方、見てられっかよ」

「まあ、フェルト様ったらご自覚が」「おのが罪に焼かれよ」

「うるせーよ」

 双子は口に手を当て、フェルトに軽口を飛ばしてから女性の下へ。そして彼女の手を取ると、恐縮する女性をひとまず応接間へ連れてゆこうとする。

「あー、その前に、だ。アンタ、名前は?」

「────」

「名前だよ、名前。娘にもあんだ。アンタにも名前はあんだろ? それぐらいは……」

 言えよ、と続けかけたフェルトに、女性は自分ののどを指差した。それから、ゆっくりと首を横に振って目を伏せる。──話せないと、仕草で示して。

「傷と、用があるって声かけたら観念したんだよ。最初はオレらのこと、追っ手の方だって勘違いしたみてえだったけどな」

 応接間へ向かった女性が見えなくなり、ラチンスがフェルトにそう話しかける。彼の言葉にフェルトは「そーだろな」とおうよううなずいた。

「どう考えても、『剣聖』の家にいるってヤツの面構えじゃねーし。……でも、見っけてきてくれてありがとーよ。助かった」

「──。へっ!」

 一瞬、フェルトの褒め言葉にラチンスはあつに取られ、すぐに笑みを浮かべる。その様子を後ろでガストンとカンバリーの二人も共有していた。

 そして、この場で最初から最後まで、状況に取り残されていたのは──、

「──で、お前はなんだってそんな間抜けな顔してんだよ、珍しい」

「……正直、驚いていました」

 振り返ったフェルトの問いかけに、ラインハルトが躊躇ためらいがちに答える。

 女性の登場、ラチンスたちの手柄、双子の仕事──いずれも、ラインハルトは無言でそれらを見届けた。その心中、どうやら珍しく驚きが占めていたようで。

「どーだ? 案外やるもんだろ、貧民街のチンピラだってよ」

「────」

「つっても、今度のはアタシも予想外だったんだけどな。ま、たまにはテメーより連中の方が役に立つ場面があるってわけだ。万能でもねーな、『剣聖』」

 頭の後ろで手を組み、フェルトは底意地悪い笑みをラインハルトへ向けた。その笑みにラインハルトは短く息を吐くと、「ですが」と言葉を継いで、

「あの女性が本当にイリアの母親かはわからないのではありませんか? 話ができない以上、彼女からはまだ何も聞けていません。これでは……」

「証拠、証拠ね。それなら楽勝だろ」

 いらぬ心配をするラインハルトに、フェルトは片目をつむって言った。

「イリアに会わせりゃいいんだよ。そーすりゃ一発だ」


    9


「ぁー」

 母の腕の中でご満悦のイリア、その姿にラインハルトも素直に自分の敗北を認めた。

「敗北だなんてとんでもありません。こうして、イリアが無事に母親の胸の中に戻ることができた。望外のことです。僕たち全員の、いえ、イリアの勝利ですよ」

「なんか、その言い草がうるせーな……。とにかく、これではっきりした」

 応接間、中央のソファに腰掛ける女性はイリアの母親だ。

 それは彼女に抱かれたイリアと、そのイリアを見つめる女性の慈しみのまなしが証明している。そこは、疑う余地はないだろう。

「これだけいとおしげに娘を抱く女性が、イリアを捨てたがるはずがない、か」

「あと、美人だしな」「おお、それ大事な」「オイラ、年上も大歓迎だし」

 ラインハルトの納得に、三馬鹿の低俗な判断が重なって価値が下がった気がした。

 その余計な一言を差し込んだ三人が、フラムとグラシスににらまれて小さくなる。それを横目にフェルトは鼻を鳴らし、ラインハルトに目を向けた。

 すると、彼はフェルトの視線に恭しくこうべを垂れ、

「ご安心ください。僕はフェルト様の騎士、その忠義は揺るぎません」

「何も言ってねーのに心配してたことにすんな。あと、今はアタシより、イリアとその母ちゃんの方を心配してろ。今はな」

 女性が『剣聖』を頼ったなら、その望み通りにしてやるのが今は一番いい。

 女性のケガの手当ても無事に済み、今は人心地ついたところだ。この辺りで一つ、女性を傷付け、イリアを危険にさらした相手について詳しく知りたいところだが。

「これで、単に旦那が嫁と娘に暴力振るってたってだけなら楽なんだけどな」

「楽だなんてことは。それは、この世で最もつらい悲劇の一つですよ」

「別に家族がギスギスしててほしいって話じゃねーよ。解決すんのが楽って話だ」

 妙な食いつき方をするラインハルトをたしなめ、フェルトは肩をすくめた。

 そう、問題が母娘おやことその夫、つまりは家族の中だけで完結していれば話は早い。とっちめる相手が一人で済むからだ。しかし──、

「──『くろぎん』が絡んできてんだ。もうそれだけの話じゃねーんだよ」

「はぁ!? 『黒銀貨』ァ!?」

 親探しで大活躍したラチンスたちが、フェルト側の収穫を聞いて仰天する。

 手短に、フェルトは驚く三人に何があったかを説明した。イリアを狙った刺客があったことと、その刺客が『くろぎん』の配下だったことなどだ。

 その話を聞いて、三人は「冗談じゃねえ……」と顔面をそうはくにした。

「お前、『黒銀貨』っつったら、五大都市の一つを仕切ってる顔だぞ、顔!」

「逆らうやつには容赦しねえし!」「逆らう馬鹿は川に浮かぶし!」

 相手が悪い、と必死に訴える三人。その言葉にフェルトも「そーだよな」と自分の金髪を乱暴にきながら、

「相手がでけーと、こっちもやり方考えなきゃまともに話もできやしねーもんな」

「「「そういう話じゃねえし!?」」」

 三馬鹿が声をそろえたが、フェルトの方針は曲がらない。

「血路を切り開け、と言われれば僕の命を賭して役目を果たしますが……」

「それで解決する問題ばっかでもねーよ」

「はい。それは僕も痛感しています」

 力押しで解決できる問題なら、ラインハルトほど強力な手札はそうはない。しかし、現実はその手段ばかりを選ばせてもくれない。今がまさにそれだ。

「うん?」

 ふと、考え込んでいたフェルトは視線を感じて顔を上げる。その視線の主は、娘を抱いたままフェルトを見つめる母親だった。

 りよくすいひとみに浮かぶ感情、そこにあるのは不安と期待、あとは困惑だ。

 その複雑な感情の原因は──、

「なんでアタシらが手ぇ貸そうとしてんのかわかんねーってか?」

 問いかけに、女性がこくりとうなずいた。

「勘違いすんな。アタシらは……少なくとも、アタシはアンタに手ぇ貸してやろーなんて思ってねーよ。アタシが肩入れすんなら、そりゃイリアの方だ」

「────」

「なんせ、何日も散々夜泣きに付き合わされてんだぜ? いい加減、寝不足で爆発する寸前ってんだ。捨てた親見つけたら容赦しねーって思ってて……で、いざ母親が見つかってみたら面倒くせー事情があるときた。もうウンザリなんだよ」

 フェルトの言葉の強さに、女性が何を言われるのかと緊張にほおを硬くする。が、その胸の中、イリアはフェルトに小さな手を伸ばし、能天気に微笑ほほえんでいた。

「ったく……」

 その姿に毒気を抜かれる。母親と違い、イリアにとっては普通のことだ。

 だって、イリアの前のフェルトはいつも、こんな風に小さい体を目一杯に怒らせて、感情的に声を張り上げていたのだから。

「アタシはイライラしてんだ。で、その原因に一言ぶつけてやらねーと気が済まねー。なぁ、オイ……アンタはどうなんだよ?」

 フェルト流の物言いに、女性は自分を指差して目を丸くした。

「いっぺんはガキ置いておとりになろーとしたんだろ? そんだけのされて、腹立ってねーのか? 逃げ回んなきゃなんねーことに腹は立たねーのかよ」

「────」

「お前の母ちゃん、負け犬の看板背負ってたってイリアに聞かせてーのかよ?」

「──っ」

 その挑発的なフェルトの言葉に、女性の表情が変わった。顔を赤くし、女性は目を見開くと、イリアを抱く腕だけは優しく、それ以外を強く硬くした。

 それは嫌だと、言葉ではなく全身で表明する。その姿にフェルトは笑い、

「双子! 紙と筆!」

「紙はこちらに」「筆はこちらに」

 両手を差し出したフェルトに、素早くフラムとグラシスが求めに応じた。紙と筆を受け取り、フェルトはそれを女性へ突き付ける。

「名前を書け。イリアの母親の名前と、父親の名前を、両方だ」

「────」

「一生に一度ぐれーはあるぜ。選ぶときがな。──今がそーだ」

 フェルトの言葉に、女性は目をつむった。そして、目を開けた女性がイリアをラインハルトへ差し出す。柔らかく赤子を受け取り、ラインハルトは息をんだ。

 その眼前で、女性が紙に筆を走らせる。母親、自身の名前は『カリファ』と。そうして残った枠に男の名前、イリアの父親の名前が記されて──、

「──ドルテロ、それが父親の名前か」

「いやぁぁぁぁ──!!」

 その名前を読み上げた瞬間、後ろで三馬鹿が崩れ落ちた。

 裏返った悲鳴を上げた三人は、手を取り合って必死に嫌々と首を横に振っている。

「なんだよ! さっきっからうるせーな! せっかく上げた男が下がんだろ!」

「下がっても仕方ねえよ! ドルテロ? 馬鹿か! そりゃ『くろぎん』のボスの名前じゃねえか! ああ、そうか! 同じ名前なだけか! まぎらわしいな!」

 よほど絶望的に思えたのか、ラチンスたちは必死に現実を書き直そうと努力する。が、女性──カリファはドルテロの名前に、家名を書き加えた。

「ドルテロ・アムル、だってよ」

「────」

 今度こそ打つ手なしと、三馬鹿はへなへなとその場に脱力した。どうやら、家名も彼らの知る『黒銀貨』のてっぺんと一致したらしい。

「つまり、イリアの素性は『黒銀貨』の頭目、その血縁……」

「どーりで狙われるわけだ……って、なんかおかしくねーか?」

『黒銀貨』のボスの娘を、『黒銀貨』の人間が連れ戻そうとすることに不思議はない。

 しかし、『くろぎん』のボスの嫁──この場合、カリファは情婦か愛人だろうか。呼び方はどうでもいいが、彼女が身の危険を感じて逃げ出したことも事実のはずだ。

 それは連れ戻したい誰かの考えと、明らかに真逆の思惑が働いている。

「敵が『黒銀貨』じゃねーってんならわかる。けど、ふん縛ったヤローは『黒銀貨』からきたって話してやがった。なんでそうなる? 大体……」

「────」

「なんで、カリファは『黒銀貨』のボスを頼らねーんだ?」

 自分の愛人と娘が危機に陥れば、『黒銀貨』のボスも黙ってはいまい。イリアの身の安全を思えば、カリファもそうした判断に従うのが自然だ。

 それをしなかった。──否、できなかったとしたら。

「キナ臭くなってきやがったな。いっぺん、そのドルテロってヤツにガツンとかましてやりてーとこだが……」

「フェルト様のお考えはわかりますが、そう簡単にはいきません。相手が『黒銀貨』、それもその頭目となると、接触するには相応の用意が……」

「──今、ドルテロの話をしておったか?」

 そこへ、唐突にしわがれた声の乱入があって、応接間の全員が入口へ振り返る。そこに立っていたのは、人に会うとかで外出していたロムじいだった。

「ロム爺、帰ってきたのか!」

「ちょうど今な。それでドルテロがどうした? それに、そっちの娘っ子も……」

 自分の禿げた頭をでて、ロム爺が見知らぬカリファの姿にまゆひそめる。

 状況も状況だ。屋敷の全員が一部屋に集まり、それぞれ難しく複雑な顔でいる。脱力した三馬鹿や、人の名前の書かれた紙を広げる双子、そして赤ん坊を抱くラインハルトと、ソファに胡坐あぐらくフェルト──ロム爺は「ふむ」と深くうなずいた。

「察するに、進展があったようじゃな。それとドルテロがどう関係する?」

「アタシからも聞きてーことがあんな。もし本気でそーなら、ロム爺最高だぜ」

 ぴょんとソファから飛び降りて、フェルトは軽快にロム爺に駆け寄った。そして、自分を見下ろす視線を真っ向から見つめ返し、

「ロム爺、『黒銀貨』のドルテロってヤツと知り合いなのか?」

「知り合いどころか、今さっき、わしが会いにいっておった相手がそのドルテロじゃよ」

「──やた!」

「おおい!?」

 片目を閉じたロム爺の答えに、フェルトが喜びのあまり飛びついた。その軽い体を慌てて受け止め、ロム爺は「なんなんじゃ」とあきれた顔をする。

「すげーすげーすげーよ、ロム爺! やっぱり、アタシを助けてくれんのはロム爺だ!」

「そりゃ光栄な評価じゃが、いい加減に詳しい話をせんか……」

 フェルトを抱えたまま、ロム爺は欠けた情報を求めてラインハルトの方を見る。その視線にラインハルトはイリアを揺すり、

「フェルト様」

「ああ、聞いたろ? ──どーも、必要な鍵が全部そろったらしーぜ。あとはこの鍵使って何が見られんのか、きっちりアタシらで拝んでやろーじゃねーか」

 赤いひとみを輝かせ、会心の笑みを浮かべるフェルト。その彼女の笑顔にラインハルトは頭を下げて、それから言った。

「──今のフェルト様、イリアと全く同じようにロム殿に抱かれていますね」

「うるせーな! さっさと支度しろ!!」


    10


「────」

 その一室に張り詰める空気に、フェルトは奇妙な既視感を覚えた。

 息の詰まるこの感覚は、大部屋の中にまんえんする異様な圧迫感が原因だ。

 厚みのある壁、あえて光量を絞った薄暗い照明、相手の威嚇を目的としたようないかつい調度品の数々と、客人を迎えておきながら座る椅子も用意しないあたり──そこまで考えて、フェルトは既視感の正体に思い当たった。

 ──王城だ。

 王選で無理やり立たされた舞台、あの広間の空気に酷似しているのだ。

「つまり、敵だらけってこった。それはあんときと同じだけど……ま、今回は自分の足でここまできたかんな。それだけでだいぶ気分はマシだ」

「ご安心ください。何があろうと、フェルト様の身は……いえ、この場にいる全員、僕がお守りします。その際は抱き上げたとしても悲鳴は我慢していただきたく」

「テメーが隣にいて気分が曇るのは前とおんなじだな」

 ラインハルトのお約束の忠言に鼻を鳴らし、フェルトは悠然と腕を組んだ。そんなフェルトの返答に、これまたお約束ながらラインハルトが苦笑する。

 そんなお約束を交わせるあたり、二人の胆力は人並み外れていると言っていい。

 現在、二人が立っているのは五大都市『フランダース』、その一等地に立つドルテロ・アムルの豪邸の一室だ。言い換えれば、『くろぎん』の心臓部でもある。

 当然だが、本来は突然の来訪者など門前払いされるのが自明の理。しかし、今夜、フェルトたちはこうして邸内に通され、黒社会らしい歓待を満喫していた。

 それがかなったのも──、

「──大変お待たせしました」

 大部屋の扉が開かれ、冷たい声と厳かな一礼がこちらへ向けられる。

 やってきたのは細身に黒いスーツをまとった男だ。全身から鋭い威圧感を放っており、蛇のような眼光が特徴的な人物だった。

 その蛇目の男は部屋の中、フェルトたちの後ろに立つロムじいの方へ視線を向けて、

「頭目がいらっしゃいます。……クロムウェル殿、今回は特例ですよ」

「すまんな、サーフィス。恩に着る。それにやつにとっても悪い話ではない」

「──なるほど」

 サーフィスと、ロム爺に呼ばれた蛇目の男。その視線がフェルトたちの同行者、イリアを抱くカリファへと向く。その温度のないひとみの裏に、サーフィスがどんな印象を母娘おやこに抱いたかは余人にはわからない。

 そしてその答えは、再び大扉がきしむ音に隠れて誰にもわからなくなる。

「────」

 その男が現れた瞬間、室内の空気が一段、二段と重くなったのを感じる。

 味にすれば苦く、色にすれば黒く、音にすれば低く、そんな威圧的な空気を振りまき、男は部屋の最奥、唯一、そこに置かれていた椅子に重々しく腰掛けた。

 きらめく金髪を後ろにで付け、深い青の瞳をした人物だ。それはイリアの身体的特徴とぴったり一致している。──だが、それ以外の部分に大きな違いがあった。

 ならその男の外見は、明らかにただびとのそれと異なっていたからだ。

「アンタ、亜人なのか」

「──いかにも。だが、この場で血が重要か? 人の娘」

「んや、別に? まぁ、あんまり親の血が濃く遺伝しなくてよかったなとは思ったかな」

 カリファの腕の中、すやすやと寝息を立てるイリアをのぞいてフェルトは答える。

 そのフェルトの答えを聞いて、男は低くのどを鳴らした。

「肝の据わった正直な娘だ。──私も同意見だがな」

 不遜な答えに賛同し、男が自身の鼻──人の鼻ではなく、豚の特徴を持った鼻を触ってたのしげにほおゆがめた。その特徴、一目で彼が豚人族であるとわかる。

 ──『豚王』ドルテロ・アムルの、異名通りの姿と威厳がここに鎮座していた。

「お互い、気持ちがわかり合えたとこで話を進めてーんだが……アタシたちがこうしてわざわざやってきた理由はわかってんだろ?」

「無論だ。──カリファ」

 フェルトの問いかけに重くうなずいて、ドルテロが無言でいる母子の母を呼んだ。その呼びかけにカリファは頬を硬くして、しかし気丈に男と視線を合わせる。

 男と女であり、父親と母親でもある二人だ。両者の間で交わされた視線、それがはらんだ複雑な感情は二人以外にはうかがい知れないだろう。

「何故、逃げたのだ」

「────」

 その問いに、カリファは言葉で答えられない。

 言葉を尽くすことが、今の彼女には不可能だ。娘を『剣聖』の家に託して、自らをおとりにする判断を下した苦肉の策も、喉を潰された事実がそうさせたのだ。

 そして、カリファがそうまで追い込まれた原因は他でもない。

「イリアを連れ、お前は逃げ出した。行方を追わせてはいたが、お前は戻るまいと。理由を聞く機会はないと思ったが、ここへ戻ったなら話せ」

 声の出ないカリファに、ドルテロの問いかけは酷だった。そして、その姿勢からすれば物事の裏側が見えてくる。──ドルテロの、老いた『豚王』の実情が。

、逃げた。『剣聖』を連れ、何故戻った」

「逃げた彼女を責めないでください。彼女は逃げるしかなかったのです。娘と共に命を狙われ、頼った先がアストレア家だった。それだけです」

 問い詰めるドルテロ、そこでカリファの代わりに口を開いたのはラインハルトだった。彼は母の腕の中、穏やかなイリアの寝顔を横目にしてから前に出る。

「命を狙われた彼女は、せめて娘だけは守り抜こうと僕たちにすがった。あなたの下を離れたのは、それが原因です」

「──馬鹿な。命を狙われ、逃げただと? ならば、何故お前たちを頼る。何かあったとあれば、最初に私を頼ればいい。私は……」

「馬鹿言えよ、お山の大将。足下の見えてねーヤツにそうそう頼れっかよ。だから、女と子どもに見限られたんだよ、アンタは」

 二人の会話に割って入り、フェルトが挑発的な態度でドルテロをした。そのフェルトの物言いに、室内ですさまじい怒気が膨れ上がる。

 それは、罵倒されたドルテロ自身ではなく──、

「口の利き方に気を付けた方がよろしい。ここが『くろぎん』の本拠であることをお忘れなのですか? 客分であろうと、一線を越えるのはおススメしません」

 冷たい声色とてつく視線が突き刺さり、フェルトはそう発言した男、サーフィスを紅のひとみにらみ返した。部屋の端に立つサーフィスは、ドルテロがこの場の同席を許した唯一の『黒銀貨』側の人間だ。それだけ信頼されている、ということなのだろうが。

「隣に『剣聖』がいれば危険はないとでも? だとしたら侮られたものだ。我々には我々のやり方がある。そのことを……」

「オイ、冗談じゃねーぞ。アタシが保護者がいねーとケンカもできねー腰抜けに見えんのかよ。コイツがいるかは問題じゃねーよ」

 隣のラインハルトを指差して、フェルトはその侮辱発言に舌打ちした。

「それに、白々しいこと言ってくれんじゃねーか、腹が真っ黒の蛇ヤローが」

「──。いったい、何の話をしているんです? 言いがかりもいいところだ」

「そーかよ。アタシからすりゃ、テメーの演技力に拍手喝采って気分だけどな」

 白いけんに不快げなしわを刻んだサーフィス、その芸の細かさをフェルトが称賛する。

 その客人と部下のけんのんなやり取りに、ドルテロが骨の浮く手で自分の豚鼻を触れた。考え込む仕草、そのゆいする様子に「のう」とロムじいが口を開く。

 ここまで、フェルトとラインハルトの後ろで成り行きを見ていた賢老は目を伏せ、

「この母娘おやこが狙われるとすれば、ドルテロ、お前さんと無関係のはずもない。『黒銀貨』を敵視するやからから見ればすいぜんの的じゃろうよ。じゃが、母娘はお前さんを頼らんかった。迷惑をかけるのを嫌った、だけでは話は成立せん。ならば原因は……」

「──『黒銀貨』を、味方とは思えなかったか」

 ロム爺の話、その最後の部分を引き取り、ドルテロの青い瞳が理解の光をともした。

 フランダースの黒社会を支配する組織、その頭目の失脚につながる弱点となれば敵は血眼になる。そして『敵』とは、外にいるばかりとは限らない。

 上が失脚すれば、それで得するのは内部にいる人間とて同じだ。

「──イリアを、私の娘だと明かしたのはお前にだけだったな、サーフィス」

「────」

 ドルテロの低く鳴動する声音、それが腹心であるサーフィスへとし掛かる。蛇目の男はそれを受け、ぐに自分の上役を見つめ返した。

 そこに戸惑いや混乱はなく、かといって怒りや取り繕いも見つからない。

「『黒銀貨』に狙われれば、カリファは娘を抱いて外へ逃げるしかない。そして、二人が私の弱味だと知るのはお前だけだ。──何か、言うべきことはあるか?」

 それは弁明を許したのではなく、遺言を残す慈悲を与えただけの代物だった。

 最も信頼を置く腹心に裏切られ、ドルテロの心中にはささくれ立った感情があろう。それをごととも思えず、フェルトは結末を固唾をんで見守る。

 そして、『豚王』の問いかけにサーフィスは己の深緑の髪を手ででると、

「──全て事実です。訂正するべき点はありません、頭目」

「お前には目をかけていた。最も組織への忠誠を誓った男だと。それは今もだ」

 造反をくわだてたサーフィスに、ドルテロは深い苦悩をにじませて言い放った。その言葉を聞くと、あろうことかサーフィスは笑った。──苦笑したのだ。

「何がおかしい」

「頭目の目は曇っておられませんよ。私は今なお、組織に……いえ、あなたに忠誠を誓っています。この命に懸けて、組織と頭目に誓った忠誠に偽りはない」

「は、ぁ? 何言ってんだ、テメー」

 自分の裏切りを認めたあとで、奇妙なわるきをするサーフィスにフェルトはあきれた。

 取り繕うなら論点がズレている。裏切りを認めたのに、忠誠を言い繕うなどと。

「ボスの弱味につけ込んで、娘と愛人使って組織を乗っ取ろうとしたんだろーが。それを今さらなんだ。そんな言い訳が通ると思ってんのかよ」

「訂正を。今の言葉、正確なのは一部だけです。その母娘おやこは頭目の弱味になる。組織と頭目の安泰のため、その母娘は邪魔だった。──それが真相です」

「────」

 何を言い出したのかと、フェルトは大いに顔をしかめた。疑問符だけが頭を占めるフェルト、彼女に代わって「なるほどな」とロムじいが深くうなずく。

わしの知るお前さんは造反など企てる男ではなかった。それがどうして、こんな大それたことをと思ったが……サーフィス、その忠誠心は行き過ぎたものじゃぞ」

「頭目に恩義を受け、組織に忠誠を誓った。命と誇りはここに預け、この手に持つものなど何もない。『くろぎん』の安寧のため、その不安を排するのが私の役目です」

 ロム爺の言葉に背筋を正して答え、それからサーフィスはその場にひざまずいた。その腕を一度振ると、彼の手の中には魔法のように短剣が生じる。

 一瞬、空気がひりつく気配。──その中で、サーフィスは短剣を自分の首に当てた。

「頭目! この度の不忠、命をもつて償う覚悟。ですが今一度、私のなきがらを前にご一考いただきたい。イリアお嬢様を、おそばに置くことの意味を!」

「クソ! ラインハ──」

 早まったサーフィスを止めるべく、フェルトがラインハルトの名前を呼ぶ。が、それよりも早く、鋭いやいばが男の細い首の皮を裂いて──直後、ふうが室内を突き抜けた。

 衝撃波が吹き荒れ、遅れて硬いものが肉を穿うがつ撃音がとどろく。何が起きたのかと目を向ければ、そこにあるのはまりに伏すサーフィスの亡骸ではない。

 サーフィスは顔面を拳に打たれ、白目をいて壁際に転がっている。そして、彼をこんとうさせた一撃を放ったのは──、

「──『豚王』の名は健在、じゃな」

「……それが事実なら、サーフィスに馬鹿ななど許さなかっただろう」

 巨人族のロムじいに匹敵するきよ、それで風よりも速く動いたドルテロが目を伏せる。部下を一撃した拳を引いて、『豚王』はゆっくりとこちらへ振り返った。

 静かな青いひとみ、それが見据えるのはカリファとイリアの二人だ。今の撃音に眠るイリアが顔をしかめたが、すぐまた安らかな寝顔になる。

「……なんつーか、大物だな」

「よく寝る子ではあるな。父親の、けたところが似たのかもしれん」

 部下の手綱の握りが甘かったこと、それを自らするドルテロが唇を緩める。が、それも刹那のことだ。

「頭目! 今の騒ぎは……」

 大扉を開けて、外で待機していた『くろぎん』の構成員が姿を見せる。彼らは室内、倒れるサーフィスの姿と、拳を引くドルテロを見比べ、驚きを隠せない様子だ。

「こ、これは……頭目、どうしてサーフィスさんを……」

狼狽うろたえるな、客人の前だ。サーフィスを連れていけ。やつとはまだ話がある。死なせぬように手当てしてやれ」

 動転する部下に命じて、ドルテロはそれ以上の説明をしない。部下も詳しい説明を求めることなく、倒れるサーフィスを担いで早々に部屋を出ていった。

 それを見届け、ドルテロは重たい足音を立てて、自らの椅子へと再び腰を下ろした。

 太い腕で肘掛けにほおづえをつくドルテロ──否、『豚王』の瞳がフェルトへ向く。その瞳に宿った色を見て、フェルトは内臓を指でこすられたような不快感を覚えた。

 その不快感の原因、それは──、

「わざわざのご足労感謝する、王選候補。──だが、無駄足だったな」

「あ?」

「私に娘などいない。故に、無駄足だったと言っている」

「────」

 一瞬、何を言われたのかわからず、フェルトの頭を空白が占めた。

 そのフェルトの表情変化を見ながら、ドルテロは「わからんか?」と続けて、

「早々に、どこの誰とも知れん女と娘を連れて消えろ。目障りだ」

「──ッ! テメー、ざっけんな!」

 ドルテロの魂胆が読めた瞬間、フェルトは怒りに八重歯をいてえた。

 サーフィスの忠言、それをドルテロは認めたのだ。彼はカリファとイリアの母娘おやこ、彼女たちの存在が自分の弱味になると認めた。そして、その弱味を弱味と周囲に悟られないように、二人の存在を切り捨てようとしている。

 この男は、自分の愛人と娘を。──親が、子を捨てようとしているのだ。

「アタシはイリアを捨てさせるためにここにきたんじゃねーんだぞ!」

 落とし前をつけさせにきただけだ。それがどうして、こんな話になってしまう。

「テメーには家も、金も力もあるはずだろ!? 親ならテメーのガキぐらいちゃんと守れよ! 都合が悪くなりゃ簡単に捨てやがって! だったら、最初から……」

「フェルト」

 猛然とみつくフェルトの肩を、後ろからロムじいの大きな手がつかんでいた。赤いひとみを怒りに燃やしたフェルトに、ロム爺は沈鬱な面持ちで首を横に振る。

 諦めろ、ではない。しかし、引き下がれと賢老は無言でフェルトに伝えていた。

 その態度に、フェルトの心中を憤激が覆い尽くしたが──、

「……ああ、そーだな。わかった、わかったよ!」

 すぐに怒りは沈静化し、フェルトは食い下がるのをやめて舌打ちした。今一度、ドルテロをにらみつける瞳に怒りはない。あるのは失望と、軽蔑だけだ。

「テメーみたいなクソ親ならいねー方がマシだ。アタシも、おんなじ意見だよ」

 自分の子どもを守る気概がないなら、そんな親元になどいない方がずっといい。

 親に捨てられた子どもの先輩として、同じ境遇を味わったフェルトはイリアにそう同情する。そして一秒でも早く、ここからイリアを連れ出すべきだと思った。

 こんな場所に、イリアの幸福はない。何一つ、彼女の人生に関わるべきものは。

「フェルト様」

 悪罵を残し、鼻息荒くカリファの腕を引こうとしたフェルト、その背中に声をかけたのはラインハルトだった。

 いらたしく見上げれば、ラインハルトの澄んだ青い瞳と視線が交錯する。何が言いたいのかと、続く言葉を待つフェルト。だが、ラインハルトは唇を震わせて、

「────」

 何も言えない。──騎士の中の騎士、『剣聖』さえも、言葉が出てこなかった。

「……いくぞ」

 顎をしゃくり、フェルトは押し黙るラインハルトにそう言った。その言葉にラインハルトはまゆじりを下げ、無言でこちらの背に続こうと歩み出す。

「世話になったな、王選候補」

「……余計な世話って皮肉か? 何が世話だよ、豚鼻野郎。テメーの面は二度と見たくねーし、二度と関わり合いになりたくもねー」

 のうのうと別れの言葉を投げてくるドルテロに、フェルトは背を向けたまま吐き捨てた。腕を引いて、フェルトはカリファとイリアの二人を部屋から連れ出そうとする。

「────」

 部屋を出る直前、足を止めたカリファがドルテロに振り返り、頭を下げた。腕の中の赤子の寝顔を見せるように、それが最後だ。

「……お前さんも、いつか後悔するぞ」

「──いいや、しない」

 去り際、ロム爺が部屋の中のドルテロに一言だけかけた。それに対するドルテロの答えは強く、それ以上を求めない。

 古くからの知己、その言葉にロムじいは吐息をこぼし、部屋を出ていった。

 そうして、客人たちが誰一人いなくなった部屋で、ドルテロは己の顔に手を当てた。そのしわだらけのてのひらを見て、目をつむる。

「──イリア」

 声は、ドルテロ自身にしか聞こえなかった。


    11


「結局、落とし前なんか何にもつかなかったじゃねーか……」

 一連の事態が片付いて、フランダースからアストレア邸へと戻ったあと、フェルトは屋敷の荒れ果てた庭で頭をきながら嘆息した。

 イリアとカリファの母娘おやこを取り巻く問題については、『くろぎん』の本拠地で交わされた内容が真実となった。──つまり、ドルテロとイリアに血縁関係はない。

 二人は無関係の赤の他人。イリアは晴れて、父親のいない赤ん坊になったわけだ。

 そのおかげで、もうこれ以上、母娘共々命を狙われる理由はなくなり、万々歳だ。人生から一部のつながりが欠けただけで、何事もなかったと言って差し支えないだろう。

「──それでも、やり切れない気持ちにはなってしまいますね」

「────」

 物思いするフェルト、その隣でラインハルトも同じように心中を吐露する。

 今、屋敷の庭で一緒にいるのはフェルトとラインハルトの二人だけだ。普段は彼に付きまとわれるのを嫌がるフェルトだが、今回ばかりはそれに目をつむった。

 今は、フェルトも誰かと話をしていたい。それがラインハルトでも、いい。

「壁に話しかけてるよりはマシって程度だけどな」

「光栄なことですよ。フェルト様のお気持ちを打ち明けていただけるのは」

「テメー、あえてアタシが嫌がる言い方すんのやめろ。……なぁ、ラインハルト」

 顔をしかめたあと、フェルトはラインハルトを見上げ、彼を呼んだ。

 最後、ドルテロと話を終える直前、彼に呼び止められたことを思い出したのだ。あの場でラインハルトは何も言えなかった。が、フェルトも何も言ってやれなかった。

 答えがあの場になかったのか、それともフェルトたちが知らなかっただけなのか。

 どちらにせよ、何も言ってやれなかったことを、思い出したのだ。

「ま、アタシは親なしだし、テメーも家族関係ごたついてっからな。家族下手なアタシらには荷が勝ちすぎたって話だったんだろーよ」

「……そうはっきりおつしやられると、僕もなんと答えていいものか」

 フェルトの物言いに、ラインハルトは痛いところを突かれたと苦笑する。

 彼の複雑な親子関係については、フェルトも少しだけだが知っている。

 母親は原因不明の病で、ラインハルトが幼い頃から目覚めぬ眠りについたまま。父親に関しては控えめに言って人間性が最悪だ。端的に言えばクズだった。

 そんな家庭環境にあったラインハルトと、捨て子でロムじいに拾って育ててもらった経緯のあるフェルト。──家族が下手とは的確な表現だった。

「しかし、向かうところ敵なしの『剣聖』様でも、ただ相手をやっつけりゃいいって場面でもねーと案外手詰まりになるもんだ。一の騎士なんて肩書きも考え直すか?」

「確かに、今回はない結果でした。フェルト様のお役に立てず、僕では一の騎士に不足だと不安にさせてしまったとしても……」

「バカ、真に受けんな。冗談だ、冗談。つっても、テメーで満足してるって話じゃねーぞ。そういう話じゃねーけど、騎士はひとまずテメーでいいんだ」

 冗談の通じないラインハルトにみついて、フェルトは無造作に生えた芝生に直接座って胡坐あぐらいた。普段は服が汚れると、小言のうるさいラインハルトも何も言わない。

 ただ静かに、緑の香りがする風を浴びて、二人は同じ空を眺めて過ごす。

「……これから一発かましてやろーってのに、最初の一歩目でつまずかされたよな」

「それは……いえ、フェルト様、ですが」

「──だから、次はこうはいかねーよ」

「──え?」

 拳を握り、力強く言い切ったフェルトにラインハルトがあつに取られた。

 その彼のぜんとした反応に、「なんだよ」とフェルトは座ったままのけ反り、その逆さになった視界にラインハルトの顔を映した。

「すっとぼけた声出しやがって、アタシがなんか妙なこと言ったか?」

「そんなことは。ただ、僕はてっきり、フェルト様が落ち込まれているものと」

「アタシが落ち込んでる? おいおい、そりゃ……」

 のけ反った頭を戻し、フェルトは尻を滑らせて後ろへ向き直った。胡坐のまま、ラインハルトの長身を見上げ、陽光を背負った顔をじっと見つめた。

 その影の差した騎士の顔つきに、フェルトは「あー」と納得する。

「落ち込んでんのはアタシじゃなくて、お前の方だろ、ラインハルト」

「僕が、ですか?」

「自覚がねーのが重症だな。まぁ、テメーは負けた経験がなさそうだもんな」

 やれやれと頭を振り、フェルトは立ち上がって尻を払った。それから、難しい顔をしているラインハルトの胸に拳を向け、軽く彼を小突く。

「お、当たった」

ける必要を感じませんでしたし、フェルト様の手ですから」

「いらねーこと付け加えんな。あと、これも覚えとけ。──こっから先、アタシに付き合ってくんなら、こんな負けは何回もぶつかることになんぞ」

「────」

「なんだよ、お前。まさか、アタシがこの先、ずーっと全戦全勝して気持ちよく王様になるまで駆け上がる、なんて期待してたんじゃねーだろーな」

 負けることもある、としたフェルトの宣言にラインハルトはどうもくしていた。

 まさか、なんて言い方はしたものの、フェルトは半ば確信している。ラインハルトはきっと、負けることなど考えたこともない。それはフェルトへの信頼というより、自分自身が歩く道への絶大な安心感、それが原因なのだろう。

 自分がいれば負けるはずがない。──そんな類の全能感を背負っていたはずだ。

 だが、ラインハルトがいてもどうにもならない場面もある。王選が始まったばかりの今になって、それと早々に激突したわけだ。自分の認識する理想と現実の違い、その落差への戸惑いがあるのに、その自覚だけがないのだ。

「お前、たまにホントにガキみてーなとこあるな。イリアと変わんねーぞ」

「それは……さすがに言いすぎかと」

「いーや、言いすぎでも何でもねーな。きっとお前、気付いてねーこと山ほどあるぜ。オシメ穿かせてやろーか、ラインハルトちゃん」

「フェルト様!」

 少し感情をたかぶらせたラインハルト、その反応にフェルトは鼻を鳴らした。別にケンカをしたいわけではない。ただ、覚悟しておいてもらうだけだ。

「ラインハルト、お前はイリアにどうなってもらいたかったんだよ」

「僕は……イリアが無事、親元に戻れたらいいと。あの子は親に捨てられた、その前提は間違いだったんです。カリファも、ドルテロ殿もイリアのことを……」

「カリファはそーだな。けど、ドルテロはイリアを捨てた。捨てたんだよ」

 フェルトにだって、ドルテロの考えがわからないわけではない。母娘おやこを遠ざけた彼の判断は、『くろぎん』や自分の立場を守るためのそれではなかっただろう。

「でも、捨てた理由が嫌々だったとか、守ろうとしてやったとか、そんなことはな、捨てられた方からすりゃ関係ねーんだよ」

「────」

「愛してたなんて、全部後出しだ。アタシは、そんなの許さねーよ」

 怒りのこもったフェルトの声に、ラインハルトが押し黙った。

 複雑な家族環境にあったとしても、捨てられた経験までは彼にはない。その彼に、捨てられたイリアをおもんぱかる、捨てられたフェルトの言葉を遮る資格はなかった。

「……あー、クソ! こんな話がしたかったわけじゃねーぞ。別に親がいねーってことが即不幸って話じゃねーんだ。アタシは親なしのおかげでロムじいと会えたんだし」

 バツの悪さも手伝って、早口になりながらフェルトは言った。

 フェルトは親の顔も名前も知らない。捨てられた理由にも興味はない。もし、捨てられたのが原因で自分が死んでいたら、恨み言の一つや二つはあったかもしれない。

 だが、幸いにもフェルトを拾ったのは、世界で一番最高の男だった。

「血が強制的な家族を作るってんなら、アタシは自分で選んだ家族の方がよっぽど大事だね。親父おやじがいなくなったイリアも、テメーで家族を選べばいい」

 ラインハルトの話が事実なら、フェルトの家族はルグニカ王国の王族かもしれない。しかし、王族は全員死んだ。それで話せなくなったことが、フェルトが血のつながりを否定する理由ではない。仮に生きていても、会いたくなどなかった。

 負の理由ではない。正の理由でだ。

 家族は自分で選んだ。幸せだ。だから、会う必要など何一つない。それだけ。

「あのヤローが何考えてたかなんて知らねーし、イリアに聞かせてやりたくもねーよ」

「ですが、イリアがいつか、父親に会いたいと思ったとしたら?」

「そんときはイリアが選べばいい。いつかでかくなったイリアが、会わせたくねーって騒ぐアタシを鬱陶しいと思うんなら、それもイリアの勝手だろ」

 所詮は部外者、などと言葉を飾るつもりはない。イリアの生き方はイリアのモノだ。

 ドルテロの思惑や、カリファが娘に何を願うのかはフェルトの知ったことじゃない。それをイリアがどう受け止めるかも、フェルトの関わるところじゃない。

 フェルトが思えるのは、イリアがこれからの人生を幸いに生きる方法だけだ。

「────」

 そんなフェルトの答えに、ラインハルトはまたしても言葉を失っていた。しかし、それは驚きや戸惑いの沈黙ではなく、もっと別の感慨によるものだ。

 その証拠に、彼は「うん、うん」と自分に言い聞かせるように何度かうなずいて、

「光栄です、フェルト様」

「……は? 何が? 急に気持ちわりーこと言い出すなよ」

「今、フェルト様は選んだものが大事であると、そうおつしやいましたね」

「お、おう、まぁ、そーだな。そーだと思うけど……」

 そこは否定の余地はない、とおずおずとフェルトが頷くと、ラインハルトは薄く微笑ほほえんでみせ、その自身の胸へと己のてのひらを当てて、

「僕を騎士に選んでくださったのはフェルト様です。その事実をみしめていて……」

「──ッ!? て、テメー、自分に都合よく考えんのやめろ! 大体、いつアタシがテメーを選んだ! ほとんどテメーの強制だっただろーが!」

「どうなさるか、はフェルト様に委ねましたよ。その中でフェルト様が嫌々でも選んでくださったのが僕であると、今はそのことを誇りに思います」

「ぐ、ぐ、ぐ……!」

 ああ言えばこう言い返す、口の減らない騎士にフェルトは赤い顔でうめいた。

 ただ、そんな風にフェルトに嫌がらせをするラインハルトには、普段の調子が戻ってきたようにも感じた。落ち込んでいた気持ちも、少しは立て直せたようで。

「……はんっ。これから何度も負けるって宣言してるご主人様だぜ。じきに、テメーの方からアタシの騎士になったことを後悔するんじゃねーのか?」

「それは、きっとありませんよ。──イリアとカリファのことで確信しました」

 ──ドルテロと縁を切り、フェルトたちと一緒に屋敷へ戻ったイリアとカリファ。

 狙われる理由こそなくなった二人だが、母一人赤子一人、何の頼りもなく生きるのは相当な苦労を伴う。たったの数日だが、嫌々ながらも世話した赤ん坊とその母親、それが路頭に迷われたとあっては、フェルトの夢見が悪いなんて話ではない。

「だから、ハクチュリの牧場に住み込みの働き口を世話してあげたと」

「牧場に口利きしたのはテメーだ。アタシは別に何にもしちゃいねーだろ」

「では、二人のために持たせた支度金についてはいかがですか?」

 楽しげに逃げ道を塞ぐラインハルトに、フェルトは心底嫌そうな顔をした。

 先立つものが必要だと、フェルトがカリファに支度金を渡してやったのは事実だ。たまたまフェルトの手元には、使い道のないまとまった金──思わぬ形で貧民街から出ることとなり、白紙になった成り上がり計画で宙ぶらりんになった金があったからだ。

「──イリアには、幸せになってほしいですね」

 くされ、顔を背けたフェルトにラインハルトがそんなことを言った。それが、どうしてかやけにはかない希望に聞こえてフェルトはおかしくなる。

「別に会おうと思えばすぐ会える距離じゃねーか、バーカ」

「はい、そうですね」

 悪態をつくフェルトに、ラインハルトの笑みを含んだ返事があった。

 結局、これがいつもの二人の距離感だ。それを少し、心地く思う自分にフェルトは気付かない。ただふと、沈黙を嫌ったフェルトは眼前の荒れた庭に目を向けて、

「関係ねーけど、この庭! こんだけ荒れ放題だと外聞悪くねーか?」

「元々、ここには大きな花壇があったんです。祖母が好きで……ただ、家族の手が入らなくなってからは荒れてしまい、こんな状態ですが」

 かがんだラインハルトが草を分けると、そこにレンガ囲いの痕跡が見つかる。なるほど、確かにここは昔は花壇だったらしい。今は見る影もないが──、

「──花は、どうして枯れるのでしょう。咲き続けてくれないのは、どうして」

 花壇の跡地を眺めて、ラインハルトがやけに寂しげにそう言った。その言葉にフェルトは首をかしげ、考える。だが、すぐに傾げた首を立て直した。

「知らね。構ってほしいからじゃねーの? いつもれいに咲いてるまんまじゃ手抜きされんだろ。だから、咲いたり枯れたりせわしねーんだよ。イリアと一緒だな」

 そのフェルトの回答にラインハルトは沈黙した。

 さすがに今の答えはラインハルトの機嫌を損ねたらしい、とフェルトはほおく。

「フェルト様。──花は、お好きですか?」

 故に、唐突な問いかけに反応が遅れた。

 土に埋もれたレンガに指で触れ、そう問いかけるラインハルトにフェルトは考えた。

「いや、好きじゃね……」

「────」

「と、思ったけど、そもそも好き嫌いってなるほど花なんて見てる暇なかったかんな。だから、好きでも嫌いでもねーよ」

 どっちつかずな答えを返して、それからふと、思いついたことがあった。

 目の前には荒れた花壇、かつての思い出話はともかく、今はここには何にもありはしないのだから──、

「お前がここに花壇作ってみろよ。アタシの花の好き嫌いはそれから決める」

「僕が、花を?」

「アタシに好きにならせたきゃ、れいな花を咲かせてみろよ。それまで答えはお預けだ」

 ぐっと背伸びして、フェルトは勝手な思いつきをラインハルトに仕事として命じた。

 日々、ご立派な騎士として振る舞うラインハルトが、フェルトの命令で土いじりする姿は想像するだけで面白い。屋敷の景観もいい感じになって完璧ではないか。

 そんな思わぬ命令をされ、さぞラインハルトもぜんとした顔をするものと──、

「──? お前、なんでちょっと楽しそうなんだよ」

「いいえ、そうですね。……僕も、庭いじりするのは初めてなので」

 そわそわと、未経験の可能性に触れることをラインハルトがそう評する。そんな彼の反応にフェルトは目を丸くして、それから八重歯を見せて笑った。

「はん。その調子で負けも楽しみにしてろ。あ、でも、最後に勝つのは譲んねーかんな。そこんとこは勘違いすんなよ」

「──はい、フェルト様」

 微笑するラインハルトに付け加え、フェルトは彼の胸を小突いた。今度も、フェルトの拳はけられなかった。それを確かめ、フェルトは立ち上がる。

 視線の先、屋敷の玄関からカリファが出てきたところだ。彼女の背後には大荷物を抱えた三馬鹿が続いており、恐縮するカリファにデレデレした顔をしている。

 この数日間、イリアとカリファの新生活のために用意された数々の生活雑貨、それを牧場まで運搬するよう命じられた三馬鹿だが、その指示に不満はない様子だ。

 それら、生活雑貨をそろえるのに奮闘したフラムとグラシスが三馬鹿の様子をあきれた風に見ていて、二人の頭をロムじいが優しくでてやっている。

 そのことに少しフェルトはムッとなったが、カリファに背負われるイリアと目が合い、その不満をすぐに引っ込めた。母親の背中で、イリアは庭にたたずむフェルトとラインハルトを青いひとみで見つめると、うれしそうに笑いながら小さな手を振った。

 ──幸せになってほしいと、ラインハルトはそう言った。

 フェルトも同意見だが、そのための方法は知っている。だから、フェルトはそれを声高に、自分と似た境遇の赤子に教えてやることにした。

 口を開け、大きな声で、叫ぶ。

「イリア! ──強く生きろよ!」

《了》



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