第三章 桐谷翔と『彼女』



「えー、では私たち三年A組のせいらん祭での出し物は『ロミオとジュリエット』の演劇に決まりました」

 新学期が始まって二カ月がった頃。

 LHRの時間を使って、僕たちのクラスが星蘭祭について話し合っていると、文化祭実行委員の男子生徒がクラスメイト全員に聞こえるようにそう言った。

 星蘭祭とは、言わば文化祭のことだ。

 三年生の星蘭祭の出し物は演劇と指定されており、何をやるかは自由に選べて、僕たちA組は意見を出し合い、多数決の末『ロミオとジュリエット』に決まった。

 理由は一番有名だし、お客さんも見やすそうだからとのこと。

「ロミジュリかぁ……」

 隣の席のななが少し不満げな声を漏らしている。

 当然ながら本日も制服のブラウスの上にお気に入りのパーカーを着ていた。

「七瀬は嫌なの?」

「ううん。別にそういうわけじゃないけど……」

「じゃあ何なのさ?」

「だってロミジュリって、最後可哀かわいそうでしょ」

「まあ確かにそうだけど……」

「私はね、バッドエンドはあんまり好きじゃないの」

 七瀬は腕組みをして、少し強めの口調で訴える。

 普段、一秒一秒を全力で楽しんでいる彼女を見る限り、バッドエンドが好きじゃないのは何となくわかる気がした。

「たしか七瀬は『シンデレラ』が良かったんだっけ?」

「うん。だってあれハッピーエンドだし」

「七瀬の劇を選ぶ基準はそれしかないんだね……」

 まあ僕も悲劇よりは喜劇の方が良いけど。

「それで桐谷くんは何役やるの?」

「えっ、演劇でってこと?」

「逆にそれ以外、何があるの……」

 七瀬が少しあきれた口調で言ってきた。

「僕は裏方で良いよ。大道具係とかで」

「えぇ!? 高校最後の星蘭祭なのにそれでいいの!?」

 驚いた反応をするななだけど、僕ははなから何かの役を演じるつもりなんてなかった。

 特に演技が嫌いとかそういうわけじゃないけど、それより大道具とか何かを作る方が好きなんだ。

 ……と僕が説明すると、

「好きなことなら全然良し!」

 七瀬はサムズアップして笑った。

 まだ少しずつだけど、僕は自分らしく自分がしたいことをするように心がけている。

「じゃあ七瀬は何の役やりたいの?」

「もちろんジュリエットだよ!」

 食い気味にそう答えた七瀬。

 そんな彼女のれいな瞳はキラキラしている。

「でも、ロミジュリはあまり好きじゃないんじゃ……」

「そうだけど、ジュリエットは大好きなの」

 くと、なんとも七瀬らしい答えが返ってきた。

 このクラスには七瀬ほど演劇に興味ありそうな人とかいないし、きっと七瀬が演じることになるだろう。

「では次に、配役を決めていきたいのですが、まずジュリエ──」

「はい! はいはい!」

 文化祭実行委員がまだ話している途中なのに、七瀬が手を挙げてアピールする。

 さすが七瀬だ。おかげで文化祭実行委員が困惑した表情を浮かべている。

「では、他に誰かジュリエット役をしたい人はいますか?」

 文化祭実行委員がクラスメイト全員に問いかける。

 しかし、反応はない。

 まあ小学生だったら単に目立ちたがり屋が主役をやったりするけど、高校生になってセリフが多くて大変な主役を進んでやりたがる人はなかなかいないだろう。

 それこそ七瀬みたいに演じることが好きでない限り。

「それでは、ジュリエット役は七瀬さんということに──」


「待って!」


 ジュリエット役が七瀬に決まりかけた時、教室に鋭い声が響いた。

 声の主はなんとあやだった。

 もしかしてまた七瀬に突っかかる気だろうか。

 そんなことを思っていると、

「あたしもジュリエット役に立候補するわ」

 予想外の一言に、クラスメイトたちが少しざわつく。

 それも当然だ。だってあやみたいなタイプって一番、演劇に興味なさそうだし。

 そもそも彼女は演技とかできるのか? それ以前にセリフとか覚えられるのか?

「あれ、さきもジュリエットやりたいの?」

「そうよ。何か文句ある?」

「ううん。別に文句なんてないけど」

 ななと綾瀬はそんなやり取りを交わす。

 普通の会話をしているだけなのに、どうしてか教室の空気はヒリついており、二人の間にはバチバチと火花が散っているように見えた。

「わかりました。では後日、七瀬さんと綾瀬さんでジュリエット役をかけてオーディションをしてもらいましょう。二人ともそれで良いですか?」

 文化祭実行委員がたずねると、二人とも首を縦に振った。

 オーディションか……。

「咲ちゃんならオーディション大丈夫だよ! 七瀬なんて蹴散らしちゃえ!」

「本当だな! 七瀬より綾瀬の方がジュリエットに似合っているし!」

 綾瀬が取り巻きのたかはしすずから励まされていた。

 さらっと七瀬の悪口を混ぜているところが、かなり性悪だ。

「確かに咲はジュリエットに似合ってるかもな」

あつ、うるさいんだけど」

 が笑いながら言うと、綾瀬は恥ずかしそうに返す。

 教室でわざわざイチャコラを見せつけるな。

「その……七瀬も頑張れ」

 こちらも負けじと、そんな風に七瀬を励ましてみた。

「もちろん! 咲には負けないよ~!」

 彼女はやる気マックスで胸の辺りで両拳を握る。

 こんなに元気なら励ます必要もなかったかもしれない。

「では次にロミオ役ですが──」

 それから文化祭実行委員の進行で、どんどん配役が決まっていく。

 結局、僕はどの役にも立候補せずに大道具係になった。

 過去二回のせいらん祭は一応参加したものの、友達が沢山いるわけでもない僕はあまり楽しめなかった。しゆういちに一緒に回ろうと誘われても、彼女に遠慮して断ってたし。

 ……だけど今年は七瀬がいるおかげか、初めて星蘭祭を楽しめる気がした。


  ◇◇◇


 昼休み。僕は旧校舎の空き教室で購買の焼きそばパンを食べていた。

 ボランティア行事の件でこわくて、僕はいまだに教室で昼食をとることができない。

 ちなみにななの演技の練習についてだけど、僕が『ゆうなぎ』の稽古を見学して以降、彼女からもう協力しなくて大丈夫、と言われたので、僕は一切彼女の練習を手伝っていない。

 理由はわからないけど、もしかしたら僕の演技が下手すぎたのかも。

きりたにくん、ちょっといい?」

 色々と考えていたら、不意に七瀬に声を掛けられた。

 彼女もここで一緒に昼食をとっている。

「ん? なに?」

「その……実はさ、ジュリエットのオーディション用のセリフを練習したいと思ってるんだけど、また演技の練習に付き合ってもらうことってできるかな?」

 七瀬は少し不安そうな顔で頼んできた。

 せいらん祭について色々と決めている時、文化祭実行委員と七瀬、あやの三人で話し合った結果、ジュリエットのオーディションの日は三日後に決まり、オーディションに使うセリフも決まった。

 オーディションに使うセリフはもちろん「ああ、ロミオ様──」の部分だ。

 ロミジュリの内容を知らない人でも、大半は知っているほど有名なセリフだからね。

「別に良いよ。僕は大道具係だから覚えるセリフとかないし」

「ほんと! ありがと!」

 七瀬はうれしそうにお礼を言う。

「でも、綾瀬相手にそこまで頑張る必要あるの? 七瀬は本物の役者なんだし、演技なら余裕で勝てそうな気がするけど」

 もし綾瀬が多少演技ができるとしても、劇団で活動している七瀬にはかなわないだろう。

「そんなことないよ。さきには余裕では勝てないと思う」

「えっ、なんで?」

「うーん、それは内緒」

 たずねると、七瀬は口元に指を当ててそう答える。

 そんな彼女の仕草が少し艶っぽくて、ドキドキしてしまった。

「そ、そういえば、ロミオ役に阿久津が立候補したのは驚いたね」

 鼓動の高鳴りをすように、僕は話題を変える。

 実はジュリエット役の次にロミオ役を決めることになったんだけど、なんと阿久津が立候補して、他に立候補者がおらず、そのままロミオ役は彼に決まってしまった。

 も演劇とかには一番興味ないタイプだと思ってたのにな……。

「私は阿久津くんはロミオ役に立候補すると思ってたよ」

「……どうして?」

さきがジュリエット役に立候補したから」

 ななの言葉を聞いても、僕はいまいちピンと来ない。

 つまり……どういうことだ?

「だって阿久津くんは咲のこと好きだし」

「そうなの!?」

「っていうのはうそだけど」

「な、なんだ……」

 僕が大きく息をつくと、七瀬はいたずらに成功した子供のように笑う。

 思わぬスクープかと、ここ最近で一番びっくりしたわ。まったく、変な嘘をつくな。

「阿久津くんが咲のこと好きかはわからないけど、彼は咲のおさなじみだからね」

「……それは本当? それとも嘘?」

「これは本当の話だよ」

「っ!? じゃあ二人は本当に幼馴染なんだ!」

 普通にさっきと同じくらい驚いてしまった。

 まさか阿久津とあやが幼馴染だなんて。

 でも、阿久津と綾瀬は基本いつも一緒にいるし、仲良さそうに話しているところもよく見るから、二人が幼馴染だって言われてもそれほど違和感はないか。

「だから阿久津くんはジュリエット役に立候補した幼馴染の咲が心配で、ロミオ役に立候補したのかなって思ってる」

「なるほど」

 阿久津はオラオラ系だし自己中心的なやつだと思ってるけど、同じクラスだった去年も綾瀬だけには優しく接してる部分が多々あった気がする。

 だから、七瀬が言ったことには納得できる。

「そういえば、どうして七瀬は阿久津と綾瀬が幼馴染だってこと知ってるの? こう言っちゃ悪いけど、二人とはあまり仲良くないのに」

「そ、それはその……まあから聞いたというかなんというか」

 七瀬は急にしどろもどろになりながら歯切れ悪く言葉を返す。

 彼女には熱狂的なファンがいるし、その誰かから聞いたのかもしれない。

「それよりオーディションの練習してもい? きりたにくんはロミオのセリフ言ってくれるだけでいから」

 そう頼んでくる七瀬はいつの間にか自前のお弁当を食べ終えていた。

「えっ……わ、わかった。お昼食べ終えてからでもい?」

「全然オッケー!」

 ななが右手でオッケーサインを作ると、僕は急いで焼きそばパンを口に詰め込む。

 昼休みの時間はあまり残ってないから急がないと。

きりたにくん! その顔リスみたいですごい面白いよ!」

 食べ物をほおめ込んでいる僕を見て、七瀬は爆笑していた。

 君のせいでこうなってるんだから笑わないでもらっていいですかね。


  ◇◇◇


 七瀬とあやがジュリエット役に立候補してから三日後。

 オーディション当日を迎えた。

 これから放課後の時間を使って、教室でオーディションが始まることになっている。

 今日まで、僕は七瀬との約束通り、昼休みにジュリエットの演技の練習に付き合った。

 おかげでロミオのセリフを一通り覚えてしまったかもしれない。

 それくらいロミオのセリフを言いまくった。

「よし! 今日は頑張るぞ!」

 隣の席で七瀬が気合を入れている。

「七瀬、その……頑張って」

「ありがと! 桐谷くんには練習に付き合ってもらったし、絶対にジュリエットにならないとね!」

 七瀬はちょっと楽しそうな笑みを浮かべている。

 彼女は劇団で活動している役者だから、オーディションも何回か受けたことがあるのかもしれない。しかも、結構プレッシャーがかかるやつ。

 それに比べたら、きっと文化祭の演劇のオーディションなんて楽勝だろう。

さき、頑張れよ」

「ありがとう、あつ

 チラリと見ると、綾瀬とが仲良さそうに話していた。

 改めて観察してみると、二人がおさなじみだとしてもやっぱり違和感はない。

 美男美女の幼馴染か。まるで漫画のキャラみたいだな。

 なんてことを考えていたら、オーディションの準備が整ったみたいだ。

「それではこれよりジュリエット役のオーディションを始めたいと思います」

 教壇の前。文化祭実行委員の男子生徒が宣言した。

 ところで、オーディションのルールだけど、立候補者は順番にクラスメイト全員の前で事前に指定されたセリフで演技をする。

 それを見てクラスメイトたちに誰が一番演技がかったかを判断してもらい、最終的には多数決でジュリエット役にふさわしい方を選ぶ。

 これが今回のオーディションの主な流れだ。

「では、どちらが最初に演技をしますか?」

 文化祭実行委員が立候補者の二人にたずねる。

「はい! 私がやるよ!」

「あたしがやるわ!」

 ななあやの手がほぼ同時に挙がった。

 驚いた。七瀬は彼女のことだから一番にやりたがると思ってたけど、まさか綾瀬もこんな風に手を挙げるなんて。

 心なしか、綾瀬の様子がおかしい気がする。

「珍しいねさき、こういうことにやる気出しちゃって」

「……別にいいでしょ」

 七瀬が言うと、綾瀬は素っ気なく返した。

 やっぱりおかしい。

 いつもならどんな七瀬の言葉でも、綾瀬は結構感情的に返してくるのに。

 それとも僕の気にしすぎか?

「どちらも先に演技をしたいみたいなので、順番はじゃんけんで決めましょう。それが一番早いので」

 文化祭実行委員の指示で、二人はじゃんけんをする。

 そして、綾瀬が勝ったため、彼女が初めにジュリエットの演技をすることになった。

 ちなみに七瀬はじゃんけんで負けただけなのに、とても悔しそうにしていた。

「それでは準備ができたら、自分のタイミングで演技を始めてください」

 綾瀬がクラスメイト全員の前まで移動すると、文化祭実行委員の指示が出る。

 あとは彼女が演技を始めたら、オーディション開始だ。

 綾瀬グループの取り巻きたち──たかはしすずから「咲ちゃん頑張れ~!」とか「綾瀬ならできるぞ!」というエールが送られる。

 それが一通り収まったあと、綾瀬は演技を始めた。

「ああ、ロミオ様! ロミオ様! どうしてあなたはロミオ様でいらっしゃいますの?」

 彼女のセリフを聞いた瞬間、僕は驚いた。

 演技のことは詳しくないから具体的には説明できないけど、どう考えても綾瀬の演技は素人のそれじゃなかったからだ。

 一体どうなってるんだ?

 もしかしてあやななと同じように役者だったりするのだろうか。

「なんかくない?」

「あぁ、普通に上手いわ」

 そばにいるクラスメイトたちがヒソヒソとそんなことを話し始めた。

 どうやら彼らも僕と同じことを思っているみたい。

 そして、その後も綾瀬は素人とは思えない演技を続けて──。

「さすれば、私も今を限りキャピュレットの名を捨ててみせますわ!」

 最後までセリフを言い切った。

 その時、綾瀬は少し息切れしていて額には汗が光っていた。

「すごいよさきちゃん!」

「綾瀬って演技とかできたんだな!」

 演技が終わったあと、取り巻きたちが驚きつつも、綾瀬を褒めまくっていた。

 加えて、クラスメイトたちも同じように綾瀬をたたえている。

「良かったぞ、咲」

あつ、うるさいんだけど」

 綾瀬が自分の席に戻ると、とカップルみたいな雰囲気でやり取りを交わす。

 美男美女でイチャコラするな。

「咲は上手かったね。これは私も負けないようにしないと!」

 七瀬はそんな感じで気合を入れるが、全く焦ってはなさそう。

 たぶん本当に焦ってないんだと思う。

 たしかに綾瀬の演技は上手かったし、結構ビビった。

 でも、七瀬と比べると、正直そこまででもないと僕は思った。

 そりゃ当然か。

 綾瀬もどこかで演技の手ほどきを受けたことがあるのかもしれないけど、七瀬は現役で劇団に所属して舞台上で演技をしているんだ。

 七瀬に演技で勝てる人はそうそういない……と思っているんだけど、本当に大丈夫かな? 実は僕が考えていたことが的外れだったりしないよね?

「次は七瀬さんですね、準備お願いします」

 文化祭実行委員から指示されると、七瀬は先ほどの綾瀬と同じようにクラスメイト全員の前に移動する。

「七瀬が演技なんてできるの?」

「学校で一番の問題児ができるわけないだろ」

 綾瀬グループの取り巻きの二人が遠慮なくバカにしてくる。

 七瀬の正体を知らないくせに、ペラペラとうるさい連中だ。

 その時、ふとななと目が合った。

 僕は「七瀬、頑張れ」という意味を込めて彼女に拳を向ける。

 すると、七瀬は可愛かわいらしい笑顔で返してくれた。

 刹那、僕の心拍数が一気に上がってしまう。

 って、僕はこんな時に一体何を考えてるんだ。落ち着け、僕。

「それでは七瀬さん。自分のタイミングで演技を始めてください」

 文化祭実行委員が促すと、七瀬は小さくうなずいた。

 それから彼女は一つ深呼吸をして少し間を空けてから──演技を始めた。


「あぁ、ロミオ様!! ロミオ様!! どうしてあなたはロミオ様でいらっしゃいますの?」


 七瀬がセリフを口にした途端、教室の空気が一変した。

 最初の一言だけで、クラスメイトたちは一気に彼女の演技に引き込まれたんだと思う。

 それほど七瀬の演技は魅力的だった。

「あなたのお父様をお父様でないと言い、あなたの家名をお捨てになって!! それともそれがおいやなら、せめて私を愛すると誓言していただきたいの!!」

 言葉の一つ一つが胸に響いてくる。

 く言えないけど、彼女の演技は心に直接伝わってくる感じがするんだ。

「さすれば、私も今を限りキャピュレットの名を捨ててみせますわ!!」

 そして、七瀬は最後のセリフを口にした。

 演技は終わったというのに、教室は静かなままだった。

 誰もしやべろうとも動こうともしない。

 まるで七瀬の演技で、クラスメイトたちが魔法にかかって固まってしまったみたいだ。

「やるわね」

 すると、最初に言葉を発したのはあやだった。

 意外だ。もしかして自分の演技の方が勝ってると思っているのだろうか。

「まあね~さきよりはやるかな?」

「なにその言い方。ものすごく腹立つんだけど」

 七瀬が挑発的に言うと、綾瀬は少し怒って眉をひそめた。

「レナちゃんってあんな演技上手いんだね」

「まじで感動したわ」

 クラスメイトたちが次々と感想を漏らしていく。

 たぶんこれはみんな綾瀬より七瀬の演技の方が上手いと思っているな。

「七瀬のくせになかなかやるじゃん」

「そうだな、まあまあかったな」

 あやグループの取り巻きでありななアンチのたかはしすずもぐぬぬ……みたいな表情を浮かべている。その顔がちょっと面白くて、僕は笑いそうだった。

「では、これから七瀬さんと綾瀬さん。どちらがジュリエット役にふさわしいか多数決で決めたいと思います」

 七瀬が席に戻ったタイミングで、文化祭実行委員がクラスメイト全員に話した。

 いよいよジュリエット役が決まる時間だ。

「今から順番に名前を呼ぶので、みんなはどちらか良いと思った人の名前が呼ばれた時に手を挙げてください」

 文化祭実行委員は説明したあと、そこで一旦言葉を区切る。

 続いて、彼が綾瀬と七瀬の名前を順番に言うと、クラスメイトたちは各々ジュリエット役にふさわしいと思う名前が呼ばれた時に挙手をした。


 僕は演技だけだったら絶対に綾瀬より七瀬の方が圧倒的に実力が上だったと思う。

 ……だけど正直、もしかしたら僕はこうなるんじゃないかって何となく思っていた。

 そして、今回はそれが見事に的中してしまったんだ。


 ──多数決の結果、ジュリエット役はあやさきに決まった。


  ◇◇◇


かけるとお昼食べるの、なんか久しぶりだな」

 オーディションから三日後。

 昼休みに僕は食堂でしゆういちとご飯を食べていた。

「いつもは誘われても僕が断ってるからね」

「俺の彼女に遠慮してくれてんだろ。こっちとしては余計な気遣いなんだけどな」

「余計とはなにさ。僕は友達の恋愛を少しでも邪魔しないようにしてるっていうのに」

「そんなことしなくても、俺は彼女と別れたりしないから。前にも言ったろ。俺は恋愛マスターなんだって」

「はいはい。すごいねー」

「全然信じてないな、お前」

 あいもない会話を交わしながら、僕は昼食を食べ進める。ちなみに今日のランチはチーズカレーだ。たまにしか来ないけど、食堂のメニューってどれもしいんだよな。

「そういえば最近、ななが学校に来てないらしいな」

 不意に修一がそう口にした。

「……そうだけど、同じクラスでもないのになんで知ってるの?」

「そりゃ知ってるだろ。校内一の問題児が急に何日も学校を休んでるんだから」

「……そっか」

 修一が言った通り、オーディションの日以降、七瀬は一度も学校に来ていない。

 担任は体調不良と言っていたけど、本当のところどうなのかわからない。

 オーディションに落ちたことがショックで休んでいるのかもしれない。

 ところで、七瀬がオーディションに落ちてしまった理由だけど、簡単に言うとあれは〝そんたく〟だ。

 演技は七瀬の方がかったけど、綾瀬の方がクラス内での権力が強いし、男子のリーダー的存在のとも仲が良いから、多数決を採った時、クラスメイトはほとんど全員綾瀬の名前が呼ばれた時に手を挙げた。

 今後、綾瀬や阿久津に目をつけられないようにするために。

 加えて、七瀬アンチの生徒も綾瀬をジュリエット役にしようとする。

 おかげで、七瀬の時は僕と七瀬ファンの数人しか手を挙げなかった。

 ……綾瀬はこうなることを見越して、ジュリエット役に立候補してきたのだろうか。

「翔さ、七瀬のこと心配じゃないの?」

「いきなりどうしたのさ」

「だってかけるななと仲が良いんだろ?」

 しゆういちかれてどう答えようか戸惑う。

 僕って七瀬と仲が良いのか? ただ僕が七瀬に振り回されていることが多いだけな気がするんだけど。

「……別にそんなことないよ」

うそつくなって。たまに翔の教室行ったら仲良さそうに話してんの見るぞ」

「なんで見てるのさ。というか声かけてよ」

「バカかお前。いくらなんでも親友が女子と夢中でしやべってる時に声かけるほど、俺は鈍感じゃないぞ」

「夢中で喋ってないし、変なこと言うな」

 このイケメンは一体何を言い出すんだ。

「翔さ、最近お前、割と学校来るようになったじゃん」

「えっ……まあそうだね」

「それってたぶん七瀬のおかげなんだろ?」

 修一が真剣な表情でたずねてきた。

「……そうだね。七瀬のおかげだと思う」

「やっぱりな」

 当たったことがうれしかったのか、修一はニヤリと笑った。

「なんでそんなことまでわかるの。もしかしてエスパー?」

「そんなわけないだろ。翔を学校に来させられるのは、この学校だと俺か七瀬ぐらいしかいないと思っただけだ」

「……まあ確かにそうかも」

 けれど、七瀬は僕に学校に来るように強制はしていない。

 むしろ、そこは大して問題じゃないと言ってくれた。

 だからこそ、最近は単位関係なく自分の意志で学校に通えているのかもしれないけど。

「で、もう一度訊くけど、翔は七瀬のこと心配じゃないのか?」

「そ、それは……」

 僕はどう答えようか一瞬、言葉に詰まる。

 七瀬のことは心配している。

 絶対にあり得ないとは思うけど、もしかしたら僕のように学校に行きたくなくなっていたら、という考えが頭の中をよぎってるし。

「正直、七瀬のことは心配だけど、だからってどうすればいいのさ」

「そりゃお見舞いとか行った方がいだろ」

「お見舞いって……」

 それをするとなると、ななの家に行かなくちゃいけないわけで……。

 というか彼氏でもない男が一人で家にお見舞いって、それは大丈夫なのか?

 ……でも、七瀬にはかなり振り回されてきたけど、同じくらい沢山助けられてきた。

 それに学校が嫌だった僕だけど、七瀬と出会ってからは前ほど嫌いではなくなってきている。しゆういちも言っていたけど、きっと僕は七瀬と過ごす毎日を振り回されて面倒だと思いつつも、心のどこかでは楽しんでいたんだ。

 だから七瀬にはとても感謝している。

「やっぱりお見舞いくらいは行くべきだよね」

「おっ、行く気になったか?」

「うん。今日の放課後にでも行ってみるよ」

「おう、頑張れ。……あっ、でも七瀬が具合悪そうにしてても変なことするんじゃないぞ」

「そんなことするわけないでしょ……」

 僕があきれながら返すと、修一ははにかんだ。

 こうして今日の放課後、僕は七瀬のお見舞いに行くことに決めた。


  ◇◇◇


「本当に来てしまった……」

 午後の授業を終えてついに迎えた放課後。僕は七瀬家の前に立っていた。

 住所は担任から教えてもらった。前に七瀬が僕の住所を聞いた時みたいに「最近休んでいる七瀬が心配で……」と言って。

 実は七瀬家がお金持ちとかだったらどうしよう、と考えてもいたけど、彼女の家は一般的な大きさの一軒家なのでそんなことはなさそう。

「よ、よし……」

 唾をごくりと飲み込んで、僕はインターホンを押す。

 ピンポーンと鳴った直後、すぐに人が出た。

「はい、どちら様ですか?」

「あの、七瀬さん……じゃなくて、レナさんのクラスメイトのきりたにって言います。最近、レナさんが休んでいるのでお見舞いを──」

「あれ、桐谷くん?」

 話している途中で、そんな言葉が返ってきた。

 ん? よく聞いたらこの声かなり聞き覚えがある。

「もしかして七瀬?」

「うん、でもどうして君が……?」

「それはまあなんというか……お見舞い的な?」

 担任に体調不良だと聞かされたものの、実際はどうかわからないので僕は曖昧に答えた。

 帰れとか言われたりしないかな……。

 そんな不安を抱いていると、

「お見舞いに来てくれたんだ。ちょっと待ってて」

 ななは明るいトーンでそう返すと一旦インターホンが切れた。

 どうやら来てすぐに帰る羽目にはならなそうだ。

 その後、すぐに玄関の扉がガチャリと開く。

「久しぶり! きりたにくん!」

 そう出迎えてくれた七瀬は、明らかに部屋着だった。

 可愛かわいらしいデザインで、普段とは違う新鮮な姿に心拍数が上がってしまう。

「久しぶり……って言っても、三日ぶりくらいだけど」

「まあそうだね。良かったら中に入ってよ」

「えっ、う、うん……お邪魔します」

 七瀬に招かれて、僕は遠慮気味に彼女の家に入った。

 よく考えたら小学生の時以来、初めて女子の家に入るな。

 ……なんだかまた緊張してきた。


「どうぞ好きなところに座って」

 七瀬家に入ったら、そのまま二階の彼女の部屋に案内された。

 彼女の両親は共働きで不在らしく、いま家の中には七瀬しかいないみたい。

「でも意外だね。桐谷くんがお見舞いなんて」

「意外とは失礼だな。僕だってクラスメイトが学校休んだら心配くらいするよ」

「心配はするのかもしれないけど、今までの君だったらわざわざお見舞いなんて来なかったんじゃない?」

「うっ……まあ否定はできない」

 これまでの僕だったら、今ごろ自分の部屋でゲームしてるか漫画を読んでるかだろう。

「あのさ、担任から聞いたんだけど、七瀬が学校休んでいた理由って本当に体調不良? それともオーディションの結果が、その……」

「うーんとね、どっちもかな」

 七瀬は少し考えて答えたあと、続けて話した。

「オーディションのあと、実はちょっと体調崩しちゃって念のため休んでたんだ。今度の休日にまた劇団の公演があるし」

「えっ、大丈夫なの?」

「うん。今はもうだいぶ良くなってるから大丈夫だよ」

 安心させるようにななは笑顔を見せる。

 見る限り、彼女は本当に大丈夫そうだった。良かった。

「でも、さっきどっちもって言ったってことは、やっぱりオーディションのことも」

 僕の言葉に、七瀬はこくりと首を縦に振った。

「自信はあったからね。落ちたのはちょっとショックだったかな」

「……そうだよね」

 七瀬は少し苦しそうな表情でうつむいている。

 今まで七瀬が落ち込むことなんてないと思ってたけど、彼女がこんな風になってしまうことってあるんだな。

「でもあれは七瀬の演技がダメだったっていうんじゃなくて、その……みんながあやに気を遣ったというか……」

 僕は実力で綾瀬に負けたわけじゃないってことを話そうとする。

 そうしたら少しは七瀬が楽になるかもしれないから。

「ありがと。でも私ね、きりたにくんが言おうとしてること知ってたよ」

「えっ……」

 七瀬の言葉を聞いて、僕は一瞬返事に詰まる。

「それにこんな感じで落ちるかもって、受ける前から半分くらいわかってた」

「っ! それじゃあどうしてオーディションなんて受けたのさ」

 理不尽な理由で落ちるってわかってたら、無理に受けなくてもいいのに……。

「それはもう、どうしてもジュリエット役をやりたかったからに決まってるじゃん」

「オーディションには落ちるってわかってたのに?」

「そうだよ。将来ハリウッド女優になるんだったら、文化祭の劇のオーディションなんかで負けてられないと思ったし! ……まあ結局は落ちちゃったんだけどね」

 七瀬は恥ずかしがるように小さく苦笑する。

 だけど、彼女は続いてこうも語った。

「それに私はいつだって私らしくいたいから。落ちるってわかっててもやりたい役のオーディションは受けるんだよ」

 そう言った時の七瀬はちょっと楽しそうだった。

 自分らしく、私らしく。大切な話をしている時の彼女の口癖だ。

 そんな彼女に僕は一つ疑問を抱いた。

「七瀬ってさ、どうしてそこまでして自分らしくあり続けようとするの?」

 どんな時でも七瀬は自分がしたいこと、自分が思っていることをする。

 例えば、校則違反のパーカーでも気にせず学校に着て来たり、あやものじせずに言いたいことを言ったり。

 そんな彼女を僕は羨ましいと思い、正直、憧れてもいる。

 ……けれど、ななが自分らしくあり続けようとする理由を僕は知らないんだ。

「そうだね……」

 七瀬はちょっと困ったような表情を浮かべて、うつむく。

「その……そんなに話したくないことなら、無理して話さなくてもいいよ」

「いやそんなことないよ。むしろいつかこのことは君に話そうと思ってたんだ」

「……そうなの?」

「うん。まあ話しづらいことではあるけどね」

 七瀬は笑っているけど、本当に大丈夫かな。

 心配していたら、七瀬は自分を落ち着かせるように息をつく。

 そして、彼女はこう切り出した。


「私はね、昔はきりたにくんと同じだったの」


 七瀬の言葉を聞いて、僕は一瞬、どう反応すればいいかわからなくなる。

「えっと……それはどういうこと?」

「つまり、昔の私は桐谷くんみたいに……いや君以上に学校に行ってなかったってこと」

 七瀬の発言に、僕はきようがくした。

「それって、本当……?」

「ほんとだよ。しかも少しでも学校に来てた桐谷くんとは違って、私は全く学校に行ってなかったの。完全な不登校状態だよ」

「七瀬が不登校って……」

 予想外の話に、僕は言葉が続かない。

 まさかあの七瀬が不登校だった時があるなんて。全く想像できない。

「その、どうして七瀬は不登校になったの?」

 控え気味にたずねると、七瀬は少し間を空けてから話した。

「……前にさ、桐谷くんは中学生の時は特に周りの空気に合わせちゃって、学校に行くのがつらかったって言ってたでしょ。私も同じだよ」

 それから七瀬は昔のことについて語った。

 七瀬が中学生の時、彼女は今とは正反対の人間だったらしい。

 自分がやりたいことは二の次で、常に周りに気を遣って、友達のしたいことを優先させて、嫌なことでも頼まれたら断れず……彼女はそんな日々を送っていた。

 そして、中学二年生のある日を境に、ななはいつも他人に気を遣ってしまう自分や人間関係に嫌気がさして、全く学校に行かなくなってしまった。

 不登校になってからは、僕と同じように引きこもって、一日中ゲームをしたりテレビを見たりする日々。

 七瀬いわく、当時はもう学校に行くことは二度とないと思っていたらしい。

「……そんなことがあったんだ」

「うん、だから昔の私は君と似ていたんだ」

 七瀬は笑っているけど、その笑顔はどこか悲しそうだった。

 話しているうちに昔のことを思い出してしまったのかもしれない。

「……でも、それじゃあどうして七瀬はどんな時でも自分を貫くような……そんな人になったの?」

「それはね、一本の映画がきっかけだったの」

 僕の問いに、七瀬はすぐに答えた。

「一本の映画……?」

「そう。その映画はね、私に沢山の勇気をくれたんだ」

 その後、七瀬は自分を変えた映画について語ってくれた。

 何でも七瀬の父親は映画鑑賞が趣味らしく、当時不登校だった七瀬は暇つぶしに何となく父親の映画コレクションの中から一本選んで見ることにした。

 その映画の主人公は小説家を目指している女性で、彼女には婚約者がいる。女性は貧乏で、婚約者はお金持ち。もちろん家族や親戚は婚約者と結婚するように言った。

 けれどある日、婚約者が女性にプロポーズをすると、なんと女性は断ったんだ。

 自分には夢があるから、結婚なんてするつもりはないって。

 周りからは猛反対されたけど、結局、女性は婚約者とは結婚せずに小説家を目指した。

 すると、その結果、数年後に女性は見事に小説家になって、裕福にもなり、自分の家で貧乏だった家族と一緒に暮らすことができるようにもなったんだ。

「たとえ目の前に約束された幸せがあっても、それを捨ててまで自分の夢を選ぶ彼女の姿を見て、私は素直にカッコいいと思ったの。憧れたの」

 七瀬はとてもうれしそうに話していた。

 きっと初めてその映画を見た時のことを思い出しているのだろう。

「……じゃあ七瀬はその映画に出てきた小説家を目指す女性みたいになりたくて、今みたいに常に自分らしくあり続けようとするようになったんだね」

「うん! あとハリウッド女優になりたいって思ったのもその映画がきっかけなの! 映画は洋画だったから多くの有名なハリウッド女優が出演していたんだよ!」

 そんな風に語る七瀬の瞳はキラキラと輝いていた。

 きっといま彼女が話してくれた映画を見た時も、こんな瞳をしていたんだろうな。

「ふぅ、ちょっと話し疲れちゃったかな」

 話に一区切りつくと、ななはぐーっと背中を伸ばした。

 その時、彼女の服が少しずれて、おへそがチラリズムしそうになる。

きりたにくん、私のおへそを見たら、罰金が発生するからね」

「待て待て。僕は七瀬のおへそなんて見てないぞ」

うそだ~絶対にいま見てたよ。ちなみにおへそ見たら罰金一万円だから」

「高いけど、無理したら払えなくないのがいやらしいな」

 そう返すと、七瀬はクスクスと笑う。

 そんな楽しそうに他人をからかうのはめてくれ。

 なんて思っていたら、ふとあることを思い出した。

「そういえば最初の頃、七瀬が僕にやたら話しかけにきた理由って、もしかして昔の君が僕と似ていたから?」

「そうだよ。君が昔の私みたいにならないか心配だったの」

 僕の問いに、七瀬ははっきりと答えた。

 あの時、どうして校内一の問題児がこんな半分不登校の僕に構うのか不思議だったけど、ようやく納得がいったな。

「桐谷くん、ありがとね。君がお見舞いに来てくれたおかげで、だいぶ元気になったよ」

「えっ……う、うん。それは良かった」

 七瀬の急な一言に驚いたせいで、僕はみまくりながら言葉を返してしまった。

 突然、お礼とか言わないで欲しい。どう反応していいかわからなくなる。

「演劇は私も大道具の担当になっちゃったけど、頑張らなくちゃね! 桐谷くんと一緒に沢山、大道具作っちゃうぞ!」

「沢山は作らなくても良いんだけど……うん、頑張ろう」

 僕が言うと、七瀬はやる気満々に拳を突き上げた。

 なんか百個くらい大道具を作りそうな勢いだけど、大丈夫かな。

「でもさきはいいな~、ジュリエット役できて」

「やっぱり主役やりたかった?」

「当然だよ。一番目立つし、沢山セリフあっていっぱい演技できるし」

 七瀬は「いいな~いいな~」とつぶやいている。

 平気そうにしてるけど、たぶんまだオーディションのことを引きずっているんだと思う。

「でも、なんであやはジュリエット役に立候補したんだろう。純粋に主役をやりたかったようには思えないけど……」

 やっぱり七瀬に嫌がらせをするため?

 それにしては演技が素人には思えなかったし、色々と引っ掛かる点がある。

さきは単純に私に勝ちたかったんだと思う」

「? それってどういうこと?」

 僕がそう問いかけると、

「咲はね、昔は有名な子役だったの」

「えぇ!? そうなの!?」

 まさかあのあやが子役だったなんて……。

 でも、これで彼女の演技がかったことの合点がいった。

「デビューした時は人気があったんだけど、成長するにつれて実力で他の子たちにどんどん抜かれていって、最終的には仕事が全くなくなっちゃったみたい」

「……そっか。厳しい世界だね」

 だけど、それでも綾瀬は役者の道を諦めず様々なオーディションを受けまくったらしい。

 ……でも残念ながらオーディションには一つも受からず。

「そして、咲は最後の望みで『ゆうなぎ』の入団オーディションを受けたの」

「っ! 『夕凪』っていまななが所属してる劇団の……」

 それに七瀬は小さくうなずいた。

「そう。咲がオーディション受けた日に私も一緒にオーディションを受けてたの。それで咲は落ちて、私が受かったんだよ」

 以来、綾瀬は役者業を辞めた、と七瀬は語った。

 ってことは、綾瀬はそのオーディションのことを根に持って、ジュリエット役に立候補したのか。それに、七瀬にいつも突っかかったりしてきたのもオーディションのことが原因に違いない。

「オーディションの時はまだ同じ高校に進学するって知らなくてね、校内で初めて咲を見た時は驚いたなぁ。向こうも驚いていたし」

「じゃあそこから七瀬は綾瀬にちょっかいかけられるようになったの?」

「ちょっかいっていつものやつ? あんなもん全然平気だけどね」

 七瀬は胸を反らして自慢げにする。

 確かに綾瀬とめてもいつも平気そうにしてるし、なんなら綾瀬を返り討ちにしている。

 だけど、今回みたいなこともあるし、本当に大丈夫なんだろうか?

「なんで心配そうにしてるのさ。きりたにくんみたいな人に心配されるほど私は弱くないよ」

「それはつまり僕が弱っちい人間だって言いたいの?」

 僕の言葉に、七瀬はにこりと笑顔を返してきた。

 まったく生意気なやつめ……。

 でもこんなことができるくらいなら、きっと大丈夫なんだろう。

 なんか心配して損したわ。

「……さてと、僕はそろそろ帰ろうかな。あんまり長居しても悪いし」

「別に気にしなくていいのに。なんなら泊まってく?」

「バ、バカじゃないの! 泊まるわけないじゃん!」

「あはは、顔赤くなってるよ~」

 ななはからかうように笑う。

 完全にバカにされてるなぁ……。

「とにかく僕はもう帰るから」

「うん、今日は本当にありがとね! せいらん祭、頑張ろう!」

「はいはい、わかってるって」

 そう返して立ち上がると、僕はそのまま扉に向かう。

 この調子だと明日か明後日あさつてにはいつもの感じで学校に来るだろう。

「……はぁ」

 ドアノブに手を掛けると、後ろから小さなため息のような音が聞こえてきた。

 振り返ると、七瀬は何かを手に持って悲しげにそれを見つめていた。

 それは『ロミオとジュリエット』の台本だった。

 高三の僕たちにとって、星蘭祭は今年で最後。

 それだけにきっと七瀬は僕が思っている以上に主役をやりたかったんだ。

「あれ? きりたにくん、帰らないの?」

 扉付近から動かない僕を見て、七瀬は不思議がる。

 どうしよう。どうにかして七瀬を元気づけることはできないだろうか。

 そう考えたところで、小学生以来、異性とロクに関わってこなかった僕ではなかなか思い付かないわけで……!

「あ、あの、七瀬って星蘭祭は誰かと回るの?」

「えっ、私は毎年一人で回ってるけど」

「一人なの!?」

「だっていつでも行きたいところに自由に行けるし。……でも桐谷くんに驚かれたくないな。どうせ君なんてまともに星蘭祭回ったことないんじゃないの?」

「うっ……まあそうだけど」

 回ってないどころか、自分のクラスの出し物が終わったら勝手に帰ってた。

「そ、その……もし良かったらでいいんだけど……」

「? 桐谷くん、なんかすごい汗かいてるよ?」

「いまそういうところ気にしなくていいから」

 割と真剣に話してる時に、こいつは……。

ななさ、その……良かったらせいらん祭を僕と一緒に回らない?」

 これ以上ないくらい心臓が高鳴りながら、僕は人生で初めて異性を文化祭に誘った。

 すると、七瀬は目をぱちくりとさせる。

 なんだその反応は……と思っていたら、急に七瀬が笑い出した。

「ちょ、ちょっと! どうして笑うんだよ」

「だって、あのきりたにくんからまさかそんな風に誘われるなんて」

「全然意味わかんないんだけど……」

 緊張しながら誘ったのに、それを笑うなんて……ひどすぎるぞ、この女。

「いいよ! 一緒に星蘭祭回ろう!」

「えっ、いいの?」

「もちろん! 断る理由なんてないし!」

「そ、そっか……」

 七瀬にそう言われて、僕は少しうれしくなってしまった。

 これであとは七瀬がジュリエット役ができなくなったことを忘れてしまうくらい、何とか僕が星蘭祭で楽しませよう。できるかどうかはわからないけど……。

「桐谷くんのおかげで星蘭祭がより楽しみになったかな」

「それは良かった。じゃあ今度こそ僕は帰るね」

「うん、ありがと。またね」

 七瀬は可愛かわいらしく手を振ってくる。

「またな、七瀬」

 それに僕は手を振り返すと、そのまま彼女の部屋を出た。

 その時、七瀬がくすっと楽しそうに笑っていた。


  ◆◆◆


 桐谷くんが部屋を出て行ったあと。

 私は彼から星蘭祭に誘われたことを思い出して、また笑っちゃった。

 でも、これは決してバカにしてるとかじゃない。

 知り合ったばかりの頃の桐谷くんだったら、面倒くさがってきっと星蘭祭を一緒に回ろうなんて誘わなかったと思う。

 だけど、さっきは私を心配してくれたのか、一緒に回ろうって誘ってくれたんだ。

 要するに、桐谷くんは少しずつ確実に良い方向に変わっている。

 それが私にはとても嬉しかった。

「これでもう昔の私みたいにはならないかな」

 出会った頃のきりたにくんは『彼女』──過去の引きこもっていた頃の私にとても似ていた。

 そんな彼が心配で、私はどうにか過去の私みたいになってしまわないように行動してきたけど……もうその必要はないと思う。きっと桐谷くんは大丈夫だ。

せいらん祭、楽しみだな!」

 そうつぶやきながら、私は桐谷くんと一緒に回る星蘭祭のことを想像していた。

 他の学年や生徒たちの発表を見たり、屋台とか巡ったり、他にも桐谷くんと一緒に回りたいところあるなぁ。

 たぶんいまの私はニヤけちゃってる。

 今までは一人で自由に回っていて、それはそれで星蘭祭を満喫できたけど、きっと桐谷くんと一緒に回る星蘭祭はもっと楽しめる気がするから!

 うん、絶対に楽しくなりそう!

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