第四章 星蘭祭



 七月上旬。そろそろ本格的に夏の暑さが襲ってくるこの時期。

 とうとう星蘭祭の開催日がやってきた。

 この日までに僕たちのクラス──三年A組は一カ月弱、演劇の練習を繰り返してきたため、準備は万端だ。

 あとは本番を待つだけなんだけど、その前に僕には一つやることがある。

「お待たせ」

 朝のホームルームが終わって教室の前の廊下で待っていると、なながやってきた。

 そう。これから僕は彼女と一緒に星蘭祭を回るんだ。

 七瀬は今日も今日とてブラウスの上からトレードマークの白のパーカーを着ていた。

 星蘭祭でもスタイルは変えないみたい。

「それでどこから行く? それとも先に何か食べる?」

「えっ、そ、そうだなぁ……」

 そう口にする僕は変に緊張していた。

 これまで女子と二人で出かけたりとか一回もしたことないから、こういう時どんな感じで話せばいいか全くわからない。

「ちなみに私は少しおなかいちゃってる!」

「そうなの? じゃあ先に何か食べられるところに行こうか」

「うん! ありがと!」

 なながニコッと笑う。

 見慣れているはずなのに、今日は文化祭だからか、笑顔がいつもより可愛かわいく見えた。

 そのせいでさっきから鼓動の音が騒がしい。

 僕はこの調子で大丈夫なのか……。

「たしか一年生が出し物で教室を使って模擬店やってるから、そこに行こう」

「おっけー! そうしよう!」

 七瀬はやたらテンション高めに言葉を返すと、不意に僕の手をつかんできた。

「っ! な、なに!?」

「混んじゃうかもしれないから、早く行こうよ!」

 七瀬はそう言って、僕のことをグイグイと引っ張っていく。

 その間、僕の心拍数はどんどん上昇していった。

 まずい。このままだと彼女にリードされっぱなしになっちゃう。

 そもそもジュリエット役のオーディションに落ちてしまった七瀬を励ますために、僕はせいらん祭を一緒に回ろうって彼女を誘ったんだ。

 だから、何とか七瀬のことを楽しませないと。

 頑張るぞ、僕。


「タピオカってこんな味するんだ」

 僕と七瀬は一年生の出し物のメイド喫茶にやって来た。

 そのため店員さんは全員メイド服を着ている。なぜか男性陣も含めて。

 お店のおすすめメニューはタピオカドリンクみたいで、人生で一回も飲んだことなかったから注文して飲んでみたけど、普通にしかった。

 タピオカは海外のイモで出来てるらしいけど、たしかにちょっとイモっぽい味もする。

「これできりたにくんもタピラーだね」

「タピラー? って、タピオカがめっちゃ好きな人ってこと?」

「たぶんそういうこと!」

「たぶんって……」

 意味がわかってない言葉を適当に使わないで欲しい。

「……それよりさ、それなに?」

「ん? なんのこと? 私は君と同じようにタピオカ飲んでるだけだよ?」

 ななが言った通り、彼女はタピオカをストローでちまちま飲んでいた。

 その仕草が、普段騒がしい彼女とは対照的でちょっと可愛かわいい。

 だけど、僕がきたいのはそこじゃない。

「タピオカ以外にも沢山食べものあるでしょ? それ全部食べきれるの?」

 七瀬の前のテーブルの上には、オムライスやらハンバーグやら他にも大量の料理が並んでいた。どう考えても女の子が一人で食べきれる量じゃない。

「これはもちろんきりたにくんとシェアするに決まってるじゃん」

「えっ、僕聞いてないんだけど」

「ちょっとしたサプライズだね!」

「そんなサプライズいらないよ……」

「まあほんとのこと言うと、桐谷くんに嫌って言われたら困るからだけど……」

「別に嫌じゃないけど……いややっぱり嫌かもしれない」

「あっ、ひどいなぁ。私とシェアするのが嫌だなんて。普通に泣いちゃうけど」

「シェアするのが嫌とかじゃなくて、その量絶対に食べきれないよ」

 七瀬はもう一度目の前に並べられている料理に目を向ける。

「大丈夫だよ。桐谷くんならイケる」

「まさかの僕任せなの!?」

 予想外の発言に、僕はあきれたようにため息をつく。

「そもそもなんでそんなに注文したのさ」

「せっかくだし、色んなもの食べたいでしょ」

「だからってこんな量頼む人いないでしょ」

 正直、シェアされても食べきれる自信がない。

「まあまあそんなに怒らないでよ。ほら、桐谷くん」

 七瀬は持っていたスプーンでオムライスをすくうと、そのまま僕の口元まで寄せてきた。

「い、いきなりなに!?」

「なにって知らないの? はい、あーんってやつだよ」

「知ってるけどそうじゃなくて、なんでこんなことするの!?」

「だって男の子はこういうの好きでしょ」

 からかうように言って、七瀬はオムライスを無理やり僕の口の中に入れた。

 初めてのあーんに僕の鼓動がやたら激しくなる。

しい? 美味しいでしょ?」

「まあ美味しいけど……」

「よしよし! じゃあこの感じで全部食べきっちゃおう!」

「っ! まさか最初からそのつもりで僕にあーんを──むぐぐっ」

 言葉の途中、ななにまた強引にあーんされた。

 おかげで口の中はパンパンだ。

きりたにくん、リスみたいだよ! 可愛かわいいね!」

 クスクスと笑う七瀬。

 ……バカにしやがって許さんぞ、七瀬。

 まあ、あーんは本当に良かったけど……。

 それから結局、僕は七瀬が頼んだ料理を全て食べることになった。

 ちょっとは七瀬も手伝ってくれたけど、ほとんど僕が食べた結果、僕の腹が人生でトップレベルに苦しくなった。

 ……まじで、もう何も食べられません。


「かなり沢山見て回ったね!」

 生徒や子供連れの家族で人通りが多い廊下を二人で歩いていると、隣から七瀬がうれしそうに言ってきた。

 あれから僕と七瀬は色々な出し物を見て回った。

 高二のダンスだったり、奇術部の巨大迷路だったり、オカルト部の占いだったり、他にもあと何個かある。

 おかげで僕は両腕に大量の参加賞やら特典やらを抱えていた。

「それ落ちそうだけど、やっぱり私が手伝おうか?」

 ななは僕の両腕からこぼれ落ちそうな参加賞たちを見て心配する。

「これくらい平気だよ。それより次はどこ行きたい?」

「また私が決めていいの? きりたにくんが行きたいところ言ってもいいんだよ」

「僕はいいよ。特に行きたいところとかないし」

「本当? それなら私が決めちゃうけど……」

 七瀬はキョロキョロと周りを見回す。

 そろそろ僕たちの演劇の時間も迫ってるから、次でラストかな。

「桐谷くん! あそこ行こうよ!」

 七瀬が指をさした先では、写真部が空き教室で記念撮影をやっていた。

 どうやら写真部がお客さんの写真を撮ってくれるらしい。

「最後のせいらん祭なんだし、記念に二人で一緒に写真撮ろう!」

「え? 二人で撮るの?」

「……もしかして嫌なの?」

「嫌ってわけじゃないけど……」

「じゃあ決まりね!」

 七瀬はそう言うと、上機嫌に鼻歌を歌い出した。

 まあ今年で最後っていうのは本当だし、思い出は作った方が良いよな。

 過去二回の星蘭祭はロクな思い出なかったんだし……。

 そんなことを思いながら、僕たちは写真部が撮影している教室に入った。


 中は割と本格的だった。

 レフ板などの撮影用の道具がそろっており、使っているカメラは一眼レフ。

 まるで写真館に来たみたいだ。

「ではそちらに衣装があるので、お好きな服にお着替えください」

 写真部の男子生徒が示した先には、様々なコスプレ衣装が揃っているハンガーラック。

 チアリーディングの服、チャイナ服、和服……本当に色んな衣装があるな。

「桐谷くんはどれにする? チアの服にする?」

「なんでだよ」

「だって面白そうだし」

「それ普通にひどいんだけど」

 僕のことをなんだと思ってるんだ……。

「でも、せっかくだし同じ服着ようよ。お揃いで撮ろ!」

 お願い! と両手を合わせて頼んでくるなな

 そう言われても、さすがにチアの服は……。

「まあ断られても強引に着せちゃうけど、写真部の皆さん! この人にチアの服を着せちゃってください!」

「っ! なに勝手なこと言ってんの!? っていうか、写真部の人もやる気満々でこっちに来るな! や、めろ!」

 その後、抵抗もむなしく、写真部の人たちに囲まれて強引にチアの服を着せられた。

 最悪だ……。


「大変な目に遭った……」

 場所は変わらず空き教室。あれから僕は七瀬と写真部の皆さんによって、チャイナ服やスパイ服など、様々な衣装に着替えさせられて写真を撮られた。

 一応、全部七瀬と一緒にだけど……。

 ちなみに今はもう僕も七瀬も制服姿に戻っている。

きりたにくん、結構ノリノリだったね」

「この顔を見て、まだそんなことを言える?」

「そんな怒んないでって。でも、私は楽しかったよ!」

「っ! そ、そっか……」

 七瀬が楽しんでくれたなら、まあいっか。

 そもそもそのために彼女と一緒にせいらん祭を回ってるんだし。

「お客様、最後にもう一枚撮りましょうか?」

 二人で話していたら、写真部員がそうたずねてきた。

いんですか!」

「はい、今はそれほど人がいないので、あと一枚くらいなら大丈夫ですよ」

 写真部員の言葉に、七瀬はれいな瞳を輝かせながら、次はどんな写真を撮ってもらおうかと考える仕草を見せる。

「じゃあ制服のまま撮ってもいですか?」

「もちろんです」

 七瀬の問いに、写真部員はうなずいた。

 その後、写真部員の方は撮影の準備を始める。

「七瀬、どうして制服なの?」

「どうせなら最後は私らしい姿を撮ってもらおうかなって」

 七瀬は自分のトレードマークの白のパーカーを指さした。

 あぁ、なるほどね。

「もちろんきりたにくんも一緒に写真撮るんだよ?」

「はいはい、わかってるって」

 しばし待っていると、写真部員から声が掛かった。

「では、これから撮影を始めますね」

 そう口にした写真部員は一眼レフを持っている。他の部員もレフ板を持ったり、照明を当てたりしている。撮影場所は先ほどと変わらず、教室の黒板の前。

 ちなみに、いまは黒板は背景用の布で隠れている。

 すると、ななが急に手を挙げた。

「あのすみません。後ろのこれ取ってもいですか?」

 彼女が指さしたのは、黒板を覆っている背景用の布だった。

「でもそれを取ると、あとでパソコンで背景を変えることができなくなりますよ」

「大丈夫です。私は背景を教室にしたいので」

 七瀬がもう一度お願いしますと写真部員たちに頼む。

 すると、それを了承した彼らはすぐに背景用の布を取ってくれた。

「どうしてこんなことするのさ」

「それは私たちが制服を着てるから。背景は教室の方がいでしょ」

「まあ確かに……」

 だからってわざわざ背景用の布を取って、なんて普通は言わないけど。さすが七瀬だな。

 その後、なんと彼女は黒板に「せいらん祭最高!」という文字やよくわからない可愛かわいいキャラを描きまくった。

 これも写真部に許可をもらったけど、なんだかもうやりたい放題だ。

「では、撮影を始めていくのでお好きなようにポーズを取ってください」

 そうして、やっとのことで撮影が始まった。

 これ以上は変なことは起きないだろう。

 そう思っていた僕だったけど、ふと隣を見ると七瀬が不思議なポーズをしていた。

 左手はピースっぽくして頭の前付近に、右手はオッケーサインみたいにして頭の後ろにある見たこともないポーズだ。

「……七瀬、そのポーズなに?」

「これはね、私が考え出したオリジナルポーズ!」

「そ、そっか……」

「どう? 可愛いでしょ?」

 自信ありげにたずねてくる七瀬。

 最初見た時はなんだこのポーズって思ったけど、よく見ると確かに可愛いかも。

「これ、私がジュリエット役だったらロミジュリに取り入れようと思ってたんだ!」

「ロミジュリのどこにそんなポーズを入れる場面があるのさ」

 もしかしてあの有名な「ああ、ロミオ様──」の部分とか?

 いやいや、もしそんなポーズしたら演劇が台無しになる。

「そうだ! きりたにくんも一緒にこのポーズしようよ!」

「えぇ!? 僕も?」

「そうだよ。おそろいのポーズで写真撮ろう!」

「そのポーズを……?」

「そんな嫌そうな顔しないでよ~絶対に楽しいから! ね?」

 ななは期待に満ちた瞳で、僕に顔をグイッと近づけてきた。

 刹那、僕の鼓動が段々と速くなっていく。

 こんな顔されたら、断れないんだよなぁ……。

「わ、わかった。やるよ、やるから」

「ほんと! やったね!」

 七瀬ははしゃぐように喜んだ。まったくズルいやつだ。

 それから僕は七瀬から不思議ポーズの仕方を教えてもらう。

 その間、写真部を待たせてしまったんだけど、彼らは嫌な顔一つせずに待ってくれた。

 写真部、優しすぎるでしょ。

「じゃあ撮っていきますね」

 写真部員が一眼レフを持って、パシャパシャと写真を撮っていく。

 僕たちは不思議ポーズをしているんだけど、慣れない体勢でじっとするのってなかなかキツイな。

「桐谷くん、ちゃんとポーズしてる?」

「心配しなくてもしてるって」

 ポーズが崩れないように頑張ってるんだから話しかけないでくれ。

 その後、さらに何枚か写真を撮ってもらうと、ようやく撮影が終わった。

「じゃあ今から写真をプリントアウトするので、あちらで少し待っていてください」

 そう指示されて僕たちは待機スペースに、写真部員はノートパソコンと印刷機がある教室の隅の方に向かった。

「良い感じに撮れてるといいね!」

「うん、まあ写真部の人だから大丈夫だと思うけど」

「でも、桐谷くんがあのポーズを一緒にやってくれて良かったよ!」

「まあ一緒のポーズを取るくらいどうってことないよ」

「でも、集合写真の時に私があれやっても誰も一緒にやってくれなかったんだよ」

「そりゃ集合写真だったらやらないでしょ」

 というか、そんな時も不思議ポーズやってたのか。

 一人だけ浮きまくりじゃん。

「お待たせしました。写真ができましたよ」

 不意に写真部員から声を掛けられた。

 びっくりした。写真できるのって意外に早いんだな。

「はい、どうぞ」

「ありがとうございます!」

 写真部員が僕たちの写真を差し出すと、なながそれを受け取った。

 次いで、僕たちは他のお客さんに迷惑にならないようにひとまず教室を出た。

「はい、これきりたにくんの分」

「あ、ありがとう……」

 廊下で七瀬から写真を受け取ると、早速確認してみる。

 全く同じ不思議ポーズで二人並んでいる僕と七瀬。

 面白おかしい写真だけど、良い感じに撮れてると思う。

 写りもかなりれいだ。

「すごくい! でも、桐谷くんのポーズはまだまだかな」

「なんでだよ、どう見ても完璧でしょ」

「全然完璧じゃないよ~。この左手の位置とか」

 左手の位置って。さすがにそんな細かいことまで言われても……。

「でも桐谷くんと良い思い出が作れて良かったよ! 桐谷くんも私と思い出作れて良かったよね?」

 七瀬はニヤつきながらからかうような口調でいてくる。

 この言い方、どう考えてもイエスしか言わせないようにしてるだろ。

「まあ……七瀬と思い出作れて良かったよ」

「ね! 良かったよね!」

 七瀬はとてもうれしそうにしている。

「私、この写真大事にするから、桐谷くんもくしちゃダメだよ」

「失くさないって……たぶん」

「あっ! いまたぶんって言ったね!」

「絶対! 絶対に失くさないようにします!」

「よし! それなら許す!」

 七瀬はわざとらしく偉そうな口調で言った。

 僕はいま一体何を許されたんだ……。

「さて、そろそろクラスの演劇の時間だし、教室に戻ろっか」

「えっ、もうそんな時間か」

 スマホで確認すると、確かにクラスの演劇の時間が迫っていた。

なな、その……教室に戻る前に一ついていい?」

「? どうしたの?」

「あの……今日さ僕と一緒にせいらん祭を回って楽しかった?」

 少し言葉に詰まりつつ、七瀬にたずねる。

 それに彼女は可愛かわいらしい笑みを浮かべて、

「そんなの楽しかったに決まってるでしょ!」

「っ! そ、そっか。なら良かった」

 正直、七瀬のことを楽しませられたのか不安だったけど、少なくとも及第点はもらえたみたいだ。

「よーし、演劇頑張るぞ! って言っても、私ときりたにくんは本番は大道具を運ぶくらいしかしないけど!」

「そうだけど、でも頑張ろう」

「うん! 桐谷くんと一緒に沢山、大道具運んじゃうぞ!」

「沢山は運ばなくても良いけどね……」

 そんな風に僕と会話する七瀬は笑顔だった。

 この様子を見る限り、もうオーディションのことも引きずってはなさそうだ。良かった。

 それから僕たちは星蘭祭で回ったところのどこが面白かったとか談笑しつつ、教室に向かった。


  ◇◇◇


 教室に戻ったあと。僕たち三年A組は演者の人たちは衣装に着替えて、大道具を担当している人たちは数人がかりで大道具を持って、体育館に移動した。

 体育館に入ったあとは舞台裏に行き、大道具を置いて、あとは僕たちの前にやっている他クラスの演劇が終わるまで待つのみだ。

 それが終わり次第、僕たちのクラスの『ロミオとジュリエット』の公演が始まる。

さき、主役なんだから頑張れよ」

「わかってるわよ。というか主役はあんたもでしょ」

 舞台裏にて、が励ましてあやがツンと返していた。

 ジュリエット役の綾瀬はきらびやかなドレスを、ロミオ役の阿久津は貴族っぽい衣装を身にまとっている。

 いま思ったけど、阿久津が七瀬に突っかかってたのって、おさなじみの綾瀬のためだったんだろうな。だからと言って、やって良いことじゃないけど。

さきちゃん、衣装すごい似合ってる!」

「わ、私もそう思うよ」

「そう? ありがと」

あつも似合ってるぜ、それ」

「うるせ、いちいち褒めんな」

 あやグループの取り巻きたち──たかはしたちばなすずが加わって、五人でわいわいと会話を交わしている。本番前なのに騒がしい連中だなぁ。

きりたにくん!」

 急に後ろから声を掛けられる。

 振り返ると、僕と同じ学校指定の体操服を着ているなながいた。

 大道具係は本番で大道具の移動がしやすいようにみんな同じ格好をしている。

「桐谷くんってさ、私がいなかったらずっと一人でいるよね」

「唐突になんの話!?」

「だってさっきから桐谷くんのこと観察してたら、ずっと君一人でぼーっとしてるから」

「お、おい! の恥ずかしいところを見るな!?」

 僕が慌てると、七瀬はくすっと笑う。

 そんなに他人をバカにして楽しいですかね。まったく。

「やっぱりあんたたちって仲良いのね」

 不意に綾瀬が近づいてきて、いつかと同じように突っかかってきた。

 一方、は他の取り巻きたちと一緒にしやべっている。

「本番前に私たちに絡んでくるなんて余裕だね」

「ぐっ、う、うるさいわよ」

 一切動じない七瀬に、綾瀬は悔しそうな表情を浮かべる。

 でも綾瀬は続けて攻撃をするかと思ったけど、それ以上何かを言ったりはしなかった。

 実はオーディション以降、二人はあまり派手にめたりしなくなったんだ。

 理由は、綾瀬があまり七瀬に絡んでこなくなったから。

 もしかしたら七瀬を差し置いて、ジュリエット役になったことを後ろめたく思っているからかもしれない。あくまでも、もしかしたらの話だけど。

「まあジュリエット役頑張ってよ。セリフ間違っても動揺したらダメだよ」

「っ! わかってるし、そもそもあたしはセリフを間違ったりなんかしないわよ」

「そっか。それなら安心だ」

 ニコニコしてる七瀬に対して、綾瀬はどこか気まずそうな表情を浮かべている。

 二人が顔を合わせても言い合いにならないなんて、違和感あるなぁ。

「おいさき、そろそろ俺たちの番だぞ」

 がそう伝えて、こっちに近寄ってきた。

 舞台の方をチラリと見ると、どうやら僕たちの一つ前のクラスの演劇が終わったみたい。

 いよいよ僕たちのクラスの出番だ。

 まあ僕は大道具の担当だから、本番中は大道具の移動くらいしかしないんだけど。

「わかったわ。連絡ありがと」

「つーか、本番前にななとなんか絡むなよ」

 阿久津は七瀬とついでに僕を警戒するようににらんでいる。

 今からみんなで演劇しようって時に、わざわざ敵意向けなくてもいのに。

 ……でも全部の事情を知ってみると、これは阿久津なりにおさなじみあやを守ろうとしているのかもしれない。

 ──その時だった。


「まずい! 倒れるぞ!」


 不意に男子生徒の焦った声が聞こえた。

 急いで視線を移すと、なんと近くに置いていた僕の身長の四倍くらいある背景用の建物の大道具が倒れてきていた。

 そして、それは僕と七瀬、阿久津と綾瀬がいる方向へ。

「危ない!」「危ねぇ!」

 とつに叫ぶ僕と阿久津。

 僕は二人して下敷きにならないように、七瀬を押し出すように倒れ込む。

 直後、バタン! と大きな音を立てて背景用の大道具が倒れた。

「いてて……七瀬、大丈夫?」

「うん、大丈夫……」

 倒れたままたずねると、七瀬はそう返した。

 起き上がって彼女を見てみると、特にもなく問題なさそうだ。

 良かったぁ。骨折してたり大きな傷とかできてたらどうしようかと思った。

「ありがと。カッコよかったよ、きりたにくん」

「そりゃどうも」

 ニコニコしながらお礼を言ってくる七瀬。

 それに僕は少し顔をらしながら言葉を返した。

 カッコいい、とか言われ慣れてないから、普通に照れくさいな。

「咲! 大丈夫か!」

 不意にの慌てた声が聞こえる。

 彼のそばにはあやがいた。

 阿久津が彼女を守ったのか二人とも下敷きにはならずに済んだみたいだけど、どうも綾瀬の様子がおかしかった。

「いたっ……!」

 綾瀬が床に座り込んで足を押さえている。

 そんな彼女は苦しそうに顔をゆがめていた。

「なんかまずくない?」

「あぁ、ヤバそうだな」

「ど、どうしよう……」

 ただならぬ様子に、綾瀬グループの取り巻きたちも心配している。

「こりゃすぐに保健室に連れていかないと!」

あつ、落ち着きなさいよ。これくらい全然平気だから」

 綾瀬はそう言って立ち上がろうとする。

 しかし──。

「いたっ!」

 声を上げて、すぐに床に倒れてしまった。

 立ち上がれないところを見ると、少なくとも捻挫はしてしまっていると思う。

 正直、そんな状態で演技をするなんてとてもじゃないけど不可能だ。

「おい、無理すんなよ!」

 阿久津は心配そうに声を掛ける。

「うるさいのよ。あたしが保健室なんか行ったら劇はどうするのよ」

「そんなの他のやつに任せるしかないだろ!」

「そんなのできるわけないでしょ! セリフ幾つあると思ってるのよ!」

「そ、それは……」

 綾瀬の指摘に、阿久津が言いよどむ。

 ジュリエットは『ロミオとジュリエット』の主役。当然ながら出番もセリフも多い。

 それを全て把握している人なんて、ジュリエット役の綾瀬以外には誰もいない。

「誰か! さきの代わりにジュリエットをやってくれるやつはいないか!」

 それでも阿久津は周りのクラスメイトたちにたずねる。

 しかし、彼女らはみんな阿久津から目をらして何も答えない。

 当然だ。誰だって舞台の上で恥をかきたくはないだろう。

「ほら、あたし以外にジュリエットはできないのよ」

「でもその足じゃ……」

 はどうしてもあやを舞台に出させたくないようだ。

 きっとおさなじみの彼女のことを大切におもってのことだろう。

 周りには不穏な空気が漂っている。

 このままだと演劇自体ができなくなるんじゃないか、と誰もが思っていた。


「私がジュリエットをやる!」


 不意に手を挙げたのはななだった。

 でもこの時、僕はそこまで驚かなかった。

 七瀬ならきっと綾瀬の代わりにジュリエット役をやると言い出すと思ったからだ。

 だって彼女はそういう人だから。

 それに七瀬はオーディションに立候補しているし、そもそも劇団で活躍する役者だから、今からジュリエットを演じることになっても全く問題なくやり遂げられる。

「レナ、あんた……」

 綾瀬が座り込んだまま嫌そうな表情を見せる。

 過去のこともあるし、彼女としては七瀬には役を譲りたくないのだろう。

「私もできればさきにジュリエットをやって欲しいけど、その足じゃ無理でしょ」

「……えぇ、そうみたいね」

「だったら私がジュリエットをやる。咲も演劇自体をダメにしたくはないよね」

 七瀬が問いかけるが、綾瀬は答えなかった。

 それに答えたら、完全にジュリエット役が七瀬に渡ってしまうからだ。

「大丈夫! 咲の分まで最高のジュリエットを演じてみせるから!」

 すると、七瀬は安心させるように綾瀬の右手をぎゅっと握る。

 それに綾瀬は少し驚いたあと、諦めたように小さくため息をついた。

「……わかったわよ。ジュリエット役はレナに譲るわ」

「っ! ありがとう、咲!」

 七瀬がお礼を言うと、綾瀬は首を左右に振った。

「いいえ、そもそも公平なオーディションの結果じゃなかったんだから、レナがジュリエットをやるのが正しいのよ」

「咲……」

「悪かったわね、きようをして」

 綾瀬は申し訳なさそうに謝った。

 ということは、やはり彼女はオーディションに立候補した時点で演技の出来に関係なく自分が勝ってしまうことがわかっていたのだろう。

「なに言ってんの! 全然気にしてないよ!」

「レナ……ありがとう」

 その時のあやは少し泣きそうになっていた。

 この様子だと、ななより実力が劣っているのにジュリエット役に選ばれてしまったことに、綾瀬は結構な罪悪感を抱いていたのかもしれない。

 性格やら目つきやらキツイけど、以前、取り巻きのたちばなが言っていた通り、そこまで悪いやつでもないのかも。

「足を痛めているさきには悪いけど、君を保健室に連れていったら、そこで衣装を私の体操服と替えてもらいたいの! それでも大丈夫?」

「えぇ、わかったわ」

 七瀬の問いに、綾瀬は小さくうなずいた。

「それからくん、劇は先に始めるようにクラスメイトのみんなに言って。ジュリエットの出番までには着替えは終わると思うから」

 七瀬が阿久津に指示を出すと、彼は少し驚いた顔を見せる。

 しかし、いつもみたいに反撃したりはしなかった。

「わ、わかった。よし! お前ら準備するぞ!」

 阿久津の言葉で、クラスメイトたちが各々用意を始める。

 僕も大道具を動かさないと!

 でも、その前に……。

「七瀬!」

「ん? どうしたの!」

 僕が呼んだら、七瀬はきょとんとする。

「そ、その……ジュリエット役、頑張って!」

 僕が言葉に詰まりながらエールを送ると、

「もちろん! パーフェクトで完璧に演じてみせるよ!」

 七瀬はニコッと笑ってピースサインをしてくれた。

 パーフェクトも完璧も同じ意味だけど……。

 でも、そんな七瀬の堂々とした姿に、僕はまたカッコいいと思ってしまったんだ。


  ◇◇◇


「僕の方こそ迷い子なんだ。ここにあってここにあらず。これはもうロミオじゃない。ロミオはどこか他にいる」

 舞台の上。演劇はもう始まっており、阿久津がロミオを熱演していた。

 驚いた。ってあんなに演技いのか。

 準備期間中、ひたすら大道具を作っていたから、いまここで彼の演技を初めて見た。

 スポーツもできて演技もできて、さらにはイケメン。スペックが高すぎて恐ろしいな。

「それにしてもななが遅いなぁ」

 あやを保健室に連れていったきり、七瀬は帰ってきていない。

 まあ保健室で綾瀬からジュリエットの衣装をもらって着替えているみたいだし、時間がかかるのかもしれないけど……。

「……まだ大丈夫か」

 演劇の進行を確認しながら、自分の中の不安を払拭するようにつぶやいた。

 その後、演劇は順調に進んでいく。

 阿久津はずっとロミオを上手く演じ続けていた。

 おかげでお客さんの反応も良く、これで七瀬が来てくれたら完璧だったんだけど……。


「……まだ来ないな」

 たったいまジュリエットが登場する一つ前の場面を迎えている。

 それなのに七瀬はまだ来ない。

 本当に大丈夫なのか?

 もし来なかったら、ジュリエットなしの『ロミオとジュリエット』になるけど。

「おいおい、七瀬が来てないぞ」

「どうしよう、このままだとまずいよ」

「まさか逃げたりしてないよな?」

 舞台裏にいるクラスメイトたちの間に不安が広がり始めた。

 これは良くない。誰かクラスメイトたちをまとめないと。

 しかし、そういうのに向いている七瀬と綾瀬は保健室、阿久津は舞台の上にいる。

 残念ながらこの場にはまとめ役がいない。

 だけど、このままクラスメイトたちを放っておくわけにもいかないし……。

「……僕がやるしかないか」

 七瀬がいたら、きっとクラスメイトたちを上手くまとめるに違いない。

 だったら僕だって……。

「……よし」

 僕は気持ちを落ち着かせるために呟く。

 そして、少し息を吸ってから、

「みんな聞い──」


「待たせてごめーん!」


 刹那、ななが急いで登場してきた。

 彼女が来た瞬間、周りがあんの空気に包まれる。

 急に出てきたからびっくりした。

 ……でも良かった。間に合ったんだ。

「七瀬、お帰り」

「ただいまきりたにくん」

 戻ってきた七瀬は先ほどまであやが身にまとっていた美々しいドレスを着ている。

 普段、騒がしい彼女がこういう気品あふれる服を着ると、良い意味でギャップが生まれて、正直な話、れてしまうレベルで似合っていた。

「どう? れいかな?」

「えっ……う、うん。綺麗だと思う」

「あっ、顔真っ赤になってるよ~」

「そ、そんなことないから! そもそもそっちが言わせたんでしょ!」

 慌てて返すと、七瀬は面白がるように笑った。

 こんな余裕がない時まで、からかわないで欲しい。

「それより、もうすぐ出番だよ」

「うん、わかってる」

 その時、七瀬が真剣な表情に変わる。

 まるで何かのスイッチが入ったみたいだ。

 いまや他の生徒たちが演じている場面が終わり、暗転する。

 その間に、次の場面に合わせて大道具を入れ替えると、再び舞台に照明が当てられる。

 舞台上に現れたのは、キャピュレット夫人役と乳母役の女子生徒たち。

 彼女たちのやり取りのなかに、いよいよジュリエットの出番だ。

「七瀬、その……頑張って」

「うん! 頑張ってくるね!」

 エールを送ると、七瀬はこちらに手を振ってくれる。

 乳母役の女子生徒がジュリエットを呼ぶと、七瀬は舞台へと出た。

「まあ、どうしたの? 誰がお呼び?」

 七瀬はセリフを口にしながら、優雅に登場する。

 その振る舞いは本当に名家生まれのお嬢様のようだった。

 その後も七瀬は他の生徒とは一線を画した演技を披露して、無事一つ目の場面を終えた。

「七瀬、お帰り」

「ただいまきりたにくん、ってこれさっきもやったじゃん」

 ななが笑いながらツッコミを入れてきた。

「ねぇねぇ桐谷くん、私の演技にれた?」

「急になに。まあ惚れたけど」

「あれ、なんかノリいいね」

「別にノリで言ってるわけじゃないけどね」

 僕は割とずっと前から七瀬の演技に惚れている。

 なぜなら彼女の演技には、演技が好きっていう気持ちがあふれ出ているから。

 僕にはそんな風に好きって思えるものがまだなくて、だから七瀬の演技を見ていると素直に尊敬できる。

「とにかく次の場面も頑張ってね」

「任せて! もっと桐谷くんのこと惚れさせてあげる!」

 七瀬は冗談っぽく言いながら、片目をパチリと閉じて可愛かわいらしくウィンクしてきた。

 それから再びジュリエットの出番が回ってくると、七瀬は舞台に向かう。

 演技が終わると、また舞台裏へ。

 そんな風にして、七瀬は順調にジュリエットを演じ続けた。


「あぁ、ロミオ様!! ロミオ様!! どうしてあなたはロミオ様でいらっしゃいますの?」

 バルコニーでジュリエットがロミオとの運命を嘆く名シーン。

 客席のどこまでも響くその声と圧倒的な演技力に、見てる人たちは魅了されていた。

 七瀬の演技には人の心を動かす力がある、と改めて思った。

 やっぱり彼女が心の底から演じることが好きだからこそ、そういうこともできるんだろうな。

「羨ましいな……」

 また思わずこぼれてしまった。

 僕もあんな風になれたらいいのに。

 その時、僕はどうしてか心底そう思ったんだ。


  ◇◇◇


 あやをしてしまうというアクシデント以降、僕たちの演劇は何事もなく進んでいた。

 おそらくこのまま幕切れを迎えられるだろう、と誰もがそう思っていた。

 しかし、残念ながら物語の終盤でそれは起こってしまった。

「いってぇ!」

 舞台が暗転して、舞台裏に戻ってきたが不意に声を上げて倒れた。

 彼はさっきのあやと同様に足を押さえている。

 きっと綾瀬を助けようとした時に、彼女と同じように足を痛めてしまったんだ。

「阿久津くん!」

 ななが慌てた様子で阿久津に駆け寄った。

「大丈夫!?」

「うるせーな。これくらい平気だよ」

 そう言いつつも阿久津は立ち上がれない様子。

 どうやら今までは苦痛に耐えつつ無理して演技をしていたようだ。

 でも、ここに来て限界を迎えてしまったみたい。

 そんな阿久津を心配して、取り巻きたち──たかはしすずたちばながやってくる。

「全然大丈夫じゃないじゃん!」

「そうだぜ、無理すんなよ」

「うん。無理は、その……良くないよ」

 三人が不安そうな表情でそれぞれ阿久津に伝える。

 こう見ると、なんだかんだ言って阿久津って信頼されているんだな。

「そういうわけにはいかないだろ。もうすぐ出番だって来るし」

 阿久津は再び立ち上がろうとするが、やっぱり途中で倒れてしまう。

「阿久津くん、誰かと役を代わろう」

 そう言い出したのは七瀬だった。

「ふざけんなよ。そんなことするわけねーだろ」

「でもこのままだと演劇が中止になっちゃうよ。それでも良いの?」

「ぐっ、それは……」

 真剣に問い掛ける七瀬に、阿久津は言葉に詰まった。

 さすがに彼も高校最後の演劇を中止にはしたくないだろう。

「……でも誰が俺の代わりをやるんだよ?」

「それはさきの時みたいにみんなにくしかないでしょ」

 七瀬はそう返すと、クラスメイトたちがいる方に振り向いた。

「この中に阿久津くんの代わりにロミオを演じてくれる人はいない?」

 七瀬が問い掛けるが、誰も名乗りを上げる者はいない。

 急に言われても、七瀬みたいに「はい、やります」とはそうそうならないだろう。

「もう物語終盤だし、ロミオが出るのはあと1シーンしかないの。セリフもそんなにない。次のシーンは私もいるしセリフを忘れてもちゃんとカバーするから」

 ななが何とか代わりのロミオ役の生徒を探すが、やっぱり誰もやろうとはしない。

 このままグダグダしていると、ロミオの出番が来てしまう。

「…………」

 以前の僕だったら、絶対にこんなところで名乗り出たりしない。

 ……でも七瀬と出会って、彼女の自分らしくあり続ける姿を見て、彼女に憧れた。

 こんな場面でも七瀬だったら、女子なのにロミオ役をやってしまうだろう。

 だったら僕も頑張ってみたい。

 そしたら──少しでも七瀬に近づけるかもしれないから。


「その……ロミオ役は僕がやるよ」


 手を挙げて言うと、クラスメイトの視線が一気に僕の方へ。

 しかも、全員がお前が!? みたいな顔をしている。

「お前がロミオ役なんてできるのかよ」

 なんならが直接そういてきた。

「え、えっと、その……」

 なんで代わりをやるって言っただけでにらまれるの。

 こっちは演劇が中止にならないようにしようとしてるのに……。

「安心して、阿久津くん。きりたにくんなら大丈夫だよ」

 七瀬は僕のことをフォローしてくれた。

「桐谷くんはね、ロミオのセリフはそれなりに覚えているから」

「は? なんでだよ?」

「実は私がジュリエット役のオーディションを受ける時に、彼にはロミオ役で練習に付き合ってもらってたの」

 だから大丈夫、と七瀬は阿久津に伝えた。

 次いで阿久津は疑うように僕のことをじっと見てくる。

 顔が近いしこわいなぁ……。

「……わかった。じゃあ頼むわ、きりしま

「桐谷だけどね……」

 この人、絶対にわざと間違えてるよ。

 さっき七瀬が僕の名前を呼んだのちゃんと聞こえてたはずだし。

 それから僕は舞台裏の隅で急いで阿久津と服を替えて、ロミオの衣装を身にまとった。

 ややサイズは大きいけど、そこまで気にするほどでもないから問題はないと思う。

 準備が整って、あとは舞台に出るだけだ。

きりたにくんならロミオ役をやってくれると思ってたよ」

 その時、ななが声を掛けてきた。

「どうして? 僕が七瀬の練習に付き合ってロミオをやっていたから?」

「それもあるけど、何となくいまの君ならやってくれるかなって」

「……そっか」

 七瀬の言葉に、僕は無性にうれしくなってしまった。

 彼女にちょっとだけ認められた気がしたんだ。

「さて、お客さんを待たせてるからそろそろ行こっか」

 七瀬が舞台を見て、それから僕を安心させるようににこりと笑ってみせた。

 先ほどから変わらず舞台は暗転したままだ。

 お客さんには既にナレーションでアクシデントによって中断していると伝わっている。

「じゃあ一緒に頑張ろっか! セリフ忘れた時は私が何とかするから!」

「何とかって?」

「桐谷くんの代わりに私がセリフを言う」

「それ劇がめちゃくちゃになりそう……」

 でも七瀬だったらやっちゃうんだろうなと思った。

 彼女はちやなことをするけど、大体それは誰かを助けるためだから。

「大丈夫、セリフはちゃんと覚えてるから」

「ほんと? なら安心だね」

「うん、だから行こう」

 七瀬と一緒に僕は舞台へと向かう。

 そして互いに所定の位置に着くと、幾つもの照明がいた。

「っ!」

 明るくなった途端、目の前に客席に座っている大勢のお客さんが見えた。

 その瞬間、僕の中に一気に緊張が走る。

 今までこんなに多くの人たちの前で何かをやった経験なんてなかったからだ。

 正直、失敗したらって考えるとかなりこわい。

 ……でも、以前の僕だったらこの瞬間にロミオ役として舞台に立ってなんてないと思う。

 そう考えたら緊張もあるけど、それより頑張りたい気持ちの方が強くなってきた。

「……ふぅ」

 気持ちを落ち着かせるために、僕はほんの少しだけ息を吐く。

 場面はキャピュレット家の墓場にて、ロミオが仮死しているジュリエットが本当に死んでしまっていると思い込み、毒薬で自殺をするシーン。

 いま僕は地面に膝をつきながら、横たわっている七瀬を抱えている。

 この場面ではジュリエットのセリフはない。

 だからいきなり僕の番だ。

「ああ、いとしのジュリエット、あなたはまだそんなに美しいのです?」

 僕の演技はきっと普通かそれ以下だと思う。

 ななどころかよりもずっと下手だ。

 それでも今までに味わったことがない高揚感があった。

 そうして僕は長々と続くセリフを間違うことなく言い続ける。

 その内、初めに感じていた緊張も徐々に薄れ、少し楽しくなってきた。

 もしかしたら七瀬は演技をしている時、こんな気持ちになっていたんだろうか。

 そして──。

「さあ、わが愛しの人のために!」

 最後までセリフを言い切ったあと、僕は毒薬を飲もうとした。

 毒薬と言っても作り物なんだけど……。

 これでロミオは死んで、僕の出番も終わる。

 良かった……どうにかやり切った。

 そうあんした瞬間だった。


「ロミオ様……」


 なんと僕に抱えられていたジュリエット──七瀬が起き上がったんだ。

 ……えっ、何してんの?

「ロミオ様! ロミオ様なのですね!」

 七瀬は僕の両手を握り、感動している演技をしてくる。

 それに僕は困惑していた。

 こんなことするなんて全然聞いてないんだけど!?

「じゅ、ジュリエット。ジュリエットなのか。まさか生きているなんて」

 一応、それっぽい演技をしてみたけど、セリフはむし口調も変だし色々めちゃくちゃになってしまった。

「さあロミオ様! 私と一緒に遠くに逃げましょう! キャピュレットもモンタギューもない、どこか遠くへ! そして、二人で幸せになりましょう!」

 すると、七瀬が立ち上がって僕に手を差し出した。

 突然のアドリブに驚きっぱなしだった僕。

 でも、いまの彼女の演技に魅せられて、自然とこんなセリフを口にしていた。

「ああ! そうしよう! 二人で幸せになろう!」

 僕が返すと、ななうれしそうな表情を見せた。

 な、何とか乗り切った……?

 そうあんしたのもつか

「では、私と誓いのポーズをして頂けますか?」

 七瀬から新たなセリフが飛んできた。

 って、なんだ誓いのポーズって!?

「ち、誓いのポーズですか……?」

「はい! これが誓いのポーズです!」

 七瀬は左手をピースっぽくして頭の前付近に、右手をオッケーサインみたいにして頭の後ろに──まさかのあの不思議ポーズだった。

 そういえば、このポーズをロミジュリに入れたいって言ってたっけ。

 本気でポーズ入れてきやがったよ、この人。

「二人で幸せになるためです! さあ早く!」

 不思議ポーズをしたまま、七瀬はこっちをかしてくる。

 僕にそれをやれって言うのか。しかもこんな演劇の本番で。

 チラリと客席を見ると、観客が皆そろって何だこれは、みたいな表情を浮かべていた。

 正直、全くやりたくないけど……演劇を進めるにはやるしかない!

 そう決心をした後、僕は思い切って不思議ポーズを取った。

「そうですロミオ様! これで二人で幸せになれます!」

 ななは不思議ポーズを維持しつつ僕の不思議ポーズを見て、今にも泣きそうな演技をしていた。いや意味わからんし……。

 あとか客席からパチパチと拍手が聞こえるし……もうちやちやだ。

「では、ロミオ様! 私と一緒にいきましょう!」

 すると、七瀬が笑顔で僕に手を差し出した。

 その笑みは楽しかったでしょ? とでも言うようだった。

 そんな彼女を見て、つい僕も笑ってしまった。

「いこうか、ジュリエット!」

 そうして僕が七瀬の手を握ると、手をつないだまま、僕たちは退場した。


「ジュリエットが目を覚ましちまったよ」「すごい展開ね」「まさかこんなことになるなんてな」「ロミオ死んだら可哀かわいそうだしな」「良いんじゃないか面白くて」「っていうか最後のポーズなんだ?」「可愛かわいかったね、あのポーズ」


 原作とは全く違う展開に、会場は騒然としていた。

 何なら舞台裏に戻ったら、クラスメイトたちの顔も青ざめていた。

 そんな彼らを見て、少し笑ってしまった僕は、きっと少なからず七瀬の影響を受けてしまっているのだと思う。

 ふと隣を見ると、七瀬も同じように笑っていた。


 その後、七瀬のとんでもないアドリブのせいで、きゆうきよジュリエットが短剣で自殺するシーンがなくなったり色々あったけど、なんとか劇を幕切れまで持っていくことができた。

 おかげで結局、僕たちの『ロミオとジュリエット』は滅茶苦茶になってしまったけど、悲劇ではなく、喜劇に終わったのだった。


  ◇◇◇


「どうしてあんなことしたのさ」

 舞台裏。カーテンコールに応える準備をしている間。

 僕は七瀬にたずねた。

「私、前に言ったよ。バッドエンドは嫌いだって」

「いや、だからって本番でいきなりあんなことしないでしょ」

 一応、幕切れまでいけたから良いものの。危うく大惨事になるところだった。

 ところで、クラスメイトたちはお客さんの反応がすこぶる良いから、ななに文句とかは言っておらず、むしろ七瀬のおかげで最高の演劇になったと言っている生徒もいる。

「だってハッピーエンドにした方が絶対に面白いと思ったから!」

 七瀬は満面の笑みを見せてきた。

 面白いと思ったから『ロミオとジュリエット』の結末を悲劇から喜劇にする。

 とても彼女らしい考えだと思った。

 そして、僕はあれこれと文句を垂れているけど、実際のところはそんな行動を起こせる彼女をやっぱり羨ましいと感じて、僕には到底できないな、と思ったんだ。

「でもあのオリジナルポーズ? を演劇に入れたのはどうかと思ったけど」

「えへへ、面白かったでしょ?」

 七瀬はいたずらっぽく笑った。

 なんかズルい反応するなぁ……。

「おいきりたに

 不意に名前を呼ばれた。だ。今度こそ本当の名前で呼んでくれた。

 ……けど、逆にこわいな。心なしか、にらまれている気もするし。

「……な、なに?」

 怒られるかと思って、恐る恐るたずねる僕。

 だけど、阿久津は少し気まずそうに後頭部をきながら、

「その、ロミオ役やってくれてありがとな。何回かお前をバカにしたと思うけど、その時は悪かった。……すまん」

「えっ、う、うん」

 あの阿久津に謝られた。一体どんな心境の変化が?

 ロミオ役の代わりをやったことがそんなに良かったのだろうか。

「あと、七瀬も今まで悪かったな」

「全然気にしてないよ~。っていうか、いつでもかかって来なって感じだね」

「ふっ、そうかよ。じゃあそうするわ」

 七瀬のわざとらしい挑発に、阿久津は笑みを浮かべながら言葉を返した。

 それから阿久津はいつもの取り巻きたちがいるところへ戻っていく。

 そこにはまつづえをついているあやもいた。

 病院にはまだ行っておらず、カーテンコールに出た後に行く予定らしい。

「桐谷くん、始まるよ」

 七瀬にそう言われた。

 そろそろカーテンコールの時間が来たみたいだ。

「さあ行こう! きりたにくん!」

「うん、行こう」

 ななに呼ばれて、他のクラスメイトと一緒に僕は舞台の上まで歩いていく。

 すると、舞台の前──大勢のお客さんが立ち上がって迎えてくれた。

「良かったぞ~!」「最後の方は驚かされたよ!」「良いロミジュリだった!」「あんなロミジュリは初めて見たよ!」「私もあのポーズやってみたいな!」「もう一回見たいぜ!」

 そんな風にお客さんが次々と称賛の言葉をくれる。

 その光景に僕の胸は人生で一番熱くなった。

「良いよね、カーテンコールって」

 隣にいる七瀬がぽつりとつぶやいた。

 そっか。彼女は劇団に入ってるからいつもこれを味わっているんだ。

 そして、今回のカーテンコールのこの歓声もほとんどは七瀬が作り出したもの。

 もちろんクラスメイトたちが力を合わせて頑張ったっていうのもあるけど、彼女が『ロミオとジュリエット』の結末を変えたからこそ、観客は感動したんだと思う。

「やっぱり七瀬ってすごいなぁ……」

 お客さんたちに手を振りながら、僕は呟く。

「ん? いま何か言った?」

 七瀬が視線を客席に向けながらたずねてくる。

 さっき口にした言葉を言おうかと考えたけど、それよりも僕は一つ彼女に伝えたいことがあった。

「あのさ、七瀬」

「どうしたの? 桐谷くん?」

 七瀬はチラリとこちらを見る。

 すると、僕は──。


「僕は夢を持ちたい」


 こうして歓声を浴びて、僕も七瀬のように誰かを感動させられるような存在になりたい、と心底そう思った。

 そして、そんな自分になるために、夢が欲しいと思ったんだ。

「そっか」

 そう呟いただけだったけど、七瀬はうれしそうに笑っていた。


  ◇◇◇


 せいらん祭から一週間がった。もうそろそろ夏休みを迎える頃。

 僕は自分の夢について考えていた。

 どんな夢が良いか。将来どんなことがしたいか。

 僕は何が好きか。僕に向いているものは何か。

 あれこれと考えているけど、なかなか思い付かない。

「……はぁ、どうすればいいんだ」

 朝のホームルーム前。教室で自席に座りながら僕はため息混じりにつぶやいた。

 夢はそんな簡単に決めるものじゃないとわかっているけど、このままだと一生夢を持てない気がする。

 そもそも今までつまらない生き方をしてきたから、自分が好きなこととか真剣に考えたことなかったし、僕には夢につながるものが何もない。

「なんでそんな暗い顔してるの?」

 不意にななが声を掛けてきて、さらには顔をのぞき込んでくる。

 すると、彼女のれいな顔が目と鼻の先まで迫っていた。

「うわっ!?」

 驚いて、僕はすぐに彼女から距離を取る。

「うわって失礼だな。そんなに私のことが嫌いなの?」

「そういうわけじゃないけど、いきなり出てきたら誰だってビックリするよ」

 おかげさまで心臓がさっきからやたら騒がしい。

「それでもその反応は傷つくなぁ」

 七瀬はしくしくとジェスチャーも加えつつ、泣きをする。

 役者のくせになんて下手くそな演技なんだ。

「で、なんで暗い顔してるの?」

「……そんな顔してないし」

 僕は顔をらして答える。

 夢のことを七瀬に相談するのも一つの手だけど、僕はそんなことしたくなかった。

 自分の夢くらい自分の力で見つけたい。

「え~絶対に暗い顔してたよ」

「してないって」

 否定し続けても、七瀬は全く納得してくれない。

 ……これは話題を変えるしかないな。

「そういえばあやたちとは言い合いとかしなくなったね」

「うん、さきくんも私に突っかかってくることがなくなったからね~」

 ななうれしそうに言った。

 せいらん祭以降、あやたちと七瀬がめることは一切なくなった。

 むしろ、綾瀬がたまに七瀬に話しかけて談笑したりしている。

「きっと星蘭祭で綾瀬の代わりに七瀬がジュリエットを演じたからだよ」

「まあそうかもしれないね。……でも、そんなこと言ったらきりたにくんもくんの代わりにロミオを演じたでしょ。あれから阿久津くんとは仲良くなった?」

「えっ、まあうん……」

 星蘭祭が終わってから、阿久津は僕のことをにらんだりしなくなって、たまに挨拶もしてくれるようになった。

 でも談笑したりするわけでもないし、仲良いかと聞かれたら微妙なラインだ。

 だけど、僕は阿久津とはこのくらいの距離感がちょうど良いと感じているし、あっちもたぶんそう思っているはず。

「それでさ、桐谷くん」

「ん? なに?」

「さっきはどうして暗い顔してたの?」

「またそれ!?」

 何かが引っ掛かったのか、七瀬はまたさっきと同じ質問をしてきた。

 でも僕は暗い顔なんてしてない、何でもない、で突き通し続けた。

 この女、勘が鋭いな!


  ◇◇◇


「わぁっ!」

 二限目の体育の授業。内容はしゆういちのクラスと合同でサッカーだった。

 僕はミニゲームに参加していたんだけど、パスされたボールを思い切り空振り、さらにはそのまま後ろに盛大に転んだ。

「いてて、腰をぶつけちゃったな……」

かける、大丈夫か?」

 一人で腰を押さえていると、上から爽やかな声が聞こえる。

 見上げると、体操服姿の修一が僕に手を差し出していた。

 彼は敵チームのメンバーだ。

「ありがとう」

「いえいえ、どういたしまして」

 そんなやり取りをしたあと、修一の手を借りて僕は体を起こす。

「勉強も運動も何でも無難にこなすかけるが空振りなんて、どうしたんだ?」

「ちょっと待て、その何でも無難にってなに。バカにしてるじゃん」

「いやいや、最高の褒め言葉だろ」

 と言ってる割に、しゆういちはニヤニヤしてる。やっぱりバカにしてるだろ。

 そんなくだらないやり取りをしていたら、試合終了の笛が鳴った。

 僕が入っていたチームはボロ負けだった。


 試合が終わって、僕と修一のチームは休憩時間を迎える。

 今度は他のチームが試合をしている中、二人でグラウンドのベンチに座った。

「で、なんかあったのか?」

 隣から修一がたずねてきた。

「なんでそんなことくの?」

「試合中、ずっと様子がおかしかったからな」

「そう? そうでもなかったと思うけどな」

「そんなことねーよ。俺にはわかるんだよ」

 修一はそう言い切ると、続けて訊ねてきた。

「悩み事か?」

 その問いに、僕はどう答えようか迷う。

 夢について悩んでいることを、なるべく他の人には話したくない。

 でもこのまま一人で考えているだけで、夢は見つかるのか?

 迷った挙句、僕は修一に一つ質問をすることにした。

「いきなりで悪いんだけどさ、修一って夢とかある?」

「本当にいきなりだな。しかも夢って……」

 修一は少し困惑したような表情を浮かべる。

 試しに他の人の夢を聞いてみよう。もしかしたら参考になるかもしれないし。

 そう思って返答を待っていたら、修一から返ってきたのは意外な答えだった。

「特に夢なんてねーな。考えたこともない」

「……そうなの?」

「おう。まあ小さい頃はサッカー選手とかあったけど、それは小さい頃だったから抱けた夢だ。高校生になって明確な夢を抱いているやつなんてほとんどいないと思うぜ」

 修一は淡々と語った。

 確かに彼の言う通りかもしれない。

 僕はここ数カ月間、ななとよく一緒にいて、彼女を身近に感じてきたから、誰でも夢を持っていると思ってたけど。

 よく考えたら、ななのようにハリウッド女優になりたくて、劇団に入って、みたいな夢を抱いてそれのために行動してる高校生なんて、そうそういるわけない。

「だからまあ大半のやつは何となく大学に行って何となく就職するんだよ。俺もそうだし」

「……そうだよね」

 しゆういちが言っていることはわかる。

 少し前までは僕も彼と全く同じことを思っていたから。

 ……でも七瀬のことを知った僕にとっては、それがすごくもったいない気がした。

 夢を抱いて、その夢に向かって人生を歩んでいくその姿はとてもれいなものだから。

「……っ!」

 その時、僕はあることを思い付いた。

 高校生の大半が夢を持っておらず、何となく人生を進んでしまうのなら。

 そうなってしまわないように僕がサポートをしてあげたら良いんじゃないか。

 以前の僕もその大半と同じだった。

 だからこそ、夢を持っていない大半の高校生に寄り添えるはずだ。

「……そっか」

「? どうしたかける?」

「修一、ありがとう」

「いや、まじでどうしたんだよ?」

 こいつ、頭おかしくなったのか、みたいなトーンでいてくる修一。

「修一のおかげで悩みが解決したんだ」

「まじ? まあそれなら良かったけど」

「これで次の試合はハットトリックを決めれそうだよ」

「いやそりゃ無理だろ」

 修一は首を横に振るけど、僕はそのくらい気分が高まっていた。

 そして、次の試合。

 開始十秒で、相手チームが蹴ったボールが顔面に直撃して、そのまま僕は退場になった。……サッカーなんて二度とするもんか。


  ◇◇◇


「このセリフの時はもっと派手に演技をした方が良いかもなぁ」

 昼休み。旧校舎の空き教室にて、僕は昼食をとっていた。

 隣では七瀬が今度『ゆうなぎ』で公演する劇の台本をチェックしている。

 ジュリエットのオーディション以降、僕は七瀬の演技の練習を手伝っていない。

 オーディションが終わった時点で練習は必要なくなったし、『ゆうなぎ』が公演する劇の演技の練習には、だいぶ前にもう付き合わなくていいよ、と彼女本人から言われているし。

 それにとの関係が良くなったから、教室で昼食をとっても良いんだけど、僕は変わらずこの空き教室で昼休みを過ごしていた。

 理由は、単純にななと過ごす時間が楽しいから。

 加えて、今日は彼女に伝えたいことがあるからだ。

「七瀬さ、ちょっといい?」

 僕が少し緊張しつつたずねると、

「うん、いいよ~」

 七瀬は快く承諾してくれた。

 それから彼女は台本を机に置く。

「それで? 私に何か頼み事?」

「いや、頼み事じゃなくて……少し報告したいことが……」

「報告……?」

 七瀬はこてんと首をかしげる。

 しかし直後、何かを思い付いたみたいな感じで、

「もしかして体育のサッカー中に顔面でボールを受け止めてたこと?」

「違うよ!? というか、なんで知ってるの!?」

「女子もグラウンドで体育の授業だったから。私たちは走り幅跳びだったけど」

「……そ、そうなんだ」

 まさかあんなダサいところを見られてたなんて。

 恥ずかしすぎて死にたい……。

「言っておくけど、僕がしたかった報告はそれじゃないから」

「違うの?」

「うん、逆になんでそれだと思ったの」

 僕はため息混じりに言った。

 その後、一つせきばらいをしたあと、僕は仕切り直して彼女に話した。

「僕が君に報告したいことはね、その……僕の夢を見つけたんだ」

 言った瞬間、七瀬はぽかんと口を開けてフリーズしていた。

 もしかして聞こえてなかったのかな、と心配していたら、

きりたにくん、おめでとう!」

 急に七瀬から祝福された。しかもとびっきりの笑顔で。

 夢を見つけたことが祝われるほどのことかわからないけど、彼女からの言葉は素直にうれしかった。

「それじゃあさ、いきなりくけどきりたにくんの夢ってなに?」

 わくわくした様子で訊いてくるなな

 彼女のような大きな夢ではないから、あんまり期待はしないで欲しいけど……。

 そして、僕は自分の夢を七瀬に明かした。


「僕はね、高校教師になるよ」


 そう告げると、七瀬はちょっと驚いた表情をしたあと、少し口元を緩めた。

「高校教師かぁ……」

「そ、その……どうかな?」

「? どうかなって?」

「えっと……良いと思う?」

 正直、僕はこの夢で納得しているというか……自分に合っていると思っている。

 だから、僕に夢を抱きたいと思わせてくれた七瀬からも同じような言葉が欲しかった。

 しかし、彼女は──。

「そんなこと私にはわからないよ。だってこれは桐谷くんの夢なんだもん」

「えっ……うん、まあそうなんだけど……」

 ななが言っていることは正しい。

 確かに他人の夢をどう思う? なんてかれてもそんなの知ったこっちゃないよな。

 それでも七瀬から何か一言欲しかったな、なんて少し落ち込んでいると、

「だけど、夢が良いものになるか悪いものになるかは、今後の君次第じゃないかな?」

 七瀬はそう口にして、笑いかけてくれた。

 少なくとも彼女は僕の夢に否定的なことを思ってはないみたいだ。

 それだけで僕は少し自分の夢に自信を持つことができた。

「でも、どうして高校教師なの?」

 七瀬は不思議そうに訊いてきた。

「それはね、高校生が一番、夢を諦めて過ごしているんじゃないかなって」

 しゆういちの話を聞いて思ったんだ。

 高校生の大半は夢を持っていない。

 でも、彼らだって小さい頃は夢を抱いていたはずなんだ。

 だけど、少しずつ大人になっていくにつれて、現実が見えてきてその夢を諦める。

 次の夢を抱こうにも現実を突きつけられたあとだと、なかなかそうすることができない。

 故に、彼らは夢を持たないまま何となく大学に進学して、何となく就職をしてしまう。

 僕はそんな高校生たちを救いたい。

 七瀬が僕に夢を抱きたいと思わせてくれたように、僕も彼ら彼女らが夢を抱きたいと思えるように手助けをしたい。

 だから、僕は高校教師になりたいんだ。

 そんな思いを七瀬に伝えると、

「とっても素敵な理由だね!」

「そ、そうかな……?」

「うん! 私はそう思う!」

 その言葉を聞いて、僕は胸の辺りが温かくなった。

 正直、彼女の夢のスケールが大きいだけに、しょうもない夢とか言われたらどうしようかと少し心配してたし。

「じゃあお互い頑張らなくちゃね!」

「そうだね。教師になるためには教育大に行かなくちゃいけないから、とりあえず僕は勉強を頑張らないと」

「そっか……。大変だね」

「七瀬ほどじゃないと思う。君は学校に通いながら、劇団の公演に出ているんだから」

 僕なんかより、七瀬の方がよっぽど大変だ。

「あの、きりたにくん。実はね……」

「……なに?」

 ななの言葉を聞いて、僕はき返す。

 しかし、彼女は言葉を止めて、続きを話そうとしなかった。

「どうしたの?」

 様子が気になって、僕はもう一度訊き返すと、

「ううん、やっぱりなんでもない」

 七瀬はそう言って首を左右に振った。

 ……どうしたんだろう。別に大したことじゃなかったのか。

「それよりもさ、握手しよっか!」

「握手? ってなんで急に」

「これからお互い頑張ろうねって握手! ね!」

 七瀬が両手を合わせてお願いしてくる。

「まあそういうことなら……」

いの? やったね!」

 七瀬はそう言って喜ぶと、自分の白くてれいな手を差し出してきた。

 次に、彼女は僕にアイコンタクトで手を出してと促してくる。

 それに僕はため息をついて、手を差し出した。

 すると、七瀬は僕の手をぎゅっと握ってくる。

 彼女の手は柔らかくて、少し冷たかった。

「私もきりたにくんもこれから頑張るぞ! おー!」

 七瀬が急にそんなことを言い出した。

 いや、なになに。唐突に聞いてないことやらないで。

「ほら、桐谷くんもおーって言って!」

「えっ、わ、わかった」

 どうやら僕も「おー」と言わなくちゃいけなかったらしい。

 せっかく僕の夢を応援してくれているので、言っておこう。

「これから頑張るぞ! おー!」

「お、おー」

 ……って、なんだこれ。意味がわからん。

 なんて戸惑っていたら、

「桐谷くん、教師になれると良いね」

 七瀬がエールを送って笑いかけてくれた。

 彼女はいつも大事なところで僕に勇気をくれるよな。

「七瀬こそ、君ならきっとハリウッド女優になれるよ」

 そんな風に僕もななにエールを送った。

 僕は心の底から彼女がハリウッド女優になれると思っている。

 逆に彼女がハリウッド女優になれなかったら誰がなれるんだって話だ。

 そして、この日から僕は教育大に受かるための猛勉強を始めた。

 教師になる、という夢をかなえるために。


  ◇◇◇


「お兄ちゃん!」

 とある日の朝。部屋の外からももの大きな声が聞こえていた。

 それと同じくらい大きな足音が段々と近づいてきて、ガチャリと扉が開いた。

「お兄ちゃん! 学校に行く時間だよ! いつまで寝て──ない!?」

「おはよう、桃花」

 僕がきっちり制服に着替えて、部屋の中にある姿見で身だしなみを整えていると、桃花が扉付近でぜんとしていた。

「桃花、どうしたの?」

「どうしたはこっちのセリフだよ。まさかお兄ちゃんが早起きするなんて。しかも一週間連続だよ」

「別に良いことじゃん」

「それはそうだけど、絶対におかしいよ。何かあったの?」

 ももの問いに、僕は少し考える。

「そうだな、強いて言えば夢を見つけたんだ」

「お兄ちゃんがキザなこと言い出した。壊れた」

「壊れてないわ。まったくひどい妹だな……」

 そんな妹との会話をしている間に、僕は身だしなみを整え終える。

「じゃあお兄ちゃん行くから。家の鍵は締めるんだぞ」

「え? もう学校行くの?」

「そうだよ、朝は勉強するから」

 僕の言葉を聞いて、桃花は信じられないとばかりに絶句していた。

 とことん失礼だな、この妹。

 ななに夢を伝えて以来、僕は学校に毎日行くようになり、勉強時間も倍に伸ばした。

 夏休みに入ったら、進学塾の夏期講習にも行く予定だ。

 正直、勉強は大変だけど、夢に向かって努力していると思うと苦ではなかった。

 七瀬が演技の練習をしている時もこんな気持ちなのだろうか。

 そういえば彼女も演劇を頑張っているみたいだ。

 この間は主役を任されたと言っていた。

 七瀬も頑張っているんだから、僕も同じくらい、いやそれ以上に頑張らないと。

 二人して絶対に夢をかなえるんだ。


  ◇◇◇


 僕は夢を叶えるために努力する日々が続いた。

 朝早く学校に行って勉強をして、放課後も帰ってすぐに勉強をした。

 長期休みは進学塾でみっちり一日中、勉強漬け。

 そんな日常を繰り返していくうちに、あっという間に夏が過ぎて秋を迎えて、その秋もすぐに過ぎて、そして冬を迎えた。

 受験当日は少し緊張したけど、試験に影響が出るほどではなかった。

 これまで積み重ねたものをしっかりと発揮したら、必ず結果につながるとそう信じていたから。

 そして、僕は無事受験を終えて、あとは合格発表を待つだけになった。

 両親や桃花は発表されるまでビクビクしていたけど、僕は不思議と落ち着いていた。

 絶対に受かると思っていたわけじゃない。

 でも悔いがないくらい努力をしたから、どこかで大丈夫だと思っていたのかも。

 そして迎えた教育大の合格発表の日。

 大勢の受験者が集まる中、掲示板に合格者の番号が貼りだされた。

 その時、僕は一人で、順番に番号を確認していった。

 すると、掲示板の真ん中付近にあった番号を見て、大きく息をついた。


 ──僕は合格していた。


 それがわかった瞬間、感動というよりも先にあんした。

 これで夢に大きく近づいたんだ、と。

 合格後は大学が家から通えない場所にあるので、一人暮らし用の家を探したり、使う家具をそろえたり、たまに自宅でのんびりしたり。

 そうして月日は流れて、僕たち三年生は卒業式を迎えた。

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