第四章 暴走、戦い、禁書少女(2)

   ***


「開示」

 自身の本棚を、アンネは開いた。

 中には落ちこぼれクラスの所属らしく、三冊だけ本が詰められている。これで鳥の王に対抗できるわけがない。レンはそう考えた。だが、アンネの行動はそこで終わらなかった。

 チャラリと、彼女は首にかけていた細い鎖を外した。

 それには、小さな鍵がついている。

 アンネは鍵を宙に投げた。空中で、それは回転する。落下した時、鍵は剣ほどの大きさに育っていた。巨大化したそれを、アンネは軽々と受け止める。

 同時に、彼女の服装は変化した。

 ただの制服は掻き消える。代わりに、胸元まで際どく肌の覗くドレスが現れた。ドレープがふんだんに使われた作りは豪華だ。だが、凄惨に破かれたような印象を与える。そんな衣装だ。異様なドレスを美しく纏って、アンネは笑う。

「いかがかな? だが、まだ全然本番じゃないよ」

「お前、その格好は一体?」

「これは私にかけられている永続魔術のひとつさ。鍵の準備を整えると使用の補佐のための魔道具のドレスが体を覆う。その間、制服は縮小される。触れれば君にもわかるだろうが、この衣装には強力な魔力が込められていてね。そして、布面積が際どい理由は──」

 そこでアンネはぐっとドレスの胸元を押しさげた。危うく、胸がこぼれ落ちそうになる。

 レンが視線を逸らしかけた時だ。くるくると鍵を回すと、アンネはその先端をぴたりと自身へ向けた。まるで、剣で自決を図るかのような仕草だ。まさかと、レンは思った。

 だが、止める間もなく、彼女は腕を動かす。

「やめっ!」

「魔術師は戦闘時、本棚を開示する。だが、強力な魔術師ほど本来の本棚は鍵をかけて隠しているものなんだ。そして、その開示は

 ドシュッと鈍い音がした。

 紅い、血が散った。

 鍵で、アンネは自身の胸を貫いたのだ。彼女の胸から鉄の棒が生えている様を、レンは呆然と眺めた。ぽたり、ぽたりと床上に紅い雫が落ちていく。だが、それで終わりではなかった。痛みに震える腕で、アンネは鍵を横に回した。みちみちと音を立て、肉が切れる。


 ──カチリ。

 小さな音がした。


 瞬間、爆発的に。

 暴風を伴って、ひとつの本棚が開示された。


   ***


 その本棚は朽ちていた。

 側面には血痕が散っている。隅には蜘蛛の巣が張っていた。中には百冊程度の本が収められている。だが、その背表紙がおかしい。全てが厚く、また黒かった。通常、魔術師が似た属性の本を複数冊持つことは珍しくない。だが、それでも漆黒の表紙群は異様だった。

 それらを目にした瞬間、レンは激しい嫌悪と恐怖を覚えた。

『これはここにあってはならない』

 そう、思えたのだ。

 だが、アンネは何も感じてはいないらしい。いつの間にか、彼女の胸に刺さった鍵は消えている。本棚の中から、アンネは一冊の本を取り出した。緩やかに、彼女は唇を歪める。

 そして、アンネはページを開いた。

 彼女は中身を読み始める。


「蜻ェ縺?≠繧檎⊃縺?≠繧梧Κ蜉?r譛帙a」


 ソレは人間の出す声ではなかった。

 もっとおぞましい、何かだ。

 思わず、レンは耳を塞ぐ。だが、その意味は徐々に脳へと浸透してきた。

 自然と、レンは理解する。

 これは禁断の言葉だ。

 中身は憎悪を謳っている。


 それは呪いで、

 それは災禍で、

 それは業苦で、

 それは、罰だ。


 詠唱に合わせて、天井には蟻のような血文字が集い始めた。それは魚の王の攻撃に紛れながらも、猛烈な速度で鳥の王を侵食していく。たとえ、レン以外に目撃者がいたとしても、その変化には気づけなかっただろう。だが、注視していた彼は、確かに全てを見た。

 紅い錆に似たものに、鳥の王は覆われた。

 紙を燃やすように肉は腐食され、骨は喰われた。

 鳥の王は残骸と──灰と化した。

 レンは目を見開く。ほとんど無意識のうちに、彼は呟いた。

「……似ている」

 この変化は似ていた。

 レンがかつて体験した『らしい』、『最悪の災厄』と。


 侵食は、終わる。

 最後には灰も消えた。


 何もかもが、『なかったことになった』。


   ***


 ガコンッと音がして、黒の背表紙の並んだ本棚は消える。当然のごとく、ソレは姿を隠した。後には三冊だけが入った平凡な本棚が残される。同時に、アンネの姿も元に戻った。

 ただの制服姿で、彼女はその場に立っている。

 呆然と、レンは呟いた。だが、問う前に、彼はその答えを知っている気がした。

「……今のは」

「『禁書』だよ」

 禁書。

 それは持ち主は必ず処刑される、禁断の物語だ。

 強力にして、制御は不可能。

『世界を呪う』書物とも言われている。

 その存在は、人々の間で、悪口や例え話に使われるほど浸透していた。

 存在自体は誰もが知っている。

 同時にあってはならない、物語だ。

 何故、そんなものをアンネが持っているのか。

 何故、そんなものがここに実在するのか。

「禁じられた本。負の感情だけを集めた災厄の書物。私はソレを使ったんだ……そして、君も気づいたかもしれないけれど、言っておこう」

 流れるように、アンネは言葉を続けた。

 レンの考えを読んだかのように、彼女は囁く。

「かつて少年の体験した『最悪の災厄』は性質上、『禁書』を使用したものだと思われる」

 レンは目を見開く。まさか、今になってあの災厄の原因を聞くことになるとは予想しない。だが、確かに耳にした災厄の内容は禁書がなければ引き起こすことが不可能に思えた。

 真剣にレンを見つめ、アンネは続ける。

「そして、実は君の味わった災厄を起こした人間は、なんら罪を咎められることなく、この学園に入学している可能性が高い」

 瞬間、レンは嘔吐した。

 考えるより先に、体のほうが反応したのだ。

 頭痛がする。鼻の奥で火薬の匂いが炸裂した。だらだらと、止めどもなく涙が溢れる。

 軋むように、肺が痛んだ。ひゅーひゅーと、喉が情けない音を立てる。

 失われた何かがレンに訴えた。それは心臓を殴りつけてくる。

 そんなことを許せるはずがないと。

 絶対に、絶対に、認めるわけにはいかないと。

「……ぐっ……あっ……っ、あっ………」

 拳で、レンは意味なく床を殴った。指の皮が剥け、血が滲む。何度も何度も、彼は繰り返した。この行為は、意味のない自傷でしかない。それでも、止めることはできなかった。

 その無様さを笑うことなく、アンネは続けた。

「私は最初から君に目をつけていたんだ。ユグロ・レーリヤの関係者で災厄の生き残り……何かあるかも知れないと思ったら、予想以上だったがね」

 レンの顔を、アンネは覗き込んだ。猫のように、彼女は笑う。

「今見た通り、私の本来の戦い方は少々派手でね。君に補助を頼みたい」

 何故、アンネは禁書を持っているのか。

 それを制御することができるのか。

 一体、何を目的としているのか。

 一切をまだ語ることなく、アンネは告げた。


「代わりに、私が君の仇をぶっ殺してあげるとも!」

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