第一章 初恋を忘れたい先輩と小悪魔なタヌキちゃん その2
地元の景観に一般市民として溶け込み、矢那川の富士見橋に差し掛かったとき——背後から近づいてきた一台の自転車が颯爽と通り過ぎた。
ママチャリの運転者はブレーキを握り締め、小さな橋の途中で停車。運転者の女生徒がくるりと腰を捻り、上半身だけこちらに振り返る。
だから僕も帰宅途中の足を止められてしまう。
「その見覚えのある間抜け顔は、夏梅センパイじゃないですか」
見覚えのある間抜け顔はお互い様だよ。
「
自らの呆けた口から、彼女の名前が自然に零れ落ちた。
細身の肩に毛先が触れるショートボブの髪型は夏の爽やかさを演出しているが、声色には冷感が滲み、僕を映す瞳はやや強張っている。
僕が通う高校の制服を着た二年生『
「……いつもはセンパイを見かけないのに、今日は珍しく帰るのが早いですね」
溜め息混じりの小声から察するに、褒められていないことは確かだ。
「こう見えても受験生なんだ。たまには真っすぐ帰って勉強しないとマズいだろ」
「……センパイがやる気を出すなんて、超常現象の前触れのような気がします」
めちゃくちゃ失礼な後輩だな。
「冬莉は備品の買い出しか?」
「……そうですね。マネージャーの仕事ですから」
「買い出しにしては、ずいぶんと遠くまで来てるよな。ドリンクだけなら学校近くのコンビニで十分じゃない?」
「……帰ろうとするセンパイが見えたので、たまには様子を見てあげようかなと」
そのためだけにチャリで追いかけて来たんかい。
よほど心配されているらしいな、このダメダメ受験生は。
「学校の近くで話しかけてくれたらよかったのに。チャリならすぐに追いつけたよな?」
「……センパイと話すのが久しぶりなので、どう話しかけていいのか迷ってただけです」
話しかける第一声を考えているうちに、僕の背後をずっと彷徨ってたらしい。
ついに意を決し、颯爽とチャリで通り過ぎながらの第一声が「その見覚えのある間抜け顔は、夏梅センパイじゃないですか」だったというわけだ。
「ふふっ……冬莉らしい」
「……なに笑ってるんですか。センパイは相変わらず腹立たしいですね」
笑みを吹き出してしまう先輩と、やや不機嫌そうにムッとする後輩の対比が懐かしい。
この一年の間に忘れかけていた。
こんな放課後の一ページは、もう味わえないかと思っていたのに。
お互いに肩を並べ合いながら阿吽の呼吸で歩き出したものの、変な気まずさが二人を包み込む。よそよそしくて背筋がむず痒いような雰囲気が場の空気を濁した。
仲が悪いわけじゃない。久しぶりに話したから、以前の距離感を取り戻すのに手間取っているだけなのだ。少なくとも僕のほうは、だけど。
「……春瑠センパイですか?」
「へっ?」
「……夏梅センパイがやる気を出すのは、春瑠センパイ絡みですよね」
「いやいや、春瑠先輩は関係ないって。気のせい気のせい」
「……その焦ったような反応で察せますよ、センパイ」
実際その通りなので強く否定できないけど易々と肯定するのも躊躇う。
静かな声色に怒りは感じないものの、小さい棘が忍ばせてあるのは気のせいだろうか。
「……夏梅センパイは嘘をつくときの癖があるんです」
「マジで? 自覚がないから参考までに教えてくれ」
「……嫌です。私だけ見抜けるほうが面白いじゃないですか」
意地悪な冬莉は意味深に表情を綻ばせながら、
「……相変わらず、嘘をつくのが下手ですね。夏梅センパイは」
こちらへ視線を移し、ほのかな温かみを覗かせた微笑みを残す。機嫌が良い……いや、機嫌の良さを表情に表す冬莉は珍しく、不覚にも可愛いと思えた。
「冬莉だって相変わらず笑うのが下手だな」
「……うるさいです。というか、笑ってないですし」
遺憾の意を表明した冬莉の指先で肩をぺしっと小突かれる。
「ムスッとした不愛想な顔より、笑った顔のほうが可愛いと思うけど」
「……軽々しく可愛いって言わないでください。センパイに口説かれても迷惑なので」
「ああ、いつも可愛い。冬莉はホントに可愛すぎる。めっちゃ可愛くてヤバい」
可愛いを連呼するたびに何度も小突かれたが、一発目よりも力加減が優しい。
「この場所……いつの間にか更地になってたんですね」
富士見橋を渡ってから少し先、数軒のスナックが点在する地味な路地の一角にぽっかりと空いた更地を見詰めた冬莉が自転車を押す足を止めた。
「……センパイ、覚えてます? 中学のころ、ここにあった廃墟を待ち合わせ場所にしてセンパイの朝練に付き合ってましたよね」
「ああ、もちろん。そのときはスマホを持ってなかったから、お互いの家が近いこの場所で待ち合わせをしてたんだよな……」
「……そうです。センパイが寝坊して朝練に遅刻するたびに、私は不機嫌になりながら建物の前で待ってたんですから」
二人の舌が滑らかになり、細やかな思い出話にも花が咲く。
ボウリング場やゲーセンが複合した娯楽施設のビルだったが、僕が中学生になったころには完全に廃業したらしい。
昭和の匂いが漂う古ぼけた廃墟だけが暫く残されていたものの、どうやら僕たちが待ち合わせをしなくなったあとに取り壊されてしまったようだ。
「ここがまだ営業していたとき、一度だけ連れてきてもらったことがあったんだ。ボウリングの他にも卓球とかビリヤードもあってさ、めっちゃ楽しかったな」
「……初耳です。センパイのお母さんに連れてきてもらったんですか?」
「いや、中学生だった春瑠先輩と一緒に」
何気ない一言を零した瞬間、冬莉の瞳がジトッと重くなった……ような?
「……隙あらば春瑠センパイとの思い出を語りますね、夏梅センパイは」
「うう……過去の思い出に縋らないとやってられないんだよ……」
「……はあ、初恋を拗らせまくった夏梅センパイらしいですが」
「なんか怒ってる?」
「……怒ってないですよ。どうしようもないな、と思ってるだけです」
冬莉が漏らす溜め息には呆れの他にも「こいつは救えねえな」みたいな諦めが混ざっているのかもしれない。きつい後輩だ。少しは温かい言葉をくれよ。
「……私も似たようなものなので、どうしようもないのはお互い様ですが」
どこが似ているのかは抽象的な台詞から読み取ることはできなかったけど、今この瞬間みたいに冬莉がふいに晒してくれる一瞬だけの笑顔は何回でも見ていたい。
更地の前で数分ほど立ち止まり、円滑に紡いでいた談笑が……ふと途切れた。
「……卒業後の春瑠センパイは、お変わりないですか?」
「ああ、普段通りの春瑠先輩だったよ。むしろ前よりも元気になった気がするくらいだ」
「……それなら安心です。卒業してからは顔を見ていなかったので……普通の大学生活を送れているなら良かったです」
僕と冬莉に共通する過去の記憶が脳裏に過ったのだろうか、お互いの声音が重厚に引き締まる。軽々しい雰囲気が消え、時折視線を足元に逃がしながら。
「……来月はウインターカップ予選です。三年生にとって……最後の大会です」
「僕にはもう関係ないよ」
「……センパイはもう、部活には戻らないんですか?」
数秒の沈黙を挟み、言い辛そうにしながらも冬莉は投げ込んでくる。
「ないよ。もうバスケはやらない」
ほぼ即答。
表情や声色などに波風は立てず、僕は淡々と返事をした。
「……それは、夏梅センパイのお兄さんが歩んだ人生の真似ですか?」
「退部するときにも言っただろ。それは関係ないって」
一切の躊躇なく、僕の弱い部分を擽ってくるのが冬莉らしいな。
「バスケよりも大切なものがあった。兄さんの代役になってもいいから、春瑠先輩の側にいてあげたかった。ただ、それだけだったんだよ」
それだけを言い残し、僕は自宅の方向へ歩を踏み出し始める。
反対側の学校に戻るであろう冬莉を置き去りにして。
「……夏梅センパイ!」
寂しい背中に冬莉の声が刺さり、僕は振り返らざるを得ない。
冬莉は自転車のカゴに入れていたビニール袋から円柱の物体を取り出し、何を思ったのか……僕のほうへ放り投げてきた!
「……っと!」
咄嗟に差し出した左手で掴んだ瞬間、金属が冷えた感覚と結露が手のひらに浸透する。
受け取ったのはアルミ缶のジュース。さらっとしぼったオレンジだった。
「……勉強を頑張るセンパイに差し入れです」
部活をやっていたころもこうやって、マネージャーの冬莉から——
懐かしさが膨張し、全身を瞬時に駆け巡った。
「……たぶん無理でしょうけど、春瑠センパイと同じ大学に合格できると良いですね」
「正直、大学受験に挑むかどうかは……まだ迷ってる」
「……本当に心配ばかりかけさせる人ですよ、夏梅センパイは」
消え入りそうな声で呟きながら、今度は冬莉が背を向ける。
ペダルを漕ぎ出した後輩の後ろ姿は次第に遠く離れていき、僕の視力があいつを判別できなくなるまで一分もかからなかった。
心配させてごめん。
わざわざ様子を見に来てくれてありがとな、冬莉。