第一章 初恋を忘れたい先輩と小悪魔なタヌキちゃん その1
「待ってるからね、後輩くん……か」
自分にだけ聞こえる独り言混じりの吐息を漏らし、つい口角が上がってしまう。
ほくそ笑んでいる気持ち悪い男がここにいる。
はあ~、受験勉強どころじゃねえ。夢見心地が止まらないんだが!
曇っていた世界に突如として穏やかな光が差し込んだかのよう。明確に違う。瞳に映る日常の景色がより鮮やかに生まれ変わった心境が心地よい。
机の陰で器用に弄るスマホに表示されたメッセージアプリを眺めては口元を緩めている授業中の午後。
【
嬉しすぎるメッセージの差出人は、もちろん
流行りのキャラが敬礼している可愛らしいスタンプまで添えられていたので、僕も似たようなスタンプを秒速で返す! 断る理由がない。
なんだよ、なんだよ~。
いいのか? こんなに心躍るイベントが二日連続で起きてさ。
「なあ、夏梅。受験勉強の息抜きに今日くらいは遊んで帰らねえ?」
授業の要点を解説する教師の声などお構いなし。隣席の友達がヒマ潰しを持ち掛けてきたが、今の自分は男の友情を育んでいる場合じゃなかった。
「わるい。どうしても外せない先約があるから、さっさと家に帰る」
スマホ画面を眺めながら爽やかに断ると、怪訝な視線で炙られる。
「お前……さっきからスマホを見てニヤニヤしてるよなあ? 女か? 女だろ?」
「察してくれ」
「おーいっ! 抜け駆けとかクソやん、クソ! 女と遊んでる受験生なんて浪人してくれや! 天罰下れ!」
やかましいな。教師が咳払いしながらこっちを睨んでいることに気づいてくれ。
「はーん、さては広瀬先輩だろ? お前ら、めっちゃ仲良かったもんなあ」
だっる。
好奇心旺盛な友達は声量を下げつつも、恋バナを膨らませようとしてきやがる。
「恋人より近い仲だからな」
「ざっけんな、裏切り者があ……。もう遊びに誘ってやらねーからな……」
「そんなこと言わずに誘ってくれよ、友達だろ」
ウケ狙いの発言だったのに、そこそこ本気で悔しがられる。男子グループの友情に女の影を匂わせた途端、裏切り者扱いを受ける理不尽さよ。
昨日は突然のことで舞い上がっていたが、一日ほど経って冷静になってみると喜ばしいだけの状況ではないことを本能が察する。
あの人は二日連続で地元に帰ってくる。ちょっと不思議だった。
ようやく先輩が身近にいない生活を受け入れ始めたのに、不意打ちの出会いでみっともなく高揚し、不完全燃焼だった未練の種火が灯ってしまうなんて。
適切な距離を維持しておきたい建前と、素直な欲求に従い安易に会いたいという本音の面倒な天秤が揺れ動く。
……お人好しな先輩のことだから、特別な思惑ではないんだろうけど。
年頃の男女が二人きりになるなら部屋は綺麗に片づけておいたほうが良いよな?
変な期待はしてないし異性として意識しない——なんて自分を騙そうとしても、頭の片隅では妄想の映像がリピート再生されている。
はあ……もう勉強どころじゃない。
うああ……春瑠先輩のことしか考えられねえ。
とても青臭くて痛い。
白濱夏梅の思春期は、一方的な恋に振り回されっぱなしだ。
「てか、まだ広瀬先輩のことが好きだったんだなあ。オレはてっきり——」
そこまで言いかけた友達だったが、意味深な部分で台詞を切る。
「……春瑠先輩と付き合えるなんて思ってないよ。今はただ……弟みたいな後輩として可愛がってもらえれば」
——それだけで満ち足りているから。
それ以上を望むのは贅沢で、絶対にありえない。
「お前、顔はまあまあ整ってるし頭も悪くないんだから、誰か他のやつと付き合えばいいのに。ここだけの話、夏梅のことを好きな女子は結構いるらしいぜ?」
「それは光栄だな。高校に入ってから女子に告白された覚えはないけど」
「当たり前だろーが。広瀬先輩と話してるときの夏梅は誰がどう見てもデレデレだから、他の女子が入り込む余地がねえんだよなあ」
「僕って……そんなにわかりやすかったのか」
「拗らせ片思い野郎」
「不名誉なあだ名はやめてくれよ」
「お前が片思いしている限り、お前も誰かの片思いを静かにへし折ってるのかもなあ」
「……知るか」
素っ気ない返事をしながら、胸の奥がちくりと痛む。
もし僕のことを好きなやつが身近にいたとしても、心が読める人間なんていない。
声や文章に想いを託して伝えてくれないとわからない。
僕自身も同様だ。
好意を伝える気のない沈黙の片思いは、永遠に届かない。
「いっそのこと告ってみればいいのに。そのほうが楽になるんじゃねえ?」
「別に良いんだよ。春瑠先輩とは……ずっとこの関係のままで」
他人事だと思って軽率な発言をされると、若干の苛立ちが芽生える。
拗らせた自らへの不快を誤魔化すかのように、黒板に書かれた授業の要点をルーズリーフに書き殴ろうとしたが、シャーペンの芯がさっそく折れた。
受験も恋愛も、もう少し上手くやれたらいいのに。
勉強するモチベも折れたので、悶々とした気持ちに蓋をするべく机に突っ伏した。
「白濱先輩、ちゃーっす!」
あっという間の放課後。帰宅部の友達と廊下で駄弁っていたのだが、僕たちの会話は芯が通った大声に上書きされる。
声の主は二人組。彼らの視線の先には僕がいた。見知った後輩たちが律儀に頭を下げて挨拶してくる光景を目の当たりにし、僕は思うのだ。
ああ、そういうことね——と。
「……おっす。がんばってな」
僕が覇気のない声を返すと、後輩たちは会釈しながら立ち去っていく。
彼らにとって放課後は自由な時間なんかじゃない。
こんな場所で無駄に駄弁ろうともせず、体育館へ足早に向かうのだろう。
「今の誰? 夏梅の知り合い?」
彼らとは面識のない友達が、僕に疑問符を投げる。
「ただの後輩。もうほとんど交流はないよ」
「そんな先輩でも見かけたら挨拶するなんて体育会系の上下関係はきっちりしてるねえ」
えらく感心したように肩を竦められるが、ずっと帰宅部だった者には理解し辛い空気感かもしれない。
そんな僕だって今は帰宅部側の住人なんだけども。
家が別方面の友達と校門前で別れ、一人きりの帰り道に身を預ける。
通い慣れた自宅への経路。一般的な住宅街があるかと思えば、海沿いの河川には無数の小舟が並んでいる木更津の景観。
アクアラインが開通してからは神奈川や東京への利便性が格段に向上し、大型ショッピング施設が郊外に進出した影響も重なって駅周辺の商店街は活気を失いつつあるらしい。
僕の家が近い〝みまち通り〟も昔は商店街だったらしいが、僕の世代はタヌキの石像が出迎える住宅街の印象しかないだろう。
春瑠先輩みたいに東京の大学へ進みたいという気持ちもわかる気がする。
でも……僕はこの町が好きだ。
様々な場所を通り過ぎるだけで、春瑠先輩との思い出を感じることができる。
この町で春瑠先輩と出会い、彼女に恋をしているから——
とっくに見飽きている木更津の風景にも、僕は恋をしている。