プロローグ その2
海辺から別の海辺へ。
走行中の風切り音を跳ね返す声量で中学生に帰り道を案内され、
「ここからだと歩いてすぐ帰れるので! あざした~!」
ヘルメットを外し、地面に降り立った中学生は感謝の笑顔を振り撒く。
「ん~、なんですかその渋い顔はぁ。かわい~女子中学生と密着しながらのニケツで青い春を感じましたよね? それなら安いもんでしょ~」
僕は乾いた苦笑いを隠せない。子供を諭すのと大差ない口調で肩を竦められ、こちら側が大人げないかのような印象操作をされてしまう。
「しょうねーん、ありがとっ♪」
——ふいに頭を撫でられ、不覚にも心臓の鼓動が小躍りした。
お茶目な言動と甘い不意打ちを巧みに使い分けてきやがって……!
からかっているだけなのは理解していても、ちょっと嬉しいのが男の子って生き物だ。
そのままゆっくりと歩を進めた中学生が、次第に公園から離れていく。
僕はバイクに跨ったまま、少女の後ろ姿を見送っていたのだが、
「わたしに素敵なことをしてくれたキミにも素敵なことが起きるといいですねぇ!」
初夏の鮮やかな夕日に照らされた少女は、こちらに振り返りながら満面の笑みを咲かせてそう告げる。
ふと、とある一点に視線が吸い寄せられた。
中学生が髪に挟んでいたヘアピンはイルカっぽいデザイン。
だからなんだというわけではないものの異様なほど似合っている気がして、そこはかとなく美しいように思えた。
口を結びながら見据える僕に対し、中学生は声にはならない唇の動きを示す。
——そして、ごめんね
完全に憶測。
もし謝っているのだとしたら、なぜなのかはよくわからなかった。
中学生が帰路へ消えていったあと、僕も帰るためにラビットを発進させようとした。
しかし、本能が訴えかけてくる。海沿いの公園には似つかわしくないドリブルの音を鼓膜が拾い、エンジンを切ったラビットから降りたくなった。
公園の一角に身体が引き寄せられ、自らの記憶に馴染んでいる経路の先……中学の頃に新設された屋外バスケコートが常時開放されている。
バスケコートとはいっても、ゴールは片面だけの3on3専用ハーフサイズ。
ここに来るときは心臓が過剰に高鳴っていたのを覚えているし、あの人が近くにいてくれると身体が軽くなった気がしていた。
少年のことを可愛がってくれた姉のような〝先輩〟が微笑みながら、優しい声音で穏やかに褒めてくれるだけで——もっと好きになった。
バスケコートにふらふらと近づき、ぽつんと立ち尽くす僕の足元にくすんだオレンジ色のボールが転がってくる。それは、紛れもないバスケットボール。
「いきなりはズルいですよ。心の準備なんてしてなかったのに……」
驚きと嬉しさが入り混じった呟きが自然に零れてしまう。
だめだ。まったく予想もしていなかったし、意表を突かれた無防備な心が甘美な恋心で満たされていく。
かつての恍惚とした感情を、恋をしていた日々を、ふつふつと思い出してしまうから。
いきなり目の前に現れるのは、やめてくれ。
「そこの高校生くん、ボールを取ってもらえると嬉しいな」
ボールを拾い上げた瞬間、薄汚れた心境を真っ新に漂白してくれるような女性の声。
鼓膜を通じて心地よく広がる懐かしさ。
ザラつく肌触りのボールを両手に抱え、僕は歩を進める。
ゴール下で可憐に待っていたのは、見知った姿より大人びていた女性。
ショートボブだった黒髪はブラウンのミディアムヘアーに様変わり。派手すぎないメイクが透明感をさらに引き立てる。レーススカートが夏の微風で揺れるたび、小刻みに波打つ高揚感は頬に微熱を生じさせていった。
その女性と見詰め合った僕は足を止められ、言葉を失うほど見惚れてしまったんだ。
「
見知りすぎた年上女性の名を——呼ぶ。
「久しぶりだね、
「いえ……春瑠先輩が卒業してからなんで、ほんの四ヵ月ぶりくらいです」
「それじゃあ夏梅くんがあまり変わってないのも納得だねー」
「春瑠先輩は結構変わりましたよ。髪も長くなったし茶色に染めてるんで……遠目からだと誰かわかりませんでした」
「東京の大学生になったからさ、田舎者だって舐められないように頑張ってオシャレしてるんだけど……似合ってないかなー?」
落ち着け、僕。動揺するな。
「に、似合っている……と思います! 高校時代の先輩も好きでしたけど!」
「えっ、好きだったの? ワタシ、告白された?」
「あっ、いえっ、ち、違います……! 高校時代の爽やかな黒髪とか女バスのユニフォーム姿も先輩らしくて良かったなぁ~って意味で……!」
緊張によってしどろもどろ。砂漠化した唇や舌が上手く回らない。
くっそ、取り戻せ……四ヵ月前までの距離感! もう少し普通に喋ってたのに!
「うーむ、東京に染まった女子大生より木更津の小娘だったころのほうが夏梅くん的にはお好みなんだ? ワタシの乙女心は複雑だな~」
不満そうに唇を尖らせる先輩も可愛い。
ころころと移り変わる柔軟な表情は死ぬまで眺めていても飽きないね。
「こうして春瑠先輩と会うのが突然すぎたから……かなりビビってます。スマホにメッセージの一つでも入れておいてくださいよ」
「ここにいれば夏梅くんに会えるかな、と思ってさ。ワタシなりのサプライズだね!」
僕は両手でボールを押し出し、春瑠先輩へ照れ隠しのパスを送る。実際まだ浮ついた心境は収まっておらず、顕著に上昇した心拍数も下降の素振りすらない。
冗談抜きにいきなりすぎるだろ。心の準備くらいさせてほしかった。堪えられない頬の緩みを不自然に俯いたりして誤魔化すのが関の山だ。
「こらこら、そんなに春瑠お姉さんと会えたのが嬉しかったのかなー? 夏梅くんは相変わらず可愛いねぇ。弟にしたいくらいだ」
冗談めかした台詞を交えながら歩み寄ってきた先輩は僕の肩をポンポンと叩く。
だらしない表情を晒したくない相手だが、好奇心旺盛な春瑠先輩は覗き込もうとしてくるもんだから咄嗟に顔を逸らした。
「一人暮らしの新生活は慣れなくて少し寂しかったから、こうして制服の夏梅くんと話すのが懐かしくて落ち着くよ」
僕は心底飢えていたのだろう。この人と話せる時間に。
充実した時間は早く過ぎ去るのに、この人が高校を卒業してしまって物足りない日々になってからの四ヵ月は数年分に等しい体感だったかもしれない。
「あれ? 夏梅くん、ちょっと身長が伸びたんじゃないのー?」
「……たった四ヵ月じゃそこまで変わらないですって」
「えー? 絶対伸びてるって~。ワタシと何センチくらいの差があるかな?」
「ちょっ、春瑠先輩……」
近い近い……お互いの身長を比べたいのか、妙に接近してくる春瑠先輩。
香るフレグランスが恋する男子の心境を心地よく彩り、まつ毛の一本一本が鮮明に見えた。木更津にいたころよりも、大人の香りがした。
咄嗟に一歩だけ後ずさる。
じわりと帯びる肌の熱や不規則に揺れる自分の視線を悟られないように。
「せっかくだし、ちょっと見ててくれる?」
おもむろに春瑠先輩はゴールのほうへ身体を反転させ、両手を添えたボールを夕焼け色の空へ放つ。伸び切った上半身。理想的なシュートフォームから放たれたボールは重力に引かれ、美しい放物線を描き、錆びたリングに吸い込まれていった。
「よしっ! まだまだワタシの腕は衰えてないな、うん」
地面に落ちたボールが一回、二回と弾む。
コートを叩くバウンド音が次第に小さくなり、やがて静寂に包まれたことで周辺を走行する車両の排気音がなおさら煩く感じられる。
よしっ! という可愛らしい発声とガッツポーズが、僕の五感を幸せに満たして奪う。
今の
「夏梅くん」
「……えっ?」
唐突に名前を呼ばれ、我に返った。
「じっと見つめすぎ。恥ずかしいじゃん?」
眉をひそめた春瑠先輩におでこを突かれたものの、すぐに微笑んでくれる。
「ブランクの影響で下手になっていないかどうか、じっくり眺めていました。女バス時代と同じような良いシュートでしたよ」
「こらっ! シュートを外したらヤジでも飛ばすつもりだったんかい! 後輩のくせに生意気だな!」
くしゃくしゃと髪を撫でられ、嫌がるふりをしながらも撥ね除けない後輩男子。
あなたが卒業してからずっと、こんな時間を待ち焦がれていた。
「そういえばキミも受験生だよね。どう? 受験勉強のほうは順調かなー?」
「勉強は順調すぎるので帰省したときはいつでも遊びに誘ってください」
「ありがとっ! 持つべきものはどんなときでも駆けつけてくれる可愛い後輩くんだ」
春瑠先輩との時間を共有したいから、可愛い後輩であり続けたいから、受験勉強が順調という小さな見栄を張っても許してください。
彼氏になれないのなら、あなたにとって一番の後輩でいさせてほしい。
「ワタシと同じ大学に合格できるように頑張りたまえ。待ってるからね、後輩くん」
無垢な微笑みに激励を添えられると、漠然と滞っていた寂しさが根拠のない期待感へと衣替えする。それくらい僕という人間の構造は単純明快なんだ。
明確な夢なんてないけど、春瑠先輩と同じ大学へ進みたいという欲求はある。
でもそれは、春瑠先輩が期待する僕の姿ではないだろう。
幸運のイルカ……か。
なぜかこのタイミングで出所不明の噂話が脳裏をかすめる。
東京でのキャンパスライフやバイトが忙しく木更津に帰省する素振りすらなかった春瑠先輩が、夏の始まりに気まぐれで顔を見せに来た。
僕が久しぶりにこの場所を訪れた日と同じ日、しかも同じような時間帯に。
幸運のイルカと出会えたら【止まっている片思い】が動き出す。
木更津の海に本物のイルカが泳いでいる目撃談はないけど、波止場で出会った女子中学生が偶然ながらも僕を導いたような形になっている。
……アホくさ。そんなわけあるか。
出所不明の陳腐な作り話を本気にするのもバカバカしかった。
イルカの髪飾りごときで関連性をこじつけるほど恋愛観を拗らせてはいない。
僕の片思いはすでに永久凍土に等しい。
春瑠先輩とお喋りできた小さな幸運を噛み締めるだけに気持ちを留め——夢心地だった気分を現実に戻す。
明日からまた、受験勉強と現実逃避の日々。そうなるに決まってる。
水平線で燃え滾る太陽は夕方でも沈む気配がなく、誰も傷つかない現状維持の関係に浸る受験生の肌を炙り続け、浮き出た汗がしっとりとシャツを濡らす。
とっくに凍りついた初恋とは裏腹。
今年の夏も、暑くなりそうな予感がした。