プロローグ その1

 幸運のイルカと出会えたら【止まっている片思い】が動き出す。


 そんな話を数年前に誰かから聞いた気がする。

 心の片隅で期待しているのかもしれない。

 錆びついて止まっていた歯車が——再び動き出すのを。

 そうじゃなければ、放課後に受験勉強をサボって潮干狩りシーズンの海岸に来たりなんかしない。

 幸運のイルカとやらが海面からひょっこりと顔を出さないかな~なんて思いながらも、そんな光景は想像するだけでシュールすぎることはわかっている。

 そもそも幸運のイルカってなんだよ……木更津なら幸運のタヌキのほうがまだ見つかりやすそうな気がするって。知らんけど。

 海沿いを歩くのは受験勉強の気分転換、あるいは将来への焦燥による現実逃避。

 それ以上でも、それ以下でもないのだから。


「ねえ、そこの少年」


 東京湾のアクアラインや対岸に霞む川崎のシルエットも見飽きた。

 ……帰ろう。七月の受験生は呑気に散歩をしている場合じゃないんだよ。

 傾いてきた太陽。

 水平線が眩い夕方の波止場を引き返し、金田みたて海岸の駐車場へ戻ろうとする。

「おーい、そこの辛気臭そうに歩いている少年」

 僕の背後で誰かが呼ばれている。

 どこの少年かは知らないけど、さっさと応答してやってくれ。

「キミだよぉ、キミ。さっきから海を眺めて現実逃避をしている感じの少年」

 まさかと思い、ゆっくり振り向いてみると……視線が交錯してしまう。

「ずっと無視されるから、わたしのことが見えてないのかと思ったぁ!」

 僕と向かい合う小柄な女性。いや、あどけない少女。

 好奇心を詰め込んだ瞳に僕の間抜け顔を映しながら、悪戯に微笑む。

「……僕?」

「近くにキミ以外の少年がいる~?」

 波止場には僕と少女しか見当たらず、海辺の音と僕たちの声が存在感を主張している。

 小さな違和感の正体はすぐに理解できた。

 地元中学の制服を着た年下っぽい少女にタメ口で少年扱いされたからだろう。

「地元民なら制服を見ればわかると思うけど、僕は高校生だからな」

「地元民なら制服を見ればわかると思うけど、わたしは中学生だったんだぁ~!」

 年上アピールを華麗にスルーし、上機嫌そうな女子中学生は身分を明かす。

 明るい表情や元気な声音から受ける第一印象は、馴れ馴れしいお調子者だ。

「ちょっと~全身を舐め回すように見ないでくださいよ~」

 この生意気JC、初対面でもお構いなしにからかってきてんな。

「あいにく年下の子供より年上の女性のほうが好みなんだ」

「でも、わたしのことを変な目で見てましたよねぇ~? まあ、男子高校生なんて可愛い女子のことで頭がいっぱいなんだろうけどさぁ~」

「それはまあ、うん。見てたけど」

「……えっちだなぁ、少年は」

 女子中学生は瞳を細めながら呆れた声を漏らす。

「えっちな目ではないからな。そこが重要だから」

「はいはい~、健全な青少年なら仕方のない衝動ですからぁ~」

 めっちゃ茶化されるけど、こちとら年上の先輩なのだ。

 あくまで平静を装い、大人げなく怒ったり取り乱したりはしないのよ。

「育ち盛りの女子中学生が大好きなキミの趣向はさておき~」

「さておくな。僕は年上の大人っぽい先輩がタイプだし、優しくて包容力がある女性に可愛がられたいの。わかった? もう少し大人に成長してから出直してくれ」

「わたし、中学生にしては結構大人っぽいと思いますけどぉ~?」

 自らの発育に自信があるのか、中学生は得意げに胸を張ったものの……所詮は義務教育中の子供。身長はやや高めで中学生にしては大人の香りも微かに鼻を撫でるが、比較対象として咄嗟に思い浮かべた〝とある先輩〟と比べると色気の差は明白だった。

 無意識に鼻で笑っても許してほしい。

「……はっ、今後に期待賞だな」

「おいこら、エロガキ。いま鼻で笑いましたよねぇ~?」

「エロガキはお前のほうだろうが! 僕のほうが年上のお兄さんじゃ!」

「はあ~~、えっちなお兄さんだなあぁ~」

 なに溜め息吐いてんだ、僕のほうが疲れるわ。

「……で、僕に何か用でもあるの? こう見えてもヒマじゃないんだけど」

 おちょくられて脱線しまくった話をもとに戻す。

 いきなり呼び止めてきた理由が多少なりとも気になっていた。この子とは間違いなく初対面なので、用事がないのに話しかけてくる関係性は構築されていないからだ。

「え~? どっからどう見てもヒマ人じゃないですかぁ~」

「こう見えても毎日のように勉強してる受験生だよ」

「東京湾を眺めると頭が良くなるんですか? 知らなかったなぁ~」

 へらへらと嘲笑ってくる中学生相手に何も言い返せないよお……。

 年上の高校三年生を弄んで満足したのか、中学生はゆっくりと歩を進め……海岸の駐車場にぽつんと停まっていたバイクの後部座席にちょこんと腰掛けた。

「ん~、シートが硬くて座り心地はよくないですねぇ」

「やかましい。勝手に乗って文句言うな」

「あと、それなりにボロくないですかぁ? ちゃんと公道を走れるやつです?」

「車検も通ってるから大丈夫だよ。一九六〇年代の車種にしては状態も悪くないって」

 色褪せや錆が目立つレトロな鉄スクーターは、ラビットS301スーパーフロー。つまり僕が所有するバイクに蟹股で跨るという精神の図太さを見せつけてきたのだ。

「どっち方面に帰るんですか~?」

「僕? みまち通りのほう」

「わたしと同じ方向じゃん! やったね~っ!」

 中学生はスカートから伸びた両足をぱたぱたと振る。

 だいたいの思惑が読めてきたぞ……。

「ここで会ったのも何かの縁なのでぇ、家の近くまで乗せてってください!」

 だろうね。それしか思い当たらないわ。

「もしかして……ここから歩きで帰るのが怠いから僕に話しかけてきただけ?」

「それだけじゃないですよ? 寂しそうなキミとお喋りしてみたかった~みたいな?」

 円らな目が縦横無尽に泳いでんだよな。

「実は自転車がパンクしちゃいましてぇ~」

「それで?」

「こっから歩いて帰るのは地味に遠くて怠いんでぇ~」

「それで?」

「二人乗り、おねしゃす」

 正直に白状し、ぺこりと頭を下げた中学生の少女。いきなり丁寧な態度で媚びてきやがったが「おねしゃす」というふざけた一言で気が抜ける。

「困っている女の子を置き去りになんてしないですよね……? ねっ、ねっ?」

 捨てられた子犬のような潤んだ瞳をやめろ。

 あざとさに呆れつつも放置して立ち去るのは後味が悪いし、この場所に来るたびに冷たくあしらった映像を思い出すのも癪だ。

「初乗りは300円、その後は距離に応じて80円ずつ加算。遠慮せずに乗ってくれ」

「ひどーいっ! こんな女子中学生からタクシーみたいな料金をぶん取るんですか!? そんなお小遣いなんてありませんよぉ~、年上の頼れるセンパーイ♪」

 こんなときだけ先輩扱いの猫撫で声を操りやがる……!

「おねがーい、おにいちゃん? おうちに帰ろ?」

「妹よりは後輩設定のほうが好きだな……じゃなくて。もう、しょーがない……」

 僕はうんざりしながらも自分用のヘルメットをかぶり、運転席へ跨ったついでにチョークレバーを引く。挿し込んだキーをONへ回し、右足でフットブレーキを踏みながらセルスイッチに触れ、かなり年季の入ったスクーターを始動させた。

 ぽんぽんぽんと小気味のいいエンジン音が鳴り始め、海の音を機械的に汚す。

「わたしを乗せるとキミにも素敵な特典がありまーす」

「へえ、どんな?」

「ずばり……美少女中学生を後ろに乗せて地元をツーリングしたという青春の甘酸っぱい思い出です! 年頃の男子なら憧れるシチュじゃないですか? ねっ?」

「聞いた僕がバカだったな」

「死ぬほど憧れてくださいよバカ受験生」

 うすーいリアクションがお気に召さなかったらしく、すぐ背後に座る中学生にヘルメット越しのチョップをもらう。

「もし置き去りにしたら、受験に失敗する呪いをかけますからねぇ~」

「もしそうなったら高校受験に失敗する呪いを返してやる」

「うわー、クズお兄さんですねー」

「クズ妹が何言ってんだ」

 今回だけは地元民のよしみで送迎してやろうじゃないか。困ったときは助け合い。僕がよく知っている〝先輩〟なら、こういう場合でも優しく手を差し伸べると思うから。

 中学生にも予備のヘルメットを手渡し、手際の悪い装着を見守る。

「まあ、初回限定サービスということで今日は無料送迎してやろう」

「わーい、陰気で冴えない少年でも優しいところがあるじゃーん。ただのダメダメ浪人予備軍じゃなかったんですねぇ~」

「さっさと降りろや」

「うそうそ、キミはカッコいいメンズです。もう惚れちゃいそうです。へいへい」

 お調子者な中学生の思惑にすっかり乗せられつつ、先ほどまで海を眺めながらウダウダと渦巻いていた女々しい思考は一時的に消え去っていたことに気づく。

 いい気分転換になったかもしれない。

 この場所に来た数十分前までとは異なり、今の気分は幾分か晴れやかだった。

「落ちないように掴まっててくれ」

 身を寄せた中学生が僕の脇腹を掴んだ感触を合図にしてスタンドを外し、ブレーキを離しながらアクセルをゆるりと回していく。

 不快な排気ガスを海風に溶かしながら、古ぼけた愛車を発進させた。

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