【第二章 はじめての自由は、蜂蜜と檸檬の味がした】2-4
梯子を上れば、脱衣所がある。
服を脱ぎ、綺麗に畳んで端に置いた。そのまま奥の扉を引けば、視界がけむりの白に染まる。柔らかな湯煙に包まれて、シキ=カガリヤは息を吐いた。
そこは立派な温泉だった。円形に岩が組まれ、白濁の湯が溜まっている。さすがに管理が難しいのか、壁にカビが生えているのが残念ではあったが……そんな些細なことは全く気にならないほどに、シキの心は高まっていた。
(目の前に……温泉がある……!)
いそいそと温泉に近づくと、まずは縁にそっと座って、足先を湯につけてみた。じんわり、ほっこり、温かい。
そのままシキは、肩まで一気に湯へと浸かった。ざぶんっ。豪快な音が響いて、心地よさが体の芯まで沁みてくる。至福の息が、漏れ出てしまう。
「……さいこー……」
時は真夜中。クローネの皆は、すっかり寝静まっている頃だろう。
しばらく湯を堪能し、ようやく決心して空を見上げた。
城塞都市の上空の、遥か高い位置に、切り取られた夜空が見える。湯煙のベールをうっすら被って、星がおぼろに輝いている。
北の空に、一段と眩しく輝く星。それを目印に、広がる夜空を読んでゆけば、流星群の夜──運命の時が、わずか七日後にまで迫っていることが判明した。
「……七日、か……」
想像以上に差し迫った状況だった。おそらく七日後──この身に刻まれた死予言は、有無を言わさず進行する。
「……七日かあ……」
シキは口まで温泉に浸かり、ぶくぶくと息を吐いてみた。子供っぽい仕草だが、それでいくらか気が紛れる。やはり、ここに温泉があって助かった。
残された時間は少ないが、焦ったって仕方がない。今は休んで、また精一杯頑張ればいいじゃないか──傷ついた全身を包む温かさが、そう教えてくれるようだった。
切り替えるように息を吐き、シキは湯から立ち上がった──その瞬間。
「あっ……」
脱衣所の扉が、がらりと開く。シキはギョッとして動きを止めた。
湯煙の奥に、人影が見える。人影が、こちらに気付いて立ち止まる。
「あれ? シキさん──」
くりくりとした丸い目が、驚いたようにシキを見た。そこにいたのはロティカだった。
「待って──」
慌ててタオルで隠そうとするが……時すでに遅し。
立ち尽くす少年は、シキの身体を──あえて詳しく言うならば、本来その胸部にあるはずのない、ふたつの膨らみに目を奪われて。
「あ……えっ、えっ……?」
混乱して、顔を赤くして、目を白黒させている。
「え、ごめ……ごめん? え? ど……ど、どういうこと……?」
「どういう事って……」
言葉に困り、シキは軽く頭を掻いた。
(……ごめん……って言うのも、変だよな……)
自分は、ロティカを騙したわけではない。
無責任な言い方をすれば「勝手に勘違い」されただけなのだ。それでも勘違いされていると知って、訂正しなかったのは間違いない。
とはいえ、もはや隠しようもない状況だ。このまま無言の押し問答を続けるのは、それこそ時間の無駄というものだろう。
「……まあ、つまり……」
シキは目を伏せながら、タオルの裾を少しだけ捲る。
柔らかな曲線、きめ細やかな素肌が、月明かりのもとで露わになる。
「……こういう事だよ」
断言すると、ロティカは驚きのあまり固まってしまった。
……ああ、そうだ。つまりは、とてもシンプルな話である。
シキ=カガリヤという人物は、はじめから正真正銘の女性だったという──ただそれだけの話なのだ。
***
髪を結んだ紐を解いて、月明かりにそれを翳す。
それは無垢な少女だったシキ=カガリヤが、尊敬し、憧れを抱いていた青年の遺品だ。
この綺麗な髪紐は、生前の彼──アオイ=ユリヤが肌身離さず持っていた物である。
「……聡明な人だった。なんでも知ってて、どんな時でも冷静で……どこの誰よりも優しいのに、芯はメチャクチャ強くてさ」
温かな湯に浸かりながら、数年越しに「彼」についての話をする。
その隣にはロティカがいる。シキ=カガリヤの正体を知り慌てて風呂場から出ようとした彼のことを、シキの方から引き留めたのだ。
こんな夜は──なんだか無性に、誰かと話がしたかった。
「もしも僕が……あの人みたいに聡明で、あの人みたいに強かったら……何よりも大切だった弟を、失わずに済んだと思うんだ」
だからシキは、祖国から亡命する船の上で決意した。
もうこれきり、弱い自分は捨てようと。
「僕は……アオイ=ユリヤになりたかった」
知っている。そんな望み、叶うはずがないことぐらい。
だけれど、船の上──彼から受けとった銀の髪紐、それを身に着けた瞬間に、不思議と心が落ち着いた。憎んで止まない貧弱な少女が、自分の中から消えてゆく。
その行動は、過去の自分と決別し、新たな人生を歩み始めるきっかけとなった。
「だからシキ=カガリヤは女を捨てて、男として生きると決めたんだ」
どんな困難に阻まれても、折れない心を得るために。
「……そうですか……なんだか、複雑な事情があったんですね」
隣に肩を並べたまま、ロティカが遠い空を見上げる。
くりくりとした丸い瞳に、綺麗な月が映っている。暗い過去がまとわり付いたシキの言葉を、少年は否定することなく、だからと言って必要以上に干渉するでもなく、ただ素直に受け止めてくれていた。
それが妙に、心地よかった。
どこか穏やかで、温かな沈黙が流れてゆく。彼に話せて良かったとシキは思った。
「……シキさんは」
遠い月を見上げたまま、ロティカが静かに口を開く。
そして少年が呟いたのは、予想だにしない一言だった。
「シキさんは……その人のことが好きだったんですか?」
「えっ?」
不意打ちを喰らって、どぎまぎしながら言葉を探す。
「えーと……どう、だろ……」
夜空を見上げ、アオイ=ユリヤの顔を思い浮かべる。たしかに彼は素敵だったし、会話をするのは楽しかった。でも、あれが恋かと言われれば……。
「たぶん違う……かな。っていうか、恋? ってよく分かんないや」
その会話は、まるで普通の少女のようで。そんな話を、他でもない自分自身がしていることが、どうにもむず痒くて、甘酸っぱくて、恥ずかしい。
「恋……か。それって、どんな感じなんだろう? ロティカは好きな人とか、いるの? あ、もしかしてサタとか?」
すっかり照れて、つい早口になりながらロティカに話題を投げかける。
するとロティカは少しだけ、寂しそうな顔をして。
「いますよ」
きっぱりと、そして静かに呟いた。
「ずっと、大好きな人がいるんです。もう叶わない恋ですが……それでも、出会えて良かったと思います。あの人を想うと、ぼくは強くなれますから」
夜空を見つめるロティカの横顔は、寂しそうで、でも何故か力に満ちていて。
不思議な雰囲気に呑まれ、シキは何も言えなかった。
「……なんだか変な話をしちゃいましたね。のぼせちゃうし、そろそろ行きますか」
ふいに調子を変えて、笑いながらロティカが言った。
ざばんと音を立てて、湯から上がったその瞬間。
(……ん……?)
ほんの一瞬、シキは見た。
細くて華奢な、ロティカの肩。そこに奇妙な、焼印のようなものが刻まれていた。
四角い枠の中に、天秤のような模様が描かれている。その下には、瘢痕となった数字が刻まれていて。
(……398……43……23?)
するとロティカが、ハッとしたように傷を隠した。
「……どうか、しましたか?」
取り繕うように微笑んで、少年はさっさと先を行く。
その横顔が、どうにも触れてほしくなさそうな雰囲気を帯びていたものだから──刻まれた数字の意味なんて、聞くことなど出来なかった。