第四章 ワガママを言うような後輩 1

 週末が過ぎ去り、怠惰な学生ほど憂鬱になる月曜日。

 以前の俺もだるさに服従していたが、現在は通学する足取りも羽が生えたように軽やか。

 単位を補う補習は嫌々ながらこなしているものの、放課後が待ち遠しくて教室の壁掛け時計を何度もチラ見していた。

「お前、そわそわしすぎだ。もう少しだから補習に集中しなさい」

 日替わりの補習を監督する教師陣に注意されるほど、はやる気持ちが抑えきれない。

 誰かを好きになると、視界に映る世界が色鮮やかになり、毎日を心待ちにするようになる。わたと出会い、怠惰に支配されていた心境は様変わりした。

 午前の学校にさかの姿はなく渡良瀬の様子をうかがい知ることはできなかったけど、週末に聞かされた突飛すぎる話が幻聴だったかのように変わらぬ日常は平常通り。

 今日一日、心待ちにしていた放課後へのチャイムが鳴る。

 教師より先に教室を出たのは、まさかの自分で。少し前までは用事もなく友達と教室に残り、どこ行こうか、どこで遊ぼうか……二度と戻らないであろう高校生の青春を浪費しながら、うだうだと決めあぐねていたのに。

 迷うことない行き先は、もちろん美術室。部長の渡良瀬が先に待ち構え、自らの領域に引きこもりながら絵を描いている風景が目に浮かぶ。

 そんな日常を、待ち望んでいる。素知らぬ顔で部室に入り、夢中で色彩の世界に没頭する渡良瀬の背後から、ずっと眺めていたい。

 足裏に浸透した美術室への経路を辿たどり、廊下を直進すれば──目的地のドアを目視できるのだが、重力に逆らっていた足が地面に縛られ、ドアの付近で静止させられてしまう。

 気配がしない。室内からは物音一つすらせず、ドアの窓をのぞいて確認できる範囲には先客の影も形も確認できなかった。

 ドアの取っ手に指を掛け、腕に力を加えてみるも……開放を拒むドアは強固に踏ん張り、スライドしようとしない。開かない訳は単純だ。明らかに施錠されている。

「俺のほうが先に来てしまったのか……」

 多少の恥ずかしさを覚えたのは、真っ先に教室を飛び出すくらい放課後をびていた自分自身の姿を冷静に思い返したため。

 自ら絵を描くことより、絵を描いている渡良瀬と共に過ごしたい。よこしまな理由で部長の渡良瀬より先走る新入部員という構図を再認識したのも、恥じらいに拍車をかけた。

 鍵は渡良瀬が借りてくるだろうから、俺は美術室前の廊下で待つことに。

「今日は連絡先を交換しないとな」

 渡良瀬の家に行った際は半信半疑な情報を整理するのに苦労し、連絡先の交換は頭の片隅にもなかったが、この状況は土曜に引き続いて待ちぼうけをくらうかもしれない。

 改めて連絡先を交換しておく重要性も強調されるし、交換を提案しやすい口実にもなる。

 渡良瀬が日直や掃除当番などで部活に遅れたり、やむを得ない早退や欠席のときも連絡を交わしていれば無用な心配を避けられるので、今日こそは。

 放課後になれば部活で顔を合わせるのは残り数日であっても、電波でつながってさえいれば卒業後でも会うのは容易たやすいと思いたい。先輩風を吹かせ、甘い食べ物でも差し入れに行くくらい……わたは許してくれるかな。就職先が未定のまま卒業したら毎日でも美術室に入り浸ってしまいそうな気がするけど、面白い話をするから邪険に扱わないでほしいな。

 楽器を持った吹奏楽部、その他の文化部……面識のない下級生たちや顧問の教師が廊下の壁に寄りかかる俺には見向きもせず、ただただ通り過ぎていく。

 ヒマ潰しにスマホをいじっても落ち着かず、冷え込んだ廊下の床を足先が何度もノックした。この貧乏揺すりは気温が低いからなのか、曖昧な焦燥が発信源なのか、自分でも正体をいだせないまま、本日の仕事を終えた夕日が地平線へと早々に沈む。

 もう間もなく春が訪れる前触れ。末期となった冬の哀愁が漂う日の入りを廊下の窓より見届けながら、渡良瀬と共有するはずだった放課後の三十分が無為に経過していた。

 さすがに居ても立ってもいられず渡良瀬の教室へ赴くも、帰宅部と思われる二年生が数人でっているだけ。

「渡良瀬っていう生徒を探してるんだけど、学校に来てた?」

「えーっと、渡良瀬さん……ですか? いえ、今日は一度も見かけてないですけど」

 急に話しかけられた二年生の生徒は、あっけらかんと言い放つ。

 あいつの名前と顔を一致させるのに数秒の間を置いた反応は個人的にいらたしいが、クラスに溶け込めていないのは事実らしいので俺が腹立たしく思っても意味がない。

 俺にとっては、ただ一人。幼い頃から孤独で不格好だけど、好きなことには愚直な頑張り屋さんの渡良瀬しか考えられないのに。

 どこにもぶつけられない憤りを笑顔の裏に隠した俺は礼を述べ、今度は職員室へと立ち寄る。体調不良の線が濃厚だろうけど、念のためさかに事情を聞くためだ。

「先週の微熱が長引いてる。早朝に病院へ連れて行ったんだが、軽い風邪だろうってことで今日は休ませたんだ。風邪を他人に移したり、無理してこじらせでもしたら大変なんでな」

 職員室にいた登坂は午前中に不在だった理由と渡良瀬の欠席を説明してくれた。

 体調不良の長引きは楽観視できないものの、重症ではなさそうであんの息をく。

よしは幼少期から身体からだが弱かったし、オレにとっては慣れっこだ。たぶん、そのうち元気になるだろうさ」

「部室に来ないので心配してましたが、ひとずは安心しました」

いとしの佳乃と会えなくて寂しいよぉ~って感じだろ。なぁ?」

 正直その通りで反論の余地もないんだけど、登坂の小馬鹿にした口調が腹立つので肯定はしない。渡良瀬の家は学校から遠くないし、見舞いに行ったほうが良いのだろうか。

「あいつは薬を飲んで安静にしてるから、お前も真っすぐ帰れ。ただでさえ単位がギリギリなのに、風邪でも移されて最後の追試を欠席したらマジで留年するぞ」

「……分かりました」

 浅はかな思惑を見透かされたのか、やんわりとくぎを刺されてしまう。つい一昨日おととい、見舞いに伺ったばかりなので連日のように押し掛けるのは気が引けてしまうのは否定できない。

「だったら、せめて食事だけでも届けて良いですか? ウチは出前をやってませんけど、先生が帰宅しそうな時間帯にそっちへ配達しますから」

「ふふっ、お前……二代目世話焼き係が板についてきたな」

 往生際の悪い俺に観念したのか、さかは温和な笑みを吹きこぼす。

よしを気遣ってくれてありがとな。お前が佳乃と仲良くなってくれて、ほんとに良かったと思ってる」

 素直な面持ちで感謝を表明されると、後頭部がむずがゆくなる。もっと……軽口をたたいてくれよ。わた絡みでかいえるようになったれいな登坂には当分慣れそうにないからさ。

「ベタチョコ切らしてるから、ついでに調達してきてくんねぇ? あれがないと佳乃が不機嫌でさぁ、もちろん買ってきてくれたら代金は払うからよ」

 どさくさにまぎれてパシリを押し付けてきやがる。そうそう、これが本性ですよ。

「あのパン、どこに売ってるんですか? 近くのスーパーでは見たことないですけど」

「オレは通販で取り寄せてるけど、ヨークとかウジエで見かけたら購入よろ!」

 購入よろ、じゃねーよ。教え子をパシるような悪い大人にはならないでおこう。

 ベタチョコに関しては可能であれば、ということなので、渡良瀬の風邪が治るまでの間は俺が食事を届ける運びとなった。

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