【大増量試し読み】お姉さん先生は男子高生に餌づけしたい。1巻

プロローグ 3


「待ちなさい」


 制服の袖を持たれて、引き止められる。

緊張しながら振り返り、一瞬思考が止まった――先生の表情を見て。

 彼女は少し怒ったみたいな顔をしていた。ほおが赤く、瞳は潤んでいる。

 先生の年齢をそのとき正確には知らなかったが、大人の女性にそんな顔をさせてしまうことを、俺は想像もしたことがなかった。

「なぜ、君が頭を下げた。私が一人で解決すべき問題だったのに」

 こういうことになるとも、俺は予想できていた。

大人の問題に首を突っ込むのは良くないことだ。分かっていたのに、余計なことをしてしまった――そう思った。

「先生が頭を下げちゃいけないと思いました。俺が頭を下げても、特に減るものはありませんから。あれで引き下がってくれるかどうかは、ただの賭けでした。考えなしなことをしてすみませんでした」

「……どうして、そこまで……私のことを、知っていたわけでもないのに」

「知らなくても、先生が間違ったことを言ってないことは分かったつもりです」

 先生はそのとき、目を見開いていた。生意気なまいきな口の利き方をしていると自覚していた俺は、その反応を良いものとは考えなかった。

 しかし悪い気はしなかった。俺は自分が思っている通りのことを言えたし、それで先生が怒るのなら仕方がないと思った。嫌われることには慣れていて、先生みたいな美人ににらまれるのは辛いことだが、自分の性格を考えれば仕方がない。 

俺に好感を持ってくれる人なんて、よほどの物好きしかいない。

 しかしそんな俺の内心をよそに、岸川先生が次に見せた表情は――笑顔だった。

「私のことでわずらわせてしまって、すまなかった。すぐに忘れたいような面倒事なのだろうが、それでも助け舟を出してくれたのだな」

「い、いや、面倒ってわけじゃ……すみません、言葉のあやで」

「君が謝ることはない。私も、正直を言うと困っていた……何を言っても、親御さんの感情をあおってしまうと思ったからな。しかし、それで何も言えなくなってしまうのはもっと良くなかった」

 教師という人たちは、生徒に助けられても、それを簡単に認めたりはしない。そんなイメージを、俺は長年抱き続けていた。

 岸川きしかわ先生は、その凝り固まっていたイメージをたった一言で砕いてしまった。

「君のおかげで助けられた。ありがとう……何かお礼をさせてもらえるだろうか」

 生徒の憧れを一身に集める存在にして、女神と呼ばれている先生。

 彼女が頬を赤らめ、優しく微笑みながら俺を見つめている。

 しかし、決して勘違いをしてはいけない。

 このお礼がきっかけで、何かが始まるなんてことはない。

 ないのだから、先生の厚意を受けること自体に問題はない。それでも俺は、彼女の申し出を断らなければいけないと思った。

そうしなくては自然ではないと思うくらいに、俺は常識に縛られていた。

「気持ちだけで大丈夫ですよ。俺は本当に、大したことはしてないですから」

 それが無難ぶなんな落とし所だろうと思った。先生は小さなことでも恩義に感じるほうなのだろうから、甘えてはいけない。

「……うん、分かった。では、君が遠慮せずに受け取ってくれそうな範囲でのお礼を考えておく。私が勝手にしていることだから、気にするな」

 思いがけないくらい、あどけなさのある返事だった。

女騎士おんなきし先生なんて呼ばれているのに、「うん」という言い方がとても素直で、思ってはいけないのに分かっていながら可愛かわいいと思ってしまった。

 それまで俺は美人に弱いというつもりはなかったが、実際にそういう場面に遭遇そうぐうしてみて分かった。

 俺は年上の女性に弱い。特に、優しくしてくれる女性には。

「君は一年生か……まだ部活に入ってはいないのか?」

「高校では部活に入るつもりはないんです。勉強に集中するつもりなので」

「そうか。勉強ということなら、私も多少はサポートできるかな」

 先生が嬉しそうに言ったその内容を、俺は初め社交辞令しゃこうじれいというやつだと思った。岸川先生は色んな科目を教える技術があって、先生が生徒に勉強を教えるのは自然なことだ。そんなふうに、頭の中で意味もなく言い訳みたいなことを考えていた。

 先生が俺に勉強を教えてくれる。このモデルでもそうはいないほどのプロポーションを持つ美女が、俺と二人きりの課外授業をしてくれる――そんな夢のような想像を展開しながら、俺の中の現実的な部分は、絶対にありえない、期待するな、少しでもやましいことを考えたら叱責しっせきを受けてしまうぞと全力で警告を発していた。

「先生はご多忙そうですから、無理はしないでください。それに、特定の生徒に対してサポートしたりするのはまずいんじゃないですか」

「う、うん……確かにそれはそうなのだが。では、私は何をしてお礼をすればいいんだ。お菓子を作ったら食べてくれるのか?」

 岸川先生がだんだんと焦れてきて、じりじり詰め寄ってくる。

俺より身長は少し低いくらいなのだが、先生のオーラというかそういうものが彼女を大きく見せて、押し倒されそうな危機感を覚えてしまった。

「つ、作ってもらえたら食べますが、やっぱり周囲の目が……うわっ!」

 迫ってきていた先生が、俺の両肩に手を置いた。睫毛まつげの数を数えられるくらいの距離まで詰め寄られ、思わず喉が鳴る。

「食べてくれるのならそれでいい。しかしこれでは、私が無理やり君にお菓子を食べさせようとしているように見える。それはお礼でも何でもない」

「そ、それはいいんですが、先生、きょ、距離感が……間合いがですねっ……!」

 そうこうしている間も、ぽよん、ぽよんと胸板に何かが当たっていた。柔らかくてとても大きい――巨大なマシュマロのような感触。

「さっきから周囲を気にしすぎだ。第一印象は達観たっかんしたところがある少年だと思ったが、そうやってビクビクするのはらしくないのではないか?」

「ぼ、僕は……いえ、俺はビクビクなんてしてません、ただ一般論としてですね、放課後の廊下ろうかで先生と生徒がこんなに接近しているというのは不自然極まります。さっきの保護者の人に見られたりしたらそれこそ一発退場ですよ」

「生徒との交流にレッドカードも何もあるものか。もしイエローカードが出たとしても、もう一枚出るまではフィールドに残れる。それがルールだ」

 この距離でのボディタッチは、見る人が見ればレッドカードなのではないか。風紀委員長が見たら、ホイッスルを吹きながら走ってくるところだろう――そんなアニメみたいな風紀委員はそうはいないが。

 まだ知り合ったばかりなので俺にも遠慮があり、岸川先生が自分から離れてくれるまでは、甘んじて間近で見つめられるしかなかった。

 そのとき先生の顔を直視できずに目を逸らし、視線を下げて、俺はようやく先程から胸に当たっているものが何かを確かめた。

 そこにはマシュマロ――もとい、豊穣ほうじょうの象徴たる二つの山があった。

 これが女騎士の胸部装甲――いわゆるブレストプレートをつけていない状態のバスト。バストとブレストはほぼ同じ意味だと思うが、それは置いておく。 その無防備に押し付けられたマシュマロの弾力で、俺は後ろに押されていた。それを堪えようと足を踏ん張ればどうなるか。

 ぷにゅん、というのか、ぷるるん、というのか。乳房がそんなふうに弾むところを、俺は生まれて初めて目の当たりにした。

「んっ……な、なんだ。そんなふうに先生を押してはだめだぞ」

「す、すみません……ですが、その、先生の……」

「ん……? どうした、急に語尾があやしくなったぞ。何を言おうとした?」

 先生は俺の肩に手を置いたまま、俺の口に耳を近づけて、より声が聞こえやすいようにする――さらに身体の密着度が上がるというか、ほぼ抱きしめられているのと変わらなくなってしまう。

「せ、先生の……おっぱい……いえ、マシュマロが……」

「ん……マシュマロ? 私も嫌いではないが、あまり頻繁ひんぱんに食べるものではないな。なぜ急にそんなことを?」

「い、いえ、時々マシュマロのことを考えるんです、哲学的な意味で」

 胸が当たっているというだけで、俺は完全にグダグダになっていた。骨抜きにされていたと言ってもいい。

素直になれ、この状況を甘受してこそ男子というものだ。いや、今日始めて話したとはいえ、先生と生徒でこれはまずい――頭の中で天使と悪魔がせめぎあう。

先生の胸が大きすぎるのがいけないのであって、これは不可抗力ふかこうりょくだと往生際おうじょうぎわの悪い自分が言う。その実、頭の中はおっぱいでいっぱいになっていた。

マシュマロ攻めで骨抜きにされたところに、さらに甘い良い香りが追い打ちをかけてくる。先生の使っているシャンプーの香りは、やはり俺の家で使っているものとは違っていた。それとも先生自身がいい香りなのだろうか――もはやまともな思考を維持することができていなかった。

「さっきから、何か緊張しているようだな……それはそうか、私は君の授業を持っていないし、話したのは初めてだからな」

 そう言って先生が離れていくとき、名残惜なごりおしいと感じた俺を誰が責められるだろう。

 彼女が動くたびにたゆん、と胸が弾む。抗いがたい引力に目を惹かれながら、俺はやっとの思いで先生の顔を見続ける。決しておっぱいを見てはいけないデスゲームというものがあったなら、そのときの俺は間違いなく最後まで生き残れるだろう。今は正直を言って全く自信がない。

「ん……そうだ、そろそろ部活に戻らなければ。先程の親御さんに呼ばれて出てきていたのでな」

「は、はい……先生、頑張ってください」

「私はいつも頑張っているつもりだぞ……と言っても、確かに吉田に対しては、最近たるんでいるというようなことを言ってしまった。あまり厳しくしない方が伸びる生徒だと分かっているのだが、なかなか練習に出席してくれなくてな」

「先生の考えは、きっと伝わると思います。実際に吉田さんのことを知らない俺が、簡単に言うことでもないですが……」

「いや、そう言ってくれるだけでも励みになる。私ももっと生徒のことを理解できるよう、努力しなくてはな」

「先生、頑張ってください。じゃあ俺はそろそろ……」

 そう言って帰ろうとしたのだが、先生が少し怒っているというか、不満そうに見える。

「……こほん。何か忘れていないか?」

「え……?」

「君は、このまま私にお礼をさせないつもりなのか?」

「そ、そういうわけでもないですが……」

「ならば、必要なことがあるだろう。と、聞く前に私から名乗るべきか」

 先生は肩にかかっていたおさげ髪をさらりと後ろに流すと、胸に手を当てて言った。

「私は岸川きしかわ……芽瑠めるという。担当科目は体育で、水泳部の顧問だ」

 彼女が少し名前を言うのをためらったのは、自分のイメージに合わない可愛らしい名前なので恥ずかしいという理由だ――当時の俺も、少しは先生が言いよどんだ理由を察していた。

「え、ええと……俺は海原涼太うみはらりょうたです。一年A組で、出席番号は2番です」

「海原、涼太……うん、覚えたぞ。海原、君は泳ぐのは好きか?」

「はい、それなりに……水泳部の人たちには、全然かなわないと思いますが」

 海という字が入っているので、そう思われたというわけでもないのだろうが、実を言うと水泳はスポーツの中でも自信があるほうだった。

「君がもし部活をしていなくて、うちの学校に男子の水泳部があれば勧誘していたところだが」

「ありがとうございます。でも俺は、部活に入る予定はないので……」

「そうか、しかし人生には色々とあるものだ。何かのきっかけで部活を始めたいと思うこともあるかもしれないし、部活との関わり方は、何も入部するだけが全てではない」

 先生は出会ったときからずっと、根っからポジティブな人だった。

 俺はそんな彼女を見て、高校生活に対する考え方を少しだけ変えた。一年生の間は、それほど大きく変わったとは言えないが。

 あの日、岸川先生と出会わなければ。

 彼女を助けたいと、そう思っていなかったら――。

「他の部員たちにも了解を取る必要はあるが、もし興味があったら来たまえ。水着も持ってくれば、少しくらいは泳ぎを教えられるだろう」

「あ……先生っ」

「また学校で会ったら、挨拶をさせてくれると嬉しい」

 岸川先生は軽く手を振って歩いていく。

シャンと背筋を伸ばして夕焼けの廊下を歩いていく姿があまりにも絵になっていて、俺は思わず先生を呼んだあと、しばらく立ち尽くしていた。


 姉ヶ崎高校あねがさきこうこうの女神。水泳部顧問の、「女騎士先生」。

 彼女は出会ってからずっと、不思議なくらいに俺を気にかけてくれて、接点はなくなることがなかった。

 だが、それは俺が特別扱いということじゃない。一度知り合ったら、先生と生徒であっても、会えば話をしたりもするし、休みの日に偶然出会うこともある。

しかし周囲からすると、先生と生徒が個人的に親しくしているのは目立つことなので、俺も先生も、表立って仲が良いところは見せないようにしていた。後ろめたいことをしてるつもりはなく、一般常識として守らなくてはならないルールだ。


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