【大増量試し読み】お姉さん先生は男子高生に餌づけしたい。1巻

プロローグ 2

 高校に入ってまだ間もない頃のこと。

放課後に図書室で勉強してから帰ろうとすると、職員室前で、スーツを着た女の先生と生徒の保護者らしき女性が何やら口論していた。

岸川きしかわ先生、うちの子はどうしても必要な用事があって、部活を休ませてもらうように頼んだはずです。なぜ試合のメンバーから外されないといけないんですか?」

 絵に描いたような保護者からのクレームというやつだった。先生という仕事は激務で、公立学校の教師というのは公務員の中でもかなりヘビーな部類に入るのではないかと思っていたが、まさにその通りなのだろうとその時思った。俺は安定した職業について調べることには熱心だったのだ。

 だから最初は、先生を心配するというよりは、他人事のように大変そうだと思っただけだった。

 けれど岸川先生の凛とした声が聞こえて、俺は立ち去ろうとする足を思わず止めていた。離れたところから見ても、先生の立ち姿は毅然きぜんとしていて――まさに、自分の意志を貫こうと戦う女騎士みたいだった。

吉田よしださんは、今年に入ってから部活の欠席が目立っていました。ちゃんと出席しているメンバーは、着実にタイムを上げてきています。先日の計測でも、吉田さんのタイムはぎりぎりで他の選手に届きませんでした」

 そのとき初めて、俺は岸川先生が水泳部の顧問だと知った。

 恥をしのんで告白すると、俺はそのとき先生の姿を目に収めることだけで意識がいっぱいになっていた。駄目だと思いながら、見てしまう――岸川先生を前にして、俺は自分の理性が大して強固ではないことを思い知らされた。

 先生は、とても胸が大きかった。

俺からは彼女を横から見るような位置だったのだが、鎖骨の下あたりからスーツのジャケットが目を疑うほどの曲線を描いていて、山のように前に突き出している。それでいて全体のシルエットは細身なのだから、胸の膨らみが目立つことこの上なかった。

 流れるような長い黒髪を、後ろで一つに結んでいる。ほどけばきっと、腰くらいまでは届くくらいの髪の長さだったろうか。そして、見つめられたら身動きができなくなりそうなほど、涼やかな光を湛えた瞳――まさに、女神めがみだった。

 この学園において、実際に岸川先生が「二大女神にだいめがみ」と呼ばれるうちの一人であり、イメージ通りに「女騎士おんなきし先生」と呼ばれていると知るのは、それからすぐあとのことだ。

 しかしいかにも強い女性に見える岸川先生は、次の保護者からの一言を受けて、表情を曇らせることになる。

「事情があって休んでいた生徒を、試合のメンバーから外す。先生、おわかりになっていますか? これはパワーハラスメントですよ」

「私は、そんなつもりは……」

「そんなつもりじゃない、ではすみませんよ。うちの子はメンバーから外されて、水泳部を辞めたいとまで言っているんです。一時はご飯も食べられなくなって、可哀想かわいそうに……あの子は何も悪いことをしてないのに」

部の中で競争があって、試合に出られる人数が限られているのなら、良いタイムを出して結果を残さなくてはならない。俺は中学では文化系の部にいたが、その中でも競争というものは存在していた。

努力の結果として試合に出る選手が決まる、そのルールが「パワハラ」という問題にすり替えられ、げられようとしている。

他人のことで正義感を発揮するのは、あまり利口なことではないと思っていた。

――だが、そんなふうに割り切る日頃の自分を、すでに忘れそうになっていた。

「先生の指導方法に問題があって、うちの子が体調を崩していることは、教育委員会にも報告させてもらいます」

「……それは……」

 教育委員会。それが俺の中に引かれたラインを越えた。

 モンスターペアレントと言うほどでもないのかもしれないが、一方的に言い分を押し付けられる岸川先生を見ていて、放っておけなかった。

 上手く行く保障があったわけじゃない。岸川先生を助けたい、そのために何かができないだろうかとひたすら考えて、思いついたことは――。

「あの、ちょっといいですか」

「え……? あなた、岸川先生のお知り合い?」

 声をかけると、保護者の女性だけでなく、岸川先生も驚いている。それはそうだろう、急に知らない生徒が話に割り込んできたのだから。

「俺はこの学校の一年です。先生の代わりに、俺に謝らせてもらえませんか」

「は? 無関係のあなたに謝ってもらっても、うちの娘は……」

「失礼ながら、話を聞かせてもらいました。吉田さんが悪いことをしてないのなら、俺は先生も悪いことをしていないと思います。でも、お母さんは謝って欲しいということですから、それなら俺が頭を下げます。どうも、すみませんでした」

 上手いやり方が思いついたわけじゃなかった。怒っている相手を、謝ればなだめられるというのも希望的観測にすぎないと分かっていた。

「そ、そんなふうに頭を下げられても……せ、先生も何か仰ってください」

 先生も黙っているわけにいかず、俺の肩に手を置いた。俺はそれでも顔を上げなかった――すぐに先生に従えば、ただの茶番で終わってしまう。

「君がそんなことをする必要はない。これは水泳部の中での問題だ。吉田は部を休んでいて、部員たちも心配している……少し部活を休んだからといって、厳しくしすぎたかもしれない」

 有望な選手でも、部活以外のことに目が向いてしまうことはある。

 実のところ、吉田さんが部活に出ない間友人と遊んでいたことも岸川先生は把握していた。それでも言い返さなかったのは、話がこじれることを恐れたからだ。

 ここで保護者とも関係が悪化すれば、このまま吉田さんが退部する可能性が出てくる。岸川先生はそれを避けたかったと、後になって俺に教えてくれた。

「……あ、謝ってくだされば、それでいいんです。うちの子が練習に参加しやすくなるよう、先生には配慮していただかないと」

 まだ俺は頭を下げたままでいた。保護者が捨て台詞のようなことを言って立ち去ったあと、ゆっくり顔を上げて、大きく伸びをする。

 先生が俺を見ている。何か無性に落ち着かなくて、申し訳なくて、こんな言葉が口をついた。

「先生、余計なことをしてすみませんでした」

 これで先生を助けられたなんて思うのは、ただの偽善だ。

だから俺は、すぐにその場から立ち去ろうとした。


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