四章 医者宿の夜③
「おまえ、シャル・フェン・シャル! 部屋に帰る気かよ!?」
アンが駆け去ったのを見送ると、シャルは
ふり返り、
「帰る」
「やめとけって」
「帰ってなにが悪い」
「あんなこと言われて、アンはめちゃくちゃ傷ついて、泣いてるかもしれないぞ? へたしたら、暴れてるかも!? そんなところにのこのこ顔見せたら、
「別に、かまわない」
「お、俺はいやだ。俺は今夜、この食堂で寝るぞ」
「好きにしろ」
部屋に帰りながら、シャルは、ヒューの評価は正しいと感じていた。
アンのつくったものを見て、シャルも同じように感じたからだ。
そしておそらく、アン自身も。だから傷ついたのだろう。
アンはベッドにもぐりこんで、毛布を頭から
シャルはアンのとなりのベッドに
まるで、
──リズ。
その様子を見つめていると、ふと、思い出す。
──リズも、小さな
改めて、目の前の蓑虫を見る。
──こいつは、十五歳!?
アンは十五歳になっても、まだこんな幼さを残している。それが残っているのは、彼女の今までの十五年が、母親に守られて幸せだったからだろう。
そう思うと、暖かい
大人だ成人だと
「なにがおかしいの!? 人が落ちこんでるのが、そんなに面白い!?」
その目は真っ赤で、
涙を
まずいと思ったが、ぷっと
「なによ! 人の顔見て、笑うわけ!? どうせ、わたしみたいなかかしは、みっともないだけよ。わたしが悲しみにくれて泣いていたって、その顔が面白いって。シャルみたいな綺麗な顔した人たちに、一生、あざ笑われるんだわ!」
アンは叫んで、がばっと、顔を
傷ついて大混乱しているらしいアンには申し訳なかったが、シャルの気分は、なぜかとても
忘れていたなにかを、思い出せそうだった。
シャルは立ちあがると、アンが
──そうだった。初めて会った頃のリズは、こんな
無意識に、シーツの上に広がったアンの髪を
「一生、笑われることはない。人間は、俺たちと
アンは
「砂糖菓子作りは、もっと腕を
「噓じゃない。知ってる」
シャルは掌に
「俺が生まれたとき。最初に目にしたのは、人間の子供だった。五歳の女の子だ。こんな髪の色をしていた。俺はその女の子の視線があったから、生まれたらしかった」
遠い昔の思い出。なぜか、口に出してみたくなった。それによって、なくしたものが
シャルが語り始めたことに、アンは驚いたような顔をしていた。
「女の子はエリザベス……リズという名だった。貴族の
アンは枕から顔をあげると、ベッドの上に座りなおした。
シャルの手にあった髪の房が、その手を離れた。
からになった掌を、シャルは軽く
「それから、ずっと
「それで?」
問われて、シャルは顔をあげた。
「それで、リズは。ずっとシャルと一緒にいたの? 今はどうしていないの?」
目を
問われると、まだ、胸が痛む。もう百年も前のことなのに。
「死んだ……殺された。殺したのは、人間だ」
その言葉に、アンはうつむいた。
しばらくすると、シャルの拳にアンの手がそっと
「ごめん……」
アンが何に対して謝ったのかは、わからなかった。
それとも、同じ人間として、リズを殺してしまったという事実への謝罪か。
ただ、彼女の心の温かさだけはわかった。
シャルは軽く頭をふると、立ちあがった。拳から、アンの手がするりと離れた。
余計なお
「もう
背中
◆ ◆ ◆
翌朝アンが目覚めると、ヒューはすでに出発していた。夜明け前に出ていったらしい。しかし宿代は、ちゃんと彼が
いったいヒューは、どんな
しかしその疑問を、あまり深く考えることもしなかった。
さらにヒューに言われた言葉の
それよりも。シャルが口にした彼の過去の
医者宿を出発し、その後三日間は、
その間、となりに座るシャルの顔ばかり、ちらちら見ていた。
シャルは、人間と友達にはなれないと言った。
けれどシャルは生まれたときは、人間の女の子と心を通わせていたのだ。
十五年も、一緒にいたと言った。アンが母親と過ごしたのと、同じだけの長い時間だ。
シャルにとって、その女の子リズは、家族と同様だったかもしれない。それを、人間の手によって
もともと人間と心を通わせていたシャルの心を
──シャルの心を
馬車を走らせながら、そんなことばかり考え、そして常にシャルの横顔を気にしていた。
ブラディ
道程は、三分の二消化した。
鉄の扉をおろして、三分の二の道のりが過ぎたことにほっとした。
あと三日走れば、ブラディ街道を
宿砦にはいると、早々に夕食をすませた。
アンは
道々ジョナスは、食べ物をアンに分けてくれようとした。だがアンは、それらをすべて断った。旅で、贅沢に慣れてしまうのは危険だ。何があるかわからない旅だから、食料はなるべくとっておいて、そして質素な食事に慣れることが
ジョナスはキャシーを連れて、すぐに荷台の中に引きあげた。
ミスリルは「恩返しさせろ」と、さすがに喚かなくなっていた。しかし当たり前のような顔をして、昼間は
ミスリルが満足するような恩返しを、アンはまだ思いつかない。思いつかない限り、彼はずっとひっついてくるだろう。ミスリルのキンキン声には、もう慣れた。慣れてみると、ミスリルの尊大さも
アンはシャルとともに火を囲んで座り、
シャルは林檎を
それが
「なんか今夜は冷えるね。秋も終わりに近づくと、さすがに寒い。シャル、寒くない?」
「俺たちは人間のように、寒さを感じない」
「へぇ、便利ね」
答えた途端に、くしゃみが出た。やはり冷える。
シャルが、ジョナスの眠る荷台をちらりと見て
「おまえは、荷台の中で寝ないのか。あの男みたいに、暖かい場所で眠ればいい」
アンは毛布を御者台の下から引っ張り出して運びながら、首をふった。
「ジョナスの荷台はなんのためにあるのか知らないけど、わたしの荷台は砂糖菓子を作るための作業場よ。神聖な場所なの。そんな場所に、眠れないわ。わたしもママも、荷台の中で眠ったことなんか一度もないの。冬は、わざわざ宿に
「いい職人だったらしい。おまえの母親は」
言われると、エマの顔を思い出した。とてつもなく、
「うん。とってもね」
その夜は、なかなか寝つけなかった。
──寂しいな。
心の中に、あぶくのようなそんな気持ちが、ゆっくりと
──シャルも、こんな気持ちなの?
何度か寝返りを打ち、横になっているシャルの方へ視線を向ける。
五、六歩の
──寝てる? それとも目を閉じて、何か考えてる? 話がしたい。
手を
身を起こして、手を伸ばしかける。しかしためらいが強く、その手は止まる。
──寝込みに羽に
残った一枚の大切な羽を人間に触られるなど、シャルは
──シャルの心を溶かす魔法……。
そのときふと、砂糖菓子のことを思い出した。
作ってあげると約束しておきながら、ミスリルの出現で、すっかり忘れていた。
寝られそうもないので、アンは起きあがった。
──約束の砂糖菓子を作ろう。
甘い砂糖菓子が、少しでも、シャルの心を温かくしてくれればいい。
荷台後方の
満月から少しだけ欠けた月の光が、窓から
ここにエマがいた。エマの手が触れたものたちが、
頭をふり、銀砂糖が入っている
「ヒューに砂糖
「あれ?」
蓋を開けた樽の中には、確か、半分以上銀砂糖が残っていたと思っていた。
しかし樽の中は、からだった。からの樽と
そう思って、からと思いこんでいた樽の蓋を開ける。すると、その樽もからっぽだった。
「なん、で」
アンは
次々と残りの樽を開ける。残りの三つには、ちゃんと銀砂糖が
五つの樽のうち、二つが、からだ。
砂糖菓子品評会の作品をつくる材料だけが、そっくり、なくなっている。
◇ ◇ ◇
続きは本編でお楽しみください。