四章 医者宿の夜②
「シャルは、わたしが買ったの。でも愛玩妖精じゃないわ。戦士妖精よ。護衛なの」
「戦士妖精?
からかわれていると、わかっていた。だが恥ずかしさに、かっとなった。
「そんなんじゃないわ」
「照れない照れない。そんな噓つかなくても、わかってるって」
「噓じゃない!」
思わず声が高くなる。ヒューは
「じゃ、証明してみるか?」
ヒューは連れの青年を、ちらりと見やった。そして一歩下がる。
今まで存在が消えたように
青年は突如、傍らの剣を
「シャル!」
悲鳴をあげるアンよりはやく、シャルは立ちあがり背後に
二回目の
刃がぶつかり、
「やるな」
褐色の肌の青年が、無表情で
シャルは口もとで笑い、相手に向かって囁く。
「殺されたいのか?」
「あいにく。そこまで
きりきりと、刃が
「なるほど。確かに、戦士
ヒューは驚いたように言うと、にこりと笑った。
「もういい、サリム。剣をひけ」
命じられ、サリムと呼ばれた彼は、あっさりと剣を引いた。
シャルも
「なんてことするのよ、この、
我に返ったアンは思わず立ちあがり、ヒューの
「
まったく悪びれたところもなく、ヒューは言う。
「だからって、こんなことする!?」
「いやぁ、だから謝るって。お
「そんな
相手の胸ぐらを摑んでいた手が、思わずゆるむ。
この半年、エマの
ここの宿代を
ヒューの申し出は、とてつもなくありがたかった。
「一、二、三……と、五人分で、六十バインかける五で、三クレスか。わりとかかるな。お詫びにしては、高額だよなぁ」
「なにそれ、自分で言い出したんじゃない!?」
「そうだがな。ちょっと、俺の方が損な気がする。そうだ、おまえら砂糖菓子職人だと言ったよな。一個ずつ、砂糖菓子を作ってくれよ。それで俺が、五人分の宿代を
「はぁ!?」
「掌の大きさでいい。それくらいの砂糖菓子なら、せいぜい二つで、十バインだろう。十バインで、三クレスがちゃらになるぜ。悪くないだろう」
いいように、ヒューに
しかし宿代がかからないというのは、
アンはジョナスをふり返った。ジョナスは、
「僕に異存はないよ、アン」
なぜかジョナスは、
アンはヒューに向きなおると、むっとしながらも、言った。
「わかったわ。砂糖菓子は作る。そのかわり、絶対に宿代は支払ってよ」
「なんなら、
「いらないわよ、そんな噓くさい誓い。じゃ、待ってて。食事を済ませて、作るから」
食事が終わると、アンはジョナスと
馬車の荷台の中には、
樽は五つ。
一つはから。もう一つは、三分の二ほど銀砂糖が入っている。残り三つは、
ルイストンの砂糖菓子品評会に参加する者は、祝祭用の砂糖菓子の作品を一つ提出する。
それと同時に、三樽の銀砂糖も提出する必要がある。
細工がうまいだけでなく、上質な銀砂糖を安定して精製できる技術も問われるからだ。
砂糖
「樽三つは使えないから、三分の二樽で品評会用の作品をつくるとしても。量は、
呟きながら、樽の
石の
「なんだか、わくわくするな」
家に向かいながら嬉しそうに言うジョナスを、アンはいぶかしんだ。
「なんで? なんかあいつに、からかわれてる気がする」
「それでもさ、人前で自分の技術を
「そうかな」
「そうだよ。僕は自分の技術に自信がある。実は、ここだけの話。僕がラドクリフ
砂糖菓子職人には、大きな三つの
マーキュリー工房派。
ペイジ工房派。
そして、ラドクリフ工房派だ。
砂糖菓子職人は、どれかの派閥に所属していなければ、原料となる砂糖林檎の確保や、作った砂糖菓子を売りさばくのに、
だからたいがいの砂糖菓子職人は、どこかの派閥に所属しているものだ。
無論、各派閥は様々に
アンの母親のエマは、派閥に所属していなかった。派閥のやり方が気に入らないと言って、苦労しながら砂糖林檎を確保し、砂糖
ジョナスが誇らしげに語るのを聞くにつけ、彼には、アンとまったく
ただ。銀砂糖師になりたいという、その希望だけは同じらしい。
「じゃ、ジョナスも銀砂糖師になりたいのよね。今回の砂糖菓子品評会に、参加したら?」
「いや。僕は……去年とその前、二回参加して、まだ銀砂糖師になれてないから。今年は見送り。もう少し
銀砂糖子爵の言葉を聞いて、アンは目を丸くする。
「ジョナス。そんなものになりたいの?」
銀砂糖子爵。
それは銀砂糖師の中から一人だけ王に選ばれる、王家専属の銀砂糖師のことだ。
選ばれた銀砂糖師には、一代限りではあるが、子爵の
銀砂糖子爵の命令には、各砂糖菓子
銀砂糖子爵は、砂糖菓子職人の頂点だ。
「なりたいよ。というか、僕は絶対に銀砂糖子爵になるよ。だって
ふと、ジョナスが歩みを止めた。つられて、アンも立ち止まる。
「僕と
月が、雲間から顔を出した。ジョナスの顔がはっきり見える。
嬉しい言葉のはずだった。しかし目の前の彼と幸せな生活をすると考えても、どうもぴんと来なかった。
整ったジョナスの顔を見て、言葉を聞いても、心はざわめかない。
──ジョナスよりも……。
「ごめん。ジョナス。とにかく今は、その話はよそう」
急いで家の中にはいると、ヒューがテーブルに座って待っていた。彼の対面には、
妖精たちやサリム、医者は、観客のようにその周囲に集まっている。
「さ、二人とも。椅子に座ってくれ。俺の目の前で、作ってみせてくれ」
テーブルの上には水を入れた容器が、深いものと浅いもの、二つずつ。台所から調達してきたらしい、まな板が二枚。
「色をつける必要はない。作る形も、二人に任せる」
「その前に、
アンはヒューの顔を真正面から見つめた。
「なんだ」
「あなた、何者? この道具のそろえかた、砂糖菓子を作る工程を知っていなきゃ、できないでしょう。あなたも、もしかして砂糖菓子職人? 砂糖菓子品評会に参加するの?」
にやりと、ヒューは口もとを
「宿代
「……ま、いいわ。宿代払ってくれるなら」
テーブルに置かれていた水を、銀砂糖を入れた石の器に注いだ。
ジョナスも、同様に始めた。
銀砂糖に冷水を加え、練る。すると銀砂糖は
粘土のようになったものを、まな板に移し練る。
形を作る道具類が準備されていないので、指先のみで作るしかない。
銀砂糖は熱に
テーブルに用意された冷水で、指を冷やす。
砂糖菓子職人の手の動きは、手品師の手つきに似ているといわれる。
──なにを作ろうか。
アンは銀砂糖を練りながら、思いを
──ママだったら、なにを作るかな。
エマならばおそらく、白い色を生かして、白いものを作る。
エマは植物が好きだったから、白い花を作ろう。
そう決めて、エマがしばしば作っていた花の形を心に思い浮かべる。
花びらの形を指先からひねり出し、いくつも作る。それらを重ねて、花を作っていく。
ジョナスは、
ヒューは、
キャシーが、ジョナスの指先で作られるものを見て、
「ジョナス様の作るものって、本当に、すてき……」
時間は、たいしてかからなかった。
二人が手を止め、顔をあげたのは同時だった。
「できたか? 二人とも」
ヒューが訊くと、ジョナスは自信たっぷりに
「できたよ」
「わたしもできた」
アンも、作ったものをまな板の上に置いた。
二人の作品が載ったまな板を、ヒューは自分の前に引き寄せた。
「二人とも、かなり腕がいい。
アンとジョナス、二人は顔を見合わせて
しかし。次の
「あっ!」
「なにするんだ!」
アンとジョナスが声をあげた。
ヒューは厳しい表情で、二人を見すえる。
「見苦しいから
アンはどこか、図星を指されたような気がした。自分でも意識せずに感じている、自分の砂糖菓子に対する、引け目のようなものを的確に言い当てられた。
ジョナスも同様なのだろう。表情が
「ま、この砂糖菓子のかけらは、もらっとく。明日の、俺のおやつだ」
ヒューは手近な
「さぁて、
サリムを
医者は、
動けないジョナスに、キャシーが駆け寄ってきた。そして金切り声で
「なにがしたかったのよ、あの男は!?」
さらにテーブルに飛びあがると、ジョナスの手を
「ジョナス様。お気になさることありません。あんなおかしな、得体の知れない男の言うことなんか、真に受けちゃだめですよ」
「そう、かな?」
ジョナスは
「ごめん、アン。僕、……部屋に帰るよ」
アンは、ぱっと顔をあげた。
「わたしも……帰るから!」
叫ぶなり、アンは自分の部屋に向かって駆けだした。