四月(一)その3

  ◇◇◇


「なんつーか、うん。疲れた」

 よく考えたら今日は無駄に激務だった。主に精神的に。

 昨日はなかなか寝つけず、朝は意味もなく早く目が覚めた。それからそわそわと落ち着きなく掃除を繰り返し、登校。打合せ中もずっとスマホを気にしている始末。やっとの思いで整えた「頼れる兄」としての体裁は突発的な撮影で吹き飛び、そのことに落ち込んだかと思えば様変わりした眠夢が新妻メイドでお出迎え。

 そうして今、こうして一人になったことで完全に緊張の糸が切れてしまった。リビングのソファーに死んだようにもたれかかっている。今日撮ってきた写真のレタッチをすべきだとわかっているのだが……もう一歩も動きたくない気分。

「先輩先輩! どうですか? 似合ってますか?」

 ドアノブが捻られる微かな音が聞こえたと思えば次の瞬間、反射的に姿勢が正されていた。手元のカメラを覗き込むふりまでしている。やった俺自身びっくりだ。完全に無意識の行動だった。一歩も動きたくない気分とはなんだったのか。

 音のした方に顔を向けると、そこには眠夢が制服姿で立っていた。

 見慣れたはずのブレザーだが、眠夢が着ているというだけでまったく別の衣装のようにも見える。似合っていないはずがない。

「うん。似合ってるよ」

「えへへ~、ありがとうございますっ、先輩」

 ただ今一番俺の目を惹いたのは制服ではなかった。

「先輩、どうしたんですか? そんなに私のことを見つめて。……もしかしてどこか変だったでしょうか?」

「ああ、いや、別に変ってわけじゃないんだ。ただ……」

 メイクが違う。わざわざコスプレ用のメイクを落として、学校用のそれにしたのだろうか? だがまあ、それはまだいい。

 問題は髪。去年までは楚々としていながらどこか冷たい黒だったはずの眠夢の髪が、明るく柔らかなベージュに変わっていた。

 受ける印象が全然違う。綺麗さよりも可愛いらしさを意識したそれ。どうにも俺の知る眠夢とは噛み合わず印象の齟齬が大きい。

「ただ?」

「髪、染めたんだなって」

「似合ってませんか?」

「いや、そういうわけじゃないけど……。前はほら、黒だっただろ?」

「高校生になるし、ちょっと染めてみようかなって。先輩だって一時期茶髪にしてたじゃないですか」

「それは忘れてくれ」

 黒歴史だ。

「えー、先輩、もう染めないんですかー?」

「染めないよ。染めるとしても茶髪はやめる」

 にやにやと楽しそうに笑う眠夢に、なんだか毒気を抜かれて、曖昧な笑みが浮かぶ。

「父さんにはもう見せた?」

「いえ、まだです。一番に先輩に見てもらいたかったので」

「そ、そう……」

 やっぱり見た目と言動の違和感がひどい。こんなお世辞を言うようなタイプじゃないはずなんだが。

「見せに行ったら? きっと喜ぶよ」

「んー……お母さんとなにか話してるみたいなので、後で行きますね」

 ちらりと天井に目をやる眠夢につられるようにして上を向けば、なにやらドタバタと音がしていた。

 まあ今日は平日だし、眠夢の入学に合わせてかなり無茶な引っ越しのスケジュールを組んだらしいので、仕事が終わって帰ってきてから最低限の荷解きをしているのだろう。

 男手は父さんがいれば十分だろうし、もし必要なら声をかけて来るだろうから、俺が手伝う必要はないはずだ。というか楽しそうにやっている二人の邪魔をしたくない。

「……あっ、もしかしてお邪魔でしたか?」

「え?」

 眠夢の視線は俺の手元のカメラに向いていた。

「ああ、いや、別に作業をしてたわけじゃないから」

 指摘されてようやく手元にカメラがあることを思い出したぐらいだ。

「そうだ。せっかくだし、一枚撮る?」

「あっ、いいですね! 先輩に撮ってもらうの久しぶりですっ」

 カメラを構えて、ポーズを決める眠夢をファインダーに収める。

 シャッターを切った。

「先輩、先輩っ! 見せてくださいっ」

 眠夢がソファーの後ろから覗き込むようにして俺に寄りかかってきた。

 仄かに甘い香りがして、吐息が耳にかかる。長い髪が頬に触れてくすぐったい。

「ね、眠夢?」

 カメラを手渡そうと後ろに差し出したまま固まる。妙に鼓動が早くて、声が裏返りそうになった。

「んー? ……あっ、もしかして先輩、照れてます?」

「えっ、いや、それは」

「それとも~、えっちなこと、想像しちゃいましたか?」

「は? はぁっ!?」

 え? えぇ? なに言ってんの!? これ本当に眠夢か? 眠夢ってこういうからかい方するタイプじゃないはずだよな!?

「むぅ。そんなに見つめてるとキス、しちゃいますよ?」

「っ!! ご、ごめん! ちょっとびっくりしてた」

 思わず呆然と眠夢を眺めていると、スッと眠夢が顔を近づけてきていた。慌てて頭を後ろに逸らす。

 が、今眠夢は俺の真後ろにいるわけで。

「やんっ」

「うわっ、ごめんっ!」

 後頭部が柔らかい感触に触れて、弾かれるようにして距離を取った。

「も~先輩のえっちぃ」

 にやにやと悪戯っぽく笑う眠夢に、内心で絶叫する。


 ──本当にこの半年でなにがあったんだよ!?


  ◇◇◇


 新年度。それは新たな一年の始まりに胸を躍らせ、同時に新たな環境に放り込まれることに不安を覚える。そんな日。

 俺は新しいクラスが張り出されている掲示板をボケーっと眺めていた。

 期待も不安もない。緊張感も欠片もない。

 よくある新しいクラスに馴染めるかどうかなんて悩みは、昨日の眠夢が見せた変わりように比べればゴミみたいなものだった。

 いや、だってさー。眠夢、変わりすぎでしょ。

 態度、仕草、距離感。なにからなにまで俺の知る眠夢とはかけ離れている。

 クール系美少女の看板はどこ行ったんだよ。

 もちろん俺が変わろうとした以上、眠夢もまた多少は変わっていることは想定していた。

 ただ歩くだけで誰もが振り返る超絶美人になっているだとか、視線だけで空気を凍らせる絶対零度の雰囲気をまとっているだとか、様々なパターンをシミュレーションしていた。

 だがこれは想定外もいいところだ。

 いくらなんでも変わりすぎ。こんなの予想できる方がおかしい。

 これからどうやって接していけばいいのやら。悩みは尽きない。

 ちなみにその眠夢だが今日は休みだ。

 引っ越しで疲れたのかまだ寝ていたので起こさずに出てきた。サボりではない。入学式は明日なので新入生は今日はまだ春休みなのだ。

 おかげで気が抜けること気が抜けること。家に居る時の方がよほど緊張感がある。いまいち血の巡りが悪いのか、自分の名前が全然見つからない。

「やぁ」

「うぉっ! ……ってなんだ、せつかよ」

 肩に手を置かれて弾かれたように振り返った先には、わざとらしく肩をすくめて呆れる女子がいた。雪那だ。

「なんだね、いつにもまして覇気のない顔をして。そんなに新しいクラスが不安かな?」

「いや、そういうわけじゃないけど」

「それで? 君はどのクラスだったのかな?」

「知らん。まだ見つけてない」

「ふむ。では探そうか。えーっと……お? 喜びたまえ。私と同じクラスだ」

「マジか」

 雪那が指差す先には「桜庭御景」と「ふゆみね雪那」の文字。

 雪那は写真部の現部長だ。俺とは去年からの付き合いになる。

 見知った顔があることに安堵して──いや、便利に使い倒される未来しか見えねぇな。

「すまないが私は一度部室に寄ってから行くよ」

「了解」

 他の人の邪魔にならないようにさっさと退いて、俺が振り分けられたクラスに向かう。

「お、おはよー」

「おはよう」

 反射的に挨拶を返してからようやく隣の席の人が来ていたことに気づいた。ボケっとし過ぎだ。

 いかにも優等生です、という印象を受ける見覚えがない女子。

 一見すると地味という感想を抱きかねない彼女だが、別段ファッションに無頓着な性格ということもないらしい。特に染めたりしていない黒髪はキチンと整えられていて、薄っすらと化粧をしているのがうかがえる。ブレザーの襟元から覗いているシャツの襟もきちんとアイロンがかけられていた。身だしなみは自己管理の証明という論に則れば、彼女は自己管理ができているタイプの人間なのだろう。もしかしたら本当に優等生なのかもしれない。

 なんにせよ、今一番大事なことは俺と彼女が初対面だということだ。

「初めまして。俺は桜庭御景」

 うっすらと笑顔を浮かべて自己紹介。

 さてと。さっき確認した座席表に書いてあった名前は「つつみ光理」。みつり? こうり? それとも、ひかり、か? ……なんて読むんだ、これ? まいっか。一か八か──

「つつみひかりさん、でいいのかな?」

「え?」

「あ、ごめん。読み方間違ってた?」

「ううん。堤ひかであってるけど……」

「そっか。ならよかった。これから一年、よろしく」

 ここでニコッと。うん。完璧パーフエクトだ。

 第一印象というのはかなり長い間引きずるものだから、ここで好印象を得るのは必須。

 日頃から「頼れる兄」の虚像を守るためにも悪評が流れる要因は可能な限り減らすように心がけねばならないのだ。

「うん、よろしく……?」

 が、光理がこちらの様子を訝しむように首を傾げる。まさかミスった? なにかおかしなところでもあったか?

 とはいえここで黙り込むのも不自然なので、ちょうど目についたものを話題にあげる。

「すごい荷物だね。部活の道具とか?」

「え? あ、これはちょっと違くて……」

 うわお。いきなりハズレ引いたっぽい。明らかに踏み込まれたくなさそうだ。

「俺は写真部なんだけどさ。普段からカメラを持ち歩かないといけないから、地味に荷物が重たくなるんだよ」

 傷を最小限にすべく光理から俺の話へと話題を逸らす。

 いつだって思う。関係性の作り始めほど難しいものはない。

 相手を傷つけるのは申し訳ないし、不愉快にさせるのはこちらもダメージを負う。なのにどんな話題を嫌がるかもわからないから手探りで進むしかない。

「うん、知ってる。よく学校でカメラ持ってるでしょ?」

「あれ? もしかして俺、光理のこと撮ったことある?」

「あー……うん、まあ一応?」

 なんとも歯切れが悪い。一応ってことはなにかの集合写真とかだろうか?

「そ、それにほらっ、写真部は有名だし」

「ああ、なるほど」

 なんの自慢にもならないが、俺は普通の生徒だ。問題を起こした覚えはないし、逆に名前が広がるほど活躍したこともない。平々凡々を地で行く。それが俺。

 だが写真部は違う。とにかく行事毎に引っ張り出されるので、意外と顔を知られる機会が多いのだ。

「いっつもカメラ持ってるけど、写真部って大変なの?」

「うーん、どうだろう。一番の原因は人手不足だと思う」

「人数少ないの?」

「俺含めて二人」

「少な!」

 うん、どう見ても普通の部活ならとっくに廃部してなきゃおかしいレベルだ。

「そうだよなー。だから写真部はいつでも新入部員を歓迎してるんだけど。どう? 興味ない?」

「え? う、うーん……カメラとか全然わかんないし」

「大丈夫大丈夫。今なら俺が手取り足取り教えてあげるよ」

「えーやだ」

 冗談めかして誘ってみれば光理がクスリと笑った。残念、勧誘失敗。まあ本気じゃなかったけど。

「あ、あのさ、御景くん」

「私に仕事を押し付けてさっさと一人で行ってしまったかと思えば、さっそくナンパとは」

 光理がなにか言いかけたその時。雪那がわざとらしく大げさに嘆きながら声をかけてきた。どうやら部室で用事というのが片付いたらしい。

「人聞きの悪いことを言うな!」

「まったく……。私というものがありながら君というやつは」

「こ、このっ」

 ひ、人がせっかく好印象を築いたっていうのに、なんてことしてくれるんだ、この女は。

 というか俺と雪那は別に男女の仲じゃないだろうが!

「えっと……仲いいね?」

「同じ写真部なんだ」

 困ったように笑う光理に、これ以上誤解を招きたくなくて雪那を紹介する。

「冬峰雪那だ。よろしく堤光理君」

「よろしくね」

 知り合いなのだろうか。

 にこやかに自己紹介しあう二人の横で無意味に疲れていた俺の肩を雪那が引いた。

「さて、すまないが少し御景君を借りるよ」

「え? う、うん。どうぞ?」

 困惑気味に差し出される俺。俺の意思はお構いなしらしい。まあいいんだけどさ。

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