四月(一)その4
◇◇◇
『今日の放課後。三階の空き教室で待ってます』
差出人は光理。
そんなメモが俺の机に入れられていたことに気づいたのは、始業式も終わり明日の入学式の打合せに向かおうとした時のことだった。
雪那から丸投げされた写真部の仕事をサクッと終わらせて足早に三階の空き教室に向かっているが、もうずいぶんと光理を待たせてしまっていることだろう。急がなければ。
深呼吸一つ。急いできたことで少しだけ上がった息を整えた。
心の中で三つ数えて、空き教室のドアに手をかける。
「へ?」
「あ」
目が合った。
スカートを脱ごうとしてる女子と。
「「…………」」
おかしい。俺は光理に呼び出されて空き教室に来たはずだ。
それがどうして知らない女子の着替えを覗いているんだ?
というかなんで私服? 演劇部かなにかか?
ただまぁ、不幸中の幸いというべきか。
俺は眠夢と一緒に暮らすにあたって、万が一このような事態が起きてしまった際に、可及的速やかに信頼を取り戻すべく傷を最小限にするためのシミュレートをしていた。
今回はその対策を流用すればいい。
おかげで自分でもどうかと思うぐらい冷静に次の行動に移れる。
──俺は速やかに土下座した。
「っ! いいからさっさと出てけ!」
「はいっ、了解いたしました!」
しまった。謝罪よりも先にこの場を立ち去るべきだったか。
後ろ手で力任せに閉めたドアの前に立ち尽くす。
どうする。ここからどう挽回すればいい。
今回はほぼ全面的に俺が悪い。ノックをして確認すれば避けられたトラブルだった。
もちろんなんでこんなところで着替えてるんだ、とか、着替えるなら鍵ぐらいかけろ、とか相手の非を責めることは可能だ。
だが結果だけを見れば、被害を受けたのは彼女だけ。傷ついた彼女に追い打ちをかけるのはあまり褒められた話ではない。
だから俺は彼女の心が納得するように好きなだけ裁かれるべきだということはわかっている。
だが今回ばかりはそうもいかない。俺にも譲れないラインがある。
最低ラインはここで着替えに遭遇してしまったという事実を広めないでもらうこと。
この際だ。彼女にどう思われるかはどうでもいい。今この場だけならどう罵られようともすべて受け入れよう。
だが明日から眠夢も通うこの学校で変態のレッテルを貼られては困る。
変態はダメだ。
頼れるどころの話じゃない。
兄が変態では眠夢の学校生活にまで暗い影を落としてしまう。それだけは避けなくてはならない。それが避けられるなら──俺には靴を舐める覚悟がある。
というかそもそもこの子はいったい誰なんだ?
一瞬しか見ていないからなんとも言えないが、少なくとも光理ではなかった。
この空き教室では光理が待っていたはずなのだが……。もしや別の生徒が使っていたから他の場所に移動したのか?
それならそれで一言ほしかったな……。
「……入っていいよ」
無言で入室する。
彼女の顔をそっと盗み見た。
頬は紅に染まり、耳まで真っ赤だ。微かに震えているようにも見える。
怒り心頭、といったところか。
静かにドアを閉め、ゆっくりと両ひざを床につける。そのまま体を折って両手も床に。額も床につけ──
「や、それはもういいから」
中止した。
「かしこまりました」
土下座は一歩間違えれば顰蹙を買うリスクの高い戦法だ。やめろと言われているのに断行するのは危険すぎる。
くそっ、流れるような自然さで相手に途中で止めさせないスタイリッシュ土下座の訓練が足りなかったか。無事に帰れたら千本追加だ。
仕方がない。こうなれば奥の手を出そう。
足にそっと手を伸ばす。壊れ物を扱うような慎重な手つきで口元に近づけ──
「痛っ!」
蹴り飛ばされた。いや、それほど力はこもっていなかったが、不意打ち気味に顎に入ったのでかなり痛い。
「ねぇ、もしかして御景くんってバカなの? 頭おかなの?」
顎を抑えてうずくまる俺を、絶対零度の視線が見下ろしていた。
おや? 赤かったはずの顔が、いつの間にやら真っ白だ。
「いえ。土下座ではご満足いただけないようでしたので……」
「違うから! そういう意味じゃないから! もうさっきのことはいいよって意味だからっ」
「許していただけるのでしょうか?」
「ん」
どうやら最悪の事態は避けられそうだ。
だがまだだ。まだ油断はできない。
ここで普通の態度に戻ってしまっては、反省していないのではないか、もっとやりこめるべきではないか、と彼女の怒りが再燃するかもしれない。そしてその怒りが俺にとって最悪の方向に向かわないとは限らない。
だから下手に出る。とことん下手に出る。明日の名誉のために今日の尊厳を捨てるのだ。
「この度は大変申し訳ございませんでした」
「もういいから。その変な喋り方やめて。普通にして」
うんざりしたような声には、怒りよりも呆れの方が強く感じられた。
感情がすり替わったなら、再燃するリスクは低いだろう。普通にしてもよさそうだ。……もっとも俺に彼女の命令に逆らう権利なんてないのだが。
「わかった。これでいいかな?」
「ん」
普通にしろと言われているのに、いつまでも頭を下げているわけにもいかない。
顔を上げて彼女を直視する。銀の長髪。ステージ衣装のような服装。その特徴的なファッションには見覚えがあった。
「ああっ! 誰かと思えば、昨日モデルをやってくれた人! 同じ高校だったのか!」
再会を喜ぼうとしたら、すごくジトっとした目を向けられた。
「そうだ、昨日の写真。ごめん。まだ用意してないんだ。明日、は入学式だから無理だけど、今度渡すから連絡先を教えてくれないか?」
視線の温度がより一層冷ややかになった。なぜに?
「あ、そうか。ごめんごめん。昨日は名前も名乗ってなかったっけ。俺は桜庭御景。君は?」
「はぁ」
思いっきりため息をつかれた。
確かに名前も名乗らずに写真を撮らせてくれなんて言った挙句、この段取りの悪さでは呆れられても仕方ない。おまけにさっきのトラブル。もう彼女の中で俺の評価がストップ安だ。
「うん。もしかしたらそうなんじゃないかな、とは思ってた。思ってたけど……。はぁ~……は・じ・め・ま・し・て。──堤光理です。忘れられやすいみたいなんで、今度は覚えてもらえると嬉しいな」
びっくりするほどきれいな笑顔にこれでもかと嫌味を乗せて、彼女はそう名乗った。
「は? え? ……え? 光理?」
「そ。御景くんの隣の席の堤光理だよ」
「いや、だって、光理って? え? あの地味な優等生っぽい?」
「地味って……」
「あ」
苦笑する光理を見て、ようやく失言に気づいた。というか失言だけじゃない。失礼のオンパレードだ。
ただ一つだけ言い訳させてもらうなら、今の光理と今朝の光理はもう別人レベルで違う。眠夢もそうだったが、ここまで違うと俺ではもう同一人物だとわからない。どいつもこいつも化粧で変わりすぎだ。
「まぁ、うん。そうだよね。地味だよね~」
「いや別にそれが悪いってわけじゃなくて」
「あ、ううん。別にいいよ。わたしもあれはないわ~って思ってるし」
「んー……ん? じゃあなんであんな恰好してるんだ?」
「だってさー、派手だー、とか、もっと落ち着きのある恰好をしろー、とかいろいろ言われるじゃん?」
「まぁ、それは……」
実際、今の光理のファッションは派手だ。こういうのは好みがわかれるところだからなんとも言いにくいが、あまり万人受けするスタイルじゃない。
いくらこの学校の服装規定がゆるゆるで、髪を染めているぐらいじゃ文句を言う教師もあまりいないとはいえ、ここまで派手だと嫌われるかもしれない。
「でしょー? わたしの好きな服とかメイクにケチつけられるのもイヤだし」
「じゃあなんで学校でその恰好に着替えたんだ?」
「だってこうでもしないと気づかないでしょ、御景くん」
ごもっとも。というかそこまでされても気づきませんでした。
肩身の狭い思いをする俺が面白かったのか、光理がころころと笑う。
「あはっ、まあそれだけじゃないんだけどね」
光理が居住まいを正して俺をまっすぐに見つめた。
場の空気が緊張して気が引き締まる。
「桜庭御景くん。お願いです。わたしの写真を撮ってください」
「それは構わないけど……どうして?」
光理がとびっきりの笑顔を見せて、その理由を告げた。
「わたしね。──モデルになりたいの」