四月(二)その1

 朝五時。窓の外は明るくなってきているけど、まだ日は昇っていない。そんな時間。

 目覚ましのけたたましい電子音に叩き起こされた僕は、まだまだ眠気の残る頭を振って欠伸を噛み殺す。

 眠い。けどいつまでもこうしてはいられない。のそのそとベッドから這い出して、エナジードリンクを一気に流し込む。

「っく効くぅっ」

 炭酸が喉を焼く刺激に耐えれば、血の巡りの悪かった頭が急速に覚醒した。

 流石は怪物というだけのことはある。一発で目が覚めた。毒々しい色の缶を捨てて早速身支度を整える。

「……ははっ」

 鏡に映る僕は笑ってしまうほど変わっていない。一年前のままだ。間違っても眠夢の兄だなんて名乗れない、凡庸な男の顔。

 覇気がない。いかにも争いごとが苦手そうな弱気で卑屈な笑み。

 骨格と表情筋がそういう形に固まってるんじゃないかというぐらい自然と浮かぶそれを、僕は塗り潰すようにヒゲを剃り、顔を洗って、基礎化粧をする。髪型をセットして、口に力を入れて表情を作れば完成だ。

 そうして僕は「俺」になる。

 弱くて情けない僕を、強くて頼れる俺で塗り潰す。

 これはルーティンみたいなものだ。僕が俺になるための儀式。

 最後に俺が俺であることを確認してから洗面所を後にする。

 時刻はまだ五時半。初めの頃は一時間以上もかかっていた儀式は、いつの間にか三十分とかからずにできるようになっていた。

「ちょっと早すぎたかな」

 苦笑する。でも俺はこの瞬間だけは絶対に眠夢に見られたくなかった。だから確実に眠夢よりも早く起きられるように五時起きを選んだ。

 ただ少しばかり早すぎたらしい。眠夢はまだ起きてくる気配はない。

「うん。明日からは今日眠夢が起きてくる時間を参考にして、もう少し遅い時間まで寝てよう」

 流石に毎日五時起きでは時間を持て余す。俺が通うさい高校の始業時間は八時半。八時に家を出れば十分間に合うのだ。

 自室に戻った俺はパソコンを立ち上げる。一昨日撮影した写真を仕上げてしまうためだ。

「んー…………んっんっー……」

 が、どうにも集中できない。

 なんとなく型落ちのオンボロカメラを引っ張り出した。型落ちと言っても一つや二つじゃない。なんと十六年以上昔のカメラだ。

 雑な扱いをしてきたつもりはないがどうしても古ぼけて見えるこれは、俺が持っている唯一のデジタル一眼レフ。一応まだ写真は撮れるが、これを使わなくなってもうずいぶんと経つ。普段はこれではなく、写真部の備品として用意されている比較的新しいカメラを借りていた。一眼レフは高いのでそうそう簡単に買えるようなものではないのだ。

 ファインダーを覗き込む。見慣れたはずの自室がそれだけで少し違う印象を与えてくるのが面白い。

 シャッターを切る。特に意味のない写真が撮れた。構図もなにも考えていない、なんの意味もない写真。

 どうしてこんなことをしているのかはわかっている。

 昨日、光理に写真を撮ってほしいと頼まれたからだ。

 そして俺はその頼みを保留にした。

 俺が俺である以上、頼られたなら応えるべきだ。

 俺は「頼れる兄」になるべく努力をしてきたし、そうあるように振る舞ってきた。頼られるように振る舞っておきながら、いざ頼られたら手を振り払うなんて、ひどい詐欺だ。それはあまりにも誠実じゃない。

 だけど、それでも俺は即答できなかった。

 きっとこれが別のことなら即答できた。でもこれだけは──。

 特に意味もなくカメラをメンテナンスする。ブロアーで埃を飛ばし、クロスで拭う。使っていないのだ。そうそう汚れもない。それでも手を抜くことなく丁寧に整備して、再び奥深くへとしまった。

 そうして今度は借り物のカメラを手にする。

 あのオンボロと違ってブラックのボディが眩しいこれは、本来俺には分不相応な代物だ。あのオンボロですら使いこなせなかった俺には宝の持ち腐れ。

 そんなカメラを手に窓の外へと意識を向ける。

「……あ、もうこんな時間か」

 日がだいぶ高くなっていた。思った以上に集中していたらしい。

「やばっ、眠夢が何時に起きたのか確認し忘れた」

 慌てて部屋を出てリビングへ。

「ん……?」

 父さんがいない。それはいい。仕事に行ったのだろう。

 早苗さんがいない。それもいい。たぶん仕事に行ったのだと思う。

 では眠夢は? 自分の部屋にいるのだろうか?

「おーい、眠夢。起きてるかー?」

 …………返事がない。

 時刻は七時を回っている。今日は入学式。新入生は八時半までに登校しなくてはならないはずだ。

 いくら家から高校が近いとは言え、諸々の準備を考えるとそろそろ起きないとマズイ気がするのだが……。

 いくらノックをしても反応がない。

 どうしたものか、と悩む俺の耳に電子音が微かに聞こえてきた。ついでになにか重たいものが床に落ちた音も。

「あー……眠夢? 起きてるか?」

 反応なし。これはたぶん、寝てる。このままだと寝坊だろう。

 少しの緊張と好奇心に強く鳴った心臓を抑えて、眠夢の部屋のドアを開ける。

 正直、ちょっとわくわくする。寝坊しそうな妹を起こすのって兄っぽくない?

 眠夢の部屋は殺風景な俺の部屋と違って女の子らしい部屋だった。カラーやテイストが統一されていてオシャレに見える。ここで写真を撮ったらいい感じに撮れそうだ。俺はそのあたり使えればなんでもいい派なので、コンセプトとかがまったくない実につまらない部屋になっている。

「おーい、眠夢。起きろー。もう七時だぞー」

「んー…………」

 掛け布団の塊を揺すってみるが、くぐもった声がするだけで起きてくる気配がない。

「遅刻するぞー。今日入学式だろー?」

「んにゅーがくしき」

「そう。入学式」

 がばっと眠夢が起き上がった。が、その目はぼーっとしていて焦点が合っていない。

「んー……御景さん?」

 聞き慣れた懐かしい呼び名。うん、俺としてはこっちの方がしっくりくる。

 そんな不思議な納得感に浸っていると、だんだん眠夢の焦点が合ってきた。

「……あ、あれ? 先、輩?」

「ん。おはよう」

「お、おはようございます……」

 まだ目がしっかり覚めてはいないのか、目をぱちくりさせる眠夢。かわいい。

「え? 先輩? なんで?」

「七時になっても起きてこないから起こしに来た」

「七、時……?」

 眠夢がそっと床に転がる目覚まし時計に顔を向けた。

「ひっ」

「ん?」

「七時!?」

「だからそう言ってるだろ?」

「って、きゃあっ! 先輩っ、見ちゃだめ!」

 あたふたする眠夢が今度は俺の顔を見て悲鳴を上げた。両手で俺を押しのけようとしてくる。

「せ、先輩、出てってください!」

「あ、うん……」

 なにがなにやら。とりあえず言われるがままに部屋を出る。ドアの向こうからはドタバタと慌ただしい音が聞こえてきた。

「…………このパターンは想定していなかったな」

 だが言われてみれば納得。俺だって寝起きの顔なんて見られたくない。

 トラブル対策帳に新たな一ページが加わった。

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