四月(一)その2
◇◇◇
日が落ちた帰路を足早に行く。スマホには眠夢からメッセージが届いていた。
結局こんな時間になるまで撮影させてもらってしまった。
振り返る女の子の写真と、なにかが噛み合った気がした時の写真。この二枚が今日のベストショットだ。
ただこの写真には一つだけ問題があった。
「ふ、ふふっ、ふふふ…………あああああああああああああああああっ! くっそ恥ずかしい! なんだあれ! ほとんどナンパじゃん!」
凄まじく羞恥心が刺激されるのだ。誰もいないとはいえ道端で思わず叫んでしまうぐらいには。しばらくはこの写真を冷静に見れる気がしない。
「いいや、ナンパよりひどいね! 名前も連絡先も聞いてないし──って、これじゃ写真を送れないじゃないか……」
沸騰寸前だった頭が一気に冷える。
やってしまった。帰り際に今度撮った写真を見せて欲しいと頼まれたけど、そもそもその今度がない。
またあの場所で会えるというのは期待しすぎだ。彼女があそこにいたのは偶然。俺のような理由があるならともかく普段から来るような場所でもない。
となると街中で偶然遭遇するのを待つしかないが、それはどんな奇跡だろうか? 現実的には再会はほぼ不可能。
「なにやってんだ俺は……」
がっくりと項垂れる。特訓の成果が全く発揮できていない。
この程度のことにすら頭が回らないとか冷静さを欠くにもほどがある。おまけに挽回しようにもこれといった策が思いつかない。
そもそも「頼れる兄」を目指すのならば、常に冷静沈着を心掛けるべきなのだ。そうでなければいざ頼られた時に適切な対応ができない。
だがあのとき俺は合理的な判断を投げ捨てて、感情に従って行動していた。それは俺が理想とする姿からは最も遠い愚行。
なにより俺は、あの時「俺」であることを忘れていた。
そのことがどうしようもなく情けなくなる。
体が震えた。
寒さではない。これは怯えだ。
この一年、俺がしてきたことは無駄だったのだろうか?
「あー……くそっ! 切り替えろ、俺」
鎌首をもたげる弱気を噛み殺すように無理矢理自然な笑みを作り上げる。
壁が高ければ高いほど、背筋を伸ばし、毅然と胸を張って、大胆不敵に笑え。
俺が「兄」の手本としている師匠の教えを忠実に守り実行する。
緊張は相手に伝わる。
だから笑え。ハリボテでもいい。とにかく見栄を張って自信を見せろ。
スマホのカメラで確認すれば、そこには柔らかい表情を浮かべた俺がいた。
そうだ。一年間に及ぶ俺の努力は決してなくなっちゃいない。
見慣れた自宅が見えてきた。
ここからはもう一瞬だって気が抜けない。
くだらない見栄かもしれない。自覚はある。
笑わば笑え。たとえ誰に笑われようとも俺は眠夢の「兄」になると決めたのだ。
唾を呑む音が嫌に大きく響いた。
滑稽なほど緊張している。
だが表情だけは笑みを保つ。
深呼吸一つ。
覚悟を決めて自宅のドアを開ける。
「ただいまー」
「お帰りなさいませ、先輩♪」
家に帰るとメイドが待っていた。
──は?
思わず二度見する。
うん。間違いない。『三分戦争』のシャノンだ。よく広告でも見かける看板キャラ。
眠夢がやっているというから始めたソシャゲだったが、俺はシャノンを持っていない。最初期から実装されている最高レアって意外と引けないものなのだ。
「ご飯にしますか? お風呂にしますか? それとも……わ・た・し?」
「属性過多じゃない?」
いや、そうじゃない。ツッコミをいれるべきところはそこじゃないはずだ。
「えーっ、先輩ノリが悪いですよぅ」
「ご、ごめん。……え? これって俺が悪いのか?」
わざとらしく膨れるシャノン(?)に謝ってから首を傾げる。
というか、誰?
「ふふっ、せんぱぁ~い!」
腕に抱き着かれた。………………え? 抱き着かれた!? なんで!?
「えへへ~、もうっ、先輩、遅いですよっ」
「お、おうっ? ごめん?」
「楽しみにしてたのは私だけだったんですね」
にへらっと笑いながら、拗ねたようなことを言うシャノン(?)。
「え、えーっと、先輩って、俺のこと?」
「もー、なに言ってるんですか? 先輩は先輩しかいないに決まってるじゃないですか」
よーし、落ち着け俺ー。動じるなー。冷静に考えろー。
ただの知り合いではありえないこの距離感。相当親しい間柄のはずだ。
だがコスプレしている今、誰だかさっぱりわからない。推理するしかないだろう。
まず俺のことを先輩と呼ぶからには後輩にあたるはずだ。だが俺は今度高校二年生になる。つまり現在通っている高校に後輩はいない。
となると中学時代の後輩だろうか?
いや、ありえない。残念ながらこんな風に抱き着かれるような関係性の女子は一人もいなかった。それは自信を持って断言できる。なんの自慢にもならないけど。
いや違う。そうじゃない。推理ってなんだ。わからないなら聞けばいいじゃないか。
「ごめん。誰?」
じわっとシャノン(?)の目に涙が浮かぶ。ちょ、まっ。
「もしかして、私のこと、忘れちゃったんですか?」
悲し気にそっと胸元に手を置かれて顔を近づけられる。
思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ! …………ヤバイ。わからない。マジで誰?
奥の手、「見違えるほど綺麗になっていてわからなかった」を使うか? 無理だ。相手はコスプレをしている。
いや、待てよ。「コスプレが上手すぎてわからなかった」はどうだろう? これなら上手く誤魔化せる。
そもそもコスプレとは漫画やアニメ、ゲームなどのキャラクターに扮することだ。別人を装っている以上、見抜けないのは当然。眠夢もそうだったが、コスプレをする前とした後ではもう別人なのだ。
──ん? 眠夢?
「せ、先輩? そんなに見つめられると恥ずかしいですよ……?」
頬をほんのり赤く染めるシャノン(?)の顔をじっと覗き込む。
シャノン(?)の瞳が揺れた。血色のいい頬がわずかに緊張する。だがその視線は俺から外されない。
わかった。わかったけど、わかった今でさえ、本当にこれが同一人物だと信じられない。
というかこんなのすぐにはわっかんねぇよ! 詐欺だ。いくらなんでも難問すぎる。
「先輩?」
小首を傾げる自称後輩。俺はようやく誰だかわかった女の子の名前を呼んだ。
「──眠夢」
「はいっ。お久しぶりです、先輩!」
明るい笑顔を見せる眠夢に、俺は内心でそっと安堵のため息をつ──けない。
なんだこれ!? 俺の知っている眠夢と全然違うんですけどぉ!!
距離感が異常に近い。おっかしいなー。俺の知ってる眠夢はこんな風にベタベタするタイプじゃないはずなんだけど。
ついでにこの出迎えの意味もわからない。引っ越しの時につい昔のアルバムとか眺めてしまうようなものか? 荷解きしている途中で衣装を見つけて着てみた、みたいな。
「もうっ。気づくのが遅いですよ」
「ごめんて。まさか眠夢がコスプレしてるとは思わなかったから」
今度はポーズではなく本当に拗ねたように唇を尖らせる眠夢に平謝り。
そもそも俺は眠夢が着ているコスプレには見覚えがあった。忘れもしない。僕が俺になって、朧気ながら「兄」というものを理解するきっかけとなった出会いだ。
ならもっと早く気づけよという話なのだが、半年ぶりの再会でまさかコスプレをしているとは思わない。
「それで先輩、ご飯にしますか? それともお風呂にしますか?」
「それまだ続けるのな」
懐かしくもあり感慨深くもあったはずなのだが、着ている眠夢が変わりすぎていて印象の齟齬が激しい。いやまあ、コスプレした妹を見て感慨深げにしている兄というのも問題がある気もするけど。
「むぅ。先輩が決めないなら私が決めちゃいますね。んー……やっぱりご飯にしましょうか。冷めちゃいますし」
「ああ、じゃあ、買い物に──ん? 冷める?」
我が家における夕食とはすなわちデパ地下惣菜である。
いや別にデパ地下とは限らないが、スーパーだったりコンビニ弁当だったり、とにかく買って来て食べるものばかりだ。調理はしない。というかできない。
当然冷めきっているので、電子レンジで温めて食べる。
まあ要するになにが言いたいかというと、冷めてしまうから先に食べるということはめったにないのだ。
「おおー……」
眠夢に引きずられるようにしてリビングに足を運ぶと、テーブルの上には皿に乗った料理の数々があった。
見慣れない光景に思わず目を瞬かせる。
普段は精々が茶碗とお椀と箸にグラス。おかずは買ってきたままの安っぽいプラ容器のまま。酷い時は弁当に割り箸、ペットボトルということも珍しくない。
そんな味気ない我が家の食卓でこんな光景が見られる日が来るとは。感激。
「これ、眠夢が作ってくれたのか?」
「? はい。そうですけど」
「はえー……すっごいな、眠夢」
「簡単なものばっかりですよ?」
「いやいやすごいって」
俺なんてレトルト食品を電子レンジで温めるか、お湯を注ぐぐらいしかできない。あ、あと米。米は炊ける。一気に炊いて小分けにしたものを冷凍しておくと便利だ。パックご飯はコスパが悪くて意外と高くつく。
「眠夢って多趣味なんだな」
「え? そんなことないと思いますよ?」
「いやだってコスプレだろ? それから料理だろ?」
「んー、料理は趣味っていうか、必要だから覚えたって感じですけどね。あ」
「必要だから覚えた? 趣味じゃないのか?」
「う、うぇっ? え、えっと、そう、ですね。趣味です」
「どっちだよ」
なぜか突然焦ったようにあたふたとする眠夢。聞いちゃいけないことだったんだろうか。
「そ、そういえば先輩って普段なに食べてるんですか? 冷蔵庫の中身空っぽだったんですけど」
「適当にその辺で買ってきたものだけど……」
うちの冷蔵庫なんて飲み物のほかには父さんの酒ぐらいしか入っていない。冷凍庫になら米とか冷凍食品とか色々あるんだけど。
「もしかして先輩って料理ダメな人ですか?」
「ダメっていうか、やったことがない」
とりあえず飢えなければなんでもいい派だ。
「おぉぅ……」
眠夢が頭を抱えていた。
「どうしたの? 頭痛?」
「ああ、いえ、まあ頭が痛いと言えば痛いんですが、別に頭痛ではないといいますか。フライパン一つなかった時点で察してはいました」
頭が痛いのに頭痛ではない? 禅問答? とりあえず深刻ではなさそうなので一安心。
「あっ、そっか。もしかして調理器具も全部買ってきたのか? 重かっただろ」
「いえ、そういうのは元々うちにあったものを持ってきていたので。お母さんが持っていけっていうから、どうせ先輩のおうちにあるのになんでだろうとは思ってたんですけど……もしかしてお母さん知ってたの?」
話したとしたら父さんだろう。俺はそんな話を早苗さんにしたことはないし、そもそも料理をしないことが当たり前になっていたので、調理器具が一つもないことを不思議に思ったことすらなかった。意識にないのだから当然話題にしようがない。
「とりあえず急いで着替えてくるよ。冷めたらもったいないし」
「いえいえ。そんなに急がなくても大丈夫ですよ。私も着替えますし」
「え? 眠夢も着替えるの?」
「汚れちゃったらイヤですし。着替えてきますよ、もちろん」
うーん。まあ、コスプレなんだから当たり前っちゃ当たり前なんだが……じゃあ眠夢は料理し終わってからわざわざ着替えたの? なんで? 新妻メイドごっこのために?
やっぱり女子の考えることってよくわからん。