四月(一)その1
「頼れる兄」とはいったいどんな人だろうか。
僕はそれをずっと考えてきた。
この答えはきっと人それぞれで違う。そもそも「兄」がいないという人だって大勢いる。他ならない僕自身がその一人だ。
知らないものは知らない。だから少しだけ想定する範囲を広げてみた。
「頼れる男」とはいったいどんな人だろうか。
「父」や「兄」、「夫」や「彼氏」、「上司」や「先輩」。きっとこの答えは人によって千差万別だ。
だからまずは僕自身が「頼れる」と感じる人を探した。
……おそらく「父さん」になるのだと思う。
実のところ、僕はこの答えに自信がない。
確かに父さんは僕をこの歳まで育ててくれた。金銭面、生活面、その他様々な面で頼っていることに違いはない。
ただ少しばかり遠すぎるのだ。
父さんはほとんど家に居ない。仕事で留守にしていることが圧倒的に多かった。
もちろんそのことを恨んだことはない。父さんがそうやって働いてくれているからこそ僕は生活できているのだということはわかっている。
だけど、だからこそ僕には自分のことは自分でやるという考え方が深いところで根付いていた。
僕はなにかに悩んでいても父さんに気軽に相談したりはしない。現に今、こうして「兄」になることについての悩みを伝えていなかった。
だから僕が眠夢の兄になるにあたって父さんを参考にするのは間違いだ。
そもそも父さんと同じ役割を担うぐらいなら、初めから父さんに頼ればいい。眠夢はこれから父さんの娘になるのだから。
一つだけ方針が決まった。
──僕は「兄」として「父さん」とは違う、もっと気軽に相談できる相手になろう。
さて、では僕が気軽に相談できる人は誰だろう?
学校の先生、先輩、友人。どれも違う。僕はなまじっか自分のことは自分でできてしまうからこそ、先生や先輩、友人に頼るということをしない。
僕はそれに気づいたとき、思わず声を上げて笑ってしまった。
なんてことはない。僕が眠夢に抱いた危惧が、そのまま僕に返ってきたのだ。
これもある意味では当然なのだと思う。
僕も眠夢も長いこと片親で、生きてきた環境がよく似ている。なら似たような人間になってもおかしくはない。
──人は環境が作るのだ。
そんな一つの真理に辿り着いたけど、今僕が求めている答えはこれじゃない。
さて、困った。僕はいったい誰を目指せばいいのだろうか?
振り出しに戻ってしまったけれども諦めるにはまだ早い。参考になる人がいないのならば調べればいいだけだ。
「頼れる」だの「頼りがい」だのネットで検索すればいくらでも答えは出てきた。
人によって言っていることが違うのはいい。それは想定内だ。
ただネットに出てくる答えはとにかく「モテ」方向に特化しすぎていた。
妹にモテてどうすんだよ。
それでも他に参考となるものがないのだから仕方がない。
明らかに恋愛にしか関係なさそうなものを省き、いくつもの意見を吟味し、要点を抜き出して出来上がった答えがこれだった。
「どんな時でも物事を冷静に判断できる人」。
少し抽象的すぎて、結局どんな人なのかわからない答え。でもこれはもっと簡単に言い換えられる。
つまりそれは「トラブルに強い人」ということだ。
言われてみれば納得のいく答えだ。
そもそも僕は眠夢が困ったときに助けてあげられるようになりたかったのだ。
困る、ということはなにかしら問題が発生しているわけで。ならその問題を解決できる人でなければ頼る意味がない。
では「トラブルに強い人」になるにはどうすればいいのだろうか?
これは簡単だった。どんなトラブルが起きる可能性があるのか前もって予想しておけばいい。そうすれば対策もとれる。仮に対策ができていなかったとしても、頭のどこかにその可能性があれば実際にその場面に直面したときに冷静に判断できる。
目標が決まったのなら、あとはこれが習慣化するまで訓練するだけだ。
そうして日々「頼れる兄」になるべく邁進し、ついに眠夢と同じ家で暮らす日がやってきた。
◇◇◇
「ああ、くそっ! 無駄に時間がかかった」
苛立ち混じりに吐き捨てて見慣れた街並みを駆け抜ける。
今日は始業式前日だ。明後日に控えた入学式のために写真部で打合せがあった。
だが、俺はまったく集中できていなかった。
それも当然。今日は眠夢がうちに引っ越してくる日だった。眠夢が高校生になるのをきっかけに、一緒に暮らすことになったのだ。
出会ってから一年。俺は俺なりに「頼れる兄」になろうと努力してきたつもりだ。その成果が試される時が間近に迫っている。
半年ぶりの再会が先延ばしにされ、居ても立っても居られなかった。可能なら朝から自宅で待機して眠夢を迎え、一緒に引っ越しの手伝いをしたかった。
だというのにこの体たらく。結局打合せは明日に持ち越し。本当ならば入学式とは別に写真部として参加するコンテストのことも話し合わなければいけなかったのに。
「はぁはぁ……なにやってんだかなぁ……」
夕日が眩しい。もうとっくに引っ越し作業は終わっているだろう。今さら急いだところで意味はない。
そう思ってしまったのが悪かったのか。乳酸のたまった重さに引かれるように足が止まった。上がった息が煩わしい。
「落ち着け俺。汗だくじゃみっともないだろ。こうなった以上次善の策だ。少しでも余裕のあるように堂々と帰った方が……ん?」
俺の視界が違和感を捉えた。
視線の先。そこにいたのは見覚えのない女の子だ。なぜだかその後ろ姿が目に留まった。
女の子が振り返る。
気づいた時にはもう僕の指はシャッターを切っていた。
「へ?」
「あ」
やってしまった。許可も得ずに見知らぬ他人の写真を撮るだなんてマナー違反もいいところだ。というか肖像権侵害である。普通に犯罪だ。訴えられたら負ける自信がある。
けど、そんなことどうでもよかった。訴えられたって構うものか。今カメラを向けないでいつ向ける。そんな思いが僕を突き動かしていた。
「え? え?」
「ごめん。でも……」
「う、うん?」
「撮っていい?」
「へ?」
「写真」
「あ、邪魔だった? ごめんね」
「そうじゃなくて──君を、撮ってもいい?」
「へ……? わ、わたし!? なっ、なな、なんで!?」
「撮りたいから」
「…………」
絶句。ぽかんと口を開けて固まる名前も知らない彼女に改めてカメラを向ける。勝手だけど沈黙は肯定と受け取らせてもらおう。少なくとも拒否はされていないってね。
「あっ、ちょ、ちょっと待って! えっと、えと、……ど、どうすればいい?」
「普通でいいよ。いつも通り。自然にしてくれればいい」
「そ、そう言われてもな……」
彼女は僕の指示に毛先を指先で弄んで悩んでいる。
そんな姿も魅力的で、僕はこっそりとシャッターを切った。
それにしても僕はどうしてこんなに惹かれているんだろうか?
正直なところ、彼女は僕の好みからはかけ離れている。……いや、まあ、じゃあどんな子が好みなんだと聞かれたら、それはそれで唸ってしまうのだけど。
ただそんな好みらしい好みもない僕でも、彼女みたいな子が好みかと言われたら首を縦に振るのは難しい。
まず目を引くのは服装だ。ステージ衣装のようなそれは、なんとなく中世とか貴族なんて言葉を想起させる。日頃街中でよく見かけるとは口が裂けても言えない。そんなファッション。
髪もすごい。夕日に染まった長い銀の髪はひどく幻想的だ。目を奪われる。とはいえ銀髪は銀髪。なかなかお目にかからないヘアスタイルであることに変わりはない。隣を歩くにはかなり勇気がいるだろう。
総じて奇抜という評価が正しく、近寄りがたいはずなのに、なぜだか僕は惹かれている。
この形容しがたい感情を正確に表すのは言葉では無理だ。
オーラがすごいだとか、存在感があるだとか、個性を感じるなんて、結局なにを言いたいのかよくわからない説明しかできない。
ただ一つ言えるのは明らかに「普通」じゃないってことだけ。
ああ、もしかしたら芸能人かなにかだろうか?
彼女を見つけたあの瞬間。これが映画のワンシーンだと言われたら、僕はそれで納得していたに違いない。
まあ細かいことはどうでもいいんだ。こうしてカメラを向けていることが答え。今はただシャッターを切ればそれでいい。
「よ、よし。これでどう?」
う、うーん。
めちゃくちゃ不自然な笑顔だ。気合が入りすぎている。緊張していることがファインダー越しにも伝わってしまっていた。
これではダメだ。僕の撮りたい彼女じゃない。
「ここにはよく来るの?」
撮られるということから少しでも意識を逸らさせるために雑談を振ってみる。
「え? ここ? ううん。今日来たのが初めて」
意表を突けたのか、少しだけ肩の力が抜けた。シャッターを切る。
「そっか。どう? ここは?」
「ど、どう?」
「ここは僕がよく写真を撮りに来る撮影スポットなんだ。いい場所でしょ?」
「うん。そうだね。夕日がこんなにキレイだもんね……」
彼女が少し目を伏せてカメラから視線を逸らした。撮られるという意識が途切れた刹那、シャッターを切る。
「だよね。他にはどう?」
「他に? えーっと……」
「そんなに悩まなくていいよ。思ったことを素直に教えてほしいんだ」
「えーっと、えっと……じゃあ、広い!」
両手を広げた。シャッターを切る。
「うんうん。広いところは好き?」
「うんっ」
「いいね。表情が柔らかくなってきてるよ」
「あはっ、モデルっぽい?」
「モデルっぽい、モデルっぽい」
「あははっ! そっか、モデルっぽいかぁ」
笑いながらその場でターンしてカメラに向かって笑顔をほころばせる。
その写真が撮れた時。時間が止まったような気がした。初めてなにかが噛み合ったような感覚。それがなんなのか僕は理解しようとして──
「どうかした?」
「え? ああ、いや、なんでもないよ」
声をかけられて我に返った。そうだ。今、僕は写真を撮らせてもらっているんだ。惚けている場合じゃない。
──だけど、それから何枚撮っても、一度抜け落ちた感覚はもう戻ってこなかった。