プロローグ

 初めて会ったこれから僕の妹になる女の子は、とても綺麗な子だった。


  ◇◇◇


 父さんが再婚する。

 僕は反対しなかった。

 父さんには父さんの人生がある。それで父さんが幸せになれるなら再婚すればいい。

 ただ一つ問題だったのは再婚相手には連れ子がいることだ。僕の一つ年下の女の子。

 正直、面倒だな、と思った。

 僕には女子がなにを考えているのかなんてさっぱりわからない。

 言葉や仕草のひとつひとつからなにを読み取り、なにを受け取り、なにを疑えばいいのか。そういった女心の機微というやつがまったくわからないのだ。

 それが一つ屋根の下で一緒に暮らす? 想像もできない。しかも妹? 僕は兄になるのか? ……兄ってどうすればいいんだろう?

 十五歳にもなってから妹ができるというだけでもどうしていいかわからないのに、それが自分とほとんど歳の変わらない異性だというのだ。

 はっきり言って異性として意識しないでいられる自信はなかった。

 うだうだと悩み、戸惑って足踏みしていても、時間は容赦なく過ぎていく。

 結局僕は、現実を上手く呑み込めず、兄としての心構えどころか僕自身の心さえ定まらないまま、顔合わせの日を迎えてしまった。


「初めまして。たかぎしです」

 お辞儀をした拍子に背中まである黒髪が揺れる。

 眠夢ちゃんの第一印象はズバリ、クール系美少女だった。

 そんじょそこらにいるようなレベルじゃない。ぶっちゃけそこらのモデルやアイドルでは勝てないと思う。僕も一瞬、眠夢ちゃんがこれから「妹」になるということを忘れて見惚れてしまった。

 それでも僕が我に返れたのは、「クール」というところも例外ではなかったからだ。

 義務だから名乗りました、と言わんばかりの冷ややかな目。その大きな瞳は挑むように僕の瞳を真っすぐ捉えていた。

「あっ、えっと、初めまして。桜庭さくらばかげです」

 一拍遅れて、僕も名乗る。

 その間ずっと、眠夢ちゃんは目を逸らしたり、視線をふらつかせたりもしなかった。

 初対面の男、それもこれから兄になる僕に対して不安や緊張を感じるどころか、むしろ見定めてやろうと言わんばかりの圧を感じる。その強い眼力に情けないことに僕の方が目を逸らしたくなってきた。

「初顔合わせの席に申し訳ありませんが、母は仕事で遅れるので先に始めておいて欲しいそうです」

「そ、そっか。ごめん。僕の方も父さんが仕事で三十分くらい遅れるって」

 ピクリとも笑わない眠夢ちゃんに僕だけが愛想笑いを浮かべている。

 今回は子供同士の顔合わせがメインの食事会だ。だから両親が不在でも最低限成り立ちはする。するのだけど……。

「「…………」」

 でもきっつい! 間がもたない!

 そろそろ愛想笑いもひきつりそうだ。父さんでもなえさんでもいいから早く来てほしい。切実に願う。元々僕は初対面の人とすぐに仲良くなれるタイプではないのだ。顔が可愛くても態度がヤバイ子と打ち解けろだなんて無理難題にもほどがある。こういうのは僕の領分じゃない。

「あー……えっとー…………」

「はい。なんでしょうか?」

 なんとか会話のネタを見つけるから急かさないで!なんて情けないにもほどがある心の叫びを隠しながら、必死に話題を探す。

 初対面の人との会話で使えそうなのはやはり共通の知人の話題だと思う。だけどそもそも僕らの間に共通の知人なんて父さんと早苗さんぐらいしかいない。

 というか眠夢ちゃんは父さんと会ったことあるのだろうか?

 …………よ、よし、聞いてみよう。

「眠夢ちゃんは──」

「眠夢ちゃん!?」

 うぉわぁっビックリした! 急に大声を出さないでほしい。

 けどどうやら眠夢ちゃんは僕以上に驚いていたようで目を丸くしている。

「え? ダメだった?」

 馴れ馴れしかっただろうか? でも僕としては今度妹になる子を他に呼びようもないのだけど。妹相手に苗字で呼ぶのも変だし。

「あ、いえ……こほんっ。失礼しました」

 切れ長の目を見開いて驚いていた眠夢ちゃんだったけど、すっと背筋を伸ばして元のすまし顔に戻ってしまった。

「それでなんでしょうか?」

「あ、えっと、眠夢ちゃんは父さんとはもう会ったことがあるのかなって」

「はい」

「どうだった?」

「どうだった、とは?」

「えーっと、ほら、これから一緒にやっていけそう、とかさ」

「わかりません。会ったとは言っても、一度ご挨拶しただけですから」

 ぴしゃりと打ち切るようにして会話が終了。話がまったく膨らまない。

 初対面の相手との会話で共通の知人の話題というのは鉄板だと思っていたのだけれど、どうやら僕の思い違いだったらしい。

「……確認しますが、再婚については反対じゃないんですね?」

 どうやって間をもたせようか悩む僕に、眠夢ちゃんがそんな今さらなことを聞いてきた。

「うん、もちろん。眠夢ちゃんは反対?」

「いえ。これはあくまでも母の問題ですから。私が反対するような問題ではありません。母がそうするというのならそれでいいと思います」

 明らかに距離を感じる突き放したような回答。眠夢ちゃん自身は本音では反対なのかもしれない。

 それも無理はないと思う。いきなり見知らぬ男二人と家族になって一緒に生活すると言われて不安や困惑がないはずがないのだから。

 ──ああ、そうか。

 僕はようやく気付いた。鈍すぎる自分に思わず苦笑する。僕自身、かなり緊張していたらしい。

「なにか?」

「ううん、なんでもないよ」

 訝しむように僕を睨む眠夢ちゃんに頭を振って応える。

 眠夢ちゃんは緊張しているのだ。困惑しているのだ。不安がっているのだ。

 他ならない僕自身だって困惑しているのだ。なら似た立場に置かれている眠夢ちゃんだって同じように感じていてもなにも不思議なんかじゃない。

 そうして気づいてしまえば、眠夢ちゃんへの見方も変わる。

 眠夢ちゃんも頭ではこの再婚話を拒否するべきではないとわかっているのだろう。そして拒否したいとも考えていないはずだ。

 だけど心はそう思っていない。

 知らない土地の知らない家で知らない人と暮らす。友達とも離れ離れになる。それはきっと僕なんかよりもずっと不安なことだ。

「では今後家族になるにあたって、私はあなたをなんと呼べばいいですか? お兄様とでもお呼びしましょうか?」

 シニカルに笑う眠夢ちゃん。クールなだけではなく皮肉屋な面もあるみたいだ。これから妹になる子の新たな一面を発見できたことが嬉しい。

「眠夢ちゃんがそう呼びたければそれでもいいよ。ちょっと恥ずかしいけどね」

「お兄様」なんてアニメやゲーム、つまり虚構でしか聞かないような呼び方。わざわざそれを選ぶなんて皮肉めいている。本心では兄だなんて認めていないというアピール。

 ただ僕はそれでもいいと思った。

 今日会ったばかりの僕をいきなり兄だと思えなんていう方が無茶だ。

 そんな心のクッションを置くことでひとまず受け入れてもらえるのなら、僕の多少の恥ずかしさなんてどうでもいい。

「正気ですか?」

「もちろん」

 そんな半ば本気の冗談に、眠夢ちゃんが毒気を抜かれたように肩の力を抜いた。

「……御景さん、と」

「わかった。これからよろしく、眠夢ちゃん」

 右手を差し出せば、眠夢ちゃんはしばらく迷ってから恐る恐る僕の手を取った。

 薄く小さな手だ。下手に力を込めたら壊してしまいそうなその手をそっと握る。

「華奢だね。あんまり体が丈夫じゃないとか?」

「いえ。そんなことないですけど……」

「そっか。それならいいんだ」

 握った手を離すと、眠夢ちゃんは自分の右手を見つめて握ったり開いたりした後でため息をついた。

「おかしな人ですね。私はあまり人から気安く接せられるタイプじゃないんですけど」

「そうなの?」

「私、ちゃん付けで呼ばれたのは初めてです」

「?」

「どうも私は『眠夢ちゃん』なんて可愛らしい雰囲気ではないみたいですよ」

 そうだろうか? 確かに最初は少し取っつきにくい気もしたけど、少し話してみれば可愛いところもあると思う。

「変えた方がいいかな?」

「…………そう、ですね。ちょっと慣れない感じがするので、別の呼び方でお願いしてもいいでしょうか」

 少しだけ赤くなった眠夢ちゃんが、しばらく葛藤してから気恥ずかしそうに願い出てきた。ちゃん付けで呼ばれるのは照れるらしい。

 ほらやっぱり、可愛らしいところもあるじゃないか。

「んー……んっんっー…………」

 さて困った。なんて呼ぼうか。

 呼び方を変えるのはいい。「眠夢ちゃん」と呼ばれる度に恥ずかしそうにする姿を見られなくなるのは残念だけど、呼び方を変えてほしいというのを無視して関係性を悪化させるほどのことじゃない。

 ただ、単純に他の呼び方が思いつかないのだ。

 苗字で呼ぶのは明らかにおかしい。だから呼ぶならやはり名前だ。

 ここは眠夢ちゃんにならって「眠夢さん」──微妙な気がする。妹にしては距離感が遠すぎやしないだろうか。眠夢ちゃんが僕を「御景さん」と呼ぶ以上、こちらからはもう少し距離を詰めたい。

「ふふっ」

 眠夢ちゃんが僕と会ってから初めて笑った。

 笑顔の花が咲く、なんてよく言うけど、あれはどんな花を想定しているのだろう?

 もし向日葵ならまったく違う。元気すぎる。

 バラや椿なら華やかすぎる。もっと控えめだ。

 月下美人なんてどうだろう?

 すぐ消えてしまうつれなさも、それでいて咲いている間は誰にも負けない美しさも、眠夢ちゃんの笑顔にはよく似合っている。実はサボテン科で棘があるのもいい。

「どうかした?」

「あ、いえ。その、真剣に悩んでるのがおかしくて。適当に呼び捨てにしてくれていいですよ」

 呼び捨て。つまり「眠夢」か。うん、悪くないな。妹っぽい。

「眠夢」

「はい、御景さん」

 うーむ。…………いや、これ本当に妹っぽい? なんかもっと別の関係っぽくない?

「ふふふっ、御景さんって周りの人からよく変わり者だって言われませんか?」

「まさか。僕はどこにでもいる平凡な高校生だし」

 含むところはなにもなかったのだけれど、眠夢がクスクスと笑い出す。

「あ、そうだ。連絡先を教えてもらってもいいかな? 父さんが子供同士で上手くやれそうなのか気にしてるみたいなんだ」

「いいですよ。初対面で連絡先を交換していれば、最低限仲良くするつもりはあるように見えるでしょうし」

「いや、そういう意味ではなかったんだけど。まぁ、いいや。なにかあったら連絡して」

「わかりました。まあ、私はめったなことでは連絡しませんけど」

「えぇ……。これから知らない街に来るわけだから、案内とか必要じゃない?」

「不要です。今時スマホがあれば知らない街でも困りません」

「うーん……まぁ無理にとは言わないけど」

「気にしないでください。元々私は他人に頼るタイプではないので」

 すまし顔でそんなことを言う眠夢。こういう人ほど一度失敗するとドツボにはまりやすい気もする。

 ふと、僕はこれからどんな「兄」になればいいのかがぼんやりとわかった気がした。

「あ、母が到着したみたいです」

「他人に頼るタイプではない」と眠夢は言った。なら僕はそんな眠夢が「頼れる」兄になろう。いつか眠夢が困ったときに助けてあげられるように。

 早苗さんの方を向いて露骨に安心したような表情を見せる眠夢に、僕は苦笑を隠してそう決めた。

 ──さて、まずは「兄」と呼んでもらうことを目標にしようか。

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