〈異世界への誘い〉


 四十路よそじを目前に控えて、心が寂しい。

 そこでペットショップにやってきた。猫を飼い始めた勤め先の先輩が、とても楽しそうにあいびようトークを繰り広げてくる様子に感化されてのことだ。パソコンやスマホの壁紙など猫一色で、それはもう毎日を幸せそうに生きている。

 しかし、流石さすがに猫はハードルが高い。

 アパートを借りるにも敷金が跳ね上がるし、それなりの広さを用意する必要がある。更にお迎えのための初期費用も数十万とのこと。こうなると二の足を踏んでしまうのが、安月給の悲しいところだ。

 お金が欲しい。

 お金さえあれば、お猫様を迎えることができる。

 いいや、お犬様を迎えることさえ夢ではない。

 最強のワンワン、ゴールデンレトリバーを。

 ただ、今の自分はお金がない。

 だから犬も猫も駄目。

 そこで本日、目当てとなるのは小型の鳥類である。

 現在の住まいとなる1Kのアパートでも飼育可能、という条件で考えると、鳥かネズミになる。しかし、ネズミは寿命が短い。二、三年で亡くなる種が大半だそうな。なんて切ないのだろう。

 もしもネズミを飼育したのなら、再び共に歩めるか定かでない春夏秋冬を思い、相棒と共に過ごす毎日を大切にし過ぎてしまいそうである。その存在にやされたいのに、むしろ日々が張り詰めてしまうのではなかろうか。

 そう考えると鳥以外に選択肢はなかった。

 なるべく鳴き声が小さめで、ストレス耐性のある賢い子をお迎えしたい。

「……ゴールデンレトリバーかわいい」

 店内でゴールデンレトリバーの子犬を発見した。

 心は大型犬を求める。

 広い戸建ての屋内でゴールデンレトリバーを飼いたいと。

 ケージの中でうつらうつらとする赤ちゃんレトリバー。その愛らしい姿についつい視線が向いてしまう。店内を進む足が止まりそうになる。値札に視線が吸い寄せられて、クレジットカードの上限と照らし合わせてしまう。

 しかし、仮に上限が許容範囲であったとしても、その願いはかなわない。

 ならば我が家は手狭な六畳一間。

 それもこれも、やっぱりお金がないのが悪い。

 可愛かわいらしい子犬をかたわらに見送り、歩みは鳥コーナーに向かう。

「いた……」

 既に鳥種は決めている。文鳥だ。

 鳥類にしては比較的静かで、なかなか賢く、寿命も七年から八年は生きるとネットに書いてあった。しかも小型で人に懐きやすいとのこと。こうなると文鳥以外には考えられなくなってのペットショップ来訪だ。

「ヤバイな、これはかわいい」

 これは買いだ。絶対に買いだ。

 問題はどれにするか。

 意外と沢山売られている。

「…………」

 悩むぞ。なんせ向こう数年、生活を共にする相棒だ。

 離婚を経験した男女の大半が、結婚後五年以内に離れている点を思えば、この場のチョイスは婚活と称しても過言ではない。なるべく価値観の合った相手をお迎えするべきだろう。見栄えも重要な観点だ。

 ずらりと並んだケージを一つ一つ確認していく。

 するとしばらくして、とあるケージから声が聞こえてきた。

『えらんで、えらんで』

「…………」

 文鳥がしやべった。

 ビックリだ。

 いやしかし、ネットではまれに喋る個体もいるとか書いてあった。

 そういうこともあるのかも知れない。

『えらんで、えらんで』

 どうやら選んで欲しいらしい。

 いいや、言語を理解しているとは思わない。きっと、どこかの誰かの台詞せりふを覚えてしまったのだろう。聞こえてくるのも同じ言葉ばかりだ。お客さんと店員のやり取りの一部が、こちらの文鳥の感性に響いたのだろう。なんて身売り上手な鳥さんだ。

「…………」

 こうなると興味をかれる。

 まるで運命めいたものを感じてしまったぞ。

 よし、決めた。

「すみません、こちらの文鳥をお願いしたいのですが……」

 お迎えするのは、このお喋りな文鳥にしよう。


    *


 ペットショップから自宅まで戻ってきた。

 文鳥を飼育する為のケージは、部屋の隅に配置していたカラーボックスの上を整理して、そこに置いた。これでお迎えは完了である。犬や猫と違って、トイレを用意したり、柵を配置したりといった手間がないのがうれしい。

 他に用意したのは餌とケージに掛ける布くらいだろうか。

「……かわいいなぁ」

 カゴの中に収まった文鳥を眺めて癒やされる。

 ゴールデンレトリバーもいいけれど、文鳥も素敵だと思う。

 どうぞ、今後ともよろしくお願いします。

「あぁ、そうだ。名前をつけないと」

 どんな名前がいいだろうか。

 可愛らしい名前を付けたい。

 やはり外見にちなんだ命名がいいと思うんだ。

『我が名はピエルカルロ。異界の徒にして星の賢者』

「…………」

 なんか喋った。

 文鳥が喋った。

 どうやら既に立派な名前をお持ちの予感。

 いやいや、そんな馬鹿な。

「ピエルカルロ?」

『さよう』

「…………」

 やばい、文鳥とコミュってしまった。

 普通に意思疎通してしまった。

 たしかこの子、まだ生後二げつっていう話だよ。ちゃんと人に慣らしていけば、今からでも手乗り文鳥になるって、ペットショップのやまさんが言っていた。絶対に挑戦しようと決めて、お持ち帰りした次第である。

「ピーちゃん」

『ピーちゃん』

「じゃあ、ピーちゃんで」

『…………』

 不服だろうか、ちょっと顔が怖くなった気がする。

 でも可愛い。

 確認の為にも、もう少しだけお話ししてみよう。

「ピーちゃん、今日のご飯は何を食べたいかな?」

こうぎゆうのシャトーブリアンを所望する』

「え、なんで……」

『店に勤める山田という男が、最高だと言っていた』

「…………」

 コミュニケーション、確定である。

 っていうか、ペットショップの山田さん、いいお肉食べているじゃないの。たしかシャトーブリアンって、百グラム一万円くらいした気がする。有名ブランドになると、更に二倍、三倍と跳ね上がるのだとか。

「……そこにあるペレットじゃ駄目?」

 ケージのすぐ近く、彼と一緒に購入した総合栄養食のペレットの袋を指し示して確認する。文鳥に必要な栄養が全て詰まっているとのことで、これさえ与えておけば、あとは水だけで大丈夫だと店員さんは言っていた。

 文鳥の一生涯の食事である。

 貧乏リーマンにとってのチェーン店の牛丼みたいなものだ。

『あれはくない』

「そっか……」

 しくないんじゃ仕方がない。

 自分だっていご飯は嫌だもの。

 ああでも、チェーン店の牛丼は割と美味しい。べに生姜しようがをたくさん載せて、生卵と混ぜ合わせて食べる汁だくとか最高。終電帰り、自宅近所の牛丼屋でそれを食べると、翌日もまた頑張れる。たまには豚汁を付けて豪遊。

「けど、ごめん。シャトーブリアンは無理なんだ」

『何故だ?』

すごく高いお肉だから、僕には買えないんだよ」

『……そうなのか?』

「ごめんね、貧乏なサラリーマンに買われてしまって」

『…………』

 この際、文鳥とお話ししてしまっているという事実はおいておこう。動画を撮ってユーチューブにアップロードしたい衝動に駆られたけれど、相手が思ったよりもヒューマンしているので、それにも抵抗がある。

 とりあえず、もう少しお話をしてみよう。

「代わりに豚バラでもいいかい? 冷凍のがあるから」

『金がないのであれば、稼げばいい』

「え?」

 豚バラ、嫌いなのかな。

 美味しいと思うんだけれど。

『異世界から追放された我は、この姿として再び生を受けてから、色々と考えていた。どうやったら元の世界に戻れるのか。そのためには何が必要なのか。仮に戻れたとして、何をすべきなのか』

「……そうなの?」

 いきなり語りだしたぞ。

 こちらが考えていたよりも、壮大な背景をお持ちの文鳥だ。

 思わず話の続きが気になってしまった。

 自然とあいづちを打ってしまう。

『そして、我は結論付けるに至った』

 パクパクと元気に動くくちばしが可愛らしい。

 まるで親鳥に餌をねだっているかのようだ。

『もういい加減、自分の好きなように生きていいのではないか、と』

「……なるほど」

 前振りの割に平凡な悟りだった。

 でも、その意見はとても大切だと思う。周りに合わせて自分の時間を無駄にすることはない。誰だって死ぬときは一人きりだ。生きているうちに精々、やりたいことをやっておくべきだと思う。社畜などしていると、殊更に強く思う。

 っていうか、この素で「えらんで、えらんで」とか言っていたのか。

 なんだか無性に可愛らしく思えてきたぞ。

『その為にはこの世界の協力者が必要だ』

「なるほど」

『我に協力して欲しい。さすれば金を稼ぐことなど造作もない』

「可愛いペットの頼みなら、やぶさかではないけれど……」

『よし、ならば契約は成立だ』

「え……」

 クワッと文鳥のお口が大きく開かれた。

 そうかと思えば、正面に浮かび上がる魔法陣。アニメとか漫画でよく見るヤツだ。それが空中に浮かんで、キラキラと明るく輝いている。こんな玩具おもちやは買った覚えがない。もしかして、ピーちゃんが出したのだろうか。

「ピーちゃん、なにこれ」

『貴様に我の力の一部をくれてやる』

 そう伝えられると共に、魔法陣が輝きを増した。

 ピカッと光ったかと思えば、目の前が真っ白になる。凄いまぶしさだ。たまらず目をつぶって身をこわらせる。すると同時に、胸の内側に温かな感触が生まれた。まるでホッカイロでも体内に埋め込まれたような気分だ。

「え、ちょ、これヤバッ……」

『落ち着け、すぐに収まる』

「…………」

 いよいよ文鳥離れして思われる演出だ。

 もう一つ隣のケージの子にしておけば良かった、とか少し思ってしまった。もしも魔法陣から波長の短い電磁波とか出ていたらどうしよう。ばく的な意味で。今年は健康診断の他に人間ドックとか、予約しておくべきかも知れない。

 眩しかったのは時間にして十数秒ほどの出来事となる。

 ややあって、ケージ内の輝きは収まった。

 ピーちゃんの正面に浮かんでいた魔法陣も、いつの間にか消えていた。

『これで貴様は我とパスがつながった』

「え?」

 パスって何だよ、と思わないでもない。

 二人の間に何かが存在している様子は見られないもの。

『この籠の口を開けてくれ』

「あ、はい」

 なんだかよく分からないが、こうなったら最後まで付き合おう。色々と突っ込みどころは満載だけれど、既に巻き込まれた感がある。下手にいちゃもんをつけて、ピーちゃんの機嫌を損ねたら怖い。

 同じ部屋で生活するからには、今後とも仲良くしていきたいから。

「……これでいい?」

『うむ』

 ケージから飛び出したピーちゃんが肩に乗ってきた。

 肩乗り文鳥、可愛い。

 手乗りの練習をしなくても身体からだに乗ってくれるの、めっちゃ嬉しい。

 やっぱりこの子にして良かった。

『これで我は貴様の身体を通して、元来の力を使うことができる。ぜいじやくな肉体ではあるが、この小さな鳥よりはまだマシだろう。少なくとも魔法の行使を受けて、身体が崩壊することはあるまい』

「あの、健康に良くない感じのなら、お断りなんですけど……」

『では、行くぞ』

 そうかと思えば次の瞬間、目の前が真っ暗になった。


    *


 暗転から数瞬ばかり、気付くと周囲の光景は一変していた。

 一言で説明すると、剣と魔法のファンタジー。

 石造りの建物で作られた町並みと、レンガを敷き詰められて舗装された通り。そこを行き来するロールプレイングゲームのキャラクターさながらの人たち。そこかしこに見受けられる剣ややりよろいといったレトロなアイテム。更にはガラガラと音を立てて走る馬車。

 これを脇から眺める大きな通りの隅の方に、我々は立っていた。

「ピーちゃん、ここどこ?」

『我がこの姿に生まれ変わるまで住んでいた世界だ』

「なるほど」

『ヘルツ王国の地方都市、エイトリアムという』

「ところで僕、裸足はだしなんだけど」

『……そうだったな』

 しかも部屋着の上下スウェット姿である。

 おかげで非常にこころもとない気分だ。人前に出るなら、やはりスラックスと襟付きのシャツが欲しい。年齢的にジーパンやTシャツも厳しい昨今、ジャケパンを着用していないと、世の中で人権が認められないのではないか、なんて思う。

 コンビニやスーパーへ足を運ぶ際にも、ジーパンにTシャツの時と、スラックスにシャツの時で、店員さんの表情が違う。もしかしたら気のかも知れないけれど、それがキモくて金のないオッサンにとっては大切な自衛手段だ。

 会社の名刺とジャケパン、それだけが世のオッサンを守ってくれる。

「たしかにここは別の世界みたいだね」

『納得できたか?』

「おかげさまで、ピーちゃんのことを理解できたと思うよ」

『それは何よりだ』

 どうやらうそを言っている訳ではなさそうだ。文鳥が喋っている時点で、嘘もへったくれもないとは思うのだけれど、こうして足の裏に感じる石畳の感触が、疑念の入り込む小さな隙間さえをも、完全に埋めてくれた。

「けど、それとお金稼ぎがどう繋がっているんだい?」

『我々はこの世界と先の世界を自由に行き来することができる』

「……それで?」

『二つの世界の間で商売をすればいい。あちらの世界で安いものが、こちらの世界では高く売れるかも知れない。逆にこちらの世界で安いものが、あちらの世界では高く売れるかも知れない』

「なるほど」

『そうすれば我の食卓にも、神戸牛のシャトーブリアンが並ぼう』

「……たしかに」

 ピーちゃんの言わんとすることは理解できた。

 ただ、その為には十分な時間を掛けて、シッカリとした仕組み作りを行う必要がありそうだ。何故ならば彼の提案してみせたことは、異世界の事物を円に換金するということであって、いわば盗品の流通と同義である。

 更にそれが毎日の食卓に並ぶシャトーブリアンに繋がるというのであれば、かなり難度の高い作業になる。一食数万円の食事を毎日続けた場合、年間の支出は一千万を超えるのではなかろうか。これは決して馬鹿にできない額である。

「だけどピーちゃん、それは結構大変かもしれない」

『何故だ?』

「たとえばこっちの世界で金銀財宝を手に入れて、向こうの世界に持ち込んだとしても、お金に換える手段がないよ。どこから持ってきたのって言われたら、僕らから説明することができないから」

『……どうしてだ?』

「異世界のことを素直に説明したら大変なことになっちゃうもの」

『黙っていればいいのではないのか?』

「それがそういう訳にもいかないんだよ」

 万年平の社畜風情が、質屋に繰り返し値打ち物を持ち込んだら、まず間違いなく警察に連絡がいく。質屋は割と密に警察と連携している。それをどこで手に入れたのかと問われた時、続く事情聴取を乗り切る方法が今の自分には思い浮かばない。

 また、く換金できたとしても、確定申告で確実にバレる。

 こと日本において、円の流通はかなり正確に管理されている。脱税の多い職種に風俗嬢がある。個人事業主である彼女たちが、税務署から多額の追徴課税を受けるのは、この仕組みを理解せずに働いてしまったが為である。

 給料は手渡しだからと安心していても、これが意外と気付かれてしまうものだ。銀行口座を介さずとも、税務署の方々は我々のお金の流れを確認するすべを持っている。電子決済が普及しつつある昨今、その影響はより増してきている。キャッシュレス社会の目的の一つに、こうした個人消費の完全な把握があることを知らない人は意外と多い。

 価値の高いものを公の場で繰り返し換金していたら、そのどころを疑われるのは目に見えている。質屋に対する税務署の反面調査で一発アウトである。しかし、だからといって公の取り引きに対して、税金を納めないという選択肢は絶対に取れない。

 日本は申告納税制度や推計課税制度が採用されている。もしも脱税がバレた場合、税務署が勘定したままに、追徴課税を払う羽目になる。そして、これを否定する為には法律上、その根拠を自ら提示する必要がある。

 異世界から金銀財宝を持ってきました、などとは口が裂けても言えない。あるいは語った時点で口が裂けるほどの尋問にさらされて、ピーちゃんとは離れ離れになってしまうだろう。更に税金は自己破産で処理することができない。

 自分はそういったリスクを取りたくない。

 つまり、そうならない為の仕組みを作る必要がある。

 ヤクザ映画などでよく見る光景。

 資金洗浄、マネーロンダリングというやつだ。

 素直に換金、納税できればそれが一番だけれど、こればかりは仕方がない。異世界という絶対に帳尻の合うことがない商材が前提となっているのだから。取り引きを実現するには、どうにかして上手い方法を考える他にない。

 その辺りのお話をピーちゃんにさせて頂いた。

『なかなか面倒なのだな、貴様の国のお金の仕組みは』

「そうなんだよ」

『だが、とても優れている。素晴らしい仕組みだと思う』

 すると彼は意外と素直に理解して下さった。

 賢い文鳥である。

 もしかしたら、こうして語る彼の動画を撮影して、ユーチューブにアップロードすることこそが、その願いを叶える一番の近道かも知れない。そんなふうに思ってしまった。可哀かわいそうだからめておくけれど。

「そうかと言って、誰でも容易に手に入るものをオークションや中古市場で売りに出しても、毎日のご飯に神戸牛のシャトーブリアンは買えないんだ。だから、ピーちゃんの言うことを実現するのには、少し時間がかかるかも知れない」

『ふむ……』

「そういうわけで、今晩は豚バラでもいい?」

 豚バラも料理次第では美味しくなると思うんだ。

 こといたものに関しては、王者と称しても差し支えない食材でしょ。

 豚キムチとか最強だと思う。ご飯がすすむ。

『ならば仕方がない、あちらの世界で楽しむことは諦めよう』

「せっかく提案してもらったのに、なんだか申し訳ないね」

『その代わりにこちらの世界で楽しめばいい。それなら構わないだろう? あちらの世界の食事や娯楽にも興味は尽きないが、先は長いのだからくことはない。しばらく待てば状況が変わることもあるだろう』

「こちらの世界には、そういった制度はないのかな?」

『税制度は存在するが、そこまで厳密なものではない』

「そっか」

 そういうことなら問題なさそうだ。

 あと、自分もさっきから色々と気になっている。こうして通りを眺めていても、初めて目にするものばかりだから、観光したい気分になっていた。自由に行き来できるというのであれば、当面の休暇は予定も決まったようなものだ。

『では、それで決まりだな』

「そうだねぇ」

 お互いに合意が取れたことで、元の部屋に戻ることになった。


    *


 翌日は平日、定時出社を義務づけられた社畜は会社に向かう。

 ただし、本日は少しばかりその様相を異にしていた。

「本当に一瞬で移動できるのかい……」

 ピーちゃんが呪文を唱えたら、こちらの足元に魔法陣が浮かび上がった。その直後、周囲の光景が自宅玄関から、勤め先の裏路地に変化していた。僅か一瞬で十数キロという距離を移動である。

 おのずと本日は満員電車を回避。これほど嬉しいことはない。

 日頃から席の奪い合いでバトっていた一回り年上の壮年男性。彼との決着を不戦敗で見送るのは悔しいが、ひと足お先にネクストステージに立てたと思えば、これはこれで喜ばしい出来事である。

『だから、そう言ったであろう?』

「いや、それはそうかも知れないけれど、やっぱり驚くでしょ」

『そもそも貴様は昨日にも経験しているはずだ』

「あれはほら、別世界に行くための手立てだと思っていてさ」

『基本となる考え方は同じだ』

 肩に止まったピーちゃんと、ボソボソと言葉を交わす。

 さいわい周囲に人の姿は見られない。

 魔法を使えば会社まで一瞬で移動できるというから、ものは試しで頼んでみたら、本当に移動してしまった。おかげでとしもなく興奮している。とてつもない可能性を感じさせる魔法ではなかろうか。

「これって僕にも使えるのかな?」

『現在の貴様は我の魔力を得たのみで、行使に必要な力こそあれど、魔法を使うことは不可能だ。だが、日々の鍛錬を忘れなければ、いずれは同じように行使できるようになるだろう。ただし、ものによっては時間がかかるやもしれん』

「あ、それもう少し詳しく知りたいんだけれど……」

『仕事から帰ってきたら教えてやる』

「本当? ありがとう、ピーちゃん」

『我は貴様の家で待っていよう』

 ぜん、退社後のひとときが楽しみになった。

 今日はなるべく早めに仕事を終わらせて家に帰ろう。

「トイレはちゃんとケージのトイレでしてもらえるよね?」

『大丈夫だ、承知している』

 短くつぶやくと同時に、ピーちゃんの姿が魔法陣と共にどこともなく消えた。

 トイレまで即日で覚えてくれて、なんて賢い文鳥なのだろう。

 これで一羽三千円なのだからお買い得だ。

 他の子よりも若干お値段が安かったのが、いまだに気になっている。


    *


 職場の風景はいつもどおりだ。

 これといって名前が売れている訳でもない、どこにでもある中小企業の商社である。売上もパッとしなければ、給与もパッとしない。当然、残業代も出ないから、生活は就職当時からカツカツだ。

 それでも転職できないのは、気づけば三十路みそじを越えていた自身の身の上の問題。就職氷河期を経験した自分にとって、社会はとても恐ろしいものだった。だからこうして、今日まで使つかわれている。

 そしてこれからも、死ぬまで使われ続けるのだろうと考えていた。

「先輩、この決裁書なんですけど、ちょっと見てもらっていいですか?」

「んー?」

 隣の席の同僚から声を掛けられた。

 入社から四年目の新人だ。

 高専を卒業してすぐに就職したので、今年で二十四とのこと。

 の会社だと四年目ともなれば、十分に戦力として数えられることだろう。弊社でも仲間としては申し分ない。しかしながら、彼より上の年代が一回り近く離れている為、未だに新人と呼ばれている可哀そうな青年だ。

 個人的な意見だけれど、フロアで一番仕事ができると思う。

「……あぁ、それならここの文面がちょっと気になるかな」

「あ、やっぱり気になりますか?」

「あの部長は面倒くさいからね。もう少し説明を入れたらいいと思うよ」

「ありがとうございます」

「こんなどうしようもないことで君の時間を使うことはないから、気軽に聞いてくれて構わないよ。むしろ自分に丸投げしてくれてもいいから。その代わり君には、もっと仕事的な仕事をしてもらえたら嬉しいかな」

「仕事的な仕事ってなんっスか」

「それはほら、他所でも通用するような仕事とか……」

「…………」

「……どうしたの?」

「いえ、先輩の言うことはもつともだと思いまして」

「でしょ?」

 まだ若いんだし、彼にはもっと他に活躍できる場所があると思う。

 こんな草臥くたびれた会社のえない担当で時間を重ねることはない。

「ちょっとタバコ、行きません?」

「いやいや、僕はタバコを吸わないから」

「それだったらジュースでもいいっスよ」

「まあ、それなら……」

 誘われるがままに席を立って移動する。

 普段なら同じフロアに設置された自動販売機の下に向かったことだろう。しかし、彼の歩みはその正面を通り過ぎて屋外へ。一体どこに向かうつもりかと疑問に感じつつも、素直にその背中を追い掛ける。

 やがて辿たどり着いた先は、弊社が収まる建物の裏路地だ。

 道幅は二、三メートルほど。

 自動販売機も見当たらない。

 人気も少ないこのような場所で何を話そうというのか。

 疑問に思っていると、同僚は真剣な面持ちで語り掛けてきた。

「先輩、俺と一緒に独立してもらえませんか?」

「え?」

「来月でこの会社を辞めるつもりなんです」

「……なるほど」

 思ったよりも重い話だった。

 詳しく話を聞いてみると、半年前から起業の支度を始めていたとのこと。既に幾つか、彼が抱える取引先とも話は進めているらしい。チームとしては、学生時代の知り合いにも声を掛けており、それなりの人数が集まっているのだとか。

「先輩のような経験豊富な方に、是非お力添えしてもらいたくて」

「…………」

 ただ、全体的に年齢が若いため、一人くらい年を取った人間を入れておいた方がいいだろう、みたいな感じで自分に声が掛かったらしい。誘ってくれたことは非常に嬉しいけれど、かなり急な話だったのでびっくりした。

「お願いできませんか? 今より待遇も良くなると思います」

「そ、そうだねぇ……」

 流石にこの場でお返事はできないでしょ。

 昨日にはピーちゃんをお迎えしたことで、割と時間にも余裕がない。

「少しだけ考える時間をもらってもいいかな?」

「はい、それはもちろんです。なんだったら一年くらい、外から様子を見ててもらっても大丈夫です。やっぱり俺らみたいな若いヤツが起業だなんて、不安になりますものね。それが当然だと思います」

「いや、そういう訳でもなくて、今はプライベートが忙しいっていうか」

「え? あ、もしかしてご結婚されるとか……」

「……いいや、それも違うけど」

「そ、そうッスか? すみません、なんか変なことを聞いちゃって」

「でも誘ってくれたことは嬉しいよ。ありがとうね」

「滅相もないです。前向きに検討してもらえたら嬉しいです」

「うん」

 なんでも代表を務めるのは彼だという。前から優秀だとは思っていたけれど、この若さで起業だなんて大したものである。そんな相手から、こうして直々に声を掛けてもらったというのは、存外のこと嬉しい出来事だった。

 もしも役に立てることがあったら、改めてお返事させて頂こうと思う。


    *


 会社から自宅アパートの玄関先まで帰宅した際のこと。

 お隣さんのドア正面に人の姿があった。

 近所の学校のセーラー服を着用した中学生が、ドアに背中を預けて体育座りをしている。傍らには学校指定とおぼしきカバン。その存在に気づいて目を向けると、彼女もこちらを見上げて、お互いに視線が合った。

「おかえりなさい」

 ご挨拶を頂戴した。

 段々と気温も下がり始めた昨今、膝を抱いて小さくなった姿ははたにも寒々しいものだ。スカートの下に防寒具を着用している様子は見られない。キッチリと上げられたソックスがのぞく。今日など風も吹いているし、冷えることだろう。

「そろそろ寒くなってきてるけど、平気?」

「……平気です」

 こちらの娘さんと言葉を交わすのは、今日が初めてではない。

 彼女がランドセルを背負っていた頃からの付き合いだ。

 この子とその母親は、自分が越してくる以前から、二人でこちらのアパートに住んでいる。そして、座り込んだ本人の言葉に従えば、母親が戻るまで家に入れてもらえないとのこと。いわゆる毒親、あるいはネグレクトというやつだった。

 当初は接点もなかった。匿名で公的機関に連絡を入れたくらい。あとは見て見ぬふりをしていた。気の毒には思ったが、下手に声を掛けてはこちらが逮捕されかねない。こういうのは行政のお仕事だと考えていた。

「これ、使い捨てカイロ。もしよければ……」

「いいんですか?」

「安売りしてたから、少し買いすぎちゃってさ」

「……ありがとうございます」

 しかし、なかなか改善の兆しは見られなかった。

 そうして数ヶ月ほどがっただろうか。

 会社の飲み会から終電で帰った夜遅く、雪もちらつく軒先で彼女は、今と同じように体育座りで膝を抱えていた。自宅の玄関ドア、その鍵を開ける音よりも大きく、グゥと鳴ったお隣さんのおなかの虫がきっかけだった。

 当時の自分はこれをびんに思ったのだろう。

 自宅にあった菓子パンを与えたのが、彼女とのファーストコンタクト。

 以降、たまに顔を合わせたときに差し入れをしている。

「それじゃあ」

「はい……」

 お隣さんに小さく会釈をして自宅に入る。

 家に上げるようなは一切していない。たとえ本人の同意があったとしても、未成年を自宅に上げると未成年者略取誘拐罪が成立する。しかもこれ調べてみたら、初犯でも執行猶予がつかずに、実刑を受ける場合も多いそうな。

 育児放棄を続ける親御さん相手に、そこまでのリスクは取れなかった。

 だから会話も最低限。

 彼女が独り立ちするまでの、ちょっとしたお手伝いである。


    *


 その日の晩は、自宅でピーちゃんから魔法の講義を受ける運びとなった。

 帰宅後に夕食とお風呂を終えて、心身ともにサッパリとしてからのこと。デスク正面の椅子に腰掛けたこちらに対して、部屋の隅に設けた三段ボックスの上、ケージから外に出て金網の上辺に止まった彼、といった配置だ。

 手狭な1Kなので、当面はこちらの位置関係が、自分とピーちゃんの距離感になりそうである。

「……なるほど、呪文を唱えてイメージをすると出るのかい」

『貴様には我の力を分け与えた。なので魔力の不足を心配する必要はない。大半の魔法の行使について、足りないということはないだろう。適切な呪文を唱えた上で、十分なイメージを描くことができたのなら、魔法を使うことができる』

「意外と普通だね」

『何が普通だ?』

「ああいや、気にしないでいいよ」

 そうなると問題になるのは呪文の取り扱いである。原稿用紙一枚分とか言われたら、とてもではないけれど、そう幾つも覚えられる気がしない。ファンタジーゲームの詠唱と同じくらいだとありがたいのだけれど、そこのところどうだろう。

「詠唱ってどのくらいの長さがあるのかな?」

『ものによりけりだ。短いものもあれば長いものもある。最も短いものでは数言の単語の連なりに過ぎない一方、長いものでは本一冊分に相当するものもある。後者については、暗唱することはまず不可能だろう』

「かなり幅が広いんだね」

 想像した以上だった。

 学生の時分、国語の授業の音読を思い出す。先生に指名された直後、教科書を正面に構えながら、声高らかにりのアニメに登場する魔法の呪文を詠唱し始めたおおかわうち君、彼は今も元気でやっているだろうか。

 見事に滑った後始末、授業終了を知らせるチャイムが鳴らなかったら、きっと大変なことになっていた。

『慣れてくれば詠唱を省略することも可能だ。ただし、その場合はより鮮明なイメージが必要になる。このあたりは言葉で説明することは難しいが、数百、数千と繰り返し使っていれば、段々と身体に染み付いて使えるようになる』

「こうして聞いてみると、思ったよりも技能的なお話なんだね」

『うむ、故に魔法の習得には時間が掛かるのだ』

 もう少し技術的なものだと考えていたので、これは大変そうだ。

 要はイラストの制作みたいなものではなかろうか。初心者はアタリを十分に取ってから下書きを始める。一方でプロは目見当で下書きを始める。場合によってはいきなり主線を入れ始めることもあるかもしれない。

 それが詠唱であり、その省略ではなかろうか。

 このように考えると、なかなか先の長い話のような気がしてきたぞ。

 お絵かきって苦手なんだよなぁ。

「個人的には今朝やってもらった、場所を移動する魔法が使いたいんだけど」

『あれはそれなりに高度な魔法となる。詠唱はそこまで長くないが、イメージを確立することが非常に難しい。魔法を学び始めて最初に習得する魔法としては、あまり勧められない』

「なるほど」

 それでも自分は瞬間移動の魔法が使いたかった。

 満員電車をスキップできる。通勤時間をゼロにできる。それは都内で働く社畜にとって、他の何事にも代えがたい価値である。夏は北海道、冬は沖縄に格安の家賃で住まいを確保しつつ、都内の勤め先で勤務する。そんな夢さえ叶えられるのだ。

 是が非でも手に入れたい。

 ちなみにピーちゃんには本日、事前に地図アプリで会社の位置と周辺の景色を確認してもらった上で、現地まで送って頂いた。一度訪れた場所でないと向かうことが難しいという話ではあったが、意外となんとかなるものだとは、彼も驚いていた。

 恐るべきは衛星写真やストリートビューと魔法の合わせ技である。

「それじゃあ、二つの魔法を同時に学んでいきたいと思うんだけれど、それでも構わないかな? 一つはピーちゃんが一番覚えやすいと思う魔法。そして、もう一つが場所を移動する魔法。どうだろう?」

『なかなか意欲的ではないか。貴様は魔法に興味があるのか?』

「魔法にというよりは、場所を移動する魔法に興味があるよ」

『そうか、ならば精進するといい。呪文については教えよう。また、当面は会社とやらまで我が送ってもいい。あの魔法は自ら術を体験することによって、そのイメージを確立しやすくなるだろうからな』

「ありがとう。とても助かるよ、ピーちゃん」

 そんなこんなで夜の時間は過ぎていった。

 魔法を使うのに必要な呪文については、ピーちゃんが口頭で教えてくれたものを手帳に書き出した。場所移動の魔法が原稿用紙半分ほどであるのに対して、もう一つの魔法に関しては、俳句ほどの長さであった。

 これらは仕事の合間にでも確認しながら覚えるとしよう。

 何事もコツコツとやっていくのがいい。慣れないことを急に頑張ったりすると、すぐに息切れを起こしてしまうからな。地道に頑張っていくのが性分にあっている。ただ、それでも場所を移動する魔法については、急ぎたくなる魅力を感じていた。


    *


 問題は翌日、自身の勤め先となる職場フロアで発生した。

 原因は魔法だ。

 昼休み、手帳を片手に早速呪文の一つを呟いてみた。場所移動ではなく、ピーちゃんから簡単な魔法だと説明を受けた方だ。なんでも詠唱とイメージが成功すると、指先に小さな炎がともるとのことである。要はライターのような魔法だ。

 場所はトイレの個室。

 すると思ったよりも大きな炎が立ち上がった。

 ライターというよりは、ライターの火に対して可燃性のスプレーを吹きかけたような勢いがあった。大きく吹き上がった炎に、危機感を覚えたほどである。

 直後に火災報知器が作動して、それはもう大変なことになった。まさかバレては問題なので、大慌てでトイレを脱した。そして、にぎやかになったフロアに戻り、騒ぎ出した周囲の面々と合流、素知らぬ顔でトイレを眺めていた。

 幸いにして犯人は不明のまま、誰かがトイレの個室でタバコを吸ったのだろう、ということで話はまとめられた。タバコを吸う習慣のない自分は真っ先に候補から外されて、事なきを得た次第である。

 帰宅後、その話をピーちゃんにしたところ、嬉しいお言葉をもらった。

『どうやら貴様は、我が考えていた以上に適性があるらしい』

「適性?」

『一発で成功するとは思わなかった。大したものだぞ』

「こうしてピーちゃんに褒められると、なんだか嬉しいね」

『誇ってもいい。いつか我を超える日が訪れるやもしれん』

「場所移動の方も、頑張れば可能性があるってことかな?」

『どれだけ早くても数年は掛かるだろうと考えていたのだが、この調子であれば期間はグッと縮まることだろう。ただし、それでも数日でどうにかなるようなものではない。地道な精進を忘れぬことだ』

 高校入試に大学入試、各種資格試験と、試験と名のつくものに囲まれて育った現代人であるから、一つの物事に数年スパンで挑むことには慣れている。趣味のギターも気が付けば、かれこれ始めてから数年が経つ。

「早速で申し訳ないけれど、他の魔法を教えてもらってもいい?」

『そうだな、ならば次は……』

 ピーちゃんは気前よく呪文を教えてくれた。

 これにより自宅のパソコンには、れいにフォルダ分けされて、攻撃魔法だとか、回復魔法だとか、炎属性だとか、水属性だとか、とてもファンタジーなファイル群が作成される運びとなった。まるで小説家にでもなったような気分である。

 当面はこれら呪文の暗記が日課になりそうだ。

 なかには原稿用紙一枚超えの代物もあった。

 ピーちゃんってば、よくまあこんなに沢山覚えていたものだ。

 小一時間ほどを掛けて、当面の課題がテキストファイルにまとめられた。

 そして、魔法のお勉強を終えたのなら、次は異世界へのショートステイである。

『それでは早速だが、あちらの世界へ向かうとしよう』

「あ、それなんだけど、ちょっといいかな?」

『なんだ?』

「向こうに行っている間、こっちがどうなるのか知りたくて」

 帰ってきたら出社時刻を過ぎていました、とか笑えない。今日は火曜日、明日は水曜日、向こう三日間は毎日朝九時までに会社の自席に着席している必要がある。

 社内では朝の点呼が規定されているから、かなりシビアにカウントを取られるのだ。これに遅れると即座に遅刻扱いとなる。社長を筆頭として経営陣の受けはいいみたいだけれど、我々平社員からはこれでもかと嫌われている。

 社の業績が本格的に下がり始めた五年前から始まった規則だ。

『時間の流れは同じではない。前回、あちらの世界で過ごした時間をこちらの世界における時間に換算してみた。我の見間違いでなければ、そこに設けられた時計の長い針が、およそ三目盛りほど過ぎていた』

 いつの間に確認していたんだろう。

 ピーちゃん、凄く賢い。

 自分はそこまで意識を高く持っていられなかった。

 向こうにいた時間は体感で小一時間ほどだろうか。仮にそう考えると、こちらの世界における三分が、向こうの世界における一時間。つまり、こちらの世界における一時間が、向こうの世界における二十時間前後。

 思ったよりもズレ幅は大きいようだ。

 ほぼ一日である。

「……ピーちゃん、そちらの世界は最高だよ」

『そうか?』

 今後は体調を崩したり風邪を引いたりしたら、ピーちゃんにお願いしてあちらの世界に移らせて頂こう。数日ほど休んでリフレッシュして戻ってきても、こちらの世界では数時間しか経っていないのだから堪らない。

 いやしかし、それでも自身の寿命は着実に消費されているのか。

 そうなると多用は控えるべきだろう。

「日が変わるまで一時間以上あるし、今日もよろしくお願いします」

『うむ、では向かうとするか』

 可愛らしいくちばしが開かれるのに応じて、正面に魔法陣が浮かび上がる。

 昨日と同じ演出だ。

 そして気づけば、我が身は自宅からどこともなく移動していた。


    *


 異世界に渡って最初に行ったことは持ち込んだ商材の販売である。

 貨幣の管理と税制度の緩い世界とのことだったので、遠慮なく色々と持ち込ませて頂いた。数年前、登山を趣味にしようとたくらみ、勢いから購入した大きめのリュック。一度利用して以降、ほこりかぶっていたそれに、あれこれと詰め込んできた。

 仕入れに際してはピーちゃんにチェックをしてもらっている。

 元現地人のオブザーバーとして、高値で取り引きできそうな品を、昨晩の内に確認していたのである。大半は自宅にないものであったので、会社からの帰り道、近所の総合スーパーに寄り道をして購入した。

 品目は以下の通りである。

 板チョコ、十キロ。

 上白糖、十キロ。

 コピー用紙、千枚。

 ボールペン、五百本。

 持ってみた感想、ちやちや重い。取り分け最後のボールペン五百本というのが見栄え的に際立っている。一本十グラム、それが五百本で五キロ。まさかボールペンをキロで数える日が訪れるとは思わなかった。

 どれもこちらの世界で高値で売れそうなものだそうな。

 検疫とか行わなくて大丈夫なのか気になったけれど、ピーちゃんいわく、多分大丈夫だろう、とのこと。個人的にはみも薄い世界の出来事であるから、彼の言葉を信じることに抵抗は小さい。

 また、最近は何気ない日用品にも抗菌素材が使われるようになった。大手メーカーの商品であれば、製造工程も衛生的である。そういった意味では自分の肉体の方が、はるかにデンジャラスな代物かも知れない。

 一方で現代に何かを持ち帰るときにこそ、十分に気を遣うべきだろう。ジャケットに付着した羽虫一匹であっても侮れない。そう考えると衣料用のブラシくらいは用意した方がいいだろう。次の機会にはちゃんと準備しようと思う。

『この世界は貴族が幅を利かせている。一度に多く稼ごうと考えたのであれば、そういった者たちを相手に商売をすることになる。平民は数こそ多いが、富全体に対して占める割合はそれほどでもない』

「こっちもあっちの世界と同じなんだね」

 昨日訪れたときと同じ町並みを眺めながら通りを歩む。

 たしかヘルツ王国の地方都市、エイトリアムといっただろうか。

 日本が夜中であるのに対して、こちらは日中だ。

『しかしそうは言っても、いきなり高い地位にある貴族と取り引きをすることは難しいだろう。まずは位の低い貴族と関係を持ち、そこから紹介してもらうのが無難だ。そこで貴様にはこの町の領主に会ってもらいたい』

「ピーちゃんの知り合い?」

『知り合いというほどでもないが、人格は保証できる。だが、我が再びこの地へ戻ってきたことは、当分の間は誰にも伝えずにおきたい。それは貴様の安全を確保する上でも、とても大切なことだ』

「え、それってまさか……」

『安心しろ、貴様の考えているようなことはない』

「本当?」

 前科持ちのペットとか、どうしても抵抗を感じてしまう。

 素直に愛する為にも綺麗な身体であって欲しいよ。

『世の中には色々な人間がいる。誰も彼もと円満な交流を育むことは不可能だ。ただ普通に生活を営んでいるだけでも、要らぬきしみは自然と生まれてくる。結果的に我は世界をわたる羽目になった』

「…………」

 ピーちゃんもこう見えて、結構苦労してきたのかも知れない。

 明日の晩ご飯は奮発して少し高めのお肉を用意しようかな。

 牛ロースとかどうだろう。

『そこの建物に収まっているのが、この町を治める貴族の御用商会の一つだ。ここで取り引きをしていれば、すぐに話も広まることだろう。今回持ち込んだ品々で、手始めに当面の活動資金を工面するといい』

 ピーちゃんが視線で指し示した先には、大きな石造りの建物が建っていた。

 地上五階建ての非常に物々しいデザインの建造物だ。社会の教科書で眺めたゴシック様式などに近い。出入り口には槍を手にした鎧姿の人が立ち、建物に出入りする人たちを監視している。まるで都内に構えられた他国の大使館のようである。

 重厚な装飾の為されたファサードの前で、本当に入ってもいいものかとちゆうちよする。出入りしている者たちの身なりも、町の通りで見掛けた人たちと比べて上等なものが多い。恐らく日本におけるたんとかみつこしとか、そういう位置付けにあるのだろう。

 スーツを着用してきたので、周囲から浮いてこそいるけれど、ドレスコードで入店を拒否されることはないと信じている。ただ、右の肩に止まったピーちゃんの存在には、どうしても不安が残るぞ。

「肩に文鳥を乗せたまま訪ねても大丈夫なのかな?」

『使い魔だとでも言っておけば問題はないだろう』

「なるほど、そういうのもあるのかい」

 魔法だけでなく、こちらの世界の規則や常識も学ぶ必要がありそうだ。

 特にタブーの類いについては、早めに学んでおきたい。

『さ、行くぞ』

「ちなみにこちらの店の名前はなんていうの?」

『ハーマン商会だ』

「なるほど、ハーマンさんね」

 自称使い魔に促されるがまま、歩みは御用商会とやらの下に向かった。


    *


 結論から言えば、取り引きは想像した以上に円満に進んだ。

「これは素晴らしい……」

 応接室と思しき部屋に通されて、そこで商談と相成った。

 対応してくれているのは、同店の副店長を名乗る男性だ。年齢は自分と同じくらいだろうか。ただし、顔立ちはとても優れており、背丈もかなりのもの。女性には苦労したことがないだろうな、なんて思わせる美丈夫だ。

 緑色の瞳と、同じ色のオールバックに整えられた頭髪が印象的である。

 お名前はマルクさん。平民なので名字はお持ちでないのだとか。

「いかがでしょうか?」

 商売の席ということもあって、きの口調で対応だ。

 笑みを浮かべてマルクさんにお問い掛け。

 どうして異世界を訪れてまで、物販営業をしなければならないのかとか、疑問に思わないでもない。しかし、それもこれも可愛いペットの頼みとあらば、意外と前向きに頑張れたりするから不思議なものである。

 ただ、そうは言っても大変なものは大変だ。

 理由は我々が通されたお部屋。

 思ったよりもお高い感じの応接室に迎えられたので、予期せず威圧されている。腰掛けた椅子も木製のフレームを金で縁取りした代物で、クッションはお尻が沈むほどフカフカだ。おかげで額にはじんわりと脂汗が浮かんでいる。

「すべて買い取らせて頂きたく思います」

「ありがとうございます」

 持ち込んだ商品の値付けについては、ピーちゃんからカンペをもらっている。全部まとめて金貨三百枚くらいが妥当だろうとのこと。内訳は板チョコが五十枚、砂糖が五十枚、紙が百枚、ボールペンが百枚となる。

 現地の貨幣は金貨一枚が銀貨百枚、銀貨一枚が銅貨百枚、銅貨一枚がせん十枚らしい。そして、食事をするならランチが銅貨十枚、お宿に泊まるなら一泊二食付きで銀貨一枚くらいが相場とのこと。

 銅貨一枚が百円ほどと思われる。

 つまり日本円に換算すると三億円。

 ただし、新品の衣服を上下でそろえると銀貨数十枚したり、家庭で利用するような包丁が中古でも銀貨数枚からだったりと、加工品の物価が日本と比較して恐ろしく高い。その為、厳密にはゼロを一つか二つ引いたくらいの価値になるのではないかと思われる。

 よって三百万から三千万。

 また、この場合の各貨幣とは、本日取り引きに臨んだハーマン商会さんが所在する国、つまりヘルツ王国の発行する貨幣に限った話とのこと。他にも近隣諸国が独自に貨幣を発行しているそうで、それぞれ力関係があるとピーちゃんが言っていた。

「金貨四百枚、すぐにご用意させて頂きます」

「四百枚、ですか?」

 事前に三百枚と伝えていたのだけれど、百枚ほど増えている。

 誤差というにはあまりにも大きな金額だ。

「代わりに今後とも、我々とお付き合いを願いたいのですが……」

「ええ、そういうことでしたら是非お願いします」

 可愛いペットが勧めてくれたショップだし、仲良くしておいて困ることはないだろう。たった一度の取り引きで、お貴族様の下まで我々の名前が響くとは思えない。当面はこちらに卸して実績を作るべきだと思う。

「ありがとうございます」

 ちなみにここまでピーちゃんは一言も喋っていない。

 肩に止まったままじっとしている。

 なんてお行儀のいい文鳥だろう。

 同所で取り引きを始めるに当たり、その存在を巡っては使い魔だと説明したところ、これといって追及を受けることはなかった。本人から事前に確認を受けた通り、こちらの世界ではそういうものとして常識になっているのだろう。

 しかし、それでも不安がないと言えば嘘になる。

 問題は彼の立場に限ったものではないのだ。

 ペットショップでは店員さんから、いきなりウンチをする場合があるから、ケージから出すときは気をつけてね、と言われたことを覚えている。信じているつもりだけれど、信じきれていない自分に申し訳なさを感じる。

 どれだけ精神が理知的であったとしても、肉体の生理現象にあらがうことは難しいのではなかろうか。うっかり肩の上で致してしまう可能性も考えられる。ペットショップのケージの随所に見受けられたふんから、不幸な事故が想起された。

「ところで少し、お話をよろしいでしょうか?」

「なんでしょうか?」

 売買が決まった直後、改めて副店長さんから問われた。

 これまた真剣な面持ちでの問い掛けである。

「チョコレートや砂糖については分かるのです。その品質には目を見張るものがありますが、私どもでも時間を掛ければ仕入れることは可能でしょう。しかし、こちらの紙とペンについては、まるで見えてきません」

「なるほど」

「失礼ですが、この大陸の方ではないように見受けられますが……」

「申し訳ありませんが、仕入先は秘密とさせて下さい。代わりと言ってはなんですが、今回ご提案させて頂いた紙とペンについて、当面は他所のお店に卸すことはしません。今後とも仲良くさせて頂けたらと思います」

「それは本当ですか?」

「ええ、本当です」

 これくらいのリップサービスは構わないだろう。

 具体的な契約の伴わない上から目線な営業トークって、一度でいいからやってみたかった。自社商材が弱いばかりに、頭を下げて過ごした日々が脳裏を駆け巡る。取引先の営業担当が感じていただろう愉楽を知った。なんて非人道的な快楽だろうか。

 心の底から気持ちいいと言わざるを得ない。

「承知しました。是非ともそのような形でお願い致します」

「ご理解ありがとうございます」

 そんなこんなで懐には金貨四百枚が転がり込んできた。

 結構な額であることは理解できる。

 ただ、実感は湧かない。

 何故ならば自身がやったことは、右から左へ時価数万円の物品を流しただけである。なんら仕事をしたという気分にならない。最初期に仮想通貨でおおもうけした人も、こういう感じだったのではなかろうか。

「失礼ですが、宿はこの辺りに取られておりますか?」

「いえ、知人の家に世話になっておりまして」

「なるほど、これは失礼しました」

「また近い内に、こちらへ持ち込ませて頂けたらと思うのですが」

「それはもう是非お願いします。歓迎させて頂きます」

 あれやこれやと適当にはぐらかしたところで、当初の目的は達成だ。

 以降はそのまま丁重に見送られて、同所を後にする運びとなった。


    *


 ピーちゃんの言葉通り、リュックの中身は小一時間で空っぽだ。

 両手に下げていたコピー用紙やボールペンも同様。

 おかげでホッと一息。

 文字通り肩の荷が下りた気分である。

 大量の商品は百枚の金貨と三枚の大金貨に換わった。大金貨とは読んで字のごとく大きな金貨で、金貨百枚分の価値があるらしい。主に大きな取り引きで利用されるそうで、市井では基本的に出回ることがないのだとか。

 大金を背負っているという点では、未だにメンタルがピリピリとしている。ただ、ピーちゃん曰く、ストーキングされているような気配はないという。なので多少なりとも落ち着いて通りを歩いていられる。

 肉体的にもひと仕事終えたことで人心地がついた。

 そうなると意識が向かうのは、本日の昼ご飯である。

「ピーちゃん、ご飯どうしよう?」

『肉の美味い店がいい』

「その意見には同意するよ」

 問題はこちらの世界に、飲食店の口コミサイトが存在していない点だ。大きな通りを歩いていると、いくらでも飲食店を見つけることができる。しかし、都内の飲食店で幾度となく外れを引いてきた身の上としては、前評判なしの突撃は躊躇する。

 グルメサイトのナビは、現代人の必須アイテムである。

『そこの店など、どうだろうか?』

「……いい匂いだね」

 肉の焼けるかぐわしい香りが漂ってくる。

 こういうとき率先して店を挙げてくれる相棒って素敵だ。ピーちゃん、とても男らしくてかついい。きっと文鳥になる以前は女性にモテたんだろうな、なんて考えさせられてしまう。逆に自分は色々と迷ってしまうタイプだから。

「じゃあ、そこにしようか」

『うむ』

 異世界グルメ、ドキドキする。

 板チョコや砂糖が高値で売れるという時点で、いささか期待値は低めになっている。けれどそれでも、美味しいものの一つや二つは見つけられるのではないか。そうでないとこちらの世界で頑張る意味合いが減ってしまう。

 文鳥のつぶらな瞳に促されるがまま、我々は目当ての店に入った。

 いいや、入ろうとした。

 その直前に出入り口のドアを破って、中から人が飛び出してきたからどうした。

「テメェなんて弟子じゃねぇっ! とっとと出て行けっ!」

「っ……」

 十代後半から二十歳ほどと思われる若い男性だ。

 かなり大柄な体格の持ち主で肉付きもいい。エプロンを掛けたかつこうは料理人っぽいけれど、個人的には大工と言われたほうがしっくりと来る。そんな人物が店の前、地面に突き飛ばされて横たわる光景は、なかなかけんのんなものだ。

 ちなみに彼を突き飛ばしたと思しきは、同じくエプロン姿の男性。こちらは四十代くらい。恐らくは同じ職場の先輩と後輩、あるいは雇い主と雇用者、といった関係にあるのではなかろうか。

 しかし、そうした二人の間柄も、何やら雲行きが怪しい。

「二度と俺の前に顔を見せるんじゃねぇぞっ!」

「旦那、ま、待って下さいっ! 本当に自分はやってないんです!」

「嘘をくんじゃねぇ! 証拠はあがってるんだよっ!」

「その証拠は偽物ですっ! 自分はこの店のために頑張ってっ……」

「まさか他人のせいにするつもりかっ!?」

「待って下さい! ここをクビにされたら、お、俺、行くところがないんですっ! 親にも仕送りしてやらないとならないし、だからどうかなにとぞ! 何卒お願いします! このままだと路頭に迷っちまいますっ!」

「うるせぇ、勝手にのたれ死にやがれっ!」

 バァンという大きな音と共に店のドアが閉められた。

 その様子を男は切なげなまなしでジッと見つめている。

 真っ赤な長髪を片側だけかき上げたスタイルが、彫りの深い目鼻立ちと相まってかなりいかつく感じられる。口調こそ丁寧なものだけれど、鋭い目元はチンピラっぽい雰囲気だ。やっぱりコックさんというよりは大工さん。

 ところでこれ、もしかしなくても首切りというやつではなかろうか。


    *


 ふと思いついた自分は、地面で転がっていた彼に声を掛けた。

 ちょっとそこのカフェでお話ししませんか? みたいな。

 我ながら怪しいにも程がある勧誘である。しかし、クビを宣言された直後の彼は、どこかぼうぜんとしており、思ったよりも素直に我々の声に耳を傾けてくれた。というよりも、心ここにあらずといった様子で付いて来てくれた。

 共に足を運んだのは、同じ通りを少し進んだところにあった飲食店。

 その奥まった席でエプロン姿の彼と、向かい合せで腰を落ち着けている。

 卓上には取り急ぎ注文した飲み物だけが並ぶ。

「はじめまして、と申します」

「あ、どうも。フレンチといいます」

「フレンチさんですね」

「ところで、あの、い、いきなりどういった話でしょうか?」

「いえ、なにやら大変そうな話を耳にしましたので」

「……恥ずかしい限りです」

 こちらの世界を眺めていて、ふと思ったことがある。

 つい数刻前、日本での一時間がこちらの一日に相当することを喜んだが、それは決して良いことばかりではない。何故ならば平日、自身が会社に出ている間に、こちらの世界は十日以上の時間が進む。

 もしもこちらの世界で何かしようと考えたら、それは意外と馬鹿にならない時間差になる。昼休みの休憩を活動に当てたとしても、数日の空白期間が働いている間に発生する。今後の商売を考えると、これはなかなか大変なことだ。

 そうした世界間の差異を補う為にはどうしたらいいのか。

 現地の知り合いを増やす他にないと考えた次第である。

「あの、ササキ様は貴族様でしょうか?」

「貴族?」

「とても質の良い服をお召しになっていますので……」

 なんということだ、スーツを褒められてしまった。

 こんなるし売りの安物であっても、貴族の衣類と間違われるほどの価値があるらしい。やっぱり衣類の値段がとても高い。身分が上に見えるのは決して悪いことではないので、今後ともこちらを訪れる際にはスーツを着用して臨むとしよう。

「いいえ、自分は貴族ではなく商売人でして」

「なるほど、商人の方でしたか」

 少しホッとした表情になりフレンチさんが言った。

 彼の態度を鑑みるに、貴族と平民の間には高い垣根があるのだろう。このあたりもいつか暇を見てピーちゃんに確認したいものだ。今は間違われる側だったから良かったけれど、逆の立場になったら大変である。

「もしよろしければ、事情をお聞かせ願えませんか?」

「え? あの……」

貴方あなたの力になれるかも知れません」

「…………」

 初対面の相手にこんなことを言われたら、普通はうたぐるだろう。

 自分だったら即座に店を出ている。

 しかし、飲食店の前で親への仕送りがどうの、行くところがないの、声も大きく叫んでいたのは決して嘘ではないようだ。かなり追い詰められた状況にあるらしく、しばらく待ってみると、ぽつりぽつりと語り始めた。

 端的にまとめると、なんでも職場の同僚にだまされたらしい。

 飲食店で丁稚でつちとして小さい頃から働いていた彼は、ここ数年、料理人としてメキメキと腕前を上げていたそうな。そんな彼に嫉妬した同僚から、店のお金をちょろまかしたとかなんとか、嘘の嫌疑を掛けられてしまったらしい。

 そして本日、店主への説得もむなしく放逐されてしまったとのこと。

 自身が居合わせたのは、その決定的なシーンであったようである。

「それは大変なお話ですね」

「自分は小さい頃からあの店で勤めておりました。何をするにしても料理一筋だったんで、世の中の仕組みにも疎いんです。字もろくに書けません。だから、あそこを首になったらどうすればいいのか、まるで分からないんです」

「…………」

「このままだと家族への仕送りも止まっちまいます。親は兵役で足と目を駄目にしちまってて、今じゃ働くこともままならないんです。他に妹がいるんですが、こっちは女の身の上、親の世話もあってそう多くを稼ぐこともできません」

「それはまた大変なお話ですね」

 フレンチさんの語り口には、絶望感がひしひしと感じられた。このまま放っておいたら、翌日には自殺しているんじゃなかろうかと、ふとそんなことを考えてしまうほど。どうやらこちらの世界は、自分が考えていた以上に社会保障が手薄いようである。

「……すみません、見ず知らずのお方にこんなことを」

「いえいえ、声を掛けたのはこちらですから」

 小一時間ほど話をしてみたが、悪い人物ではなさそうだ。

 そこで一つ、本日の売上金を投資してみることにした。

 世間的には大金かもしれないが、ピーちゃんの援助を受けられる自身にとっては、そう苦労なく稼ぐことができる金額だ。今回は仕入れもリュック一つであったけれど、次からはもう少し大きな装備で挑む予定である。

 気分的には街頭募金に紙幣を突っ込むような感じ。

「もしよろしければ、私と一緒に店を出してはみませんか?」

「……え?」

 フレンチさんの目が点になった。

 もしも彼が本当に優れた料理人であるのなら、我々としても益のある話だ。お肉が大好きなピーちゃん。その舌が満足する味を追求することは、好き勝手に生きたいと語っていた彼の願いに合致する。当然、飼い主である自身も嬉しい。


    *


 フレンチさんを伴い、ピーちゃんに紹介してもらった商会まで戻った。

 出入り口を固めていた警備の人に声を掛けて、副店長さんに取り次いでもらう。すると、あれよあれよという間に、先刻までお邪魔していた応接室に再び通された。同所にはもれなくマルクさんの姿がある。

「あの、いかがされました? もしや取り引きの内容に不備など……」

「いえ、滅相もないです」

 恐る恐るといった様子で語りかけてくる。

 変に気をませてしまったようだ。

「先程の件とは別に、急ぎで用立てて欲しいものができまして」

「なるほど、そういうことでしたら是非おつしやって下さい」

「ありがとうございます」

 副店長さんに笑みが戻った。

 その様子を確認して、これ幸いと話を進めさせて頂く。

「いきなりですが、この辺りに飲食店を開きたいのです。店舗や機材、食材の調達を頼めませんでしょうか? 自身で行うには如何いかんせん知見が足りておりませんでして、ハーマン商会さんのお力添えを頂きたく考えているのですが」

「それは構いませんが、そちらの方とはどういった?」

「こちらの方が店長を務める予定となっております」

「……え?」

 え、うそぉ? みたいな表情でフレンチさんに見つめられた。

 先程もそのつもりで説明をしたのだけれど、伝わっていなかったのだろうか。まあいいや、こうして副店長さんにまで話を入れてしまったのだから、そのまま進ませて頂こう。路頭に迷うよりはきっとマシだろうさ。

「設備や食材の仕入れについては、こちらの彼の意向に沿って頂けると幸いです。初期費用は金貨三百枚ほどを考えております。もしも不足が出ましたら、次の取り引きの際に精算させて頂きたいのですが、それは可能でしょうか?」

 都内で飲食店を立ち上げようとすると、最低でも一千万は必要だとネットで見た覚えがある。こちらの世界では家具や食器の価格が高いので、金貨三百枚というのは、割とギリギリのラインのような気がする。

 もしも厳しそうだったら、次の取り引きでてんするとしよう。

「……この町で飲食業を始められるのですか?」

「それほど大きく始めるつもりはありません。他所様に迷惑を掛けるつもりも毛頭ありません。私が扱っている商品には食品もありますので、これを試すことができる簡単な場所を用意できたら嬉しいなと」

「なるほど、そういうことですか」

 それっぽい説明をしたところ、納得してもらえたようだ。

 数瞬ばかりいぶかしげな表情となったけれど、それもすぐに元通り。

 副店長さんの顔にはニコリと笑みが浮かんだ。

「ご協力願えませんでしょうか?」

「そういうことでしたら、是非とも私どもに協力させて下さい」

「ありがとうございます」

 思ったよりも意欲的なお返事をもらえた。この様子なら自分が日本に戻った後も、なんとかやっていけるのではなかろうか。これだけ立派なお店で副店長なる立場にあるのだから、その援護はかなりのものだと思う。

「店については彼に一任しておりまして、今後詳しい話はこちらの店長から確認して頂けると幸いです。また、料理人としては一流なのですが、細かい作業に不慣れなところがありまして、事務的な部分をサポートしてもらえたら嬉しいのですが」

「分かりました、それでは店から人を出すことにしましょう」

「本当ですか? とても助かります」

 なんだか人材派遣業でも始めた気分である。隣で青い顔をしているフレンチさんを見ていて、そんなふうに思った。申し訳ないとは思うけれど、失敗したら失敗したで問題ないので、軽い気持ちで臨んで頂きたい。

「気軽にやっていきましょう、フレンチさん」

「は、はいっ!」

 これで一つ、ピーちゃんとの約束にが立った。


    *


 細かい話はフレンチさんと副店長さんに任せて、自身はハーマン商会を後にした。

 本来ならば最後まで付き合うのが筋なのだろうけれど、他に優先すべき事柄があったので仕方がない。ピーちゃんとのランチが後回しになっていたのだ。彼の機嫌を悪くして、こちらの世界に置いてけぼりとか、ちょっと怖いじゃない。

 向かった先は当初の予定通り、フレンチさんの勤め先である。

 いや、元勤め先か。

 彼の件はさておいて、しよかんてつである。

 テーブルの上には、湯気を上げて肉料理が並ぶ。

『……なかなか悪くない』

「そうだね」

 自身は店長のオススメだという日替わりランチ。ピーちゃんには店先に漂っていた匂いの元となる料理を単品で注文である。なんとかという生き物の肉を秘伝のタレに漬けて焼き上げたものだと説明を受けた。日替わりランチにも入っているという。

 これがなかなか美味しくて、我々は幸せだ。

「板チョコや砂糖が高く売れる割に味が多彩なんだね」

『単に砂糖やカカオが貴重なだけだ』

しようなんかも高く売れるのかな?」

『うむ、安価に仕入れられるのであれば、検討するべきだろう』

 ピーちゃんから提案のあったリストに、その名前が見受けられなかったことも手伝い、自然と口にしていた。この手の流れだと胡椒は鉄板ではなかろうか。とりあえず胡椒を持っていけば安心、みたいな感じあるもの。大航海時代的な意味で。

「向こうの世界だと、同じ量の金と等価、みたいな時代があったらしいよ」

『たしかに胡椒もこちらの世界では貴重だ。しかし、そこまで高価なものではない。むしろ、金と等価と言われるほどまで価値が上がった理由が気になる。何故そこまで需要があったのだ? 砂糖と同様にこうひんだろう。しかもハーブなどで代わりが利く』

「保存状態が悪い肉を食べるのに、臭みを消す必要があったらしいけど」

『どうして保存状態が悪い肉を食べる必要がある?』

「え? あ、いや、昔は冷蔵庫がなかったから……」

 当時は貴族も平民も等しく、肉の腐敗から逃れられなかった。保存していた肉の腐敗が進んだ春先など、取り分け顕著だったらしい。腐った肉を食べて、お腹を壊す人も決して少なくなかったのだとか。

 キリスト教などで馴染みのある謝肉祭の起源は、冬季期間に向けて備蓄されたお肉を、腐敗が加速する春先以降に残さない為、まとめて消費するべく催されていたのだとか、前にネットで読んだ覚えがある。

 本当かどうかは定かじゃない。

 ただ、そういった話題が挙がるほど、当時はお肉が腐りまくっていたのだろう。

『あぁ、そういうことか』

「理解してもらえた?」

『こちらの世界では魔法が存在する。肉を保存するのであれば、氷を用意すればいい。氷で満たした部屋を用意して、そこに肉を保存するのだ。そうすればいつでもどこでも新鮮な肉を食べることができる』

「……なるほど」

『氷を作り出す魔法は比較的容易に習得が可能だ。また、少し高度な魔法になると、対象を氷漬けにするようなものも存在する。これを用いれば氷を用意する以上に、長期間にわたって食品を保存することができる』

「そういえば昨日教えてもらった魔法の中に、氷柱つららを飛ばす魔法があったね。飛ばさずに集めておけば、たしかにピーちゃんの言う通り冷蔵庫だよ。ごめん、ちょっと考えが足りてなかったみたい」

 魔法ってば、便利過ぎる。

 この調子だと冷蔵庫の登場は当分先になりそうだ。

『他所の世界だ、そういうこともあるだろう』

「そうなると持ち込む商品も、色々と考えさせられるなぁ……」

『機械式の工業製品が無難だろう。あちらの世界の金属加工技術は非常に優れている。あとは流通や栽培が確立されていない嗜好品だ。それとプラスチックと言っただろうか? あれらも仕入れ値に対して高値で販売することができると思われる』

「なるほど」

 次の仕入れはピーちゃんにも同行してもらおう。

 その方がより効率的に商品を選定できる気がする。


    *


 ランチを終えた我々は自宅アパートまで戻ってきた。

 向こうの世界で半日ほど過ごしてから帰宅したところ、日本時間では三十分弱が経過していた。ピーちゃんが前に計測したとおり、こちらの一時間があちらの一日と考えて問題なさそうである。

 同日は疲れていたので、そのまますぐに就寝した。

 そして翌日、社畜は前日に引き続き、勤め先に出社である。

 隣の席に同僚の姿がなかったのが気になった。ただ、他はこれといって変わり映えなく時間は過ぎていった。ちなみに昨日のボヤ騒ぎは、犯人を特定できないまま迷宮入りしたようである。総務担当のきくさんがとても悔しがっていた。

 そうして迎えたアフターファイブ。

 いいや、正確にはアフターナイン。

 少し早めに帰宅した社畜はピーちゃんと共に、自宅にほど近い総合スーパーに赴くことにした。夜の十一時まで営業している同店は、自分のような帰宅の遅いサラリーマンやオフィスレディに人気の店である。

 すると自宅を出た直後、お隣さんの玄関先に見知った姿を見つけた。

 中学生がセーラー服で体育座り。

 会社から帰宅した際には見なかったので、社畜より少しだけ遅れて自宅に戻ったのだろう。けれど、それでもママさんが家に戻っていないために、こうして軒先で暇にしているものと思われる。

「……文鳥、ですか?」

 彼女はこちらを見つめてボソリと呟いた。

 そこにはピーちゃん。

 肩に下げた鳥類用のおでかけキャリーバッグに収まっている。

「うん、文鳥だね。自宅で飼い始めたんだよ」

「…………」

 金属製のフレームをベースとして、透明なポリ塩化ビニルとポリエチレンのメッシュから作られたそれは、旅行カバンを縮めたような外観をしている。内部には止まり木が設けられており、上部及び側面からこれに止まったピーちゃんを眺めることができる。

 彼がお喋りを始めたのと前後して、通販で頼んでおいたものだ。上手いこと帰宅に合わせて受け取ることができたので、本日のおでかけから早速利用しようと考えた。中年男が肩に文鳥を乗せて買い物をしていたら、変な目で見られそうだし。

「もしかして、文鳥は嫌い?」

「いえ、嫌いではありません」

 言葉少なに淡々と答えてみせるお隣さん。

 そのお腹がグゥと音をたてて鳴った。

 年頃の娘さんなら、羞恥から何かしら反応がありそうなものだ。しかし、彼女はこれといって気にした様子もなく、ピーちゃんのことを見つめている。お隣さんにとっては、何気ない日常のワンシーンである。

「ちょっと待っててね」

「あの、今日はもう寝るだけですから……」

 単身者世帯向けのアパートはこういうときに便利だ。玄関とキッチンが近い。身を乗り出せば、靴を履いたままでも触れられる位置に棚があり、そこには買い置きの菓子パン。これを手に取り、改めてお隣さんに向き直った。

「ちょうど賞味期限が今日までなんだよ」

「…………」

 言い訳は適当だ。

 ママさんの帰宅も近いこの時間、悠長に彼女と話をしている訳にはいかない。傍目には女に縁のなさそうな中年男が、未成年を餌付けしているように映ることだろう。というか、実際問題そのとおりである。だからこそ、距離感を大切にしたい。

 近所の人に見られてうわさになるとか、絶対に嫌だし。

「それじゃあ、僕らは用事があるから」

 会話を切り上げて、傍らに置かれた彼女のカバンの上にパンを載せる。

 感覚的には神社のさいせん箱に小銭を投げるようなものだ。

 巡り巡っていつか、自身にもいいことがありますように、と。

「……ありがとうございます」

 お隣さんの声に送られて、我々は自宅アパートを出発した。


    *


 足を運んだ先は当初の予定どおり、近所の総合スーパーだ。食料品や日用雑貨を始めとして、書籍や自転車、スポーツ用品、更には家電製品まで扱っている。いわゆる郊外型の大規模な販売店だ。

 その二階フロアで、今晩の取り引きのための仕入れを行う。

『これなど良さそうだな』

「了解だよ」

 キャリーバッグに入ったピーちゃんの指示に従い、買い物かごに次々と商品を入れていく。お喋りは小声で行っており、人とすれ違うときには口を閉じているので、他人に会話を聞かれることはないだろう。

 他所の人には文鳥ラブの愛鳥家として映るに違いない。

 お、フライパンだ。

「ピーちゃん、これとかどうだろう?」

『普通のなべとは違うのか?』

「めっちゃ焦げにくい」

『ありだな』

「それじゃあこれも追加で」

 手押しのカートにテフロン加工のフライパンを放り込む。一つでは物足りない気がしたので、二つ三つと入れておく。ついでにピーラーなんかも入れておこう。割と近代になってから登場したアイテムだったような気がする。

 そうしてほいほいと購入を決めたおかげで、お会計は結構な額になった。

 来月のクレカの支払いがちょっと怖い。

 未だ異世界の金銀財宝を円に換える方法は思いついていないのだ。

 手早く支払いを済ませた我々は、手押しカートに商品を満載したまま、人気も少ないトイレ脇の空間まで移動した。わざわざ自宅まで戻るのも面倒なので、このままあちらの世界へ移動してしまおうという算段だ。

『では、いくぞ』

「うん」

 周囲に監視カメラや人目が無いことを確認の上、ピーちゃんの魔法が発動。

 足元に魔法陣が浮かび上がると共に、周りの光景が一変する。

 移動先はつい昨晩にもお邪魔した商会のすぐ近く、大きな通りから少し脇に入った細い路地の中程だ。道幅も一メートルちょっとの場所とあって、行き来する人は皆無である。これ幸いと同所を脱して、我々は商会に向かった。

 日は高いところにあるので、休日でなければ店はやっているだろう。

 ピーちゃんの配置も、キャリーバッグの中から肩の上に復帰である。

 スーパーのカートを押しながらファンタジーな道を歩くのが楽しい。同じように荷を押している人たちは多いので、カートが原因で注目を受けることもない。目的地となる商会前まではすぐに移動することができた。

 出入り口に立っている警備の人とは顔見知りである。

 同店の副店長をお願いしたところ、快くうなずいて下さった。

 そんなこんなで通された先、先日もお邪魔した応接室にやってきた。

「お久しぶりです、ササキさん。再びお会いできて嬉しいです」

「こちらこそ早急なご対応をありがとうございます、マルクさん」

 我々にとっては一日ぶりだけれど、彼らにしてみれば一ヶ月ぶりくらいになる。お互いソファーに腰掛けて、リラックスしているように見えるけれど、間に設けられたローテーブルを挟んでは、それなりに温度差があるように感じられた。

 こちらほど気楽に構えてはいないようだ。

「早速ですが、商品を確認してもらってもいいですか?」

「ええ、是非お願いします」

 もつたいぶるのも申し訳ないので、ささっと本題に入る。

 砂糖とチョコレートは前回に引き続き持ち込んだ。これは副店長さんからのお願いである。量も増やして二十キロずつのご提供。カートの下段は砂糖とチョコで埋め尽くされている。追加で今回は飲食店用の香辛料もあれこれと。

 一方で上のカゴには新商品が目白押しだ。

 そのなかでもおすすめしたいのが電卓である。

 一つ数百円の安物ではあるが、ピーちゃん曰く、そろばん全盛だというこちらの世界においては、十分に価値があるのではないかと考えた次第である。ノーメンテナンスでも太陽電池で数年にわたり動作する点もおいしい。

 こちらの世界が十進数を採用していて本当によかった。

 ゼロの概念も普通に存在している。

 ただし、文字は別物なので別途読み替える必要がある。こちらの世界の数字はアラビア数字とは似ても似つかない代物だった。ただ、数の上では十個限りなので、そこまで難度は高くないだろう、というのがピーちゃんのお言葉である。

 現に彼は異世界街道を移動しながら、器用に電卓を扱っていた。

 ボタンを足やくちばしでポチポチとする文鳥の姿、めっちゃ可愛かった。

「これはどういった仕組みになっているのですか?」

「詳しく説明することはできますが、とても複雑な機構により動いています。原理を理解するだけでも数年、更に同じものをこちらで開発するとなると、最低でも数十年という期間、それに膨大な資金が必要になるかと思います」

「…………」

 手にした電卓を眺めて、副店長さんは押し黙ってしまった。

 この様子であれば、売値についても期待できそうである。ちなみに電卓は三つしか持ち込んでいない。そろばんの方が便利だし、そういうのはいらないから、みたいなことを言われたら困るので、仕入れは控えめにしておいた。

「いかがでしょうか?」

「……金貨二百枚では如何いかがでしょうか?」

 おっと、急激に値下がりした予感。

 前の取り引きでは金貨四百枚だったのに。

「以前よりお値段が下がっていませんか?」

「いえいえいえ、これ一つのお値段ですよ」

「なるほど」

 想像した以上に高値がついたぞ。

 ちらりと肩にとまったピーちゃんに視線を向ける。すると小さく頷く仕草が見て取れた。彼としても妥当な線ということだろう。こういうときに現地の方の協力があると非常に頼もしい。

「承知しました。では二百枚でお願いします」

「ちなみに数はどれほどお持ちでしょうか?」

「三つございますが……」

「今回お持ち下さった商品について、全て即金でお支払い致します。代わりにと言ってはなんですが、こちらの電卓という品について、お持ちの分を全て買い取らせて頂いてよろしいですか?」

「ええ、それはもちろんです」

 この反応を見るに、当面は電卓が稼ぎ頭になりそうである。

 他にも太陽電池で動く電子機器、後でネットで探しておこう。

「ちなみにこちら、在庫はどれほどございますか?」

「そうですね……」

 あまり沢山仕入れて、値崩れを起こすのはもったいない。ここは存分にもったいぶって、金貨二百枚のラインを維持したい。感覚的には大手商家やお貴族様の家に一家一台、くらいが妥当なのではなかろうか。

 そうなると月十数台くらいにとどめておくのが無難だろう。

「次のお取り引きに際しましては、十台ほどお持ちできるかと思います」

「おぉっ! そういうことであれば、是非そちらも買い取らせて下さい」

「承知しました。十台は確実に仕入れさせて頂きますね」

「ありがとうございます」

 副店長さん、満面の笑みである。

 電卓様々だ。

 食品関係よりも、こういった工業製品の方が、より容易に高値でさばけそうである。仕入れに掛かる費用も低く抑えられるし、かさらないから持ち込む手間も掛からない。今後のお取り引きの方針が決まった気がする。


    *


 最終的に今回の売買は、合計で大金貨十五枚になった。

 電卓が大きく稼いでくれたことに加えて、砂糖とチョコレートも安定して捌くことができた。一方でテフロン加工のフライパンやピーラーはいまいちだった。やはりお貴族様が欲しがるようなアイテム、というのが大切なのだろう。

 あとは上流階級の間だと、狩猟がメジャーな趣味として発展していると、副店長さんからアドバイスを頂戴した。趣味という単語はお金のなる木に他ならない。高価で高性能なアウトドアグッズなど、かなりウケが良いのではなかろうか。

 とかなんとか、マルクさんの反応がいいものだから、色々と考えてしまう。

 勤め先での商いも、これくらいイージーだったらよかったのに。

「ところで、飲食店の件ですが……」

 一通り取り引きを終えたことで、副店長さんから別の話題を振られた。

 それはこちらも気になっていたお話だ。

「いかがでしょうか?」

「店は大通りの一等地にご用意させて頂きました。あまり広い店舗ではないのですが、それなりに立地の良い場所となり、毎月の賃料が金貨二十枚ほど掛かります。それとは別に人件費や仕入れなどもろもろを合わせて、毎月三十枚ほどを見て頂けたらと」

「初期費用は足りましたでしょうか?」

 大通りの一等地とか、想像した以上にリッチな響きである。

 以前お伝えした、この辺り、という単語を、この町全体、として捉えて下さったのだろう。おかげでビックリしてしまった。既に用意をしてしまったとのことなので、やっぱり他所にして頂戴とは言えない。それもこれも丸投げした自分が悪い。

「ええ、そちらは問題ありません。うちの商品を利用して店を作りましたので、他所に任せるより幾分か安く仕上げることができました。向こう一ヶ月はお預かりした予算を利用して、運用させて頂きたいと思います」

 一連の物言いから察するに、少なからず手弁当でやっていることだろう。

 彼が口にしたワードから考えて、これを向こう一ヶ月分として見積もる。

 どこかでそれとなくお返ししなければ。

「ご迷惑をおかけしてすみません。色々とお手を回して下さり恐縮です」

「いえいえ、こちらも楽しみにしている仕事ですから」

「そのように仰ってもらえて助かります」

「早速ではありますが、店の様子を見に行かれますか?」

「あ、はい。是非お願いします」

 本当は会社の昼休み、一度様子を見に向かおうと考えていた。しかし、どうしてもピーちゃんと一緒に出社する手立てが見つからず、この場に至ってしまった。文鳥同伴での勤務は難易度が高かった。

 会社の近くにアパートを借りられればいいのだけれど、都心部は賃料がやたらと高いから、今のお給料ではそれも難しい。緩和する方法は幾らでもあるだろうに、それが行われない時点で、本国における土地利権の根の深さを感じる。

「それでは馬車を用意しましょう。少々お待ち下さい」

「ありがとうございます」

 わざわざ馬車を用意してくれるなんて、太っ腹だよ副店長さん。

 ところで、勝手に持ってきちゃったスーパーの手押しカート、どうしよう。こういうことをするヤツがいるから、スーパーの人たちはカートの扱いに対して、とても敏感になってしまうのだと思う。申し訳ないばかりだ。


    *


 馬車に揺られることしばらく、目的の店舗に到着した。

 どうやら既に内装の手入れは終わっているようで、通りから眺める光景は小奇麗なものだ。外資のお洒落しやれなコーヒーショップ、みたいな感じ。しかも総石造りでレトロな雰囲気がとても格好いい。

 副店長さんと共に店に入ると、ちゆうぼうにはフレンチさんの姿があった。

「あっ、だ、旦那っ!」

 彼はこちらに気付くと、駆け足でやってきた。

 お互いにホールの中程で顔合わせだ。

 彼の他にも店内には調理スタッフと思しき人たちの姿が見受けられる。こちらの世界でも料理人は白いエプロンを着用するのがルールのようで、厨房に立った方々は例外なく同じ制服を着用していた。

「長らく留守にしてしまいすみませんでした」

「いや、滅相もないです! こんな立派な店を任せて下さってっ……」

「オープンの日は決まっていますか?」

「それは旦那と相談して決めようかと、そちらの副店長さんとお話をしておりました。料理についてはこっちで勝手に決めさせてもらっているんですけど、それでも旦那には一度ご相談した方がいいかなと」

「なるほど」

 とはいえ、これといって要望はない。

 お願いしたいのは一つだけ。

「メニューに関しては自由にして下さって結構です。お客様に失礼がないよう考慮して頂けるのであれば、これといって制限を設ける必要はないかなと考えています。ただ、それ以外の部分で一つだけお願いがあります」

「な、なんでしょうか?」

「私が持ち込んだレシピを再現して欲しいのです」

「旦那は料理もされるんですか?」

「母国の郷土料理のようなものだと考えて下さい」

「おぉ、それは楽しみです!」

「こちらの店舗ですが、開店にはどれくらいかかりそうですか?」

「食材は商会の方々が面倒を見て下さっているんで、旦那が一言掛けてくれれば、翌々日には開けられると思います。ハーマン商会さんの力は凄いですよ。まさかじかに卸して頂けるとは夢のようです」

「なるほど」

 そういうことなら、次に来る時までにレシピを用意しておこう。

 もしも上手いこと再現してもらえたのなら、日本円を消費することなく、ピーちゃんに美味しい食事を楽しんでもらえる。神戸牛のシャトーブリアンは無理かも知れないけれど、それに似たような食材がこちらにあれば、近い味わいを得ることは可能だ。

「あっ、ですが自分は碌に字が読めなくて……」

「そこはどうにかするので安心して下さい」

「すみません」

 自身もこちらの世界の文字は読み書きができない。

 副店長さんにお願いして、人を貸して頂くべきだろう。

「それとこちらですが、先月分のお給料となります。お納め下さい」

 懐から金貨を二枚取り出して店長さんに渡す。

 こちらの世界では、特別な技術や技能を持たない人が朝から晩まで働いて稼ぐ金額が、銀貨一枚から二枚だという。飲食店の店長という立場を考えて、これを五倍。そして、自身が留守にしていた期間を三十日だとすると、銀貨三百枚。色を付けて金貨五枚。

 恐らく無難な額ではなかろうか。

 ただ、世界間貿易の利益と比較すると、とても小さく映る。これがなんとも申し訳ない気分である。異世界一年生ということも手伝い、どうしても現地通貨の感覚をつかめていない。このあたりは追々解決していこう。

「え、そ、そんなにもらっちゃっていいんですか?」

「代わりと言ってはなんですが、今後もこちらのお店については、丸っとお任せできたらなと考えています。その条件で差し支えなければ、受け取ってはもらえませんか? 来月からも同じ額をお約束しますので」

「本当にいいんですか? 自分なんかが……」

「是非お願いします」

「……旦那」

 どうやら以前のお店では、あまり多くはもらっていなかったようだ。丁稚からのたたげという話だし、軽く見られていたのかも知れない。個人営業の飲食店とか、なんだかんだでブラック経営が常だろう。

「一生懸命、頑張らせてもらいます!」

「……ありがとうございます」

 頭を下げるフレンチさんの姿が、社畜業にいそしむ誰かの姿に重なる。

 ごとではない。

 労働ってなんだろう。

 ピーちゃんに尋ねたら、どんなお返事が戻ってくるだろうか。


    *


 飲食店での確認を終えた後は、ピーちゃんと二人で町の外に出た。

 魔法の練習をするためだ。

 町からほど近い森林地帯、その手前までピーちゃんの瞬間移動の魔法で移動した。町の周りに広がっている草原地帯はかなりの規模があるそうだけれど、その隅まで場所を移したことになる。当然ながら人気も皆無のかいわいだ。

 そこで呪文を繰り返し詠唱して、魔法の習得を目指す。

 しばらく繰り返していると、ピーちゃんから声を掛けられた。

『町中に飲食店など構えて、貴様は何をするつもりだ?』

「え?」

『当初の予定にはなかったように思えるのだが』

「ピーちゃんがご飯を食べるときに便利かと思って」

『……我の為だったのか』

「こっちの世界で道楽にふける為の第一歩だね。もちろん自分も利用させてもらおうかなとは思っているけどさ。あぁ、それともう一つ切実な理由があって、色々と商品を買い付けているから、あっちの世界で金銭的に厳しいんだよね」

『なるほど』

「食事はこっちで食べて、あちらの食費を節約したい」

『ふむ……』

 一つ一つは大した額ではないけれど、数が増えるとそれなりだ。砂糖やチョコレートだってキロ単位で買い込めば、意外といいお値段になってくる。カードの上限も割とカツカツ。そうなると削れるところは削らなければならない。

 二つの世界で時間の流れが違う点も、これに拍車を掛けている。

 ただし、時間の扱いについては、決して悪いことばかりではない。

 あちらの一時間がこちらの一日という時差のおかげで、社畜はこうしてゆっくりとした時間を過ごすことができている。フレンチさんの食堂が軌道に乗れば、ピーちゃん念願のスローライフにも一歩近づく。

「あ、水が出た」

 そうこうしていると、正面に突き出した手の平の先から蛇口をひねったように水。

 現在試している魔法は、何もないところから水を出す魔法だ。

 その呪文を繰り返すこと数十回、ついに発動に成功した。

 飲用も可能とのお話だったので、優先してゲットしようと考えていた。まるで蛇口が壊れた水道のように、手の平の正面に浮かんだ魔法陣から、だばだばと水があふれ始める。結構な勢いではなかろうか。

 放っておくと靴が浸水しそうなので、慌てて止める。

『なかなかテンポよく魔法を覚えているな』

「おかげさまで」

 本来なら魔法を使うと、魔力とやらを消費するため、初心者が一日に何十回と使うことは難しいのだそうだ。ただし、その一点に関して自分は、ピーちゃんから分け与えられた魔力が膨大である為、これといって苦労することなく練習を重ねている。

 ゆえに進捗も大変よろしい。

 僅か二日でライター魔法に続いて、二つ目の魔法をゲットである。

 しかし、本命である瞬間移動の魔法は未だにうんともすんとも言わない。ピーちゃんが語った通り、初心者向けの魔法とは一線を画した難易度にあるようだ。だからこそ、こうして異世界くんだりまで移動しての練習である。

「ピーちゃん、次は瞬間移動のやつをお願いしたいんだけど」

『あの魔法に何かこだわりがあるのか?』

「出社が楽になるじゃないの」

『そんなに会社とやらに行きたいのか?』

「いや、どちらかって言うと逆だよ」

『行きたくないのか?』

「行きたくないと言えば行きたくないけれど、それ以上に人がいっぱい乗った電車に揺られたくないんだよね。ピーちゃんも経験すれば、絶対に分かってくれると思うんだけれど。ああでも、今の姿のまま乗ったら潰れちゃうかも……」

『……まあ、構わないが』

 以降は延々と瞬間移動の魔法の練習を行った。

 ピーちゃんにお願いして、繰り返し同魔法を体験しつつ、その経験をフィードバックする形でのトレーニング。しかし、日が暮れるまで頑張ってはみたものの、これといって成果を上げることはできなかった。

 呪文こそバッチリ覚えたけれど、これは先が長そうである。


    *


 同日は自宅アパートに戻るのではなく、現地で一泊することにした。

 宿泊先は主に貴族や豪商が利用するのだという、かなり高級なお宿である。事前に副店長さんに話を通しておいたので、これといって苦労することなくチェックインすることができた。一泊二日、三食付きで金貨一枚だという。

『悪くない部屋だ』

「こりゃ凄いね……」

 居室は百平米以上あるのではなかろうか。

 主寝室の他にリビングスペースが設けられており、更にトイレやバスルームも見受けられた。細かな差異は確認できるが、元いた世界のホテルと大差ない作りである。ベッドやソファーセットなど、家具も値の張りそうな品が揃えられている。

 同じような部屋を都内で探したら、一泊二桁万円からのお宿だ。

 更にこちらのお部屋は、一部屋につき一人、専属のメイドさんが付いて、宿泊客のお世話をしてくれるらしい。部屋を案内される際に自己紹介を受けたけれど、十代も中頃と思しき、とても可愛らしい女の子だった。

 今は居室の出入り口にほど近い専用の待機スペースにいらっしゃる。

 彼女が普通のコンパニオンなのか、それともピンクコンパニオンなのかは確認していない。ピーちゃんが一緒だから、その手のイベントを発生させることに抵抗を覚えた。何より下手に手を出して、性病をもらっては大変だ。

 数年前、上司に連れられて足を運んだ風俗でクラミジアをゲット。その治療を経験して以来、そういった行いはもうお腹いっぱいである。あんな惨めで痛い思いをするくらいだったら、らいえいごう、右手が恋人で構わない。

 後に調べた統計によると、性交経験者のうち女子高生の八人に一人、十八歳から十九歳の女性の十人に三人は、クラミジアに感染しているのだとか。しかも無自覚の場合が多いとのこと。

 ちなみに男子高校生は十六人に一人らしい。

「ピーちゃん、僕はずっとここで生活したい」

『ならすればいい。我も存分に付き合おう』

「けど、仕入れの為には向こうでお金を稼がないとならない」

『……出世は見込めないのか?』

「当面は無理かな。ここ五年で一円も上がってないし……」

『そうか……』

 まさかペットの文鳥に、出世をせがまれる日が来るとは思わなかった。

 他所様では数ヶ月から一年に一度、昇進の査定があるのだとか、楽しげな話を耳にすること度々。しかし、場末の中小商社に過ぎない弊社は、昇進の機会なんてめつにない。給料が上がるのは経営者の身内だけだ。

 来月に退職、独立するという同僚の言葉が、今はこれ以上なく正しいものとして響く。もしも叶うことなら、自分も彼に倣って転職するべきだろう。ただ、自身のスキルセットを考慮すると、転職先として考えられるのは、今より下方水準のお仕事ばかりである。

 彼は独立起業に誘ってくれたけれど、自分にはその思いに応えられる力なんてない。自身のことは自身が一番良く理解している。これで機械設計とか、プログラミングとか、手に職があれば話は違ったのだろうけれど。

「どうにかしてお金を稼ぐ方法はないかな?」

 フカフカのソファーに腰掛けて、あれやこれやと頭を悩ませる。

 正面のローテーブルには、肩から降りたピーちゃんの姿が。

『たとえばチャームという魔法がある。対象を魅了して服従させる魔法だ。ただし、一度のチャームが有効な期間は長くても数ヶ月ほどで、その間の記憶は魅了が解けた後も残る。これで問題を解決することは可能か?』

「やってやれないことはないと思う。ただし、その場合だと僕らの代わりに、他の誰かが身代わりになる必要がある。もしくは僕らに関わった人間を未来永劫、片っ端から魅了し続けることになるのかな」

 前者は他人の名義で金銀財宝を売買して、売上金だけもらう作戦である。

 あるいは店先の帳簿をすか。

 いずれにせよ、名義をお借りした人物や質屋の店員、更にはそうして得た金銭を利用して仕入れをする際に協力を願った誰かが、つまりチャームを受けた対象の方々が、後々大変なことになるだろう。

 一連の非人道的な行いを許容できるのであれば、かなり優秀な作戦なのではなかろうか。逮捕されて罪が確定したあとなら、チャームが解けても問題はない。証拠も揃っているだろうし、えんざいを回避することは不可能である。

 要はチンピラがオレオレ詐欺で使う飛ばし携帯と同じだ。

 対して後者については、そうして生まれたチャームの被害者の救済を組み入れたプラン。ただし、こっちはチャームの対象が時間経過と共に芋づる式に増えていくので、あまり現実的ではないような気がする。

「後者の場合だと、数ヶ月っていう期間がネックになってくるかな。最終的には身の回りが魅了で誤魔化した相手だらけになって、こっちの首が回らなくなるんじゃない? そんな気がしてならないよ。場合によっては魔法の存在がバレるかも」

『貴様の言う通り、チャームの対象を増やしすぎて自爆する者はいる』

「やっぱりそうなんだ?」

『それでは代わりに、役人を直接相手にすればどうだ?』

「端的に言うと、人は騙せても、お金の流れをなかったことにはできないんだ。嘘の記録も記録として残るから。そして、帳簿の上で怪しい部分があったら、そこは怪しいなりに勘定されて、最終的に反則金という形で誰かに跳ね返ってくるんだよ」

『結果としていやおうなしにチャームの対象が増えるということか』

「そうなると思う」

 魔法が途切れた瞬間に、追徴課税や刑事罰が迫ってくるような作戦は取りたくない。いくら異世界に居場所が作れそうだとは言え、自身のホームは現代日本に他ならない。こちらの世界の立場も、あちらの世界での社会生活あってのたまものだ。

 なるべく穏便に人知れず、それでいて大金を手に入れたいのである。

 ぜいたくな話ではあるけれど。

「それでも仕入れについては、ある程度解決したよ」

『そうなのか?』

「ピーちゃんの瞬間移動で他所の国に行って、現地で現金を利用して買い物をすれば、たぶん誤魔化せると思う。この国は邦人の出入りが厳密に管理されているから、商品を異世界まで運び込んでしまえば、きっと足が付くことはないよ」

『国外であれば、金の流れを無かったことにできると?』

「別の問題が出てくる可能性もあるから、変装するなり何なり、色々と手間は掛かるかも知れない。あとは外貨への両替の手間とか。だけど少なくとも、税務署に身辺をあさられて困るようなことには、きっとならないと思う」

『ならば貴金属の売買も海外で行えばいい』

 問題があるとすれば、自分が英語を話せないという点か。

 すぐさまピーちゃんから、痛いところを突かれてしまった。

「たしかにそれも不可能ではないと思うよ」

『本当か?』

「けれど、困ったことに僕は外国語が話せないんだ。現地のスーパーで商品を買うくらいならまだしも、出自の怪しい金銀財宝を捌くようなコネや手腕はないんだよね。っていうか、十中八九、現地の警察に捕まるんじゃないかな」

『……そうか』

 信頼性の低い通貨から始めて、遠回しに外貨を交換していく、みたいなことができれば一番いいのだけれど、それをやるにも語学力が必要だと思う。そもそも、そういった行いを仕組み化して安定的に回せたら、それだけで商売になるんじゃなかろうか。

 いや、そうなると日本の税務署より、もっと怖いのに追いかけられそうだけれど。

「もうちょっと考える時間をもらってもいいかな?」

『我も貴様の世界の仕組みを学ぶとしよう』

「ありがとう、とても頼もしいよ」

 考えれば考えるほど、あちらの世界のお金に関する仕組みは良く作られていると思い知らされる。

 そんなこんなで同日は過ぎていった。


    *


 異世界で数日ほど魔法の練習をしてから、我々は自宅アパートに戻った。

 まとまった練習時間を取ることができたので、幾つか魔法を覚えることができた。大半はピーちゃん曰く初心者向け。ライター魔法、水道魔法の他に、氷柱を飛ばす魔法、地面を盛り上げる魔法、火球を撃ち出す魔法、といったあんばいだ。

 それでも本来は数ヶ月から数年を掛けて学ぶものだと聞いた。

 だからだろうか、少しだけ気分がいい。

 ただし、出社魔法については未だに目処が立っていない。

 早く手に入れたいものである。

 そんなこんなで翌日もまたお仕事だ。

 ピーちゃんのお世話になることで満員電車を回避の上、社屋近所の牛丼チェーンで朝定を食べてからの出社は、それはもうすがすがしい体験であった。前日まで異世界で数連休の体であったことも大きい。

「先輩、なにかいいことがありました?」

 自席で書類仕事をしていると、隣の同僚から声を掛けられた。

 どうやら顔に出ていたようだ。

「いいや? そんなことはないけど」

「それにしては機嫌が良さそうに見えたもので」

「ベッドを買い替えたから、よく眠れたのかも知れない」

「なるほど、それはいいことですね」

 自宅の狭いパイプベッドと比較して、異世界のお宿で利用したベッドは素晴らしいものであった。両手両足を伸ばしても、縁まで届かない程に大きいのだ。しかもフカフカ。更にシーツは専属のメイドさんが毎日取り替えてくれていた。

 そのため昨晩は自宅で床に就くのに際して、自室を窮屈だと感じてしまった。段々と身体が贅沢な暮らしに慣れてきている。今後は食事以外に睡眠もあちらで取ろうか、なんて考え始めている自分がいた。

「そう言えば来週の飲み会、先輩って参加します?」

「あ、いや、ちょっと財布が厳しいからなぁ……」

「先輩が参加するようなら、自分も参加しようと思うんですけど」

「申し訳ないんだけれど、確約はできない感じで」

「そうですか……」

 ハーマン商会さんへの仕入れで、我が家の家計はカツカツである。とてもではないけれど、会社の飲み会に参加している余裕はない。そろそろ何かしら、こちらの世界における金策を確立しないことには、首が回らなくなりそうだ。

「おおい、佐々木ぃ。この間の学校の件なんだがー」

「あー、はい。すぐに参りますので」

 おっと、課長がお呼びだ。

 同僚に会釈をして、自席から立つ。

 今日も一日、ほどほどに頑張っていこうと思う。


    *


 終業後は例によって自宅近所の総合スーパーまで仕入れに向かう。

 こちらの世界での一日は、あちらの世界での数週間に相当する。たった一度の仕入れでも仕損じる訳にはいかない。既に金貨千枚以上の余剰金があるけれど、副店長さんとの円満な関係を思えば、定期的な仕入れは必要不可欠である。

 そして本日も、これにピーちゃんと共に向かう予定だ。

 以前と同様、彼にはお出かけ用のキャリーバッグに収まってもらった。居心地を本人に確認したところ、可もなく不可もなく、とのこと。彼との外出は当面、こちらを利用しようと考えている。

 そうして自宅の玄関を出た直後のことである。

「こんばんは、おじさん」

 聞き慣れた声がすぐ近くから届けられた。

 声の聞こえてきた方に意識を向ける。

 するとそこには、体育座りで玄関ドアに背を預けたお隣さん。

「あれ、まだ帰ってないの?」

 自身が帰宅した際には、既に部屋の明かりが灯っていた。てっきりママさんも戻っているものだとばかり考えていた。だからこそこうして、彼女が玄関先で一人座っている事実に違和感を覚えた。

 ただ、それも続く言葉を耳にしては納得だ。

「男を連れ込んでるみたいです」

「あぁ……」

 最低限の教育意識を持っているのか、それともただ単純に邪魔だと感じているのか。理由は定かではないけれど、母親が自宅で男と遊んでいるとき、彼女はこうして部屋の外に追い出される。そういうルールのようだった。

 これまでも幾度となく目の当たりにしてきた光景である。

「ところで、ブラックのコーヒーって飲める?」

「……飲めます」

 ふと思い出してズボンのポケットから財布を取り出す。

 レシートの合間に埋もれていたのは、近所のコンビニで販売されている缶コーヒーの無料券。以前、七百円以上をお買い上げのお客様に一回サービスです、とか言われて引いたクジが当たったのである。こういうときのために取っておいたものだ。

 商品が一本無料、と記載された面を表にして差し出す。

 使用期限は昨晩にも確認しているので、問題ないはずである。

「ここならイートインがあるから」

「…………」

 どうやらこの手のクジは初めて見るようだ。

 お隣さんは紙面に注目している。

 過去には何度か現金や、それに類するものを渡そうとしたことがあった。その方が融通も利くし、個人的にも彼女と接触する回数が少なくて済むので気が楽だから。飲食物の受け渡しは後々になって、お腹を壊したりする場合も考えられる。

 けれど、彼女はそれをかたくなに受け取ろうとはしなかった。なにかしら自身の中で、一定のルールを設けているのだろう。こちらとしては面倒に感じるのだけれど、その自尊心を無下にすることはできなかった。

 そこで、こうした小ネタが役に立つ。

「いいんですか?」

「最近、胃の調子が悪くてブラックは避けてるんだよね」

「そうなんですか?」

「捨てるのは勿体無いし、もらってくれる?」

「…………」

 彼女は少し悩んでから、申し訳なさそうにこれを受け取った。

 ママさんのハッスルタイムが終わるまでの暇つぶしにはなるだろう。


    *


 お隣さんと別れた後は、当初の予定通り総合スーパーに向かった。

 カートをガラガラと押しながら、店内を物色である。

 キャリーバッグに収まったピーちゃんは、昨晩と同様にカートの上だ。

『今度は何を仕入れるのだ?』

「お貴族様の間では狩猟が流行っていると聞いたんだけど」

『うむ、こちらの世界でいうところのゴルフのようなものだ』

「ピーちゃん、結構頑張って勉強してくれているんだね」

『インターネットとやらを使わせてもらっているからな』

 こうして語ってみせた通り、彼には自宅のノートパソコンを開放した。当然、ネットにも繋がっている。小柄な彼ではあるけれど、魔法を使うことでゴーレムなる魔法生物を使役、華麗にキーボードやマウスを操作していた。

 某ネット辞書を教えてあげたので、きっと日がな一日見ていたのだろう。

 あっちの世界とこっちの世界を行き来するような魔法はとても大変らしく、一人では使えない一方、ゴーレムを作る魔法は比較的容易らしい。なので社畜のサポートなしに単独で使うことができるとの話であった。

 ちなみにゴーレムの材料はアパートの敷地の土だという。ピーちゃんの言葉に従い確認してみると、たしかにブロック塀の脇がバケツ二杯分ほど掘られていた。帰宅した直後、得体の知れない駆動物と自室で遭遇して驚いたのは言うまでもない。

「狩猟でも使えるアウトドアグッズを仕入れようと思うんだけど」

『なかなか良い着眼点だ。引き合いは強いだろう』

 やった、ピーちゃんに褒められた。

 これなら安心して仕入れることができそうだ。

 副店長さんからは継続して砂糖とチョコレートをお願いされた。砂糖は比較的安価なので問題ないけれど、チョコレートは小売で買うと意外と高い。なので当面はチョコレートを少量に抑えて、砂糖を増やすことで対応しようと思う。

 後は電卓を筆頭として、一定供給を約束した品々か。

「これなんてどうだろう?」

『なんだそれは』

「望遠鏡を小さくしたやつ」

『ほう、それは高く売れそうだ』

 どうやらあちらの世界にも、望遠鏡やそれに類するものは存在しているみたいだ。

 ピーちゃんからの評価は上々、早速カゴに突っ込もう。

 そう高い品ではないので、一つと言わず二つ三つと放り込む。もしも評判が良かったら、今後はネットでより高性能なものを購入してもいいかも知れない。ただし、その為にはこちらの世界における金策が必須となる。

『貴様よ』

「なに?」

『そこのやたらと賑やかな金物は何だ?』

「え? あぁ、じつとくナイフだね」

『十徳ナイフ?』

「ナイフにハサミや毛抜き、栓抜きなんかが色々くっついたヤツ」

『小さい割に色々と入っているんだな』

「せっかくだしこれも持っていこう」

 ちょっとお値段が張るけれど、見栄えがするので幾つか買っていこうと思う。実際には十本以上あれこれと付いているみたいだけれど、便宜上は十徳ナイフで問題ないと思う。凄いヤツだと五十、六十と生えているのだとか。狂気である。

『それと自宅のケージに木製の止まり木が欲しい。爪が伸びてきた』

「今使ってるプラスチックのヤツじゃ駄目なの?」

『うむ、駄目らしい。インターネットで調べたのだが、止まり木がプラスチックで作られたものだと、文鳥は爪を上手く研ぐことができないらしい。木製の止まり木であれば、そうした弊害を解決できるそうだ』

「それは知らなかったよ。ごめんね? 安物ばかり使ってて」

『いいや、我も初めて知った。気にするな』

「向こうにペットコーナーがあるから、そこで見てみよう」

『うむ』

 自発的に健康状態を管理、報告してくれるペット嬉しい。

 なんて賢いんだろう。

 そんな感じで昨晩と同様、あれこれと雑多にカートを埋めていった。

 当然ながら昨日に引き続き、本日も結構な出費となった。この調子で毎日買い物をしていたら、貯金などあっという間に無くなってしまうのではなかろうか。


    *


 仕入れを終えて自宅に戻ったのなら、異世界に向けて出発である。

 ピーちゃんの魔法のお世話になり世界間を移動した。

 訪れた先は平民が日常的に寝泊まりする、ごく一般的なお宿の一室だ。向こう数ヶ月分の滞在費を支払い、世界間の移動の為の拠点として押さえている。これにより移動の直後を誰かに目撃されて、変な勘ぐりを受ける心配もなくなった。

 商品の運び込みも幾度かに分けて行うことができるので、砂糖も十キロと言わず、二十キロ、三十キロと持ち込むことができる。原価が安い割に高く売れるので、当面の主力商品になりそうである。

 そして、世界を移った我々は、その足で副店長さんの下を訪れた。

 ハーマン商会さんの応接室で商談だ。

「ササキさん、これは貴族を相手に売れますよ」

「それはよかった」

「この町を治めているミュラー子爵も、狩猟が趣味なのです」

 買い込んだ品々をテーブルに並べてのやり取りとなる。

 どうやらこちらの思惑は大成功の予感だ。

「なるほど、それはいいことを聞きました」

「双眼鏡や十徳ナイフと言ったでしょうか? これらは狩猟の他に、戦でも十分に利用できると思います。差し支えなければ、我々の商会でも同じものを作って販売したいと考えているのですが、構いませんでしょうか?」

「ええ、それはもちろんです」

 コピー商品については、もとから規制するつもりがない。ピーちゃんに聞いた話では、特許的な仕組みは存在していないとのことで、そもそも規制することが不可能なのだ。どういてもコピーされる運命にある。

 例外があるとすれば、お国のお墨付きや暗黙の独占だという。

 いずれも組織力が必要な仕組みとのことで、これは諦めた。

 特許というけんろうな枠組みがあっても、世の中にコピー商品が溢れていた現代社会を思えば、こちらの世界の文化文明でそれを望むのは酷である。だからこそ、コピーされにくい商品を選んで持ち込んでいる、という背景もある。

 また、仮にコピーされたとしても、こちらの世界では品質が限られてくる。そこで他所様を圧倒する高品質且つ高付加価値な品物を提供して、商品の価格を釣り上げようという、いわゆるブランド戦略的な方法が良いのではないかと思う。

「そうなるとこちら、次の仕入れは不要になりますかね?」

「い、いえいえ、滅相もない!」

「そうですか?」

「模倣品については利益の二割、いや、三割はお約束します」

「ありがとうございます」

 それでも素直に頷くのは勿体無いのでゴネてみた。すると思ったよりもいい収入になりそうである。可能であれば売上ベースでお話をしたかったけれど、加工品の価値が高い世の中がゆえ、製造原価が不明な状況で売上を基準にすることは難しいだろう。

 相手にはこちらを騙すような意図もなさそうなので、この場は素直に頷いておくことにした。ピーちゃんもこれといって反応を見せていないし、きっと妥当なお話なのではなかろうか。

「それでは今回のお取り引きですが、先程お伝えした額をまとめて金貨で二千五百十枚、いえ、ここは一つ勉強させて頂きまして、二千六百枚ではいかがでしょうか? 即金でお支払いさせて頂きます」

「是非お願いいたします」

 以前より更に買取総額が上がった。

 アウトドアグッズのウケが良かった為だろう。砂糖を五十キロほど運び込んだのも効いているに違いない。これにより前回の売上と合わせて、四千枚を超える金貨が懐に転がり込んできた計算になる。

 前に宿泊したお宿が三食付いて一泊金貨一枚であるから、仮に一年が三百六十五日だとすると、向こう十年間は働かなくても食っちゃ寝できることになる。こうして言葉にしてみると、とても魅力的に感じられるぞ。

「ところで一つ、ササキさんにお願いしたいことが」

「なんでしょうか?」

「こちらの町を治めるミュラー子爵から、ことづてを預かっておりまして」

「言伝、ですか?」

 おっと、遂にお貴族様からお声掛けの予感。

 気になるお名前はミュラー氏。

 それとなくピーちゃんの様子をうかがうと、小さくコクリと頷く姿が見て取れた。意図した相手で間違いないようだ。個人的には副店長さんとの取り引きだけで十分だと考えているのだけれど、彼の意向となれば従うばかり。

 お貴族様と仲良くなること自体にもメリットがあるのだろう。

「一度会ってお話をされたいとのことでして」

「なるほど、そういうことであれば是非お願いいたします」

「おぉ、受けて頂けますか」

 当初の予定どおり、町のお偉いさんと面会する運びとなった。


    *


 世界を渡った初日はお宿に一泊。我々は翌日、ミュラー子爵のお城にお邪魔した。

 移動に際してはわざわざ宿泊先まで、お迎えの馬車がやってきた。どうやら副店長さんから子爵様に対して事前に連絡が入ったようで、こちらの宿泊しているお宿の名前も伝わっていたみたいだ。そのため道に迷うこともなかった。

 そんなこんなで通された先、お城の謁見の間でのこと。

 上座に腰掛けた子爵の前で、自分と副店長さんは横に並んでいる。

 膝を床について、頭を下げている。

 室内には他に大勢、貴族と思しき人たちが居合わせており、部屋の壁に沿って立ち並んでいた。その様子はファンタジーゲームに見られる王座の間さながら。子爵というと貴族としては下っ端なイメージがあったけれど、決してそんなことはなかった。

 また、傍観者然とした貴族様たちとは別に、部屋の随所には剣を手にした騎士と思しき人たちが控えている。これがまた恐ろしい形相で我々をにらみつけているから堪らない。くしゃみ一つでこちらに向かい駆け出してきそうな雰囲気だ。

 子爵様でこの様子だと、本物の王様はどうなってしまうのだろうか。

 考えただけで恐ろしい。

「その方ら、この度はよくぞ参った」

 ミュラー子爵とのコミュニケーションは副店長さんにご協力を願った。何故ならば自分はこちらの世界の儀礼全般をまるで理解していないから。事前に受けた説明に従い、頭を下げているのが精々である。

おもてをあげよ」

「ははっ!」

 短く返事をすると共に、副店長さんが顔を上げた。

 これに倣って自身も頭を元の位置に戻す。

「その者が話にあったササキとやらか?」

「はい、そのとおりでございます」

 副店長さんの声が部屋に響く。

 これに応じて部屋に居合わせた皆々の注目が、自身に集まってくるのを感じた。まるで動物園のパンダにでもなった気分だ。肌の色だとか髪の色だとか、見た目が色々と違っている点も、興味を引くのに拍車を掛けているのではなかろうか。

「なんでも随分と精緻な品を扱っているそうだな」

「本日も幾つかお持ちしました」

「なるほど、それは是非とも見てみたいものだ」

 ミュラー子爵が声を上げると、部屋の隅に控えていた騎士の人たちが動いた。

 二人一組で現れた彼らの間には、金で縁取られた立派な台座が持ち上げられている。これをえっさほいさと運んで、子爵が腰掛ける椅子の前に配置した。その上には事前に我々からお渡しした品々が並べられている。

「これはどういったものだ?」

「はい、そちらは……」

 台座に置かれていた品の中から、子爵が十徳ナイフを手に取る。

 以降、副店長さんによって商品の説明が行われる運びとなった。

 ちなみにそれらは一度、ハーマン商会さんに買い取ってもらった商品となる。どこの馬の骨ともしれない商人が持ち込んだものを、一直線にこの場へ運び込むことは不可能なのだそうな。そのように副店長さんから説明を受けた。

 つまり保証人のようなものだろうか。万が一にもこの場で何かあれば、彼の首が物理的に飛ぶのだという。恐ろしい話ではなかろうか。こうなってくると、今後は持ち込む品も今まで以上に吟味する必要がありそうだ。

 冗談でもシュールストレミングなど持ち込んではいけない。

 副店長さんによる説明が一通り終わったところで、子爵から声が掛かった。

「ササキと言ったか、少し尋ねたいことがある」

「はい、なんでございましょうか?」

 同所に足を踏み入れてから、初めて訪れた声を上げる機会。

 当然ながら、めっちゃ緊張しているよ。

「その方は他所の大陸から来たと聞いているがまことか?」

「その通りでございます」

 嘘は言っていない、きっとセーフである。

 電卓の数字なども、そちらの文化だと説明していた。

「では尋ねたいが、他所の大陸ではこういったものが、一般的に市場で流通しているのだろうか? それともこの国で言うところの貴族のように、一部の限られた者たちだけが扱える、特別な品としての地位にあるのだろうか?」

 ミュラー子爵の危惧は尤もなものだ。他所の大陸とこちらの大陸がどれほど離れているのか、そもそも行き来が可能なのか、自分にはさっぱり分からない。ただ、彼が外界からの侵略者を恐れている点は容易に理解できた。

「ごく一部の限られた者だけが扱える品にございます」

「本当か? ならば自然とその方は、それなりに高い身分の人間、ということになるのだろうが、そこのところはどうなのだ。他所の大陸の人間とはいえ、貴族や貴族に等しい身分の人間を一方的に扱うことは、私もどうかと考える」

 子爵の言葉を耳にして、ビクリと隣の副店長さんが震えた。

 予期せぬ設定を受けて驚いたようだ。

 あまり偉い身分を偽ると、実際に隣の大陸の人々と出会う機会が訪れた時、嘘がバレて大変なことになりそうだ。日本でも身分の詐称は様々な罰則が存在する。そう考えると適当な地位で落ち着けておくべきだろう。

「私は職人でございます。船で航海に出ておりましたところ、これが難破してしまい、こちらの大陸に流れ着きました。こうしてお持ちした品々は、私が以前から持っていたものや、こちらで新しく作り上げたものとなります」

「なるほど、その方は職人なのか」

 それならお前、どこで物を作っているんだよ、みたいな突っ込みがくるかもと、内心ヒヤヒヤしながらの受け答え。会社の上得意様が相手でも、ここまで緊張することはなかった。主に子爵の後ろで控えている騎士の人たちが怖い。だって剣とか持ってるし。

「当面はこの町で活動する予定なのか?」

「はい、そのようにさせて頂けたら幸いにございます」

 下手に他所の町に移って、悪政の犠牲にはなりたくない。そういう町も割と多いのだそうな。ここの領主さん、つまり目の前のミュラー子爵は、それなりの人格者とのことでピーちゃんから伺っている。当面はこちらでお世話になりたい。

「商品はハーマン商会に卸す予定か?」

「そのように考えております」

「ならば今後は、ハーマン商会へ卸すと共に私の下にも献上せよ。価格は商会が引き取った額より少し色を付ける。その方が持ち込んだ品々は、使い方如何によっては、我々の生活に大きな影響を与えかねない」

「承知いたしました」

「その方には本日より、屋敷への立ち入りを許可する。この町で生活していて気になること、我が領の為になることがあれば、商品の持ち込みと合わせて随時進言するといい。その方の名前を家の者にも周知するとしよう」

「ありがたき幸せにございます」

 そんなこんなでミュラー子爵とのやり取りは過ぎていった。

 想像した以上に好感触。

 ピーちゃんと話し合った通り、無事にお貴族様との繋がりをゲットである。ただし、部屋に居合わせた貴族の方々からは、なぜあのような平民がうんぬん、嫉妬じみた声が聞こえてきたので、お屋敷に出入りする際は十分注意しようと思う。

 また、これは後で副店長さんから聞いた話だが、同じ子爵位でも人によって上下があるらしい。大課長だの担当部長だの、大きな企業の人事のようである。きっとこちらの世界でも、上は後ろが詰まっているのだろう。

 そして、この町を治める子爵様は、同じ子爵でも比較的上の方に位置するのだとか。


    *


 謁見を終えた我々は、その足で町の飲食店街に向かった。

 前回、フレンチさんにお願いした店舗を確認する為である。副店長さんはお城でやることがあるとのことで、自分とピーちゃんだけでの訪問となった。きっと今回のミュラー子爵のお言葉を受けて、色々と事務処理が発生したことだろう。

 帰路は往路と同様に、お城から馬車を出してもらえた。そう距離が離れている訳ではないけれど、未だに町の地理が怪しい身の上であるから、素直にご厚意に甘えることにした。行き先は副店長さんが御者に伝えて下さったので、丸っとお任せである。

 そんなこんなで目的地となるお店に到着した。

 御者の人にお礼を言って馬車を降りる。

 本日が二度目の来訪だ。

 フレンチさんには何もかも丸投げで申し訳ないと思いつつも、こちらの世界でまで働きたくはないな、とか考えてしまっていたりする。せめてお給料は十分に支払おうと、気分を改めての来店だ。

 店に入ると店内には、多くのお客さんの姿が窺えた。

 三割くらいが貴族と思しき身なりの方々である。マントを羽織っていたり、高そうなアクセサリーで身を飾っている。残りは平民のようだが、身なりの良い人が多い。比較的アッパーな方々を客層としているようだ。

「あ、旦那!」

 店内を歩いてキッチンに向かう。

 すると見知った相手と出会った。

「どうも、お久しぶりです」

 包丁を握っていたフレンチさんが、こちらの姿に気づき駆け寄ってきた。

 周囲には彼が雇ったと思しきスタッフが見受けられる。見慣れない異国人の姿を確認して、一同は手を止めると共にお辞儀をして下さった。どうやら自身の存在は、職場の皆さんにも既に伝えられているみたいだ。

 そのまま作業を進めて欲しい旨、やんわりと伝えつつ、フレンチさんに向き直る。

「放置してしまってすみません。具合はどうでしょうか?」

「おかげさまで店は順調です。ハーマン商会の副店長さんのご助力もあって、初月から黒字で回すことができているんです。この時間でも見ての通り席が埋まっていて、書き入れ時は当分先まで予約が入っています」

「なんとまあ、それは凄いですね」

「旦那が持ってきて下さったチョコレートや砂糖を利用して、甘いお菓子を作っているんですが、これが目玉になって人が集まってきている感じです。もちろん、普通の料理も美味しいと言ってもらっています」

 繁盛の理由は砂糖とチョコレートのようだ。

 やはり一本、広告の柱となる商品があると飲食店は強いみたいだ。店としては少し狭いけれど、立地条件が良い点も多分に影響していることだろう。しかし、まさか予約制になるほどとは思わなかった。

「以前にお話ししたレシピをお持ちしました」

「本当ですか? ありがとうございます!」

 コピー用紙に手書きでまとめて、ホチキスで閉じたレシピ集だ。自分とピーちゃんの共同制作となる。向こうの世界でレシピ動画を確認の上、自身が細かい点を補足しつつ、ピーちゃんがゴーレムを操ることにより現地の言葉で仕上げた。

 ちなみに対象となるメニューのピックアップは、ピーちゃん主導で行った。主に彼が食べたいと思う料理を挙げてもらった次第である。これで次にお店を訪れるときには、あちらの世界の料理を楽しむことができるのではなかろうか。

「スタッフに文字の読める方はいますか?」

「ハーマン商会さんからご紹介頂いた方が読めます」

「では、その方に読んで頂いて下さい」

 レシピ集をフレンチさんにお渡しする。

 彼はやたらとかしこまった様子でこれを受け取った。

 まるで卒業証書の授与式みたいな感じ。

「それとこちらが先月分の給与です」

「えっ!?」

 他のスタッフに見えないように、物陰に隠して金貨を十枚ほど差し出す。以前が金貨五枚だったので、一ヶ月で二倍に昇給したことになる。自分の勤め先もこれくらいアグレッシブに昇給してくれたらな、なんて思いつつのやり取りだ。

「お受け取り下さい」

「いや、そ、そんなにもらう訳にはっ……」

「お店を軌道に乗せて頂いたお礼です」

 途端に慌て始めたフレンチさん。そんなふうに挙動不審になったら、周りのスタッフから変な目で見られてしまいそうだ。他の人たちがどれほどのお給金で働いているか分からないので、手元がバレたら面倒臭い。

「ここに入れておきますね」

 エプロンの前ポケットに放り込んでおこう。

「ちょっ……」

「それではすみませんが、お店をどうぞよろしくお願いします。もしも追加で設備投資が発生した場合には、副店長さんに仰って下さい。今回のレシピの件と併せて、既に話は通しておりますので」

「……が、頑張らせて頂きますっ!」

「ありがとうございます」

 お店も混雑しているし、あまり長居するとお客さんに迷惑が掛かる。

 今日のところはこれで失礼させて頂こう。


    *


 お店を後にした我々は、それから町の外に魔法の練習に向かった。場所は以前と同様である。町が位置する草原地帯の外れ、森林に接した一角だ。移動はピーちゃんの瞬間移動の魔法にお世話になった。

 それから数日の間、同所と町のお宿を往復しながら、魔法の練習を行った。

 食事や睡眠、入浴といった時間以外、ほぼ一日中を費やしたこともあり、今回もまた幾つか魔法を覚えることができた。併せて過去に覚えたライター魔法や、水道魔法などについては、なんと呪文を唱えることなく使えるようになった。

『かなり上達が早いな……』

「本当?」

『うむ、我よりも早いやもしれん。ちと悔しい』

「いくら何でもそれは褒めすぎじゃないかな」

『いいや、決してそんなことはない。これは我の勝手な想像であるが、恐らくはイメージの取り扱いに優れているのだろう。この調子で習得が進んだのならば、近い内に中級魔法にも手を出せるのではなかろうか』

「なるほど」

 魔法には難易度別に初級、中級、上級、それ以上のヤバいやつ、みたいな区分があるそうだ。最後の妙な区分に関しては、上級以上の上下幅があまりにも大きい為、また、扱える人が限られる為、普段は話題に上がらないとピーちゃんは語っていた。

 これまで自身が習得してきた魔法は全て初級だ。

 ちなみに瞬間移動の魔法は、それ以上のヤバいやつ区分である。行使する為には沢山魔力を使うのだとかで、滅多なことでは習得できないらしい。当然、その話を耳にした直後は焦った。ただ、ピーちゃんからもらった魔力なら問題ないとのこと。

「ただ、呪文を覚えるのが大変だよ……」

 段々と扱える魔法の数が増えてきたので、呪文の扱いが面倒になってきた。簡単な魔法については、早い段階で呪文を口にせずとも出せるようにしないと、追加で魔法を覚えるとき困ったことになりそうである。

 練習の最中も何度か間違えて、不発に終わったりしていた。

『ならば素直に魔導書を使ったらどうだ?』

「魔導書?」

『呪文を紙に書き出していただろう』

「え? ああいうのが魔導書っていうの?」

『そうだ』

「意外とさっぱりとしたものなんだね」

 もっとこう、手にしていると魔力がアップ、みたいなものを想像していた。コピー用紙の束が魔導書とか言われても、がっかり感が半端ない。傍から見たら完全に小中学生のごっこ遊びだよ。

『世の中に出回っている魔導書には、呪文の他に魔石や魔法陣が埋め込まれており、それらを利用することで、魔法の威力を高めることが可能なものも少なくない。魔導書とはそういったものも含めた総称だ』

「なるほど」

 どうやら自分が想像したような品も存在しているみたいだ。

 そこまで話を聞いて、ふと副店長さんが言っていた言葉を思い出した。我々が仕入れてきたコピー用紙とボールペンが、魔法使いの人たちにバカ売れだという。今ならその背景が容易に理解できる。きっと魔導書作りに利用しているのだろう。

 こちらの世界の紙と比較して薄い上に品質が高いので、沢山呪文を持ち歩きたい人にとっては、きっと便利なのではなかろうか。そう考えると真っ白で厚めのノートとか、それに掛ける頑丈な革製のカバーとか、持ち込んだら高値で売れるかもしれない。

 次の機会にでもチェックしてみよう。

「今回はこれくらいにしておこうと思うんだけど」

『ふむ、そうか』

「回復魔法を覚えられたのが一番の成果かな?」

 ちょっとした擦り傷くらいなら治すことが可能だ。レベルが上がると、ちょん切れた手足なんかも生やすことができるらしい。更にそれ以上になると、病気やら何やら、人体に関係する問題の大半は片付けられるようになるのだとか。

『回復魔法は需要が多い割に習得できる者が少ない。貴様が覚えた魔法も我は初級として扱っているが、程度により中級として扱われる場合もみられる。そうした背景があるので、扱いには注意するべきだろう』

「なるほど」

 現代で回復魔法を活用して、お年寄りの偉い人向けに宗教など始めたら、ガッツリ稼げそうな予感がする。ただし、ここ最近は中古の宗教法人も値上がりしているため、少し稼いだ程度では難しいだろう。

 回復魔法の他には、炎の矢を飛ばす魔法と物を浮かす魔法、突風を起こす魔法、明かりを灯す魔法を覚えた。前回の習得と併せて、これで十個。初心者魔法使いセット的なメニューが揃ったように感じる。

 各々の魔法には、より上位に位置づけられる魔法が存在するとのこと。その中には先程のピーちゃんの言葉通り、中級魔法として区分される魔法も、当然ながら含まれるらしい。今後はそちらについて学んでいけたらなと考えている。

 簿記の勉強をするよりナンボか楽しい。

「日も暮れてきたし戻ろうか、ピーちゃん」

『今晩は肉を食べたい』

「昨日も肉だったじゃないの」

『我は肉が好きだ』

「ピーちゃんって小さい割によく食べるね」

『悪いか?』

「いいや、ちょっと驚いてるだけだけど……」

『もっと沢山稼いで、より良い肉を我に与えよ』

「可愛いペットの為だし、頑張らないとねぇ」

『うむ、その調子だ』

 ピーちゃんの魔法にお世話になり、町のお宿まで戻る。居室のダイニングで夕食を食べた後は、広々ベッドで一泊してから、自宅アパートに戻った。行き来する時間を調節したので、日本に戻ると出社まで残すところ小一時間といった時分。

 当面、自室のパイプベッドは使う機会がなさそうだ。

 異世界でのスローライフも、段々と始まってきたように思われる。

 感覚的にはあれだ、フル装備で回復アイテムを持てるだけ持ったロールプレイングゲームの主人公。レベルも十分に上がっている。後は攻略本の指示に従い、ラスボスと隠しボスを倒すばかり。動画配信サイトで実況とかしてもいいかも知れない。

 そんな感覚があるよ。



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