第1話 共闘 その5

 教室にたどり着くと、方々からおはようの挨拶が投げかけられた。俺は別に人気者ではないが、入学式の時に新入生総代として答辞を述べた結果、頭が良いことは早々にみんなにバレていた(新入生総代は入試でトップだった者が務めるのが海栄の習わし)。

 なので、昨日の結果発表で名実共に学年主席となる以前から、この特進クラス並びに別クラスの連中にも勉強面で頼られることが多くて、自慢じゃないが俺の顔は広めだ。

 ちなみに、入試でトップだったなら昨日の結果が出るまでもなく勉強で一位取った経験あったんじゃんというツッコミは受け付けない。入試なんて所詮はスタートラインに立つための前哨戦。評価の大部分が入学後のテスト結果で形成される以上、俺は各考査における一位の方が価値ありと判断し、入試での一位は一位としての勘定に入れなかった。

「ユイユイおっはー」「今日も地味に良い顔してんねえ!」「おまけに頭も良くて姉はあの美人生徒会長っていうね」「前世でどんだけ徳積んだの? ○郎のもやし並み?」

「さあな。知らん」

「今日も素っ気ないわー」「でもユイユイはそれが良いんじゃん」「ね、クールが一番っ」

 きゃいきゃいと話し続ける女子連中から離れつつ、俺は自分の椅子に腰掛ける。

「おうおう結斗。朝から女子にキャッキャされて羨ましい限りだな。おこぼれ寄越せよ」

 髪を無造作にキメたお調子者が俺の傍にやってきた。級友の正人だ。

「おこぼれも何も俺のモノじゃないし勝手にしろよ。俺には心に決めた人が居るからな」

「誰だよそれ。まあいいけどな。それよかお前、もう知ってんだろ?」

「何を?」

「十条アヤのことに決まってんだろ! 活動休止ってなんだよ……大悲報だわ」

 ブルータスに裏切られたカエサルみたいな表情で、正人はショックを受けていた。

 正人のみならず、教室の至る所で十条アヤの活動休止が悲しまれている。毎日何かしらの番組に出ているくらいに人気を博していたから、ユーチューブ視聴メインの若年層にすら名を知られているのが十条アヤという存在だ。

 彼女は自身のSNSは持たない主義だが、事務所の公式インスタでライブをしていた時は、ご機嫌よう、の挨拶から始まる礼儀正しくも優雅な振る舞いが話題となり、数万人の同時接続数を記録していた。それだけにSNS上でも活動休止が惜しまれているらしい。

「結斗だって結構推してたろ? 出てるドラマは全部録画するくらいじゃなかったか?」

「まあな。でも学業に専念だししょうがないさ。それに悲報ばかりでもない」

「なんのことだよ」

「ここだけの話だが、もしかしたら十条アヤの転入先はここかもしれないぞ?」

「は? マジかよ」

「さっき、俺んちの前で車に乗った十条アヤを見たんだ」

「……なんで結斗んちの前に居たんだよ?」

「それはこっちが聞きたいくらいだ……まぁとにかく、海栄に来る可能性はあるぞ。スモーク越しの不鮮明な目撃だったから、見間違いの可能性も捨てきれないけどな」

「ま、だとしても期待しとくぜ。楽しみだなあ。まずは握手でもお願いすっか!」

 転入が決定事項であるかのように浮かれた正人が自分の机に戻っていった。

 その様子を尻目に、俺は彩花さんからの返信がまだ来ないことを憂う。

 近々会いましょう、の意味を問うた俺のメッセージ。

 今確認したらそれが既読になっている――彩花さんの目にきちんと触れたらしい。

 にもかかわらず、待てど暮らせどそれに対する返信が届く気配はなかった。


   ◇


 俺が今朝見た十条アヤは見間違いだったのかもしれない。

 そんな結論に至ったのは、本日の海栄で十条アヤの転入イベントが発生しなかったからだ。この嘘つき! と正人は怒っていたが知ったこっちゃない。俺だって悲しいのだ。

 今日はまだ転入日ではなかったのかもしれないが、しかしそう考えるよりは、今朝のアレは十条アヤではない別人だった、と考える方がよほど現実味がある。

 現実はいつだって刺激のない方向に進むものだ。幾ら願ったところで教室にテロリストは踏み込んでこないし、トラックに轢かれても異世界転生なんてせずに死ぬだけだ。

「なんかさ、今日の結斗、上の空じゃない?」

 気付けば放課後を迎え、俺は澪と一緒に夕暮れの廊下を歩いていた。

「なんかずっと悶々としてる感じっていうか……もしかしてまだ、アヤ姉からの返事が来てなかったりするの?」

「ああ……しかも既読スルーだ」

 悲し過ぎて死にたくなってきた。

「きっと何か事情があるんじゃない? アヤ姉、既読スルーはしないと思うし」

「……だといいんだけどな」

「ま、元気出しなよ。あたしは結斗の味方だし!」

 澪に背中をバシバシと叩かれる。無駄に力強くて痛かったが、こいつのこういった明るさには救われる。少しだけだが、気が楽になった。

「あ、そうだ。今日はあたしの泳ぎ見てかない? あたしの水着姿見れば元気出るって」

「見せたがりの痴女かよお前」

「ち、痴女って何さ! 粋な計らいをそういう扱いにしないで欲しいんだけど!」

「へいへい、悪かったよ。じゃあそうだな……お言葉に甘えとくか」

 そうこなくっちゃ! と弾けた笑顔の澪に連れられ、俺は水泳部の室内プールに向かうことにした。気晴らしにちょうどいいと思ったからだ。

 海栄にはプールがふたつある。地区大会の会場としても使える立派な五〇メートル室内プールと、屋外に作られた露天の五〇メートルプールだ。

 室内プールは女子部員が使用し、屋外プールは男子部員が使用しているらしいので、俺が訪れた室内プールは女子部員しか居ないという天国のような空間だった。

「ん、澪の彼氏?」「京の弟じゃん。一年の学年一位だよね確か」「え、姉弟揃ってすご」

 主に先輩部員たちに囲まれる。見学とかキモ、などと言われなくて良かった。

 俺は二階のギャラリー席に移動し、練習風景を見させてもらうことになった。

 どこを見ても競泳水着の女子しか居ないというその事実に最初はどぎまぎしたが、練習が始まってからは彼女らの泳ぎの所作ひとつひとつに引き込まれていった。コンマ一秒でも速く泳ぐために無駄が徹底的に排除されている動きの一挙手一投足が、とてもスマートで見ていて心地が良い。

 特に澪。将来のオリンピック候補生とまで言われている自由形のホープは、他の部員たちとは一線を画す実力なのが素人目にも分かった。洗練された泳ぎは美しく、それを見ていると活力がもらえるようだった。

 泳ぎ終え、プールサイドに上がった澪が、臀部の食い込みを直しつつキャップとゴーグルを外して俺を見た。そしてなんの脈絡もなしに、イエイと言わんばかりのピースサインを送ってくる。はあ、ホント無駄に感情豊かだなお前。

 その姿に少し頬を緩めつつ、練習を見続けていると、最終下校時刻のチャイムが鳴り響いたことに気付く。外はすでに暗く、夜の時間が訪れていた。数時間、ぼーっとしていたことになるが、良い息抜きにはなったように思う。

「ねえ結斗っ、一緒に帰るよね?」

「ああ、外で待ってる」

 水泳部の練習も終わったので、俺は外に出て澪を待つことにした。

「返事は……まだ来てないか」

 昇降口で靴を履き替えつつ、俺はせっかくリフレッシュした気分をまた若干暗くさせていた。手中のスマホを数時間ぶりに眺めても、相変わらず彩花さんからの返事は来ていない。近々会いましょう、の真意はこのまま分からずじまいってことか?

 そう考えながら外に出た矢先、俺は思わぬ光景に驚き、スマホを落としそうになった。

「嘘だろ、アレって……」

 学校のロータリーに一台の車が停まっていたのだ。取るに足らない光景だが、俺にとってはそうではない。なんせそこに停まっていたのは、今朝、十条アヤが乗っているように見えたあの高級車だったからだ。間違いなくそうだ。お世辞にも大都会とは言えないこの街で、あの手の高級車が何台も走っているわけがない。

「…………」

 暫時、俺はほうけたようにその車を眺めていた。

「まさか……やっぱりそういうことなのか……?」

 十条アヤはやはり海栄に転入しようとしているのかもしれない。騒ぎを避けるために人目が減ったこの時間帯に来校してもろもろの手続きを進めている可能性はあるはずだ。

 じゃあ居るのか? 今、校内に十条アヤが?

 ごくりっ……、と音が立つほどの唾を飲み込んでしまう。

 居るなら見たい。ファンとして、ひと目会いたい感情がある。

 それに、確認したいこともあった。

 ――今朝、どうして俺んちの前に車を停まらせていたのか?

 十条アヤが見間違いではなかった、となれば、やはりその理由は気になる。

 そう考えつつ、まずは十条アヤに遭遇したくて、俺は昇降口に逆戻りしようとする。

「――――」

 そして。

「ぁ……」

 風が吹いた。光が差した。世界の広がりを感じた。

 もちろんそんな表現はすべて比喩であって、実際には風なんか吹いちゃいないし、光なんか差しちゃいないし、世界なんか広がっちゃいない。

 けれど。

 そう感じざるを得ない衝撃があった。

 息が詰まって、俺の時間が止まったようだった。

 来賓用の下駄箱から――十条アヤが歩み出てきたのを捉えてしまったからだ。

「……っ!?」

 俺はたじろいだ。この場に若干名居る他の生徒たちも驚いていた。いきなりのことに目の前が真っ白になる。嘘だろ。マジで居たのか。オーラがヤバい。どうすればいい。サインでももらうか? 握手でもお願いするか? 

 と若干ズレた思考が俺の脳裏を駆け巡っていく中で、十条アヤは凛としていた。長い黒髪を風になびかせ、澄ました表情を浮かべ、かいだこともない良い匂いを引き連れて、俺の脇を通り過ぎようとしていく。

 その瞬間だった。

「――ね、会えたでしょ?」

「……え?」

 耳元で囁かれ、俺は驚いた。訳が分からず、え、という反応以上の何かを示せない一方で、十条アヤも他には何も言わず、立ち去っていく。高級車の後部座席に乗り込んで、静かなエンジン音と一緒にあっという間に居なくなってしまった。

 俺は放心するように立ち尽くし、やがてハッとしたのちに震えた。

「あ、会えたでしょって……まさか……」

 俺は手中のスマホを慌てて操作し、彩花さんからのメッセージを開いた。

『久しぶりだね、結斗くん。近々会いましょう』

 今朝方、姉ちゃんが言っていたひとつの可能性。

 俺は他人の空似だと否定したが――それは違ったのだ。

 確かに十条アヤと九条彩花で名前が似ているし、歳も同じで、その姿には面影もある。だからこそ彼女が世の中でバズり始めた頃に、その姿を見て「あれ?」と思った部分は間違いなくあった。でも幾らなんでもそんな偶然はないだろうと考えて、他人の空似だと決め付けていた――でも違った。今、真実を知った。

 彼女は幼い頃の夢を叶え、女優に――俺の推しになっていたんだ。そしてあろうことか地元に帰ってきてくれるとか……こんなのはもう、

「――奇跡じゃねえかよ!」

「ど、どったの結斗? 奇跡ってなんのこと?」

 その時、澪が困惑した表情で昇降口から出てきたのが分かった。

「……なんか良いことでもあったの?」

「ああっ、あったよ! あったさ! 大事件だ!」

 俺は動揺を隠しもせずに、澪の両肩を掴んでその目を覗き込んでいた。

「な、何? そんなに顔近付けて……まだチューとかは早いと思うけど……」

「なんの話だよ! それより大変なんだ! 落ち着いて聞いてくれ!」

「お、落ち着くべきは結斗の方じゃないの?」

「これが落ち着いていられるかよ! いいか? ヤバいぞ。今度うちに転入してくる十条アヤが、彩花さんだったんだ」

「……はい?」

「今度うちに転入してくる十条アヤが、彩花さんだったんだよ!」

 自分に言い聞かせる意味合いもあって、俺は二度、その事実を口に出していた。

 澪はキョトンとし始める。

「えっと……何言ってるの結斗? 頭大丈夫?」

「うるせえ水泳バカ! お前こそ自分の頭でも心配してろ!」

「ひ、ひどっ! なんで今の結斗そんなに情緒不安定なの!?」

「安定なんざ出来ないからだよ! いえーい! ピースピース! お前だって近日中に俺の興奮を理解することになるだろうさ!」

 澪にそう言い返し、俺は澪から離れて下手くそなスキップと共に下校を開始した。

「ヤバいぞ! マジで奇跡だってこれは! 人生の転機だ!」

「ヤバいのは今の結斗だよ! キマってる人みたいになってるんだけど!」

 澪が何事か抜かしているが、もはや俺の耳には届いていない。

 ――彩花さんが帰ってきた。

 今の俺はその事実にどうしようもなく浮かれ、けれどひとつの重大な事実に気付いた瞬間に、そんな気分が唐突にナリをひそめてテンションが底まで落ちていく。

 スキップをやめて立ち止まり、瞬き始めた夜空めがけて手を伸ばす。

 星は掴めない、握れない。

「……届かなくなってるじゃないかよ」

 十条アヤが、彩花さんだった――彩花さんが、十条アヤだった。

 かつて身近だったお姉ちゃんが、遙かに高く、遙かに遠くで輝く綺羅星と化していた。

 地表で藻掻くしかない俺なんかが、手を届かせようとしてはいけない一等星。

 文字通りの、天地の差。

 格が明確に違うそんな中で俺は……この好意をどうすればいい?

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