第1話 共闘 その4
◇
「夢か……」
目覚ましが鳴る前に、珍しく目覚めていた。カーテンの隙間から差し込む朝日に目を細めつつ、俺は目元をこすって今見た夢を振り返る。
妄想ではなくて、確かにあった在りし日のひと幕だった。
彩花さんはそういえば、女優になりたいと言っていたっけ。
小学生の時から確固たる夢を持ち、それを実現させられるだけの容姿と素質だって持ち合わせていたように、当時の俺には思えていた。小学生とは思えない可憐さがあったし、バレエやヴァイオリン、声楽といった美と感性を問われる習い事もやっているのが彩花さんという少女だった。今はそういった習い事のいずれかで、一線級に上り詰めていても不思議じゃないし、どこかで女優の卵をやっていても納得出来る。
そう考えつつ起床した俺は、机上のスマホを捉えたところで一気に目が覚めた。
ぺかぺかと、スマホが受信の明かりを灯らせていたのだ。
身に覚えがある限り、俺が寝ている間に受信するモノがあるとすれば、それは寝る前に送った彩花さんへのメッセージに対する返事しかありえない。
まさか来たのか、彩花さんからの返事が。
「――――」
ごくりと唾を飲み込んで、たった今起きたとは思えないほどに目が冴え始める。
冷や水をぶっかけられるよりも、目の前の光景は強烈な目覚ましだった。
俺はスマホを手に取る。ロックを解除し、何を受信したのか確かめる。彩花さんの返事であって欲しい気持ちが強くある中で、受信したのはやはりラインのメッセージで、送信者の名前は――九条彩花だった。
緊張が最高潮を迎える。慌てて全文を確かめてみると、そこには――
『久しぶりだね、結斗くん。近々会いましょう』
との短い言葉が記されていた。
そんな返事を嬉しく思いつつ、けれど俺は思わず首を傾げていた。
「近々会いましょう、ってなんだ……?」
それ以上のメッセージは存在しておらず、その真意は不明だった。
近々会いましょう――近々会いましょう――。
繰り返し、脳裏でその言葉を反復させて、どういうことなのか考えてみる。
「近々こっちに来る予定があるとか……?」
無難に考えればそういうことだと思うし、もしそうなら嬉しいものの、しかしどうなんだろうか。勝手に決め付けて期待するのは良くない気がする。
だからひとまず、『お返事ありがとうございます。でも近々会いましょうってどういうことですか?』と質問のメッセージを送ってみた。そのうち返事が来てくれることを祈りつつ、俺はひとまず部屋を出て、リビングに向かった。
姉ちゃんがすでに朝食の準備に取りかかっているところだった。父さんと母さんの姿は見当たらない。家の静けさからして、夕べは帰らなかったのだろう。急に海外に飛ぶこともある仕事だから、帰ってこない程度のことには慣れたモノだった。
「彩花には連絡したの?」
姉ちゃんが発した今日の始まりのひと言がそれだった。
俺は食卓の椅子に腰掛けながら頷く。
「したよ」
「えっ、ホントに? 弟の進歩にわたしはむせび泣きそうだわ」
「むせび泣く前にひとつ教えて欲しいんだけど、彩花さんからの返信に『近々会いましょう』って書かれてたんだよ。これってどういう意味だと思う?」
「え、さあ? こっちに遊びに来る予定があるとか?」
「やっぱりそう考えるよな……」
でも果たしてそうなのか? それならそうときちんと書きそうなモノだが、近々会いましょう、とだけ書かれているし、意図的に何かをぼかしている感じがする。
悶々としつつ、俺はなんとなくテレビを点けてみた。朝の報道番組で社会情勢を確認するのが俺の日課だ。
『なんとっ、今朝は驚きのニュースが飛び込んで参りました。あの大人気若手女優・
「うわ、なんだよオイ。なんかやらかしたのか」
映り始めの芸能ニュースを見た瞬間、俺は思わずテンションを落としていた。社会情勢とかもはやどうでもいい。なんてことだ。彼女に一体何が……。
彼女――十条アヤと言えば、三年くらい前に公開されたデビュー作の映画で、脇役にもかかわらずあまりの美貌で主役よりも目立っている、とSNS上で話題となり、それ以降は〝美少女界の至宝〟なんて呼ばれながら台頭した新進気鋭の若手女優だ。長い黒髪がめちゃくちゃ綺麗なクールビューティーで、シャンプーのCMなんかでもよく見かける。
俺もその流行りに乗っかって彼女のファン活動を密かに行なっていたので、芸能活動休止のニュースにはショックの色を隠せない。
『所属事務所によりますと、今回の休業は学業に専念するため、とのことでして、復帰は早くても高校を卒業するであろう再来年の春以降、となる見込みだそうですね』
『ま、不祥事での謹慎じゃなくて良かったですよね』
なんだ……学業に専念するための休業か。不倫相手だった、とか妊娠ではないんだな。
それならしょうがない。いつ休んでいるのか分からないほどドラマや映画、バラエティに引っ張りだこの状態だったし、ゆっくりと休んで勉強に励んで欲しいところだ。
「この十条アヤ、なんだけどさ」
「なんだよ」
姉ちゃんが出来立ての朝食を運んできてくれた。
「ちょっとだけ彩花の面影があるとは思わない?」
「いや……他人の空似だろ」
姉ちゃんはたまに現実味のないことを言うよな。
「八年も片想いを続けてる結斗の方が現実味のない存在だと思うんだけど」
「やかましいわ」
「ふぅん。じゃあメッセ送ったら、近々会いましょう、って連絡が来たの?」
「ああ、どういう意味だと思う?」
澪と一緒に登校しながら、俺は学校に向かっていた。姉ちゃんは一緒じゃない。生徒会の仕事があるらしく、一足先に登校している。
「そのままの意味じゃないの? 近々こっちに来る予定があるとか」
「やっぱりそれしかないよな」
それ以外の可能性なんて思い浮かばない。詳細は不明だが。
「どういうことですか? って送った質問への返信が来てくれれば、何か分かるかもしれないんだけどな」
「まだ来ないの? でも焦っちゃダメでしょ。朝は忙しいだろうし」
そこは重々承知しているので、今日一日くらいは余裕を持って待とうと考えている。
「あ、そうだ結斗。見て見てっ。水着をもう忘れなくても済むようにね、今日は最初から着込んできたんだよ! あたし天才じゃない? これなら絶対に忘れないっていうね!」
そう言って澪は夏服のスカートをちらりとめくり上げやがった。
垣間見えた聖域は下着じゃなくて、言葉通りに競泳水着。
確かに最初から着込んでいれば忘れ物にはならないんだろうが……。
「はしたな過ぎるぞ……ひとまずスカートめくるのやめろ。女子が簡単に肌を見せるな」
「ふんっ、心配しなくても結斗にしか見せないし」
「なんで俺には見せるんだよ……つか、記者も注目する女子自由形のホープが何やってんだって話な。トイレどうすんだよそもそも。部活の時ならサッと下ろすだけで済むんだろうが、制服も着てる状態だと脱ぐのがクソほど面倒じゃないか?」
「あ……」と俺からの指摘でようやく最大の問題点に気付いたのか、澪はハッとした表情のまま俺を見つめてくる。
「どうしよ」
「はあ……ホントにバカだなお前は」
せっかく女らしい外見に育っても、中身は昔から何ひとつ変わっちゃいない。
ガサツでアホでバカ。
しかし賑やかで、明るくて、月並みな表現だが向日葵のような存在だ。
彩花さんが引っ越したあとの空虚さを解消してくれたのは澪のそういう部分だった。
だから俺は澪のことが嫌いにはなれないし、身内として最高に好きだ。
無論、口に出しては言わないが。
「ま、もういいよ! 今日はこの状態で頑張って過ごすし!」
「明日からはしっかりしろよ? 将来の女子競泳界を背負って金メダル獲るんだろ?」
「うんっ、そしてその金メダルをかじって歯を欠けさせるんだよ!」
「なんでそこにこだわるんだよ」
そんな会話をしつつ通学路を歩いている途中、俺は信号待ちでなんとなくカバンを開けた瞬間に自分の過ちに気付いた。
「やらかした……」
「どったの?」
「……筆記用具忘れた」
「やーい、結斗の忘れん坊~」
「お前だけはその煽りを使っちゃダメだからな?」昨日の自分を棚に上げ過ぎだ。「まぁいいや……悪いが先に行っててくれ。俺は引き返す」
「ほいほーい」
澪のお気楽な返事を尻目に、俺は来た道を急いで戻っていく。
それからやがて、自宅が見えてきたところで――
「……なんだ?」
俺は目を訝しげに細めざるを得ない状況と遭遇した。
というのも、俺んちの前に黒い高級車が停まっていたのだ。
親のマイカーではないので不審に思いつつ、俺は自宅に近付いていく。
すると、店員が近付いてきたから慌てて万引きをやめた、みたいな雰囲気を伴って高級車が動き始めたのが分かった……俺が近付いた途端に移動を始めるとはますます怪しい。
すれ違いざま、俺は高級車の中をちらりと確認してみる。
一体どんな奴が乗っているのかと後部座席に目を向けて――その瞬間。
「……え」
スモークの向こうに見えたかすかな光景に度肝を抜かれ、俺の世界がスローモーションになった。
そこに乗っていたのは――今朝の報道で話題になっていたあの十条アヤだった。
新進気鋭の若手女優。
飛ぶ鳥を落とす勢いで躍動していたクールビューティー。
見間違いかと思ったが、彼女を見間違えるはずがない。
今朝の報道で顔写真や映像を幾つも拝んでいるし、そもそも俺は彼女のファンだ。
長くて綺麗な黒髪。左目下の泣きぼくろ。
整い過ぎた面差しが、すれ違いざまに俺を捉え、小さく微笑んだような気がした。
直後に時の流れが元に戻って、高級車があっという間に遠ざかっていった。
「ど、どういうことだ……?」
たった一瞬の出来事だったが、今の一瞬の情報量に俺は呑み込まれそうになっていた。
「なんで、十条アヤがうちの近所に……?」
もはや見えなくなった高級車の進行方向に目を向けて、俺はぼやくように呟いた。
こんなところに十条アヤ。
見間違いをもう一度疑ったが、改めて思い返してもそれはない。
俺が見たのは確実に十条アヤその人だった。
学業に専念を謳い、芸能活動を休止させたその人が、この街に居る理由があるとすればそれはもしかして――
「学業の専念先が海栄なのか……?」
ありえない話ではないはずだ。都心から程良く離れた神奈川の一角に存在する海栄ならば、進学校なこともあって、静かに落ち着いて学業に専念することが出来ると思う。
「でもどうして十条アヤが俺んちの前に……?」
一体なんだというんだ……悶々としながら自宅に入り込み、自室で筆記用具を回収。
ふと目に付いた自室の壁には、ファンとして集めていた十条アヤのインタビュー記事のスクラップが貼り付けてある。ドラマの録画データを収めたハードディスクも棚にある。
「マジでなぜ、推しが俺んちの前に……?」
そんな風に首を傾げつつ、俺はひとまず学校に向かった。