第1話 共闘 その2

「おかえり結斗。そこ掃いたばかりだから、靴底の汚れを落としてから上がりなさいね」

 彩花さんは今何してるんだろうな、などと引き続き考えながら帰宅したところで、玄関を掃き掃除していた姉ちゃんに出迎えられた。

 姉ちゃんは俺の一個上で高二だ。上品なギャルとでも呼ぶべき外見をしている。矛盾した表現かもしれないが、そうとしか形容出来ないのだから仕方がない。あと胸が薄い。しかし威光を背負っているかの如く常に胸を張って生きている。自信家なのだ。俺と同じく海栄に通いつつ、生徒会長をやっているほどだからな。

 そんな姉ちゃんは共働きの両親(海外に飛ぶこともある)に代わって家事炊事を器用にこなせる主婦スキルを身に付けており、我が家の中枢を支えている。ゆえに生徒会長としての業務に携わる場合を除いて、家の手伝いをするために帰りは早いのだった。

「そういえば結斗、学年一位だったそうね? おめでとう。ついにやったじゃない。これで姉弟揃ってトップだから、海栄もちょろいもんよね」

 どうやら俺のテスト結果はリサーチ済みであるらしい。

 姉ちゃんの結果は見てないので知らなかったが、この人は俺以上の天才で、小学生の頃から成績最上位者をキープしているのだから、その結果はさもありなんと言える。

「お祝いに今日はすき焼きにしようと思うんだけど、異論は?」

「ない」脱いだ靴を揃えつつ、俺は姉ちゃんにふとこんな質問をしていた。「なあ、彩花さんって今何してるか分かるか?」

「どうしたのいきなり」

「ちょっと気になってるんだ」

「ふぅん。ま、結斗は可愛がられていたもんねえ? わたしじゃなくて、彩花がお姉ちゃんなら良かったのに~、とか思ったことがあるんじゃないの?」

「それはないな。実の姉じゃないからこそ、憧れていられるんだし」

 濃い血の繋がりがあれば、ロマンスの余地は生まれないのだ。

「相変わらずの彩花大好き人間だこと。ちなみにわたしは彩花の下僕になりたかった」

「多様性の時代でも許されない嗜好はあるんだからな?」

「そんなこと言われても彩花が好きなんだから仕方ないじゃない! いつの日か彩花と一緒にひとつ屋根の下で暮らして鞭を振るってもらったりなんかして――ふへへ……」

 ……この歪んだ嗜好がなければ、パーフェクトな美人生徒会長なんだがな。

「とにかく姉ちゃん、彩花さんの今の情報をくれないか? 今の居住地とか、今の姿が分かる写真とか、あるだろ? たまに連絡取り合ってるわけだし、情報の共有をだな」

「結斗、それ以上はいけない。わたしの逆鱗に触れてしまうわ」

「どういうことだよ……」

「彩花の情報なんてね、元気に高校生をやってる、ってことくらいしか知らないの」

「は? ……姉ちゃんでさえその程度の情報量?」

「ええ、色々とお茶を濁されてる感じね」と、姉ちゃん。「今の写真だって持ってないわ。彩花ったら、恥ずかしいとか言って全然写真を送ってくれないんだもの……だからこのやるせなさは結斗にぶつけるしかないわね。――ひとまずチューしましょうか?」

「百合の代替に俺を使うな!」

「ま、お戯れはこのくらいにしときましょうか……ところで結斗」

 姉ちゃんはふと真面目な表情で続けた。

「そんなに彩花のことが気になるんなら、連絡先を教えてあげましょうか?」

「いや……、それはいい」

 姉ちゃんは昔からよくそんな提案をしてくれるが、俺は頑なに拒み続けている。憧れの人の連絡先を他人から聞くというその情けない感じが、俺のプライド的に受け付けないからだ。そこでがっつくのが恋愛強者かもしれないが、俺には一歩踏み出す勇気などない。

 再会したいと思いつつ、けれど俺はもしかすると、今のままを望んでいるのかもしれない。幼き日の、あの日に止まった彩花さんとの時間が再び動き出したとして、しかしそれが必ずしも都合の良い方向に転がるとは限らないわけで――そうなるくらいなら、止まった時間は止まったままでいいのだと、そう思う気持ちがないわけではなかった。

 止まったままでいれば、思い出は汚れないのだし。

「思い出は汚れないとか思ってるなら間違いよ? 思い出は色褪せていくからね」

 そう言って姉ちゃんはメモ帳を取り出し、そこにボールペンで何かを書き始めていた。

「はい、これ。彩花の連絡先。受け取りなさい」

 メモしたページを破いて、姉ちゃんは有無を言わさず俺にそれを握らせてきた。

「な、何するんだよ急に……」

「学年一位のお・い・わ・い。意訳すれば、いい加減直接やり取りをしろってことね。あれやこれやと理由を付けつつ、それでも本心としては彩花の連絡先が欲しいくせに」

「別に欲しくなんか……」

「はいはい無理しないの。それにね、結斗が連絡した方が色々と情報をくれるかもしれないから、彩花ハンターのわたしとしてはそれに期待ってことで」

「そっちが本心かよ!」

「失礼な。結斗の後押しも本心だから」

 姉ちゃんは玄関から離れ始めていく。

「まあとにかく――止まった時間、そろそろ再開させてもいいんじゃないの?」

 そんな勝手なことを言って、リビングですき焼きの準備を始める姉ちゃん。

 俺は握らされたメモ用紙を、しばらくの間黙って握り続けていた。


 一旦メモ用紙のことは忘れて、俺は自室に向かったあとは勉強に没頭した。

 いつか彩花さんに元気で頭の良い姿を見せるために。

 そんな、果たせなかった約束をいずれ果たすために。

 ――という。

 そうした勉強の動機は結局、止まった時間が再び動き出すことを望んでいる証左なのかもしれない――果たせなかった約束を果たすには、繋がりを取り戻す必要があるのだし。

「…………」

 俺は机の端っこに置いたメモ用紙に目を向ける。

 そこに記された連絡先を利用し、彩花さんと連絡を取れば何かが変わるのだろうか。

 俺は今日、ついに念願の学年一位となった。

 勉強で一番になった姿を見せるという、その条件を満たしたことになる。

 彩花さんに連絡を取れば、この姿を見せるチャンスが生まれるのだろうか。

 メモを活用するか否か思い悩む中、俺は夕飯に呼ばれ、姉ちゃんとすき焼きを共にした。

 食べ終えて部屋に戻ったその時、階段をリズミカルに駆け上がってくる足音が聞こえた。

 勉強の教えを請う問題児が、どうやら今宵も我が家を訪れたらしい。

「――結斗センセーっ、今夜もよろしくぅー!」

 ややあって、俺の部屋のドアを大きく開け放ったのは澪である。

 水泳部終わりでそのままやってきたのか、頭が若干濡れた状態だった。

「今日も逃げずに来たか。割と続いてるな」

 成績が壊滅的な澪は、水泳に支障をきたさない範囲で俺とこうして一時間ほどの勉強会を行なうことがある。高校に入ってからは最低でも週二ペースを守っている感じだ。

 正直な話、スポーツ特待生の澪は勉強なんてする必要がまったくない。プロ注目の高校球児の如く、授業中に寝ようとも大会で好成績を残し続けていればそれで問題ない。

 にもかかわらず勉強をしたがるのは、澪が負けず嫌いだからだ。劣った点をそのままにしておくのが気持ち悪いらしい。勝負の世界に生きる者としてのサガだろうか。

「ふふんっ、今日も逃げずに来たぜえ。あたしの辞書に逃げるの文字はないからね! 競泳同様直進あるのみ! コーナーで差を付けろ!」

「直進なのか曲がるのかハッキリしろよ」

「それより結斗センセーっ、今日は何を教えてくれるのっ?」

 ローテーブルで澪が教科書やノートを広げ始めていた。

「今日は現代文だな。お前はそこが壊滅的過ぎる」

「だって作者の気持ちとか読み解けないし! あの手の問題文に利用される作者の人ってさ、ものすごい数の学生から勝手に気持ちを決め付けられるんだから可哀想だよね!」

「……独特な感性だな」

 まぁ、たかが文章から作者の何が分かるんだという話ではあるのかもしれない。

「ねえ結斗、ここはどういうことなの?」

 それから澪の対面に座って勉強を開始した途中で、澪がテーブルに身を乗り出し、俺に不明な点を聞いてきた。濡れた髪から塩素の香りが漂ってきて、距離の近さをイヤでも感じ取ってしまう。

 うぐ……なんとも落ち着かない。従姉妹の澪を変な目で見たくはないが、近頃の澪は女らしくなってきた。それは性格が、ではなく体の話であって、昔はそれこそ男子と間違われるくらいに女っぽさを欠けさせていたが、中学に入ったあたりから見違えて、今では客観的に見れば可愛いと言わざるを得ない外見となっている。しかも発育が割と良くて、目のやり場に困ってしまう。

「ねえ、ねえってば。話聞こえてるよね? 水の中に居るんじゃないんだからさ」

「え? あぁ、悪い。そこはだな――」

 と慌てて澪の質問に応じて、妙な気持ちを追い出しにかかる。

 落ち着けよ俺。澪に惑わされるなよ俺。お前が好きなのは彩花さんだ。

「ほうほう、なるほどね、そういうことなんだ。あたしみたいなバカにも分かりやすく教えられるから、結斗ってすごいよね。じゃあこっちはどういうことなの?」

 更にテーブルへと身を乗り出して、引き続き分からない箇所を尋ねてくる澪。

 そんな軽い四つん這いじみた体勢なもんだから、制服のブラウスの胸元が、重力に引かれてわずかな隙間を作っていた。その隙間から澪の谷間が見えてしまっている。

 あぁもう……目のやり場を更に困らせるなよこいつはホントに。無防備過ぎんぞ。

「あ、結斗ってばどこ見てるの……えっち」

 視線に気付かれ、澪がそそくさと身を引いていく。

 急にしおらしい態度を取りやがってからに……照れ臭いのは俺の方だっつーの。

「……小六まで一緒に風呂入ってたんだから今更恥じらうなよ」

「な、何さ。そう言う結斗だってちょっぴり照れてるじゃん……ばか」

 頬を染めたまま、澪が弱々しくそう言った。

 なんだか場の空気が気まずい……お互いのために、俺は一時離脱を決定した。

「……ちょっと飲み物取ってくるからな?」

 こくり、と恥じらった表情のまま無言で頷いた澪を尻目にリビングに向かうと、そこでは姉ちゃんがテレビを見ているところだった。この人は学校の授業だけですべてを理解し好成績を残す化け物だ。夜はこうして悠々自適に過ごしている場合が多い。

「今日のみおすけとの勉強会はどんな感じなの?」

 みおすけ、というのは姉ちゃんが澪を呼ぶ時のあだ名だ。昔は男っぽかった澪を姉ちゃんはずっとそんな風に呼んでいて、今もまだ継続中なのだ。

「勉強会は良くも悪くもいつも通りさ。てか、姉ちゃんが教えてやってくれないか? あいつ最近女っぽくなってきたから、部屋で二人きりはなんか疲れるんだよな……」

 言うに及ばず、姉ちゃんなら澪に教える程度のことは造作もないだろう。

「わたしとみおすけが二人きりになったら、みおすけはあっという間に純血を散らすことになるんだけど、それでもいいの?」

「澪にまで情欲が向かうのかよ……」

「当たり前でしょ。結斗の言う通りに最近のみおすけはすっかり垢抜けてしまったんだもの。だから自制心を働かせて、わたしはみおすけとの接触を避けているのに」

 偉いんだかなんだかよう分からん自主規制だった。

「それはそうと、彩花に連絡は取った?」

 コップに麦茶を注いでいると、不意にそんなことを尋ねられた。

「いや、まだだけど……」

「しないつもり?」

「……したい、とは思う」

 けれどためらいが生じている。勇気が湧いてこない。

「いきなり背中を押されたって……、そう簡単に一歩目は踏み出せないんだよ」

「でも一歩目さえ踏み出しちゃえば、あとは意外と気楽だったりするものよ? バンジージャンプみたいにね」

「バンジーじゃなくて飛び降り自殺になる可能性は?」

「あるかもね。でも彩花の今を知りたいなら、それくらいの覚悟で臨まなきゃ」

「……かもな」

 麦茶入りのコップを持ちながら、俺は落ち着きを取り戻しつつ自室へと戻った。

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