第四章 ワガママを言うような後輩 5

「二月の初めにグラウンドの片隅で……一輪の白い花が咲いてました。渡良瀬が一人で部室にいるみたいに……誰にも気付かれず、ひっそりと……」

「やっぱりそうか……。今月のオレやお前の行動は……全部……よしの願いで……」

 生徒の前で無力さを露呈させた教師の立ち姿は、大人として模範になるべきしさを著しく欠いており……ただただ、潜在的な弱さをさらけ出しているだけ。

「八年前の二月二十九日……身体からだが弱かった佳乃は命を落としかけたんだ。絶望的なこんすい状態から奇跡的に助かったとき……病院の花壇を覆い尽くすように白い花が咲いてたよ」

さか先生がすいせいに祈ったんですか……?」

「いや、オレが駆けつけたのは奇跡が起きた後だった。ここにはいないもう一人の家族が、佳乃の命を救ってくれたから……」

 前々回のうるうどしに奇跡を願ったのはわたの家族。俺が知らないであろう、どこかの誰か。

 当時、小学生だった俺は友人たちに誘われ、不自然にスノードロップが咲いた最寄りの病院を見に行ったが、好奇心旺盛だった小学生たちを落胆させる結果となった。

 うわさを聞きつけた俺たちが行った頃には、すでに跡形もなく枯れ落ちていたから。

「もし、渡良瀬が彗星とかいこうしていたとしたら……何を願ったんでしょうか」

「……はぐらかされたが、高校に入学した佳乃には〝小さな目標〟があったのは分かる。できるだけ自力で探そうと頑張っていたけど、佳乃にとっては高望みだったものが……」

 渡良瀬の小さな目標。探していたもの。それは、俺にも心当たりがあって──

「一人だけの美術部に入部してくれるやつ……高校入学から二年かけても手に入らなかった部員が、二月になって唐突に見つかっちまった。とても偶然とは思えねえよ……」

 渡良瀬の願いによって、怠惰に卒業するはずだった帰宅部の運命が書き換えられたとしたら、二人だけの放課後も、渡良瀬を好きになった恋心も、彗星にげられた偽り。

「渡良瀬の口から聞くまでは……受け入れません。俺は……自分の意志で渡良瀬と一緒にいたいと思ったんです」

「願いの詳細なんて意味を持たねえ。自分自身のために慰めの希望へすがってしまった……都合のいいように捻じ曲げた未来の代償で、佳乃の命がり減っている現状だけが……ここにはあるんだよ」

 俺が迷信を受け入れようが拒絶しようが、もはや関係ない。原因不明の衰弱が渡良瀬をむしばみ、想像もしたくない結末に進んでいる現状が、そこにはあった。

 現代の医療でどうにもできないのなら、治す方法はただ一つ。星が流れ終わる二月二十九日までに彗星と邂逅して、俺が──

「お前が何を考えてるのか、だいたい察せるが……やめとけよ」

 若造の短絡的な考えなどお見通しなのだろう。登坂がくぎを刺す。

「かつてのオレもいらつだけの無力なガキだったから……お前は何もできねえ」

「大人ぶって分かったようなことを言うなよ!! このまま渡良瀬を見殺しにできるか!!」

 どこにもぶつけられず、たぎった憤怒の矛先。

 声を荒らげながら登坂の胸ぐらをつかんだ感情任せのガキに対して、どこか諦観に身を委ねた腹立たしい大人は脱力し、いつもは憎たらしい目もうつろだった。

はなびしは……春の訪れを告げる星を一度でも見たことあんのか?」

 その問いかけに困惑しつつ、俺は首を横に振る。

「一点の曇りもない純粋な人間の瞳にしか、夜空を切り開くような輝きは映ってくれない。迷信をいぶかしんであざわらっていたオレたちみたいな人間は……傍観者にしかなれねえんだよ」

 青臭い反論を封じられ、反抗をがれ、胸ぐらをつかんでいた腕から力が抜けていく。

 この人とは、似た者同士だったんだ。大切な人を救う主役にはなれず、わらにもすがる純粋な願いの前には……指をくわえて傍観している役割しか与えられない蚊帳の外。

 立ちはだかる者に憤り、外面の良い正論をわめき、実効性のない正義感をかざして、主役の仕事を成し遂げた気分に浸りたいだけの脇役未満。何もできはしない。

 八年前のさかを、そっくりそのまま生き写したかのように。

「……誰も幸せになんかならねえ。もし、お前がよしを生き長らえさせたとしても、今度はお前が……佳乃を悲しませるだけだ」

 消え入りそうな忠告を置き土産に、失意の登坂は病室から去って行く。何層にも降り積もった悲しみを背負う背中に投げつける激励や怒声など、どこにもありはしなかった。

 静まり返った個室に取り残された俺は、ベッドの脇に置かれていた面会者用のパイプ椅子に座る。低くなった目線の先にわたの横顔があり、本来の清純な顔つきを汚す酸素マスクが切実に邪魔だった。

 布団の縁からはみ出していた渡良瀬の右手を握る。いつも筆を掴んでいる細い指先は凍結してるかのごとく俺の体温を奪い、先鋭な冷たさが痛いくらいに手のひらを刺す。

 こんなにも細く冷え切った手で……現実の空間に空想の色彩を浸潤させ、顔色一つ変えずに生み出した壮大な世界による感動に打ち震えさせてくれたのか。

「こんな場所じゃなくてさ……また学校で会おう。部員は二人しかいないけど、美術室とか屋上で部活をしような」

 語り掛けたつもりだが、渡良瀬が眠っているのなら独り言になってしまう。


「……おそいです、センパイ」


 でも、返事が届いた。

 それはひどく予想外で、じわりと染みた歓喜が自らににじむ。

 幻聴ではない。うつすらと瞳を開けていた渡良瀬が、しょぼくれた俺のほうへしっかりとまなしを送っていたからだ。

「……わたしが起きたら……目の前にセンパイがいたこと……二度目ですね……」

 しやべるたびに酸素マスクが曇り、耳にんだ声もくぐもって聞き取りにくいけど、同じ思い出を共有している女の子は間違いなく後輩の渡良瀬佳乃だった。

「……今は……放課後ですか……?」

「ああ、放課後だよ。もし部活中だったら、今ごろは屋上にいると思う」

「……眠りすぎました。部活の貴重な時間を……無駄にしたくないのに……」

 落胆を表す嘆きを漏らしたわた。部活ができる状態ではないのは自覚しているはずで……精いっぱいの強がりにしか思えない。

「俺と出会った頃には、すでに異変を感じていたのか……?」

「……出会ってから……一週間後くらいだったかもしれません。少し歩いただけでも息があがるようになって……屋上に行くのも……ひどく疲れるようになりました……」

 見学会を実施し、渡良瀬が屋上へ連れて行ってくれた日にはもう……。

「なぜ……センパイはここに来てしまったんですか……」

「放課後は……渡良瀬の話し相手になりたいからだよ」

 意図していなかった回答だったらしく、渡良瀬はかすかに口角を上げたのだが、

「……こんな情けない姿を……センパイには見せたくなかったのに……」

 ねずみいろの天井へ視線を逃がした渡良瀬は、声色をかすませていく。

「……わたしが絵を描いている姿を……センパイは褒めてくれたから。そのわたしだけを……センパイにはおぼえていてほしいです……」

「絵を描いている渡良瀬は大好きだけど、俺に見せてくれた姿はそれだけじゃないだろ。説教する怒り顔、好きなものを語る得意げな顔、部員ができて喜んでいる笑顔……出会ってから日は浅くても、いろんな時間を一緒に過ごせたと思う……」

「叔父さんすら知らない顔を……センパイにはさらしてしまったかもしれません……」

 はかなげに苦笑する渡良瀬につられ、俺も懸命に笑みを作ってみせた。

 一緒にいた年月の長さは微々たるものでも、二人で過ごした密度なら他の誰にも負けていないと自負できる。さかも知らない渡良瀬の表情を、とつにじんだ感情を、特等席で堪能させてもらった記憶は何物にも代えられないからこそ、濃密な放課後を独り占めしたい。

「……渡良瀬のどんな顔も好きになれると思ってたけどさ……やっぱり、今のお前を見ているのはつらいな……」

「……わたしも……見せたくなかったです。だから……会いたくなかったです……。その悲しそうな顔は……部室に入り浸る能天気なセンパイに……似合わないですよ……」

 今の俺は、そんなにもそうな表情をしているのだろうか。

 ハリボテの笑顔を、取り繕っているつもりなのに。


「……わたしは……たぶん、死んでしまうでしょう……」

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