第三章 お勧めのCDを貸してくるような後輩 4

 学校から車で数分足らず。高層の建造物が少ない町の背景に埋もれそうな月並みな二階建てアパートへ案内され、付近のコインパーキングに車をめる。

 階段を使って二階に上がり、角部屋に位置する登坂の自宅へ通された。

 十畳程度のリビングにはテレビとソファが配置され、フローリングに脱ぎ散らかされた衣服が独身男性のリアルな生活感を醸す。リビングの側面には寝室と行き来するための戸があり、誰しもが想像する一般的な1LDKの構造だった。

「あー、散らかっていてすまんな。寝室はよしの部屋になってるから、リビングがオレの生活スペースなもんでよ」

「先生はソファで寝てるんですか……」

「この家では佳乃様が絶対王者だからな。弱い者は強い者には逆らえねえ」

 めいに領土を奪われた叔父の切ない上下関係は、俺みたいにごとだと笑いの種だよ。

 ベランダ付きの窓はあるものの、隣接している民家により景観は遮られ、この部屋から夜空を眺めることはかなわない。目につく範囲では画材が一つも転がっておらず、キャンバスなどが置かれていた痕跡なども見当たらなかった。

「佳乃、起きてるか~?」

 寝室へ声をかける登坂。引き戸一枚を隔てた向こう側には渡良瀬がいると思うと、途端に吹き出した緊張の汗が乾燥肌をらす。

 しかし寝室からの返答はなく、物音すら聞き取れなかった。

「……たぶん寝てるな。しばらくは起きねぇし、そっとしておくか」

 登坂は散乱した衣服や生活用品を拾い上げ、部屋の隅に寄せ集める。一時的に物を片付けたリビングは先ほどよりも広い印象を与え、男二人がくつろげる程度には改善された。

よしが起きるまで待つか?」

「先生さえよければ、待たせてもらいたいです」

 冷蔵庫から缶ビールとペットボトルの緑茶を持ってきたさかがソファに座り、緑茶を手渡された俺はソファの対面にある座布団へ胡坐あぐらをかく。

 腹を割って話す。登坂が放つ空気感から意図を察した。

「軽い発熱だから心配することはねぇ。元々、佳乃は身体からだが強いほうじゃねぇんだよ」

「だから、学校も休みがちだったんですね……」

「ああ、お前と知り合うはるか前から……あいつは弱くて、いつも一人だった」

 わたのクラスに行った日のことを思い出す。同級生が渡良瀬の存在を軽視していたり、うろ覚えだったり……周囲にんでいるとは到底考えられなかったが、体調不良による欠席や早退をせざるを得なかったとすればに落ちる。

「性格も偏屈でひねくれてるから、友達なんてできやしねぇ。お前みたいに能天気なおひとしだったら、佳乃と仲良くなれるかもしれない……オレが望むのは、それだけだった」

 人差し指でプルタブを開けた登坂が缶ビールを一口すすり、経緯を話し出す。

 寝ている渡良瀬に配慮しているのか、やや声量は抑えながら、だ。

「やり方が回りくどいですよ……。美術の補習なんてうそをつかなくても、事情を話してくれたら俺は断らなかったのに」

「義務感や同情みたいな薄っぺらい動機がなくても、お前は本気で佳乃と向き合ってくれるやつだと思うが、普通の学校生活みたいに自然な流れで打ち解けてほしかったんだよ」

 酒が進む登坂の舌が軽快に回り、上機嫌な様子でつつましく笑う。

 その砕けた表情は学校の教師ではなく、娘を思いやる親の顔そのもので。

「先生のそういう顔、あまり見たことがないので気色悪いっす」

「今は勤務中じゃねぇから真面目な教育者の顔はできねぇんだ。許せって」

「真面目な教育者の顔こそ一度も見たことないっす」

 エアコンが放出する温風により温まっていく身体。ほおや唇も柔らかくとろけ、くだらない雑談にも花が咲く。学校のこと、それ以外のこと……俺たちは校舎内では話せない会話に没頭し、口を結ぶ隙すらないほどしやべり倒した。

 登坂は担任の教師でありながら、親友のような間柄。直接言うのは恥ずかしいけど、俺が無意識に寄せる信頼は揺るぎないものになっていた。

 渡良瀬が屋上で星空を描いている話題に移り変わったタイミングで俺は大した思惑もなく、こんな質問をぽろりと漏らす。

「先生は〝スノードロップすいせい〟を信じますか?」

 その瞬間、微細な電流が走る。そう錯覚するほど空気は一変し、じようぜつだった登坂の威勢はどこかに奪い去られた。おもむろにテレビのリモコンへ触れた登坂は、公共放送のニュース番組にチャンネルを合わせる。

「……校内でも生徒たちがよく話してたな。もちろん半信半疑のやつらが大半だが『今年の二月は星が流れるかもしれない』って信じるやつも少なからずいるらしい」

わたも信じてる一人ですよ」

 そう言うと、さかも控えめにうなずく。

「スノードロップすいせいは……流れる」

 意外だった。登坂は確証のないうわさばなしなんて信じないと思っていたし、幻想的なまんが独り歩きした迷信など鼻で笑いそうな性格をしているからだ。

「先生は結構ロマンチストなんですね。似合わないです」

「勘違いすんな。オレは星を実際には見てねぇし、見たいとも思わねぇ」

「それじゃあ、なぜ信じるんですか?」

 登坂は缶ビールを飲み干し、気落ちしたように目線を下げた。


「八年前……彗星に願いを託したおひとしの女子高生がいたからだよ」


 あきれ笑いを装う登坂の声は重く沈んでいく。

「流れ星を見たら願いを唱える……どもだましのありきたりな迷信を信じて、彗星に祈ったら願いがかなってしまった。それだけの話だ」

「どんな願いだったんですか……?」

「さあ、そいつしか知らねぇ。でも……そいつが願いを託した八年前の夜、のは偶然じゃないと思ってる」

 とある人物が一人だけ脳裏をよぎる。

 偶然ながら俺の身近にも、星に願いを託したと自称する人がいた。

「ここから先は……お前が知りたいと思うなら、話す」

 登坂の言葉を受けた俺は迷いなく肯定を選び、一度だけ頷く。

 何も知らない部外者のままでいたくない。放っておけない渡良瀬のことを、そして『星に願いを託したお人好しの女子高生』のことを、今こそ知るべきだと欲求が騒いだ。

よしは……実の両親に愛されなかったんだよ。佳乃にとって親の声は不快な〝雑音〟も同然だったんだ」

 雑音──俺と出会った当初の渡良瀬が、ヘッドホンと音楽で遮断していた不快な音。

 自分が好きなものではなく、自分の好きなものに無関心な者が発する音を、渡良瀬は忌み嫌っていた。

「生まれつき佳乃は身体からだが極端に弱くてな、小学校にもあまり通えていなかった。それどころか……姉夫婦は弱っていく娘の育児すら放棄していたが、たかが大学生の部外者にはどうすることもできなかった」

 当時を思い起こしたのか、憤りと無力感を登坂は語気に絡ませる。

「公務員の教師を志したのは社会的信用を得るためで、佳乃の治療費や養育費を安定して稼ぐためだった。ちゃんとした立場の大人になれば、佳乃を助けてやれると思ったから」

 当時は親のすねかじる子供だったからこそ、さかは堅実な将来への道を選んだ。

 現状の自分に可能な選択肢を増やし、それなりの金銭や社会的な信用を得ることでわたを救いたいと願っていたのだろう。

「その教育実習で……オレは三年ぶりに再会した。おしやべり好きな幼なじみの女子高生に」

 登坂のまなしからは覇気が抜け落ち、声ももろかすれていく。

よしが普通の生活を送れるようになったのは、あいつの願いを星がかなえてくれたから。その代わり……あいつは……オレたちの前から……」

 テーブルに点々と落ちる透明なしずく。憎たらしいいつもの登坂の面影などせ、苦渋の瞳から決壊した大粒の涙が重力に身を任せながら、ほおを伝い滴り落ちていた。


「……あのすいせいは無条件で願いを叶えるんじゃない。全ての感情と引き換えに〝慰めの希望〟を与えるだけなんだよ」

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