第二章 気が付けばいつも一人になっているような後輩 9
渡良瀬が筆を置き、深呼吸を合図に肩の力を抜く。
ほんの二時間前までは
動きを止めた渡良瀬は言葉も発しない。見学していた二人も余韻に浸り、絵を見詰めて
「……あっ」
突如、
上半身だけを
「……マスクとエアブラシを使えば、もっと完成度は高められたと思いますが、時間的に難しいと判断しました。限りある時間の中では最善を尽くしましたが、中途半端な印象を抱かせてしまったら申し訳ないです」
「いや、マジで見入ってた! ど素人の拙い感想だけど、二時間で描いた絵だとは思えないくらい
「絵も感動しましたし、集中して描いている部長もカッコよかったです!」
二人の見学者に拙い語彙力で褒めちぎられ、渡良瀬は照れ臭さに瞳を伏せた。
リップサービスでもなく、気を使っているわけでもない。
一刻も早く直接伝えたかったのだ。たった二時間の間に抱き続けた激情の結末を。
お前が俺たちに与えてくれた感動の身震いを。
「……すみません。途中から見学会だってことを忘れてしまいました」
普段よりも覇気が
解説することを忘れ、妄想を具現化する魔法の錬成に没頭した。
「ふふっ……あははっ!」
喉元まで上昇した笑いの感情を我慢できず、豪快に吹き出してしまう。
「……やっぱり
「ごめん、渡良瀬らしいなって思って」
「渡良瀬は絵を描くことが楽しくなって夢中になっていたんだろ? 謝る必要なんてないし、そんなお前を見ている俺のほうも夢中になってたからさ」
俺の言葉に同調したのか、隣にいた下級生もこくこくと頭を縦に振った。
渡良瀬は笑顔こそなかったものの、役目を全うして
渡良瀬は人形なんかじゃなく、感情を読み取りにくいだけ。彼女と過ごしていく中で
時刻は午後六時半を回ったところ。二月中旬の太陽はさっさと眠りに落ち、すでに夜が上空を支配している。完全下校の一時間前、渡良瀬が部活を切り上げる時間帯だ。
「……美術部見学会を終わります。今日は来ていただいて本当にありがとうございました」
立ち上がった渡良瀬は、深々とお辞儀した。
年下相手でも関係なく、純粋に美術へ興味を持ってくれた人への礼儀。他人との交流が不得意な渡良瀬なりに、頑張って体現した最大限の感謝である。
下級生は恐縮し、反射的にお辞儀を返す。お互いに頭を下げ続けていたため、謎の
見学会の後、
「美術部の雰囲気、どうだった?」
下級生はやや考えつつ、
「緊張してましたけど先輩が明るくしてくれて、部長は丁寧に教えてくれて、実際に描かせてくれて、素晴らしい絵まで見せてもらいました。想像以上に楽しかったです」
好意的な反応ではあるものの、どこか歯切れが悪い。
なんとなくだけど、下級生が導き出す結論が伝わってくる気がした。
「ただ、部長さんみたいに青春を
「そっか……」
「でも、部長さんのファンになりました。これからも陰ながら応援して、絵を見ながら感動する側の人間であり続けたいと思います」
下級生は申し訳なさそうに会釈し、通学用の靴へ履き替えた。
そのまま昇降口の外まで見送り、遠ざかっていく背中を見送っていたが、
「もし部長さんが将来的に個展を開いたら、絶対見に行きますね!」
一瞬だけ振り向いた下級生は飾らない笑顔の白い歯を
無駄なんかじゃない。今日、渡良瀬がやったことは無意味じゃないんだ。
一人の見学希望者に興味を抱かせ、
あいつが落ち込まないように
気落ちして美術室に戻ると、渡良瀬は帰り支度を整えていた。愛用の画材をリュックへ収納し、防寒用のアウターを羽織ったので俺より先に帰る……それが、ここ一週間の流れ。
「……すみません、今日もお先に失礼します。帰るときには戸締りをお願いします」
聞き慣れた
「美術室に一人で残ってもやることないし、俺も帰ろうかな。もう外も暗いから、徒歩だけど家まで送っていこうか?」
余計なお世話かもしれないけど、帰るタイミングが
「……センパイはもう帰りたいですか?」
「いや、すぐに帰る理由はないんだけどさ。なんだろう……」
自分自身でも動機は曖昧で不鮮明。
気恥ずかしい気持ちがふつふつと湧き上がってくるも、大半の生徒や教員が学校から離れ、広い建物に取り残された二人という特別な空気感は俺の青春を後押しする。
「まだ物足りないっていうか、もう少し
……物足りなさを覚えていた。部活の時間だけでは飽き足りず、心が渇きに
顔面が急激に
「……それでは、付き合ってくれますか?」
視線を
首を
「……もう少し、部活動に付き合ってください」
ああ、そういうことね。めちゃくちゃ
舞い上がったアホな男が勝手に解釈を間違え、無駄に焦ったダサい姿を渡良瀬の記憶から抹消するべく瞬時に表情を整えた。
「……って、部活動? これから帰るんじゃないの?」
渡良瀬は美術室のドアを開け、立ち
「……もっとお話し、したくないんですか?」
ぼそりと
職員室に立ち寄った渡良瀬に付き添う形で俺も同行。夜の学校に居残っていた
「へぇ~、今日は
「……わたしの付き人なので」
「やーい、
やかましいわ! 世話焼き係を満喫してるから良いけどな!
登坂は美術室の鍵を返却されると、それとは異なる鍵を渡良瀬に渡す。部活を早く切り上げた渡良瀬は、ほぼ毎日この鍵を受け取っているのだろう。
「見学会、楽しそうだったな。あんなにハイテンションな佳乃は久しぶりに見た」
どうやら、登坂は美術室前の廊下まで様子を見に来ていたらしい。
「……ハイテンションじゃない。あれは通常。わたしはいつでも冷静。平常心だったから」
「へいへい。そういうことにしときましょーか」
誰もいない階段を上っていくと、四階へ到着する。この階に目的地があるのかと思いきや、渡良瀬は最上階へ続く薄暗い階段に足をかけた。待ち受ける『生徒立ち入り禁止』の立て看板を素通りし、警告を物ともせず不気味な段差を上っていく。
「……はぁ」
さすがに疲弊したのか
「大丈夫か……?」
「……問題ありません。情けないことに運動不足なので」
体育会系とはかけ離れた後輩の体力は
余剰な机や椅子、学校行事の備品などが踊り場に置かれ、所狭しと隅に寄せられている物置き状態の階段を上り、施錠された頂点のドアを開放した先は……学校の屋上で。
「……美術部活動の第二部を始めましょう」
遮るものなど何もない冬の星空が、俺たちを寒風と共に出迎えてくれた。