第二章 気が付けばいつも一人になっているような後輩 8

 陰影の描写──美術用語で言う〝調子をつけ始めて〟から約三十分後……渡良瀬は静かに鉛筆を置いた。

「……こんなところでしょうか」

 平らな紙に描かれたモノトーンの絵なのに、微細なタッチが生み出す立体感。

 影を部分的に消し取った白い領域により光源の方角が淡く表現され、反対側に位置する領域の黒が重厚に引き立つ。制作の過程は自らの目で見学していたはずなのに、これが数本の鉛筆だけで描かれた事実をいまだに意識が受け入れてはくれない。

 美術の世界に縁遠かった俺や下級生は、驚嘆のまなしがしばし収まらなかった。

「……本格的に描き込むとなると四~五時間はかかってしまうため、今日はここまでにしました。お二人も参考にしやすいと思いますよ」

 素人の二人から「マジですか……」という声が漏れた。すでに仕上がりの完成度だと疑わなかっただけに、これより上の段階があるなんて想像の域を超えている。

「……それで、この後は、えっと」

 俺たちの感動を尻目に、眉を八の字に垂れ下げたわたが困り果てていた。

 そうだ、俺はサクラとして見学会をスムーズに進行させなければ。

「渡良瀬部長が風景画を描いている姿を見てみたいな。絵の具や筆の使い方とか、描いているときの雰囲気とか、初心者は知っておきたいと思うから」

 俺が下級生のほうへ視線をやると、肯定のうなずきを返される。

「……それでは、ライブペイントをしましょう」

 渡良瀬は自らのスペースへ移動し、画材の下準備を始めた。先ほど画用紙を水張りしたパネルがイーゼルに置かれており、特等席に腰掛けた渡良瀬とパネルが相対する。

 見学会のメインイベント。渡良瀬が実際に風景画を描く工程をじかに感じ取ってもらい、部活動における当面の目標点として意識付けをさせたり、アナログのイラストに対する興味を加速させたい。微小な好奇心に熱意の爪痕を残したいのだ。

 渡良瀬の周辺には机が並べられており、道具台として様々な画材の類が所狭しと置かれている。その中でも目を引く、色とりどりの蓋つき小瓶。飛散した絵の具でカラフルに汚れた小箱に敷き詰められ、並外れた存在感を放っていた。

「……わたしが主に使うポスターカラーは安価で手に入りやすく、高校生にはありがたいです。わたしは二十四色ほどをメインとして、すぐ使えるように配置しておきます」

 渡良瀬が説明した通り、二十四個の小瓶が箱の中へ規則正しく配列されていた。当然ながら小瓶に注入されているポスターカラーの色は全て別々で、すでに蓋は外されている。

「……空と雲を描いていきます」

 背後から見据える俺たちへは目もくれず、渡良瀬は小瓶のポスターカラーを筆先でさらい、横一線に並べられた絵皿へ取り分けていく。作業の手を休めずにさらな画用紙を凝視したまま、早口の小声で解説を交え続けた。

 用いるのは空気遠近法。風景の遠方にいくほど不明瞭にし、彩度を落とす。最奥の空はグレー系を中心に色を組み、最初に筆と触れ合うスタート地点だという。

 最も遠く。明るくぼやけた空気感は純粋なホワイト。最奥の雲と空気の層から段々と色彩を濃く変化させるため、渡良瀬は絵皿の上で数色の絵の具を混ぜる。ホワイト、フレンチグレー、ブルーグレー、ブルーセレストが筆先で渦を巻くと、絵皿の上には青みがかった空気感の混色が誕生した。

 配合を調整した影の色を数パターン……絵皿の枚数分ほど作り置き、色の伸びを良好にするため適量の水を差す。渡良瀬が水を垂らす器具は市販のしよう差し。高価な道具や気取った画材とは無縁なのがわたらしいというか、素人目線には親近感が湧いた。

 乾燥すると色合いが薄くなるため若干濃い目になるよう混色し、遠景から近景にかけて空と雲のグラデーションをつけていく。ささやくように解説しながら最善の色を次々と錬成し、なんの変哲もない平筆が情熱のステップを踏む。近景になるにつれて暗い青へ。閑散としていたキャンバスへ雲と影の層が幾重にも積み重なり、平面の雲海に鼓動が吹き込まれる。

 風の流れを表現したい渡良瀬は潤いが残る塗りたての雲を〝カラバケ〟という専用のこすり、にじませるようにして周囲の色へ溶け込ませる。

 絵の世界のみで使える渡良瀬の魔法。筆を持つ細い腕を振るだけで、風に流される雲の模様や白濁にぼやける空気のもやを自在に出現させる魔法使い。

 工程を重ねていくうちに、渡良瀬の口数は減少の一途を辿たどった。

 俺たち相手に散漫になっていた意識が、立ち向かう絵の一点に拘束されている。会話が途切れ、自らの呼吸音が最も邪魔になる。渡良瀬が魔法を使う音を、もっと聴きたい。

 初心者向けの解説がぴたりと止まっても、細身な後ろ姿で黙々と語り続け、現在進行形で色づき始めた画用紙でも鮮明に示す。

 絵皿に色を作り、筆先に乗せた色を画用紙へ自在に解き放ち、筆先の汚れを筆洗にて落とし、絵皿に色を作る。素人目には、ほぼそれの繰り返し。

 ひたすら、ただひたすら、脳内に想像した壮大な風景を細い筆先に宿し、指先の感覚を頼りに現実の世界へと創造していくのだ。

 そして──見る者のまぶたを震わせ、精神をたぎらせる。

 これだ、この感情。息をするのも煩わしい。まばたきすら忘れ、眼球が乾いてもなお、視覚が吸い寄せられる。ずっと、時がつのも恐れずに堪能していたい。浸っていたい。

 最も手前の雲や影は深海を模した暗い青。かいえる微小な光の加減も考慮し、マリンブルー、ブルーセレスト、バントアンバーを混色したあと、コバルトバイオレットとオリーブグリーンも隠し味として仕込む。そのひと手間により青が強くなりすぎず、弱い自然光が存在感をのぞかせるリアルな表情が描き加えられた。

 どれだけの時間が経ったのだろう。魔法の終わりを悟る。もう間もなく完成を迎えそうになったとき、張り巡らされた興奮の糸に一抹の寂しさが入り混じった。

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