第二章 気が付けばいつも一人になっているような後輩 7
「部長、そろそろ画用紙に塗った水が良い
「……もちろん、あなたに言われなくても気付いていました」
ウソつけ。下校時刻まで熱弁するつもりだっただろ……とか、
「……裏側に水分を染み込ませた紙をひっくり返し、パネルに置きます。紙の上下と両端がパネルからはみ出すので、パネルへ沿うように折っていきましょう。布か何かで紙の表面を
渡良瀬は口頭で説明した通りの手順を俺たちの前で同時に進めていた。実際に作業してもらいながらだと、脳内で思い浮かべるだけよりも
俺が水張りをする機会は今後も皆無だろうけど、渡良瀬の後輩にあたる下級生は、もしかしたらと……新入生の入部を願い、寡黙な部長は懸命に
「……紙が貼り付けられたパネルの四辺を、水張りテープで丁寧に留めていけば……」
水張りの仕上げと言わんばかりに、渡良瀬が水張りテープと呼ばれるものを紙の縁に貼り付けていき、熟練の
「……このまま乾燥させれば、パネルの水張りは完了です。鉛筆や消しゴムなどを用意して、いつでも描き出すことができますよ」
肉体作業を
だからなのか、俺の両手は祝福の拍手を鳴り響かせてしまう。つられた下級生も後を追うように拍手をしてしまい、四本の手による乾いた二重奏が美術室に奏でられた。
「……あの、基礎の範囲なので……そんなに
渡良瀬は照れ臭そうに謙遜するのが精いっぱい。拍手が続いている間はどう反応していいのか分からずに
「今日は見学会だけど、実際にデッサンを体験してみてもいいの?」
見学者を装うサクラが素人目線で質問してみると、渡良瀬がこくりと
初心者でも描けそうなものなら、と下級生も承諾してくれたので、渡良瀬が二人分のスケッチブックを手渡してくれた。
「……まず、デッサンするための鉛筆を削ってください」
「誰が?」
「……鉛筆削りマイスター」
「ほんとに誰だ!?」
この一週間、帰り際に鉛筆を削っていた俺はマイスターの称号を得てしまったらしく、喜ぶところなのか迷う。何も知らない下級生に本物の削り方を見せつけてくれるわ。
右利きの鉛筆削りマイスターは、左手に鉛筆を握り込む。右手に持ったカッターの刃を鉛筆の先端にあてがい、鉛筆を覆う左手の親指でカッター本体を押し出すと、先端が自動的にスライスされていく。右手を動かすのではなく、左手の親指でカッターの刃を前へ動かし、切り離された細かい木片がティッシュの上へ次々と降り積もった。
無表情の
鉛筆の軸を回転させながら削っていくと、やがて先端は鋭い傾斜となり、鈍く黒光りした芯が木部からお目見え。B系の芯を1・5センチほど露出させる意識で刃先への力を微調整しつつ、今度は刃を芯へ直角になるよう添え、
「どうよ……これ! 素晴らしいな!」
自画自賛の
「これはもはや、熟練の鍛冶職人が仕立てた刀剣だろ」
「……いえ、文房具の鉛筆です」
誇張した比喩はノリが悪い渡良瀬に即刻訂正されてしまう。
削り終えた鉛筆を下級生にプレゼントし、俺たち見学組は机に並べたモチーフと向かい合う。卓上のモチーフと手元のスケッチブック。それらへ視線を交互に往復させながら、削りたての芯を縦横無尽に疾走させて大まかな形をとった。
「……ビンは円筒形、リンゴは球体として単純に捉えることができれば、ざっくりと形をとるのは難しくありません」
「ほう、なるほどね。勉強になるなぁ」
「……分かったふうな
先輩に対する発言が辛辣すぎますね。もうちょい優しくしてほしいです。
「渡良瀬部長の助言は分かりやすいですね! 勉強になります!」
「……チョコレートをあげます」
従順な一年生に対してはベタ甘なのが理不尽なんだが! 渡良瀬は褒められて気を良くしたのか、下級生には一口サイズのチョコを差し上げている。
実際、俺と下級生のデッサンには実力差が一目瞭然で表れており、アドバイスの吸収力も向こうのほうが断然高い。ど素人の俺は迷い線が散乱し、消しゴムの多用による薄汚れた黒ずみも絵面を醜くさせ、空き瓶とリンゴの大きさもチグハグ。バランスも最低だった。
趣味レベルでも絵を描いていた下級生は必要最低限の線を用いて物体の外枠を手早く形作り、パッと見でもモチーフの正体が特定できる。
だが、想定の範囲内。絵心の
「……そこ、
下級生が上手く描けたらお菓子をあげる、というのも事前に打ち合わせ済みだったが、加減が分からない
「……ご褒美のチョコ、切らしてしまいました」
ほら、そうなりますよね~。横目で傍観する俺は苦笑しつつ、その光景はずっと続いてほしい温かな日常の一幕だから、二週間後に卒業しても忘れないよう記憶に植え付けた。
「……空き瓶の中央に中心線を引いて、左右の幅が均等かどうか確認します。瓶の輪郭と中心線の距離を定規で測り、左右の長さが同じであれば左右対称で
渡良瀬は
「……影となる部分に縦線を入れていき、明暗をはっきりと強調させます。リンゴは丸いので形に添うように縦線も丸みを帯びます。
渡良瀬が目の前で線を引きながら教えてくれるので、すんなりと覚えられる。それを即座に実践するのは難しいけれど、俺も下級生も聞き耳を立てながら熱心に見入っていた。
「……ここから先は明確に調子をつけていき、変に浮いてしまう線は
渡良瀬は柔らかい2Bの鉛筆を寝かせ、薄く引いていた縦線をさらに濃く上塗りしていく。小刻みに上下する鉛筆は残像を
擦筆という細長い器具の先端で一部を