第二章 気が付けばいつも一人になっているような後輩 7

「部長、そろそろ画用紙に塗った水が良いあんばいになったかと」

「……もちろん、あなたに言われなくても気付いていました」

 せきばらいした渡良瀬が平静を取り繕い、俺に対して不満を表明してくる。

 ウソつけ。下校時刻まで熱弁するつもりだっただろ……とか、なヤジは飛ばさず、陽気に平謝りしておこう。これで円滑な進行に戻れるし、思わず笑顔になった下級生も肩のこわりを緩和してリラックスしやすい。

「……裏側に水分を染み込ませた紙をひっくり返し、パネルに置きます。紙の上下と両端がパネルからはみ出すので、パネルへ沿うように折っていきましょう。布か何かで紙の表面をこすり、しっかりと折り目を付けていくのがポイントです」

 渡良瀬は口頭で説明した通りの手順を俺たちの前で同時に進めていた。実際に作業してもらいながらだと、脳内で思い浮かべるだけよりもはるかに手順が覚えられる。

 俺が水張りをする機会は今後も皆無だろうけど、渡良瀬の後輩にあたる下級生は、もしかしたらと……新入生の入部を願い、寡黙な部長は懸命にしやべっているのだ。

「……紙が貼り付けられたパネルの四辺を、水張りテープで丁寧に留めていけば……」

 水張りの仕上げと言わんばかりに、渡良瀬が水張りテープと呼ばれるものを紙の縁に貼り付けていき、熟練のさばきでパネルに紙を固定していく。パネルの角にもきっちりテープを巻き、パネル自体を机に置いた渡良瀬は大きく息を吐いた。

「……このまま乾燥させれば、パネルの水張りは完了です。鉛筆や消しゴムなどを用意して、いつでも描き出すことができますよ」

 肉体作業をこなしたせいか、顔色に若干疲労が浮き出た渡良瀬だったものの、序盤の一仕事を終えた今はどこか満足感を秘めているようにも思えた。

 だからなのか、俺の両手は祝福の拍手を鳴り響かせてしまう。つられた下級生も後を追うように拍手をしてしまい、四本の手による乾いた二重奏が美術室に奏でられた。

「……あの、基礎の範囲なので……そんなにすごいことではないですので」

 渡良瀬は照れ臭そうに謙遜するのが精いっぱい。拍手が続いている間はどう反応していいのか分からずにすくみ、心底困って狼狽うろたえていた。

「今日は見学会だけど、実際にデッサンを体験してみてもいいの?」

 見学者を装うサクラが素人目線で質問してみると、渡良瀬がこくりとうなずく。簡単な作業を肌で感じてもらうのが初心者へのアプローチとしては有効だろうし、俺も補習の課題を同時に熟せる。まさに一石二鳥であり、渡良瀬とも事前に打ち合わせ済み。

 初心者でも描けそうなものなら、と下級生も承諾してくれたので、渡良瀬が二人分のスケッチブックを手渡してくれた。あらかじめ準備しておいた空き瓶とリンゴの出番というわけだ。

「……まず、デッサンするための鉛筆を削ってください」

「誰が?」

「……鉛筆削りマイスター」

「ほんとに誰だ!?」

 この一週間、帰り際に鉛筆を削っていた俺はマイスターの称号を得てしまったらしく、喜ぶところなのか迷う。何も知らない下級生に本物の削り方を見せつけてくれるわ。

 右利きの鉛筆削りマイスターは、左手に鉛筆を握り込む。右手に持ったカッターの刃を鉛筆の先端にあてがい、鉛筆を覆う左手の親指でカッター本体を押し出すと、先端が自動的にスライスされていく。右手を動かすのではなく、左手の親指でカッターの刃を前へ動かし、切り離された細かい木片がティッシュの上へ次々と降り積もった。

 無表情のわたがしきりにうなずいている。うむ、くできているあかしだ。

 鉛筆の軸を回転させながら削っていくと、やがて先端は鋭い傾斜となり、鈍く黒光りした芯が木部からお目見え。B系の芯を1・5センチほど露出させる意識で刃先への力を微調整しつつ、今度は刃を芯へ直角になるよう添え、えんすいじように研いでいく。

「どうよ……これ! 素晴らしいな!」

 自画自賛のたけびがとどろいた。帰宅部の鉛筆削りマイスターが、十分足らずの間に成し遂げたのだ。人肌など容易たやすく貫通する鋭利な先端に仕立て上げた鉛筆を指でまみげ、渡良瀬の眼前に誇らしく掲げる。

「これはもはや、熟練の鍛冶職人が仕立てた刀剣だろ」

「……いえ、文房具の鉛筆です」

 誇張した比喩はノリが悪い渡良瀬に即刻訂正されてしまう。

 削り終えた鉛筆を下級生にプレゼントし、俺たち見学組は机に並べたモチーフと向かい合う。卓上のモチーフと手元のスケッチブック。それらへ視線を交互に往復させながら、削りたての芯を縦横無尽に疾走させて大まかな形をとった。

「……ビンは円筒形、リンゴは球体として単純に捉えることができれば、ざっくりと形をとるのは難しくありません」

「ほう、なるほどね。勉強になるなぁ」

「……分かったふうなあいづちを打ちながら実は何も分かってないセンパイ」

 先輩に対する発言が辛辣すぎますね。もうちょい優しくしてほしいです。

「渡良瀬部長の助言は分かりやすいですね! 勉強になります!」

「……チョコレートをあげます」

 従順な一年生に対してはベタ甘なのが理不尽なんだが! 渡良瀬は褒められて気を良くしたのか、下級生には一口サイズのチョコを差し上げている。

 実際、俺と下級生のデッサンには実力差が一目瞭然で表れており、アドバイスの吸収力も向こうのほうが断然高い。ど素人の俺は迷い線が散乱し、消しゴムの多用による薄汚れた黒ずみも絵面を醜くさせ、空き瓶とリンゴの大きさもチグハグ。バランスも最低だった。

 趣味レベルでも絵を描いていた下級生は必要最低限の線を用いて物体の外枠を手早く形作り、パッと見でもモチーフの正体が特定できる。

 だが、想定の範囲内。絵心の欠片かけらもない俺が道化となってダメな例を演じ続ければ、下級生の実力がという空気を演出しやすい。下級生を上機嫌にさせ、スタート地点から自信を持たせることが有能なサクラの狙いなのだ。

「……そこ、いですね。チョコレートをあげます」

 下級生が上手く描けたらお菓子をあげる、というのも事前に打ち合わせ済みだったが、加減が分からないわたはポンポンと積極的にお菓子を配るので、

「……ご褒美のチョコ、切らしてしまいました」

 ほら、そうなりますよね~。横目で傍観する俺は苦笑しつつ、その光景はずっと続いてほしい温かな日常の一幕だから、二週間後に卒業しても忘れないよう記憶に植え付けた。

「……空き瓶の中央に中心線を引いて、左右の幅が均等かどうか確認します。瓶の輪郭と中心線の距離を定規で測り、左右の長さが同じであれば左右対称でえもします」

 渡良瀬はあらかじめ用意していた空き瓶のデッサンに中心線を引き、左右の外枠までの長さを定規で測る。左右対称を確認したら、今度は瓶の右側に縦の線を引き並べていく。

「……影となる部分に縦線を入れていき、明暗をはっきりと強調させます。リンゴは丸いので形に添うように縦線も丸みを帯びます。へいたんだった絵が立体的になる、光源によって発生する陰影の描写……つまり〝調子をつける〟ことが美しいデッサンの基礎になりますね」

 渡良瀬が目の前で線を引きながら教えてくれるので、すんなりと覚えられる。それを即座に実践するのは難しいけれど、俺も下級生も聞き耳を立てながら熱心に見入っていた。

「……ここから先は明確に調子をつけていき、変に浮いてしまう線はさつぴつませます。物体は底にいけばいくほど影が濃いので、鉛筆も柔らかいものに変えていきましょう。わたしが仕上げていくので、お二人は見ていてください」

 渡良瀬は柔らかい2Bの鉛筆を寝かせ、薄く引いていた縦線をさらに濃く上塗りしていく。小刻みに上下する鉛筆は残像をまとい、乾いた摩擦音が高速のリズムを刻む。

 擦筆という細長い器具の先端で一部をこすり、ワザとらしい縦線を自然に馴染ませ、本物の影のように溶け込ませる小技は渡良瀬にとって容易でも素人目線だと本格的な描写に思えて映える。用途に合わせた硬さの鉛筆を持ち替えたりする手腕が、見物人の無知な瞳を好奇でわしづかむ。丸みを帯びたリンゴの照り。それを鉛筆のみで強調するために拭い取られるくぼみの境界線。光の反射を表現した白い跡を作り上げ、最終の仕上げに入る。

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