紗和国では雨が降らなくなって、もうどれくらい経つだろう。
切り立った崖の上で跪いた姫は、この国に住む人々の事を考えていた。
紗和国のほとんどの土地では土が乾き植物が枯れ、人も動物も喉の渇きに耐えかねている。
だが目の前ではそんな光景が噓のように、激しい水音を立てて滝が流れていた。
たたきつけるように流れ落ちる水音のせいで、耳が痛い程だ。跳ね返った雫で顔も身体もびしょ濡れになっていた。この滝の水を田畑に引き、作物を育てられたら、どれだけの命が救われるだろう。大内裏でそう提案した事もあったが、それはできないと官吏達に止められた。
この滝は竜神様が住まう聖なる場所だ。だからこそ日照り続きの紗和国でも、ここだけは水で潤っている。官吏達は、この水を人が使えば竜神の怒りを買うと恐れおののいているのだ。
姫は両手を岩について、滝に向かって頭を下げた。
「竜神様。どうか、雨を降らせてください。水がなければ作物は育ちません。喉の渇きと飢えで、人々や動物達が次々と命を落としています。私は紗和国を代表して、竜神様にお願いにあがりました。ここに来る事がどういう意味なのかもよくわかっています」
人の身でこの滝に近づくのは、本来なら御法度だ。しかし例外が一つだけある。
紗和国は、数十年に一度は日照りに悩まされる。そして日照りが極限の状態になった時に行う、雨乞いの儀式があった。皇族の姫が竜神の生け贄として、この崖から滝へと身を投げるのだ。崖の高さからして、そんな事をしたら命はないだろう。
その恐ろしい儀式は、過去ずっと繰り返されてきた。帝である父は、官吏達に姫のうちの誰かを生け贄として竜神様に捧げるよう進言され、食事も喉を通らないほど苦悩していた。
父は病弱で気弱なところがある。官吏達が進言という名目で言い含めにかかると、逆らえない人だった。それでも娘を生け贄にするのは、相当悩んだようだ。
そんな父に自らこの滝へ行くと申し出たのは、幼い妹達と民を助けたかったからだ。
必死で祈り続けていると、ふと声が聞こえた。
『民の為に命を捨てる、か。紗和国の姫は、いつもそうして自分が犠牲になるのだな』
声が直接頭に響いているような気がして、思わず耳に手を当てた。それと同時に、ここに来た一番の目的を果たす機会が巡ってきたと悟る。心を落ちつかせる為に、息を一つついた。
「私は────命を捨てるつもりはありません」
目の前の大きな滝そのものが竜神のような気がして、身体が小刻みに震えていた。
だが顔には不安を出さないよう、気を強く持った。
『……ほう。そんな事を言い出した姫は初めてだ。死を前にして震えて何も言えないか、みんなの為に死ぬという大義名分を背負って、覚悟を決めて崖から飛び降りるかどちらかなのに』
「死んでは民の為に何もできません。生きて、私にできる事をしたいのです」
『それでは雨乞いにはならないぞ。雨を降らせたいなら、犠牲を払わねば』
竜神の声はどこか面白がっているように聞こえた。
「命を捧げるだけが犠牲ではないと思います。たとえば……竜神様は私の願いを叶える。そして私は竜神様の願いを叶える、そういう犠牲の払い方はいかがでしょうか?」
一世一代の賭けだった。数十年に一度はここで誰かが死ぬ。もうそんな犠牲は出したくない。
もちろん、うまくいくなんて思っていない。ここで死ぬ覚悟もできている。
しかし死ぬ前に、神を相手にあがいてみたかった。
しばらく、滝の水音だけが響いていた。怒らせたかと不安に襲われつつもじっと待つ。
『……お前に私の願いが言い当てられるか? それができたら、考えてやってもいい』
九分九厘断られると覚悟していた。その時は国の為、民の為に、ここから身を投げるつもりだった。竜神の言葉に一筋の光明が見えた気がして、じっと滝を見つめた。
「竜神様の願いは……………………………ではありませんか?」
答えがあっているかなんてわからない。だが、この機会を逃してはならなかった。
「もしそうなら、願いを叶えるお手伝いができると思います。取り引きしませんか?」
なるべく自信ありげな声を出した。
この取り引きが正しいか間違っているか、その答えがわかるのはずいぶん先の事だった。