晴れた空は気持ちがいい。緋蝶は倉から漆塗りの膳を運びながら、大きく息を吸い込んだ。
「いいお天気。風も気持ちいいし、ようやく春めいてきたわ」
広い庭には大きな桜の木が何本もあり、その枝には桃色の花がいくつも咲き乱れている。
見事な桜は屋敷の主人の自慢だ。今夜はその桜を愛でながら、宴が行われる予定だった。
この屋敷で下働きを始めて二度目の宴だ。準備は大変だが、庭に人が集まって賑やかになるのを想像すると、心が浮き立って楽しい気分になる。
夜桜を楽しむ人々の様子を思い描きながら、持っていた膳を抱え直して廊下を進んだ。
屋敷で働き始めた二年前は、十四歳だった。その頃は身体が小さくて膳をいくつもまとめて運ぶのは大変だったが、いまは同年代の娘よりもやや背丈も高くなり、毎日の掃除洗濯のおかげで体力もついた。腰まで伸びたまっすぐな黒髪を一つに縛り、動きやすい小袖をまとっててきぱきと働いていると、毎日が充実しているように感じた。
「さ、急がなくては。食事の支度にお客様を迎える準備に……やる事がいっぱいだわ」
足早に庭を進み、母屋の隣に造られている厨房がある建物に足を踏み入れる。
そこで使用人達が集まって何か話しているのを見て、首を傾げた。
「どうかしたんですか?」
声をかけると、みんながこちらに顔を向けた。
一番年配の不知火が、眉をつり上げているのを見て、嫌な予感がする。
「今夜の為に町から何人か手伝いに来てもらっているんだけど、その中の一人が荷物に入れておいた薬箱がなくなったって言ってるのよ。漆塗りの薬箱で、けっこう値の張るものですって。荷物は厨房の隅に置いてもらっていたのよね。緋蝶、さっきその荷物の近くにいたわよね」
問い詰める口調だった。こんな風に疑われるのは初めてではない。
ぐっと顎を引いて、息を吸い込んだ。
「そこの棚から食器を出しただけで、荷物には触っていません」
「噓つきなさい。あんたが盗んだんでしょ」
不知火の口調は、犯人だと決めてかかっているかのようだ。
「どうしていつもわたしを疑うんですか?」
自分と同じ、十六歳の松風が腕を組んだ。
「一番お金に困ってるからよ。親はいないし、着ているのだっていつも同じ小袖だし、装飾品の一つも持ってない。お金がほしくないはずないわ。それに前もお金を盗んだでしょ」
松風が言っているのは、一年前の出来事だ。お金の入った巾着を拾ったので届けようとしたら、盗んだとみんなに誤解された。あれ以来、何かあると真っ先に疑われるようになった。
「あれは盗んだんじゃありません。何度言ったら信じてもらえるんですか?」
感情的になったらまずいと、わかっていた。なるべく冷静にと、心で念じる。
「どうだか。泥棒と一緒に仕事なんてできないわ。東雲様に気に入られているからって……」
「私がどうかしましたか?」
声が聞こえて、目に見えてびくっとしたのは不知火達だった。
振り返ると、厨房の入り口に背の高い細身の男が立っていた。
見慣れた姿なのに、以前と明らかに違うところがあって、いまだに面食らう。
「東雲様。このようなところにお出ましとは……」
不知火があたふたと頭を下げたので、みんなそれに倣う。
東雲は屋敷の一人息子で、現在二十歳。優しげな顔立ちと穏やかな声は、とても魅力的だ。
立ち居振る舞いも美しく、淡い黄色の狩衣をまとった姿は、女性達の目を引くほど優雅だ。
貴族なのに使用人に対しても礼儀正しく接してくれる彼は、みんなから好かれていた。
東雲がみんなに向かって微笑みかける。
「薬箱がなくなったと聞いたから、持ち主を呼んで探してみたんです。そうしたら、井戸の近くに落ちていました。昼食のあとに薬箱を荷物から出して、井戸から水を汲んで薬を飲んだそうですが、その時に落としたようです。見つかったから心配しなくていいと伝えに来ました」
不知火と松風が目を白黒させて、もう一度お辞儀する。
「東雲様のお手を煩わせるなんて、申し訳ありません」
「いいんです。それより今日は大事なお客様がたくさんいらっしゃいますので、準備をしっかりお願いします。……緋蝶。私の準備を手伝ってほしいんですが、いいですか?」
「はい」
膳を置いて、悔しげな顔をしている不知火達の視線を背中に刺さるほど感じながら、厨房を出る。しばらく庭を歩いて周りに誰もいないのを確かめてから、声をかけた。
「すみません。東雲様。また助けて頂いて」
頭を下げると、東雲が振り返った。
「気にしなくていいです。しかし犯人扱いされるのは、これで何度目ですか? どうして緋蝶ばかり疑われるんでしょう」
答えはわかっているが、曖昧に笑ってごまかした。一年前に盗みの疑いをかけられた時、東雲は唯一信じて庇ってくれた。そのおかげで役人に突き出されるのは免れたし誤解も解けた。
しかし東雲が庇った事が不知火達は気に入らなかったらしい。不知火は、東雲が小さい頃から世話をしていて息子のように思っているし、松風は彼に好意を持っている。
そんな事もあってか、彼女達はあれからたびたび意地悪をしてくるようになった。
東雲がため息をつく。
「今夜の宴が終わったら、私は大内裏に上がります。私がいなくなったら、緋蝶がどうなるか心配で……」
東雲を改めて見上げる。夕焼けに似た、肩までの明るい茶色の髪を一つに結び、緑の瞳はまるで硝子細工のよう。紗和国の民は黒い髪に黒い瞳を持つ者ばかりだ。一月ほど前までは、東雲もそうだった。だがある日突然、髪や瞳の色が変わった。それは神に選ばれた証だという。
「寂しくなります。盗みを働いたと濡れ衣を着せられた時も、東雲様はただ一人わたしの話を信じてくださった。そのご恩を返したかったのに……」
俯くと、東雲の手が伸びてきて、肩に置かれた。
「私は真実をみんなに知らせただけです。気にしないでください。緋蝶は身寄りもないし、うちで働いてもらう以上は、お嫁に行くまで面倒を見るつもりでした。しかし私は竜神様に選ばれて、大内裏に上がる事になりました。最後まで面倒を見られなくてすみません」
申し訳なさそうな東雲に、ぶんぶんと首を振った。
「とんでもないです。私なんかを気にしてくださって逆に申し訳ないです。あの……失礼な質問かもしれませんが、東雲様は竜神様に女帝の夫君候補として選ばれたから、髪と目の色が変わったと聞きました。でも、竜神様なんて本当にいらっしゃるのでしょうか?」
紗和国が女帝を擁立するようになって、百年ほど経つという話は聞いた事があった。
しかし庶民として生まれ、下働きをして暮らす自分には、誰が帝でどんな政治を行っているのかなんて、あまり関係ないと思っていた。紗和国に伝わる竜神の話も知ってはいたが、実際にこうして東雲の変化を目の当たりにしても信じられないでいた。
「信じがたいでしょうが、竜神様はいると思います。そうでなければ、私の髪や目の説明がつきません。それに主上には、竜神様のお告げを聞く能力があるそうです」
東雲が腕組みをした。
「紗和国は昔から日照りが起きやすく、百年ほど前までは数十年に一度は死者を出すほどの日照りが起こっていたそうです。しかし竜神様のお告げで女帝を擁立するようになってからは、農作物に影響するような長い日照りは起こっていませんし、国も栄えています」
「でも、最近は雨が降っていませんよ。屋敷に野菜を持って来てくれる農家の方が、ここ一月ほど雨が降らないせいで、作物の出来が悪くなっているって」
野菜の値段がいつもの倍以上すると、不知火がぷりぷり怒っていた。
まだ川が干上がるほどではないが、最近の水不足は深刻になりつつある。
「ええ。噂ですが、跡継ぎになれる皇族の姫がいらっしゃらない事に、竜神様が腹を立てているのではと聞きました。主上にはお子様が一人いらっしゃいますが、男の子なんです」
緋蝶は紗和国に伝わる竜神の話について、思い浮かべた。
「確か初代の女帝が竜神様に雨乞いした皇女様だったそうですね。竜神様がその皇女様を気に入って、その方だけが竜神様のお告げを聞けるようになったとか。それから、その皇女様の血を引く女性が皇位を継ぐ決まりができたのでしょう?」
「ええ。先代の時は男性が帝になったそうですが、途端に長い日照りが起こったそうです。竜神様がお怒りになっていると噂になったようで、その帝の妹君が竜神様から女帝になるようお告げがあったと言い、実際その方が皇位についたら雨が降りました、それがいまの主上です」
信じられないような話だが、自分が生まれる数年前の事なので、噂では聞いていた。
東雲が口元に手を当てる。
「竜神様は、初代の女帝の血をひく姫しか皇位につくのをお許しになりません。だから竜神様は子孫を残す為に、貴族から大勢の夫君候補をお選びになります。選ばれた者は、ある日突然髪と目の色が変わってしまう。そして大内裏に入り、後宮で女帝と国の為に尽くすのです」
東雲はその夫君候補として選ばれたのだ。
それは貴族の男子にとってはとても名誉な事で、屋敷の主人は大喜びだった。
「でも主上は四十歳を越えられていると聞きましたが……」
東雲はまだ二十歳だ。年も離れているのに夫君候補なんてと思っていると、東雲が微笑む。
「そうですね。いまの主上は二十年以上も前に夫君選びを終えられて、一度婚姻されていますから。主上のご子息は私と同い年ですし。でも夫君は数年前に亡くなられていまは独り身です。子どもは男の子しかいないから、跡継ぎの女の子が必要なんでしょう」
ずっと疑問に思っていた事を口にした。
「夫君候補は東雲様だけなのですか?」
「いえ、今回選ばれたのは、私を含めて五人です。一月前に顔合わせの為、大内裏に赴いて挨拶してきましたが、かなり個性が強い方達ばかりでした。もちろん、これからまた新たな夫君候補が選ばれる可能性もあります。主上はその中から夫を一人選んで婚姻するんです」
「夫を一人選ぶという事は、選ばれなかった人達はどうなるのですか?」
恩人である東雲が、大内裏に行ってどうなるのか気になった。
「選ばれなかった者達は、官吏や武官として女帝と夫君の補佐をします。私は貴族ですが、大内裏に出入りできるほどの地位ではありません。ですからたとえ夫君に選ばれなかったとしても、いまよりは出世の道が開けるはずです」
(だからご主人様は東雲様が夫君候補に選ばれたと大喜びだったのね。でも、それって……)
「嫌ではないのですか? 東雲様の意思がないがしろにされている気がするのですが……」
おずおずと尋ねると、東雲は薄く笑った。
「後宮に入るのは、貴族の男子としては最高の名誉です。年は離れていても主上は素晴らしい方ですし、政の手助けができるのは光栄です。それにいまのままでは、我が一族は衰退するばかり。何しろ、一度は父が謀反の罪を着せられて島流しにあったぐらいですからね」
東雲は笑みを浮かべているが、瞳の奥に悲しそうな色があるのに気づく。
「お辛かったですよね」
その事は前に、不知火達が話しているのが聞こえてしまったので知っていた。
「ええ。まだ子どもでしたから。父の謀反の罪で、家族全員が罪人が暮らす島に追いやられたんです。いくら父が無実だと訴えても信じてもらえなくて。何年かして無実の証拠が出て都に呼び戻されましたが、もう父は出世を望めませんでした。それは一族も同様だったんです」
東雲が小さく息をついて話を続けた。
「それからは都の外れにあるこの屋敷で慎ましく暮らしています。だから今回私が大内裏に上がる事になったのを父はとても喜んでいて。私も一族の為に、自分にできる精いっぱいの事をしようと思っているんです。ただ……」
東雲がこちらに目を向けた。
「心配なのは緋蝶の事です。あなたを見ていると、無実の罪で島流しにされた時の事を思い出します。あなたは誤解を受けやすい。私は大内裏に上がったら、よほどの事がなければ、もうここには帰って来られません。私がいなくなったら、誰が緋蝶を守るのかと」
もう会えなくなるかと思うと、寂しさがこみ上げる。それでも口角を上げて笑みを作った。
「まじめにこつこつやるのが取り柄なので、みんなそのうちわかってくれると思います」
なるべく明るく言ったつもりだが、東雲は心配そうな表情を崩さなかった。
「どんなに正しく生きていても、誤解や偏見から苦しい思いをする時はあります。緋蝶にもせめて頼れる家族がいればまた違うでしょうが。……緋蝶、お兄さんの事はどうなっていますか。手がかりは見つからないのですか?」
その言葉を聞いて、胸が締め付けられそうになった。
「はい。休みのたびに探してはいるんですが、なかなか……」
両親は八年前に亡くなった。それ以来、四つ年上の兄が働いて育ててくれた。
優しくて頼りがいがあって、大好きな兄だった。目を瞑ると、兄の顔が頭に浮かぶ。
「二年前、突然賊が家に押し入ってきて、お兄さんが連れて行かれたと言っていたでしょう。その賊に本当に心当たりはないのですか?」
その時の事が頭をよぎった。その途端、恐怖で思わず身震いする。
「……あの日、わたしは食事の支度をしていたんです。兄は給金がもらえる日だから、金平糖を買ってきてくれるって言っていて、とても楽しみにしていて」
食べる物にも困る生活だったが、兄は精いっぱいの事をしてくれていた。
あの日、兄が帰ってきて金平糖を受け取って喜んでいたら、恐ろしい事が起こった。
「突然男達が戸を蹴破って入ってきて、わたしは兄と隣の部屋にいたんです。兄はすぐにわたしを空になっていた水瓶の中に押し込みました。絶対に出てくるなと言われて。兄が水瓶にふたをした途端、男達が入ってきて……」
混乱していたので、男達が何を言っていたのかはわからない。怒鳴り声のようなものが聞こえてきて、水瓶の中で震えていた。ずっと大きな音がしていたが、しばらくして唐突に静かになった。そうっと水瓶から出ると、男達も兄の姿もなかった。それ以来、兄は行方不明だ。
「いったい、その男達は何者だったんでしょうか。君のお兄さんは彼らに連れて行かれたのか、それともどこかに逃げて帰って来られなくなったのか」
東雲が息をついた。それは何百回と考えている事だが、答えは出ない。
兄の生死さえわからないが、きっと生きていると信じていた。
「東雲様、わたしは大丈夫です。心配しないでください。仕事だってありますし、兄を探すという目標もあります。でも助けて頂いた恩返しができなかった事が心残りです。何か私にできる事はないですか?」
胸に手を当てると、東雲が微笑んだ。
「緋蝶が幸せに暮らしてくれれば、それが一番嬉しいです。お兄さんが早く見つかる事を祈っています」
優しい東雲の言葉に、涙が出そうだった。