第一章 第一話

 晴れた空は気持ちがいい。ちようは倉からうるしりのぜんを運びながら、大きく息を吸い込んだ。

「いいお天気。風も気持ちいいし、ようやく春めいてきたわ」

 広い庭には大きな桜の木が何本もあり、その枝にはももいろの花がいくつもき乱れている。

 見事な桜はしきの主人のまんだ。今夜はその桜をでながら、うたげが行われる予定だった。

 この屋敷で下働きを始めて二度目の宴だ。準備は大変だが、庭に人が集まってにぎやかになるのを想像すると、心がき立って楽しい気分になる。

 夜桜を楽しむ人々の様子を思いえがきながら、持っていた膳をかかえ直してろうを進んだ。

 屋敷で働き始めた二年前は、十四歳だった。そのころは身体が小さくて膳をいくつもまとめて運ぶのは大変だったが、いまは同年代の娘よりもややたけも高くなり、毎日のそうせんたくのおかげで体力もついた。こしまでびたまっすぐなくろかみを一つにしばり、動きやすいそでをまとっててきぱきと働いていると、毎日がじゆうじつしているように感じた。

「さ、急がなくては。食事のたくにお客様をむかえる準備に……やる事がいっぱいだわ」

 足早に庭を進み、おもとなりに造られているちゆうぼうがある建物に足をみ入れる。

 そこで使用人達が集まって何か話しているのを見て、首をかしげた。

「どうかしたんですか?」

 声をかけると、みんながこちらに顔を向けた。

 一番年配の不知火しらぬいが、まゆをつり上げているのを見て、いやな予感がする。

「今夜の為に町から何人か手伝いに来てもらっているんだけど、その中の一人が荷物に入れておいた薬箱がなくなったって言ってるのよ。漆塗りの薬箱で、けっこう値の張るものですって。荷物は厨房のすみに置いてもらっていたのよね。緋蝶、さっきその荷物の近くにいたわよね」

 問いめる口調だった。こんな風に疑われるのは初めてではない。

 ぐっとあごを引いて、息を吸い込んだ。

「そこのたなから食器を出しただけで、荷物にはさわっていません」

「噓つきなさい。あんたがぬすんだんでしょ」

 不知火の口調は、犯人だと決めてかかっているかのようだ。

「どうしていつもわたしを疑うんですか?」

 自分と同じ、十六歳のまつかぜうでを組んだ。

「一番お金に困ってるからよ。親はいないし、着ているのだっていつも同じ小袖だし、そうしよく品の一つも持ってない。お金がほしくないはずないわ。それに前もお金を盗んだでしょ」

 松風が言っているのは、一年前の出来事だ。お金の入ったきんちやくを拾ったので届けようとしたら、盗んだとみんなに誤解された。あれ以来、何かあると真っ先に疑われるようになった。

「あれは盗んだんじゃありません。何度言ったら信じてもらえるんですか?」

 感情的になったらまずいと、わかっていた。なるべく冷静にと、心で念じる。

「どうだか。どろぼういつしよに仕事なんてできないわ。東雲しののめ様に気に入られているからって……」

「私がどうかしましたか?」

 声が聞こえて、目に見えてびくっとしたのは不知火達だった。

 り返ると、厨房の入り口に背の高い細身の男が立っていた。

 見慣れた姿なのに、以前と明らかに違うところがあって、いまだにめんらう。

「東雲様。このようなところにお出ましとは……」

 不知火があたふたと頭を下げたので、みんなそれにならう。

 東雲は屋敷の一人息子むすこで、現在二十歳はたちやさしげな顔立ちとおだやかな声は、とてもりよく的だ。

 立ち居振るいも美しく、あわい黄色のかりぎぬをまとった姿は、女性達の目を引くほどゆうだ。

 貴族なのに使用人に対してもれいただしく接してくれる彼は、みんなから好かれていた。

 東雲がみんなに向かって微笑ほほえみかける。

「薬箱がなくなったと聞いたから、持ち主を呼んで探してみたんです。そうしたら、の近くに落ちていました。昼食のあとに薬箱を荷物から出して、井戸から水をんで薬を飲んだそうですが、その時に落としたようです。見つかったから心配しなくていいと伝えに来ました」

 不知火と松風が目を白黒させて、もう一度おする。

「東雲様のお手をわずらわせるなんて、申し訳ありません」

「いいんです。それより今日は大事なお客様がたくさんいらっしゃいますので、準備をしっかりお願いします。……緋蝶。私の準備を手伝ってほしいんですが、いいですか?」

「はい」

 膳を置いて、くやしげな顔をしている不知火達の視線を背中にさるほど感じながら、厨房を出る。しばらく庭を歩いて周りに誰もいないのを確かめてから、声をかけた。

「すみません。東雲様。また助けて頂いて」

 頭を下げると、東雲が振り返った。

「気にしなくていいです。しかし犯人あつかいされるのは、これで何度目ですか? どうして緋蝶ばかり疑われるんでしょう」

 答えはわかっているが、あいまいに笑ってごまかした。一年前に盗みの疑いをかけられた時、東雲はゆいいつ信じてかばってくれた。そのおかげで役人にき出されるのはまぬかれたし誤解も解けた。

 しかし東雲が庇った事が不知火達は気に入らなかったらしい。不知火は、東雲が小さい頃から世話をしていて息子のように思っているし、松風は彼に好意を持っている。

 そんな事もあってか、彼女達はあれからたびたび意地悪をしてくるようになった。

 東雲がため息をつく。

「今夜の宴が終わったら、私はだいだいに上がります。私がいなくなったら、緋蝶がどうなるか心配で……」

 東雲を改めて見上げる。夕焼けに似た、かたまでの明るい茶色の髪を一つに結び、緑のひとみはまるで硝子ガラス細工のよう。紗和国のたみは黒い髪に黒い瞳を持つ者ばかりだ。一月ほど前までは、東雲もそうだった。だがある日とつぜん、髪や瞳の色が変わった。それは神に選ばれたあかしだという。

さびしくなります。盗みを働いたとぎぬを着せられた時も、東雲様はただ一人わたしの話を信じてくださった。そのご恩を返したかったのに……」

 うつむくと、東雲の手が伸びてきて、肩に置かれた。

「私は真実をみんなに知らせただけです。気にしないでください。緋蝶は身寄りもないし、うちで働いてもらう以上は、およめに行くまでめんどうを見るつもりでした。しかし私はりゆうじん様に選ばれて、大内裏に上がる事になりました。最後まで面倒を見られなくてすみません」

 申し訳なさそうな東雲に、ぶんぶんと首を振った。

「とんでもないです。私なんかを気にしてくださって逆に申し訳ないです。あの……失礼な質問かもしれませんが、東雲様は竜神様にじよていの夫君候補として選ばれたから、髪と目の色が変わったと聞きました。でも、竜神様なんて本当にいらっしゃるのでしょうか?」

 紗和国が女帝をようりつするようになって、百年ほどつという話は聞いた事があった。

 しかししよみんとして生まれ、下働きをして暮らす自分には、だれみかどでどんな政治を行っているのかなんて、あまり関係ないと思っていた。紗和国に伝わる竜神の話も知ってはいたが、実際にこうして東雲の変化をの当たりにしても信じられないでいた。

「信じがたいでしょうが、竜神様はいると思います。そうでなければ、私の髪や目の説明がつきません。それに主上には、竜神様のお告げを聞く能力があるそうです」

 東雲が腕組みをした。

「紗和国は昔から日照りが起きやすく、百年ほど前までは数十年に一度は死者を出すほどの日照りが起こっていたそうです。しかし竜神様のお告げで女帝を擁立するようになってからは、農作物にえいきようするような長い日照りは起こっていませんし、国も栄えています」

「でも、最近は雨が降っていませんよ。屋敷に野菜を持って来てくれる農家の方が、ここ一月ほど雨が降らないせいで、作物の出来が悪くなっているって」

 野菜の値段がいつもの倍以上すると、不知火がぷりぷりおこっていた。

 まだ川ががるほどではないが、最近の水不足は深刻になりつつある。

「ええ。うわさですが、あとぎになれる皇族のひめがいらっしゃらない事に、竜神様が腹を立てているのではと聞きました。主上にはお子様が一人いらっしゃいますが、男の子なんです」

 緋蝶は紗和国に伝わる竜神の話について、思い浮かべた。

「確か初代の女帝が竜神様にあまいした皇女様だったそうですね。竜神様がその皇女様を気に入って、その方だけが竜神様のお告げを聞けるようになったとか。それから、その皇女様の血を引く女性が皇位を継ぐ決まりができたのでしょう?」

「ええ。先代の時は男性が帝になったそうですが、たんに長い日照りが起こったそうです。竜神様がおいかりになっていると噂になったようで、その帝の妹君が竜神様から女帝になるようお告げがあったと言い、実際その方が皇位についたら雨が降りました、それがいまの主上です」

 信じられないような話だが、自分が生まれる数年前の事なので、噂では聞いていた。

 東雲が口元に手を当てる。

「竜神様は、初代の女帝の血をひく姫しか皇位につくのをお許しになりません。だから竜神様は子孫を残すために、貴族から大勢の夫君候補をお選びになります。選ばれた者は、ある日とつぜんかみと目の色が変わってしまう。そして大内裏に入り、後宮で女帝と国の為にくすのです」

 東雲はその夫君候補として選ばれたのだ。

 それは貴族の男子にとってはとてもめいな事で、しきの主人は大喜びだった。

「でも主上は四十歳をえられていると聞きましたが……」

 東雲はまだ二十歳だ。年もはなれているのに夫君候補なんてと思っていると、東雲が微笑む。

「そうですね。いまの主上は二十年以上も前に夫君選びを終えられて、一度こんいんされていますから。主上のご子息は私と同い年ですし。でも夫君は数年前にくなられていまは独り身です。子どもは男の子しかいないから、跡継ぎの女の子が必要なんでしょう」

 ずっと疑問に思っていた事を口にした。

「夫君候補は東雲様だけなのですか?」

「いえ、今回選ばれたのは、私をふくめて五人です。一月前に顔合わせの為、大内裏におもむいてあいさつしてきましたが、かなり個性が強い方達ばかりでした。もちろん、これからまた新たな夫君候補が選ばれる可能性もあります。主上はその中から夫を一人選んで婚姻するんです」

「夫を一人選ぶという事は、選ばれなかった人達はどうなるのですか?」

 恩人である東雲が、大内裏に行ってどうなるのか気になった。

「選ばれなかった者達は、かんや武官として女帝と夫君のをします。私は貴族ですが、大内裏に出入りできるほどの地位ではありません。ですからたとえ夫君に選ばれなかったとしても、いまよりは出世の道が開けるはずです」

(だからご主人様は東雲様が夫君候補に選ばれたと大喜びだったのね。でも、それって……)

いやではないのですか? 東雲様の意思がないがしろにされている気がするのですが……」

 おずおずとたずねると、東雲はうすく笑った。

「後宮に入るのは、貴族の男子としては最高の名誉です。年は離れていても主上はらしい方ですし、まつりごとの手助けができるのは光栄です。それにいまのままでは、我が一族はすい退たいするばかり。何しろ、一度は父がほんの罪を着せられて島流しにあったぐらいですからね」

 東雲は笑みをかべているが、瞳の奥に悲しそうな色があるのに気づく。

「おつらかったですよね」

 その事は前に、不知火達が話しているのが聞こえてしまったので知っていた。

「ええ。まだ子どもでしたから。父の謀反の罪で、家族全員が罪人が暮らす島に追いやられたんです。いくら父が無実だとうつたえても信じてもらえなくて。何年かして無実のしようが出て都に呼びもどされましたが、もう父は出世を望めませんでした。それは一族も同様だったんです」

 東雲が小さく息をついて話を続けた。

「それからは都の外れにあるこの屋敷でつつましく暮らしています。だから今回私が大内裏に上がる事になったのを父はとても喜んでいて。私も一族の為に、自分にできる精いっぱいの事をしようと思っているんです。ただ……」

 東雲がこちらに目を向けた。

「心配なのは緋蝶の事です。あなたを見ていると、無実の罪で島流しにされた時の事を思い出します。あなたは誤解を受けやすい。私は大内裏に上がったら、よほどの事がなければ、もうここには帰って来られません。私がいなくなったら、誰が緋蝶を守るのかと」

 もう会えなくなるかと思うと、寂しさがこみ上げる。それでも口角を上げてみを作った。

「まじめにこつこつやるのが取りなので、みんなそのうちわかってくれると思います」

 なるべく明るく言ったつもりだが、東雲は心配そうな表情をくずさなかった。

「どんなに正しく生きていても、誤解やへんけんから苦しい思いをする時はあります。緋蝶にもせめてたよれる家族がいればまたちがうでしょうが。……緋蝶、お兄さんの事はどうなっていますか。手がかりは見つからないのですか?」

 その言葉を聞いて、胸がめ付けられそうになった。

「はい。休みのたびに探してはいるんですが、なかなか……」

 両親は八年前に亡くなった。それ以来、四つ年上の兄が働いて育ててくれた。

 やさしくて頼りがいがあって、大好きな兄だった。目をつぶると、兄の顔が頭に浮かぶ。

「二年前、突然ぞくが家に押し入ってきて、お兄さんが連れて行かれたと言っていたでしょう。その賊に本当に心当たりはないのですか?」

 その時の事が頭をよぎった。その途端、きようで思わずぶるいする。

「……あの日、わたしは食事のたくをしていたんです。兄は給金がもらえる日だから、こんぺいとうを買ってきてくれるって言っていて、とても楽しみにしていて」

 食べる物にも困る生活だったが、兄は精いっぱいの事をしてくれていた。

 あの日、兄が帰ってきて金平糖を受け取って喜んでいたら、おそろしい事が起こった。

「突然男達が戸をやぶって入ってきて、わたしは兄ととなりの部屋にいたんです。兄はすぐにわたしを空になっていたみずがめの中に押し込みました。絶対に出てくるなと言われて。兄が水瓶にふたをした途端、男達が入ってきて……」

 混乱していたので、男達が何を言っていたのかはわからない。り声のようなものが聞こえてきて、水瓶の中でふるえていた。ずっと大きな音がしていたが、しばらくしてとうとつに静かになった。そうっと水瓶から出ると、男達も兄の姿もなかった。それ以来、兄は行方ゆくえ不明だ。

「いったい、その男達は何者だったんでしょうか。君のお兄さんは彼らに連れて行かれたのか、それともどこかにげて帰って来られなくなったのか」

 東雲が息をついた。それは何百回と考えている事だが、答えは出ない。

 兄の生死さえわからないが、きっと生きていると信じていた。

「東雲様、わたしはだいじようです。心配しないでください。仕事だってありますし、兄を探すという目標もあります。でも助けて頂いた恩返しができなかった事が心残りです。何か私にできる事はないですか?」

 胸に手を当てると、東雲が微笑ほほえんだ。

「緋蝶が幸せに暮らしてくれれば、それが一番うれしいです。お兄さんが早く見つかる事をいのっています」

 優しい東雲の言葉に、なみだが出そうだった。

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