第一章 別れと出会い(1)


高校一年の夏の終わり。

 天国のような夏休みが終わり、またいつもの灰色で憂鬱な高校生活が再開する――そんな二学期の始業式を迎えようとしていた九月一日の朝。

 俺――織田修平おだしゅうへいは突然、異世界召喚されて世界を渡った。

 召喚されたのは中世ヨーロッパ風の異世界『オーフェルマウス』。

 俺はそこで勇者になり、五年に及んだ長く苦しい戦いを経て魔王カナンを倒し『オーフェルマウス』を救った。

 そして魔王討伐と世界平和を祝う盛大な式典が行われた数日後。

 俺は『オーフェルマウス』の最高神である女神アテナイを祭る神殿、その最奥にいた。

 否が応でも聖性を感じずにはいられない白一色の柱と壁、高い天井。

 ギリシャにあるパルテノン神殿を彷彿とさせる荘厳な部屋の床には、緻密な文字と図形が複雑に絡み合った壮大な魔法陣が描かれている。

「やはり勇者様は元の世界に帰ってしまわれるのですね」

 五年間、俺とともに魔王討伐の旅をした女神官リエナが、柔らかな金髪を揺らしながら悲しそうな顔で呟いた。

 リエナは未来を指し示す女神アテナイの神託を聞くことができる最上位の神官だ。

 女神アテナイの神託に従って五年前に俺をこの世界へと召喚したのもリエナだった。

 絹糸のようにさらさらの金髪と、澄み渡る空のような青い瞳。

 女神の生まれ変わりかと思うような整った顔立ち。

 身体のラインが結構出て目のやり場に困る真っ白な神官服が、出るところは出て引っ込むところは引っ込んでいるスタイル抜群のリエナに良く似合っている。

「ごめんリエナ。でもやっぱり俺は元の世界に帰るよ」

「そうですか……」

「俺は一人っ子なんだ。向こうの世界じゃいい思い出はそんなになかったけど、それでもやっぱり父さんと母さんを悲しませたくないから」

 一人息子の俺がこのままこっちの世界に居座ってしまったら――元の世界ではおそらく行方不明だ――俺の両親は死ぬまで泣き続けるだろうから。

「ご決意は固いようですね。分かりました、家族の絆はとても大切なものですものね」

「そう言ってくれるとありがたいよ」

「私もお腹の子供は責任を持って大切に育てますから、勇者様もどうかご安心ください」

「いやいや俺たちそういう関係じゃなかったよな? 世界を救う旅に出た勇者と、勇者に女神アテナイの神託を授ける神官っていう、それはもう清らかすぎる関係だったよな?」

「私は出会ったその日からずっと勇者様に好意を抱いていましたよ。ですが戦いの邪魔になると思って、ずっと胸の奥に想いを秘めていたんです」

「そうだったのか……実を言うと俺もリエナのことはいいなとは思っていたんだ」

「あ、そうだったんですね」

「美人だし優しいし、なによりリエナの機転と神託で何度も助けてもらったからさ。でもごめん。やっぱり俺は元の世界に――日本に帰らないといけないんだ」

「はい、承知しております」

 俺とリエナはしばらく無言のまま見つめ合った。

 この五年ですっかり見慣れてしまったリエナの顔を見るのもこれで最後かと思うと、ともに過ごしたあれやこれやがまるで走馬灯のように思い起こされてくる。

 リエナに召喚されてすぐに、女神アテナイ神殿最奥にある台座に刺さった、勇者にしか抜くことができないという聖剣『ストレルク』を抜いた。

 それからは各地の魔物を討伐して人間の勢力圏を回復していったのだが、リエナの豊富な知識に救われたことがそれこそ星の数ほどあったのだ。

 さらには強大な魔王四天王をも倒した俺は、最後は大激戦の末に人類の宿敵たる魔王カナンを討伐した。

 そしてそんな俺の側にはずっとリエナがいて、俺を支え続けてくれたんだ。

 辛かったこと、苦しかったことがほとんどだったけど、嬉しかったことや楽しかったこともあった。

 ここに来るまで本当に色々なことがあったんだ――。


 転移の魔法陣が清浄なる白銀の光を放ち始める。

 五年を過ごしたこの世界とも、召喚されて以来ずっとともに旅を続け苦楽をともにしたリエナとも、お別れの時間が迫ってくる。

「リエナ、今まで本当にありがとう。俺が魔王カナンに勝てたのはリエナがいてくれたおかげだ。感謝してもしきれない」

「もう、何を言ってるんですか。感謝をするのはこっちのほうですよ。勝手に召喚して魔王を倒してもらったのは、私たちのほうなんですから」

「ははっ、言われてみれば確かにそうだな」

「この世界の住人を代表して最後にもう一度、偉大なる勇者様に――『絶対不敗の最強勇者』シュウヘイ=オダ様に改めて感謝の気持ちを述べさせていただきます。世界を救っていただき本当にありがとうございました。このご恩は一生忘れません」

 俺の身体が浮遊感に満たされ始める。

 五年前にこの世界に来た時にも感じた懐かしい感覚だ。

 同時にリエナの姿が薄れ始めた。

 別の世界へと渡る超高難度の転移禁術が発動し、時空に歪みが生じているのだ。

「さようならリエナ! 元気でな!」

「勇者様こそ、どうぞ元の世界でもお変わりなくお過ごしください! 願わくば元の世界に帰られても、偉大なる女神アテナイのご加護とお導きが御身にありますように――」

 こうして。

 リエナの祈りとともに俺は再び世界を渡り―――。


 ―――浮遊感がなくなり目を開けると。

 そこは五年前までは見慣れた、けれどここ五年はまったく見ることがなかった、懐かしさでいっぱいの実家の自分の部屋だった。

 なにせ五年前なので記憶があやふやだが、一見すると何も変わったところは見受けられない。

 机の上にスマホが無造作に置かれていたのを見つけた俺は、すぐに画面を開いて「今」が「いつ」なのかを確認した。

 表示は二〇二X年九月一日七時一五分。

「これって俺が異世界転移した日だったよな? こっちの世界じゃまったく時間が経過していないってことか?」

 身体を見回してみると、

「身体も五年前に戻ってる? いや、当時は帰宅部のヒョロもやしだったはずなのに、かなりガッシリと筋肉がついてるから、知識や身体スペックは勇者のままで、でも肉体年齢だけ五歳若返ったってことか」

 カメラモードにしたスマホに映った自分の顔は、明らかに五年前――まだあどけなさが残る十代の頃のものだった。

 あまりに都合がよすぎる状況はしかし。

 きっと偉大なる女神アテナイが、世界救済のお礼代わりに気を利かせてサービスでもしてくれたんだろう。

「そうだよな、いきなり二〇歳を過ぎた成人した姿で現れたら両親も驚くよな」

 俺としてはこの絶妙な配慮には感謝せざるを得なかった。

 女神への感謝のついでに、俺は軽く精神を集中させると慣れ親しんだ言霊を紡ぐ。

「女神アテナイよ、俺に邪悪を退けし勇者の力を――『女神の祝福ゴッデス・ブレス』」

 すると俺の全身をうっすらとした白銀のオーラが覆っていき、身体の中に強大な勇者の力が駆け巡り始めた。

「勇者スキルもそっくりそのままこっちの世界でも使えるのか。これもサービスなのかな?」

 異世界『オーフェルマウス』での俺は女神アテナイから強力な加護を授かり、それを様々な勇者スキルとして使用することができた。

『女神の祝福』はその中でも最強の、勇者の力そのものと言ってもいい戦闘用のスキルだった。

 そして女神アテナイに与えられた勇者の力は、元の世界に戻ってきた今も健在のようだ。

 もしかしたら別れ際にリエナが祈ってくれたからかもしれない。

 最後の最後までサポートしてくれてありがとな、リエナ。

「でもこれってこの世界に異世界のスキルを持ち込む――いわゆるチートってやつだよな」

 しかも俺の場合は世界を救った勇者の力という文字通り最強のスキルだ。

 一〇〇メートルをわずか五秒で駆け、軽く二〇メートルを跳び、巨大な岩をワンパンで粉々に粉砕するその力は、チートの中でも最上級なのは間違いない。

 さすがに聖剣『ストレルカ』はついてこなかったみたいだけど。

「ま、聖剣を持ってこれたとしても銃刀法違反で捕まるだけか。この世界には聖剣が必要になる強大な魔王がいるわけでもないし、いらないっちゃいらないな」

 聖剣なんてぶっそうなものは、平和な日本じゃ宝の持ち腐れもいいところだ。

 あれは、この先また現れるであろう新たな神託の勇者に受け継いでもらおう。

「なんにせよ異世界で五年も勇者として戦ったんだ。こっちの世界ではちょっとくらい楽させてもらっても罰は当たらないよな」

 ――と。

「修平、いつまで寝てるの。今日から二学期でしょ。そろそろ起きないと始業式から遅刻するわよ」

 とても懐かしい声がしたかと思うと、母さんがノックもなしに部屋のドアを開けて入ってきた。

 視線を向けた先にはもちろん、記憶の中と変わらない母さんの姿があって――。

「――っ! 母さん……。ただいま」

 だから俺はつい目を涙ぐませながら、ずっと伝えたかったその一言を口にしたのだった。

 母さんに会ったらまず何よりも最初に『ただいま』を言おうと、この五年間ずっと思っていたから。

 もちろんそんな俺の想いは母さんに伝わりはしない。

「朝起きて『ただいま』だなんて、あんたまだ寝ぼけてるの? ほら、早く顔洗ってきなさい。朝ごはんはできてるからすぐに食べて学校行くのよ? 始業式から遅刻したら怒るからね?」

「ありがとう母さん。すぐ用意するから安心して。遅刻なんてしないから」

「……ほんとどうしたのよ修平? 朝からちょっとおかしいわよ? 熱でもあるんじゃないの? 大丈夫?」

「大丈夫だよ。ごめん、ちょっと寝ぼけてたみたいだ。すぐに顔を洗ってくるよ」

「ならいいんだけど。っていうかあんた、昨日より身体が一回り大きくなってない? やけに筋肉質っていうか……」

 母さんがしげしげと俺の身体を眺めてくる。

「あーえっと……そう、実は一念発起して夏休みの間はずっと毎日筋トレをしてたんだ。だからその成果が出たんじゃないかな?」

「昨日の夜まではそんなじゃなかった気がするんだけど……」

「ああもうほら母さん、学校に遅れるからその話は今はいいだろ」

 俺に急かされ、不思議そうに首を傾げながら、

「男の子ってこんなすぐ変わるのねぇ……」

 呟きつつ部屋を出ていく母さんの後ろ姿を見て、俺は元の世界に帰ってきたことを改めて実感していた。

「俺は本当に元の世界に帰ってきたんだ……」


 一階に下りて洗面所で顔を洗ってから食卓に向かい、朝ごはんの並んだ食卓につく。

 なんてことはないその全てが、どうしようもなく懐かしい。

「いただきます」

 シャケおにぎり、味噌汁、玉子焼き、壺漬け。

 デザートにバナナヨーグルト。

 実に五年ぶりに口にした母さん手作りの和食も、涙が出るほど美味しかった。

 バナナヨーグルトは和食ではないけれど、この際それは置いといて。

 次にこれまた五年ぶりとなる通学の準備をする。

 今日は始業式とホームルームだけで授業はないはずだから、準備といっても大したことはないんだけど。

 通学カバンの中を覗くと、今日提出する予定の夏休みの宿題が綺麗に収められている。

「ちゃんと夏休みの宿題を終わらせてるとか、五年前の俺もなかなか偉いじゃないか」

 自分のことなのに、体感では五年前なので、どこか他人事のように感じてしまうのが面白い。

 まぁ当時は陰キャだった俺のことだ。

 宿題を忘れたせいで悪目立ちしたくないとか、そんな後ろ向きなことを考えていたんだろうけど。

 そして五年ぶりに高校の制服に袖を通すと、

「ちょっときついか……?」

 異世界転移前の帰宅部のもやし体形と違って、実戦を通して鍛え上げられた筋肉質な身体のせいで制服がやや窮屈だったんだけど、まぁ仕方ない。

「これだけ違ってるのに、母さんはさっきよく納得してくれたもんだよな」

 これが親子の絆ってやつなんだろうか。

「ただなぁ。夏服は半袖だからギリ大丈夫だけど、どう考えても冬服は入らないよな。折を見て母さんに言っておかないと」

 でも、春先にちょっと着ただけでまだまだ真新しいままの冬服一式を、一年の秋に新調するのは嫌がりそうだ。

 主に金銭的な意味で。

 学校指定の制服はかなりお高い。

 うちは貧乏じゃないけど決して裕福というわけじゃないもんな。

「俺も高校生だし短期のバイトでもするかな? 勇者スキルがあるからたいがいは何とかなるだろうし」

 そんなことを考えながら少し早めに家を出た俺は、これまた体感では五年ぶりとなる高校へと向かった。

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