「エリス」
そのときイルミナに名前を呼ばれた。顔を上げると、彼女はエリスと視線を合わせるように険しい表情で立っていた。
「そろそろ本当の用件を教えてくださる?」
「ええっと」
勢い任せにイルミナに抱きついてしまった羞恥心と、命の危機に直面した焦りで頭がぐちゃぐちゃになる。
「夜着のままわたくしに会いに来るなんて。本当に王女としての自覚が足りませんのね」
「!」
次期女王と期待されるだけあってものすごい圧力だ。イルミナは淡雪のような儚げな容姿から弱々しい印象を持たれがちだが、常に物怖じせず毅然と振る舞っている。
(……王女としての自覚って何よ)
エリスは拳を握り締める。双子なのに、似ているようで似ていない。
イルミナの髪色が光を浴びて輝くプラチナブロンドなら、エリスは闇を固めたオニキスのような黒髪だ。顔立ちも前者が憂いを帯びた印象を抱かせるなら、後者は目じりがつり上がっているせいで威圧感を感じさせる。
そして魔法属性に至っては『光』と『闇』、と対極だ。
エリスはイルミナに、両親からの愛情も、周囲からの期待も、国民からの憧れもすべて奪われてきた。
そこまでされて、なぜ頑張り続けなければいけないのか。
(私だけが! いつも不幸で! それで! それで……)
やがて力尽きたように瞼を閉ざし──落ち込んだ。
(……あなたの片割れが私みたいな出来損ないだもの。嫌いになるのは当然よね)
彼女は昔から事あるごとにエリスに小言を呈してきた。ここの作法が違う、すぐ感情的になるな、ちゃんと自分の意見を伝えなさい。エリスは彼女に何か言われるたびに耳をふさいでうるさいと叫んだ。
そんなことが十五歳になる頃まで続くと、さすがのイルミナもさじを投げた。十六歳になる前に、彼女は側近を連れてエリスの部屋にまでやってきて、決別の言葉をはっきりと突きつけた。
(だから私のような邪魔者なんていらなくなったと思っていたけれど)
エリスが内心で自嘲していると、イルミナはその様子に気づいていないのか、くどくどと言葉を連ねる。
「ちょうどよかったですわ。わたくしもあなたのもとへ行こうと思っていましたから」
「え?」
ざわり、と背中の産毛が逆立った。イルミナのいつも以上に強気な態度に、張りつめた場の空気。まるで決別のときと同じ展開ではないか。
「一か月後に控える公務……わたくしとあなたの成人を祝う舞踏会に参加しなさい。これはいつもの忠告ではないわ。警告よ」
エリスの脳裏に苦い記憶がよみがえる。
四月の二十三日がエリスとイルミナの誕生日であり、成人として認められる十六歳になる今年はいつもより盛大な舞踏会が開かれた。
エリスは引きこもってから、令嬢たちとのお茶会や城下町と地方の視察への参加をすべて断っていた。無理やりエリスを表舞台に引っ張り出して国の恥となるくらいなら、陰でひっそりとしていてくれるほうが都合がいいと、国王やイルミナも放っておいてくれた。
おかげで社交界では虚弱で傲慢で不気味な姫という評価や、彼女の姿を見た者は呪われるのではという憶測が飛び交うようになった。
腫れもの扱いをされることが目に見えていたからこそ十六歳の舞踏会も不参加のつもりでいたが、今回だけはイルミナが許してくれなかった。
ちょうど舞踏会の準備が大詰めというところで、彼女はアルフリートとクラウィスを連れてエリスの部屋まで乗り込んできた。
『一か月後に控える公務……わたくしとあなたの成人を祝う舞踏会に参加しなさい。これはいつもの忠告ではないわ。警告よ』
生まれて初めてイルミナから脅されたが、エリスはソファの背もたれに寄りかかり「はいはい」と適当に返事をした。
エリスにとって舞踏会は苦痛でしかない。それをわかっているはずなのに、イルミナは自分の優秀さを際立たせるために見世物にするつもりなのか。
そう警戒していると、イルミナはエリスの両頬に手を添えて無理やり視線を合わせた。
『いい加減にしなさい、エリス! わたくしとあなたは王女なのよ! 王国の未来のためにも、国民のためにも、やるべきことがたくさんあるのに。目を逸らし続けるなんて!』
イルミナのひんやりとした指先を感じ、エリスはびくりと肩を揺らしたが、やがて鼻で笑いながら言い返す。
『綺麗ごとばかり並べたつまらない常套句ね。それで説得できると思ったの?』
するとイルミナは表情を歪め、『ここまで浅はかだったのね……』と呟いた。
(何が浅はかよ。一方的にまくしたてられたって頷けるわけがないでしょう?)
どれくらい睨みあい続けたのか。先に口を開いたのはイルミナだった。
『これが最後の機会なのよ、エリス』
『あいにく最初から機会はないの、イルミナ』
エリスは間髪を容れずに答えた。あからさまな拒絶に、イルミナは紫色の瞳を伏せる。
『だったら一生ここにいなさい』
そういって彼女はアルフリートを連れて部屋から出ていった。エリスは深く息を吐いてその場でうなだれる。
だが未だ居心地の悪い視線を感じて顔を上げると、クラウィスがこちらを見つめていた。
『エリスさまはそれでいいのですか?』
『……放っておいてくれる? あなたには関係ないでしょう』
『なんでもかんでも突き放す癖、やめたほうがいいですよ。子どもみたいなので』
その言葉を聞いてエリスはカッと頬を赤くし、彼を睨みつけた。
エリスとイルミナは完全に決別し、彼女からの小言は一切なくなった。それから半年後、エリスはさまざまな罪を犯した上にイルミナに毒を盛ったとして処刑された。
(ということは、時が巻き戻っている!? 本当に!?)
エリスは神妙な顔つきで片手で口元を押さえる。
「待って、警告はわかったから! その前にひとつだけ確認したいことがあるの!!」
「? 何かしら」
「今日は何日なの?」
乾いた口腔から声を絞り出すと、イルミナが顔を引きつらせた。やがて眉間にしわを寄せながら口を開く。
「三月の二十三日よ」
その答えにエリスの表情がこわばる。やはり処刑されたときから半年ほど時が巻き戻っている。
(これは現実なの?)
改めて彼女たちの表情を見つめると真剣そのものだった。それに徐々に太陽が昇ってきたことで、窓から差し込む光の角度や影の濃さで処刑された季節とは違うとわかる。
エリスが考え込むように黙ると、クラウィスが「部屋に引きこもりすぎて感覚が鈍っておられるのか……?」と呟いた。
ものすごく失礼なことを言われ反論したくなったが、ぐっとこらえる。
(じゃあ誰よ、私をイルミナ殺しの犯人に仕立て上げたのは!)
時が巻き戻った原因はわからないが、このまま何もしなければ前回と同じく無残に命を散らすことになる。
(そんなの嫌! 絶対に回避しないと)
でもどうやって……と考えていると視線を感じた。いつの間にかうつむいていたようだ。ゆっくりと顔を上げると、怒りをあらわにしたイルミナと目が合った。
「腑抜けているのはどちらのほうかしら?」
「あ、いえその」
ハッとしてから目を泳がせると、それがさらにイルミナの怒りに拍車をかける。彼女が大きく息を吸い込んだとき、それを遮るようにエリスは声を張る。
「……するわ!」
「!? もう一度言ってくださる?」
「舞踏会に参加するわ!」
これしかないと思った。舞踏会には王国中の貴族や有権者が集まる。その中にはイルミナを亡き者にしてエリスに罪を擦りつけようとした真犯人がいるはずだ。
そこで運命を変える手がかりを見つけなければエリスに未来はない。
決意を込めてイルミナを見つめると、彼女は紫色の目を見張った。てっきりエリスの参加表明を聞いて満足してくれると思いきや、彼女は困惑したように小首を傾げる。
「あなた、本当にどうしたの?」
声色が妙に優しく、気を遣われているのがわかり、エリスはガクッと肩を落としながら口を開く。
「私の言葉を疑うの?」
「……二言はないと受け取るけれど」
「未来の女王さまに警告までされてしまえば頷くしかないわよ」
イルミナは今度こそ「わかりましたわ」と頷くが、表情はいぶかしんだままだった。エリスは内心で冷や汗をかく。
(……やっぱり不安しかないかも)
正直なところ彼女たちから見ればエリスの印象は最悪だ。でも今から変えていかなければ二度目の死が待っている。『即死』の魔法を扱えても、自分が死ぬことには耐えられるものではないと知ってしまった。
重くのしかかる現実に胃がキリキリとするが、一縷の望みをかけてやるしかない。そう意気込んだとき、
「ではエリス、今日からクラウィスと一緒に教養と舞踏会の作法の復習をしてもらうわ。明日の早朝にはドレスの採寸を行いますから準備をしておくように」
「──えっ」
エリスは即座に聞き返した。彼女は何を言っているのだろうか。
「今回の舞踏会は成人を迎える祭事にあたるの。その場しのぎで乗り切れるほど甘くはないことはさすがに理解していますわよね?」
「それはわかっているけれど! そうじゃなくって」
問題なのはエリスの教育係としてクラウィスが指名されたことだ。
彼と衝突したのはイルミナへの嫌がらせが始まったときだった。それまでは互いに干渉してこなかったが、なんとなくエリスとクラウィスの折り合いが悪いことはイルミナなら察しているはずだ。視線で訴えかけると、彼女はにっこりと笑みを浮かべる。
「あら、クラウィスなら手取り足取り根気強く寄り添ってくれますわ。ダンスの腕前も申し分ありませんもの」
ダンス、という単語を聞いてエリスの脳裏にぴしゃりと雷が打ちつける。舞踏会では主役がファーストダンスを踊るしきたりがあることを思い出し、即座に顔を青ざめさせる。
「まさかクラウィスさまが私のお相手!?」
「彼以外に適任はいませんわ」
むごい。むごすぎる。エリスはわずかに足をよろめかせる。
(一か月間もクラウィスさまと顔を突き合わせて、互いの呼吸を感じるほど密着してダンスを踊らないといけないということ!?)
真犯人を捜す前にクラウィスに殺されてしまうのではないかと思わずにはいられない。エリスはぎこちない動きでクラウィスに向き合う。
「あ、あなたはイルミナの側近でしょう? 私の相手をしている暇はあるのかしら?」
彼は宰相補佐官の一人であるため仕事量は膨大だ。それに加えて闇属性のエリスの教育係を務めるなど、常人ならとてもできない。
お願いだから断りなさい今すぐに! と念を飛ばすと、クラウィスは唇に弧を描く。
「イルミナさまの期待を裏切るわけにはいきませんので、やり遂げてみせましょう」
見事な忠誠心だが、目が笑っていない。すでにエリスは怪しまれているのだろう。
(それもそうよね!)
この時間軸ではまだ大きな言い争いはしていないが、イルミナの手を焼かせるエリスは注視すべき存在だ。さらに言うと先ほど廊下で出会ったときに彼から逃れるように駆け抜け、勢い任せにイルミナに抱きついてしまったところを見られている。奇行と捉えたからこそ、目を光らせているのだ。
(でも疑わしいのはあなたも同じでしょう!? どうして宰相補佐官が死刑執行人の真似事などしていたのよ!)
こちらから見れば彼は信用ならない人物であり、本当にイルミナに忠誠を誓っているのかさえわからない。
(くっ、でも彼に私を見張らせれば、イルミナとの不仲を利用されて嫌がらせの犯人にされることだけは防げるかもしれない……)
死への恐怖が根付いてしまった今、クラウィスと過ごす日々を考えるだけで恐ろしいが、考えようによっては疑いを晴らす絶好の機会でもあった。
すると目の前に大きな手のひらが差し出された。クラウィスは革の手袋ではなく、白い手袋をつけていた。彼は跪いて、エリスが手を取るのを待っている。
身の破滅と再生を天秤にかけた奇妙な誘いを前に、エリスは小さく息を吐く。不服だったがクラウィスの手のひらに右手を置くと、彼はエリスの手の甲にキスを送るふりをした。吐息を感じて体に力が入る。
「よろしくお願い致します。エリスさま」
彼の声色がとげとげしいのは気のせいではない。エリスは強がるように微笑む。
「こちらこそどうぞよろしく」
そしてエリスとクラウィスは息が合ったように同時にぱっと手を解く。偶然だとしても気に入らない。しばらくすると彼は立ち上がってエリスの顔を見つめる。
「俺は目的のためなら手段を選びません。どこに出しても恥ずかしくない淑女になってもらいますよ」
「あら、今だって立派な淑女よ」
「本気で言っていますか?」
彼は自分の肩を指さして、上着を貸していることを強調した。エリスは顔を逸らす。
「まずはこんな恰好で出歩いたことに罰則を科します。そうですね、礼儀作法の課題を増やしましょうか。あとはダンスの基礎である姿勢の強化もしなければ。課題で使った本を頭の上に載せて鍛えるのもいいかもしれませんね」
すでに彼の上着を我がもののように扱っていた。これにかんしては言い返せない。苦虫を噛み潰したような表情をすると、クラウィスはその様子を見てくすりと悪戯めいた笑みを浮かべる。
「まあ最後は首を痛める可能性があるため冗談ですが、罰則が嫌なら今後は気をつけるように。お返事は?」
「わかったわよ!」
エリスはふてくされながら頷いた。