それから早二週間。
エリスは約六年間の遅れを取り戻すために、自室でひたすら課題とダンスの特訓を繰り返す羽目になった。
勉強だけは引きこもっていたあいだも侍女に命令して本を取り寄せてもらっていたため苦ではなかったが、近年で新たに判明した出来事の履修に追われ、作法やダンスにいたっては体力がなくてすぐに息が上がってしまった。
つまり思った以上にできなかったというやつである。
エリスは自室のソファに寄りかかりながら、深々とため息をつく。まだ日が沈むには早い時間帯だが、クラウィスが席を外しているときしか肩の力を抜くことができない。
(この軟禁生活がもどかしい……!)
クラウィスはエリスが夜着のまま王宮を歩いたことがよほど目に余ったのか、中途半端な出来で王宮を出歩くことを許さなかった。そこでエリスは少しでも周囲とかかわるためにいろいろと考え、王族は王宮内の食卓で共に食事を取っていたことを思い出した。
その旨をクラウィスに告げたが、イルミナは多忙の身であるため自室で取ることが多く、また国王は心臓の病を患っているため空気が澄んだテラスで済ませているらしい。それにエリスとイルミナの母親である妃にいたってはエリスが部屋に引きこもる前から故郷の離宮で療養していて、まだ戻る気配はなかった。
(自分が置かれた現状はわかってはいるつもりだけど……ままならないわ!)
王族としての立ち居振る舞いが不完全のまま王宮を出ればよくない噂が蔓延し、中にはエリスに表立って悪口を並べてくる大人もいる。今は我慢して目の前のことに集中したほうがいいと自分自身に必死に言い聞かせた。
エリスはちらりと壁際に控える二人の侍女を見つめる。確かクラウィスが部屋を出る前に話しかけていた。
「ねえ、あの人……クラウィスさまが今どこにいるのか知っている?」
睨んだつもりはなかったが、彼女たちは勢いよく肩を揺らした。
「え、ええっと」
「宰相さまのもとへ行くとおっしゃっていましひゃ」
恐怖と緊張のせいか語尾を噛んでいたが、エリスはなんて声をかけていいかわからず、頷いてから見て見ぬふりをする。
(……ふうん。確かバラシオン家は代々王宮騎士を輩出しているおかげで私のお祖父さまの代に侯爵の位を賜った名家よね。クラウィスさまの母君は宰相のフォルスター卿の妹君だったはず……ということは!?)
エリスは頭を抱えたくなる。道理で見事な剣術だった。
レストレア王国の王宮騎士団は王族だけを守る特別な存在であり、衛兵とはまた別の剣術の精鋭が集められた三十人ほどの部隊だった。
だからこそバラシオン家の男児は王宮騎士になり活躍することを最大の誉としていたが、クラウィスは幼い頃から宰相への道を目指していたというのか。
(いいえ、違うわ。当時は興味がなかったからうろ覚えだけど、五年以上前にとある騎士が急に王宮騎士団を辞めて、当主であるお父君の期待を裏切ったことで相当な騒ぎになったと風の噂で聞いたことがあるような)
それがクラウィスだったのだろう。やはり彼は謎多き人物だ。
(あーもう! どうして彼のことでこんなにも頭を悩ませなければいけないのよ!)
心の中で悪態をつくと、扉からノック音が聞こえてきた。
エリスは慌てて背筋を伸ばし、返事をする。一拍置いてからクラウィスが入ってきた。その手には追加の課題の束が収まっている。
「そろそろ休憩を終わりにしましょうか」
「……わかったわ」
エリスは彼に見えないよう顔をしかめる。さすがに前みたいに激しく言い合いをすることはなかったが、クラウィスに管理されている気がして苛立ちが隠せない。
侍女たちもクラウィスには心を開いているようで、笑みを浮かべてから夕食の準備に取り掛かるために席を外した。それが余計に不満を募らせる。
(さすがバラシオン家の男ってわけね。闇属性の私のことなんか怖くはないと)
魔法属性の多くは火・水・風・土という四大自然元素に分けられ、親から遺伝する。魔法属性は瞳の色でわかり、火は赤、水は青、風は緑、土は黄という系統にわかれていた。
だがその四つとは別に、極まれに親から遺伝しない紫色の瞳を持った闇属性や光属性が生まれる。それがエリスとイルミナだった。
エリスは物心つく前からその時の衝動に任せて闇魔法を使わないよう、感情と魔力の制御を繰り返し鍛えてはきたが、それでも上手くいかないことがあった。
エリス自身が否定的な自覚を持っているというのに、クラウィスは全く物怖じした態度を見せない。見張っているというよりは、見定められているような居心地の悪さだった。
(ほら、今もテーブルに課題を並べながら私の表情をうかがっている)
最近になってイルミナの命令でお目付け役となったにしては別の思惑が含まれていることに気づいた。
(まさか、イルミナの周囲で嫌がらせなどのいざこざが起きているの?)
その原因として考えられるのは王位継承問題だろう。
イルミナとエリス以外に王位に近いのは、三歳年下の従弟だった。男児ということで支持する人も多く、派閥化していた。その一方でエリスには派閥の均衡を傾けるほどの力もなく、身の回りを調べられたところで何も出てこない。
(でも疑問はまだあるから! あの処刑のときの反応は? どうして死刑執行人として私の前に現れたのよ!?)
今の彼に聞きようがないことがもどかしい。エリスが本日何度目かわからないため息をつくと、クラウィスが何を勘違いしたのか口を開く。
「そんなに不安そうな顔をしなくても、ドレスの制作は順調に進んでいるようですよ」
「え? ああそうなのね、よかった!」
そう返事をするが、内心では心臓が早鐘を打っていた。
(もう~! 蒸し返さないでよ!!)
実はここ最近で特に大変だったのはドレスの打ち合わせだった。
通常なら一か月でドレスを仕上げるのは難しい。そこですでに発注済みのイルミナのドレスの意匠を参考にすることになった。
お揃いというだけでも気が滅入るというのに、打ち合わせにはイルミナも姿を見せ、仕立屋の店主である三十代くらいの婦人とお針子たちと意見を交わすことになった。
だが彼女たちの表情は明らかに曇っていて、壁際に控える騎士の数も多く、エリスに対して警戒しているのは明らかだった。
エリスは居心地の悪さばかりが気になってドレスの意匠に口出しせずにソファに座っていると、イルミナから『自分のことなのよ、もう少し興味を持ちなさい』と言われた。
『……着飾ったところで何も変わらないわよ』
誰にも聞こえないように呟いたが、無言のままだとイルミナの怒りを買うため、髪色に合わせて黒糸の刺繍を多めに使ってほしいとだけ伝えた。
あれよあれよと決まっていき、婦人が用紙にドレスの意匠を描いて色をつけていくが、イルミナのものと対極になるような濃い紫色の生地と黒い刺繍レースが相まって不気味な印象を抱かずにはいられなかった。
みなが頭を悩ませたとき、エリスの背後で様子をうかがっていたクラウィスが動いた。彼はソファ越しにテーブルを覗き込んだ。彼と距離が近くなったことにエリスが身を硬直させていると、思い切って生地の色を変えてみるのはどうでしょうという意見が出た。
そして彼はあろうことか生地見本を指さし『この薄紫が似合うと思いました』と言った。
聞き違いではなかった。確かにエリスに似合うと言ったのだ。
(う、うぁ~!!)
エリスは当時のことを思い出し、頭を抱えそうになるのを必死にこらえる。
その後、婦人とイルミナは『なるほど』『前よりも雰囲気が柔らかくなったわね』と声を弾ませたため、エリスは慌てて積極的に意見を出したが、その努力も虚しく、クラウィスの案が採用された。現在は仕上がり待ちである。
(くぅ、クラウィスさま監修のドレスを着て人前で微笑むことなんてできないわよ!)
憔悴しきった顔でうなだれると、「エリスさま」とクラウィスに呼ばれた。
「一点確認をしたいのですが」
「な、何を」
「舞踏会に向けて住まいの警備を増やしませんか? 城下町はたくさんの人が出入りします。いつもと同じ警護はいかがなものかと」
彼の言いたいことはわかる。エリスはイルミナとは違って専属の騎士を持たない。
理由は簡単。闇属性は死と破壊の印象が強すぎるため、暗殺者すら狙わないと言われていた。今まではそれで事足りていたが、彼はさらにエリスを監視したいということなのか。
どうせ何を言っても覆ることはない。エリスは「好きにすればいいわ」と告げる。すると彼の眉間のしわが深くなった。
「俺はあなたに提案しました。エリスさまの今の答えは正しくはないかと」
「……どういう意味よ」
「警備はご自身にかかわることです。もっとしっかり考えたらどうですか?」
イルミナに似た説教染みた言葉にエリスはうんざりした。どうやら今回も彼といがみ合う運命にあるということらしい。
だがここで繰り返せば二の舞になる。大人になって譲歩しよう、でもなんと言えばいいのか。自問自答に集中してしまい上手く言葉を紡げずにいると、クラウィスが深いため息をついた。
「どうしてそこまで人を遠ざけるのか。あなたは本当に理解しがたい人だ」
クラウィスの声が一段と低くなった。日差しを浴びた海のような瞳を細め、エリスと目線を合わせるようにかがむ。
「あなたの魔法がどんなに強力だろうと、隙をつけば……」
彼は「失礼」と前置きしてからエリスの首元に向けて手を伸ばし、触れるか触れないかのところでピタリと止めた。
「簡単に手にかけることができる」
クラウィスはじっとエリスを見つめた。
(──っ)
心臓をわしづかみされるような恐怖がせり上がり、エリスはヒュッと息を吞む。
しばらくして、身に覆いかぶさっていた影が離れていく。
早鐘を打つ鼓動に耳を傾けながらクラウィスをうかがうと、彼は先ほどの雰囲気とは一変して涼やかな表情で腕を組んだ。
「申し訳ありません。脅かしすぎましたか?」
「へ?」
エリスは素っ頓狂な声を出して何度か瞬きした。彼は今、謝ったのか。そのことに驚いて呆けていると、彼は幼子に告げるような口調になる。
「でもこれに懲りたらきちんと自分の意見を細部まで言うように。わかりましたか?」
「はい……て、子ども扱いしているでしょう!?」
そう言ってからエリスは両手で口元を押さえた。思わず反論してしまい、クラウィスの気に障ったらどうしようと怯えるが、彼は困ったように肩をすくめただけだった。
それを見て、エリスは体の力が抜けてしまう。ややあって「……警備はしてほしい。でも人の目が増えるのは嫌」と声を漏らした。
「なるほど、承知いたしました。騎士にはなるべく気配を消すよう指示します」
あっさり意見が通り、思わず二度見してしまう。
(私の言葉を聞いてくれたの……?)
今までそんな人はいなかった。国王が雇った教育係たちはみなエリスのご機嫌伺いばかりしていたからだ。エリスはうつむくことで前髪の影を利用し表情を隠す。
(どうしよう。胸までチクチクしてきた)
平常心を取り戻そうと深呼吸をしていると、視界の端でクラウィスがテーブルの上に並べた課題の束を丸め始めた。
「……ねえ、何をしているの?」
「俺のせいでエリスさまの集中が途切れてしまったので、ダンスに変更しましょう。昨日と同じくワルツで、今日はもう少し軽やかにやりましょうか」
彼にとっては場の空気を変えるための提案かもしれないが、エリスにとっては命を脅かす事案だ。至近距離であの青い瞳に見つめられるなんて、心臓が耐えられない。
(何これ脅しのフルコース!?)
心の中でそう叫ばずにはいられなかった。