季節は四月となり、いよいよ舞踏会当日となった。
エリスは化粧台の前に座り、鏡に映る自分の姿を見てため息をつく。このドレスを見るたびに『クラウィス監修』という事実が頭を過る。
(しかも仕上がりが私好みになっている……!)
仕立屋の店主とお針子たちはエリスの普段着を見ただけで好みを読み取っていたようだ。純粋にお気に入りのドレスとして大切にしたいという気持ちと、いやこれは『クラウィス監修』のドレスだから素直に認めたくないという気持ちがせめぎ合う。
葛藤で頭がいっぱいになっていると、自室の扉からノック音が聞こえた。
エリスが返事をすると涼やかな表情をしたクラウィスが現れる。
「失礼いたします。お迎えにあがりました」
彼は黒地の礼服をまとっていた。一見、堅苦しさがあると思いきや、襟のブローチと袖のカフスボタンにはサファイアをあしらっていて、華やかさを演出している。雰囲気に合わせるように前髪も癖を付けられ、いつもより凜々しい眉が見えた。
(ふうん。悪くはないわね)
相変わらず表情はツンとしているが、彼は今年で二十一歳になることもあり、艶やかな成人男性の色気を漂わせていた。さらに騎士道を嗜んでいたため、所作が美しく、エリス以外の女性には気遣いを見せた。現にエリスの侍女たちが浮足立っていて、今も壁側でクラウィスの姿を見て甘いため息をついている。
おそらく以前エリスに上着を貸してくれたのは彼の他意のない行動だったのだろう。
(まだ気を許すことはできないけど……私の敵ではないわ)
時折観察されているような鋭い視線を向けられるが、もしも害そうとしているなら警備の強化の提案などしなかったはずだ。
この居心地の悪い生活も今日で終わる。
(だから最後くらいあなたに本気を見せてあげる)
エリスは立ち上がると、クラウィスに近づく。そして絵画の中の天使のように麗しい微笑みをたたえる。
「お待ちしておりましたわ、クラウィスさま」
彼は一瞬だけ目を見開くと、わずかに挑発的な笑みを浮かべる。
「とてもよくお似合いですよ。俺の見立てに間違いはなかったようですね」
「お、か、げ、さ、ま、で、ね」
しまった、本気は一瞬で崩れた。すると彼は珍しく「ふっ」と声をあげた。
(嘘、笑った?)
エリスがぽかんと小さく口を開けると、クラウィスは何事もなかったかのように涼やかな表情で手をすくいあげる。
「では参りましょうか」
「え、ええ」
エリスは導かれるようにクラウィスの腕に手を添えた。慣れというものは恐ろしい。彼に対する死の恐怖よりも、舞踏会を乗り切りたいという緊張のほうが勝った。
彼にエスコートされ、エリスは王宮でもっとも大きい広間がある水晶宮に向かう。吹き抜けの通路に差しかかると紺色の夜空が垣間見え、燭台のオレンジ色の光がエリスたちを優しく照らし出し、心地のよい風が肌を撫でた。
水晶宮にはすでにレストレア王国中の貴族や有力者が集まっている。
エリスが舞踏会に参加を表明したことで、誰もが驚きと警戒で騒然としたという話を侍女たちの会話から盗み聞きしていた。
参加者からしてみれば不安や心配の声をあげたいところだが、成人として節目の祭事に第二王女が不在だと他国に不信感を抱かれる懸念があるため、状況を吞み込むしかない。
そんな彼らの前に姿を現したときの反応を思い浮かべるだけで気が滅入るが、この中に間違いなくエリスとイルミナを陥れた真犯人がいる。
その人物は着飾ったエリスを見てどう思うのだろうか。恐れを見せるのか、それとも憎しみを込めて睨みつけるのか。
(踊り場からくまなく見下ろしてあげるわ)
今回はイルミナと共に水晶宮の大広間の二階から登場し、踊り場から二股に分かれた階段を下りてから国王へ挨拶をし、そのままファーストダンスを踊ることになっていた。
大広間への豪奢な出入り口に向かうと、すでにイルミナの姿があった。
彼女もまた華やかな装いで、アイボリーのドレスは見る者をうっとりと感嘆させてしまうような魅力がある。スカート部分は裾にむかって徐々に透き通るようなラベンダー色に染まり、腕まで覆う長手袋には銀糸の刺繍レースが贅沢に使われていた。
(イルミナのお相手はアルフリートさま?)
彼女の隣には専属騎士がいた。エリスが視線を向けると人当たりのいい笑みを返してくれる。今日は大剣を携えてはおらず、清々しい緑色の刺繍が特徴の黒い礼服を着ていた。
飄々とした印象があるが、彼もまた油断ならない人物だろう。
(彼ならクラウィスさまが宰相への道に転向した理由を知っているはずだわ)
クラウィスとアルフリートの仲は傍目から見れば悪くはなさそうだ。機会があればクラウィスのことを聞いてみたい。
エリスがイルミナの横に立つと、彼女に声をかけられる。
「あらエリス。表情が硬いわ。怖気付きましたの?」
「まさか。あなたのほうこそ顔色が青白いようね。大事な場面で倒れても知らないわよ」
「ふふふ。わたくしの心配は無用ですわ」
余裕を含んだ声色だったが、急に真顔となり「この扉の先でわずかでも気を許せばすぐに足をすくわれますわ。これだけは肝に銘じておきなさい」と告げられた。
ややあってエリスは苦々しい表情で呟く。
「そんなこと私だってわかっているわよ」
水晶宮に集められた人々は誰もがイルミナの登場だけを待ち焦がれている。
すでに国王の入場は終わっていて、彼は玉座に腰をかけている。そしてその隣の椅子は空席だった。妃は心労のため療養から戻れる状態ではないほど弱っている。
だからこそ人々は次期国王にもっとも近いといわれるイルミナに期待を寄せるのだ。
何より彼女は魔法属性の中でも希少な光属性の姫君だ。美しくて勤勉で、常に民の心に寄り添ってくれる彼女がいるかぎり、この国の将来は安泰だろう。
(私も心のどこかでそう思っていたけれど)
前回の人生では悲惨な結末を迎えていた。
──イルミナさまに頼りっぱなしでいいのですか?
ふと脳裏からその言葉が再生され、エリスは顔を上げる。
「どうかされましたか?」
「……いいえ」
エリスは首を横に振る。クラウィスに声をかけられたように感じたが、違ったようだ。
いよいよ二人の姫君の入場を知らせるファンファーレが鳴り響く。久々の表舞台にエリスは肩に力が入ってしまう。直前になって緊張が込み上げてきた。
そのとき、低い声が耳元をかすめる。
「最後の課題です、エリスさま。心からの笑みを浮かべてください」
「!」
エリスが首をひねると、すぐそばに彼の顔があった。慌てて視線を正面に戻す。
「まだ指導が必要なの?」
ぼそっと吐き出すと、彼は素直に「はい」と言った。なんだか気を張るのが馬鹿馬鹿しくなってしまう。
「自分が幸せを感じるとき、心から笑える光景、言われて嬉しい言葉などを頭に浮かべてください。嘘でも演技でもいいですから」
エリスはすねたように目を細める。そんな思い出など今までなかった。
(あ、でも……)
今日、ひとつだけ期待している言葉があった。
みんなにとっては当たり前にもらえるものだけど、エリスにとってはささやかな奇跡。
もしも誰かひとりでもそれをくれるなら、エリスは心から笑えるだろう。
(──そして未来を変えてみせる。絶対に)
エリスは覚悟を決めて一歩踏み出した。
水晶宮に待機する人々は、期待を寄せながら主役の登場を待っていた。
紫色の天幕は優雅になびき、ところどころに飾られた旗には金糸の刺繍で王家の紋章である二羽の鷹が描かれ、よく磨かれたシャンデリアがきらびやかに大広間を彩る。
まさに祝いの日にふさわしい装飾だ。ついに家令の合図により、水晶宮の豪奢な扉から無垢の化身のような少女と近衛騎士が現れる。
「イルミナ・ルーシェン・レストレア王女、ご入来!」
彼女は人々の心に柔らかな春の陽の光を差し込むような笑みをたたえていた。花弁のようなアイボリーとラベンダーのグラデーションのドレスを着た姿はとても美しい。
たくさんの拍手が鳴り響き、中にはその成長に涙ぐむ者までいる。
しかし家令が「続いて」と言ったことで、誰もが神妙な表情を浮かべ、心なしか拍手の勢いが弱まった。
「エリス・アウリア・レストレア王女、ご入来!」
王国でも珍しい黒髪を持つ闇属性の少女は、見た目からも敬遠される対象だった。
──ひっ、本当にやってきたぞ。
──ああ嫌だ。不吉な象徴がこの場に現れるなんて。
──神官たちが少ないのではないか。いざというときしっかり守ってくれるんだろうな。
──クラウィスさまもよく平然とされているわよね。可哀想に。
──あれは脅されているに決まっているでしょう!
拍手に交じって人々が思い思いにささやく。
だがエリスは恭しく頭を下げると、花が咲きほころぶような笑みを浮かべる。
勝ち気な瞳は闇夜に浮かぶ星々のように生き生きと輝きを帯びていた。オニキスのような黒い髪は編み込まれてハーフアップとなっていて、金細工に縁どられた髪留めで飾られている。さらに頬や唇は春を象徴するような淡いピンク色に染まっていて、可憐な印象を抱かずにはいられない。
それにしてもドレスがよく似合っている。
薄紫色の布地はアイリスの花のような柔らかさと艶やかさを兼ね備えていて、体の線に沿ってスカートが控えめに広がる。裾や腕を覆う長手袋には黒い刺繍レースがふんだんに使われ、成人と認められる舞踏会にふさわしい大人っぽさを演出していた。
そして耳元にはアメジストのピアスが揺れていた。レストレア王国の祭事では宝飾品が好まれるため、男性も女性もピアスやイヤリングをつけることが多い。よく見ればエリスのドレスやピアスの意匠はイルミナのものとよく似ていた。
いつのまにか人々のささやきが止まっていた。
エリスとイルミナたちは中央に向けて歩みを進め、ダンスを踊るための定位置につく。国王に向けて一礼をすると、彼は厳かに頷いた。
やがてエリスとクラウィス、イルミナとアルフリートが向かい合って体を寄せる。それに合わせてワルツが流れ、エリスはクラウィスと呼吸を合わせてステップを踏んだ。
二人の姫君が華麗に舞う姿を見て、誰もが当たり前のことを思い出す。
エリスがこの王国の第二王女であり、イルミナの双子の妹だということを。