「……あ、れ?」
気づいたら、エリスの視界に見慣れた天井が映っていた。
ゆっくりと起き上がってあたりを見回す。まだ太陽が昇りきっていない仄暗い部屋はまぎれもなくエリスの自室であり、クラウィスも国民も誰もいない。
エリスは動悸を感じながら、恐る恐る首元に触れる。大丈夫、繋がっている。傷がある感触もなかった。
(まさか誰かが『治癒』の魔法で私を生かしてくれたの?)
瀕死の状態から元通りに回復させることができるのはイルミナくらいだが、彼女は魔法が使える状態ではなかったはず。
エリスは弾かれたようにベッドから飛び降りる。
(イルミナに、イルミナに会いに行かないと……!)
昏睡状態だろうがなんだろうが、意識を取り戻すまで積年の想いをぶちまけなければ気が済まない。
夜着のまま靴だけを履いて自室を出る。衝動にまかせてずんずんと廊下を進み、階段を上がって外に連なる回廊に出ると、横風が肌を撫でた。
「うっ、寒い」
きゅっと目を閉じて身を縮こまらせる。秋口の涼しさとは違う、どこか体の芯の熱まで奪うような冷たさだった。
エリスは両手で腕をさすりながら足を進めるが、ふと周囲に人がいないことに違和感を覚える。早朝だからなのか。そう考えたとき、
「そこにいるのは誰だ」
背後から声をかけられ、心臓が跳ねる。
聞き覚えのある清々しい声に、エリスは息を吞んでから振り返る。そして長いまつ毛に彩られた目をこれでもかと見開いた。
男が立っていた。聡慧そうな顔立ちに、細身だが引き締まった体躯の男だ。真っすぐに伸びた金髪は耳にかかる長さなのに対し、襟足は短い。何より前髪から覗く日差しを浴びた海のような青い瞳から目が離せない。
(どうしてあなたがここに……!)
エリスを呼び止めたのはクラウィス・バラシオンだった。
彼は先ほどとは違って、黒いローブではなく洗練された藍色の生地に金縁の飾りが施された礼服を着ていた。
エリスは咄嗟に片手で首元を押さえる。傷口は残っていないのにチクチクとうずいた。ああ駄目だ。クラウィスが大剣を振り下ろしたことを、目が、耳が、肌が覚えている。
(いっちばん顔を合わせたくない人と出会うなんて!)
自分の運の無さに内心で頭を抱える。イルミナの住まいがある南の区画に向かうためにはこの回廊を通らなければならない。必死に脳内で迂回路をはじき出していると「エリスさまですか?」と声をかけられた。
エリスの目から光が消える。
(……これって部屋から脱走したことになるのかしら!?)
そもそも処刑からどれくらいの時間が経っているのかもわからない。
エリスはちらりとクラウィスの様子をうかがう。
見たところ彼は大剣を持っていないが、礼服のどこかに切れ味の鋭い短剣を隠し持っている可能性がある。もしかしたらエリスを油断させるための罠かもしれない。
(彼との距離は私の歩幅で十歩分……よし!)
エリスはぐっと足に力を込めると、意を決して口を開く。
「命に誓ってやましいことはしないから!」
「は?」
エリスは勢い任せに声を張ってクラウィスの意表を突くと、駆け足で通り過ぎる。
(あ、うそうそうそ、もう追いかけてきた!)
彼は敏捷さに優れているのか、すぐに靴音を響かせ「お待ちください!」と呼び止めた。エリスは聞こえないふりをする。
(このままだと捕まってしまうわ! 彼のしつこさは一級品だもの)
エリスは裾を持ち上げて足を動かす。振り返る時間はない。迫りくる恐怖に涙目になりながら、エリスは必死に空気を肺に送り、やがて重厚感がある扉の前にたどり着くと立っている騎士に向けて叫ぶ。
「今すぐ扉を開けなさい!」
第二王女、いや、畏怖の象徴である闇属性の王女の声に騎士たちは戦々恐々とした様子で扉を開ける。
扉の先は侵入者を阻むために廊下が枝分かれしていたが、エリスは迷わずにイルミナの自室に向かう。運が向いてきたのか、扉の前に第一王女の専属騎士の姿はない。ドアノブに手をかけてバンッと開け放つ。
部屋の中心のソファに少女が座っていた。日光を浴びて輝くプラチナブロンドの髪はカチューシャのように編み込まれ、紫色の瞳は庇護欲をそそられるような儚さがあった。
イルミナはすでに着替えを済ませて何かの資料に目を通していたが、ややあってから驚いたように顔を上げる。
「エリス?」
鈴を転がすような声を久々に聞いて、喉奥がつんと苦しくなる。
(クラウィスさまの嘘つき。イルミナは生きているわ)
イルミナの頬はほんのりと赤く色づき、一見すると毒で弱っている様子は感じられない。エリスが息を整えながらイルミナに近づくと、彼女の表情がこわばった。
「どうしてここにいますの?」
「別に。その腑抜けた顔を見に来ただけよ」
「あなたが? わたくしに会いに来たというの?」
その困惑は当然のことだろう。エリスは十歳のときに引きこもりがちになってから十六歳で処刑されるまで、イルミナのもとを訪れたことはなかった。
(……ああ本当に腑抜けた顔)
エリスはイルミナの顔に影を落とすように目の前に立つ。自分がどんな表情をしているのかわからない。
同じ年の同じ日に生まれたというのに、幼い頃から姉妹仲は悪かった。だが、いざ彼女がいなくなると知ると胸が苦しくなった。
(まさか私があなたに喪失感を抱くなんて)
思わずため息のような荒い息をひとつ吐いた。
「エ、エリス……?」
「? 何よ」
「苦しいわ」
歯切れの悪いイルミナの声を聞いて、エリスは「え?」と我に返る。
気づいたら、エリスは彼女の肩口に顔をうずめていた。まるで抱きついているような恰好に、唖然としながら顔を上げると、合わせ鏡のようなイルミナと顔を突き合わせる。
エリスはまだ状況を吞み込めなくて自分と同じ紫色の目をじっと見つめると、彼女の頬が照れたようにじわじわと赤くなっていく。
(私ったら何をして……しかもイルミナのそんな表情なんて初めて見たわよ!)
そのことに動揺して、エリスの頬まで熱を帯び始めた。
「ご、ごめんなさい!」
エリスが勢いよくイルミナから離れ、そのまま二歩、三歩と後退すると何かにぶつかった。壁にしては弾力があり、家具にしては背が高い。目を見開きながらゆっくりと振り返ると、クラウィスが立っていた。
(ひぃっ!!)
彼は鋭い視線でエリスを見下ろしていた。そして逃さないといわんばかりに距離をつめてくる。ぎゅっと目を閉じた次の瞬間。エリスの肩に何かの重みが加わり、同時に爽やかないい香りがふんわりと鼻腔をくすぐった。
(……!?)
恐る恐る目を開けると、肩には藍色の礼服の上着がかけられていた。男物なのかエリスがまとうとガウンのようになってしまう。
ぎょっとしてクラウィスを見つめると、彼は灰色のシャツとベストという恰好で腕を組んでいた。無慈悲に命を奪おうとしたのに、この変わりようは尋常ではない。
「……何を企んでいるの」
エリスがいぶかしげな声で問うと、クラウィスは眉をピクリと動かし、やがて呆れたように顔をしかめる。
「企むも何も、一国の王女にそんな恰好で出歩かれるわけにはいきませんので」
「恰好?」
エリスは自分の装いを確認するためにうつむくと「あっ」と素っ頓狂な声をあげた。
夜着のままだった。慌ててクラウィスがかけてくれた上着をしっかり着込む。どうしよう。いろんな意味で動悸が収まらない。
クラウィスは追い打ちをかけるようにエリスの右手を掴み、顔を覗き込んでくる。
「もう逃がさない。あなたこそ何を企んでいる」
低い声に耳打ちされ、即座に「ち、近いから……ちょっと」と支離滅裂な言い訳をして距離を取ろうとするがびくともしない。
エリスが顔を真っ青にしてうろたえていると、イルミナが「クラウィス、手を放しなさい」と告げた。
彼は一拍置いたあと解放する。エリスは震える右手を隠すように左手で覆った。横目でクラウィスの動きを確認すると、彼は警戒心をあらわにしたまま出入り口の近くに控える。これで退路はふさがれてしまった。
(……しまった! 専属騎士もこの部屋にいたのね)
そのときエリスはクラウィスの近くに第一王女の専属騎士であるアルフリートが立っていることに気づいた。
癖のある茶髪はミルクティーのように柔らかな色合いだが、襟足を刈り上げているため一筋縄ではいかない印象を抱かせる。それに深い緋色の瞳は獲物を見定めるような鋭さをはらんでいた。
まさかずっと見張られていたのか。もしもエリスが一瞬でも殺気を見せれば、彼は壁を蹴って間合いをつめて首に剣を突きつけてくるだろう。
(でも絶体絶命なのにこの違和感は何?)
どうも処刑直後の様子としては彼らの反応がおかしい気がする。