カフェでレナルドと遭遇した日の夜、私は王宮の図書館で王国の地図を広げていた。
レナルドはダミアンのために軍の知り合いを紹介してくれるかもしれない。だけど、もしダメだった場合に備えて、他の販路も私の方で考えておこうと思ったんだ。
ダミアンが言っていたように、魚の瓶詰めを内陸部に売るのはいい案だと思う。その場合、都市の産業構造や人口分布の特徴から考えて、どの都市に売るのがベストだろう?
私は各都市の特徴をノートに書き出していき、ふと途中でペンを止めた。漠然とした不安が胸をよぎったんだ。私、このまま瓶詰めのことばかり考えていていいのかなって。
途中退場を余儀なくされた前世と違い、今世では悔いのない人生を全うしたい。そのためにも、破滅フラグ対策にもっと本腰を入れた方がいい気がする。しかしその一方で、一度引き受けたプロジェクトは最後までやり遂げたいと願っている自分がいる。
前世の私はまだ駆け出しの経営コンサルタントで、中途半端な仕事しかできなかった。今世でこそ、胸を張って「プロジェクトをやりきった!」と宣言したい。それは所詮、私のエゴに過ぎないのかもしれないけど、でも……。
ダメだ。今日は頭が疲れてる。こういう時に考え事をしても、ろくな結果にならない。
時計を見ると、零時を過ぎていた。早く寝ないと、またアナリーに心配をかけてしまう。
私は荷物をまとめて席を立った。時間を意識した途端にこみ上げてきたあくびをかみ殺しながら、図書館を出て行こうとする。次の瞬間、私の眠気は一気に吹き飛んだ。
「こんばんは、ヴィオラ。ずいぶん遅くまで勉強しているんだな」
図書館の入口で待ち構えていたレナルドが、私を見て優雅に微笑む。
「ごきげんよう、レナード。あなたもこんな夜更けに調べ物?」
「まぁ、そんなところだな」
レナルドはそう言うと、辺りに人がいないのを確認し、私の方に近寄ってきた。
「今日は思いがけずカフェで君に会えて嬉しかったよ。まさか商家の娘に扮した君を見られるなんて。これは一生の思い出になるな」
「私もよ。王宮の外でのあなたを見られて、とても新鮮だったわ。あっちの方が本当のあなたなの? それとも、あれはすべて演技だった?」
「君にも同じ質問をしたいな。ダミアンの前で、君はいつも豪快な商家の娘を演じているのか? もしそうだとしたら、それはなんのためだ?」
実はダミアンといる時の方が素の私だと答えたところで、信じてもらえないだろう。
答えに窮する私を見て、レナルドが軽く肩をすくめた。
「わかった、質問を変えよう。私が瓶詰めの計画に携わることを、君はどう思っている?」
「……とても頼もしいわね。あなたのように優秀な人が加わってくれたら、計画の実行力が増すというものよ。ダミアンもあなたのことを信用してるようだしね」
「なら、仲間として教えてくれないか? 君がなぜあの計画を始めたのか、その真意を」
何があっても、最後はその質問に行き着くのね。カフェでダミアンが話したことを、レナルドは単なる作り話だと思っているらしい。
ここで本音を打ち明けても、信じてもらえるかわからない。しかし、表面だけの受け答えはさらなる不信感を招き、プロジェクトの足を引っ張るかもしれない。そういう事態だけは避けたくて、私は覚悟を決め、レナルドと対峙した。
「ダミアンが話した通りよ。廃棄予定の魚を何かに活用できないかと考えた結果、私たちは魚を使った瓶詰めの大量生産という答えに行き着いたの」
「それで、瓶詰めを大量に作ってどうするつもりだ?」
「大切なのは瓶詰めを作ることより、瓶詰めを生産するための工場を作ることだと、私は考えているわ。もちろん瓶詰めが売れたら、それに越したことはないけど」
レナルドが私の真意を測りかねたのか、眉をひそめる。私はゆっくりと説明を続けた。
「あなたも知ってるように、今の王都には十分な働き口がないわ。そこへ瓶詰め工場を作れば、新たな雇用を生み出せる。路頭に迷っている人たちに職を提供し、生活費を稼ぐ仕組みが作れるのよ。それって大切なことじゃない?」
私を見下ろすレナルドの目が驚愕と不審の間で揺れる。しばしの沈黙ののち、彼は口元に皮肉げな笑みを刻んで聞いてきた。
「それで、君は民を工場で働かせて、どうするつもりだ? 民を使役し、税金を搾り取るのが目的か? 何しろ君の中では、『民は生かさず殺さず』というのが常識らしいからな」
「……………………」
私は目を逸らしたくなった。悲しいけど、覚えてる。それは前世を思い出す直前に私自身が言い放ったセリフだ。まさかこんなところで、あのイタい過去をつきつけられるなんて。
こういう時は下手に言い訳をしない方がいい。私は素直に「ごめんなさい」と頭を下げた。
「あの頃の私はちょっと……ううん、かなりどうかしていたわ。私が急に改心したからといって、あなたが受け入れられない気持ちもよくわかる。だけど、どうかお願い。私のことは信じなくてもいいから、ダミアンや困窮している人たちのために、軍に瓶詰めを売る手伝いをしてくれたら、その、すごく嬉しい……です」
レナルドの視線が恐すぎて、後半の方はささやくような小声になってしまった。それでも、彼には最後まで聞こえていたらしい。
「なるほどな。君の言い分は一応筋が通っている。しかし、なぜだ? なぜ君はこうも急に民のことを考えるようになったんだ?」
「殺されたくないからよ」
「……は?」
あ、まずい。つい余計な本音までダダ漏れになってしまった。
「私はその、今まで税金で贅沢の限りを尽くしてきたわ。民がそのお金を捻出するのにどれほど苦労してきたか、街に出て初めて気づいたのよ。だから、十六年分の償い……とまではいかなくても、せめて自分が今までに使った分くらいはきちんと働いて返したいの」
「それが君の設定というわけか」
うっ、やっぱり信じてもらえないか。一瞬、前世を思い出したことを正直に打ち明けて、私の性格が変わった理由を一から説明したいと願ってしまった。しかし、それはさらなる混乱を招くだけだ。
「まぁ、いい。今しばらくは君の芝居につき合おう。明日から瓶詰め計画の仲間としてよろしくな、ヴィオラ。どうかよい夢を」
レナルドが私の髪を一房すくい取り、口づけを落とす。その仕草は、見る者の心を奪うほど色っぽくて素敵なのに、当の私は背筋が凍りつく思いでその様子を眺めていた。
明日からずっとこの腹黒王子に監視されるなんて、冗談じゃないわ。レナルドが加わることで瓶詰めプロジェクトは……私の未来はどうなってしまうの?
レナルドという予想外の因子が加わった今、プロジェクトがこの先どう転ぶかわからない。せめて内陸部への売り込みだけでも、私の手で成功させなくちゃ。
そう考えた私は、その日、寝落ちするまでずっと自分の部屋で王国の地図を眺めていた。
♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦
レナルドがプロジェクトに加わってから二週間が過ぎた。その日の夕方、私は自分の部屋のベッドで珍しく撃沈していた。
四六時中レナルドと一緒にいたストレスで胃に穴が空いたわけじゃない。彼は毎日のように瓶詰め工場の建設予定地に来ては私やダミアンといろんな相談をしていったけれど、役に立つアドバイスもたくさんもらえたから、それはいい。問題は別にある。
私はよりにもよって失敗してしまったんだ。地方への瓶詰めの売り込みに。
今日の午後、私は貴族のご令嬢たちを招いてお茶会を開いた。その目的は、地方出身のご令嬢たちに魚の瓶詰めを使った軽食を試食してもらい、地方への販路を切り開くことだった。
しかし、私が料理人に頼んで作ってもらった渾身のカナッペやテリーヌは、ご令嬢たちから見向きもされなかった。私がいくら勧めても、彼女たちは遠慮するばかりで、どこの誰が素敵だとか、誰に恋人ができたとかいう浮ついた話に花を咲かせていたんだ。
いろんな男性の名前が挙がる中、一番人気は正統派王子のレナルドだった。同じ王子でも、リアムの方は引き籠もりである点が敬遠されたのか、あまり話題に上らなかった。
そんな中、ダークホースとして名を連ねたのが、あのラルスだった。若いイケメンは王宮の外でもチェックする。そんなご令嬢たちの熱意と執念に私は舌を巻いたが、その噂話の精度は当てにならなかった。なんと彼女たちの間で、ラルスは女たらしとして有名だったのだ。
確かにラルスはモテるよ。一見無骨でありながら、意識せずにレディーファーストをやってのける点がたまらないのか、中には彼に会うため、治療院に通っている女性たちまでいる。
その筆頭は、差し入れをしに来たアナリーの同僚──光の乙女候補ね。この間なんて、ちょうど私がラルスと話していた時に彼女が来たせいで、思い切りにらまれて恐かったんだ。
ラルスの方は特定の女性とつき合う気もなさそうだけど、優しくされたご令嬢たちが勝手に誤解したせいで、女たらしの悪評が立ったのかもしれない。かわいそうに。
まぁ、そんな風にご令嬢たちがゴシップに熱中していたせいで、私は瓶詰めを売り込む機会を逸してしまった。これからどうしよう? またお茶会を開くわけにもいかないし……。
先の読めない不安に駆られ、ベッドの上で足をバタつかせた。その時、扉がノックされた。
「ヴィオレッタ様、今よろしいでしょうか?」
「ちょっと待って」
侍女に聞かれ、私はベッドから起き上がった。仮にも一国の王女がだらしない姿を見せるわけにいかないものね。乱れた髪を手櫛で直し、スカートのシワを伸ばして準備完了。
「もう大丈夫よ。どうぞ入って。……って、どうしたの? 顔色が真っ青だけど」
「申し訳ございません。実は先ほどレナルド様がお見えになりまして。応接間の方にお通ししたのですが、よろしかったでしょうか?」
レナルドが相手じゃあ、熟練の侍女だって困惑するわ。彼と私は今まで犬猿の仲のように噂されていたのだもの。それが急にお部屋訪問なんて、どうしたんだろう?
「レナルドを案内してくれて、ありがとう。あとは私が対応するわ」
私はそう言うと、すぐに部屋を出た。果たして、レナルドは本当に応接間にいた。
「突然邪魔して、悪かったな。君と急ぎで話したい用件ができたんだ」
「何? 瓶詰めのことで緊急の問題でも起きたの?」
「いや、君に関することで奇妙な噂を聞いたから、その真相を確かめに来たんだ」
私はレナルドの向かいに座りながら、思わずげんなりした。
どうせ「ヴィオレッタ様、ご乱心」のような、ろくでもない噂を聞いたんでしょう。今さら追加で何を噂されても動じない自信が私にはあった。それなのに……。
「君が魚信仰を始めたというのは、本当のことか?」
「は? 魚……何?」
「魚信仰だよ。国王試験のプレッシャーでおかしくなった君は、魚を食べることで頭がよくなるという俗信を妄信し、貴族の令嬢たちにも魚を食べるよう強要したと噂になっている」
何それ! 「ヴィオレッタ様、ご乱心」の進化形にしても、心が乱れすぎでしょ!
「不本意そうだな。だが、火のない所に煙は立たないと言う。君は何をやったんだ?」
別に何も……と答えたところで、レナルドは納得しないだろう。私は過去の記憶を慌てて呼び起こし、途中で「あっ!」と叫んだ。もしかして、お茶会でのことかしら?
「その様子、やっぱり心当たりがあるんだな」
「待って、誤解よ! 私はお茶会で内陸部出身のご令嬢たちに魚の瓶詰めを使った軽食を勧めただけで……」
レナルドの疑惑に満ちた眼差しは言い訳を許してくれそうにない。今日の出来事を渋々報告する私を彼は厳しい表情で見つめていたが、最後には呆れたような顔になって言った。
「瓶詰めをどうにかして売りたいという君の熱意は伝わった。だが、そういうことなら、なぜ君の正体を知っている私にも事前に相談をしなかったんだ?」
「……ごめんなさい」
レナルドの批判はもっともだ。プロジェクトでの独断専行を責められ、私は謝ることしかできなかった。しかし同時に、そんな彼の態度を少し意外にも感じた。
この二週間ほど一緒に仕事をしてきたことで、仲間としての意識が芽生えたのだろうか? 私に事前相談を求めるなんて……いや、単に余計なことをされて怒っている可能性もある。
レナルドの表情から、その真意を読み取ることはできない。彼は困惑している私を見下ろし、小さなため息をこぼした。
「今回、君は明らかに宣伝相手を間違えたな」
「どうして? 試食さえしてもらえれば、瓶詰めの良さを実感してもらえると思ったんだけど……やっぱりご令嬢相手には果物の瓶詰めを作って宣伝した方がよかったかしら?」
「そういう問題じゃないだろう? 貴族たちは一般的に瓶詰めのような保存食を避ける傾向にある。新鮮な魚や果物を買う財力があるのに、なぜ庶民の瓶詰めを好んで食べるんだ?」
「言われてみれば、確かに」
ビストロで瓶詰めの納入を断られた時と同じ理屈だ。ダミアンのターゲティングを批判しておきながら、同じ轍を踏むなんて……。
静かに落ち込む私に、レナルドがさらなる追い打ちをかけてきた。
「君はお茶会で内陸部出身の令嬢たちに声をかけたそうだが、その反応はどうだった? 彼女たちは、今まで君から歯牙にもかけてもらえなかったような下級貴族の出身だろう?」
「……ええ、そうだけど。それが何か?」
「君がその令嬢たちをいじめたと噂になっている」
なんでそんなことに!?……もしかして、あの時のあれか!
私が地方出身のご令嬢たちにカナッペを勧めた時、横で見ていた公爵令嬢たちがなぜかクスクス笑っていたんだよね。彼女たちの目には、私が「田舎者は王都の珍しい魚でも食ってろ!」と言っているように映っていたのかもしれない。そんなつもり、全然なかったのに!
今度あの地方出身のご令嬢たちに会う機会があったら、謝ろう。でも、それで許してもらえたとしても、彼女たちを通じて瓶詰めを地方に売り込む計画はもう絶望的だろうな。
「今後、どうやって内陸部に魚の瓶詰めを売ろう? 他につてはないのに……」
地方に住む貴族たちに手紙を書くことはできても、その中で瓶詰めの紹介をするのはさすがに怪しすぎるもの。王女直筆のダイレクトメールなんて、誰ももらいたくないだろうし……。
「君は、王侯貴族が瓶詰めを買い取り、それを内陸部の市場に卸していく方向を想定しているようだが、その販売方法や販売先にこだわりはあるのか?」
悩む私を見かねたのか、レナルドが聞いてくる。私は一瞬考え込み、首を横に振った。
「私には貴族以外のつてがなかったというだけで、売り方や売り先にこだわる必要はないわ。最終的に需要のある場所に瓶詰めを供給できれば、それで満足よ」
「なら明日、私と一緒に来るか? 君さえよければ、知り合いの商人を紹介しよう」
「えっ……」
私は驚きのあまり、何も言えなくなってしまった。
やっぱりレナルドは私のことを少しは仲間として認めてくれるようになったのかな? 知り合いまで紹介してくれるなんて、今までの彼であれば絶対になかったことだ。
私がまじまじと顔を見つめていると、レナルドが不満そうに口の端を曲げた。
「私だって計画に関わった以上、本気で瓶詰めを売りたいと願っている。だが、君が貴族以外の人間を相手にするのが嫌だと言うのなら、別に」
「ううん、そんなことないわ! ぜひお願い!」
私はレナルドの変化に戸惑いつつも、彼の提案に一も二もなく飛びついた。