第三章 笑顔と信頼はプライスレス④
翌日、レナルドに連れて行かれた先は、この間と同じカフェだった。
レナルドもこの店の常連なのか、にぎわっている店内を歩いているだけで、あちこちから声をかけられる。彼はその一人一人と
「よっ、マチュー。元気してたか?」
レナルドが声をかけると、中の一人が振り返り、彼を見て相好を
「レナードじゃないか。女連れとは
「あんたに相談したいことがあるんだけど、ちょっといいか?」
「おお、なんだい?」
こういう飛び込みの商談はよくあることなのか、他の男たちが席を外す。レナルドは彼らに
「マチュー、知ってるか? コルト地方で、今年も
……は? 豚? 瓶詰めの話をしに来たはずなのに、急にどうしたの?
私はレナルドの正気を疑って、彼の顔をまじまじと見てしまった。一方、向き合うマチューの顔からはさっきまでの
「レナード、おまえはどこでその話を聞いたんだ? まだ商人の間でも
「簡単なことだよ。毎年の天気を見ていれば、だいたい予想がつく」
レナルドはニッと笑い、持ってきたノートをテーブルの上で開いた。横から
「この記録からもわかるように、寒く
「で、コルト地方に強い商人の俺にそんな話をして、おまえは何が言いたいんだ?」
半ばあきらめ気味に聞くマチューを見て、レナルドは満足そうに笑った。
「あんたさ、前にダミアンのところで作っている
「……悪くない話だな。だが、伝染病が流行らなかったら、どうする? 俺は大量の在庫を
「あんたも知ってる通り、コルト地方には大きな港がある。長期の船旅にも、瓶詰めのような保存食は役に立つぜ」
「俺に瓶詰めを売り込めって言うのか? でも、魚だろう? 船旅にはちょっと……」
「あの、魚だけとは限りません」
マチューとレナルドが、急に話に割り込んできた私に注目する。二人の
「私はダミアンと
「へぇー、お
マチューが
私はコホンと
「私たちが今工場で生産を考えているのは魚の瓶詰めだけですが、ゆくゆくは肉や果物の瓶詰めも開発する予定でいます。そういったものは、船旅に向きませんか?」
「うーん、肉や果物の保存食なら需要はあると思うが……」
やっぱりダメだろうか。
「マチュー、これはあんたの好きな先行投資ってやつだよ。今のうちからコルト地方に瓶詰めの
「待て待て! 俺はまだやらないとは言ってないだろう!」
席を立とうとしたレナルドを、マチューが
「多少の不安は残るが、おまえの持ってきた話なら間違いないだろう。
「
レナルドが笑ってマチューの
「次はダミアンのところに行こう。軍関係でも進展があったから、報告をしておきたい」
レナルドが港へ向かう道を
私は一瞬言葉の意味が飲み込めずに、ポカンとしてしまった。あ、いけない。
「その話、本当なの? まさかもう軍にも話をつけたなんて言わないわよね?」
「そのまさかだ。こんなことで
そりゃそうだけど、私はまさかのスピード展開に頭が追いつくのがやっとだった。地方への販路を昨日の今日で見つけただけでもすごいのに、軍の方も同時進行していたなんて……。
「すごいわね……。本当にすごい」
「何がだ?」
「あなたがよ」
レナルドが足を止め、
「最初に謝っておくわ。あなたが定期的にお
「別に……これくらい
「そんなことないわ。単に街をぶらついていただけじゃ、マチューのような商人にあれほど信用してもらえないわよ。それにね、あなたが今日やったみたいに需要と供給の
「……君は本気でそう思っているのか?」
「ええ、もちろん!」
両手を
私はハッとした。まずい。つい熱く語りすぎたせいで、レナルドが引いているわ。
「あの、レナルド……」
レナルドは
「今の発言は少し……いや、かなり意外だった。王位
何それ? 瓶詰めプロジェクトを一緒にやってる間中、ずっとそんな誤解をしていたの?
まぁ、身分制度の根付いたこの国では、レナルドのように様々な身分の人とつき合う人間のことを快く思わない貴族も多いけど。現に、前世を思い出す前の私は、平民との交流なんて天地がひっくり返ったって断っていたと思う。だけど、今は
「今の私はあなたと同じ気持ちよ。生まれついた身分に関係なく、気の合う人や
「……それもそうだな」
レナルドの顔に困ったような、それでいて
そう思うと、私も気持ちがちょっと楽になった気がして、自然と笑みがこぼれた。
「私、あなたと一緒に仕事ができてよかったわ。これからもよろしくね、レナルド」
「…………ヴィオレッタ、君は」
レナルドが何か言いかけた、その時だった。私は驚いて足を止めた。
今、悲鳴が聞こえたよね? それも女の子の。
声のした方を向く。通りの
「まだ幼いくせに、スリだってよ」
「うわー、危ないな。俺も
リーズを遠巻きに
「ヴィオラ、顔色が真っ青だぞ。どうした? まさかあの子、知り合いなのか?」
レナルドに聞かれ、私はリーズの方を向いたままうなずいた。
「治療院に通ってる
それなのに、なぜスリに間違われているんだろう? このまま
「いい加減にしろ! 今すぐ
「あ、あたし、何もぬすんでません! さっきは本当にぶつかっただけで」
「こいつ……! まだ言うか!」
男が
「ヴィオラ!」
レナルドが私を止めようとして手を
「……ヴィ、ヴィオラ様?」
「
痛みをこらえて聞くと、
「おい、そこの
不快感も
これは、かなりまずい気がする。でも、ここで引き下がるわけにはいかない。
私は
「この場はどうかお引き取り願えないでしょうか? この状況で冷静な話し合いができるとは思えません。後日、改めて
「何を言ってる? 警吏がおまえらのような平民を相手にすると思うのか?」
男がフンッと鼻で
前世の感覚が抜けきっていないせいで、間違えた。この国では、警吏は弱い者の味方じゃない。警吏の組織もバッチリ
「警吏が出るまでもないな。おまえたちのようなゴミは、私が直々に
えっ!? ちょっ! この人、どうしてこんなに血気
私に反論の
私はきたる
何? どうしたの? 反射的に閉じていた目を
「何をする!? 私が
「暴挙と言うなら、あなたの行いこそがそうでしょう。どれほど身分の高い人であろうと、
レナルドが周囲に問いかけた、その
「あの子がスリだとしても、子ども相手に杖はないよな!」
「お貴族様だからって、無関係な女の子まで
ちょっとレナルド、これは
「平民
男が口角
なんと野次馬の間から男に向かって石が投げつけられたのだ。見ると、まだ十歳くらいの男の子が険しい表情で男をにらんでいた。しかも、投石はその一発で終わらなかった。
「兄ちゃんを助けるんだ!」
「貴族なんか、死んじゃえ!」
最初の子に続いて、周りにいた子どもたちが次々と男に向かって石を投げ始めた。周囲の大人たちはいかめしい顔つきをしていても、誰も止めようとしない。
気づけば、男の顔は
私は息苦しくなって、腕の中のリーズを抱きしめた。
私の
「あなたの行いがどう評価されるものであったか、ここにいる皆の反応こそがその答えです。それでもまだ続けるつもりですか?」
「……財布に入っていたのは、たいした金でもない。くれてやるわ!」
男は真っ青な顔で
「ヴィオラ様、お背中、大丈夫?」
リーズが心配そうに聞いてくる。
とりあえず現状を確認するため、背中に手を伸ばす。そこへレナルドが近づいてきた。
「あ、レナード。さっきはあり……」
私はお礼の言葉を途中で吞み込んだ。なんかレナルド、すごく
「ヴィオラ、君という
レナルドが苦々しげにこぼす。その時だった。
「そこにいらっしゃるのは、お姉様ですか? それに、リーズも?」
急に後ろから話しかけられ、私は心臓が止まりそうになった。この声はまさか……。
恐る恐る振り返る。ああ、やっぱり! そこにいたのはアナリーとラルスの二人連れだった。
ちょっと待ってよ! 今、私の
「お姉様もリーズも道の真ん中に座り込んで、どうなさったのですか?」
近づいてきたアナリーが不思議そうに聞いてくる。それに答えたのはリーズだった。
「ヴィオラ様ね、あたしをかばって、貴族のおじいさんにぶたれたの」
「えっ!? お姉様、どこを殴られたんです!? 痛みはありませんか!?」
「……え、ええ。背中を少し杖でつつかれただけだから大丈夫よ、たぶん」
「早く手当てをしないと! 万が一、
「え、でも……」
私はレナルドのことをどうしたらいいか迷って、彼に視線を向けた。アナリーはこの時になって初めて彼の存在に気づいたらしい。
「そちらの方は、お姉様のお知り合いですか?」
心臓がドクンと
フリーズする私に構うことなく、レナルドが
「はじめまして。私はヴィオラの友人で、レナードと申します」
「まぁ、お姉様の! 私は下町の
「治療院ですか……ヴィオラは本当に治療院の手伝いをしていたのですね」
「ええ! 今やお姉様なくして、治療院の仕事は回りません」
アナリーは治療院のことを聞かれて
ゲームの中では、街中で怪我したレナルドのことを、
内心で首をひねる。私はハッとした。私だけじゃない。ラルスもまた厳しい表情でアナリーとレナルドの二人を見ていることに気づいたんだ。
なんでラルスが?……あ、彼はアナリーの護衛だものね。知らない人──それも王女である私の友人を名乗る男がアナリーに近づいたら、
私が観察していると、視線に気づいたアナリーがハッとした様子でこちらを向いた。
「つい話し込んでしまい、失礼しました。早く治療院に
「どうか彼女のことをお願いします。ヴィオラ、私はこれからダミアンのところへ行く。話し合いの結果はあとでまとめて報告するから、君は怪我の治療に専念してくれ」
「へ? あの……!」
私が止める間もない。レナルドは颯爽と身を
まさかこれで出会いイベントは
疑問に思っても、答えてくれる人はこの場にいない。この時の私には、モヤモヤとした疑問を