第一話 『長くつ下のピッピ』の幸せな幸せな日 11
もう暗記しているに違いない。幼いころから繰り返し、繰り返し、繰り返し、繰り返し、読んだ懐かしい書き出し。
それがざわめく心の中に、あたたかく、優しく、滑り込んできて、あとはもう止まらなかった。
水を求めて歩き回っていた旅人が、ようやくオアシスに辿り着き、冷たい水を両手でいっぱいすくって喉へ流し込み、顔にふりかけ、しまいには体ごと水の中に沈みこむように、夢中でページをめくり続ける。
『ピッピは、とてもたいした子でした。いちばんたいしたところは、ピッピがとても力もちなことでした』
『それは、ものすごい力があって、世界じゅうのどのおまわりさんがかかっても、とてもかなわないくらいでした』
ある日、猿のネルソン氏とスーツケースいっぱいの金貨だけを持って、草でぼうぼうの『ごたごた荘』に引っ越してきた、膝の上まである長い靴下と、大きな靴をはいた三つ編みの女の子。
隣に住んでいたトミーとアンニカのきょうだいは、ピッピとすぐ仲良くなって、『もの発見家』になったり、木の上でお茶会をしたり、子供だけで遠足にいったりして楽しく遊ぶのだ。
『この世界には、いたるところ、ものがいっぱいあるわ。だから、だれかがそういうものを発見してやるのが、ぜったいにひつようなのよ。そこで、それをするのが、もの発見家なんだわ』
妻科さんは、大人になってからピッピのことが嫌いになったと言っていた。
学校にも行かず、子供が一人きりでおもしろおかしく暮らしている。スーツケースいっぱい金貨を持っていて、泥棒もやっつけてしまうほど力持ちで——常識もお行儀も知らない、部屋の中を汚しても食器を割っても大人に怒られてもへいちゃらで、勝手気ままに生きている——こんな子いるわけない。
あの子のやることなすこと鼻についてムカついて——もう一ページもめくりたくなかったと。
ピッピの家には、お父さんもお母さんもいない。
でも、それはとてもぐあいのいいことでした、と綴られている。何故ならピッピが遊んでいる最中に、もう寝なさい、なんていう人は誰もいないからだと。
子供のころ、妻科さんにはピッピのそんなところもうらやましかっただろう。
けど、ご両親が離婚して、お父さんがいなくなってしまってからは、それが『とてもぐあいのいいこと』には思えなくて、学校へも行かなくてもへいちゃらで、一人で強く自由に生きているピッピを見るのが、辛くなっていったんだ。
——こんなの嘘だ!
——お父さんもお母さんもいなくても、平気だなんて。
——なんでピッピは、いつも元気いっぱいで自分勝手なの? ピッピの生活には楽しいことしかないの? あたしは毎日苦しくてたまらないのに。
けど、妻科さん。
ピッピを嫌いになったあのころより、もっと大人になった今のきみなら、きっとわかるだろう。
ピッピが、決して元気なだけの女の子じゃないって。
ピッピが抱える淋しさも孤独も、物語の中にちゃんと書かれていたことを。
大人になったきみなら、明るく楽しい物語の中に隠れた行間から読み取れるはずだ。
『わたしは、おぎょうぎがわるかった?』
『でもじぶんじゃ、気がつかなかったのよ』
『ピッピは、そういって、ほんとにかなしげな顔をしました』
生まれてはじめて登校した学校で騒ぎを巻き起こして、先生からもうあなたは学校へ来なくてもいいと見放されてしまったピッピ。
トミーとアンニカの家へお呼ばれし、嬉しくて精一杯おめかしして出かけたときも、常識のない行動が夫人の顰蹙を買ってしまい、あなたはあんまりお行儀が悪いから、もうこの家には来てはいけません、と言われてしまう。
『ピッピは、びっくりして夫人をながめていましたが、しだいにその目には、なみだがいっぱいたまりました。
「なるほど、そうなのね。かんがえれば、じぶんでもわかったはずなんだわ。」とピッピはいいました。「わたしは、おぎょうぎよくなんて、できないんだわ! やってみたって、なんにもならない。ぜったいにおぼえられっこないんだわ。やっぱり、わたし、海にいたほうがよかった。」』
『そしてピッピは、セッテルグレーン夫人のそばにかけよって、小さい声でいいました。
「おぎょうぎがわるくて、ごめんなさいね。さよなら!」』
どちらのときも、ピッピはすぐにけろりとし、いつもの明るく大胆なピッピに戻ってしまうように見える。
そのあとピッピが大人たちと和解するような展開もない。ピッピは相変わらず学校へ行かないし、お行儀の悪いままだ。
一人で強く生きている。
本当にたいした子で。
でも、そこにピッピの哀しみがあること。
孤独があること。
子供のころには気づかなかったことが、たくさん見えてきて、もっとピッピを好きになってしまうはずだ。
ねぇ、そうだろう、妻科さん。
『わたしのこと、しんぱいしないで! わたしは、ちゃんとやっていけるから!』
そして、悲しみを吹き飛ばしてまぶしく笑うそばかすに三つ編みの——世界一強い女の子が活躍する物語に、子供のころと同じようにわくわくして、自然と口元がほころんでしまうだろう。
——ハナちゃんは、わたしを読むと涙も止まって、口もともにっこりしていって、くすくす笑ってくれたのよ。
ほら、気づいているかい? 妻科さん。
自分が今、ぽろぽろ泣いていること。
なのに、楽しそうに笑っていること。
そんな妻科さんに、ピッピさんも明るい声で語り続けている。
『大好き、ハナちゃん』
『また、ハナちゃんに読んでもらえて嬉しい』
『大きくなったね、ハナちゃん』
『また泣いているけれど、でも、笑っているから、きっと大丈夫ね』
『ハナちゃん、大好きよ。ハナちゃん、ハナちゃん、大好き、大好き。大好き』
ページがめくられるたびに、『嬉しい』『大好き』『嬉しい』という声が、光のようにはじける。
『嬉しい』
『嬉しい』
透明なしずくが妻科さんの頬を伝って、黄ばんだページの上にぽたぽた落ちると、『大好き』と声を震わせる。
めくったページが本の背から離れ、妻科さんの膝にはらりと落ちた。
「!」
息を飲む妻科さんの手元から、はらり、はらりとほどけては、何枚も、何枚も、何枚も、落ちてゆく。
「ま、待って、どうして」
目に涙をいっぱいためてうろたえる妻科さんに、
『大好き、ハナちゃん、大好き』
明るく語り続けながら、ピッピさんはどんどんバラバラになり、落ちてゆく。
貸本として大勢の人たちに読まれ、ときには乱雑な扱いも受けただろうピッピさんの本としての寿命は、もうとっくに限界で、ただハナちゃんにもう一度会いたい一心で、姿を保っていただけだった。
今、ハナちゃんの手でめくられ、願いが叶い、嬉しさに身を震わせて命を終えようとしている。
「やだ、なんで、やだ」
妻科さんが、落ちたページを泣きながらかき集める。
『またわたしを読んでくれて、ありがとう、ハナちゃん。ずっと大好きよ』
最後に幸せでいっぱいの声でそう告げて、ピッピさんからはもうなにも聞こえなくなった。
床にしゃがみ込んでページを拾っていた妻科さんが泣きじゃくる声だけが、シンと静まり返った生物室の中に響いている。
「やだ、ピッピ、やだ、やだ……っ。やだよぉっ」
それを廊下からずっと盗み見ていたぼくも、目をしばたたかせ鼻をぐずぐずさせて、床にぺたりとお尻をつけて、ぐしぐし泣いた。
ピッピさん、最後にハナちゃんに読んでもらえて良かったな。
間に合って良かった。
きっとピッピさんはこの上なく幸せな気持ちで逝ったはずだ。
そう確信しながら、でも、やっぱり涙が止まらなかった。